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「じゃあ、飛び降りてよ」
「うん、分かった」

桐里 きり にとって、彼女は特に交流は無い相手のはずだった。
 鈴木さんと言ったか、彼女が私を屋上に呼び出した理由は至って単純、好きだった男の子に告白したが振られたから。要は、彼は私のことが好きらしい、奇特な人もいたものだ。
 それで私を屋上に呼び出した。ただ、それだけならこんなことにはなっていない。
 彼女は最初、私に彼を振ってほしいと言ってきた、思い人の私に振られれば、彼が鈴木さんと付き合う気になるかもしれない、という理論らしい。
 私はそれを了承した、私にとっては鈴木さんもその彼も、そしてその他大半も割とどうでもよかったから。
 私があっさりと了承したこと、これが彼女の気に障ったらしい。考えるだけにしておけばいいだろうに、鈴木さんは私に『言って』しまった。
 だから私は――
 飛び降りる寸前、挙がる悲鳴に隠れて、扉の辺りから『待って』と聞こえた気がした……。


「ぅん……」

 目が覚めた、私は何をしていたのだったか。
 ふわふわした綿のような材質、ベッドにしては私の知っている物よりも大分弾力がある気がする。
 手を埋めてみる、奥に、奥に、ゆっくりと沈んでいく。
 目を開ける、知っている天井どころか、水色一色だった。
 周囲を確認しようとして、目を瞑る、太陽の自己主張がいつも以上に強かった。
 手で目を覆い、眩しさが落ち着くまで待ち、改めて目を開く。
 辺りは明るく昼らしく、上も左右一周しても青に満ちていた。
 そして、私が座って触れているふわふわした物は……白かった、とても純粋な白だった。
 どうやら私は空の上、正しくは雲の上で寝ていたらしいことが分かった瞬間だった。


 あれから暫く、雲の上を探索してみたが、見事に白一色、他には何も見当たらなかった。
 なんでこんなところにいるのかを考えてみても思い出せない、これはどうすればいいのだろう。
 暫く悩み、飛び降りてみるかとも思ったが、それはやめた。
 なんとなく、本当になんとなくだが、飛び降りてはいけない気がした。
 だが、雲の上でずっといるわけにもいかない、だから私は雲の端っこに行ってみることにした。
 下、恐らくは地上を覗き込む、落ちないようにだけは気を付ける。
 綺麗な青が一面に見える、海の上を漂っているのだろうか。

「はぁ……」

 あまりにも理解不能な状況に自然と溜息がこぼれる。

「どうすればいいんだろ」

 口に出してみるが答えが返ってくることはなく、仕方がないから雲の上で寝転がる。
 身体を伸ばし、力を抜く。同時に心地よい風が頬を撫でる。
 先程まで寝ていたはずなのに、うとうとと睡魔が忍び寄ってくる。
 どうせやることもないから、そう言い聞かせ、少しの不安を覚えつつも眠気に身を委ねることにした……。


「んっ……」

 再び目が覚めたが、頭がふわふわしている。寝ている間に雲が頭の中に入ってきたみたい、なんて仕方のないことを考える。
 落ち着きながら目を開けると、周りが青で満ちていない。

「今度はどこだろう」

 口に出して言うと音が響いた。どうやら周りは壁らしい。
 寝ぼけているのか、やっと気づいたが私はベッドの上にいた。
 地上に戻って来れたらしい、とりあえず部屋の中を見渡してみるが、やはりと言っていいのか見覚えはない。
 扉を調べてみると、鍵がかかっていることもなく自由に出入りできそうだ。
 部屋に籠っていても状況が変わるかも分からない、とりあえず誰かを見つけることを目的に部屋を出る。
 
「かーやー」

 扉を開けて外へ出ようとしたその時、女の子の声が廊下に響いた。
 私の名前は桐里だから、少なくともあと二人、声の女の子とかやさんとやらがこの建物にはいるのだろう。
 ここの人が私を助けてくれたのか、見張りは居らず、行動も制限されてないことから誘拐などではないだろう。
 状況が分かるまでは友好的に、苦手だがそう意識する。
 声の聞こえてきた方向に歩いていくと、一つの部屋にたどり着いた。
 一家揃って食事が出来るくらいの大きさの机、その下には可愛いがあっさりしている朝顔のカーペット、奥に見える台所から居間に当たる部屋だとすぐに分かった。
 開きっぱなしの扉から、恐る恐る部屋に入ると、女の子が一人。少なくとも私は知らない人、少し高めの身長に長い黒髪が特徴的な子だ。
 料理をしているらしい彼女の背に近づいて声をかけてみる。

「こんにちは」

 彼女は聞きなれない声に驚いたのか、洗っていた野菜を落とし、私を見てホッとする。
 そしてこちらを観察しながら、こんにちは、と挨拶を返してくれる。
 そして、唇を指で軽く押さえ、悩んだように、

「今は朝だから、おはよう、かしら」

 と言い直す。
 それに対して私も挨拶をし直した後、彼女に座って待っていて欲しいと言われ、大人しくそれに従う。
 彼女は私を見てホッと安心した様子を見せた、つまり彼女は私を知っているということだ。
 私は未だに雲の上にいた前のことを思い出せていない、彼女が私のことを知っていればいいのだけれど、そう思いながら、恐らくは彼女の料理が出来上がるのを待つ。
 しかし待つまでもなく十数秒後、未だ開きっぱなしの扉から、またも記憶にはいない少女が駆けてきた。
 彼女は私を見て、驚きながら、満面の笑みで私に伝える。

「ようこそ、天国へ」

 少女の大きく開いた手を見て、私は漸く現実を悟った。


「以前までのことが思い出せず、突然雲の上に。そして、寝て、目を覚ましたら知らないベッドの上、と」
「うん」

 私は年上らしい彼女『海鈴みすず』と元気な年下の少女『香耶かや』、この姉妹に事情を話していた。
 普通は信じられないだろう、けれど香耶曰く此処は天国、だからなのか、あっさりと信じてもらえた。
 海鈴と香耶は、それなりに長いことこの家で過ごしているらしい。
 二人は私に記憶が戻るまでいてもいいと言ってくれた。
 どうやら二人は本当の姉妹ではないようで、私がそこに入っても一人増えるだけ、むしろ嬉しいくらいだと言われてしまった。
 気を使わせてしまって申し訳ないとは思うが、今の私には行く当てもなければどうすればいいのかも分からない。
 素直に頼ることにして、代わりに家事を手伝うことにした。
 生前(?)の私はある程度家事は出来たらしく、迷惑をかけるだけ、ということもなくて本当によかった。


 この家でお世話になりだしてから二週間が経った。
 どうやら天国には学習機関、所謂学校というものはないらしく、香耶も基本は一日中家にいるか外で遊んでいるし、海鈴は家事の合間に小説を書くことで暇を潰している。
 香耶は新しい遊び相手が増えたことで出来る遊びが増えたと喜んでいたので、とりあえず家に馴染めてはいると思う。
 香耶は見た目の通り元気っ子で、縛った黒髪を振り回しながら走り回っているし、海鈴も意外と運動が出来る。
 私も平均以上……というか、恐らくは同年代の男子の平均位には体力があり運動神経も悪くないので、三人で遊ぶといい感じに拮抗している。
 家にはゲームなどの近代的なものはなく、簡単なボールやバット、その他ラケットなどがある程度で、出来ることは少なかったが、それを不満だとは思わなかった。
 私は人付き合いが苦手だったのだろうか、二人との遊びは新鮮に感じ、とても楽しかった。


 香耶曰く、天国とは『人を待つ場所』らしい。
 香耶と海鈴も『誰か』を待っているらしく、その誰かが幸せな人生を送って、その後ここで幸せだった一生の話を聞くのが一番の楽しみで、話を聞いているだけでその『誰か』のことが本当に大好きなことが伝わってくる。
 私が今借りている部屋も、本来その人が使う予定の部屋だと聞いている。
 二人にその人の名前を聞いてみても、名前を現世以外で話したら、その人がこっちの世界に引っ張られてしまうから、と話すことは出来ないらしい。
 だから、二人にこんなに思われている人がどんな人なのかを聞いてみると、不愛想で色々厄介な問題児、けどだからこそ幸せになってほしいと心配が絶えないとか。
 何故そんなに詳しく知っているのかと言うと、その『誰か』に縁のある二人は夢でその人の生活を覗き見たり、鏡を通じで現世を渡り歩いたり出来るから、らしい。
 プライバシーの欠片も無い話だが、この暇が過ぎる世界で幸せを祈りながらずっと待っているのだ、それくらいのことは許されるべきなんだろう。


 天国に来て更に二週間、大体一月が経った。
 記憶が戻る気配もなく、少し気分が沈んでいた時の事だった。
 私はお風呂が好きだ。
 一人で最も心が落ち着く時、それが入浴中。
 人肌くらいの少し温めのお湯、これが肩より少し下くらいまで張ってあるのが理想。
 その中でまったりと二十分くらい、時々口までお湯に沈めてブクブクと、恥ずかしくて姉妹にも言えないが私の些細な楽しみである。
 その日もいつもと同じように身体を洗ってから湯船に浸かり、そして最近の日課となりつつある今後の身の振り方、そして記憶の取り戻し方を考えていた時のことだった。
 湯船とは、つまりは温めた水が溜まっているだけに過ぎない。
 そして、水には目の前に在る存在を映し出す、そうまるで鏡のように。
 私は湯船に張ってあるお湯、その湯気が途切れた瞬間にお湯に映る自分を見た、目があった。
 お湯の中の私が本来はあまりしないであろう、優し気な微笑みを見せてくれた。
 その微笑みに誘われるように、私の視線は彼女の眼から放すことはできず、私は彼女の方へと意識を揺らし、落としていった――


 小学生高学年くらいだろうか、教室と思われる場所の隅で女の子が一人、男の子たちに詰め寄られている。

「お前、生意気なんだよっ」

 ドンッ!

 女の子が突き飛ばされる。
 少女はあまり気にしていないようではある、がしかし、それでも明らかに周りの子どもたちが誰も止めようとしない以上、俗にいういじめというやつなのだろう。
 少女は突き飛ばされた後蹴られても、髪を掴まれても、唾を吐かれても、何も言わずただ、ただじっと彼らを見つめるだけであった。
 それが自分たちとは違う、自身には理解できない何か恐ろしい物にでも思えたのだろうか、彼らはより強く暴力を、罵倒を繰り返す。
 誰かが教師が来ると声を発するまで、彼らはただただ繰り返す。
 教師が来て、教師は彼女を保健室へと連れていく。
 彼女の何も映さない瞳だけが、彼らの咎を執拗に攻め立てていた――


 私はそこまで見て目を覚ました。
 幸いにも、時としては一瞬だったようでお湯の中で窒息しかけている、などといったことは無かったのが唯一と言っていい救いだった。
 今のは何だったのだろうか。
 いや、分かっている、ただ理解したくないだけだ。
 今のは私で、私は人との共存を無意識で受け入れられなくなる程度には苛めを受けていた、救いなどなかった。
 何故今になってこんなものを、そう考え最初に辿り着いたのは以前聞いた『鏡』という単語。
 私がここでの生活に慣れてきたからだろうか、それとも私が焦り始めたからか、お湯を鏡の代わりに、私は恐らくは『過去』を見せられていたらしい。
 酷い、正に死にたくなるような出来事だった。
 私はこれ以上湯船にいる気にはなれず、身体をサッと拭きながら、早々と風呂という今となっては嫌な、辛いイメージだけが強く残ってしまった場所から歩を進め、リビングで小説を書いていた海鈴に風呂が空いたことを伝えてすぐ、自室で寝転がるのだった。


 昨日は結局挨拶もせずに寝てしまった、謝らなければと頭に浮かんだ、風呂での一件から十数時間後の朝だった。
 最初は話してしまおうとも思った、だが彼女たちは夢を、鏡での冒険を楽しみに、好意的に思っている。
 それを穢らわしい負の思い出で汚すことはしたくなかった。
 だから、伏せることにした。
 また起こるとも限らない、起こったとして、次はもっと良い思い出を見られるかもしれない、そうしたら話そう。
 私は少しだけ、逃げることを選んだ。


 それからだ、私は考え事することが増え、考えれば考えるほど、鏡や水などの自身を映す物を見たとき、そして寝ているときに私の過去を見るようになった。
 苛められている夢を見るときもあれば、家だというのに一人でご飯を食べている寂しいだろう思い出が映されることもある。
 基本的には、というか絶対と言っていいくらいに悪い思い出しか視界には映らず、姉妹によって暖められていた心は次第に固まりだし、ひび割れていく、それを表に出さないように気を付けるだけでいっぱいいっぱいだ。
 香耶は時々こちらを不安そうに、心配そうに見詰めているし、海鈴に至っては「何か心配事があったら言ってね、相談くらいには乗れると思うから」と直接言われてしまう始末。
 それでも、私には彼女たちに過去のことを伝える気にはなれなかった。
 私が、生前ろくな思い出も無く、幸せとは程遠い生活を送っているということを、待ち人の幸せな思い出をずっとずっと待っている二人にだけは伝えられなかった。
 現世の澱み、幸せという言葉を見失うような酷い人間の性を、彼女たちにより強く現実として教えることだけはしたくなかった。
 私はまた我慢する。一人でずっと我慢する。それが過去を見て知った、私の生き方だったから。


 それから更に十日程が経った。
 二人に心配させるのも嫌だ、そしてなによりも私がそろそろ限界だ。
 二人に嫌な思いをさせてしまうかもしれない、もしかしたら今すぐにでもこの家から出ていった方がいいのかもしれない、それでも、二人は私を心配してくれて、暖かくしてくれて、まだ嫌な過去しか思い出せない私でも、二人のことは本当の姉妹みたいに、大好きだって言えるから、だから……話すことにした。
 二人に嫌われたらどうしよう、嘘つきだと、敵だと言われたらどうしよう、そんな不安ばかりが頭をよぎる中、最初に二人に出会った食卓、朝顔の涼やかなカーペットのその上で、二人に話そうとそれぞれに声をかけた。
 二人が来て、何も言わずにいつもの位置へ、香耶は私の隣、海鈴は私の正面に座ってくれる。
 この席順も、記憶が無く来たばかりな私を出来るだけ不安にさせないようにするためだということに今更気付いた。
 二人を前にして少し怖気づき顔を上げられなくなる。
 察したのか、香耶がこちらを少し覗きつつ、手を握ってくれる。
 ……本当に、優しい姉妹たちで、だからこそ余計に傷つけたくなくて、話せなくなる。
 けれど、香耶が勇気をくれたから、海鈴が見守ってくれているから、私は顔を上げ、今までの過去……例えとして夢の話をすることにした。
 私が口を開き最初の言葉を、ごめんなさいと紡ぎかけた瞬間、私は立ち眩みのような、また最初の浴槽で『私』の眼を見た時のような、強い揺らめきに襲われ――意識を失った。
 最後に微かに見えたのは心配そうな海鈴と、そして小さな手から伝わった強い思いだけだった……。


 今度は何を見せられるんだろう、私の意識が戻って最初に浮かんだのはこれだ。
 ある意味では都合がいい。
 なんで『水場』も『鏡』も無い、寝てもいないときに起こったのかは分からないけど、どうせまた辛い『記憶』という映画を延々と見せられるだけだろう。
 だからこそ、二人のいる場所へ戻った後に話す予定の今までの記憶を見る現象、これに説得力が出るはずだ。きっと顔も真っ青になっているから。
 目を開けなければ始まらない、代わりに戻ることもできない。
 私は意を決して目を開ける、目を瞑っていた弊害だろう、少しの眩しさと共に映ったのは見慣れない白、私の知識が正しいならば……病院、ここは病室なんだろう。
 今度は誰かに怪我でも負わされて、一人でベッドに居続けでもさせられるのだろうか。
 目を開いてから前しか見ていなかった私が気付くのが遅れたのは仕方が無かったんだろう。

「……こんにちは」

 どこかで聞いたような声が下の方からした。
 どうやら今回の私は中に浮いているらしいと今更気付き、声のした方を見てみる。
 見覚えのある制服をした、見覚えのあるような三つ編み……の少女がいた。

「やっぱり、起きてないよね」

 どうやら彼女はこの病室の患者のお見舞いに来たらしい。
 左手に下げてきていた百合の花を、大事そうに花瓶の中のまだ新しく見える花と入れ替えた後、彼女は私の真下で寝ている人の隣に椅子を動かし、座る。

「ごめんね」

 私は真下にいる『誰か』を見る。
 見覚えがあった、当然だ。
 だってそこで寝ているのは――私なのだから。

「っ……」

 頭痛と共に意識が揺れる。
 戻るのだろうか、戻って、何を彼女たちに話せばいいのだろうか。
 なんとなくだが分かる、あれは私だ、今の私。
 私はまだ生きていたんだ。
 頭が痛い、自分が自分で分からなくなる。
 揺れる、揺れる、そして……意識がまた遠のいた。


「じゃあ、飛び降りてよ」
「うん、分かった」

 私と誰かの声がする。
 頭が痛い、苦しい。
 私の身体がゆっくりと落ちていくのが見える中、甲高い悲鳴、そして――屋上の入り口で手を伸ばす三つ編みの少女、本来は柔らかだろうその声で、待って、と。
 彼女の声は既に、意識を失っていた私の心には届かなかった……。


「ごめんなさい……私が臆病で、恐がりだったから……桐里っ」

 ……穂乃花ほのか、そう穂乃花だ。
 友達なんていたことのない私を、友達だと言ってくれた、優しい子。
 クラスが違うから普段は一緒にいれないけど、休みの日に遊びに行ったりした。
 初めての体験で、楽しくて、けど顔にはあんまり出せなかったから、彼女が楽しんでくれたのか帰ってから不安になったりして。
 こんな今まで忘れていたような私の為に泣いてくれて、さっきの百合の花、きっと何回もお見舞いに来てくれたのだろう。
 ……穂乃花に言いたいことが出来た、海鈴と香耶にも、話さなきゃいけないことが増えてしまった。
 けど、私はそうしたいから、だから――

「ごめんなさい、桐里」

 もう少し待ってて、穂乃花。


 戻ってきたのが分かる。
 私の身体が倒れていたりしない辺り、どうやらほぼ一瞬のことだったらしい。
 過去のことをどう話すか、改めて整理していると、話そうとしたのに何も言わず、それから黙り込んでしまった私を心配したのだろう、二人がこちらを不安そうに見つめる。
 二人をあまり待たせて心配させるのも嫌だから、脳内整理もほどほどにして話し出す決意をする。
 大丈夫、私がやりたいことは決まったから。
 二人と別れることに、もう会えなくなってしまうけれど、それでも――
 二人の眼を順番に見て、口を開き、話し始める。
 私が生きていた頃のことを、度々見るようになっていたこと。
 それは、楽しい話なんかではなく、暗い、辛いだけの記憶だったこと。
 待ち人とその思い出を楽しみに待っている二人には、私のこととはいえ、辛く苦しい話をしたくなかったこと。
 話の中で何回謝ったか思い出せないけれど、私の決めたとおりに一つ一つをしっかりと伝えていく。
 そして大体話し終えたところで一区切り置く。
 香耶が何か言おうとしてくるのを制して、さっきの話を、私にも待ち人がいることを話す。
 待ってくれている人がいるのが嬉しかったこと、友達に辛いままでいてほしくないこと。
 そこまで話して、一端話を止める。
 土壇場になって、最後の話を話そうとすればするほど、過去とは違う、ここでの楽しかった姉と妹との生活を思い出し話すのが辛くなってくる。
 涙をこらえながら、二人に別れを告げようとしたときだった。
 隣に座っている香耶が私の袖を引っ張って、私がそちらを見るより先に、私は抱きしめられた。
 私に抱き着き何も言わない香耶にどうすればいいか分からなくなる私。

「香耶もずっと心配していたからね、我慢が出来なかったのでしょう」

 海鈴が香耶の気持ちを代弁してくれる。
 心配をかけていたことは分かっているから、小さな頭を抱きしめ返してみる。
 すると、海鈴が席を立ち、こちらにやってきて、私を香耶ごと後ろから抱きしめる。

「さっき話していたお友達、穂乃花さんだったかしら、その子のところへ帰るのよね」

 今から話そうとしていた核心を海鈴は突いてくる。
 香耶も察していたのだろう、海鈴の言葉で更に現実味を帯びたのか、顔を押し付けられている辺りが、少し熱く濡れていく。
 私も香耶の髪に顔を埋め、二人に伝える。

「短い間だったけど、海鈴、香耶、ありがとう。二人のおかげで、私はこれからまた生きていける、だから、ありがとう」

 海鈴の腕に力が入り、香耶は全力で私を抱きしめる。
 暖かい二人の体温を感じながら、少しだけ涙腺が緩む。
 どうすれば戻れるかは分かっているから、最後の言葉を伝える前に二人の体温を、二人がくれた暖かい思いを心に刻む。
 どれくらいかは分からないくらい、香耶も落ち着いてきたところで、最後の言葉を伝える為離れてもらう。
 目を擦っている香耶に注意をする海鈴、二人の前に立つ。

「じゃあ……」
『桐里』

 二人の言葉で私が止まる。
 今になってもまた、それこそ何回だろうと思ってしまう、別れたくないと。
 だけど、二人が最後に言ってくれたから、私も言える。
 その時見た、まだ泣き顔が混ざっている香耶の笑顔と涙をこちらも堪え切れていない海鈴の微笑みを、私は生涯忘れることはないだろう……。

『行ってらっしゃい、桐里』
「海鈴、香耶……行ってきます!!」


 言葉が二人に届き、笑顔で別れを終えた瞬間、予想していた通りに意識は遠のき、目を開けた時には、私は最初の雲の上だった。
 雲の端まで行き、ゆっくりと下を覗き見てみる。
 相変わらず下は青く綺麗なままだ。
 時間はあまりなかった。
 どうやら太陽を遮ってくれていた大きな雲が消えかかっているらしい、隙間から日の光がこちらの雲にもかかってくる。
 私は明りに照らされる前に、穂乃花の笑顔を見る為に、雲の上から飛び降りた。


 体が重い、病室独特の苦手な空気が嗅覚を刺激する。
 知っている泣き声、握られている手の暖かな温度と流れ落ちる水滴。
 少し気怠いけど目を開けて、涙を流しながら驚いた顔をしている彼女に伝える。

「ありがとう」

 


 

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