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Vanishing Point Re: Birth 第4章

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前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

日翔の筋萎縮性側索硬化症ALSが進行し、構音障害が発生。
武陽都ぶようとに移籍してきたうえでもう辞めた方がいいと説得するなぎさだが、日翔はそれでも辞めたくない、と言い張る。
そんな「グリム・リーパー」に武陽都のアライアンスは補充要員を送ると言う。
補充要員として寄こされたのは秋葉原あきはばら 千歳ちとせ
そんな折、辰弥たちの目にALS治療薬開発成功のニュースが飛び込んできた。
近日中に開始するという。その治験に日翔を潜り込ませたく、辰弥と鏡介は奔走する。
その結果、どこかの巨大複合企業メガコープに治療薬の独占販売権を入手させ、その見返りで治験の席を得ることが最短だと判断する。
どのメガコープに取り入るかを考え、以前仕事をした実績もある「サイバボーン・テクノロジー」を選択する辰弥と鏡介。いくつかの依頼を受け、苦戦するものの辰弥のLEBとしての能力で切り抜ける四人。
しかし、辰弥に謎の不調の兆しが見え始めていた。

 

  第4章 「Re: Action -反応-」

 

 日翔あきとがソファでぐったりとしている。
「……日翔、休むなら自分の部屋で休んだ方がいいよ」
 三人分の紅茶を淹れながら辰弥たつやが日翔に声をかける。
《んー……悪ぃ、おやつ食べたら寝るわ》
 体を起こし、日翔がテーブルに置かれたプリンを見る。
《今日のおやつはプリンか》
「うん、鏡介きょうすけも食べると思って」
「助かる。卵と牛乳は栄養価も高いし吸収もしやすいからな」
 内臓をほぼ全て義体化している鏡介は普段効率重視で義体用のエナジーバーとゼリー飲料で食事を済ませている。だが、日翔以上に舌の肥えている彼なので時には真っ当な食事を摂りたいと思うこともある。
 だから比較的効率よく食べやすいゼリーやプリンといった物はありがたくいただくし最近は日翔の嚥下障害を恐れてか比較的飲み込みや消化にいいメニューが出されているので同じ食事を摂る日が増えた。
 日翔がスプーンを握り、プリンを口に運ぶ。
《うんまー! やっぱ辰弥のプリンは最高だな》
 美味しそうにプリンを頬張る日翔に辰弥が複雑そうな笑みを浮かべる。
 こんな、幸せな時間がずっと続けばいいのに。
 日翔が自分の料理を食べて、三人で依頼をこなして、何も変わらない日常が続けばよかったのに。
 だが、現実はそうではない。
 日翔に残された時間はあまりなく、それ故に千歳というノイズが混ざっている。
 どうあがいても覆すことのできそうにない現実に、心が痛む。
 ――なんとかして、治験の席を確保しないと。
 日翔を助けられるかもしれない唯一の道。筋萎縮性側索硬化症ALSの治療薬を確保することができれば、彼はきっと元気になる。
 そう信じなければ辰弥も足を止めてしまいそうだった。どうあがいても日翔を助けられないと言われてしまったらもう生きている意味すら失ってしまいそうだった。
 本来なら道は治療薬の確保だけではない。全身を義体化すれば日翔はALSを克服することができる。
 しかし、日翔は頑なにその道を拒んだ。「ホワイトブラッド穢れた血を体に入れるくらいなら死んだ方がマシだ」、と。
 義体化するには一部の例外を除き人工循環液ホワイトブラッドに体液を置き換える必要がある。一定期間ごとの透析も必要となる。そして、ホワイトブラッドはその名の通り赤い血液ではなく、白い液体である。
 それを不気味だ、穢れたものだと毛嫌いする人間もいる。義体化した者――ホワイトブラッドを体内に入れた者を化け物だと呼ぶ人間もいる。
 日翔もその一人だった。両親の影響とはいえ、彼はホワイトブラッドを「穢れた血」と呼び、毛嫌いしている。
 それは辰弥も鏡介も理解しているところだった。だからといってその認識を改めろ、とも言わなかったが。
 特に鏡介は自分が肉体の約半分を義体化している都合上どうしてもホワイトブラッドを利用せざるを得ない状態であることを日翔に隠していた負い目はある。
 上町府うえまちふにいたころ、まだ自分の右腕と左脚が生身だったころの鏡介は日翔に自分が身体の一部を義体化していることを打ち明けていなかった。
 はじめは打ち明ける必要性もなかったから何も言っていなかったが、日翔が反ホワイトブラッド思想を持っていることを知ってからは余計に打ち明けることができなくなってしまった。
 出会った頃こそは多少反発しあったものの辰弥が加入し、すばるが狙撃され、生死不明となったころには大切なビジネスパートナーとして背中を預ける関係になっていた日翔と鏡介。その状態で鏡介が義体だと知れば日翔は確実に離れていくだろう。
 そう思った鏡介は自分が義体を導入していること、ホワイトブラッドを身体に入れていることを告げないことにした。元々鏡介はハッカーということで後方からの支援をメインに行っている。怪我をしてホワイトブラッドのことが知られるということもない。
 しかし、いつかはバレてしまう、というものでとある依頼をきっかけに鏡介のホワイトブラッドの件は日翔に知られることとなった。
 木更津きさらづ 真奈美まなみの護衛依頼。鏡介の母親かもしれないという彼女の護衛の依頼で鏡介は彼女を庇い、撃たれてしまった。
 その場には日翔もいて、日翔の手助けを受けて鏡介は一命をとりとめたものの日翔は鏡介がホワイトブラッドを体に入れていることをここで初めて知ることとなった。
 目の前の、親友とも呼べる仲間が自分にそんな重要なことを隠していたという事実。
 その時は日翔も緊急事態で深く考えることはできなかったのだろう。
 ホワイトブラッドが気持ち悪い、そういう感情はあったようだがそれよりも鏡介を死なせたくない、その気持ちの方が強く、見捨てることはできなかったらしい。
 しかし落ち着いて考えてみるといくら身内であるといっても穢れた血を入れていることは事実である。だからといって距離を置くことはなかったがどうして、という思いは持っているようだ。
 どうして鏡介が、どうしてあんな穢れたものを、という思考が付いて回っている。それに気づかない鏡介ではない。
 それでも日翔が鏡介を見捨てられないのは単純に日翔がお人好しで、そして何年も生死を共にした仲間をいきなり切り捨てることができなかっただけだろう。
 鏡介としても日翔のためを思うなら自分から去るという選択肢を取るべきだ、とも分かっている。
 だが、鏡介もその選択肢を取ることができなかった。
 今、自分が日翔の前から去れば残されるのは辰弥と日翔の二人のみ。確かに二人だけで――いや、千歳を交えた今なら三人だけで依頼をこなすことも可能だろう。
 それでも、鏡介のサポートがあって今までを乗り越えてきた辰弥たちがそのサポートなしで激化していく「サイバボーン・テクノロジー」からの依頼を完遂できるとは思えない。御神楽を相手に、辰弥たちが生き延びられるはずがない。
 それに日翔のALSはもう末期に近い。現場に立てなくなる日もそう遠くない。
 そうなれば辰弥と千歳だけで戦わなければいけない。
 そこに、自分がいなくてどうする、と鏡介は考えていた。
 自分一人がいなくなるだけで「グリム・リーパー」が壊滅するという考えは少々自意識過剰かもしれない。それでも鏡介がいて、三人揃って成り立ってきたのは事実だ。
 だから、日翔を見捨てられない。辰弥を生存させるためにも。
 日翔はもう助けられないと諦めて辰弥と二人で彼を見捨てることもできる。
 しかし、そんなことは鏡介のプライドが許さなかった。
 自分は仲間のために戦っている。そのために自分の命を棄てることは惜しくない。辰弥の時も、辰弥と日翔だけはという思いであのような無茶をした。
 自分の生存よりも、辰弥と日翔の命の方が大切で重いものだという意識が鏡介にはあった。もう既に自分の人生は全うしている。あの、騙されて内臓を抜かれたあの日に。
 それでも生きているのはたまたま師匠が自分を拾い、憐れんで義体にしてくれたからだ。だから自分は自分が大切だと思っている存在のために生きるし、死ぬ。
 そんな思いがあって、日翔を見捨てられるはずがなかった。
 ――日翔は必ず助ける。辰弥と二人で。
 日翔がいくら「もういい」と言ったとしても、希望が残っている限り手は伸ばす。
 その希望が潰える可能性は、今は考えたくない。
 それとも――もし、薬が効かない、日翔は助けられないとなった場合、自分はどうするのだろうか。
 そう考えて、鏡介はちら、と自分の右腕を見た。
 現場でも辰弥と日翔をサポートできるように、と装着した戦闘用の義体。
 この出力なら――日翔を殺せる。
 ALSでの死は基本的に呼吸筋が弱まることによる窒息である。終末期は人工呼吸器も使用するがそれでも暫くの延命にしかならない。
 もし、日翔を助けられないとなったら、自分は日翔を殺すかもしれない。
 これ以上の苦しみを長引かせないために。
 これ以上日翔の苦しむ姿を見ないために。
 そうやって、辰弥に殺されるのも構わない、と思う。
 「グリム・リーパー」らしい終わりじゃないか、とも思う。
 鏡介としてはもし日翔が助からなかった場合、日翔も自分も死んで、辰弥一人が生き残れば大勝利だという意識があった。
 今の辰弥なら一人でもきっと生きていける。そのための生活能力も与えたし彼の料理スキルならどこでも通用する。
 いや、それではいけない、と鏡介は内心首を振った。
 日翔が助からない可能性を考えてはいけない。今は治験の席に割り込ませ、回復することを信じるべきである。そうしなければ最悪の事態ばかり考えてしまう。
 ――そうだろう、辰弥。
 日翔を助けると決めたから、今ここにいる。
 そう決めたなら、それだけを考えるべきだ。
 苦笑して、鏡介はプリンを口に運んだ。
《鏡介、どうした?》
 苦笑した鏡介に日翔が声をかけてくる。
「いいや、なんでも。ここ暫くの依頼のことを考えていただけだ」
《『サイバボーン・テクノロジー』のか? なんか、金回りがいいから受けてるって言ってたが別にそんな無理しなくても》
 日翔はまだ何も気づいていない。その反応にほっとした鏡介がまあな、と小さく頷く。
「だが、お前もなるべく早く完済したいだろう。それに……俺の見立てではお前が現場に立てるのはあと三回くらいだと思っている」
《何を、俺はまだまだいけるぞ》
「そう思っているのはお前だけだ」
 そう言い、鏡介がちら、と辰弥を見る。
 辰弥も小さく頷き、プリンの皿をテーブルに置いた。
「本当はその三回も立ってもらいたくない。返済は俺と鏡介が代わりにするから、日翔は――」
《バカ言うな》
 辰弥の言葉を日翔が遮る。
《こうなったのは全部俺の責任だ。お前らが背負う必要なんてねえんだよ》
 プリンを貪りながら日翔が返す。
《テメエのケツはテメエで拭けって言うだろ。そこにお前らが付き合う必要はねえし俺だって借金残して死ぬ気はねえ。だから無理して付き合う必要はねえんだよ》
 何だったら俺一人で依頼を受けてもいい、と続ける日翔に辰弥が口を開いた。
「もうやめて。そこまでして日翔が自分の命を削る必要はない」
 もっと自分を大切にして、と辰弥は日翔に訴えた。
 しかし、辰弥のその言葉は日翔が苦笑で否定する。
《辰弥、それ、ブーメラン》
「……っ」
 日翔の「それはお前にも言えることだ」という意味のスラングに、辰弥が身をこわばらせる。
 プリンの最後の一口を口に運び、日翔が笑う。
《お前こそ、俺のために自分の命を削る必要はねーよ。お前は、俺なんかを気に掛けずに幸せになるべきだ》
「日翔……!」
 辰弥がよいしょ、と立ち上がる日翔の名を呼ぶ。
「俺と日翔は違う! 日翔はもっと生きるべきなんだ。俺は、俺は……。俺なんて、ただ人を殺すために造られた生物兵器、兵器なんて使い捨てられてナンボのものなんだよ! そんな俺が、自分の命を削らなくて、何しろって言うの!」
《辰弥》
 日翔が辰弥の前に立つ。
 辰弥に手を伸ばし――そっと抱き寄せる。
「日翔……!」
 嫌だ、日翔が死ぬなんて嫌だ、と駄々をこねる子供のように繰り返す辰弥の背中をポンポンと叩き日翔が苦笑する。
《お前、ほんっと、素は子供だよな》
「だって、俺……七歳だよ? 君から見たら子供なんでしょ?」
 いつもなら「子供扱いするな」と言う辰弥が珍しく自分が子供であることを認める。
 いつもこれくらい聞き分けが良ければいいのに、と思いつつ日翔は言葉を続けた。
《お前はお前だ。生物兵器として開発されたのかもしれないが、今のお前は一人の人間だ。いつまでもそんな呪いにとらわれる必要はねえ》
「でも……!」
《だからそんな悲しいことを言うな。俺は今のままで充分幸せだし、お前にも幸せになってもらいたい》
 そんな辰弥と日翔のやり取りを鏡介は黙って見ていた。
 自分の思いも同じだ。
 辰弥にも、日翔にも幸せになってもらいたい。
 できればこんな日々が続いてほしい。
 だから、今はたとえ「サイバボーン・テクノロジー」の飼い犬という苦汁を舐めることになったとしても耐えるしかないのだと。
 そう、考えていたら鏡介に通信が入る。
 発信者を見ると暗殺連盟アライアンスのまとめ役。
 普通、依頼があれば連絡担当のメッセンジャーがデータチップを持って来訪するはずなのでまとめ役が連絡を寄こしてくるとは珍しい。
 上町府にいた頃もまとめ役の山崎やまざき たけるとはたびたび連絡を取ることはあったもののそんな頻繁に話し合うことはなかった。尤も、猛が辰弥たちの住むマンションの管理人であったため住居絡みでの話――特に主に日翔によって壁などを損壊してしまい、「うち、賃貸なんですけどねぇ」とお小言をもらうようなことはそれなりにあったが。
「悪い、まとめ役から連絡が入った」
 鏡介が辰弥と日翔に断りを入れ、回線を開く。
《ああ、水城さんこんにちは》
 鏡介の視界にまとめ役の顔が映し出され、挨拶する。
 それを会釈で返し、鏡介は用件を尋ねた。
「まさかそちらから連絡が来るとは思っていなかったのですが」
 依頼ですか? と聞くとまとめ役は「まぁ、そうですね」とやや言葉を濁しがちに頷いた。
《本来ならメッセンジャーを介するのですが少し極秘の案件でしてね》
「極秘案件ならもっと信頼がおけるチームに振り分けると思いますが?」
 まとめ役からの直接の依頼。しかも極秘案件。
 本来なら情報が漏れないようにまとめ役が最も信頼を置くチームに話を持っていくはずだ。自分たちのような武陽都ぶようとに来たばかりのチームに投げるような案件ではない。
 それとも、自分たちでなければいけない理由がある……?
 それはそうですね、とまとめ役が認める。
《今回は他のチームに情報が洩れてほしくないのです。そう考えると『グリム・リーパー』が適任だと思った次第です》
「つまり――」
 今回のターゲットはアライアンス内部ということか。
 アライアンスのチームは時折合同で依頼に臨むこともあるため横のつながりは強い。それを考慮すると武陽都のアライアンスに所属して間もない「グリム・リーパー」にそのつながりは存在しない。つまり、アライアンス内部で情報が漏れることはない。
 移籍した時点で覚悟していたことが実現し、鏡介はため息を吐いた。
 アライアンスとて一枚岩ではない。チームによっては巨大複合企業メガコープに買収されて他のチームを売ることもある。
 そういった場合の制裁は大抵の場合――アライアンスによる粛清。チームメンバーを誰一人生かさず、殺し、隠し、闇に葬り去る。
 そういった汚れ仕事専門のチームがあるわけでもなく、大抵はどこかのチームが貧乏くじを引く。その貧乏くじが「グリム・リーパー」に回ってきただけだ。
「信用はないが横のつながりもない『グリム・リーパー』が適任ということですか。まあいい、今更汚れ仕事は嫌だとは言いません」
 それにここで実力を見せつけておけば他のチームもちょっかいをかけてくることはないだろう、と鏡介は考える。
 そうですね、とまとめ役は頷いた。
《今回お願いするのはチーム『フィッシュボーン』の粛清です。どこかに情報を流していたらしく、既に複数のチームが妨害に遭っています》
「……分かりました。『フィッシュボーン』の詳細などはどうやって」
《ああ、後で私の方から送ります。情報部から情報は入手していますがどこから『フィッシュボーン』に漏れるか分かりませんからね》
 はい、と頷いて鏡介が通話を終了する。
「おい、辰弥、日翔、依頼だ」
 短くそう言い、鏡介は二人を見た。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

「……で、どうして秋葉原あきはばらがここにいるんだ?」
 三日目夜日、鏡介が眉間に皺を寄せてそう口を開く。
「どうしてって、鎖神さんにご飯に誘われたからなんですけど」
 もぐもぐと焼き魚を口に運びながら答えるのは千歳ちとせ
 そう言われてから鏡介がそうだった、と内心頭を抱える。
 「やっぱりチームメンバーだから親睦は深めた方がいいと思って」と辰弥が自分の手料理を振舞う食事会を企画を失念していたのは鏡介である。二日目昼日に鏡介が辰弥と日翔に「依頼が来た」と話した際に辰弥が「ちょうどいいや」と呟いていた理由はそれなのか、などと考えながら鏡介も焼き魚を口に運んだ。
 この時期が旬だからと鯖の塩焼きが食卓に並んでいるが、「秋葉原を招いて食事会にするならこんな地味な家庭料理ではなく洋食にすればよかったんじゃないのか?」という考えも鏡介の脳裏を過る。しかし旬だからこそ辰弥もこのチョイスにしたのだろう。
「鎖神さん、このおひたし美味しいです」
 美味しそうに料理を口に運び、千歳が辰弥を褒める。
「ありがとう。腕を振るった甲斐があるよ」
《割りにありがちな家庭料理だと思うんですけどー》
 ちまちまと鯖の小骨を取り除きながら日翔がぼやく。
「秋葉原、一人暮らしで外食とか合成食が多いって言うからさ。それなら家庭料理の方がいいかと思ったんだよ」
 なるほど、と鏡介が頷く。そこまでの配慮ができるようになったのだから辰弥も「人間として」かなり成長したものだ、と思う。
 いやいや、そんなことを考えている場合ではない。これから依頼の打ち合わせがある。
 まとめ役からもかなり秘匿性の高い依頼と言われていたので対面で打ち合わせをした方がいいかと考えていた鏡介だが、このタイミングで千歳が家にいるのならさっさと済ませてしまった方がいいだろう。
「とにかく、飯を食いながら打ち合わせを済ませてしまおう。今回はアライアンスからのホットラインだ」
《マジかあ……ってか、飯食ってからにしようぜ。飯がまずくなる》
 お、この鯖うめえなあ、などと会話に混ぜながら日翔が提案し、鏡介も小さくため息を吐く。
「……そうだな。折角辰弥が作った料理だ、食べてからにするか」
 辰弥が食材を丁寧に扱っているということはよく知っている。勿論、食材に対する感謝、敬意といったものがあるのも分かっている。
 それを無視して食事中に打ち合わせをするのは確かによくないかもしれない。
 鏡介も頷き、暫くは静かに、それでも時折料理に対する賛辞が上がりながら食事が進んでいく。
 その食事が終了し、デザートに出されたガトーショコラも全員の胃袋に入ったところで鏡介が改めて口を開いた。
「秋葉原も来ているからちょうどいい。いくら秘匿回線でも相手にウィザード級がいれば盗聴くらいは不可能ではないからな」
《ウィザード級がそんなごろごろいてたまるかよ。まぁ、でも用心するに越したことはないからな》
 日翔の言葉に辰弥も頷く。
 鏡介の腕は認めている。しかし、ネットワークほど誰がどこでどう干渉してくるか分からないものを信じるわけにはいかない。
 鏡介の用心も納得できる。元々オフラインで打ち合わせをするつもりだったのならわざわざ呼び出すよりも偶然一同が揃うことになった今回の食事会を利用するのは賢明な判断だろう。
「……で、依頼の内容は?」
 辰弥の言葉に鏡介がああ、と頷く。
「『フィッシュボーン』の粛清だ。どうやらどこかに情報を流しているらしく、既に被害に遭ったチームもいくつかあるらしい」
《なるほど》
 日翔が頷く。
《ってことは、今回は『サイバボーン』絡みじゃないんだ。ゆるくやれるな》
 いくら相手がアライアンスのメンバーであったとしても顔馴染みではないし鏡介のサポートとLEBである辰弥の戦闘能力、日翔の怪力、千歳の体術の敵ではない。それに寝込みを襲えば楽な仕事である。
 それは辰弥も思ったようで、「そうだね」と頷きつつ日翔を見ていた。
《なんだよ辰弥》
「それさ……思ったんだけど、今回、日翔を後方支援に回せない?」
「はぁ!?!?
 辰弥の提案に日翔が思わず声を上げる。
 GNSでの会話に慣れてきたとはいえこの程度の声は出せるということか。
《ちょっと待てよどういうことだよ》
 憤慨した日翔が抗議する。
「別に君の分け前なしって話じゃないよ。今回は寝込みを襲うだけだから俺たちがドジらない限り俺と秋葉原だけで回した方が効率いいって話。君は後方で待機して何かあったら駆けつけてくれればいい」
 うむぅ、と唸る日翔。
 いくら報酬を分けてもらえると言っても何もなければ何もせずという状態でいるのはもどかしい。それに、鏡介の見立てでは日翔が現場に立てるのはあと三回。その一回をこんなことで消費していいのか。
 それに――。
(最後まで辰弥の隣に立ちたいじゃん……)
 GNSの通話に乗せず、日翔は思っていた。
 日翔にとって辰弥はかけがえのない仲間であり親友だ。「自称」保護者も辰弥の実年齢が七歳という時点で自称ではなくなってしまった。
 だから、日翔としては自分が現場に立てなくなるその時まで辰弥と共に、辰弥の隣に立って戦いたかった。
 そんなわがままが通せる状況でないことは理解している。今はまだ依頼に大きな影響は与えていないが作戦中によろめくこともある。それを考慮すれば日翔が現場に立たなくても回るような依頼に彼を無理に現場に立たせる必要はないのである。
「日翔、辰弥の言う通りだ。お前に予測不可能なインシデントが考えられる以上、お前抜きで回せる依頼には立たせたくない」
《だが――》
 相手はアライアンスの一員だぞ? 一般人じゃないぞと反論する日翔に、千歳が笑いかけた。
「天辻さん、大丈夫ですよ。私が鎖神さんを守りますから」
 日翔にとっては屈辱的な言葉。
 今までの自分の立場を奪うという宣言にも聞こえる。
 きり、と日翔の奥歯が鳴る。
 どうして俺はALSになってしまったんだという怒り。どうして思うように動けないんだという焦り。
 日翔自身も分かっている。自分がALSを発症しなければ暗殺者になることもなかったということくらいは。ALSを発症しなければ、自分は今も両親と共に表社会で生きていたはずだ。もしかすると、大学に通っていたかもしれない。とはいえ、反御神楽思想に染まっていた両親が一番学費が安くつく御神楽系列の大学に通わせてくれたとは思えないが。
 とにかく、ALSが発症しなければ日翔は暗殺者になることはなかったし、そうなると鏡介や辰弥と出会うこともなかった。そう考えると辰弥や鏡介というかけがえのない親友仲間を得られたのはALSのおかげだとも言えるが、その結果が仲間の足を引っ張るということでは本末転倒である。
 悔しいが、辰弥の言う通りであるし千歳の言葉に頼るしかない。
 ここで無理に連れて行けと言ったところでウィザード級ハッカーの鏡介のことだ、当日、日翔にHASHハッシュくらい送り込みかねない。
 そう考えると鏡介にGNSを握られるのは怖い話だよなと思いつつ日翔はため息を吐いた。
《……わーったよ……現場は辰弥と秋葉原に任せる。だが何かあった時は俺を呼べよ、すぐ駆けつけるから》
「そんなヘマするほどへぼい暗殺者じゃないよ、俺は」
 分かっている。辰弥がそんなに弱い暗殺者でないということくらいは。腕力の瞬間出力で言えば日翔の方が上かもしれないが辰弥にはまだ隠されたポテンシャルがある。あの、ノインとの戦いの際に「本当に辰弥か?」と思いたくなるような力を発揮していたところもある。持久力こそ低いがそれも武器生成で血液を消費したが故の貧血が原因だと考えればトランス能力をコピーした今それもかなり改善されているだろう。
 そう考えると辰弥は現在進行形で成長している。それも、完成された兵器として。
 そんな辰弥をどこかの組織が認知してしまえば確実に狙われる。御神楽辺りは危険因子として排除しようとするかもしれないが、それ以外の組織なら確実に自分の勢力として支配下に置こうとするはず。
 それだけは避けたい。折角御神楽の監視から逃れ、自由となった辰弥に首輪を付けるわけにはいかない。辰弥が望むがままに、生きていける道を用意したい。
 それが暗殺の道かと思うと複雑な気持ちはあるが辰弥本人はそれでいい、と言う。
 日翔と鏡介が暗殺の道から外れない限り、共に歩く、と。
 暗殺の道から外れる、それは少なくとも日翔には不可能なことだった。鏡介はまだ外れる余地はある。詳しくは知らないが鏡介を保護しハッカーとして鍛え上げた「師匠」とやらは正義のためにその力を振るう正義のハッカーだったらしい。鏡介もそうなるべく鍛えられたが何の因果か正義とは真逆の、悪意あるハッカークラッカーとして日翔の隣にいる。それでも病院やライフラインに関わる場所へのハッキングは基本的に行っていないからそこは多少の正義感があるということなのかもしれない。
 その点、日翔は完全に暗殺の道から外れることができない運命を背負っている。
 強化内骨格インナースケルトンの導入費用の返済が終わっていない。終わったところで残された時間はほとんどない。いや、場合によっては完済できずに力尽きることも考えられる。
 だったら最期まで暗殺者として生きる、そう決めたのは日翔自身だ。だから暗殺者の道からは外れない。
 それが辰弥を別の道に行かせない理由となっていることは分かっていたが、日翔にはもう時間がなかった。仮に借金を誰かが返済してくれて足を洗うことができたとして一般人として生きることができる時間はごくわずかだ。そんな半端な時間を生きたところで何にもならない。
 それに、日翔は自分が死ねば辰弥も鏡介も自分という枷から解放されるからその時に足を洗えるだろうという考えがあった。もう暗殺者としてチームを組む理由がない。辰弥には料理というもう一つの特技があるし鏡介だって本来あるべき道に戻るべきだと思う。
 最後に言葉が遺せるなら、二人に言いたかった。
 「俺のことを引きずらずに一般人に戻れ」と。
 一般人になってしまえば万一御神楽に見つかったとしても敵対せずに済む。辰弥の能力がどこかに知られる前に裏社会から姿を消せばもう誰にも見つけられない。
 だから、いつまでも自分のことを引きずって暗殺の道を歩くな、と日翔は言いたかった。
 ただ、今だけは自分のわがままを聞いてほしい、とだけ思っていた。
 あと少しなのだ。借金の完済まで。それさえ終われば、あとはどうなってもいい。
 そう思っていたから辰弥の「へぼい暗殺者じゃない」という返事は辛かった。
 無理をさせる、という思いともう隣に立てなくなりつつある自分の無力さ。
 今の辰弥には千歳という新しいメンバーがいる。日翔が相棒というポジションを去ればそこに千歳が収まるのだろう。
 悔しい、というのが日翔の正直な気持ちだった。
 ただ、いつまでも考えていたとしても仕方がないし、いじいじ考えるのは自分のキャラではない。
 気を取りなおし、日翔ははいはい、と頷いた。
《ま、無理はすんなよ》
 そう言って、話を再開する。
「今回の依頼としては『フィッシュボーン』の粛清だが、チーム構成員の全員を一人残らず確実に仕留めろ、とのことだ」
「……了解。まぁ、多分、できると思うけど」
「そうですね、よほどのことがなければ大丈夫でしょう」
 千歳も頷く。
 まぁ、むしろ日翔が後方待機でこの二人が現場に出るなら大丈夫だろう、と鏡介が自分に言い聞かせる。
「幸い、『フィッシュボーン』も俺たち同様チームで同居しているらしい。うまく襲えば一網打尽にできる」
「それは楽ですね。確かに天辻さん抜きでもできそうです」
《うわ、痛いこと言ってくれるな》
 千歳の歯に衣着せぬ物言いに日翔が顔をしかめるが事実なのでそれ以上は何も言わない。
 辰弥もそうだね、と頷き、鏡介を見た。
「作戦としてはいつ実行するの?」
「まぁいつ『サイバボーン』から次の依頼が来るかも分からないし時間をかければ相手に察知される可能性もある。とはいえ準備が必要だな……しかし……」
「準備も色々ありますし、次の三日目夜日ということですか?」
 「準備が必要」という言葉に千歳がそう確認するが、鏡介は首を振って否定する。
「いや、向こうの情報入手ルートは確かなものだ。一巡も与えれば自分たちの裏切りがバレていることをどこからか察知して逃げられる可能性がある。折角全員集まってるんだ。今から向かう」
《マジですかい》
 折角辰弥のうまい飯を食ったばかりなのに今から襲撃かよー、と日翔がぼやくがそんな悠長なことを言っている場合ではない、ということは日翔本人も分かっていた。
 今回は離れたところでの後方待機となるがそれでもできることはあるだろう。
 じゃあ、行きますか、と日翔は真っ先に席を立った。

 

 チーム「フィッシュボーン」のセーフハウスは大通りから外れた、人通りもほとんどない路地裏に入り口のあるマンションだった。
 フロントオートロックも実装されていない、古びた建物。
 薄暗い共有スペースを通り抜け、該当の部屋の前に立つ。
 ここ? と辰弥が確認し、鏡介がそうだ、と答える。
 ロックは手の平の静脈認証という少し時代遅れのもの。辰弥がパネルに手を触れた瞬間、鏡介がGNS経由で辰弥の体内電流を介し欺瞞用の波長をセンサーに通し、ロックを解除する。
 カチリ、とロックが解除され、辰弥と千歳が室内に踏み込む。
Bloody BlueBB、調子はどうだ?》
 鏡介の言葉に辰弥が「大丈夫」と答える。
(侵入できた。ただ――人の気配がしない)
 言葉を口に出さず、辰弥が状況を説明、そろそろと暗い室内を進む。
 室内は暗いが夜目は利くので室内を歩くのに苦労することはない。
 千歳も暗視装置を使用し、辰弥について歩いている。
《BBさん、見えるんですか?》
 暗視装置も使用せずすたすたと室内を歩く辰弥に千歳が声をかける。
(え? うん、普通に見えるけど)
 特に意識していなかったが、よくよく考えれば普通の人間なら歩くのに苦労するレベルの暗さである。それを暗視装置もなく歩いているのだから千歳も不思議に思うのだろう。
 実際のところ辰弥には「生物の特性をコピーする」という「原初」のLEBとしての能力がある。研究所時代に実験の一環として様々な生物の血を飲まされた経験もあり、その結果、夜目が利く生物の特性もコピーしてしまっていたのだろう。
 いくつかの部屋を確認し、中に人がいないことを確認する。
 おかしい。この時間帯、誰もが寝静まっているはずなのに誰もいない。
 アライアンスからの情報では今は依頼が入っていない、完全にフリーな状態のはず。
 どういうことだ? まさかこちらの情報が漏れていた? それほど彼らは綿密な情報網を持っている? そんな考えが脳裏を過る。
 しかし、それ以上考えることはできなかった。
 ちりちりと産毛が逆立つような不快感が背筋を走る。
 咄嗟に辰弥は千歳を突き飛ばした。
「きゃっ!?!?
 千歳が声を上げながらも転倒しないように踏みとどまり、即座にデザートホークを構える。
「BBさん!?!?
 その声をかき消すように響く銃声。
 腕を硬質化させて銃弾を弾き、辰弥も後ろに向かって発砲した。
「待ち伏せしてた? こっちの情報漏れてたの!?!?
《バカな、あの打ち合わせからこのタイミングだぞ!?!? 情報が漏れるわけ》
 鏡介も驚愕の声を上げる。万一の盗聴を警戒してオフラインでの打ち合わせを行い、その情報が漏れないように即座に行動したはずなのに何故彼らは待ち伏せしていた?
 そう考えると可能性は僅かしかない。
 そもそも、自宅に盗聴器が仕掛けてあったか「グリム・リーパー」の誰かが情報を漏らしたか。
 しかし、自宅は定期的に盗聴器チェックを行い、クリーンな状態にしている。つい数日前もチェックしたばかりだ。誰かが情報を漏らしたにしても誰もあれから通信した記録がない。
 それとも、チェックが漏れるほど巧妙に隠された盗聴器があったのか、それとも通信ログを残さない秘匿回線を誰かが持っていたのか。
 いや、そもそもグリム・リーパーが暗殺を担当することを知られていなければ諜報を仕掛けることも不可能なはずだ。
 だが、今はそんなことを考えている暇はない。辰弥と千歳は交戦状態に入っている。
 GNSで共有している辰弥の感覚感度を最大に上げ、鏡介が屋内の状況を探る。
《二人か――一人足りない》
 鏡介の言葉が辰弥の聴覚に届く。
「一人足りない!?!? どういうこと」
 どういうこともない、待ち伏せしていたのが恐らくは配下の二人、リーダー格が逃げたのだろう。
 そう遠くへ行っていないはずだが、と言いつつも鏡介が二人をアシストする。
 千歳の銃弾が一人を撃ち抜く。
《一人は殺すな、リーダーの所在くらい知っているはずだ!》
 了解、と辰弥が床を蹴った。
「BBさん!?!?
 千歳が声を上げる。
 いくら何でも無謀すぎる。こちらが現在手にしているのはハンドガン、対して相手はアサルトライフルを手にしている。弾幕を張られれば無傷で済まない。
 しかし辰弥は飛来する銃弾をものともせず風呂場から身を乗り出して射撃するメンバーに突進した。
 全身を硬質化すれば銃弾は豆鉄砲を喰らった程度の痛みしかない。それに辰弥は痛みに対しての耐性が高い。
「こいつ、化け物か!?!?
 確実に銃弾は受けているはずなのに突進してきた辰弥に声を上げたメンバーだったが、直後、殴り倒されて昏倒する。
鏡介Rain、伸したよ」
 涼しげな顔で辰弥が報告する。
「伸したよって……怪我はないんですか!?!?
 千歳が辰弥に駆け寄る。ジャケットもパンツもところどころ被弾しているように見えるが出血しているように見えない。
「え、あ、ああうん、大丈夫」
 手際よく生成した結束バンドでメンバーを拘束し、辰弥がうなじのGNSボードからケーブルを引き出す。
「リーダーの居場所を突き止めるって?」
《ああ、GNS経由ならGPSくらい――》
 鏡介がそう言っている間にも辰弥が意識を失っているメンバーのGNSポートにケーブルを接続する。
 辰弥の視界内でいくつかウィンドウが開き、鏡介が接続を開始した。

 

 辰弥のGNSを介して鏡介が相手のGNSのストレージにアクセスする。
 単純にリーダーの居場所だけを探るのであればストレージにアクセスする必要はない。連絡先経由でGPSを探ればいい。
 それなのに鏡介がストレージにアクセスしたのには理由があった。
 「フィッシュボーン」がどことつながっているかは突き止めておきたい。
 ストレージに蓄積されたデータの山を掻き分け、連絡先を探す。
 たとえ秘匿通信であったとしても鏡介の手にかかればその相手を突き止めることくらいは造作もない。
 鏡介の眼が一つのメールを捉える。
 それはアライアンスが現在請け負っている依頼の一覧をどこかに転送しているもの。
 転送先を検索する。
 最終的な転送先を欺瞞するかのようにメールは複数のメールサーバに送られ、そこからさらに別のサーバへと転送されているが鏡介はそれをa.n.g.e.l.エンジェルの探索も利用して洗い出す。
 ほとんどのサーバは無関係な人間のGNSやPC等に迷惑メールのような形で転送して終了していた。 だが、よくよく調べると、その無関係の人間、全員が同様のセキュリティソフトを採用しており、そのセキュリティソフトは特定の条件を満たすメールを開発元会社のデータベースに転送しているようだった。
 そんな設定聞いたことがない、とセキュリティソフトの開発元を調べると、そこはとある組織がペーパーカンパニーとして利用していることを以前に調べていた企業だった。
 その組織とは、「カタストロフ」。
 やはり、こいつらは「カタストロフ」とつながっていたのか。
 そのペーパーカンパニーのデータベースを見ると、「フィッシュボーン」が「カタストロフ」に情報を流し、報酬を得て時には妨害工作を、時には他のチームの援護を行っていたことが巧妙に隠蔽されて記録されているのが分かる。
《まだ突き止められないの?》
 辰弥が鏡介を急かしてくる。
 まだ遠くには行っていないはず、という無言の圧力に鏡介は「待て」と答えた。
(詳細な所在地が掴めない。もう少し待ってくれ)
 実際、同時進行でリーダーの所在地を追っているが、大体の位置は掴めど正確な座標が分からない。
 どうやら様々な電波が干渉してGPSに影響しているらしい、そう考えると追跡できたとしても一時的に通信が不安定になるかもしれない。
 なるべく正確な位置が出せるようにと調整をしながらも鏡介はさらにメールを確認した。
 「カタストロフ」は「榎田えのきだ製薬」に協力してALSの治療薬の独占販売権を獲得させようとしている。それについての依頼もいくつか存在し、鏡介はなるほどと呟いた。
 ――アライアンス的には中立だが、「榎田製薬」と「サイバボーン」両方の依頼を受けているということか。
 見ているうちに、先日自分たちが「サイバボーン・テクノロジー」から受けた「カグラ・メディスン」の襲撃についての言及を発見する。
 曰く、その日程で「カタストロフ」本隊からチームを派遣する、とのこと。
 ――そうか、あの時あいつらが割り込んできたのは俺たちが襲撃することを見越してその火事場泥棒を狙ったのか。
 最終的には自分たちが火事場泥棒のような形で離脱することに成功していたから、「カタストロフ」としては痛手だったかもしれない。こればかりはこのチームの情報漏洩に感謝してもいいかもしれない。
 しかし、「フィッシュボーン」と「カタストロフ」のやり取りはこれだけではなかった。
 メールを見ているうちに、鏡介の目が止まる。
「……『カタストロフ』は……LEBの情報を追っている……?」
 メールには「上町府の『グリム・リーパー』がLEBについて何か知っているらしい、最近武陽都に移籍したから監視して随時報告せよ」と記載されている。
 それだけではない、LEB研究のため、御神楽第一研究所の所沢ところざわなる博士を「カタストロフ」に招致したと言う。
 何故だ。何故、「カタストロフ」はLEBを追っている?
 いや、「カタストロフ」がたけるの話でLEBの存在を知り、追い求めているという可能性は辰弥が死んだと思われていた時に聞いていた。
 あの時は、雪啼ノインを引き渡すつもりだったのかと訊いて、「それは要件になかった」と言われていたが、このメールを見る限り、「カタストロフ」がLEBとは何だ、という興味だけで調べているとは思えない。研究所はトクヨンが完膚なきまでに叩き潰している。研究データはどこかに残っているかもしれないが、優秀な研究者がいなければ解読することも作り出すこともできないだろう。
 そう考えると「カタストロフ」はサンプルを欲するはず。いや、辰弥の生存は知らないはずだがトクヨンの管理下に置かれていない、はぐれのLEBがまだ存在すると思っていて、回収しようと考えているのか。
 「カタストロフ」が「グリム・リーパー」に目を付けているのは自分たちが辰弥エルステというLEBを有していたからだろう、と考える。
 猛が雪啼ノインのことを話して、その後辰弥がLEBであるということを漏らしていないとは言い難い。IoLイオルから帰還した時は「辰弥がLEBであるとは察知されていない」と猛が言っていたが、その後情報を漏らした可能性はある。流石に辰弥の生存までは知らなかったとしてもLEBを有していた「グリム・リーパー」のことを黙っているという義理はないだろう。
 恐らく、猛は辰弥のことと「グリム・リーパー」の事を漏らした。裏社会この世界は情報が通貨となるのである、たとえ辰弥の生存を知らなかったとしても「グリム・リーパー」がLEBと関わっていたという話は貴重な情報である。
 だから「カタストロフ」は「グリム・リーパー」を監視対象にした。
 それなら自分たちの行動が「フィッシュボーン」に漏れていてもおかしくないか。
 しかし「カタストロフ」が自分たちを狙っていると考えると、ますます千歳が怪しく見えてくる。
 千歳は「除籍された」と言っているが、本当にそうなのか。
 やはり疑うは千歳ではないのか、そう考える。
 そう考えていると欲が湧いてきて、鏡介は「フィッシュボーン」と千歳のつながりが何かないか探りたくなっていた。時間はないが、少し探してみる価値はあるかもしれない。
 まだかと訊いてくる辰弥を「もう少し待て」と制し、鏡介はストレージの奥へと潜り込んだ。
 隠し事をしたい人間の心理を考え、即座にゴミ箱に入れるか、破棄してはいけないメールの場合フォルダの奥深くにしまい込むだろう、そう判断しゴミ箱の中身を復元する。
 しかし、千歳が送信したという痕跡は見つからない。
 見つけるにしても時間がかかりそうだ、ここはもう離脱した方がいいか、と時計を見て考える。
 痕跡を残さず離脱しようとした時、辰弥があっと声を上げたのが聞こえた。
《意識を取り戻した!?!?
 バカな、という響きが混ざった辰弥の声。同時、鏡介に共有されている辰弥の視界にノイズが走る。
「BB、ケーブルを抜け!」
 咄嗟にキーボードを叩きながら鏡介が指示を飛ばす。
 辰弥が相手のGNSに接続しているケーブルを引き抜くほんの一瞬の時間でウィルスと発火用のコードを送り込む。
 直後、辰弥がケーブルを引き抜き、次の瞬間、相手のGNSに送り込まれたウィルスが発火、GNS構築のために脳内に注入したナノマシンを暴走させ、脳を焼く。
 辰弥の視界内で相手がびくんと一瞬だけ痙攣し、そして絶命する。
「BB、大丈夫か!?!?
 辰弥の視界に一瞬走ったノイズ。GNS接続でセキュリティが反応した時のものだ、と鏡介は判断する。
《ん――大丈夫》
 辰弥もセルフチェックでGNSの診断を行ったのだろう、返事をするが安心はしていられない。
 何かしらのウィルスを送り込まれた可能性も考えられる。遅効性のものだった場合かなり危険である。
 しかし、何故セキュリティが反応した? 鏡介が侵入した時点でセキュリティはすべて無効化している。自動的には反応しないはず。
 いや、手動でセキュリティを起動したのか、と鏡介は考えた。
 今回、相手を昏倒させたところでGNSへの有線接続を行った。相手が素人ならすぐに意識を取り戻すことはなかったかもしれないが、相手も荒事に慣れているのである。その分、気が付くのが早かったのだろう。
 そして、GNSに侵入されていることを察知して手動でセキュリティを起動した。
 遠隔操作している以上鏡介も手動でセキュリティを起動されると反応が遅れる。そうなった際の対処方法は強制的な切断、つまりケーブルを引き抜くことだがそれだと侵入ログが残ってしまう。
 そのため、鏡介はやむを得ず相手の脳を焼くことにした。脳を焼けば焼き方次第では殺せるしGNSのデータを物理的に破壊するので復元することができない。
 とりあえずは、と鏡介も辰弥のGNSの簡易チェックを行い、ウィルスの類が侵入していないことを確認した。とはいえ、あくまでも簡易チェックだから帰還したらすぐにGNSクリニックで精密検査をさせる必要があるが。
《……で、居場所は分かったの?》
「大体の位置は把握した。電波干渉がひどくて詳細な位置までは割り出せなかったが恐らくはここから二ブロック離れた解体中のビル付近に潜伏している」
 鏡介が答えると辰弥が「了解」と頷く。
 視界が動き、辰弥と千歳が移動を開始したのが見える。
 ここからリーダーがいると思しき現場までは少しある。
 少し休憩しよう、と鏡介は椅子に背を預け、息を吐いた。

 

 空が少しずつ白み始めている。
 三日目夜日が終わり、新たな一日目朝日が始まって間もないころ。
 鏡介に指定された解体中のビルに向かって辰弥と千歳は歩いていた。
「……BBさん?」
 不意に、千歳が辰弥に声をかける。
「どうしたの」
「いえ……Geneさん置いてきちゃって、よかったんですか?」
 千歳の言葉に辰弥が少し考える。
 日翔は「後はリーダー一人だし二人でなんとかなる」と説得して帰らせた。本人は「待ち伏せとかされてたらどうすんだよ」とついてくる気満々であったが、彼の体力的にこれ以上待機させるのも、ましてや戦闘に参加させるわけにはいかないと判断した。
 渋々帰った日翔だったが辰弥も千歳もこれでいい、と思っていた。
 辰弥は日翔に無理をさせる必要はない、と。千歳は何かあっても足手まといにならない、と。
「Geneに無理はさせたくない。できるならギリギリまでは温存しておきたいから」
「……そうですか」
 辰弥の言葉に千歳が頷く。
「心配ですか?」
「Geneのことが? もう帰らせたんだから心配はないよ」
 「フィッシュボーン」のリーダー以外はもう殺している。リーダーの座標もこの近くと考えると、リーダーが報復のために仲間を手配していない限り襲われることもないだろうし、それくらいの戦闘は日翔一人でもできるだろう。できなければ辰弥は自分自身を恨むことになるだろうがそれが運命である。
「いえ……今から『フィッシュボーン』のリーダーとやり合うんですよ? こちらの情報が筒抜けになっていたことを考えると仲間くらい呼んでいるのでは」
 千歳としては単独行動をとっている日翔が襲われる可能性は低いと考えていた。むしろリーダーが自分の居場所はバレている、と仲間を呼んで待ち伏せしている可能性の方が高い。
 リーダーがいると言われたビルの解体現場に足を踏み入れる。
 その少し前から電波干渉が強くなり、ノイズ交じりとなっていたGNSのUIがふっと掻き消える。
「……Rain?」
 辰弥が鏡介に連絡を入れる。だが、電波干渉で回線が途絶したのか鏡介からの応答はない。
 ここからは自分の判断で動けということか、と辰弥が全身の感覚を研ぎ澄ませる。
「Snow、気を付けて。トラップもあるみたい」
 辰弥が囁く。千歳が頷き、デザートホークを握りしめる。
 トラップに警戒しながら歩みを進める。
 ワイヤートラップの類はすぐに気づく。見つけては千歳に指示、回避が難しそうなものは離れたところから撃って起動させておく。
 ビルの解体はかなり進んでおり、人が歩けそうなのは一階、二階部分だけである。
 探すのにそう時間はかからないだろうと思っていたが解体現場には資材も多く置かれており、身を隠すのにぴったりな遮蔽となっている。
 これは探すのに骨が折れそうだ、と辰弥が思った時、視界にちらりと何かが入った。
 巧妙に隠された機械。測量で使うようなレーザー距離計にも見えるが違う、と本能が叫ぶ。
 レーザー距離計ではない。どちらかというとパッシブの赤外線センサーのような――。
 そう思った瞬間、辰弥は千歳を突き飛ばしていた。
 センサーから放たれた赤外線が千歳に接触し、反対側の受光機を遮っていたことになぜか気づいた。
 確かにヘビの種類によっては赤外線を受診するピット器官が存在するものもいる。辰弥がそのヘビの血を飲まされていたかどうかは分からないが、ただなんとなく千歳が赤外線センサーに引っかかった、ということだけは理解した。
 辰弥に強く突き飛ばされ、千歳が数歩よろめき、資財の山に倒れ込む。
 同時、何かが飛来するがそれを回避することはできなかった。
 何かが壁に跳ね返り床に落ちる音。同時に響く別の何かが床に落ちる音。
「ぐ――っ!」
 左腕を押さえ、辰弥が呻く。
 叫び声が喉をついて出そうになるがそれを飲み込み、痛みに耐える。
「BBさん!」
 倒れ込んだ資財の山から体を起こした千歳が叫ぶ。
「腕が――!」
 千歳が辰弥に駆け寄ろうとするも、横から飛び出してきた人影にデザートホークを向け、発砲する。
 辰弥も血塗れになった手でTWE Two-tWo-threEを抜き、別の物陰から飛び出した人影に向けるが激痛に狙いが甘くなる。
 ぼたぼたと床に落ちる血に再生しなければと思うが千歳の目の前でそんなことを行うわけにはいかない。
 とりあえずはここにいる奴らを排除しなければ、と応戦する。しかし激痛と出血、片腕だけという状況に手が回らない。
 一人は排除したものの、物陰から飛び出してきたリーダーに辰弥が組み伏せられる。
「くそ――っ!」
「――お前か」
 低く囁かれる言葉。
「BBさん!」
 千歳がデザートホークを向けるが辰弥に当たるかもしれないという状況に発砲できない。
 辰弥の右手首を掴んで床に押し付けたリーダーが空いている方の手で首を掴む。
「ぐ――」
 気道を圧迫され、辰弥が呻く。
「お前か」
 再度問われる言葉。
 何を、と言い返したいが声を出すどころか呼吸すらできない。
 酸欠で狭まる視界に、まずい、と視線だけ動かして千歳を見る。
(俺に構わず撃って!)
 そう、指示を出すも電波干渉による接続エラーですぐそこにいる彼女に伝えることすらできない。
 自分に当たってもいい、とにかく撃ってくれと思うが千歳は硬直してしまっている。
 「お前か」という問いかけの意図はともかく、このままでは命が危ない。
 まだ死ねない、死ぬわけにはいかない。
 日翔を治験の席に割り込ませるまでは、死ねない。
 相手は辰弥が左手を使えないことを理解して、自由になる右腕のみを封じている。
 左腕は押さえつけられてすらいない。つまり、再生して武器を生成すれば確実に殺すことができる。
 だが、その選択肢を選ぶにはあまりにも状況が悪かった。
 これが千歳加入前の「グリム・リーパー」だったら迷わず再生して事態を切り抜けていただろう。
 千歳というノイズが、辰弥から「切断された腕の再生」という選択肢を除外してしまっている。
 見られたくない。知られたくない。自分が再生できることを。自分が人間ではないことを。
 それを見られてしまえば、知られてしまえば、折角築き上げた関係を壊してしまう。
 ――嫌われたくない。
 その思考で、何故か心臓が一つ大きく鳴る。
 どくん、と高鳴る鼓動に自分の感情に気づく。
 ――俺は、秋葉原のことが――。
「BBさん!」
 千歳の声が遠くに聞こえる。
 まずい、貧血と酸欠で意識が遠のきかけている。
 このままでは殺されてしまう。
 嫌だ、と辰弥が唇を震わせる。
 彼女の目の前で死にたくない。ただ、純粋にそう思う。
 そう思ったら、その後は身体が勝手に動いた。
 虚ろになりかけていた辰弥の黄金きんの瞳に光が戻る。
「こ――のっ!」
 自由に動かせる左腕を持ち上げる。
 切断面から瞬時に左手が再生し、同時、ナイフを生成、リーダーの心臓に突き立てる。
「が――っ!」
 リーダーとしては何が起こったのか理解できなかっただろう。
 心臓を一突きしただけでは終わらず、辰弥は即座にナイフを抜いてリーダーの頸動脈を掻き切った。
 返り血をもろに浴びてしまうが構わず死体を蹴り飛ばし、立ち上がる。
「え――」
 呆然としたように辰弥を見る千歳。
 ああ、バレたな、と辰弥は千歳に背を向ける。
「……ごめん」
「……どこ、行くんですか」
 辰弥がどこかに行くつもりだ、と察した千歳が呼び止める。
「どこだっていいじゃない」
 どこに行くと聞かれて、辰弥はどこに行くつもりだったんだと自問した。
 自分に行くところなど存在しない。あったとしても日翔と鏡介がいる自宅しかない。
 千歳から離れたとしてもチームメイトである以上、顔を合わせるのは必至なのに。
「BB――鎖神さん、」
 不意に、千歳が後ろから辰弥に抱き着いた。
 ふわりとした感触と服越しに感じる体温にどきりとする。
 ずっと求めていたような、そんな錯覚に声が出ない。
「秋、葉原――」
「どこにもいかなくていいんですよ」
 優しく、あやすように千歳が言う。
「……教えてください。鎖神さんの、全てを」
「それは――」
 答えたい。しかし答えられない。
 答えたところで何になる? 自分が人間でないと伝えてどうなる?
 欠損しても瞬時に再生できる人間が存在するはずがなく、見られた時点で自分が人間でないとは分かったはず。
 それでも、辰弥は自分が「人間ではないLEBだ」と口にできなかった。
 言ってしまったら、自分の想いも、今まで築いた関係も、全て崩れてしまいそうだったから。
「おれ、は……」
 駄目だ、言えない。
 千歳に嫌われたくない。
 後ろから抱き着いたままの千歳が手を放すこともせず言葉を続ける。
「……別に、いいんです。辰弥さんがどんな存在であったしても」
「秋葉原……」
 今、千歳は辰弥のことを初めて名前で呼んだ。
 辰弥がそっと千歳の腕を振りほどき、振り返る。
「今、俺のこと……」
「……もしかして、辰弥さんって、遺伝子操作ジェネティック・マニピュレーション受けてるんですか……?」
 電脳GNS、義体に続いて積極的に研究されている分野の一つ、遺伝子操作。
 一部の陰謀論者の中では「御神楽が遺伝子操作兵を作っている」という噂は絶えないし、「桜花の食糧事情が諸外国に比べて満たされているのは遺伝子操作によって作られた食材が出回っているからだ」と言うのは有名な話だ。
 実際、LEBという存在も遺伝子操作の一環で造られたと言っても過言ではないだろう。
 厳密にはDNA構造を一からマッピングされた人工的な生命体ではあるが、専門家でもない人間からすれば似たようなものである。
 肯定することも否定することもできず辰弥が千歳を見る。
 どう説明すればいいのか。とある実験で、遺伝子操作され再生能力を身に着けた実験体と言えば多少は誤魔化せるだろうか、と考える。
 ほんの少し、沈黙が二人の間を流れる。
「俺は……遺伝子操作なんて生ぬるいもの、受けてない……」
 絞り出すように辰弥は言葉を口にした。
「……本当のことを言うよ。俺は……人間じゃない」
 意を決して、真実を告げる。
 辰弥の言葉に千歳が息を呑む。
「人間じゃない、って……」
「『Local Erasure Biowepon』……通称『LEB』という生命体、それが俺だ」
 そう言って辰弥は左の手の平を上に向けて持ち上げた。
 その手の平に小ぶりのナイフが生成され、彼の手の中に納まる。
「LEBは自分の血肉で自分の知識の範囲にあるものを生成することができる。俺はその第一号個体、『エルステ』。研究所がトクヨンに襲撃されたときに逃げ出し、日翔に拾われて今の名前をもらった」
「……それが、辰弥さんの本当の名前……」
 うん、と辰弥が頷いた。
「ちょっと色々あってエルステは死んだことにされたけど実は生き残ったんだよね……だからバレないように武陽都に来たってのはある」
 黙っててごめん、と辰弥は呟いた。
「でも、日翔も鏡介もこんな俺を受け入れてくれた。だから、二人には報いたい。君はこれ以上深入りしていい人間じゃない、なんだったら今からでも脱退――」
「バカ言わないでください!」
 不意に、千歳が声を荒げた。
 張り上げられた声に辰弥がびくりと身を震わせる。
「何言ってるんですか、私は無関係とでも? ここまで関わっておいて、ここまで教えておいて、今更部外者扱いですか!?!? どうして私を仲間と思ってくれないんですか」
「秋葉原――」
 違う、そのつもりはない、と辰弥が千歳に手を伸ばす。
 その手を取り、千歳はまっすぐ辰弥を見た。
「たとえ人間じゃなかったとしても――辰弥さんは辰弥さんです。他の誰でもない。私を巻き込んでくださいよ。私も、辰弥さんと同じ道を歩かせてくださいよ。どうして……」
 千歳の訴えに、辰弥がはっとする。
 どうして千歳を遠ざけようとしているのだ。
 同じ道を歩きたい、その気持ちはある。同時に千歳がノイズであるという認識もある。
 自分の道を歩く上で、日翔、鏡介の二人と歩く道と千歳と歩く道は決して交わらない。
 少なくとも辰弥はそう思い込んでいた。
 もしかして、四人で歩く道もあるのではないか、とふと考える。
 鏡介は千歳のことを毛嫌いしているところはあるかもしれないが、分かってくれる。
 そんな淡い期待を抱いてしまう。
「秋葉原……」
「千歳、って呼んでください」
 辰弥の手を包み込むように握り、千歳が言う。
「千、歳……」
 躊躇いがちに辰弥が千歳の名を呼ぶ。
 名前を呼ばれて、千歳が嬉しそうに微笑んだ。
 周りには死体が転がる凄惨な現場。
 陽の光が差し込み死体を照らすが二人はそれに構わず、見つめ合う。
「千歳、俺は、君のこと――」
「好きですよ、辰弥さん」
 その言葉を聞いた瞬間、辰弥の心臓が大きく跳ねた。
 こうもはっきりと好意の言葉を聞くのは初めてだった。
 どう反応していいか分からず、硬直する。
「好きと言われたの、初めてですか?」
「――ぅ、ん」
 辰弥が小さく頷く。
 研究所にいた頃は罵声ばかり浴びせられ、日翔に拾われてからはそんなことはなくなったがごく普通の仲間として、いや、大切な仲間として接してはいたがそこに恋愛感情など存在しない。
 明確に好きと言われたのは、ましてや異性にそんなことを言われたのは初めてだった。
 自分に好意を持っている、そんな人間が存在するということが信じられず、呆然とする。
 嘘かもしれない、という考えは思い浮かばなかった。何らかの目的をもって、利用しようとして好きと言ってきたとは考えもつかなかった。
 そういう点では辰弥は子供だったし純粋だった。
 ただ、信じられない中でも漠然と嬉しいと思った。
 こんな自分でも、好きと言ってくれる人間がいるのかと。
「……ありがとう」
 絞り出すように辰弥が呟いた。
「お礼を言われることなんてしてませんよ。それに――私だって隠してることくらいあります」
 そう言って千歳が笑う。
「辰弥さんが隠してたこと打ち明けてくれたのなら、私も白状します。私……こう見えて義体なんですよ」
 えっ、と辰弥が声を上げる。
 今、自分の手を握る千歳の手。ひんやりとしてはいるが柔らかく、以前自分を拘束した全身義体の女、御神楽 久遠くおんのものとは全く違っていた。人工皮膚とシリコンで生身に近い触感にしているのだろうか、とても義体とは思えない。
「辰弥さんは私が元『カタストロフ』所属の人間だとは知ってましたか? 『カタストロフ』時代にドジって両手両足失っちゃいまして……義体にしたんですよ」
「そんな、義体は今どき当たり前――」
 少し恥ずかしそうに告白する千歳に辰弥が答える。
「それはそうなんですけどね。でも、やっぱり生身至上主義の人とかいるわけじゃないですか。天辻さんとか」
 千歳の言葉にそれは違う、と辰弥が思う。
 日翔は生身至上主義ではない。ただ人工循環液ホワイトブラッドを毛嫌いしているだけだ。ホワイトブラッドさえ使用しなければ、義体だって受け入れるはず。
 それでもふと思った。千歳が義体のことを隠していたのはそういう、生身至上主義者によって迫害を受けてきたからなのではないかと。
 そう考えると日翔のことを生身至上主義者と呼んだのも分からないことはない。
 本当はもっと早い段階で打ち明けておきたかったことかもしれないが、日翔に何を言われるか分からない状態で打ち明けることはできなかった、ということだろう。
「私もほら、一応女ですし、できれば生身と見た目を変えたくなかったので比較的生身に近いタイプの義体にしたんですよ。でも出力は高めなのでその辺の男性には負けませんよ」
 そう言い、むきっ、と力こぶを見せるようなポーズをとる千歳。
 なるほど、と辰弥が頷く。
 今まで千歳がデザートホーク二丁拳銃をしたり精密な射撃ができたのは全て義体によるものだったのか、と。
 それを「鍛えてますから」で隠してきた千歳を責めることはできない。それ以上の事を隠してきた辰弥に責める権利は存在しない。
 それでもお互い隠していたことをさらけ出したということで辰弥はほっとしていた。
 千歳には何ら疑うことなど存在しない、鏡介がただ神経質になっているだけだ、と。
 そう、ほっとした瞬間、辰弥は強い目眩に襲われた。
「く――」
 激しい目眩と全身を襲う謎の感覚に膝をつく。
「辰弥さん!?!?
 千歳がかがみ込み、辰弥の肩を掴む。
「大丈夫ですか!?!?
「大、丈夫……」
 大丈夫だ、ここ暫くよく起こっていることだが一過性のものだ。
 すぐによくなる、と立ち上がろうとするも出血が多かったこともあり、貧血も起こっている。
 そういえば関係ないかもしれないがここへ来る前に「フィッシュボーン」メンバーのGNSに有線接続し、その時にセキュリティを起動されていた。なにかGNSに不具合が起きているのかもしれない。
「辰弥さん、だめですよ!」
 立ち上がろうとしてよろめく辰弥を押さえ、千歳がどうしようと周りを見る。
 ここに長居するわけにもいかない。早くここを去らないとどこで誰に見られるか分からない。
 どうする、と考え、千歳は辰弥に手を貸して立ち上がらせた。
「とにかく、ここを離れましょう。安全なところへ――」
「安全な、ところって……」
 朦朧としながら辰弥が尋ねる。
 帰宅するにしてもこの状態で歩いて帰れるほどの距離ではない。日翔も既に帰宅している。
 日翔に迎えに来てもらうの? と辰弥が尋ねると千歳は首を振った。
「この近くに身を隠すにはうってつけのホテルがあります。とりあえずそこでしばらく休みましょう」
「でも――」
「天辻さん呼んでも、もしものことがあった場合私一人で対処できませんよ? 休みましょう」
 千歳の説得に辰弥が頷く。
 彼女の肩を借り、辰弥はよろよろとビルの解体現場を抜けた。
 少し歩くと電波干渉エリアを抜け、通信が回復する。
《BB、大丈夫か!》
 鏡介の声が辰弥のGNSに届く。
「うん、大丈――」
「BBさん、具合が悪いので少し休ませます」
 辰弥の返事を遮り、千歳が答える。
《具合が悪い、だと!?!?
「大した事、ない」
 弱々しく答える辰弥。だがすぐに千歳がそれを否定する。
「一人で歩けないぐらいには具合悪いです。近くにホテルがあるのでそこで休ませます」
 ううむ、と鏡介が唸る声が聞こえる。
《Geneに迎えに行かせる……いや、Geneも本調子じゃないな、だとしたら休ませた方が無難か……わかった、BBの調子が戻るまで護衛を頼む》
 日翔の体調も考慮し、ここは無理に帰還させるよりも休ませて復調させた方がいいと判断したのだろう。鏡介が千歳に指示を出す。
 分かりました、と頷き、千歳が辰弥を見る。
「大丈夫ですか? 近くですので、もう少し頑張ってください」
 うん、と辰弥が頷き、力なく足を踏み出す。
 千歳の言う通り、解体現場の比較的近い場所に一軒のホテルが居を構えていた。
 どちらかと言うとカップルが密かに利用するタイプのホテルだが贅沢は言っていられないしこの手のホテルは大抵プライバシーなどに気を使っていてGNSの通信を遮断してくれるところもある。訳アリの人間が利用することも多く、多少の荒事には目をつぶるし血まみれの人間が駆け込んだとしても通報することもない。そういうレベルで身を隠すにはうってつけの場所だった。
 千歳がフロントの端末で適当な部屋を選択し、出てきた鍵を手に取る。
 一般のホテルならGNSの認証で部屋のロックは解除されるが、この手のホテルはGNSを介さない取引を売りとしているので部屋の鍵は物理鍵だし、チェックアウト時の会計も極力GNSを使わないで済む現金決済を採用しているところも多い。
 二人しか乗り込めないエレベーターに乗り込み、指定のフロアに移動、鍵を開けて部屋に入る。
 辰弥をベッドに寝かせたかったが返り血に染まっている状態のままで寝かせるわけにはいかず、千歳は彼を一度床に座らせた。
「タオル持ってきますから」
 うん、と頷く辰弥に千歳は頷き返し、タオルを手にとって浴室に向かう。
 楽な姿勢を取り、辰弥は大きく息を吐いた。
 謎の不調は落ち着いては来ている。一過性のものだと分かっているし少し休めば元に戻る。
 しかし、不調が出始めたころに比べて調子の悪い時間が伸びている、と実感した。
 最初は一瞬違和感を覚える程度だった。それが今は身体の動きに支障が出るほどのものとなっている。
 勿論、出血による貧血が重なったことも理解しているがそれでもすぐに帰還できないレベルでの不調が出たのは初めてだった。
 一体何が原因なのか、ぼんやりと天井を見上げ考える。
 武陽都に来る前は貧血こそ多かったもののこのような不調が起こることは一度もなかった。
 武陽都の空気に馴染めていないのか、と思うものの大気汚染の状態が劇的に変わることもないだろうし関係ないだろう、と思う。
 それなら一体なぜ。
 上町府にいたころと武陽都に来てからと何が変わった? と考える。
 武陽都に来たのはノインとの戦いで死んだと思われた自分の生存を隠すためと「カグラ・コントラクター」に目を付けられた「グリム・リーパー」が姿を隠すため。
 そのタイミングで何かあったとすれば――。
 いや、一つだけ心当たりがあった。
 上町府時代の自分と、今の自分の決定的な違い。
(まさか、トランス……?)
 ノインとの戦いの終わり、トクヨンにナノテルミット弾を撃ち込まれて死ぬしかなかった辰弥が生き延びたのはそれ以前にノインの血を吸っていてトランス能力をコピーしていたからだ。
 あの時初めてトランスを行い、地下に逃れたことで辰弥は生き延びていた。
 だが、もしそのトランスが肉体に負担を掛けるものであったとしたら?
 考えられない話ではない。トランス自体肉体を別物質に変換するものだから何かしらの弊害があってもおかしくない。
 しかし、そうだとしたらノインはなぜあれだけトランスしても何も起きなかった?
 確かに辰弥とノインは世代が違うし辰弥はノインから能力をコピーしている。世代が違う故に何らかの不適合が起こったとしても不思議ではない。
 それでもトランスが原因とは考えられなかった。
 世代が違えども同じ遺伝子構造をもったLEBには違いない。
 それとも、ノインも不調が出ていて、それを押して攻撃していたのか。
 考えていても仕方ない、と辰弥はため息を一つ吐く。
 貧血の目眩は少し残っているが気分はずいぶんよくなった。
 急いで帰る必要もないし、暫く休んで帰ればいいだろう。
 そう思っていると、千歳が濡らしたタオルを手に戻ってくる。
「辰弥さん、これ」
 辰弥が差し出されたタオルを受け取る。
「ありがとう」
 そう言って顔と髪に付いた血を拭い、ジャケットも脱ぐ。
「……すすいだほうがいいな、これ」
 この際服に血の染みがつくのは気にしない。どうせジャケットも捨てなければいけないしシャツもここまで汚れたら捨てた方がいいだろう。とはいえ、帰るまで血が染みたシャツを着ているのも何となく嫌で、すすぐくらいはしたい、と考える。
 かなり気分が回復したこともあり、辰弥は立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
 心配そうに千歳が辰弥を見る。
「うん、もう大丈夫」
 そう言って辰弥が浴室に向かおうとし、一瞬覚えた目眩にくらりとする。
「無理しないでください! すすぐのくらい、私がしますから!」
「大丈夫、シャワーも浴びたいし」
 止める千歳を制止し、辰弥は浴室に入った。
 服を全て脱ぎ、湯船に放り込み、ぬるま湯で何度か軽くすすぐ。
 真っ赤に染まったぬるま湯が排水口に吸い込まれていく様子を眺めながらため息を吐く。
 あの時、油断しなければ。あの時、すぐに再生していれば。
 そんな後悔が次々と胸を過る。
 しかし、それも全て千歳が受け入れてくれたから出てきた結果だ。結果が分からない状態ではあのような展開になるのは仕方がない。
 それでも、もっと早く行動していれば、という後悔がどんどんあふれてくる。
 好きだと言ってくれた千歳の言葉を思い出す。
 嘘であったとしても、嬉しかった。
 もっと早く聞きたかった、とも思ってしまう。
 もっと早く聞いていれば、自分のことも全て打ち明けていたのに、と。
 蛇口をひねり、シャワーを出す。
 頭からもろに冷水を被り、思わず身震いする。
 さっきぬるま湯を出したのはカランからだ、シャワーにはまだ冷水が残っているし湯が出たとしても温度調整をしていない。
 普段なら起こりえないミスによほど疲れているんだな、と思いつつ、辰弥は温度調整をして熱めの湯を顔に掛けた。
 濡らしたタオルで拭いたとはいえ、髪に染み付いた相手の血が湯に混ざり、赤く染まった湯が浴室の床に広がっていく。
 全身をくまなく洗い流し、ほっと息を吐く。
 いくら疲れていたとしても血まみれでベッドは使いたくない。だから帰宅したら即シャワーを浴びて休んでいたがここ暫くはトランスによる血液消費量の減少のためかシャワーを浴びるのが苦になるほどの疲労は出てこない。謎の不調で千歳がこのホテルに連れてきてくれたがこれなら道端で少し休憩しただけでも帰れたかもしれない。
 それでも、千歳が自分の身を慮ってくれたことは嬉しいしここはGNSの通信範囲外である。鏡介の監視を外れて千歳と腹を割って話せると思う。
 思うところは色々ある。一度、誰にも聞かれない状態で話したい、と考える。
 自分のことを、色々話したい。
 日翔や鏡介に対して思っている、「隠し事をしたくない」ということを千歳に対しても思っていた。
 そう考えているうちに足元を流れる水から赤色も消え、辰弥は蛇口を締める。
 ぽたり、と前髪から水が落ち、床に跳ねる。
 タオルを手に取って髪と全身を拭き、それから湯船のぬるま湯に浸したままにしていた服を取り出して硬く絞る。
 乾くまで休むわけにもいかないし、ドライヤーを使うか、などと考えながら脱衣所に置かれていたガウンを羽織り、部屋に戻る。
 部屋に戻ると千歳が待っていたように頭を上げた。
「あ、辰弥さん出ました? 大丈夫です?」
「うん? 大丈夫」
 まだ心配してくれてたんだ、と思いながらも室内をキョロキョロと見まわし、他に座れそうな場所もなく仕方なくベッドのふちに腰かける。
「……シャワー、浴びてきていいですか?」
 私もべたべたなんですよ、と言いながら千歳が確認する。
「うん、いいよ」
 無意識でGNSの連絡先を開き、鏡介に連絡を入れようとした辰弥がすぐに今いる場所のことを思い出し連絡先を閉じる。
 千歳の姿が浴室に消え、辰弥は後ろに倒れ、ダブルベッドの布団に体を預けた。
 浴室から聞こえる水音に何故か鼓動が跳ね、寝返りを打って雑念を払う。
 ――何を期待しているんだ。
 ここが「そのための場所」だから意識してしまっているのか、と自分を叱咤する。
 そんなことを考えて何が楽しい。自分にそんなことをする権利などない。
 第一「そういう行為」は人間が子孫を求めるために行うものであってその能力がない自分が真似たところで何も生みださない。
 なに人間の真似事をしたいと思うんだよ、と自分に言い聞かせ、辰弥は再び寝返りを打った。
 ふかふかの布団の感触に「この布団いいな……」と思考を逸らせようとする。
 これ以上考えてはいけない、戻れなくなる、と考え続けてどれくらいの時間が経過したのか。
「辰弥さん、生きてますか?」
 髪を拭きながら、千歳が浴室から戻ってきた。
「あ、うん、大丈夫」
「見た感じ大丈夫そうですけど、しっかり休んでください。水城さんにはちゃんと伝えてあるんですから」
 そう言って千歳がベッドに寝転がる辰弥の横に腰を下ろす。
「お疲れ様です。私、今日はいいところなかったですね」
 辰弥さんに助けられてばかりでした、と言う千歳に辰弥が首を振る。
「ううん。千歳がサポートしてくれたから何とか乗り切れた」
 実際のところは千歳の目の前で死にたくないから頑張っただけだ。
 結局、彼女にいいところを見せたくて無理をして、結果としてLEBのことがばれてしまったのか、と考える。
「……千歳」
 体を起こし、辰弥が千歳を見る。
「君は、気持ち悪いと思わないの?」
「何がですか?」
 不思議そうな顔で千歳が辰弥を見る。
「……俺は、人間じゃない。武器とか作り出すし最近は別の姿になることもできる。そんな存在、気持ち悪いに決まって――」
「それがどうしたんですか」
 辰弥の言葉を遮り、千歳が少し強い口調で言う。
「この世界で武器を作れるのは強みですし、第一、義体に武装隠してる人もざらですよ。別の姿になれると言っても、別に本当の姿がスライムとかそんなこともないのでしょう? 流石に本当の姿がスライムだったらどうお付き合いすればいいか分かりませんけど、それでも私は外見だけで辰弥さんを選んだつもりはないですよ?」
「千歳……」
「それとも、本当の姿はまた別なんですか? だったら、見せてください」
 ずい、と千歳が辰弥の眼前に迫る。
「近いって」
 辰弥が慌てて千歳を止める。
 それ以上近寄られたら自分を抑えきれない。それほどに、鼓動は高鳴っている。
「私は、辰弥さんの元の姿が何であったとしても、見たいんです」
「分かったから」
 だから少し離れて、と辰弥が言うと千歳はすっと身を引いた。
「戻るところ、見ない方がいいですか?」
「別にいいよ。どうせ変えてるの一か所だけだし」
 そう言って辰弥が目を閉じる。
 数秒の沈黙ののち、開かれた彼の目はかつての深紅のものへと戻っていた。
「……これが、辰弥さんの本当の姿……?」
 辰弥の眼をまじまじと見つめ、千歳が呟く。
「辰弥さん、紅い眼だったんですね」
「……うん」
 再び目を閉じ、瞳の構造を作り変えようとしたところで千歳が辰弥の頬に触れる。
「……っ、」
「まだ、戻さないで」
 千歳の言葉に息を呑む。
 心臓がどくんと高鳴り、知らず、息が弾む。
 義体で、生身ほどの熱を持たないはずの千歳の手が熱く感じる。
 込み上げる衝動に抗いながらも辰弥は千歳の手を振り解けずにいた。
 「まだ、戻さないで」と言う千歳の言葉がとても甘い。
 本当なら辰弥も瞳の色を変えたりせずにいたかった。
 しかし、「カグラ・コントラクター」に目をつけられている以上どうしても特徴的なLEBの眼は隠しておかなければいけない。
「……ここにいる間だけなら」
 絞り出すように辰弥が呟く。
「……そう言われると、帰りたくないですね」
 そう言って、千歳が笑う。
 ここに入ったのは数時間の休憩プランだ。いつまでも居座ることはできない。
 それが分かっていても、ふと、まだ帰りたくない、と思ってしまう。
 早鐘を打つ心臓が痛むような錯覚を覚える。
 欲しいという囁きが耳について離れない。
 やめろ、そんなことをする権利はお前にはないと理性が叫ぶがそんなものは聞こえない。
 たまらず、辰弥は千歳に手を伸ばした。

 

「――辰弥、さん」
 自分を呼ぶ千歳の声に我に返る。
「っ、俺、は……」
 上がる息を整えながら辰弥が呆然と呟く。
 何をした、と考えるよりも前に目の前の状況に言葉を失う。
「千歳、俺……」
 なんてことをしてしまったのだ、と思わず自分を呪う。そんなことをしても、何の意味もないのに。
「ごめん、俺どうかして――」
「辰弥さん」
 辰弥の腕の下で千歳が微笑む。
「謝らなくて、いいんですよ」
「でも――」
 自分は千歳を傷つけた。どうしようもないほどに、深く。その思いが自己嫌悪となって胸を支配する。
「ごめん、本当に……ごめん」
 謝罪しながらも、自分にもこんな欲があったのか、と考えてしまう。
 今まで一切そういうことに興味もなく、日翔に「いい女いないのか~?」などと茶化されても理解できなかったのに、今ならはっきりと認識できる。
 こういうことなのだ、と。
 心では自己嫌悪に陥っているのに、身体は正直でこれでよかったという悦びに打ち震えている。
「辰弥さん、」
 千歳がもう一度辰弥の名を呼ぶ。
「いいんですよ。私は、嬉しい」
「千歳……」
 辰弥の手が千歳の頬に触れる。
 許された、受け入れてもらえた、という思いが胸を支配し、浅ましくももっと欲しい、などと考えてしまう。
「……もう一回、しませんか?」
 その言葉は、辰弥にとって今一番欲しかった言葉だったかもしれない。
 その言葉に答える余裕すらなく、辰弥は千歳に覆いかぶさった。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 辰弥と千歳がホテルに入って通信が途絶した少し後。
 鏡介はキーボードに指を走らせ、切断前の辰弥のGNSログを閲覧していた。
 リーダーがいた解体現場での戦闘データを確認し、ため息を吐く。
「……秋葉原の前でトランスしたのか……」
 辰弥は何も言っていないが、千歳は辰弥が人間ではないことを察しただろう。
 これが吉と出るか凶と出るかは分からない。ただ、警戒するに越したことはない。
 とはいえ、辰弥によるリーダーの殺害は確認でき、依頼は終わったと判断する。
 アライアンスのまとめ役に依頼の完遂を報告し、どうしてものやら、と考える。
 千歳は「近くのホテル」とは言っていたが、確認したところビジネスホテルの類ではなかったことに少々苛立ちを覚える。しかし、あの状況の辰弥を休ませるのなら仕方がない。ただ、「その手のホテル」だったためにGNS通信はシャットアウトされていて、気が気ではない。
 千歳についてもっと調べた方がいい、と考える。
 辰弥が信頼しているのならその信頼を自分もできるように、詳しく調べたい。
 結局、信頼とは情報の詰め合わせだから。
 その手始めに秋葉原という苗字について調べる。
 聞いたことのない名字に全世界の苗字を網羅しているサイトや桜花の国民情報データベースを探るが、「秋葉原」という苗字はどこにも収録されていない。
 桜花の国民情報データベースにすら存在しないということは秋葉原 千歳という人間は自分たちと同じく正規の国民情報を持たない人間か、偽名かと考える。
 念のため十年に一度の更新が義務化されているIDカードの顔写真から千歳の本来の国民情報が洗い出せないか探ってみる。すると、何年の昔に死んだことになっている名無しの孤児の情報が出てきた。
 千歳も日翔と同じで、国民情報偽装のために死んだことにしたようだな、と苦笑するがすぐに真顔に戻る。
 そういえば、国民情報といえばもう一人心当たりがある。
 かつての「グリム・リーパー」……いや、その前身「ラファエル・ウィンド」のリーダーだった宇都宮うつのみや すばる
 彼もまた、国民情報データベースに存在しない苗字を持つ人間だったことを、ふと思い出す。
 鏡介が「ラファエル・ウィンド」に加入する前、一応は正義のハッカーとして活動していた彼はとあることがきっかけで、昴を追っていた。
 結局、鏡介は昴に捕捉され、様々な条件を提示されて取引に応じ、クラッカーとして生きることになってしまったが、その時昴が桜花に存在しないはずの人間だったと確認していた。
 実際のところ、鏡介もそうだが、正規の国民情報を持たない人間はかなりの数存在する。
 それでも偽造した国民情報や何かしらの身分証明書は持っているはずで、完全に存在しない人間は存在しない。
 ところが昴はどのデータベースにもその痕跡がなく、完全に桜花の亡霊として存在していた。
 そんな昴と千歳はどちらも存在しない言葉を苗字として使っている。
 本来、偽名というのは怪しまれないようにつけるものだ。存在しない言葉や実在しない苗字では意味がない。
 どういうことだ、と鏡介が呟く。
 こんなところで昴と同じような人間が現れるのはできすぎている。
 鏡介のハッカーとしての勘が囁きかけてくる。
 「この二人、つながっているかもしれないぞ」と。
 いや、考えすぎだろう。千歳は元「カタストロフ」の人間。それに対し昴は三年前に失踪してそれっきりだ。鏡介の見ている前で狙撃された昴が生きているとも思えず、たまたま妙な偽名を使う人間が複数いただけだろう、と考える。
 それに「カタストロフ」のデータベースには千歳の情報は残されているだろう。流石にどこにそのサーバがあるかなどはまだ突き止められていないので探すことはできないが、「カタストロフ」のデータベース経由で何かしらの偽装情報が展開されていた可能性もある。
 それならば、と鏡介は先程「フィッシュボーン」のチームメンバーのGNSに侵入した際に見つけた「カタストロフ」のペーパーカンパニーのサーバに侵入した。
 もしかするとより詳しい情報が得られるかもしれない、そう踏んでの行動。千歳の側から確定情報が得られないのなら外堀を埋めればいい。
 巧妙に偽装されたメールを注意深く観察する。
 だが、どれだけ探しても千歳の文字も秋葉原の文字も見つからない。
 それでも、鏡介のハッカーとしての勘が告げていた。
「……『カタストロフ』の計算の範囲内の可能性は高い、か……」
 椅子にもたれかかり、呟く。
 気を付けろ。秋葉原はもしかすると、お前を狙っているかもしれない。
 自分のためにではなく、「カタストロフ」のために。
 信頼したくて調べたことなのに、疑惑だけが膨らんだ鏡介は大きくため息を吐いた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

「ただいま」
 辰弥がリビングの扉を開けるとそこには日翔と鏡介が揃って彼の帰りを待っていた。
《辰弥! 大丈夫か!?!?
 辰弥の姿を認めた瞬間、日翔が立ち上がり、駆け寄って肩を掴む。
「うん、もう大丈夫」
 辰弥が日翔を見てほっとしたような表情を見せる。
「日翔も大丈夫? 無理してない?」
《俺は何もやってないからな、大丈夫だ》
 ならいいけど、と辰弥がキッチンに行ってマグカップを手に取り、ウォーターサーバーから水を汲んで一息に飲む。
「……辰弥」
 鏡介が辰弥に声をかける。
「闇GNSクリニックに連絡は入れている、精密検査を受けてこい」
「それはもちろん」
 あの時起動されたセキュリティの影響が全くないとは言い切れない。念のためチェックしてもらった方がいい。
 だが、鏡介はさらに言葉を続けた。
「お前が戻ってくるタイミングで『イヴ』も呼んでおく。最近のお前の不調は貧血ではない、そっちもしっかり診てもらえ」
「……うん」
 それは辰弥も同意せざるを得なかった。
 今回の不調は今までで最大級だった。GNSの不調と重なった可能性もある。
 だから鏡介の心配はもっともだし今後の活動を考えておくとちゃんと診てもらった方がいい。
 分かった、と辰弥が着替えのために自室に戻ろうとする。
 鏡介の隣を通り過ぎた瞬間、唐突に彼が口を開いた。
「辰弥、秋葉原には注意しろ」
 鏡介の言葉に辰弥が怪訝そうな顔をする。
「何を急に」
「秋葉原は偽名だ。桜花のデータベースに秋葉原という苗字は存在しない。それに――やはり、元『カタストロフ』というのが気になる」
 「カタストロフ」はLEBを追っている、と続けようとしたが口を閉じる。
 辰弥が何をいまさら、といった顔をする。
「偽名なのは分かってるよ。俺だって、君だって本当の名前を使っていない。裏社会この世界では当たり前のことでしょ」
「だが――」
「千歳は怪しくないよ。俺だって暗殺者の端くれ、怪しい人間を見極めることくらい」
 そう、断言する辰弥。
 彼の発言に、鏡介が眉を寄せる。
「お前、秋葉原のこと――」
「大丈夫だと思うよ。そんな、鏡介が心配するようなことないって」
 楽観的な辰弥の発言に違和感を覚える。
 辰弥は何かを隠している? いや、それよりも――。
「辰弥、お前、まさか――」
 そこまで口にするがそれ以上は言ってはいけないと判断したのか、鏡介が口をつむぐ。
 辰弥も鏡介のその声に気づかなかったのか、そのまま自室に入っていく。
《? どうしたんだ鏡介》
 鏡介の渋面に日翔が首をかしげる。
「辰弥、あいつ……いや、多分思い過ごしだ。忘れてくれ」
《……はぁ》
 鏡介が言い淀むとはこれは何かあったな、と思いつつも深くは追求しない日翔。
《辰弥も帰ってきたし、俺、寝るわ》
 ちょっと眠くなってきたし、と伸びをする日翔に鏡介が表情を緩める。
「ああ、無理して付き合う必要もなかっただろうに」
《ほら、おかえりくらい言ってやりたいじゃんかー》
 そう、からからと笑う日翔に鏡介もつられて苦笑する。
「そうだったな。まぁ、ゆっくり休め」
 おう、と日翔が手を振り自室に戻る。
 誰もいなくなったリビングで、鏡介はふう、と息を一つ吐く。
 通り過ぎた辰弥から仄かに香った残り香に確信はしていた。
 まさか辰弥が色仕掛けに引っかかるとは考えられないが、それでも何かあったのは確かだろう。
 ――お前は、裏切る気なのか。
 もし、日翔と秋葉原どちらかを選べと言われたら、選んでしまうのか。
 「三人で生きる」と誓った約束はあくまでも口約束だ。守る義理はない。
 それなら――。
「……祝福してやった方がいいのか?」
 鏡介の呟きが、部屋の中に消えていった。

 

 

エルステ観察レポート

 

 「カタストロフ」に情報を流す「アライアンス」の裏切り者と戦闘。
 戦闘内容自体に特筆すべき点はないが、トランス能力を活かした自己再生能力の発現が見られた。
 血液を消費するものと思われるが、失った腕一本をナイフまで含めて再生してみせた能力は兵器として作られたらしい高い継戦能力を示していると言えるだろう。
 ただし、貧血とは違う不調をきたしている兆しあり。トランス能力などLEBとしての性質に由来するものかは不明。
 所沢博士へ確認願う。

 

――― ――

 

to be continued……

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おまけ
ばにしんぐ☆ぽいんと り:ばーす 第4章
「やんで☆り:ばーす」

 


 

「Vanishing Point Re: Birth 第4章」のあとがきを
以下で楽しむ(有料)ことができます。
OFUSE  クロスフォリオ

 


 

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