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病めるときも

 

 
 

 女の子がよく、幼いときの将来の夢で語るようなもの。荒崎あらざき優音ゆねも、そんなことを願った時代があった。
 将来の夢はお嫁さん。
 優音はその夢を一度だって曲げたことがない。
 お嫁さんはお嫁さんでも、優音の行き先は決まっている。幼馴染みの彼苑かれその度流わたるのお嫁さんだ。もちろん、度流の同意も得ている。
 相思相愛。約束された未来は輝かしく、二人の幸せへの道を照らしていた。
 度流は優音のことだけを見ていてくれる。他の女の子になんて目もくれない。優音を不安にさせるようなことはなかった。何年経っても不慣れなままの携帯端末も、優音のためなら苦闘しつつ、ちゃんとメッセージを送るために使ってくれる。
 記念日があればどんな日だって祝ってくれる。プレゼントも、どんなに稚拙なものでも、優音のために選んでくれる。高級なものが欲しいわけじゃない。度流の心が、優音は欲しい。そのことをちゃんとわかったプレゼントをくれる。そのことが、たまらなく嬉しい。
 それでも、優音は時々、とんでもない不安に襲われることがある。度流が理想的であればあるほど、その不安は大きくなる。
 度流が、優音にばかり都合のいい「幻想ゆめ」であるような、そんな不安だ。優音の言うことだけを聞く装置のようになっているのではないか、自分がそのように度流を調整しているのではないか、などのとんでもない不安が募っていく。
 度流に問うことはできない。怖くてできたものではない。問いかけても、度流は「そんなことないよ」としか答えてくれないだろう。優音に操られていることすら、度流は肯定してしまうだろうから。
 それで満足なはずだった。優音は操っている自覚がある。自分から度流が離れていかないように、思考を染めて、操作している。自覚があるからこそ、不安になるのだ。自分が仕向けているだけで、度流の本当の心は自分を見ていない。それが事実と知るのが怖いから、優音は度流に聞けない。聞けないまま、恐怖だけが膨らんでいく。
 もうやめよう、とするには、優音は度流に執心していた。後戻りはできない。
 これは罰なのかもしれない、と優音は思った。想い人の心を縛った罰。自分の思い通りにばかり事を運んできた歪みが返ってきているのだ。それでも、度流を手放せない強欲への裁き。
 度流が優音を好きといえば言うほど、優音は苛まれる。それでも、やめられない。やめたくないから。

 

「優音ちゃん?」
 優音ははっと顔を上げた。隣で、度流が不思議そうな顔をしている。
 なんて無垢なことだろう。この表情も、優音の思い通りだ。そう気づくと、後ろめたさが溢れてくる。
「どうしたの? 顔色が悪いよ?」
「だ、大丈夫だよ、度流くん」
 少しどもってしまうが、度流は不自然に思わないだろう、と優音は微笑む。
 度流がじっと優音を見つめた。優音は緊張しながら、度流の藤色の目を見つめ返す。雨の日だからか、潤いに満ちていて、水面のようにうっすらと優音の姿を返す。
「優音ちゃん」
「どうしたの? 度流くん」
 度流は優音をまじまじと見つめたまま、ぐい、と優音に詰め寄る。
「何を隠してるの?」
「……え?」
「優音ちゃん、悩み事をしてる顔だよ。時々、そんな苦しそうな顔をするよね」
「そんなこと」
「あるよ」
 度流が、優音の顎をすいっと持ち上げる。優音は困惑した。度流はこんな強引なことをするだろうか、と。
「そりゃ、優音ちゃんだって人間なんだし、万事思い通りにいくわけじゃないこともあるだろうけどさ、……辛いことを打ち明けるのに、僕じゃ不足かな?」
「そ、そんなことない! ただ……」
「ただ?」
 やっぱり言えない。
「……ごめんなさい。これ以上は……」
 言いたくない、という言葉は、声にならずに消えた。
 度流はそんな優音をただ見つめる。
「そっか」
 度流の声に、優音はばっと顔を上げた。度流は優しく微笑んでいる。いつもの通りに。
 度流から、見捨てられたかもしれない。そのことに、凍りつくような思いがする。度流の温かい眼差しが、違和感を伴って、優音の思考を掻き乱す。
 そんな優音を安心させるように、度流は優音を抱きしめた。二人で差していた一つの傘を投げ出し、共に濡れながら。
 なんて温かいんだろう、と思うと、優音の頬を何かが伝う。涙か雨かはわからなかった。
「大丈夫だよ、優音」
 そんな囁きが聞こえて、優音は胸が熱くなる。同時に苦しくもなった。
 何も大丈夫じゃないよ、度流くん、と叫んでしまえればよかった。

 

 濡れて帰って、親がぎょっとした。
 優音は一所懸命、自分のせいだと説明した。度流の保護者にも。自分が突然走り出したから濡れてしまったのだ、と。
「どうして優音ちゃんは嘘を言うの?」
 度流のその一言で、場の空気が変わった。
 優音は困惑した。度流のためについた嘘が、度流によって暴かれるなんて、思ってもみなかった。度流は悪くないことを言いたかっただけなのに、どうして嘘をついてしまったのだろう、と気づくのと同時、頭が回っていないことにも気づく。いつもなら、不可解であっても「濡れたくて帰ってきた」と度流からの反論を食らわない理由を並べるのに。
「優音ちゃんがしんどそうなんです」
 度流は優音の背中に手を当て、恭しく撫でる。嘘を暴かれたことがショックなのに、その手が優しいせいで、優音は何も言えなくなる。
 黙りこくる優音を見て、家族も納得し、部屋で休みなさい、と優音を労った。
 部屋で一人、優音は泣いていた。どうして度流くんは優しいのだろう、と思う。
 嘘を暴かれたとき、詰られることを覚悟した。それなのに度流が言ったのは「優音ちゃんがしんどそうなんです」という、優音を気遣う言葉だった。
 度流の優しさを一瞬でも疑った自分が信じられなかった。どうして、度流が自分を詰ってくるなんて考えたのだろう。度流をそうしたのは自分なのに。
 とりとめのない思考ばかりがぐるぐると回る。頭の中を何回転もして、ようやく自分が疲れていることに気づいた。
 寝ようかな、と考え始めたところに、着信が入る。通話の知らせだった。なんと間の悪い。無視しようかな、と思ったところで発信元の名前が目に入った。画面には「度流くん」と表示されている。
「……度流くん?」
 優音は考えるよりも先に、電話を取っていた。よかった、と安心したような声が向こうから聞こえた。
「優音ちゃん、もう寝ちゃったかと思った。起きててよかったよ」
「今から寝ようと思っていたよ」
「服はちゃんと着替えた?」
 聞かれて気づく。着替えていなかった。
「濡れたから、風邪引かないように、と思って。具合悪いなら、お風呂に入るのは難しいよね。ちゃんと布団被って、温かくして寝てね」
「……お母さんじゃないんだから」
 優音はくすりと笑い、度流に返した。度流は本気なのか、からかっているのか、「子守歌でも歌おうか」なんて続ける。優音はこらえきれなくて笑った。
「優音ちゃんが笑った。ふふ、よかった」
「ありがとう、度流くん」
「ううん。優音ちゃんの悩みが晴らせなくても、僕にできることがあって、よかった」
 そんなことを考えてくれたのか、と優音は感動した。そんなこと、考えなくたって、度流の存在はいつでも、優音の心を温めるのに。
 変なやりとりしかできなかったせいで、そんな簡単なことを優音は忘れていた。度流がいてくれるだけで、自分は嬉しいのだ。確かに自分に都合のいい動きをしてくれるよう仕組んでいることもある。けれど、それは度流自身の行動全てを制限しているわけではない。
 度流は機械じゃない。操り人形でもない。優音になら、操られてくれる優しい子だけれど、ちゃんと「自分」がある子だ。呼んでほしい、と言ったわけでもない優音の名前を、場合に応じて呼び捨てにしてくれる。苦手なはずなのに、ちゃんと端末を操作して、優音に声を届けてくれる。自分で考えた言葉を届けてくれる。
「度流くん」
 一つ一つが愛おしくて、優音は度流に伝えたくなった。
「好きだよ」
「うん、僕も」
 度流はしっかり答えてくれる。
「好きだよ、優音。おやすみ」
「おやすみ」
 ああ、いい夢が見られそうだ。

 

 彼の紡ぐ私の名前は、どうしてこんなにも美しいのだろう。
 そんな幸せに包まれながら眠ったため、寝起きはとてもよかった。思ったより眠ってしまっていたけれど、家族が優音を叱りつけることはない。そもそも具合が悪いと言われていた優音だ。叱るなんてもってのほかである。
 ごはんも食べず、夜中まで眠っていた優音をリビングで母が出迎えた。
「優音、ごはんは食べられそう?」
「食べられるけど、眠れなくなりそうだよ」
「軽くでも食べておいた方が眠れるわよ」
 そう言って、果物を切ってくれる。優音は戸惑いながら、母の向かいに座った。
「ねえ、お母さん」
「どうしたの? 優音」
「私、度流くんのお嫁さんに相応しいかな?」
「なれるかじゃないんだ」
 優音からの少しずれた問いに笑う。優音は度流の嫁になることを疑っていないのだろう。微笑ましい。
「相応しいかどうかなんて、誰にも決められないわ。優音にも、度流くんにさえ」
「どうして?」
「それを決めるのは、あまりにも傲慢だわ」
 誰のどの立場においても、相応しいか、相応しくないか、という問題は角しか立たず、誰のためにもならない。何にもならないことを決めつけるのは、傲岸不遜である、と母は語った。
 優音は聞きながら、林檎を食べた。
「誰も幸せにならないことを考えるより、自分が幸せだな、と感じられることを選んだ方がいいわ。度流くんを見ていて思うけど、あの子はいつも、優音を見ているだけで幸せそうだもの。相応しいかどうかはわからないけれど、二人はお似合いだと思うわ」
「ふふ、さすが私のお母さん。求めていたよりずっといいこと言う」
「褒めても何も出ないわよ。それに、これは人生経験だわ。相応しいか、相応しくないかで肩肘張るより、ありのままで得られる幸せの方が、私も、私の大切な人も、苦しくないって気づいたの」
 苦しくない。それは幸せになることの第一歩だ。息苦しくては、幸せを感じられない。優音はすとんと納得した。何故、自分が苦しかったのかも、わかる気がする。
「ありがとう、お母さん」
「悩みは晴れた?」
「うん」
 複雑に考える必要はなかった。度流が優音との現状を受け入れている時点で、疑問など持つ必要はなかったのだ。
 難しく考えすぎてしまっていた。たとえ、度流を操っているとしても、それが後ろ暗いとしても、度流が微笑みかけてくれるうちは、それがありのままの幸せだ。
 悩みは晴れた。不安はあるけれど。
 林檎を食べ終えて、寝室に戻り、見るともなしに携帯端末を見ていると、度流からメッセージが来ていた。どうやら、優音が寝ている間にくれたようだ。
 明日の予定を聞くためのメッセージだったらしい。「具合が悪いの続くようだったら言ってね」とのことだった。度流はやっぱり優しい。そう実感しながら、優音は端末を閉じた。

 

 翌朝、優音は度流の家を訪ねた。すると、人はおらず、度流が留守番をしていた。
「優音ちゃん、いらっしゃい」
「お邪魔します。おじさんたちはお出かけ? よかったの?」
「うん。ちょうどいいと思って」
 何がだろう、と優音は思った。が、これはおうちデートというやつに入るのか、と考えたら、度流と二人きりの今の空間の方が都合がいいだろう、と納得した。
 度流との恋仲を隠しているわけではない。ロマンがあるかどうかの問題だ。
「ねえ、度流くん」
「どうしたの? 優音ちゃん」
 度流の部屋に案内されたところで、優音が声をかける。度流はいつものように笑っていた。
「度流くんはさ、私を好きだって言ってくれるけど、将来さ、結婚……とか考えてる?」
 性急な話だと、優音も思う。ただ、なんとなくオーケーのような気がしているだけでは、駄目な気がした。不安になるのなら、確かめておかねばならない。優音が操ったりしていない、度流の本音を。
 度流は少し驚いた顔をしてから、いつもの笑みに戻る。頬が少しだけ赤かった。
「優音ちゃんとずっと一緒にいるってことは、結婚もするし、いつか優音ちゃんが荒崎優音じゃなくて、彼苑優音になるっていうことだって……時々妄想してるけど、やっぱり照れくさいね」
「……!」
 彼苑優音。あまりに新しい響きで、優音は想像以上の大打撃を受けてしまった。度流は優音が思うよりずっと、優音との将来のことを考えてくれたらしい。
 口に出すと、とても恥ずかしいのだけれど、一体どうしてくれるのやら。優音は思わず、手近なクッションに顔を埋めた。恥ずかしくて、度流を直視できそうにない。
 顔に集まった熱が冷めず、顔を上げられないでいると、優音の髪を度流が優しく撫でる。
「ごめん。優音ちゃんが考えていたのと違ったかな」
「違わない。合ってる」
「そう? ならよかった。でも、どうしたの? 急に」
「急だったかな」
 優音の言葉に、度流は少し考えてから、首を横に振った。
「急じゃないよ。ただ、いつも優音ちゃんは自信満々だから……不思議だなって思った。ずっとずっと、永遠だよっていつも言うのは優音ちゃんだ。そこに迷いとか疑いなんて、微塵もないって思ってた」
 優音はぎくりとする。迷いや疑いでわけがわからなくなっていたのはつい先日のことだ。
 けれど、いつも度流に見えている優音の姿も真実だ。普段から、優音は度流との関係が永遠に揺らぐことはないと信じている。事実、多少のすれ違いはあっても、「別れよう」なんて言葉が二人の間に出てきたことはない。
「でも、そうだよね。優音ちゃんだって、不安になるときくらいあるよね。だからね、今日は僕が言うよ」
 度流がタンスから何やら取り出し、優音にふぁさ、とそれをかけた。純白のヴェールだ。
「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓います。
 君と永遠に共にあることを、誓います」
「度流くん……?」
「優音は? 誓う?」
 度流の微笑みに、優音は息を飲む。
 これは、結婚式だ。ヴェールを被っただけのままごとのような結婚式だけれど、度流は真剣で、大真面目だ。こんなに嬉しいことはない。――答えは決まっている。
「誓います」
「ありがとう」
 度流がヴェールを持ち上げる。優音は目を瞑った。
 柔らかく、一瞬だけ。口付けられた感触がして、目を開ける。度流は微笑んでいた。
「今は、二人の間でだけの誓いだけどさ、いつか、みんなの前で、誓おうね」
 何故だか、上手く頷けなかった。それでも、度流が優音を責めることはなかった。
 優音は他の誰のものにもしたくなかったのだ。この誓いを。だから、知られたくなかった。
 ごめんね、度流くん。それだけは。
「大丈夫だよ。誰にも祝福されなくたって――」
「優音ちゃん?」
 ああ、そうだ。いつもこんな気持ちで笑っていたんだっけ。
「私たちはきっと、永遠になれるから」
「……そうだね、優音ちゃん」
 同意して、優音を抱きしめる度流の腕の中で、優音は上手く笑えたような気がした。

 

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