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君のそばにずっといたいから

 

※本作品は『Vanishing Point』の「本編前」の時間でお送りしております。
『Vanishing Point』本編を読まずともこの作品単体で楽しむこともできます(前提条件は簡単に説明しています)が、読了後であるとさらに楽しむことができる……かもしれません。

 


 

《ウィンターホリデーは年末の一週間ですが、その最初の二巡を大切な人と過ごすとずっと一緒にいられる、というジンクスは有名ですね。今年は誰と一緒に過ごしますか?》
 ニュースの特集が「ウィンターホリデー」とそのジンクスを紹介している。
 そうか、大切な人と過ごすと、と思いつつ辰弥たつやはビルの屋上に伏せた状態で、スコープ越しに見えるターゲットの顔を覗き込んだ。
 このターゲットにもウィンターホリデーを共に過ごしたい人がいるのだろうか、と思いつつも暗殺任務に感傷は不要なので躊躇いなく引鉄を引く。
 依頼の完遂を確認し、辰弥は身体を起こして仲間に連絡する。
「……誰と一緒に過ごしますか、か……」
 そんなものは決まっている。今年もいつものメンバーで過ごす。
 尤も、ウィンターホリデー目前の駆け込み需要でてんてこ舞いだから最初の二巡なんてほとんどだらけているだけだけど、と、そんなことを思いつつ辰弥は素早く銃を抱えて非常階段を駆け下り、ビルの下に日翔あきとが横付けした車に乗り込む。
「次は?」
「中村ビルディングが次のポイントだ」
 車を運転しながら日翔が答える。
「まぁ、今日は狙撃依頼だけ集中させたから俺は楽だがお前は大変だな」
 ウィンターホリデーの一週間前。
 一日で複数件の暗殺依頼を回しながら、辰弥は次のポイントに到着するまではと目を閉じた。

 

 アカシアの風習の一つに「ウィンターホリデー」がある。
 それは年末の一週間のことで、多くの企業が休業し、新しい年を迎える準備を行う。
 元旦も基本的には祭日となっているためかなりの人間が八連休となるが、暗殺連盟アライアンスも例外ではなくウィンターホリデーは一切の依頼を受け付けない。
 暗殺者とて人間なのである。大切な人と過ごしたいということもあるだろう。
 そのため、ウィンターホリデー目前になると「早く憎きあいつを殺したい」となった依頼人クライアントが急増し、年末の繁忙期となっている。
 そもそも暗殺の依頼は意外と多く、普段からそれなりに忙しいアライアンス所属メンバーだが年末が近づくとさらに忙しくなるため過労で倒れるメンバーも出てくる。それをカバーするために健在のチームに依頼がシフトされることもあり、辰弥たち「グリム・リーパー」もその例に漏れなかった。ただでさえ忙しい繁忙期がさらに忙しくなり、限界が近づいてくる。
 特に体力のない辰弥と暗殺以外にハッキング依頼もバックグラウンドで受けていた鏡介きょうすけの消耗は激しかった。
 ウィンターホリデー前日に全ての依頼を終わらせた後は鏡介はゼリー飲料すら喉を通らず、ふらふらとこれまたふらふらで食事の支度をする辰弥の様子を見に来て「後で『イヴ』を呼んでくれ」とだけ言い残して自宅に引きこもっている。
 辰弥も「日翔にごはんを食べさせたら寝る……」とほぼ気力だけで食事を作り、日翔が食べ始めたのを見届けて自室に引きこもっていた。
 もちろん、その直前に「イヴ」ことなぎさには「鏡介がゾンビになってるから栄養点滴打ちに来て」と連絡を入れている。
 その連絡の直後、ベッドに倒れ込んだ辰弥は寝巻に着替えることもできずそのまま眠りに落ちて行った。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 ウィンターホリデー初巡。
 一日目朝日はほぼ寝て過ごした辰弥だったが二日目昼日には起きてきて普通に食事を作り、食べている。
 普段は自宅に引きこもっている鏡介も顔を出し、三人揃った状態で日翔の家にいた。
「……やっぱり鏡介も『ウィンターホリデー』のジンクスは気にすんのか?」
 こたつの中で黙々とみかんの皮を剥く辰弥の手を見ながら日翔が呟く。
「……お前らに死なれたくはないからな」
 今どき珍しいハードカバーの本に目を走らせながら鏡介が答える。
「おお、告白ですかー?」
 茶化す日翔に鏡介が本を閉じて角で殴ってやろうかと考えるが思いとどまる。普段から非力でもやしだの骨なしチキンだの言われる鏡介、日翔を殴ったところで恐らく大した効果は出ないだろう。
「バカなことを言うな。俺だって仲間がいないと何もできないことくらい分かってるからな」
「そうだな、鏡介の援護あってこその俺たちだし」
 そう呟いた直後、日翔があーん、と口を開ける。その口に皮をむかれたみかんが一房押し込まれる。
「うめぇ~……」
 幸せそうにみかんを食べる日翔を見ながら自分もみかんを一房口に放り込み、辰弥も頷く。
「このみかん、甘いね」
「なー?」
 そんな二人を横目で見ながら「こいつら、距離が近い……」と考える鏡介。
 普段から支え合っているこの二人、それは鏡介も同じだったが自宅で後方支援している分、どうしても距離は開いてしまう。
 だからこそウィンターホリデーの時くらいは一緒に過ごしたい、と思っているのだが。
(もしかして、俺は邪魔なんだろうか)
 ふとそんなことを考えてしまう。
 いや、そんなことはない、二人の距離が近すぎるのも気のせいだろう。
「なあ鏡介」
 不意に、日翔が声をかけてくる。
 なんだ、と鏡介が本を閉じる。
「いつもありがとな」
「……は?」
 思わず変な声が出た。
 日翔がそんなことを言うとは珍しい、明日は光輪雨こうりんうでも降るか? そんなことを考える。
「え、嫌だった?」
「いや、嫌と言うより驚いただけだ」
 普段お前そういうこと言うキャラじゃないだろと言いつつも鏡介がふっと笑う。
「だから、お前らに死なれたくないだけだ。感謝されるようなことでもない」
「でも、鏡介のおかげで俺たちも助かってるからさ」
 みかんを飲み込んだ辰弥がそう言って立ち上がる。
「あれ、どうした辰弥」
 日翔の問いに辰弥がにこりと笑う。
「今日の夜ごはん作るの」
「え、もう作るのか?」
 普段なら三日目夜日に入ってから作るのにまだ昼日である。
 よほど手の込んだ料理をするのか、いや、昨日まで「仕事」が詰め込まれて疲れていたからもっと休めばいいのにと思う日翔をよそに辰弥がさらに笑う。
「ウィンターホリデー初日だからね……豪華に行くよ」
 その言葉を聞いた瞬間、日翔は思い出した。
 ウィンターホリデー目前の駆け込み繁忙期が始まる直前、家に届いたとある冷凍便。
 その中身を思い出す。
「七面鳥!」
「正解」
 桜花のウィンターホリデーの楽しみ方の一つに「ローストチキン」がある。元々はIoLイオルがウィンターホリデーに七面鳥のローストを作って家族で楽しむという風習だが、いつしか桜花にもその風習が伝わり、比較的入手しやすい鶏で作られるようになっていた。しかし冷凍であれば七面鳥も通販で簡単に入手できるため、最近は本格的に、と七面鳥のローストでウィンターホリデーを楽しむ家庭も増えてきた。
 辰弥もその例に漏れず、「年末くらいは豪華にしたい」と奮発して七面鳥を手配していた、というわけだ。
 冷凍の七面鳥は氷水で丸一巡ほど使って解凍し、その後数日かけて香味野菜をマリネする。
 そんな時間は取れなかったはずなのに、辰弥は時間を見つけて仕込みを終わらせていたのだろう。
 七面鳥を冷蔵庫から取り出し、あらかじめ用意していたおこわのスタッフィングを詰めて焼く前の休憩に入る。
 それから、流し下の収納から小麦粉と砂糖、冷蔵庫から卵とバターを取り出す。
「おおっ、それはもしかして、」
 日翔も最近は材料を見ただけで辰弥が何を作ろうとしているかは推測できるようになっていた。
 辰弥がうん、と頷く。
「ホリデーケーキ、焼くよ?」
「やったー!」
 日翔がまるで子供のようにはしゃぎ、鏡介に向けて手を挙げる。
 鏡介もやれやれと言った面持ちで片手を上げ、日翔とハイタッチする。
「ケーキなら鏡介も食うだろ?」
「いや、七面鳥も食いたい」
 普段はエナジーバーやゼリー飲料だけで済ませる鏡介が食べたいと言うのは珍しい。しかし、滅多に食べられない物だから食べたいのだろう。
 日翔と同じように辰弥が台所で準備している様子を眺めながら鏡介は「あいつも変わったな」とふと思った。
 日翔が辰弥を拾って家に居候させるようになって数年。
 居付いた頃は出された料理がどれほど不味くとも何も言わずに食べ、「冷蔵庫の中のものは自由に食べてもいい」と言われたら生肉をそのまま食べたというレベルで食に対して無頓着、いや、無知だった辰弥。それがいつしか天辻家の台所を一手に引き受け、家主である日翔が台所に入ろうものなら包丁やピアノ線が飛ぶという状況になったのは大きな変化だろう。
 時々鏡介に「買いたいものがある」と相談してくるので聞けば「レシピ本」、しかも入手困難な絶版本だったりするため古本屋で探し出してくることもあった。
 それほど辰弥はこの家に来てから変わったな、と思わず笑ってしまう。
 当の辰弥は鏡介のそんな考えなどつゆ知らず上機嫌でスポンジケーキを焼く準備をしている。
 手際よく小麦粉をふるい、卵と砂糖を湯煎しながらハンドミキサーで泡立てていく。このハンドミキサーも鏡介に「買っていい?」と訊いて「仕事」の報酬から買ったものだ。
 人によっては泡立て作業も人の手でやるべきだ、とハンドミキサーを邪道とみなす人間もいるが辰弥は別にそういったものにこだわりはなく、効率よくできるなら便利な調理器具を使うのは構わない、と思っている。
 生地が泡立てられ、だんだんもったりとした状態になっていく。
 充分泡立てられた生地を、クッキングシートを敷いた型に流し込み、予熱していたオーブンに入れる。
 そこで、辰弥はあることに気づいたらしい。
「……あ、」
「どうした?」
 耳ざとく辰弥の声を聞きつけた日翔が声をかける。
「ケーキに乗せる苺と生クリーム、買うの忘れた」
 ここしばらく忙しかったから苺とか買う余裕もなかったし……と呟いた辰弥が日翔を見る。
「日翔、買い出し行ってくれない?」
「え? 俺?」
 普段、買い出しは自分で行う辰弥。生鮮野菜などの目利きは自分でやりたいと言う辰弥が買い出し、それも生鮮食品を頼むのは珍しい。
 いいのか、と確認する日翔に辰弥がうん、と頷く。
「君も苺くらいなら目利きできるでしょ。美味しそうだと思うものでいいよ。あと、生クリームは豪華にやりたいから一番高いのでいいよ。乳脂肪分四十七%のやつ」
「おお」
「それと、食べたいおやつ買ってもいいよ? あ、でも買うなら俺と鏡介の分も買ってきてよ。みんなで食べたい」
 辰弥もどうやら年末モードで贅沢したいと思っているらしい。
 気前よく予算を手渡す辰弥に、日翔が目を輝かせる。
「やりぃ、伊達巻買っていいか?」
「それは俺が作るから駄目」
 ていうかそれおやつじゃないよね? という辰弥に、日翔は「へーい」と頷いた。
「じゃあ、買い出し行ってくるわー」
 壁に掛けてあったエコバッグを手に取り、日翔が家を出る。
「……辰弥、」
 不安そうに鏡介が辰弥を見る。
「ん?」
「大丈夫か? あいつ、渡した予算全部使っておやつ買い込むぞ」
「いいんじゃない?」
 ちら、とオーブンを覗き込みながら辰弥が答える。
「たまには贅沢したいし」
「……そうか」
 それならいいが、と鏡介は呟き、閉じていた本を再び開いた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 買い出しを終えた日翔は上機嫌だった。
 辰弥が渡した予算は苺と生クリームを買ってもまだ半分以上残り、彼が日翔に「たまには好きなものを食べていいよ」と渡してくれたことが伺える。
 普段は特に金遣いが荒いわけではないのに常時金欠の日翔、市販の菓子を買うことなど滅多にない。
 そのため、鏡介が危惧した通り辰弥に渡された予算を使い切る勢いで新作のスイーツなどを三つずつ購入していた。
 辰弥に言われたからではない。美味しいものはみんなで共有したい、その思いは日翔にもある。
(ウィンターホリデー限定のチョコ、一度食べたかったんだよなあ……)
 うきうきとエコバッグに入れたチョコレートの箱を思いながら足取り軽く帰路に付く。
 上町府うえまちふは冬であってもそこまでの豪雪地帯ではないから辺りが雪景色、と言うほどではなかったが息が白くなるレベルで外の空気は冷えている。
 寒いなあ、近いうちに雪、降ったりするのかなあ、などと呟きながら歩いていると。
 不意に、にゃーん、という鳴き声が聞こえた。
「へ?」
 驚いたように日翔が足元を見る。
 この辺りは地域猫活動が活発で、完全な野良猫はいない。この寒い時期になると地域に住み着いている猫はそれぞれ自分好みの餌と寝床をくれる家に入り込んで寒さを凌いでいる。
 だから、こんな寒空の下で猫が一匹でうろついていることはないと思っていたのだが。
「――あっ」
 いた。
 艶々とした真っ黒な毛の黒猫が一匹、日翔の足に擦り寄っていた。
「おいおいどうしたんだよ」
 日翔がしゃがみ込み、黒猫に声をかける。
 黒猫がにゃーん、と甘えたように鳴きながら日翔の手に頭を擦り付ける。
「お前、この辺では見ない顔だよなあ……迷子か?」
 何か食べさせてやりたいが、今、エコバッグに入っているのは苺と生クリームとスイーツばかりである。どれも猫に食べさせるには適したものではない。
 しかし、放置して帰ればこの猫は飢えと寒さで力尽きるか地域猫以外の野良猫を駆除したがる過激派の餌食になりかねない。
 仕方ないなあ、と日翔は黒猫を抱き上げた。
「うち、ペット禁止なんだが里親探すくらいの間ならいいだろ。寒いからうち来な」
 日翔がそう言うと、黒猫がにゃーん、と甘えた声で鳴く。
 こいつ、人慣れしてるなあ、などと思いつつ、日翔は足早に家に向かって歩き出した。

 

「……うち、ペット禁止だって言ったの日翔だよね?」
 辰弥が、じと、と日翔の胸元を見る。
 いつもなら開けているスカジャンのジッパーが胸元まで閉じられ、そこから黒猫が顔を覗かせている。
 にゃーん、と甘えた声をあげる黒猫に辰弥は緩みそうになる頬を引き締めながら辰弥は日翔を見上げた。
「すまんすまん、こいつほっとけなくて」
「諦めろ辰弥、誰がお前を拾ったのか忘れたのか」
 辰弥の後ろから黒猫を覗き込みながら鏡介もぼやく。
「……日翔」
 そうだった、俺を拾ったのも日翔だった、と思い出しながら辰弥が呟く。
 梅雨真っ盛りの雨が強い日、自分が濡れるのにも関わらず傘を差し出してきた日翔を思い出し、そうだよね、日翔なら拾ってくるよね、と納得した。
「でも、どうするの」
 ペット禁止なのにどうするの、と言う辰弥に日翔がうーん、と唸る。
「里親見つかるまでは山崎やまざきさん、OK出してくれないかなあ……」
 猫を服から出し、床に下ろすと黒猫はにゃーん、と鳴きながら日翔の足にまとわりつく。
 辰弥もうーん、と唸りながら戸棚から使っていない小皿を取り出し、冷蔵庫から牛乳を出して皿に入れた。
「本当は猫用のミルクの方がいいんだろうけど、うちにそんなもの置いてないから」
 そんなことを言いながら辰弥が牛乳の入った皿を黒猫の前に置く。
 にゃあ、と黒猫がミルクを飲み始めた。
「……お腹空いてるよね。猫缶、買ってきた方がいいかな」
「いや、飼えないだろ」
 さて、どうする、と考えながら鏡介が黒猫を見て、それからおい、と声を上げる。
「日翔、お前ちゃんとこいつを見たか?」
「へ?」
 鏡介に言われて日翔が黒猫に視線を落とす。
「……こいつ、首輪してる。飼い猫だ」
「なん……だと……」
 確かに、落ち着いて首を見れば可愛らしいデザインではあるが猫用にしては少々分厚い首輪を付けている。どう見ても飼い猫なのは明らかだった。
 毛並みも良く、大切に飼われていたところを何かの拍子に逃げ出した、というところだろうか。
「飼い猫なら飼い主の特定は早いな」
「なんで」
 鏡介が自信たっぷりに言うため、日翔が首を傾げる。
「お前、桜花の動物飼育法知らんのか? 愛玩動物を飼うときは脱走してもすぐ飼い主の元に返せるようにマイクロチップを埋め込むことが義務付けられている。マイクロチップには飼い主の情報が登録されているからそいつを読み込めば分かるはずだ」
「ほへー」
 鏡介の説明に日翔が感心したように声を上げる。
「俺、動物飼ったことないから知らんかったわ」
「まぁ、俺は個別に猫探しとか受けるからな」
 基本的に三人一組で行動する「グリム・リーパー」だがウィザード級ハッカーである鏡介だけは個別にハッキングやPC絡みの依頼を受けることもある。猫探し自体は三人で受けることもあるが、マイクロチップから所在を突き止める初期調査程度であれば鏡介が単独で受けることもあるのだろう。
 鏡介が猫の首筋に手をかざす。
「何やってんだ?」
「何って、マイクロチップのスキャンやってるんだが」
 日翔が不思議そうに見るため説明する鏡介だが、日翔はそれでもよく分かっていないらしい。義体でもないのにどうして手をかざすだけでマイクロチップのスキャンができるのか、と考え込んでいる。
「……人工皮膚で手のひらにスキャナ張り付けてんだよ。個人の『仕事』柄マルチスキャナは必需品だからな」
「ほへー」
 日翔が感心している間にスキャンが終了したか、鏡介の視界に飼い主情報が表示される。
「……ふむ」
 低く呟き、鏡介は飼い主情報を二人に転送した。
「飼い主は隣町に住んでいるようだな」
「隣町だったらここまで逃げてきても不自然はない……かな?」
 情報を共有された辰弥が黒猫の喉を撫でながら呟く。
「そうだな、別に遠くに遺棄されて帰ってきた感じでもないから単純にドアが開いた隙に脱走したとかそんなところだろう。しかし――」
 何故か釈然としない顔で鏡介が呟く。
「どうかした?」
 鏡介の呟きに辰弥が首をかしげる。
「いや、何となく嫌な予感がしてな。まぁ、ハッカーとしての勘だからエビデンスがあるとかそういうわけではないんだが……一応、SNSも確認しておくか」
 首輪を付けるレベルで可愛がっているならSNSに迷い猫情報を拡散希望で上げていてもおかしくない、と鏡介がSNSを開く。
 画像検索で視界に入った黒猫を調べるとすぐに迷い猫の投稿が出てくる。
「……あった、首輪の特徴も一致するしこいつだな」
 そう言いながら鏡介がSNSの投稿も二人に共有する。
「SNSで捜索願出てたか……じゃあ、ここに連絡しようぜ」
「いや、待て」
 よかった、すぐに飼い主が分かって、と通信端末CCTを取り出す日翔を鏡介が止める。
「なんだよ、連絡は早い方がいいだろ」
「いや、二つの連絡先をよく見ろ。住所も連絡先も違う」
 ハッカーとして観察眼の鋭い鏡介は一目で二つの連絡先が相違していることに気が付いていた。SNSに捜索願を出している「飼い主」とマイクロチップに登録されている「飼い主」が違う。
「え、こっちが譲り受けたんじゃないのか?」
 日翔が首をかしげる。
 元の飼い主が様々な事情で飼育できなくなり、新しい飼い主に譲渡するという話はよくあることである。その際にマイクロチップの書き換えを行わなかっただけではないのか。
 そう、日翔が言うと鏡介は「いや、」と首を振った。
「動物飼育法では所有権を移譲する際のマイクロチップの扱いも明記されている。そもそも桜花では全てのペットが登録制なんだ。だから飼い主が変わるときも獣医を介してマイクロチップの書き換えが義務付けられている。それなのに書き換えられていないとなると――」
「……違法にこの猫を入手した、ってこと?」
 「飼い主が見つかってよかった」というほっとした空気から一変、三人の周りに緊張が走る。
 ペットの誘拐はそこまで重罪ではなくとも窃盗罪くらいは付くだろう。
 しかし、実は譲与直後で獣医にかかる前に脱走したという可能性もなくはない。
 これはどちらに連絡するべきか、と鏡介は考えた。
 順当に行くならマイクロチップに記載されている飼い主に連絡すべきだろう。
「どうするの?」
 いつの間にか猫と馴れ合ってしまったのか辰弥が猫を抱き上げ、撫で回しながら鏡介に尋ねる。
 黒猫も気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らしながら辰弥にまとわりついている。
「おい辰弥、ケーキとローストターキーはどうした」
 猫と戯れる辰弥に鏡介が声をかける。
「んー、この猫の件終わるまではお預けかな。どうせ飼い主に連絡して終わりでしょ?」
 話を振っておきながら途中から聞いていなかったのだろう。辰弥が相変わらず猫と戯れながら呑気そうに言う。
「……でも、飼い主に連絡したらこの子とはお別れか……」
「そもそも、『うちペット禁止』って言ったのお前だが」
 話を聞け、と続けつつも鏡介が説明する。
「マイクロチップとSNSの飼い主が違う。事件の匂いがするな」
「なんか急にきな臭いことに」
 そうぼやきつつも辰弥は黒猫を床に下ろした。にゃー、と黒猫が辰弥の足に頭を擦り付ける。
「『グリム・リーパー』の時間外勤務?」
「多分、タダ働きだがな」
 そんなことを言いつつも鏡介が軽く拳を挙げ、日翔と辰弥がそれに自分の拳をぶつける。
「じゃあ、調査開始だね」
「いや、辰弥、お前はパーティーの準備だ」
 「仕事着」に着替えるために自室に戻ろうとする辰弥を鏡介が呼び止める。
「なんで」
「今回の仕事に殺しはないぞ。猫の飼い主の確認くらいなら俺一人でできるしアシスタントは日翔一人で充分だ」
「そうそう、それに俺たち今日の忘年会楽しみにしてるんだぜ?お前は準備に専念してろ」
 鏡介と日翔がそれぞれの言葉で説得する。
「……そう言うなら」
 分かった、と辰弥が素直に頷いた。
 こういう時に無理について行くと言えば話は拗れる。それに辰弥も楽しみにしていた年末のパーティーである。ここは二人の指示に従って準備し、この一件が解決してから思う存分楽しんだ方がいい。
 しかし、黒猫の件が解決するまで作業は中断と考えて猫と戯れていたため猫の毛まみれになっている。
 粘着クリーナーどこに片付けたっけ、と収納に向かう辰弥の後を黒猫がちょこちょことついて歩くのを見て日翔は「なんか羨ましい……」と呟いた。
 辰弥が収納から取り出した粘着クリーナーを全身にコロコロと転がしながら毛を取っている。
 それを確認してから、鏡介は日翔に、
「なに猫に嫉妬してるんだ」
 と冷ややかな声で囁いた。
「え、な、ナンノコトカナー」
 日翔があからさまな態度を取る。
「とりあえず、俺は今から両方の飼い主に連絡を取る。お前の出番は猫の配達だ」
 了解、と日翔が頷く。
「じゃあ、俺は辰弥が料理してる間邪魔しないようにこいつと遊んでよう」
 ほら、おいでー、と日翔がティッシュ箱からティッシュを一枚取り出し、黒猫の目の前でヒラヒラと振る。
 にゃあ、と黒猫がそれに飛びつき、戯れ始めた。
 猫も辰弥も日翔もそれぞれの作業に集中した。
 それなら俺の番だと鏡介が電脳GNSの回線を開く。
 とはいえ、追跡されたくないためプロキシを刺し、発信者を特定できないように細工はしておく。
 まずはマイクロチップの登録者、と鏡介が連絡先を呼び出す。
 数度のコールの後に相手が通話に出る。
《もしもし?》
「先ほど、猫を拾ったんですが、マイクロチップの所有者情報がここだったので」
 簡潔に、鏡介が説明する。
 すると、通話の相手は慌てたように表情を変える。
《え、ナイトが!?!? 見つかった!?!?
 その言葉を聞いた瞬間、鏡介の胸がざわりと揺らぐ。
 何かおかしい、とハッカーとしての勘が告げている。
 相手はただ自分の猫を探していただけだ。それなのになんだこの慌てようは。
《で、ナイトはどこに!?!?
「現在うちで預かっていますが何かあったんですか?」
 ただの脱走であれば「脱走したんですか?」と訊けばいい。しかし、そう訊いてはいけないような気がして鏡介は敢えて「何かあったのか」と尋ねる。
 ええ、と相手が興奮したように頷く。
「一ヶ月ほど前に誘拐されてしまって……犯人から連絡も何もなくて、でもナイトがいないと俺は……」
 誘拐? と鏡介が眉を顰める。
 相手が「ナイト」と呼んだこの黒猫はどう見てもごく普通の猫、誘拐されるような特徴を持っているようには見えない。もちろん、虐待目当てで他人の猫を誘拐することもあるからそれだったのか? と考えるも黒猫の毛並みは艶やかな黒で、数日彷徨っていたが故の汚れは見えるが虐待されたような傷もない。それに虐待された猫ならここまで自分たちに懐くこともない。
 何かがおかしい。この男が嘘を吐いているのか、それともSNSに投稿した人間はただこの黒猫が欲しくなって誘拐しただけなのか。
 なんだろう、この胸騒ぎは。
 もう少しこの男から情報を探るべきだ、と鏡介は念のための確認のように黒猫の話題を続ける。
《……ところで、ナイトは首輪をしていますか?》
 特徴などについて確認している最中、男が鏡介にそう尋ねる。
「首輪?」
 話の流れ的には特に不自然ではないが、鏡介の心に釣り針の返しのように引っかかる。
「……いいえ、付けていませんが」
 咄嗟に鏡介は嘘を吐いた。
 首輪に何かある、たったそれだけの情報だが情報としてはかなりの大物である。
 連絡したのが日翔だったら馬鹿正直に「付けてるぜ」と答えたところだろう。
 首輪の有無が重要な手がかりとなる、と思った鏡介の嘘。
 それはてきめんに男にヒットした。
《首輪を付けてない……そんな……》
「? どうかしましたか?」
 なにも気づかなかったふりをして鏡介が尋ねる。
《……いえ、あの首輪気に入ってたので……でも、どうやってナイトの飼い主が俺だと? ああそうか、マイクロチップの情報読んだのでしたっけ》
 おかしい。先ほどまであれほど黒猫の無事を喜んでいたのに首輪が付いていないというだけで男の声のトーンは落ちている。
 これは男が探していたのは猫ではなく首輪だったか、と鏡介が判断する。
 ただ単にこの首輪が気に入ってそれが似合う猫を見つけてきた、ということも考えられないこともない。見た感じオーダーメイドで作ったような、市販品とは一味違う雰囲気がある。
 それにしても猫より首輪を大切にするということはどういうことだろうか、と思いつつも鏡介は小さく頷いた。
「仕事柄マルチスキャナは家にあったので……なかったら獣医に頼むところでしたよ」
《ということは、保護活動を……?》
 きょうびマルチスキャナは一般にも普及しているとはいえわざわざそんなものを置いている家庭はあまりない。保護団体や団体でなくても個人で保護活動をしている家庭なら置いてあるかもしれない、そうでなければ個人情報を取り扱うような仕事をしているか、程度だろう。
 まあ、そんなところですかね、と鏡介は再び頷く。
《そうですか、分かりました……。ただ、俺は今出張中なので数日帰ってこれないのですが、その間預かっていただいてもいいでしょうか?》
 男の言葉にさらに違和感を覚える。
 鏡介は即座にハッキングツールを展開、男のGNSのGPS情報を確認する。
 ――こいつ、嘘を吐いている。
 男のGPS情報はマイクロチップに記載された住所と一致している。つまり、男の出張は嘘だ。
 なんとなく、男が猫の引き取りを拒否したくて嘘を吐いたのではないかと調べたことだったが本当に嘘だったとは。
 だが、ここで「嘘だろう」と追求するわけにもいかず、鏡介は「分かりました」と頷いた。
「ウィンターホリデーなのに大変ですね。分かりました、ナイトくんはこちらでお預かりいたします」
《助かります。いつもならなるべく出張しないようにしていたのですがナイトがいなくなって、諦めかけていたところだったので……》
 大丈夫ですよ、と鏡介も嘘を上乗せする。
 これはまずい、よくない方向に話が進んでいる、と鏡介は思いながら通話を終了する。
「日翔、辰弥、まずいことになった」
 通話を切って早々に鏡介が二人に報告する。
 日翔が黒猫を抱き抱えて、辰弥が洗った手をエプロンで拭きながら鏡介の前に立つ。
「日翔、その猫を貸せ」
「ん? どうした、お前も癒されたくなったのか?」
「俺は動物は苦手だ」
 そう言いながらも鏡介は日翔から猫を受け取り、首輪を見る。
 一見、何の変哲もなさそうな可愛らしいデザインの首輪だが、猫が付けるにしては少々いかつい。そもそも愛猫家は「猫に首輪はなるべく付けないほうがいい。万が一脱走した時に備えてネームプレートをつけたいというのなら猫の負担にならないような小さなものがいい」と言っているくらいである。この首輪は黒猫にとって相当な負担であるはずだ。
 たまに飼い猫目線の日常を配信する配信者もいて、そういった場合はウェアラブルカメラを付ける都合上少々幅広の首輪を使うこともあるがそんなものを付けている様子も付けていた気配もない。
 何かあるな、と鏡介が首輪を外そうとし、その手が止まる。
「……なんで首輪に電子ロックが付いているんだ……?」
 鏡介の呟きに辰弥と日翔もどれどれを首輪を覗き込む。
 首輪には簡易的な電子ロックが装備されていた。尤も、首輪は外そうと思えば刃物で切って外すことができそうなくらいのものなので電子ロックはどちらかというと猫が自分で外せないようにするためだろう。
 猫が首輪を外すと困る理由――いや、あの飼い主の男が首輪の有無を効いた理由。
 男の目的はこの首輪だ、と鏡介は理解した。
 この首輪に、男にとって何か大事なものが隠されている。
 鏡介がハッキングで電子ロックにアクセス、解除して首輪を取り外す。
 すると黒猫は首回りが楽になったのか嬉しそうに鏡介に頭を擦り付けた。
「日翔、こいつを頼む」
 用事は済んだとばかりに黒猫を日翔に押し付け、鏡介は首輪を見た。
 首輪の表裏を返し、
「鏡介、その首輪、中になんか入ってない?」
 不意に辰弥が声を上げた。
「中?」
 辰弥に言われてよく見ると、革製の首輪の、内側の合わせ目から何かがちらり、と見える。
 まさか、と鏡介は日翔にカッターナイフを取ってきてもらい、その刃先を合わせ目に差し込んだ。
「――!?!?
 三人が開かれた首輪の中を見る。
 そこにはびっしりと光り輝く鉱石が並んでいた。
 開いても簡単に落ちないよう張り付けてあるのだろうが、びっしりと並んだそれは部屋の照明を受けてキラキラと輝いている。
「……ダイヤモンド……?」
 そう声を上げたのは誰なのか。
 直径5mm0・5カラット程のその鉱石はアクセサリーのCMで見るよりはるかに美しい輝きで煌めいていた。
 宝石などとは無縁の三人であったが「これはまずい」と確信する。
 いくらなんでもダイヤモンドに似て異なるキュービックジルコニアを猫の首輪に仕込んでいるとも思えず、これは本物ではないか、とうっすら確信する。
 鏡介がまじまじと眺めた後に鉱石に息を吹きかける。
「……多分、本物だ」
「……はぁ」
 日翔が間抜けな声を上げ、辰弥も呆然と首輪に貼り付けられたダイヤモンドらしきものを見る。
「……なんで」
 辰弥も訳が分からない、と首をかしげる。
「……まぁ、こいつの飼い主は真っ当な人間じゃない。『仕事』じゃないから探ってみてもいいが折角のウィンターホリデーを業務外の『仕事』で潰したくないしな」
 おい、粘着クリーナーローラー貸せ、と言いながら鏡介がくしゃみを一つ。
「あれ、鏡介猫アレルギーだっけ」
「いや、毛が鼻に……くしっ!」
 ほい、と日翔が粘着クリーナーを鏡介に手渡す。
 彼が自分の体に付いた黒猫の毛を取り除くのを眺めながら辰弥がふと考察する。
「どこかから盗んできたのを時効までここに隠してたってことかな」
「宝石強盗のニュースは聞かないがな……他に脱税という線もあるぞ。何かやって大金を現金キャッシュで手に入れた時に闇ルートの貴金属や宝石を購入して運用するという話を聞いたことがある」
「へー」
 流石鏡介、詳しいなと日翔が呟く。
「で、どうすんだよ。そのまま返すのか?」
「そうだ――いや、SNSの方の飼い主にも連絡してみよう。誘拐犯には違いないが、何か事情があるかもしれない」
 元からこちらも連絡するつもりだったが、と呟きつつ鏡介はSNSの探し猫情報の投稿主の連絡先に通話を繋ぐ。
 こちらも数コールで相手が出る。
《はい、》
 出てきたのは女性。少し焦燥したような声音で、鏡介は猫のことで焦っているのか、と考えてみる。
「SNSの迷い猫の件で連絡させていただきました。今、投稿と一致する特徴の猫を保護しています」
《ああ、ナイトちゃん! 無事だったのですか!?!?
 猫を保護しています、という言葉を聞いた瞬間、女性の焦燥が目に見えて緩和する。
 これはよほど心配していたのだな、とほっとする反面、警戒しろ、という警鐘が心を打つ。
「はい、しかし少々確認したいことがあって今すぐお返しする、というわけにはいきません」
《もしかして……マイクロチップ情報、確認しましたか?》
 恐る恐る訪ねる女性。
 鏡介はええ、と頷いた。
「マイクロチップでの所有者確認が確実と思いまして。しかし、マイクロチップの所有者情報とこちらの連絡先が食い違っていてどちらにお返しすればいいかと」
 その瞬間、女性はああっ、と声を上げた。
《元々の飼い主さんに返してはいけません! あの人は、動物を飼う資格がありません!》
「と、言いますと?」
 穏やかな話ではない。こうも言い寄ってくることを考えるとこの女性は猫のことで何かを知っているらしい。
 とりあえず、話を聞くだけ聞いてみよう、と鏡介は女性に話の続きを促した。
《あの飼い主さんナイトちゃんを虐待しているんです。虐待といっても暴行するわけではないのですが首輪に紐を付けて自由に歩き回れないようにして、あとはすぐに大きな物音を立てて驚かせて……それが可哀想で、連れ出したんです。元々人懐っこい子ですぐにうちに慣れて自由に遊んでいたのですが、私がうっかりしてゲートを開けっぱなしにして玄関を開けてしまって……》
 なるほど、と鏡介が呟く。
 ペットの虐待は重罪ではあるがそれでも話を聞く限りでは元の飼い主の行為は法的に虐待判定するには弱すぎる。それでも愛猫家からすれば耐え難い虐待なのだろう。
「……他人のペットを拉致した、となると窃盗罪になりますが」
《ええ、今回の件で訴えられることは覚悟しています。でも、あの家だけは……》
 女性の懇願。
 これは余程だな、と思いつつも鏡介はふと思いついたことがあって口を開く。
「しかし首輪を、とのことでしたがどうして首輪を外さなかったんですか?」
《……あの首輪、電子ロックがかけられて外せなかったんです。切ればよかったのですがあの厚さと頑丈さだとナイトちゃんを傷つけてしまいそうで、できなくて……》
「なるほど、安心してください。首輪は外せました」
 鏡介がそう言うと、女性がほっとしたように息を吐く。
《外せる方がいて良かった》
「首輪、お返ししましょうか?」
《いえ、お手数おかけしますがそちらで処分していただけるとありがたいです》
 女性の言葉に鏡介は確信する。
 この女性は、純粋に黒猫が自由に動けないことを憂いて拉致しただけだ、と。首輪の真実を知っていれば「首輪も返してください」と言うはずだ。
 そう考え、鏡介は黒猫は女性に返すべきだ、と判断した。
 とはいえ、この女性が嘘を吐いているということも考えられる。
 元の飼い主は既に黒だと判明しているが黒猫の幸せを考えると念のため裏どりはしておいた方がいいだろう。
 そう考え、鏡介はGPS情報から突き止めた男の家にアクセスした。
 猫を飼っていたならペット用の見守りカメラくらいないか、と踏んでのことだったがその勘は正しかった。
 家の中に数台のWebカメラが設置されている。
 そのカメラの映像を集約しているサーバにアクセス、動画の履歴を閲覧する。
 猫がいなくなったのは一か月前、と話していたからそれより以前のデータを洗う。
 すると、男と猫の生活が垣間見えてきた。
 女性の言っていた通り、猫はリードにつながれ一定範囲しか動けないようになっていた。さらに首輪をリードでつなぎとめている柱で爪を研ごうとした瞬間に大きな物音を立て、爪を研がせないようにしている。
 確かに、法律上の「虐待」には当たらないかもしれないが愛猫家から見れば立派な虐待だろう。
 それでも猫は男を信じているかのように餌の時間は男に甘えるようなそぶりを見せる。
 その映像を見てから、鏡介は日翔と戯れる黒猫を見た。
 この猫を男に返してはいけない、と改めて思う。
 よりこの猫を大切にしようとしている女性に返すべきだろう。
 脱走した、とは言っていたが黒猫は男の家に帰ろうをしていたわけでもなさそうだった。女の家から男の家に帰るには方向が違いすぎている。
 純粋に道に迷っただけだろう、それなら男から引き離しても問題ない。
 しかし、マイクロチップの登録情報を書き換えずに女性に返したところでいずれは窃盗が発覚、誰も幸せにならないだろう。
 面倒だが、と思いつつも鏡介は日翔と戯れる黒猫を見た。
 黒猫の幸せを考えるなら――。
 仕方ないな、と鏡介が立ち上がる。
「ん? どうした?」
 猫を届けるのは俺の仕事だろ、と言う日翔に鏡介がいや、と答える。
「部屋に戻って機材取ってくる」
「何すんだ?」
「そいつのマイクロチップ情報を書き換える」
 えっ、と日翔が声を上げる。
「返さないのか?」
「ああ、本来の飼い主には返さない。色々と腹黒すぎる」
 その点、もう一人は信用できそうだ、と呟き鏡介がリビングを出ていく。
 それを見送った辰弥がオーブンからスポンジケーキを取り出し、型から取り出してケーキクーラーに置く。
「お、焼けた?」
 日翔が猫を抱えたままキッチンの入り口からのぞき込む。
 日翔がキッチンに立ち入ることは辰弥に固く禁じられている。迂闊に踏み込もうものなら包丁が飛んでくるかピアノ線が飛んでくるかである。
 ひょこ、と壁から顔をのぞかせる日翔をちら、と見て、辰弥はうん、と頷いた。
「冷めたらデコレーションするよ」
 そう言いながら次にオーブンに入れるのは常温に戻した七面鳥。
 天板に入れたアルミトレイにどん、と鎮座した七面鳥の周りにはマリネする際に利用した香味野菜の一部やじゃがいも、ブロッコリーなどが並べられ彩り豊かに飾り立てている。
 今から焼くこと数時間、焼きあがった七面鳥を想像して日翔が口を拭う。
「……日翔、ばっちい」
 今からよだれ垂らすなんて早すぎ、とぼやきつつも辰弥がオーブンのタイマーをセットする。
「なんか、大変なことになったね」
「まぁ、鏡介がマイクロチップの情報書き換えて新しい方の飼い主に渡すんだから万事オッケーじゃないか?」
 だといいけど、と辰弥が呟く。
 辰弥としては元の飼い主がそれで黙っているかどうか、が気がかりだった。
 話を聞く限り元の飼い主はこの黒猫を特別大切にしていたというよりも首輪にカモフラージュしたダイヤモンドを守りたかっただけ、そこに猫の体調などは考慮されていない。
 そう考えると新しい飼い主に黒猫を託した方がいいが、それで元の飼い主は黙っているのだろうか。猫を返せと言ってくる可能性は低いが、それでも何故逃がしたとか難癖付けて訴えてくる可能性も考えられる。
「なんか気にかかってるようだな」
 うん、と辰弥が自分の考えを日翔に告げる。
「まぁなー……ない、とは言い切れないよなあ……」
 日翔もぼやいたタイミングで鏡介が機材を手に戻ってくる。
「どうした日翔、辰弥」
 顔を突き合わせて唸っていた二人を見て鏡介が首をかしげる。
「ああ、いやな、SNSの方の飼い主に引き渡したとして、元の飼い主が黙ってねえんじゃないかって」
「ああ、それは想定済みだ。それにアライアンスに所属しているわけでもないのに違法なことをする奴にはお仕置きが必要だからな」
「おお?」
 鏡介の言葉に日翔が期待に満ちた目で彼を見る。
「やるのか? 正義のハッカーってやつ」
「俺は元々正義のハッカーだ。故あってアライアンスでクラッカーやってるがな」
「正義のハッカー?」
 鏡介が? と首をかしげる辰弥。
 ああ、と鏡介が頷いた。
「師匠が世の中の悪いハッカーを退治する正義のハッカーだったんだよ。俺もそうなるはずだったがまぁ、色々あってな」
 少々バツの悪そうな顔をしながら機材をセッティングし、鏡介は日翔と猫を呼び寄せた。
「日翔、そいつ押さえててくれ」
「おう」
 日翔がテーブルに猫を置き、逃げ出さないように軽く抑える。
 その首筋に小型のハンドスキャナのような器具を当てるとピッと音がしてデータが書き換えられる。
「……さて、と」
 黒猫の頭を一撫で、鏡介が両手の指を鳴らす。
「やりますかね……」
 勤務外の「仕事」だがこれはアライアンスの仕事ではない、と鏡介がその銀の瞳をす、と細める。
「あいよ」
 日翔が猫を抱えて鏡介から離れる。
 鏡介が軽く首を回し、キーボードスクリーンを展開した。
 元の飼い主のGNSにアクセス、メールの履歴を確認する。
「……ふむ」
 この男、違法なことをしている割にはネットリテラシーが低いのか削除されたメールはゴミ箱に残ったままで完全に削除されていない。尤も、鏡介からすればゴミ箱から削除したところで復元すればいいだけの話なのだが。
 ゴミ箱に残ったメールを見る。何かの取引が行われていた形跡。
 どうやら、この男、表向きはごく普通のイラストレーターとして活動しているようだがその裏で違法なGNSドラッグの取引を行っていたらしい。その取引は今ではあまり使われない現金で行われているため、その現金の資金洗浄マネーロンダリングにダイヤモンドを購入し、暫く寝かせる、といったところだろう。
 どうする、と鏡介は呟いた。
 本来なら警察に通報すべき案件である。しかし暗殺者として生きている鏡介が警察に通報するのもあまり気持ちのいいものではなく、できれば関わりたくない。
 とりあえずこのような裏社会で無防備に活動すれば痛い目に遭うぞ、という警告にとどめておくかと考え、鏡介は再度男に回線を開いた。
 数度のコールの後、男が出る。
《はい?》
「ナイト君の件で、少し気になることがありまして」
《どういうことでしょうか》
 訝し気に男が訊ねてくる。
 いや、お前がやったことはもう全部お見通しなんだよ、と思いつつも鏡介は平静を維持したまま口を開く。
「とある方からナイト君が虐待されている、という話を聞きまして。それが事実なら、貴方にナイト君をお返しすることはできません」
《ああ、そういうことですか》
 なんだ、と言わんばかりの男の顔。
 鏡介の眉がわずかに寄る。
「貴方は、その盗人の話を信じるというわけですか。俺のナイトを奪った!」
《あんたが大切にしているのはナイトじゃないだろう》
 思わず低い声が出た。
 ただでさえ低音ボイスの鏡介がさらに低い声を出したことで日翔が震えあがる。
「お、おい……」
 名前は出さず、身振り手振りで鏡介を止めようとする。
 黙ってろ、と視線だけで日翔を沈黙させ、鏡介は言葉を続けた。
「何を隠しているかは知らんがペットを愛情もって育てられないなら最初から飼うな」
《何を、ペットは飼い主を癒すのが仕事だろうが! だがナイトは俺を裏切った!》
「あんたが探しているのはナイトではなくて首輪だろうが」
 地を這うような鏡介の声。
 その声に男が一瞬怯む。
《ど、どうしてそれを――》
「ナイトはあんたには返さない。もっと幸せに受け入れてくれる家庭に引き渡す」
《あんたも盗人の肩を持つのか!》
「知るか! お前のようなクズにナイトは渡せないだけだ!」
 鏡介が一喝、その声に日翔と猫がびくりと身を震わせる。
「一言言っておく。裏社会を甘く見ていると――死ぬぞ」
《あんたに何が――》
 なおも歯向かおうとする男を、鏡介が睨みつける。
「ああ、分かるさ。裏社会を生きるということは――こういうことだ」
 そう言いつつ、鏡介の指が動く。
 キーボードスクリーンを操作、エンターキーを叩く。
 男のGNSに送られるHASHハッシュ。防御策を講じていない男は当然、その直撃を受けて目を回す。
 今回は意識不明になるレベルでのHASHは送り付けていなかったが男としては充分なダメージだったらしい。
 泡を吹く男に、鏡介がもう一言追撃する。
「ペットは飼い主を癒すのが仕事? ペットも癒されて当たり前なんだよ」
《う……ぐ……何なんだ、あんたは……》
「俺のことを知らんとは裏社会のうの字程度しか踏み込んでない雑魚か。これに懲りて真っ当に生きるんだな」
 はぁ、と鏡介がため息を吐き、回線を切断する。
「……終わったのか?」
 日翔が恐る恐る声をかけてくる。
 ああ、と鏡介が頷いた。
「まぁ、これに懲りて足を洗えばいいがな……これで今後も続けるようならあのレベル、アライアンスに依頼が来るだろう」
 その時は容赦しない、と鏡介が呟き、黒猫に手を伸ばした。
 にゃあ、と黒猫が鏡介の手を舐める。そのざらざらとした舌の感触に目を細め、彼は日翔を見た。
「日翔、お前の出番だ」
「ほい、デリバリーだな」
 そうか、もうお前ともお別れかあ、と日翔がぼやく。
 こいつ、俺に懐いてくれて可愛いんだけどなあと呟く日翔の頭を鏡介が軽く小突いた。
「ここはペット禁止だろうが。俺も行くからさっさと準備しろ」
「へーい」
 日翔がいそいそとジャケットを羽織る。
 鏡介もコートの袖に腕を通すとキッチンから辰弥が顔を出した。
「もしかして、俺お留守番?」
「まさか、ついてくる気だったか?」
 お前は料理中だろうがという鏡介に辰弥が「うーん」と声を上げる。
「ついて行きたかったけど仕方ないね。でも、パーティーは夜の二時だよ。それまでに帰ってきて」
「近場だからすぐ戻ってくる」
 お前は準備に専念してくれ、と言い残し、日翔と鏡介は出かけて行った。

 

 SNSに書かれていた住所に行くと、鏡介が通話で話した女性がすぐに出てきた。
 日翔がジャケットから顔をのぞかせていた黒猫を取り出し、女性に渡すと黒猫は嬉しそうに喉を鳴らしながら女性に頭をこすりつける。
「よかったな、帰れて」
 名残惜しそうに黒猫を見ながら、日翔が声をかける。
「ありがとうございます。もう、何と言っていいのか……」
 女性が何度も頭を下げ、黒猫を大事そうに抱きかかえる。
「もう逃がさないでくださいよ」
 笑みを浮かべ、鏡介が女性に声をかける。
「はい……! でも、ナイトを保護してくださったのに、お礼が何も……」
「いや、いいってお礼なんて。大したことしてねーし」
 日翔も笑顔でそう言うが女性は恐縮してしまっている。
「ああ、そう言えばちょっとした伝手でナイト君の所有者情報を貴方に書き換えておきました。これで次逃げ出したとしても貴方に連絡が行くはずです」
「え……そこまで……! 余計にお礼をしないと……」
「いや、今は……」
 そこまで言った鏡介が口をつむぐ。
 「アライアンスもウィンターホリデーだから」と言いかけた鏡介、しかし目の前の女性は裏社会とは無縁の一般人。アライアンスのことを知る必要はない。
 一瞬、どう言うべきかと悩み、鏡介はにっこりと笑った。
「今はウィンターホリデー、休みで暇だっただけですよ」
 友人も手伝ってくれましたし、と続けると隣の日翔が「えっ」と言った顔になる。
 だが、その日翔には気づかず、女性はそれでも、と呟いた。
「でも、何かお礼しないと私の気が……」
「だったらさー、ナイトが美味いもん食ってる動画送ってくれよ。それでチャラだ」
「おい」
 鏡介が日翔の脇腹を小突く。ええー、いいじゃんと日翔が膨れる。
「とにかく、お気になさらず。それでは」
 ほら行くぞ、と鏡介が日翔を引っ張る。
「えっ、おい、あ……ナイト、またなー!」
 鏡介に引っ張られてよろめいた日翔だったがすぐに体勢を立て直し、歩き出す。
「……どうしたんだ、鏡介くーん?」
 女性に背を向けた鏡介の顔は真っ赤になっていた。
「うるさい」
「久しぶりに女と喋って緊張したのかなー? かなー?」
「うるさい蹴るぞ」
 茶化す日翔をよそに鏡介が早足で歩く。
「蹴れるもんなら蹴ってみろよ、もやし君」
「誰がもやしだ!!!!
 げし、と鏡介が日翔を蹴る。しかし体力のない鏡介の一撃は日翔に全く効いていない。
 ニヤニヤと笑う日翔に「こいつ……」と唸る鏡介。
「で、『友人』だって? 嬉しいこと言ってくれるねえ」
「なっ!」
 しまった、なんて言葉を口走ってしまったんだと鏡介は後悔した。
 いや、確かに日翔も辰弥も大切な仲間であり友人である。それは認める。だが、それを口にするほど鏡介もまっすぐな人間ではなかった。
 どうして口走ってしまったんだ、と思いつつも日翔を見ると彼は嬉しそうに鏡介の肩に腕を回してくる。
「ありがとな、鏡介」
「何を――」
「友人だと言ってくれて。俺、友達っぽいこと、できてたかな」
 日翔と出会ったのはアライアンスからの協力要請を受けての暗殺依頼で二人は暗殺者とターゲットという関係だった。
 それを当時鏡介と組んでいたすばるが「使えるから」という理由で引き取った。
 聞けば両親も殺されたばかり、行く当てもない日翔と共に過ごすようになり最初はぶつかり合ったもののいつしか離れられない関係となっていた。
 腐れ縁かもしれないが鏡介にとって日翔はただのビジネスパートナーなんかではない。友の一人として目の前で死んでほしくないとさえ思っている。
 その気持ちは日翔も同じだったのか。
「日翔……」
 鏡介が日翔の名を呼ぶ。
「俺は、お前の友としてふさわしいか?」
 思わず、そう尋ねる。
 ああ、と日翔が即答した。
「お前も辰弥も、俺にとっては大切な友達だよ。だから、俺の前では死なれたくない」
 その言葉を聞いて鏡介はほっとした。
 俺は間違っていなかったのだと。
 たとえ嘘であってもこの言葉は嬉しい。
 それでも、鏡介には確信があった。
 これは日翔の本心だと。嘘を吐かず、本心から、自分を友として慕ってくれているのだと。
 日翔が嘘を吐けない人間だからではない。嘘が吐けないからこそ、友と思っていなければ何も言わない。
 単純なやつだなと思いつつも鏡介はふっと笑った。
「なんだよ」
「早く帰ろう、辰弥が待ってる」
 そう言うと、日翔はあっと声を上げ、すぐにそうだな、と頷いた。
「帰ったらパーティーだ! ケーキ、楽しみだな」
「七面鳥はどうした。年に一回しか食えないんだぞ」
「それな」
 そんなことを言いながら帰路に就く。
 ウィンターホリデーで浮かれる街を歩いていると、ちら、と白いものが舞い始める。
「……あ、雪だ」
 空を見上げ、日翔が呟いた。
「……縁起がいいな」
 ウィンターホリデーに初雪が降ると翌年は幸運に見舞われるというジンクスが比較的雪の少ない上町府にはある。
 今年は散々だったからな、来年はもっと落ち着いた一年になるといいなと思いつつ二人は自然と早足になる。
「さっさと帰って暖まろうぜ」
「そうだな」
 辰弥が待つ家へと。
「……あっ」
 だが、その途中で不意に日翔が足を止めた。
「どうした?」
 怪訝そうな顔をして、鏡介が日翔を見る。
「ナイトは返したけどさ……あの首輪、どうすんの」
「あ」
 すっかり失念していたがダイヤモンドが大量に隠されたあの首輪、放置しておくわけにはいかない。
 流石に元の飼い主に返すわけにはいかない。かといってダイヤモンドをありがたがるほど三人は宝石に興味がない。
 ほんの少しだけ考え、鏡介はぽつりと呟いた。
「……売るか」
 アライアンスの闇商人なら買い取ってくれるだろう、と言ってから鏡介は考える。
 ――時価総額いくらだ?
 ざっくりと現在の買い取り相場を検索する。
 実際はもっと安く買いたたかれるだろうが買取相場は一個二十万前後、それがざっと見た限り十は下らなかったはずだ。
 ――二百万は稼げそうだな。臨時収入にはちょうどいいか。
「日翔、喜べ臨時収入だ」
「マジか」
「お前にも分け前やるから感謝しろ」
 やりぃ、と日翔が小躍りする。
「早く返済できるといいな」
 日翔とは共に働くようになった時からの付き合いだから事情も全て知っている。
 身体のことも、借金のことも、全て。
「しかし、今回は散々だったな」
 結果的に臨時収入は入りそうだとはいえ相手にとってはタダ働き同然のことをしたのである。これがウィンターホリデーでなければ多少は何かを請求したかもしれないのに。
「まぁ、そういうもんだろ。お疲れさん、鏡介」
 どん、と日翔が鏡介の背中を叩く。
 痛え、と呟きながらも鏡介が苦笑する。
「さ、帰ろう。辰弥が待ってる」
 ああ、と鏡介も頷き、再び歩き出す。
 まだ明るい昼だからイルミネーションは輝いていないが、もう数時間もすれば点灯するだろう。
 日が暮れたら見にくるのもいいかもしれないな、と思いつつも二人は並んで歩き続けた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 二人が家に着くとちょうど辰弥がオーブンから七面鳥を取り出したところだった。
 いい匂いが家中に漂い、ドアを開けた瞬間、日翔が目を輝かせて靴を脱ぎ捨て、家に飛び込む。
「焼けたのか!?!?
「まだここから二時間休ませるけどね」
 調理台に置かれ、アルミホイルを被せられた七面鳥。
 日翔がじゅるりとよだれを啜る。
「日翔……」
 呆れたような辰弥の声。
「辰弥、ちゃんと引き渡してきたぞ」
 鏡介もぬっとキッチンに顔を出し、報告する。
「お疲れ様。寒かっただろうからこたつで暖まっててよ」
「ああ、そうさせてもらう」
 コートをハンガーにかけた鏡介が日翔と向かい合ってこたつに潜り込む。
「あ、辰弥。雪降り始めたぜ」
「え、雪?」
 日翔の言葉に辰弥がベランダに出る。
「うわ……」
 二人が家に着く頃には本格的に降り出した雪はもうベランダにうっすらと積もりかけている。
 辰弥が宙に手を伸ばすとその手に雪が舞い降り、彼の低い体温でゆっくり溶けていく。
「寒いだろー、早く入れよ」
「あ、うん」
 日翔に言われ、辰弥が部屋に戻る。
「ケーキはできたのか?」
「うん、デコレーションもバッチリ」
 得意げに辰弥がサムズアップして見せる。
「だけど、二人ともちょうどいいところに帰ってきたよ」
「どうした?」
 ちょうどいいところ、とはどういうことだろう。
 七面鳥は二時間ほど休ませると言っているからパーティーは早くても二時間後、ケーキも完成しているのならこの二時間で何かしらゲームでもしたいというのだろうか。
 日翔の問いに、辰弥が苦笑する。
「シャンメリー買い忘れた」
「そこはシャンパンじゃないのかよー」
「高い。それに俺はアルコール飲まない」
 えぇ~、と日翔が声を上げるが鏡介が眠たそうに日翔を見る。
「俺も酒は飲まないからシャンメリーで十分だろ」
「……お、おう」
「というわけで俺、シャンメリー買ってくるから二人は留守番よろしく」
 辰弥がいそいそとエコバッグを手に取る。
 それを見た日翔がおう、と手を振った。
「気をつけて行ってこいよー」
「俺は疲れたからパーティーが始まるまでここで寝てる」
 ずぶずぶとこたつ布団に潜り込む鏡介。
「こたつの中で寝るのあまり良くないぜ? 俺の部屋で寝ろよ」
「……いや、精神衛生上よくない」
 譫言のようにそう呟いた鏡介、次の瞬間にはもう寝息を立てている。
 うーん、と唸りながらも日翔は自分の部屋からブランケットを取ってくる。
 こたつ布団からはみ出た鏡介の肩にそっと掛け、日翔は「お疲れ様」と呟いた。
「いい夢、見ろよ」
 鏡介が寝たならちょうどいい、と日翔はにんまりとほくそ笑んだ。

 

「ただいま」
 辰弥がシャンメリーの入ったエコバッグを床に置きながら日翔に声をかける。
「ああ、おかえり」
 日翔がみかんを剥きながら返事をする。
「日翔は飲みたいと思ったからビール買ってきたよ」
 そう言いながらも辰弥の顔は渋い。
「酒屋のおばちゃんに年齢確認された……」
「まぁ、お前見た目未成年だもんな」
 俺たちの中では最年長なのに、とぼやきつつも日翔はみかんを口に放り込む。
 シャンメリーとビールを冷やそうと辰弥が冷蔵庫を開ける。
 そして。
「……日翔」
 ドスのきいた声が日翔に投げかけられた。
 ぶちゅっ。
 辰弥が声をかけた瞬間、日翔が思わずみかんを握り潰す。
「な、なんだ」
「ケーキ、どこやった?」
「な、ナンノコトカナー?」
 やや上擦った声で日翔がとぼける。
「お、オレクッテナイヨ? キョウスケジャネ?」
 ほほう、と辰弥が日翔を睨む。
「じゃあその口についてる生クリームは何?」
「あっ、やべっ!」
 思わず口を拭う日翔。
 その瞬間、辰弥が動いた。
「こんな初歩的なブラフに引っかかるなんて、日翔のバカ!!!!」
 しゅる、と辰弥の手からロープが伸びる。
 先端に取り付けられた錘の延伸力で日翔の体にロープが絡みつく。
「うげ、」
「一人で全部食べるとかふざけてんの! 楽しみにしてたのに!!!!
「ぎゃあ辰弥やめろごめんなさい!!!!」
 身動きの取れない日翔を、辰弥はぽかぽかと殴り始めた。
「……うるさいなぁ……」
 二人の騒ぎに目を覚ました鏡介が、寝ぼけ眼でそう呟いた。

 

「じゃあ、遅くなったけど食べようか」
 辰弥がこたつにカトラリーを並べながら声をかける。
「……ハイ」
 鏡介が体を起こし、部屋の隅で「俺はホリデーケーキを一人で食べました」の首看板をぶら下げて正座させられていた日翔が頷く。
「し、痺れた……」
 数時間の正座ですっかり足が痺れ、悶絶する日翔を尻目に辰弥がこたつに七面鳥のローストを置く。見ていると鏡介が日翔の足先をつんつんとつつき、そのたびに日翔が絶叫していた。
「ほら、そこまでにして」
 その辰弥の声に、日翔と鏡介がこたつの上を見る。
 こんがりといい色に焼けた七面鳥はその存在感だけでその部屋にいる全員を圧倒する。
「すごいな」
「3kgの一番小さいやつだけどね」
 そんなことを言いながら取り皿を配る辰弥。
「写真撮ってSNS上げるなら今だよ」
 取り皿を置いた辰弥も早速自分の視界を写真加工してストレージに保存している。
 鏡介も同じように撮影を行い、日翔も震えながら通信端末CCTを取り出し、撮影する。
 撮影会が終わり、全員が席に着いたところで辰弥はキッチンばさみを手ににっこりと笑った。
「それじゃ、始めようか」
「いえーーーー!!!! 待ってました!!!!
 日翔が歓声を上げ、鏡介もいつになくそわそわとした様子で辰弥が七面鳥を取り分けるのを待つ。
 辰弥が器用に七面鳥を切り分け、皿によそったところで三人はシャンメリーの入ったグラスを手に取った。
「それじゃ、今年もお疲れ様」
「お疲れ様ー!」
「お疲れ様」
 カツン、とグラスを合わせて乾杯。
 一口飲んだ直後、七面鳥を貪り始める。
「うめぇ〜!」
 日翔が声を上げ、鏡介もうむ、と頷く。
 なんだかんだで今年のイベントは全て消化した、そんな気持ちが三人の中に漂う。
 しばらくはほぼ無言だった三人も徐々に口数が増え、一年の振り返りや来年の話などが展開される。
「来年……三五九年か……」
 カレンダーを見た鏡介が呟き、「どんな年になるんだろうな」と続ける。
「来年も変わらず過ごせたらいいよな」
「そうだね」
 日翔と辰弥も頷く。
「来年もまた七面鳥焼いてくれよな!」
「もちろん」
 そう頷いた辰弥が、突然立ち上がった。
「? どうした?」
 日翔が不思議そうに首を傾げる。
 それに対して辰弥がニヤリと笑う。
「まだ……食べられるでしょ?」
 そう言って冷蔵庫に歩み寄り、取り出されたのは――ケーキ。
「え? ケーキ?」
「誰のせいで焼き直したと思ってんの」
 そう言いながらも辰弥は苺がデコレーションされたケーキをこたつに置く。
「辰弥、お前……」
 そんな時間あったのか、と鏡介も驚く。
「これくらいできるよ。せっかくだし、食べたいからさ」
 そう言った辰弥の顔は明るい。
「ほら、食べよう」
 三等分に切り分けたケーキを皿に置き、辰弥が二人を促す。
 おう、と日翔がケーキに齧り付く。
「うめえ! やっぱ辰弥のケーキはうめえよ!」
 そう、喜ぶ日翔を見て。
 来年も、三人で楽しめるといいな、と辰弥はふと思った。

 

 しんしんと降り続ける雪はベランダにも数センチほど吹き込んで積もっていた。
 そのベランダに、辰弥は防寒具を身につけることもなく裸足で立っていた。
 もうどれくらいベランダに立っているのか、雪は辰弥にもうっすらと積もり、黒い髪も少し白くなっている。
「……辰弥、ここにいたのか」
 トイレに起きたのだろう、日翔がベランダにつながる窓を開けて辰弥に声をかける。
 振り返り、辰弥がうん、と頷いた。
 その振り返った辰弥の深紅の瞳が室内の照明を受けて妖しく光る。
 一瞬、ドキリ、と心臓が跳ねたような錯覚を覚え、思わず見つめてしまう。
 静かに降り続ける雪の白、ほの白く染まった黒、そしてあか
 その紅ですら、雪に溶かされてしまいそうで、日翔は思わず手を伸ばした。
 うっすらと雪が積もった肩に触れ、その冷たさに驚く。
「うわっ、冷え切ってんじゃねえか! お前どんだけここにいたんだよ!」
 慌てた日翔が「さむっ」と言いながらも辰弥の頭や肩から雪を払う。
「風邪引くぞ、中に入ろう」
「……うん」
 日翔に促され、辰弥も室内に入る。
「待ってろ」
 肩に掛けていたブランケットを辰弥に巻き付け、日翔がキッチンに入る。
 普段ならここでピアノ線か何かが飛んでくるところだが、辰弥はただブランケットにくるまって日翔の行動を見守っている。
 ええと、と日翔が冷蔵庫からお湯を注ぐだけでできるインスタントのミルクココアを取り出し、ウォーターサーバーのお湯を注いでココアを作る。
「ほら」
 湯気の立つマグカップを手渡し、日翔が笑った。
「……ありがとう」
「眠れなかったのか?」
 日翔が尋ねる。辰弥がうん、と頷く。
「雪って、不思議だよね」
 ちびちびとホットココアを飲みながら辰弥が呟く。
「冷たいのに、なんか温かくてさ……」
「そうかぁ?」
「……なんか、ほっとする」
 もう遠い記憶。ずっと冷たく、冷え切った世界にいたような感覚が、雪によって溶かされていくようだ、と辰弥は思った。
 そんな雪よりも暖かい場所にいるのに、何故か雪に凍らされ溶かされたいと思ってしまう。
 そんな考えに至ってしまったのが嫌で、辰弥は強引に話を変えた。
「猫の件、解決してよかったね」
「ん? ああ、そうだな」
 辰弥が強引に話を変えたことには気づいたが、何事もなかったかのように日翔が頷く。
「俺は何もできなかったけどさ、無事に終わってよかったよ」
「お前が料理作っててくれたおかげで楽しみに頑張れたんだよ」
 そう言って日翔が辰弥の頭を撫でる。
「子供扱いしないでってば」
 むぅ、と膨れる辰弥が、自称している年齢不相応に幼くてついついわしゃわしゃとしてしまう。
「日翔ぉ……」
「いつもありがとな」
 日翔がにかっと笑う。
 それを見て、辰弥の心の底でわだかまっていた冷たいものが溶かされていく。
 ああ、俺は、と辰弥が日翔を見る。
 ――俺は、この笑顔に助けられている。
 この笑顔は、守りたい。
 そのためになら、命を懸けられる。
「……日翔、俺は――」
 ――君と一緒にいたい。これからも、ずっと。
 その声が、その一言がどうしても言えなくて。
 唇を震わせたところで日翔が辰弥の頭をポンポンと叩く。
「来年もよろしくな。いや――これからも、よろしくな」
「あ――」
 来年も一緒にいていいのか。
 いや、これからも一緒にいていいのか。
 日翔の言葉が心に染み渡る。
 俺は、ここにいてもいいのか、という思いが広がっていく。
 大切な日翔と鏡介と、これからもずっと、側にいたいから。
「ん、来年も、よろしく」
 温かいココアのマグカップで手を温めながら、辰弥も頷いた。
 願わくは君のそばにずっといられますように。

 

End.

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おまけ

 


 

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