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Vanishing Point Re: Birth 第6章

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前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

日翔の筋萎縮性側索硬化症ALSが進行し、構音障害が発生。
武陽都ぶようとに移籍してきたうえでもう辞めた方がいいと説得するなぎさだが、日翔はそれでも辞めたくない、と言い張る。
そんな「グリム・リーパー」に武陽都のアライアンスは補充要員を送ると言う。
補充要員として寄こされたのは秋葉原あきはばら 千歳ちとせ
そんな折、辰弥たちの目にALS治療薬開発成功のニュースが飛び込んできた。
近日中に開始するという。その治験に日翔を潜り込ませたく、辰弥と鏡介は奔走する。
その結果、どこかの巨大複合企業メガコープに治療薬の独占販売権を入手させ、その見返りで治験の席を得ることが最短だと判断する。
どのメガコープに取り入るかを考え、以前仕事をした実績もある「サイバボーン・テクノロジー」を選択する辰弥と鏡介。いくつかの依頼を受け、苦戦するものの辰弥のLEBとしての能力で切り抜ける四人。
不調の兆しを見せ、さらに千歳に「人間ではない」と知られてしまう辰弥。
それでも千歳はそんな辰弥を受け入れ、「カタストロフ」ならより詳しく検査できるかもしれないと誘う。
同時期、ALSが進行した日翔も限界を迎え、これ以上戦わせるわけにはいかないとインナースケルトンの出力を強制的に落とす。
もう戦えないという絶望から自殺を図る日翔に、辰弥は「希望はまだある」と訴える。
そんな中、辰弥の前に死んだと思われていたもう一体のLEB、「ノイン」が姿を現す。
「エルステが食べられてくれるなら主任に話してあきとを助けてもらえるかもしれない」と取引を持ち掛けるノインに、辰弥は答えを出すことができないでいた。

 

  第6章 「Re: Ject -拒絶-」

 

 帰宅し、日翔の部屋の前に立つ。
「日……」
 ドアに、その奥にいる日翔に声をかけようとするが言葉にならず、ノックのために上げた手もすぐに下ろされる。
 駄目だ、合わせる顔がない、と辰弥は呟いた。
 あの日、鏡介の提案に乗り日翔のインナースケルトンの出力を落としたあの日、日翔は自ら命を絶とうとした。
 それを直前で止めることはできたが、あの後気まずくて声をかけづらい。
 確かにあの時、マンションの屋上で辰弥は日翔に「生きて」と懇願した。日翔も「父さんと呼んでくれよ」と言ってくれたりもしたが、あれは日翔の自殺未遂という異常事態に互いの気持ちが揺れ動いただけで、結局のところ「インナースケルトンの出力を落とした」という事実に、落ち着いてからの二人は気まずくなっている。
 渚の診断で、日翔は食事やトイレ、入浴といった必要最低限の行動以外は全て制限されている。
 インナースケルトンの出力を落としたことで、日翔の現状ははっきりと浮き上がった。
 インナースケルトンなしではほとんど動くことはできない。そこまでALSが進行しているという事実に、辰弥と鏡介は絶句した。
 本来なら依頼どころの話ではない。ここまで進行していて、それなのに「あと少しで完済できるから」と日翔はずっと無理をおして依頼に赴いていた。
 もしかすると呼吸筋の低下による呼吸困難が出て良かったのかもしれない。あのまま依頼を受け続けていれば取り返しのつかないことになっていただろう。
 日翔には生きてほしい、治験を受けて快復してほしい。そのためにはまず日翔が無理をしないことが前提条件となってくる。下手に依頼に赴いて、インナースケルトンにトラブルが発生した場合、誰が彼を完璧にフォローするというのだ。
 だから、日翔が呼吸困難に陥ったことは不幸中の幸いだった、と辰弥は思っていた。
 無理に動くより安静にしていてくれた方が今の日翔は生存できる可能性が高まる。
 ――絶対に、助けるから。
 ドアの向こうの日翔に、祈るようにそう呟き、辰弥は鏡介の部屋に移動し、ドアをノックした。
「どうした?」
 ドアを開け、鏡介が辰弥を見る。
「相談したいことがある」
 伏し目がちにそう言う辰弥に、鏡介が「分かった」と部屋に招き入れる。
 鏡介の部屋に踏み込み、辰弥はベッドに腰を下ろした。
 鏡介はその向かいに椅子を動かし、座る。
「何かあったのか?」
 鏡介の問いかけに、辰弥は小さく頷いた。
「……ノインに会った」
 「ノイン」という言葉を聞いた瞬間、鏡介の眉が寄る。
「……生きていたのか」
 うん、と再び頷く辰弥。
「もしかして、とは思ってたよ。いや――生きているはずはない、って思いたかった」
 辰弥としてもノインの生死は確定していなかったがゆえに「できればあのまま灼かれてほしかった」と思っていた。
 同族の死を望むのは生物としてあってはいけないことだろう。しかし、ノインはあまりにも人間を殺しすぎた。それだけではない、「原初」のLEBである辰弥エルステを執拗に狙い続けていた。
 だから、あの廃工場で日翔に両断され、ナノテルミット弾を撃ち込まれて、逃げ切れずに灼かれてくれれば、と願ってしまった。
 それでも「もしかして」という可能性は辰弥の中に残っていた。死亡を確認したわけではないから生き残った可能性もある。もし生きていれば、いつか必ず自分を殺しに来るだろう、と。
 その懸念が現実のものとなってしまった。ノインは生き延びており、武陽都にまで来ていた。
 ノインが武陽都にまで来たのは恐らく自分が目的だろう、と辰弥は考えていた。
 辰弥は感じることができないが、ノインは辰弥の気配を感知している。どのような超感覚か、それとも第六感的なものなのかは分からないがノインは的確に辰弥の所在地を突き止め、接触した。
 日翔のALSが末期であることも認識しており、それを利用して取引を持ち掛けてきた。
「ノインに、取引を持ち掛けられた」
 あまりぐだぐだノインの生存のことを話しても仕方ない、と辰弥が本題に入る。
 取引? と繰り返す鏡介に、辰弥がうん、と頷く。
「俺の命を差し出せば、主任に言って日翔を助けるって」
 辰弥の言葉に再び鏡介の眉が寄る。
 ノインが辰弥を殺そうと、いや、捕食して辰弥第一世代が持ちえる造血能力をコピーしようとしていたということは分かっていた。だから、取引の内容も理解できる。
 ノインは辰弥の捕食を諦めていない。それどころか現状を把握して辰弥が取引に応じるよう話を動かしている。日翔の生存をちらつかせれば辰弥が食いつかないはずがないのだ。
 ただ、一つノインに誤算があるとすれば辰弥が即決で取引に応じなかったことだろう。
 ノインも上町府での生活で辰弥と日翔を見ていたのだ、二人の関係を考えれば辰弥は必ず応じる、そう考えていたのに彼は即決しなかった。
 辰弥が即決しなかった理由に、鏡介は心当たりがあった。
 ノインは約束を守らない。いや、前回、辰弥は取引に応じたにもかかわらずノインは日翔を殺そうとした。その事実があるから、辰弥はノインを信用していない。今回も応じたところでノインが主任に口利きするとは思えなかったのだろう。
 即決しなかった、というその判断は正しい。鏡介としても辰弥が一人で勝手に判断して勝手に死なれたりはしたくない。話を持ち帰ったのは褒めてもいいだろう。
 しかし、ノインの取引の内容があまりにも惨すぎる。
 鏡介に相談したところで、鏡介自身もすぐに答えが出せるはずがない。
 辰弥を選ぶか、日翔を選ぶか。もう二度と選びたくない選択肢を目の前に突き付けられるだけなのだ。
 そう思ったところで、鏡介はふと考えた。
 「主任に言って日翔を助ける」とは言ったが、一体どうやって?
 そこで思い出す。ノインが「主任」と呼ぶ男、永江 晃がどのような人物だったのか、を。
「……生体義体か」
 記憶のページをめくり、鏡介が呟く。
 うん、と辰弥が頷き、ノインの説明を伝える。
 なるほど、と鏡介は頷いた。
 日翔が義体化しない理由は単純だ。身体を義体に置き換えることで体内の血液を人工循環液ホワイトブラッドにする必要があるためで、日翔はそのホワイトブラッドを毛嫌いしている。
 だが、毛嫌いしているのはホワイトブラッドだけで、義体そのものを忌避しているわけではない。
 それは身体の一部を義体化している鏡介が一番よく知っている事だった。伊達に五年の付き合いをしていない。
 日翔は義体の人間を差別しない。ただ「ホワイトブラッドさえ使わなければ」とぼやくだけだ。
 それに、鏡介にはぽつりとこぼしていたのだ。「ホワイトブラッドさえなければ義体化して元気になれたのかな」と。
 そういったことを踏まえて、ホワイトブラッドを使用しない生体義体を提供すると言われたら。
 生体義体なら確実に日翔を助けられる。生体義体なら日翔も拒否することなく義体化することができる。
 ノインの取引が嘘でなければ、辰弥一人の命で日翔を救うことができる。
 逆に考えれば、日翔を確実に助けたければ辰弥を死なせなければいけない。
「……どうしよう」
 膝の上で拳を握り締め、辰弥が呟く。
「俺は……別に、構わない……と、思う」
 言葉を選ぶように、辰弥は自分の考えを口にする。
「俺は元々人間じゃない。生きていていい存在でもない。だったら、俺が死ぬことで日翔が助かるなら……。俺は死んでもいい」
 結論は出ているのか、と鏡介は内心毒づいた。
 そこまで考えていて、最終的な判断を俺に下させる気か、と腹立たしく思う。
 同時に思う。これが辰弥なりの結論の出し方なのだと。
 彼としては日翔が助かるなら自分などどうなってもいいと思っているのだろう。だが、取引に応じることで遺された日翔と鏡介のことが心残りとなってしまうのだ。
 だから自分では決められない、鏡介に最終的な判断を委ねて、その判断に従う。
 鏡介が「日翔を助けてやってくれ」と言えば辰弥はさっさとノインに自分を差し出すのだろう。
 ――無理だ。
 日翔を助けるために辰弥を死なせることはできない。辰弥を生かすために日翔を諦めることはできない。
 二人が生きていてこその「グリム・リーパー」であり、鏡介自身なのだ。
 二人が生きているからこそ鏡介も生きたいと思えたし、二人を生かすためなら死んでも惜しくない、と思う。
 だから、辰弥を死なせるという決断は下せなかった。
 だから、日翔を諦めるという決断を下せなかった。
 同時に、「ノインの取引に応じるべきではない」と本能が囁く。
 ノインの言う生体義体なら確実に日翔を助けられるだろう。
 だが、本当にノインは晃に話を付けてくれるのか? 日翔に生体義体を移植してくれと頼んでくれるのか?
 前回、日翔を解放するふりをして殺そうとしたことを考えるとどうしても信用できない。
 それに、まだ懸念点がある。
 仮に、ノインが晃に生体義体の話を持ち掛けたとして、彼がそれに応じるとも限らない。さらに、晃は現在御神楽の監視下にある。どうやって日翔に生体義体を移植するのかも分からない。移植できたとしても、確実に自分たちの居場所は御神楽にバレるだろう。
 辰弥が取引に応じれば御神楽が認識している彼の死は確定する。だからそこは考えなくてもいいかもしれないが、自分たちも危険にさらされる可能性が出てくる。
 駄目だ、取引に応じることはできない、と鏡介は数秒の間に考えをまとめた。
 辰弥には辛い思いをさせるかもしれないが、この取引には応じるべきではない。
「……辰弥」
 そう言って、鏡介は左手を伸ばした。
 辰弥の肩に手を置き、今まとめた自分の考えを告げる。
「俺は、取引に応じるべきではない、と思っている」
「……鏡介」
 鏡介を見上げる辰弥の目が揺らいでいる。
「どうして」
 俺が死ねば日翔は確実に助かる、と続ける辰弥に鏡介はゆっくりと首を横に振った。
「お前も感じているはずだ。ノインが必ず約束を守るとは限らない、と」
「それは」
 それは否定できない。ノインが約束を反故にする可能性があるから、辰弥も鏡介に相談した。
 約束を反故にする可能性はあったが、約束が守られた場合、日翔は確実に助かる。だから一人で判断できずに鏡介に相談した。
 それが分かっているから鏡介も考えた。
 その結果が、取引の実現可能性の低さだった。
「仮にノインが約束を守って永江 晃に生体義体の提供を打診したとしても、あいつが応じない可能性もあるし、第一あいつは今御神楽の飼い犬だ。俺たちも補足されてしまう」
「あ――」
 目を見開き、辰弥が声を上げる。
 その可能性を失念していた。
 仮に、日翔が生体義体を移植されたとしても今まで通りの生活はもう送れない。
 「一度は見逃す」と言った御神楽 久遠が、見つけた二人をどう扱うか。
 「次会った時は敵だ」とお互い認めた以上、「一般人になれ」と再び手を差し伸べてくれるとは思えない。暗殺稼業を続けたことで立件されるかもしれないしそうなる前に殺されるかもしれない。
 自分一人の命で日翔が救えるなら安いものだと思っていた辰弥だったが、鏡介の言葉に目が覚めた。
 自分の決断が、逆に二人を危険にさらす。
「……ごめん」
 目を伏せ、辰弥が謝罪する。
「……日翔を助けられるかもしれないということばかり考えて、その先のことを考えてなかった。それに……鏡介の言う通りだよね、ノインが約束を守ってもあいつが応じるとは限らない……」
 一瞬見えた日翔快復の可能性。しかし、それはただのまやかしだった。
 目の前の餌に釣られて、もっと大切なものを失うところだった。
 三人揃ってこその「グリム・リーパー」。三人で共に生きると誓ったのだ、勝手に命を棄てて、誰が喜ぶのか。
 辰弥の本音としては、「ここに千歳も入ることができればいいのに」ではあったが。
 千歳は人間ではない自分を受け入れてくれた、私がいるから、と言ってくれた。
 そこまで受け入れてくれた千歳とも、一緒に歩きたい。
 どうすれば日翔も鏡介も分かってくれるだろう、と考える。
 どうして、二人は千歳を疑うのかが分からない。
 千歳は俺を受け入れてくれたじゃないか。俺が「人間」と同じように扱われることは君たちの願いじゃないの、と思う。
 千歳は辰弥が人間ではないと知ってもなお、「人間」として扱ってくれた。化け物とも気持ち悪いとも一切言葉にしなかった。
 もしかすると気持ち悪いと思っているかもしれない。だが、それならどうして関係を持つ。気持ち悪いなら触れることすら忌避するだろう。
 だから、辰弥は千歳が自分を嫌っていないと断言できた。断言した上で彼女は敵ではない、と言えた。
 それでも、二人の信用に足る根拠とはならなかったが。
 辰弥の肩に置かれた鏡介の左手が頭に移動する。
 わしゃ、と軽く撫で、鏡介は微笑んだ。
「あまり思いつめるな。大変かもしれないが、なんとかして治験の席を確保しよう。大丈夫だ、きっと良くなる」
「……うん」
 辰弥が小さく頷く。
「ありがとう。ノインとの取引には応じない。ノインとしては俺を捕食したいだろうから、いつかはまたぶつかることになるだろうけど、今度は……負けない」
 あの時はトランス能力の有無が勝敗を分けた、と認識していた。それなら、辰弥もトランス能力を身に着けた今、負ける要素はどこにもない。
 単純な性能で言えば互角、しかし辰弥には先発というアドバンテージがある。晃に甘やかされて育ったノインと違い、早い段階で実戦を経験しているし暗殺者としての経験も積んでいる。
 実際、トランス能力を持っていなかったが故の貧血にさえならなければ辰弥は勝てていた。最後の最後に貧血で倒れたから余力があったノインに逆転を許してしまった。
 そう考えると、次は負けるはずがない。
 辰弥のその思いは鏡介も同じだった。
 次戦った時は必ず辰弥が勝つ、そう信じていた。
 ただ、それでもわずかに胸を刺す不安は何だろうか。
 ここ最近の不調か、と鏡介が内心で唸る。
 ノインとの戦いまでは辰弥の不調は専ら貧血であった。
 しかし、武陽都に来てからの彼は貧血の頻度が落ちた代わりのように謎の不調に悩まされている。
 不調自体はほんのわずかな時間動けなくなる程度だが、頻度も継続時間も増えている。
 それがやがては致命的なものになるのではないかという不安は辰弥にも鏡介にもあった。
 原因を突き止めて取り除かなければ、辰弥も日翔同様現場に立てなくなるのではないか、という。
 渚に検査してもらったが、辰弥はその結果を鏡介には伝えていない。
 「大したことなかった」と言っていたが、それが嘘であるということくらい鏡介も分かっている。
 一体辰弥の身体に何が起こっているのか。しかしそれを知るすべはない。
 一過性のものであればいいが、と思いつつ、鏡介はたった一言「無理はするな」とだけ呟いた。
「……うん。聞いてくれて、ありがとう」
 それじゃ、ご飯作るから、と辰弥が立ち上がる。
 部屋を出ようとする辰弥の背に、鏡介が声をかける。
「辰弥、」
「ん?」
 ドアノブに手をかけた辰弥が振り返る。
「日翔とはまだ気まずい状態か?」
 ずばり、言い当てられて辰弥が沈黙する。
「……どんな顔で接していいか、分からないよ」
 辰弥がぽつりと呟く。
 日翔を傷つけて、身動きできないようにして、日翔のためだと言いつつも、今の日翔は幸せだとは到底言えない。
 もっと自由でいてもらいたいのに、自由とは真逆の状態にしてしまって、どんな顔をすればいいのだ。
 それは鏡介も同じことだった。
 日翔がインナースケルトンの出力を自分の意志が及ばないところで落とされて、怒らないわけがない。
 きっと俺のことも恨んでいるんだろうな、と思いつつ鏡介は口を開いた。
「先延ばしにしていても、いいことはないぞ」
 言いたいことがあるならちゃんと言え、と続けて、苦笑する。
 俺は、言いたいことをちゃんと言えているのだろうか、と。
「……そうだね」
 辰弥が頷く。
「分かってもらえるかどうかは分からないけど」
 そう言い、辰弥は鏡介の部屋を出た。

 

 再び日翔の部屋の前に立ち、辰弥が大きく息を吐く。
 気まずいのは確かだ。それでも、何も言わずに冷戦状態のままでは取り返しのつかないことになった時後悔する。
 正直なところ、日翔と顔を合わせるのは怖かったが、同時に、日翔の傍にいたいという気持ちも強かった。
 ドアをノックし、中に入る。
 返事は聞かない。どうせ「入って来るな」と言ってくるだろうし今は放っておくよりも声をかけた方がいい気がする。
 欝々とした状態で一人でいると思考は負のスパイラルに入り込んでしまう。
 それこそ、再度自殺未遂を図ることもあり得るだろう。
 監視するため、というわけではないが目は光らせておいた方がいいだろう。
 辰弥が部屋に入ると、部屋の中は静かだった。
 ベッドを見るとちゃんと人の形に盛り上がっており、僅かに上下している。
 よかった、脱走してない、と安堵の息を吐き、辰弥はベッドに歩み寄った。
「……日翔、」
 日翔は辰弥に背を向けるような形で横になっていた。
《……なんだよ》
 辰弥の聴覚に声が届く。
「色々と、心配だから」
 辰弥がそう言うと、日翔は「そうか」と返してきた。
《トイレも風呂も付き添いありなのに脱走なんてできねーだろ。それに、今の俺じゃ自分で死ぬこともできねえよ》
 ほんの少し許された時間であったとしても武器を握れるほどの出力にしてもらえるわけでなく、自殺なんてとてもできるような状況ではなかった。
 ただただ「その時」が来るのを待つだけの時間。
 いくら辰弥が「希望がある」と言っても、その希望に縋ることもできない。
 ALSの治療薬が開発されたというニュースは日翔も早い段階で目にしていた。
 しかし、これから治験というのであれば一般流通するのに数年単位の時間はかかるし流通したとしても高額なものになるだろう。
 正規の国民情報IDを持っていない、桜花御神楽の医療費控除制度も利用できない自分たち(日翔はそもそも利用したくもないわけだが)には縁のない話だ。
 だから治療薬開発のニュースを聞いても日翔は「そうか」以上の感想を持てなかった。
 強いて言うなら「俺みたいに苦しむ人間が減るのかな」程度の感情だった。
 それなのに、辰弥は「治験の席を確保するために戦っている」と言っていた。
 最近、「サイバボーン・テクノロジー」からの名指しの依頼が多いのは金回りがいいから借金の完済が早まるように調整したと思っていた。しかし、それほど金に困っていない辰弥と鏡介が依頼を受けるのはその治験の権利を買うためなんだろうか、とふと考える。
 辰弥の発言からその可能性に思い至って、真っ先に思ったのが「無茶しやがって」だった。
 自分のALSはもう末期だ。現状を考えると近々人工呼吸器の世話になるだろう。普段の生活でも、もう息苦しいときがあるのだ。鏡介の「インナースケルトンの出力を落とす」という判断は間違っていない。
 そう、日翔も理解していた。鏡介がああでもしない限り自分は動き続ける、と。
 辰弥が少しでも自分が長く生きてくれることを願っている、ということも理解している。そのためにはこうするのが最適解だということも分かっている。
 それでも、日翔は立ち止まりたくなかった。どうせ死ぬのなら自分で借金を完済してしまいたかった。それが原因で早死にしても文句はない。
 だから、鏡介の判断は正しいと分かりつつも受け入れられなかった。それに同意した辰弥にも不満を覚えた。
 自分のわがままだとは分かっている。分かっているからこそ、感情の整理が追い付かない。
 自分の背後で辰弥が椅子に腰かけたのが気配で分かった。
「……日翔、」
 辰弥が日翔を呼ぶ。
「ごめん。だけど、インナースケルトンの出力は必要以上に上げない」
《だったら話すことは何もないだろ》
 不貞腐れたように日翔が答える。
「そんなことない。俺は、日翔が助かると信じてる」
 ゆっくりと、言葉を選ぶように辰弥が続ける。
「話したよね? 治験の席を確保するために戦ってるって。薬さえ手に入れば、日翔は助かると俺は……俺も、鏡介も信じてる」
 それは聞いた。聞いた上で、日翔はその言葉を信じていない。
《ここまで進行した病気が治るとかあり得ねえだろ。薬が効いたとしても、元通りに動けるなんてことがあるわけ》
「……そう、だね。昔のように、ということは望めないかもしれない。だけど、生きてさえいれば、リハビリで運動機能の回復は望めるし、そもそも俺は日翔が生きてさえいてくれれば、それでいい」
《こんな半寝たきりの奴の介護なんて一生続けられると思ってんのか?》
 日翔は薬の効果を信用していなかった。今まで服用してきた薬ですら進行を少し遅らせるので精いっぱいだったのだ。いくらALSを根治するものと言われても昔のように動き回れる体に戻れるとは思っていない。快復したところで、現状は長く続くだろうしリハビリがどれほど効果を持つかも分からない。
 もしかしたら「病状が進行しなくなる」を治癒と定義づけているかもしれないと考えれば、自分はもう動けない。辰弥のことだから治癒すればインナースケルトンの除去手術を受けろと言うかもしれない。
 体内に埋め込まれたインナースケルトンによる金属汚染もかなり進行している。除去しなければ治癒したところでやはり長く生きることは難しいだろう。
 それも踏まえて、今更治療しても意味がない、と日翔は考えていた。
 同時に、辰弥と鏡介に自分の介護を続けさせたくない、と思っていた。
 二人には自由に生きてもらいたい。自分という荷物を抱えずに、好きなように生きてもらいたい。
 できれば暗殺の道から外れてほしいがそれしかない、ではなくそれがいい、というのであれば構わない、と思う。
 だが、自分の介護だけは駄目だ。そんなことに二人の一生を棒に振らせたくない。
「日翔は俺にいろんなものをくれたんだよ? 名前も、居場所も、人間としての生き方も、何もかも日翔が俺にくれたものだ。それを何一つ返せないまま、日翔を喪ったら、俺はきっと一生後悔する」
 だから、日翔が生き続けてくれれば俺はそれでいい、と辰弥は続けた。
「俺は一生日翔を支えたい」
《プロポーズ相手間違ってんだろおい》
 辰弥に背を向けたまま、日翔が苦笑する。
 その言葉を言う相手は他にいるだろう、と思ってしまう。
 千歳のことが好きだと言う割に、どうして俺を優先させる、と少しだけ胸が痛くなる。
 こんな俺の介護に一生を費やすより、千歳と幸せに生きてもらいたい。
 だが、そこにどうしても彼女に対する疑いの念が付いて回る。
 その疑いさえなければ、日翔は辰弥を突き放すことができた。
 疑いがあるから、行くなと思ってしまう。
 難しい話だな、と思いつつ日翔は言葉を続けた。
《間違ってんだろ、とは言ったが、お父さんはあの女との結婚は認めません》
「なんで急に父親面するの」
 互いにそう言い合い、ふと笑う。
 やっぱり、日翔には元気になってほしい、と辰弥は思った。
 動けなくてもいい、それでも、残された時間を気にすることもなく、平和に生き続けてもらいたい、そう思う。
 そのためなら自分の命なんて惜しくない。日翔と鏡介が二人で生きてくれるのなら。
 そう思ってから、辰弥は「俺はいつまで戦えばいいんだろう」と考えた。
 あと何回、「サイバボーン・テクノロジー」の依頼を受ければ治験の席を確保できるのだろうか。
 「サイバボーン・テクノロジー」は「新薬の専売権を得られたら治験の席を譲る」と言っている。その約束が反故にされる可能性もなくはないが、今はそんなことはないと信じて戦っている。
 治験の日程を考える。多く見積もっても数回程度か。
 今、専売権の入札は「サイバボーン・テクノロジー」と「榎田製薬」が拮抗している。双方からの妨害工作を受けた「御神楽財閥」は一歩後退した状態となっているが油断はできない。
 早く治験の席を確定させたい。そして、日翔を助けたい。
 今、こうやって横たわる日翔を見ると心の底からそう思う。
 迷ってはいけない。
 大丈夫、もう迷わない。
 そう思い、辰弥は手を伸ばして盛り上がった布団をポンポンと叩いた。
「それじゃ、俺、ごはん作ってくるから」
 日翔に背を向け、辰弥は部屋を出ようとした。
《……辰弥、》
 もぞもぞと、思うように体が動かせないのに日翔が寝返りを打ち、辰弥の背を見る。
《辛かったら、辞めてもいいんだぞ》
 辰弥の背に、声をかける。
 実際はGNSによる念話ではあるが、その声は辰弥に届く。
「日翔……」
 ドアノブに手をかけた状態で辰弥は硬直した。
 振り返りたいが、振り返ることができない。
 辞めてもいい。
 迷わない、と決めたばかりなのにその言葉が心を揺らす。
 駄目だ、辞めてしまえば、日翔を助けられない。
 後戻りができない、なのではない。後戻りしたくない。
 ただ、前にだけ進んで、自分の悔いを残したくない。
 先の見えない戦いではあるが、辞めるわけにはいかない。
「……大丈夫だよ、日翔。俺は、必ず日翔を助けるから」
 そう言い、辰弥は部屋を出た。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 鏡介のGNSに通信が入る。
 応答すると、相手は暗殺連盟アライアンスのメッセンジャーで、「グリム・リーパー」宛てに依頼が入ったから持っていく、というもの。
 上町府にいたころは茜が「白雪姫スノウホワイト」に直接持って来ていたが武陽都のメッセンジャーは事前に連絡を入れてくれる。
 話を聞くと、今回はアライアンスの情報班が仕入れた各種情報を詰め込んだデータチップだけでなく他に渡すものがあるということで、メンバーが全員揃っている状態が望ましい、とのこと。
 分かった、と鏡介は頷いた。
 メッセンジャーが時間帯を指定し、鏡介がそれに同意する。
 通信が切れると、今度は千歳に回線を開き、鏡介は「依頼があるが、今回の打ち合わせは全員揃った状態で行う」と説明する。
 千歳が「分かりました」と応え、鏡介はリビングで紅茶を飲んでいた辰弥にも依頼が来たことを伝えた。
「……うん、分かった」
 他に渡すものがあるなんて珍しいね、と呟く辰弥に鏡介もそうだな、と頷く。
 依頼の受け渡しは情報漏洩やその他トラブルを考慮して、最初の段階ではデータチップしかやり取りしない。他に必要な物資があれば、データチップ内に記載された場所や時間に改めて受け渡しを行う。
 それなのにいきなり物資の受け渡しもある、ということで鏡介は、いや、辰弥と鏡介はほんのわずかに違和感を覚えていた。
 いつもと違う手順を踏めばトラブルが起こる、そんな予感はするが、だからといって相手が指定した手順を変えろとは言えない。
「……ねえ、千歳呼ぶんだったら一緒にご飯食べてもいい?」
 不安はあるものの、千歳を呼ぶなら、と辰弥がそんなことを言い出す。
「まあいいだろう」
 別に同じ食卓を囲むことまで制限する気はない。
 鏡介はまだ千歳のことを信用してはいなかったが、だからといって食事まで排除するというのは行き過ぎだろう。
 しかし、ここ暫く感じていた不快感を、鏡介は思わず口にしていた。
「……お前、秋葉原のことを名前で呼ぶんだな」
「えっ」
 辰弥が驚いたように声を上げる。
「千歳……そうだね、何か問題?」
 辰弥に言われて、鏡介が一瞬怯む。
 呼び方に問題があるわけではない。辰弥が誰をなんと呼ぼうが自由である。
 それなのに、辰弥が「千歳」と呼ぶことに不快感を覚えていた。
 いくら千歳が信用できないからといって、これは辰弥に踏み込みすぎているだろう。
 すまない、と鏡介は謝罪した。
「少し神経質になっていた。俺としては秋葉原はまだ信用に足りていない。信用に足る根拠があれば信用するが、今の秋葉原にはそれがない」
「……千歳は怪しくなんてないよ」
 思わず辰弥が反論する。
 自分が信じている人物を疑われるのは気持ちのいいものではない。
 千歳は自分のことを考えてくれている、人間でないと分かっても受け入れてくれる、それだけで彼女は信頼に足る人物だった。
 演技で人間ではない存在のことを好きといえるものか。踏み込んだ関係に至れるものか。
 千歳は自分を好きでいてくれる、何もかもを受け入れてくれている、そう思っていたし思いたかった。
「……それは、秋葉原と関係を持ったからか?」
 吐き捨てるような鏡介の言葉に、辰弥の目がわずかに見開かれる。
「なんでそれを」
「俺が気付かないと思うか。お前、結婚しても浮気できないタイプだぞ」
 千歳と出かけた後の辰弥を見ればすぐに分かる。明らかに機嫌はいいし、肌に出るのかすっきりした顔になっている。
 もう、何度そういう行為に至ったのだろうか、と思い返しつつも鏡介はわざとらしくため息を吐いた。
「お前はもう少し警戒するということを覚えた方がいいぞ」
「別に千歳は――」
 むっとしたように辰弥が反論しようとする。
 それを制し、鏡介は分かっている、と呟いた。
「秋葉原は信用に足る、ということだろう。だが、万一何かあった場合、俺は庇えないからな」
 それだけ言うと、辰弥も話は終わったとばかりに台所に移動する。
 武陽都に来てから、いや、千歳が「グリム・リーパー」に加入してからすれ違ってばかりだな、と鏡介はふと思った。
 ノインとの戦いで死んだと思われた辰弥が帰ってきて、御神楽に彼の生存を伏せたままにして、三人で生きて行こうと決めた。
 それなのに、最近の自分たちはどうだ、と考える。
 日翔の意に反した決断を下し、辰弥は千歳に惹かれ、三人の心は少しずつ離れていっている。
 日翔を助けたい、その思いは辰弥にも鏡介にもある。しかし、それぞれの間に生じた亀裂は少しずつ広がっているような気がした。
 日翔が快復したらまた以前のように過ごせるだろうか、そう考えて鏡介は小さく首を振った。
 いくら日翔が単純な人間でも意に反した決断を下して無理やりインナースケルトンの出力を落とした恨みは忘れないだろう。もしかすると辰弥は千歳と家庭を築きたいと願うかもしれない。
 もう、今までには戻れないだろうということは薄々感づいていた。
 だがそれでも構わない。日翔さえ助かってくれれば。
 それぞれがそれぞれの幸せを見つけて歩いていけばいいのだ。
 辰弥も日翔も自分の幸せを見つけたなら、自分は昔のように一人で正義のハッカーに戻ればいい、そう鏡介は考えた。自分の本名、正義まさあきの字が示すとおりにただ一人で悪を打ち砕く活動に戻ればいい。
 真奈美母親を見つけたし、一緒に暮らしたいと言っていたのだから自分が息子だと名乗って改めて再会してもいい。しかし、それよりは一人で生きていく方が性に合っている。
 そんなことを考えながら、鏡介も自室に戻った。
 PCの前に座り、椅子に体を預ける。
「……何が、全員の幸せなんだろうな」
 ぽつりと呟く。
 どの選択肢が最善だったのだろうか。どう行動すれば誰も傷つかずに済んだのだろうか。
 鏡介は自分の選択肢は間違っていない、と思いたかった。日翔を生かすため、少しでも快復の確率を上げるため、自分が全て背負うつもりであの決断を行った。
 だが、間違っていたのだろうか。
 本当は、もっといい方法があったのではないだろうか。
 考えたところで結論は出ない。それでも、考えずにはいられなかった。

 

 夕飯時分に千歳が来訪し、食事を済ませる。
 食事の際は日翔もインナースケルトンの出力を調整され、同じ食卓を囲んだが、食事が済むとすぐに辰弥に連れられて部屋に戻っている。
 気まずい状態が続いているのでここ暫くは三人が同じ部屋に揃って思い思いの作業をするということはない。だから慣れつつある状況ではあったが、今からメッセンジャーの到着を待って打ち合わせを行うことになる。
 現場に立てない日翔は部屋に戻した。辰弥と千歳は食後のコーヒーを飲みながら談笑、鏡介はソファに移動してディープウェブに潜り情報収集を行っている。
 鏡介が視界の時計を確認する。そろそろメッセンジャーが来る時間だな、と辰弥と千歳に声をかけると二人はすぐに頷いていつでも話を聞ける体制に入る。
 そうこうするうちにインターホンが鳴り、鏡介が出てメッセンジャーからアタッシュケースを受け取る。
「来たぞ」
 鏡介がテーブルにアタッシュケースを置き、それとは別に受け取ったデータチップもその上に置く。
「前回の依頼で日翔がもう動けないことを確認した。今後の依頼は日翔抜きでやる」
 依頼内容を確認する前に、鏡介がそう宣言する。
「……うん」
「分かりました」
 辰弥と千歳が頷き、姿勢を正す。
「そう固くなるな。日翔が抜けた分、今回から俺も現場に立つ」
 二人が緊張したな、と判断し、鏡介は二人を安心させるように続けた。
 日翔はもう限界だと渚に告げられた時に決めた覚悟。
 そもそも、右腕と左脚を失って義体化した際に激しい戦闘にも耐えられるように戦闘用の義体を装着したのである。今まで現場に出なかったのがおかしいくらいである。
「現場に立つ、って……水城さん、戦えるんですか?」
 怪訝そうな顔をして千歳が尋ねる。
 無理もない、いくら鏡介が戦闘用の義体を装着していると言っても戦っているところは見たことがないし戦えるようにも見えない。
 辰弥から「鏡介のことを絶対にもやしと呼ばないで」と言われたからもやし呼ばわりはしていないが体型もひょろっとした細身で、生身部分に筋肉が付いているとも思えない。
 だから思わずそう尋ねてしまったが、鏡介は「大丈夫だ」と即答した。
「俺の義体は戦闘用だと分かっているだろう。いつまでも宝の持ち腐れにはしておけない」
 宝の持ち腐れ状態だったものを、使えるようにする。そんな当たり前の決断を鏡介は日翔の戦線離脱で行った。
 以前から辰弥や鏡介に揶揄されていた「人を殺せない」という問題は残っている。
 いくら辰弥の救出で敵に直接手を下したとはいえ、いざ依頼で人を殺すと考えると抵抗感はある。
 ハッキングで脳を焼くのとは話が違う。他人の脳は平気で焼けるが、それは目の前に対象がいないということと、自分の手で直接殺す感覚がないからできることである。いざ武器を握って目の前の人間を殺せと言われたら躊躇ってしまう自覚はある。
 それでも、贅沢は言っていられない。
 日翔が現場に立てない今、一人減った状態で「サイバボーン・テクノロジー」の依頼を受けるのは危険だ。それこそまた「カグラ・コントラクター」と戦うようなことになれば生き残れる可能性はほとんどない。
 だからこそ、鏡介も現場に立つ必要があった。
 人を殺すことに躊躇する自分がどこまで二人の役に立つのかは分からない。
 それでも、鏡介には二人が持ちえない秘密兵器がある。
 いや別に秘密ではないし辰弥の前では既に使っているからもう分かっているようなものだが、出し惜しみをしている場合ではない。
「とにかく、俺も現場に出る。射撃プログラムも格闘プログラムも入れているから足手まといにはならない」
「……そう、」
 それでも不安なのだろう、辰弥が難しい顔で頷く。
「……でも、それだとハッキングサポートはどうなるの」
「a.n.g.e.l.の補助を使う。かなりの操作範囲を音声認識プリセットに入れたから必ずしも後方にいないといけないというわけじゃないからな」
 分かった、と辰弥が頷く。
「それで、今回の依頼は?」
 ああ、と鏡介が頷いてアタッシュケースの上に置いたデータチップに手を伸ばした。
 鏡介の指がデータチップに触れる。
 その瞬間、鏡介は叫んだ。
「伏せろ!」
 その言葉を受け、辰弥と千歳がテーブルの高さより下に頭を下げる。
 鏡介も頭を下げるが、その視界の隅でアタッシュケースが開くのが見えた。
 開いたアタッシュケースの隙間から煙が漏れる。
「ガスだ!」
 まずい、と鏡介が辰弥を見る。
 辰弥が頷き、即座にガスマスクを二個生成、鏡介と千歳に渡す。
「絶対に吸わないで!」
 辰弥が二人に指示を出し、身体を起こしてアタッシュケースを掴む。
 外に投げ捨てようとして、それでは一般人に被害が出ると考え、アタッシュケースを丸ごと包み込む密閉容器を生成して閉じ込める。
 ガスが漏れないことを確認し、辰弥は部屋の隅に走り、窓を開け放した。
 その間、鏡介と千歳はガスマスクを装着、周囲に警戒を払っている。
「……って、辰弥さん!?!?
 ガスマスクを装着して辰弥の動きを目で追っていた千歳が声を上げる。
 辰弥はガスマスクを装着していなかった。
 その状態で、素手で、アタッシュケースを処理している。
 鏡介も驚いたように辰弥を見るが、当の辰弥は顔色一つ変えることなく愛用のハンドガンTWE Two-tWo-threEを生成して初弾を装填している。
「お前、マスクは!」
 鏡介が辰弥に問いかけるが、辰弥は「そんなこといいから」と日翔の部屋を見る。
「多分ガスは流れてないと思う。だけど――」
 そこまで言ったところで辰弥は銃を玄関の方向に向けた。
 同時、銃声と共に玄関が蹴破られ、中にガスマスクを装着した複数の人間が銃を手に乗り込んでくる。
「使って!」
 辰弥が鏡介に手にしていた銃を投げ、新たにPDWTWE P87を生成する。
 千歳はどうする、と視線を投げ、新たにハンドキャノンデザートホークを生成して彼女に投げる。
「ち、気付きやがったか!」
 ガスマスクをかぶった侵入者の一人が叫ぶ。
 同時、侵入者たちは一斉に引鉄を引いた。
 無数の弾丸が辰弥たちに迫る。
「チィ!」
 咄嗟に鏡介が右腕を侵入者の方向に突き出した。
 右腕のギミックが展開、内部に隠されていたモジュールが露になる。
 その瞬間、青く光る六角形のタイルが広がった。
 銃弾がタイルに触れる。と、その瞬間に全ての銃弾が推進力を失い床に落ちる。
「な――反作用式擬似防御障壁ホログラフィックバリア!?!?
 侵入者の一人が再び叫ぶ。
 その侵入者に向かって辰弥が飛び掛かった。
 ホログラフィックバリアの効果範囲を抜け、P87の引鉄を引く。
 辰弥の精密な射撃に何人かが床に沈む。
 相手の弾幕が途絶えたところで鏡介も右腕を元に戻し、Two-tWo-threEを構えた。
 GNSにインストールした火器管制システムFCSによって対象を捕捉、ロックオン。義体を制御して一発必中の状況を作り出す。
 ――が。
「……っ!」
 引鉄さえ引けば確実に相手の命を奪える状況で、鏡介はそれができなかった。
 ほんの一瞬の躊躇が隙を作り、相手が壁の横に身を隠す。
「鏡介、何やってんの!」
 辰弥が叫ぶ。
 直後、鏡介が撃てなかった相手の頭がはじけ飛ぶ。
「現場に立つって言っておいて隙を見せるとかやる気あるんですか!?!?
 銃口から煙を上げるデザートホークを、たった今射殺した相手から外しながら千歳も怒鳴る。
「撃てないなら日翔を守って! ここは俺たちで何とかするから!」
 辰弥の怒声に鏡介は慌てて銃を握り直した。
 今度は躊躇わない、と引鉄を引くがFCSの補正が終わる前に動いてしまい、止めを刺すには至らない。
「下手くそ!」
 辰弥が再び怒鳴る。
「仕方ないだろ! 撃ち合いには慣れてないんだ!」
 実際、鏡介が銃弾飛び交う前線に立ったことがあるとすれば、あの、IoLにあった第三研究所脱出の時だけではないだろうか。あの時は辰弥を逃がすことで精いっぱいだったが、あの時と状況が違う。
「口を動かしてる暇があったら手を動かしてください!」
 千歳がデザートホークを連射、マガジン一本撃ち切ったところで辰弥が次のマガジンを生成して彼女に投げる。
「すまん!」
 鏡介が謝罪しながら引鉄を引く。今度はFCSの認識通りに敵を撃ち抜く。
 目の前で頽れる侵入者に対し、鏡介は一瞬「どうして」という思いが胸を過ったがすぐに感情に蓋をして次の侵入者を狙う。
 綺麗事を言っていては日翔を助けられない。辰弥を助けるために手を汚した自分が日翔の時にそれができないとは言えない。
 鏡介の目の前で一人、二人と侵入者が倒れていく。
 何人けしかけたんだ、と思いつつも鏡介はa.n.g.e.l.に指示を出した。
「a.n.g.e.l.、周辺の味方以外のGNS反応はいくつある!」
『「グリム・リーパー」メンバー及び近隣住人を除いて、生体反応のある所属不明のGNS反応は四つあります』
 a.n.g.e.l.が即座に返答する。
 よし、と鏡介が呟く。
「やれ!」
『了解しました、広域HASH展開します』
 たった一言の指示だが、単体で超高性能の演算能力を持つa.n.g.e.l.は的確にその指示を把握し、実行する。
 まずは辰弥と千歳、そして近隣住人のGNSに防御プログラムが展開される。
 辰弥は慣れたものだったが、千歳はプロテクトを簡単に破ってのGNSハッキングガイストハックに「なにこの人……」と声を上げる。
 次の瞬間、この家を中心として無差別にHASHが展開された。
 辰弥や千歳、日翔、それから彼らが知る近隣住人は防御プログラムで無効化されるが彼らの家があるフロアと上下一階分にいる全ての人間にHASHが送り込まれる。
 リビングから玄関までの廊下と、共用スペースの通路から叫び声が聞こえる。
 それを合図に辰弥が床を蹴り、倒れた侵入者たちを容赦なく射殺する。
「……ふぅ……」
 沈黙が訪れ、辰弥が息を吐き、何事かと顔を出した隣の住人に「ただの強盗です」と説明した。
 幸いなことに、上町府のアライアンスと同じくこのマンションは武陽都のアライアンスのメンバーが管理しており、住人もメンバーがそれなりにいる。
 特にこのフロアはトラブルが発生しても通報されにくいように、アライアンスのメンバーや所属はしていないものの裏社会に関わる人間が密集している。多少の銃撃戦程度では通報すらされない。
 隣の住人が「マジかあ」などと呟きながら室内に戻り、辰弥はとりあえず、と共用スペースに転がった死体を自分の家に引きずり込んだ。
「鏡介、特殊清掃呼んで」
「もう呼んだ」
 短い会話で必要なやり取りを済ませる。
 室内にガスが残っていないことを確認し、鏡介と千歳がガスマスクを外す。
「……罠……か」
 密閉されたアタッシュケースを眺め、鏡介が呟く。
「そうだね。『グリム・リーパー』のことが他のライバル企業に漏れたのかな」
 このアタッシュケースの処理、どうしようねなどと呟きながら辰弥はちら、と日翔の部屋に視線を投げた。
《大丈夫か?》
 当然、物音は日翔にも聞こえているわけで、辰弥たちを気遣ってくる。
「襲撃された。もう全員排除したから安心していいよ」
 ドアを少し開けてそう声をかけ、辰弥は日翔が無事であることを確認した。
 そうか、と日翔が寝返りを打ったところで安心してドアを閉じる。
「……どこで俺たちのことがバレたんだろう」
 足先で死体を蹴り、辰弥が呟く。
 しかし、誰が、何故襲撃したのかよりも先に解決したい疑問が鏡介にはあった。
「おい辰弥」
 戦闘後の脱力か、どっかりと血まみれのソファに座りながら鏡介が辰弥を見る。
「何、」
 掃除が終わるまでは我慢しなよ、と言いながら辰弥も鏡介を見る。
「お前、マスク使ってなかったが……大丈夫なのか……?」
 辰弥がガスマスクを生成してからずっと思っていた疑問。
 戦闘中はそれどころではなかったが、こうやって落ち着いてみると何故か真っ先に疑問に思ってしまう。
 毒ガスという、人体に多大な影響を与えるものを何の防護もなく凌いだ辰弥に、やはり人間ではないのかという思いが胸を過る。
 いや、鏡介としては辰弥は人間だという認識がある。人間と同じ姿で、人間と同じ思考で、人間と同じ言葉を話して、それを化け物だと言いたくない。それでもあまりにも人間離れしたことをされると、どうしてという思いが浮かんでしまう。
 そんな鏡介の思いにはお構いなく、辰弥はああそれ、と苦笑した。
「LEBの耐毒性能舐めないでよ。一部の薬も効かないんだから」
「……そういえばそうだったな」
 以前、辰弥に同じことを言って同じ答えをもらっていたことを鏡介は思い出す。
 あっけらかんとして言う辰弥に、もう前の彼ではない、と思う。
 上町府にいた頃は、全てが明らかになる前の辰弥だったらこんなことは言わなかっただろう。
 全てが明らかになり、ノインとの戦いを経て帰還した辰弥は変わっていた。
 眼の色を変えただけではない。人間でありたいという自分の願望を棄て、LEBとしての在り方を受け入れた。それ以来、鏡介たちの前で普通に物質の生成を行うしトランスも行う。
 千歳の前でだけはそれを控えていたが、彼女にも自分が人間でないと知られてからは隠すことなく能力を使っている。
 辰弥がそれでいいと思っているならそれを制限する権利はないが、それでも人間としての在り方を棄てた彼に心が痛む。
 本当は誰にも何も知られずに、人間でいたかっただろうにという思いが浮かんでしまう。
 それが自分のエゴだとは分かっているから、何も言わない。
 それでも何が辰弥の幸せだろう、とは考えてしまう。
 渚から聞いた。辰弥に子を成す能力はないと。それでも千歳と関係を持ってしまったのはやはり、人間でありたかったからなのではないか、と。
 できれば能力など使わなくてもいい生活を送ってもらいたい。千歳に対する疑いが晴れれば笑顔で送り出したい、とも思う。
 それが叶わない願いだとは分かっていた。
 辰弥が足を洗ったところで千歳もそうできるとは限らない。一般人になったところで真っ当に生きていけるほどこの世界は甘くない。
 この世界の残酷さに、鏡介は何も言えなくなった。
 ただただ、辰弥が幸せになるにはどうすればいい、と思うだけだった。
 そう考えていると辰弥がふらり、とよろめき、「ごめん、貧血」と低く呟く。
「無理して武器を複数生成するからだ」
 辰弥に駆け寄り、鏡介が輸血の必要を確認する。
「……輸血は、した方がいいね……」
「とりあえずお前は部屋に戻って輸血してこい」
 辰弥を支えて彼の部屋に連れて行き、輸血の準備を手伝う。
「別に俺一人でできる」
 少しふらつきながらも準備を終えた辰弥が腕に針を刺すと、鏡介が無言でパックを手に取りカーテンレールにぶら下げる。
「分かっているが、もう少し自分を大切にしろ」
 そう言いながら鏡介は辰弥にブランケットを掛け、頭をポンポンと叩いた。
「とりあえず輸血が終わるまで休んでいろ。それまでは俺と秋葉原で警戒する」
「……うん」
 辰弥の返事に鏡介がふっと笑い、部屋を出た。 
 やがて、アライアンス所属の特殊清掃班が到着し、死体の処理と血に塗れた室内の清掃を始める。
 それを部屋の隅に集まって眺め、鏡介は気付かれないようにため息を吐いた。
 これが自分たちの選択。これしか選ぶことができなかった責任。
 手際よく清掃され、壁や家具の傷以外は何もなかったかのようになっていく室内に自分たちもこうなるのかとふと考える。
 自分たちが死んだとしても、何もなかったかのように世界は回っていくのかと。
 時間にして二時間もかかっただろうか。
 すっかりきれいになった室内を残し、特殊清掃班が帰っていく。
「……大変だったな」
 今までの一連の流れを思い返し、鏡介が呟く。
「……結局、今回の依頼は嘘だったってこと?」
 輸血を終えた辰弥がリビングに戻ってきて問いかける。
「恐らくな。『グリム・リーパー』が『サイバボーン・テクノロジー』に与していることを知ったライバル企業が依頼するふりをして刺客を放った、と考えるのが妥当だろう」
 そう言ってから、鏡介はちら、と千歳を見た。
「個人的にはあまり言いたくないが……。秋葉原、今日は泊まっていけ。辰弥、お前の部屋を貸してやれ」
「えっ」「えっ」
 鏡介の言葉に辰弥と千歳が声を上げる。
「一人で移動しているところを狙われないとも限らない。これだけ派手にやって失敗したんだ、すぐに体勢を整えて再襲撃してくることもないだろう。だったら泊まっていった方が安全だ」
「分かりました。辰弥さん、部屋、お借りしますね」
 流石に千歳を一人で帰らせる気は鏡介にもなかったが、辰弥を護衛につかせれば彼が帰りに襲われる可能性もある。大事を取って千歳の家に泊まれと言うこともできたが一応は保護者の一人である手前、辰弥を女性の家に一人で泊まらせるようなことはさせたくない。二人がどういう関係かは分かっていたが公認できるほど鏡介は千歳を信用していなかった。それなら千歳をこの家に泊まらせた方が無難である。
 千歳が同意したことで辰弥が「それなら」と頷く。
「大丈夫かな、布団、臭くないかな……」
 おろおろとそんなことを呟きだす辰弥に「こいつはやっぱり人間だな」と鏡介が苦笑する。
「気にしませんよ。とりあえず、お風呂借りてもいいでしょうか? 体洗いたいです」
 泊まると決まれば話は早く、千歳がそう確認してくる。
 ああ、好きに使ってくれ、と鏡介が頷く。
「俺は……ちょっと日翔の様子見てくる」
 少し居心地が悪くなったか、辰弥がいそいそと日翔の部屋に入っていく。
 その様子は、つい先ほどまで襲撃に遭い、戦闘したとは思えないもの。
 全員にとっての日常がもう戻っていた。
「日翔、大丈夫?」
 ベッドの前に立ち、辰弥が日翔に声をかけた。
《正直、何もできない自分がもどかしい》
 拗ねたような日翔の声が聴覚に響く。
「気にしなくていいよ。大丈夫、俺が守るから」
 日翔には指一本触れさせない。
 日翔は何も心配する必要がない。
 それでも、「早く日翔が元気になって今までみたいな配置で依頼を受けたい」と思った。
 以前、日翔が言っていたように薬が効いてももう動けない可能性もある。
 そうなるとは思いたくなかった。インナースケルトンがなくても自由に動けるようになって、依頼を受けられるようになると思いたかった。
 それに、そうなれば鏡介も現場に立たなくて済む。
 今回の件でよく分かった。
 鏡介は人殺しには向いていない。どうしてもとなれば引鉄は引けるが、それでも躊躇いの方が大きすぎる。ハッキングでなら脳を焼けるかもしれないが、それだけだ。
 実際に人間を目の前にして殺せない鏡介を無理に現場に立たせたくない。
 ――日翔、元気になってよ。
 今までの日常を取り戻すために。
 日翔に聞こえないようにそう呟き、辰弥は彼に背を向けた。
 部屋を出ると、ちょうど鏡介が部屋に戻るところだった。
 日翔の部屋から出てきた辰弥に気付き、鏡介が振り返る。
「ああ辰弥、ちょうどよかった」
 鏡介の言葉に、辰弥が首をかしげる。
「ちょっと買い出しを頼まれてくれないか?」
「買い出し?」
 確かにすぐには再襲撃はないだろうが、千歳を帰らせなかったのは道中で襲われることを警戒してだったのではなかったのか。
 それなのに買い出しに行けとはどういうことだろうか。
 ……とは考えたが、いつも買い出しに行く商店街は人通りが多く、下手に襲撃すればすぐに通報されるだろう。商店街に行くには裏通りを通れば近道になるが通らなければ大丈夫なはずだ。
 それなら、と辰弥が頷いた。
「何を買ってきたらいいの?」
「秋葉原のお泊りセット買ってこい。あ、下着を買ってこいという話じゃないぞ。歯磨きセットと化粧水のトラベルセットくらい用意しておけば大丈夫だろう。あとは――」
 そんなことを言いながら、鏡介が辰弥に買い出しリストを転送する。
 リストを確認し、辰弥は分かった、と頷いた。
 一旦自室に戻り、ジャケットを羽織る。
「じゃあ、行ってくる」
 辰弥がちら、とリビングを見る。
 千歳の姿がないところを見ると先程の宣言通り風呂に入ったのかもしれない。
 外に出て、辰弥は冷たい風にぶるりと身を震わせた。

 

 辰弥を見送ってから、鏡介が自室に戻りPCの前に座る。
 今回の襲撃、色々と確認しておかないと今後に関わってくる。
 キーボードに指を走らせ、情報を集める。
 今回、敵は「グリム・リーパー」と名指しにしてアライアンスに依頼を持ち掛けてきた。
 その際に毒ガス入りのアタッシュケースを渡して「打ち合わせの際に開けるように」と指示を出したのだろう。
 襲撃の後、特殊清掃班が来るまでに回収したデータチップを手に取って眺める。
 データチップは基本的にアライアンスの情報班が収集した各種データを格納して対象チームに手渡している。ウィルスの類は入っていないだろう。
 データチップをPCのスロットに挿入する。
 データをロードすると依頼についての詳細が表示される。
「……」
 依頼としては「グリム・リーパー」に依頼を回す「サイバボーン・テクノロジー」医薬品販路担当部門のジェームズの暗殺。依頼人は個人名になっていたがジェームズと「グリム・リーパー」の関係を知る一般人がそうそういるとも思えず、GNSの経路偽装か何かで踏み台にしたダミーだろう、と判断する。
 一番考えられるのは現時点で「サイバボーン・テクノロジー」と同列で入札している「榎田製薬」だ。さもなければ下位ながらも入札競争に食い込んでいるライバル企業の差し金かもしれない。
 しかし、「サイバボーン・テクノロジー」とのつながりを知られたな、と鏡介は呟いた。
 これからは「グリム・リーパー」を直接狙う企業が現れるかもしれない。
 もしかするとより高額な報酬を払うからこちらに付けと言ってくる可能性もある。
 だが、それだけはできなかった。
 「グリム・リーパー」が求める報酬はALS治療薬の治験の席である。確かに治験の席くらいは他の企業も与えらえているだろうがそれを報酬として提示してくるとは考えにくい。治験の席が欲しいと要求したのは「サイバボーン・テクノロジー」に対してだけだ。それ以外でその話を表に出したことはない。
 そう考えるとこちらから治験の席を要求すれば報酬として提示してくれる可能性はあるが、この世界は依頼人の方が立場は強い。それこそ、「サイバボーン・テクノロジー」のように「専売権を確保させてくれれば考えよう」と言われる可能性が高い。
 それなら他の組織に寝返らず「サイバボーン・テクノロジー」に付き続けた方が確実性は高い。他の企業からの鉄砲玉火の粉など自分で振り払えばいい。
 最終的に、日翔に治験を受けさせることができればいいのだ。
 それでも、どの企業がけしかけたのかは調べておきたい。
 a.n.g.e.l.の考察も聞きながら今回の偽の依頼について調べる。
 報復は考えていない。下手に報復すれば報復が連鎖するだけだ。
 一応、引っ越しも考えた方がいいか? と鏡介は考えた。
 自分たちの所在は突き止められてしまっている。今後も襲撃される可能性は高い。
 しかし、そう考えてもこの家以上にアライアンスの保護が手厚い住居はあまりない。
 アライアンスが所属メンバーに貸し与える住居は何もこのマンションだけではない。ただ、マンション自体のセキュリティ面や他のメンバーによる相互援助を考えるとどうしても他のマンションは手薄になる。そこで襲撃された場合、今回のように「なんだ」で済まされることなく通報されるかもしれない。
 いや、引っ越さない方がいいな、と考え直し、鏡介は念のためマンション内に張られた通信回線を確認した。
 もしかしたら実行犯ではないがこの家を監視している人間がいるかもしれない。前のように自分たちの動きが筒抜けになっているかもしれない。
 あの時も一度全館スキャンを行ったが、鏡介はもう一度スキャンを開始した。
 全住人の回線使用状況がディスプレイと視界に表示される。
 a.n.g.e.l.にフィルタリングさせ、無関係なものから除外していく。
「……ん?」
 その中で、鏡介は一つのファイルに目を留めた。
 住人ではないが、このマンションのアクセスポイントを経由してどこかに送られた一つのファイル。
 何故、このファイルに目が留まったのかは分からない。
 a.n.g.e.l.のフィルタリングにも引っかかった一つのファイル。
 嫌な予感を覚え、鏡介は転送されたそのファイルの残滓を復元した。

 

エルステ観察レポート

 

 エルステの住むマンションのリビングでの戦闘。
 武器を複数回生成していたため、強い貧血に陥る様子あり。やはり生成による一時的な血液の不足はどうにもならないようだ。
 特筆すべき点は彼が新たに発揮した耐毒性だ。
 強い毒性ガスに晒されたにも関わらず、ガスマスクなしで乗り切った。
 所沢博士からの報告で第一世代LEBは耐毒性が高いというのは情報としては存在していたが、今回、実際にそれを目の当たりにしたことで、彼の証言が嘘でないことが明らかになった。

 

――― ――

 

「……これ、は……」
 鏡介が絶句する。
 「エルステ観察レポート」、これを書いた誰かは明らかに辰弥=エルステと認識している。
 誰だ、誰が書いた。
 この家が監視されている、そのための調査をしていたのに手を止めて考える。
 ここまで詳細に書かれていることを考えると考えられるのはたった一人しかいない。
 名前は暗号化されているが、恐らくは千歳だ。そうに違いない、他には考えられない、と鏡介は考えた。
 暗号化はかなりの強度を誇る方式が用いられており、鏡介でも復元は不可能。
 それでも、復元する必要もないほどに鏡介は確信してしまった。
 このマンションのアクセスポイントを使用していること、この部屋にいないと知りえないことを知っている、そしてこの部屋で一部始終を見て生きている自分たち以外の人間は一人しかいない。鏡介にはそうとしか思えなかった。
「秋葉原……」
 鏡介が低く唸る。
『このマンションのアクセスポイントはマンションの居住者なら誰でも使用出来ます。監視手段も不明ですから、この部屋にいた人間だけに容疑者は絞れません』
「いいや、裏切り者は秋葉原だ!」
 鏡介の唸りから思考をトレースしたa.n.g.e.l.の警告を、しかし鏡介は無視する。
 また、どこに送られた、は文面から何となく分かった。いや、本文に書かれた「所沢博士」という名前で確信した。「カタストロフ」だ。
 「所沢」という名前は以前、「フィッシュボーン」の粛清を行った際、メンバーのGNSから情報を抜いた時に目にしていた。LEB研究のために御神楽第一研究所に在籍していたという所沢。第一研究所と言えば四年前に特殊第四部隊に粛清され、壊滅していたはずだ。そして、辰弥はその第一研究所から逃げ出した個体である。
 つまり、所沢博士という人間は辰弥エルステを生み出した張本人かもしれない。
 ぎり、と鏡介の奥歯が鳴る。
 千歳は「カタストロフ」に辰弥を連れて行く気だ。LEB再開発のためのサンプルとして。
 今まで辰弥に寄り添ってきたのも、辰弥と関係を持ったのも、もしかすると彼を信用させ「カタストロフ」に加入させるための演技だったのかもしれない。
 全ては嘘だった、そう、鏡介は思った。
 そう考えると、全て辻褄が合う。
 千歳が「カタストロフ」を除籍されたという話も、彼女が「グリム・リーパー」の補充要員として寄越されたことも、彼女が辰弥にだけ異様に靡いていたことも、全て。
 駄目だ、これ以上千歳を辰弥に近づけてはいけない。辰弥は騙されている。
 自分や日翔以外に優しくされ、好意を告げられ、「自分には愛される権利などない」と思い込んでいた心に踏み込まれ、真実を見失っている。
 弾かれるように立ち上がり、鏡介はドアを開けた。
 リビングで髪を拭く千歳と目が合う。
「秋葉原!」
 鏡介が声を荒らげる。
「お前は――騙していたのか、辰弥のことを!」
 視線だけで射殺してやるとばかりに鏡介が千歳を睨みつける。
 そんな鏡介に、千歳は笑みを浮かべ、
「何を言っているんですか、水城さん」
 そう、落ち着き払って返事をした。

 

 買い出しを終え、辰弥が買い物袋を抱えて帰路に就く。
 輸血を終えたばかりということもあり、身体は軽い。ここでチンピラに絡まれたり襲撃されたとしても一人で切り抜けられる自信がある。
 足取りは軽かった。
 自分の家に、千歳が泊まる。彼女に部屋を貸せ、ということは自分はリビングのソファで寝ろということかもしれないが、それでも期待に胸が躍る。
 流石の辰弥も日翔と鏡介がいる場所で千歳と何かする気はない。それでも、一つ屋根の下で一夜を過ごすということは初めてで、旅行前日とはこういうものなのかと理解するほどには気分が高揚していた。
 どんな料理を作ろう、何を作れば千歳は喜んでくれるだろう、そんなことを考えながらマンションのエントランスに入り、エレベーターに乗り込む。
 千歳に料理を振舞うことは今回が初めてではないが、それでも毎回何を作るか、何がいいかは悩むところである。
 別に普段の料理が手抜きというわけではない。日翔と鏡介に対しても栄養バランスが取れて美味しいものを、ということは常に考えている。
 千歳にいいところを見せたいのか、と気付いて辰弥はエレベーターの中で苦笑した。
 自分にも人並みにいいところを見せたいという感情があったのか、千歳と出会ってそういう発見ばかりだ、と嬉しくなる。
 日翔と鏡介は自分を「人間」にしてくれた。人としての生き方を教えてくれた。
 だが、千歳は自分に人並みの感情を教えてくれた。人を好きになってもいいと教えてくれた。
 それが嬉しくて、幸せで、でもどうして日翔と鏡介は千歳を認めてくれないんだろう、そう考える。
 千歳は何も怪しくない。自分を慮ってより集中的な治療が望める「カタストロフ」への所属も提示してくれた。
 それは日翔や鏡介と離れたくないから受け入れるつもりはなかったが、「カタストロフ」に入ればもっと楽に日翔を助けられるのではないか、という思いはあった。
 今の「サイバボーン・テクノロジー」との契約は「グリム・リーパー」にはあまりにも重すぎる。関わりを察知され、襲撃も受けた。
 しかし、「カタストロフ」なら。「カタストロフ」と契約した「榎田製薬」に付けば。
 今までのように身を削らなくとも、日翔を助けられるかもしれない。日翔を遺して逝かなくても済むかもしれない。
 自分が死ぬことに関しては別に抵抗はない。元々生きていてもいい存在ではないから自分のために生きようとは全く思っていない。
 しかし、それで日翔や鏡介が悲しむのなら話は別だ。
 二人を悲しませたくない。いや、今は千歳も含めた三人を悲しませたくない。
 「サイバボーン・テクノロジー」に付いて治験の席を得た結果、自分が力尽きるのは仕方のないことだと思う。しかし、それで日翔や鏡介、そして千歳が悲しむのは見たくない。
 ここ暫く自分を襲う不調。原因は分からない。何故、自分が急激に老化しているのかも分からない。
 LEBとしての寿命が近づいているのだろうか、と考えて、辰弥はふと考えた。
 ――俺は、死にたくないのだろうか。
 死ぬのは怖くない。怖いとすればそれによって日翔たちが悲しむことだけだ。
 だが、ノインとの戦いで「死にたくない」と願った自分の心も理解できる。
 自分は生きていてはいけない、そう信じている。だが同時に死にたくない、とも思う。
 生物兵器なのに野放しにされていて、いつか制御できなくなった時に自分が大切な日翔たちを手に掛けてしまうかもしれない。だからそうなる前に死んでしまった方がいい、そう思っていた。
 それでも思うのだ。
 もし、そんな自分でも生きていていいと言ってくれる人がいるのなら、生きてもいいのかもしれない、と。
 日翔も鏡介も、千歳も辰弥の生存を願っている。彼らがいるなら、生き続けてくれるなら、死にたくない。
 俺って、幸せなのかもしれない、とふと呟く。
 よくよく考えれば、人間というものは異物を排除したがるものなのだ。ニュースでよく見かけるいじめ問題やホームレスに対する一般人の反応は大抵受け入れるのではなく排除するもの。
 自分のような「人間ではない」存在が受け入れられることは、普通に考えてあり得ない。
 研究所の面々も「お前は化け物だ」と虐げてきたのだ、受け入れられるはずがない。
 だから、研究所を脱出することができてもただ死ぬのが遅れただけですぐに野垂れ死ぬだけだと思っていた。
 それなのに、あの激しい雨の中、自分が濡れるにも拘らず傘を差し出し、手を差し伸べた日翔は。
 全てを知ってもなお「人間だ」と言ってくれたみんなが。
 自分は本当に幸運で、幸せなのだと辰弥は思った。
 だからこそ、自分を受け入れてくれた全員で生きていきたい。
 エレベーターが自分の家のあるフロアに到着し、辰弥が共用スペースを通り抜けて玄関を開ける。
 そこで、彼が目にしたのは。
 険悪そうな雰囲気で言い合う鏡介と千歳の姿だった。

 

「お前、辰弥のことを――!」
 今にも掴みかかりそうな勢いで鏡介が千歳に迫る。
 対する千歳は落ち着き払っており、それが? と答えている。
「だって、事実じゃありませんか」
「秋葉原!」
 気分が良いところからの大切な人二人の喧嘩を目の当たりにし、思わずショックで買い物袋を床に落とす。
 買い物袋の中には割れ物の卵なども含まれる。だが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。
 このままでは鏡介は確実に千歳に手を上げる。右手を使った場合、冗談では済まされない。
「ちょっと、鏡介何やってんの!」
 辰弥が二人の間に割って入り、鏡介の振り上げた右手を抑える。
「! 辰弥さん!」
 千歳がほっとしたように辰弥に縋る。
「何があったの……」
 鏡介から手を離し、千歳を抱きかかえるように腕を回し、辰弥が鏡介を見る。
「辰弥、そいつから離れろ!」
 鏡介が辰弥を千歳から引き離そうと手を伸ばす。
 それを一歩下がって回避し、辰弥も鏡介を見上げた。
「なんなの、どういうことか説明してよ」
 状況が全く飲み込めず、二人に訊ねる。
 一体何があったのか。何故、鏡介が千歳を責めている。
 鏡介が千歳に向かって自分の名前を口にしていたことは玄関に入った時に耳にしていた。
 俺のことで何かあった? それとも、俺が千歳と付き合うことを反対している? と辰弥が自分の中で解釈し、どうして、と呟く。
「辰弥、秋葉原はお前のことを――」
「水城さんが私のことを邪魔だって言うんです。証拠もないのに、私が裏切り者だって」
 千歳の言葉に辰弥が「えっ」と声を上げる。
 ――どういうこと? 話が全く分からない。
 千歳が裏切り者であるはずがない。何かの間違いだ。
 そうだ、自分たちの情報は敵に筒抜けになっている、きっとこの家を監視している誰かが巧妙に仕組んだ罠だ。
 自分たちを引き裂くための――。
「そいつから離れろ辰弥! 秋葉原はお前を騙している! そいつは敵だ!」
「どうしたの、鏡介。鏡介が証拠もなしに人を疑うなんて、ましてそんな感情的になって右手を振り上げるなんて、おかしいよ」
「おかしいのは俺じゃない、そいつだ! そいつはお前を騙してる。早くそいつから離れろ」
「水城さん、きっと私と辰弥さんが付き合っているのが気に入らないから……」
 千歳が辰弥により強く縋り付く。
 大丈夫、と千歳を抱きしめ、辰弥は鏡介を睨んだ。
「鏡介落ち着いて! 千歳の何が気に入らないの!」
 腕の中で震える千歳に、鏡介に対して憤りを覚える。
 千歳が「グリム・リーパー」に来てから、鏡介はずっと彼女のことを警戒していた。日翔も「鏡介が言うなら」と疑っている。
 千歳に何も疑わしいことはない。日翔を助けるために受けた無茶な依頼ですら何も言わずに付いてきてくれる。
 おかしいのは鏡介だ、そう、辰弥は判断した。
 確かに鏡介は女性を避けたがる傾向がある。見た目は女受けするイケメンなのにとにかく女性が苦手で、近寄らせない。
 今回もそれなのではないか、女性が苦手故に自分と千歳が付き合うのも耐えられないのではないのか、と考える。
「おかしいよ鏡介! いくら自分が女嫌いでも俺が誰と付き合うのかは関係ないよね!?!? 俺は千歳のことが好きだし、一緒にいたいと思ってる、なのにどうして認めてくれないの!」
 鏡介に向かって声を張り上げる。もしかしたら日翔にもこの声が響いているかもしれないが構ってはいられない。
「認められるか! これが信用できる人間だったら話は別だが、秋葉原はお前を騙している!」
 鏡介も負けじと声を張り上げる。
 分かってくれ、秋葉原はお前を売る気だ、と伝えたいが今の辰弥はあまりにも千歳に肩入れしすぎている。下手なことを言えば逆効果になってしまう。
 どうすればいい、と鏡介が唸る。
「証拠見せてよ! 千歳が裏切り者だっていう証拠!」
 辰弥が叫ぶ。
 返答次第では出ていく、と言わんばかりの辰弥に鏡介が一瞬怯む。
 だが、鏡介の中では状況が全てを構築していた。
「証拠なんてあるものか! だが、状況が、秋葉原は敵だと示している! それだけ秋葉原は巧妙な女狐だ、お前は誑かされているだけだ!」
「鏡介!」
 再び辰弥が叫ぶ。
 流石に今の言葉は一線を越えた。いくら鏡介であっても許せない。
「なんてこと……言うの……!」
 辰弥の声が震える。
 感情が制御できなくなり、鏡介に対して殺意すら沸く。
 いくら大切な仲間であったとしても、大切な千歳をそこまで貶す鏡介は許せない。
「鏡介なんて……嫌いだ!」
 辰弥の言葉にヒートアップしていた鏡介の意識が一気に冷える。
 柄になく取り乱した、落ち着いて辰弥を宥めなければ、と思うものの既に遅かった。
 辰弥が乱暴に千歳の手を引いて走り出す。
 彼の意図を瞬時に察して千歳も足を出す。
 鏡介だけが、一瞬反応が遅れ、伸ばした手は空を切る。
「辰弥!」
 鏡介が叫ぶが、辰弥はあっという間に靴を履いて玄関から飛び出していた。
 千歳もそれに続き、家の中はあっという間に静かになる。
「……辰弥……」
 鏡介が唸る。
 自分の言い方が悪かったのは頭の冷えた今の自分なら分かることだ。
 だが、それでも、頑なに千歳を庇った辰弥の盲目さにも苛立ちは募る。
 恋は盲目とはよく言ったものだ。
 これが、辰弥も千歳に恋愛感情を抱いてなくてただの仲間という認識であればもう少し耳を傾けてくれたかもしれない。
 そんなIfを考えても意味のないことではあった。現に辰弥は千歳を連れて家を飛び出してしまった。
 これからどうするつもりだ、と考えてすぐに首を横に振る。
《鏡介、なんか騒がしかった気がするんだが、何かあったのか? ってか……辰弥がグループチャットから抜けてるんだが……》
 どうやら日翔にも騒ぎは聞こえていたのだろう、鏡介に連絡が入る。
《辰弥にも個別で連絡入れてみたんだが反応なくてさ……》
 心配そうな日翔の声。
 そうか、辰弥は「グリム・リーパー」を抜ける気なのか、と鏡介もグループチャットのログを見て呟く。
「……いや、急に厄介な依頼が来てな……暫く辰弥一人で出張することになった」
 苦し気に、鏡介が嘘を吐く。
「俺たちとつながってるのがバレるのも危険だからな、一旦チャットを抜けてもらったんだ」
《そっか……》
 しばらく辰弥の飯が食えなくなるのかーとぼやく日翔に、鏡介がほんの少しだけほっとしつつも嘘を吐いたことに申し訳ない、と思う。
 ああは言ったが、辰弥がすぐに帰ってくるとは思えない。行く当てはないはずだが、と考えてから、鏡介は一つの可能性に思い当たった。
 千歳と共にいるのなら辰弥が行く場所は一つしかない。
 鏡介が一番恐れていた――「カタストロフ」へ。
「馬鹿野郎……」
 低く、呟く。
 三人がバラバラになることを恐れていたのに、自分がバラバラにしてしまった。
 辰弥の幸せを願っていたのに、苦しめてしまった。
 何が仲間だ、と思いつつ、鏡介は拳を固く握りしめた。

 

 どれくらい走ったのだろうか。
 我に返って足を止めると、そこは見覚えのない街並みが見える裏通りだった。
 何度も深呼吸をして息を整え、それから振り返る。
「……辰弥、さん……」
 辰弥に手を引かれて全力疾走していた千歳が荒い息を吐きながら彼を見る。
 汗で貼り付いた前髪にどきり、とするが今はそれどころではない。
「ごめん、つい無我夢中で」
 辰弥は暗殺者でありながら持久力はあまりない方である。だから女性である千歳も付いてくることができたが、それでもかなり体力は使っただろう。
 だが、千歳は笑顔で辰弥を見た。
「大丈夫ですよ。私、体力には自信ありますから」
 でも、どうするんです、とすぐに真顔になって辰弥に訊ねる。
 千歳に訊かれて、辰弥もそうだね、と頷いた。
「……どうしよう」
 鏡介と言い合いになって思わず家を飛び出してしまったが、正直なところ辰弥に行く当てはない。
 千歳の家に転がり込んだとしても鏡介のことだ、すぐに連れ戻しに来るだろう。
 彼が千歳のことを疑う限り、鏡介とは顔も合わせたくない。
 とはいえ、家を飛び出して少し冷えた頭で考えると、鏡介が千歳を疑ったことに関して色々と思うところはある。
 単純に鏡介が女嫌いだけを理由にあんなことを言うはずはない。彼としては何らかの確信があったのかもしれない。
 しかし、鏡介も言った通り、「証拠はない」のである。辰弥からすれば何故鏡介が千歳を疑うのか、全く分からない。
 千歳は何も疑わしいことなんてしていない。潔白を証明することは辰弥もまた「証拠がない」ためできないが、千歳が裏切り者であるならアライアンスが気付かないはずはないし自分にこんなにも優しくしてくれるはずがない。
 信じたかった。千歳は本当にやましいことなどないのだと。
 鏡介がただのやっかみであんなことを言っているのだと。
 だから、千歳を毛嫌いしている鏡介の元には戻れない。
 日翔のことは心配だが、帰りたくない。
 どうしよう、と辰弥が再び呟く。
 その辰弥を、千歳はふわりと抱きしめた。
「……一緒に行きませんか?」
「行くって……どこへ」
 呆然としながら辰弥が尋ねる。
 行く当てなんてどこにもない。一般人になることもできない。
 逃げたところで、アライアンスが捜索網を張ればすぐに発見されるだろう。
 だが、千歳はゆっくりと首を振り、辰弥の耳に口を寄せる。
「……『カタストロフ』ですよ」
「……っ」
 辰弥が息を呑む。
 「カタストロフ」は。
 つい先日、千歳が提案してきた「『カタストロフ』に来ないか」という言葉を思い出す。
 確かに、「カタストロフ」も裏社会を構成する一大組織だ。そして、かつて千歳が所属していた組織。
 組織単体で一つの社会を構築し、大病院並みの医療施設も整っている「カタストロフ」。
 千歳は言っていた。「『カタストロフ』は『榎田製薬』と契約している。治験の席も得られる」と。
 それに、現在進行形で起こっている辰弥の不調の原因ももしかしたら分かるかもしれない。
 「グリム・リーパー」を抜けた今、行く当てがあるとすれば「カタストロフ」だ。
 「カタストロフ」に入って、治験の席を得て日翔を元気にして、自分も治療してもらう。
 鏡介なんて知らない。千歳を女狐と呼ぶ人間なんて、今はどうでもいい。
 辰弥から身を離し、千歳が彼に手を差し伸べる。
「行きましょう、『カタストロフ』へ。『カタストロフ』なら、きっと辰弥さんの居場所が見つかります」
 居場所が見つかる、なんと魅力的な言葉だろうか。
 「グリム・リーパー」という居場所を失った今、千歳の囁きは溺れた手に触れた藁のようだった。
 「カタストロフ」に行く。千歳と共に。
 暗殺の道からは外れられないが、自分には千歳というパートナーがいる。
 恐る恐る、辰弥は千歳の手を取った。
「……うん」
 千歳の手を取った瞬間、「本当にそれでいいのか?」という囁きが聞こえたような気がした。
 本能のどこかでは何か良くないことが起こるのではないかという恐れを感じ取っているのかもしれない。
 だがそれは、単純に知らない場所へ行くが故の不安なのだと辰弥は自分に言い聞かせた。
 大丈夫、悪いことなんて何も起こらない。
 千歳が隣にいてくれれば。
 辰弥の手を握り、千歳が微笑む。
ようこそ『カタストロフ』へ。みんな、辰弥さんを歓迎しますよ」
 夜の帳が下り始めた街を、二人は歩き出した。
 この街から決別し、新たな日々を迎えるために。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 千歳に導かれるままに電車リニアに乗り、古巣の上町府に戻ってくる。
「こちらです」
 さらに地下鉄に乗り、迷路のように複雑な構造を持つターミナル駅で降りる。
「ここからは慣れてないと行けませんよ?」
 そんなことを言いながら千歳はすいすいと人を掻き分け、複雑に入り組んだ通路を通り、駅の奥へと進んでいく。
 気が付けば人通りはなくなっており、千歳と辰弥の足音だけが通路に響く。
 異様なその空間は、案内板に「0番出口」と書かれている。
「ここです」
 千歳は従業員出入り口と書かれたドアの横にあるパネルに手を触れた。
 このご時世、指紋や静脈認証だけではハッキングで突破されることを考えるとまた別の認証方法を使っているのか。
 辰弥がそんなことを考えているうちにロックが解除され、扉が開く。
 扉の向こうに踏み込み、千歳は辰弥の手を引いた。
 うん、と辰弥が足を踏み入れ、その背後で扉が閉まる。
 細い通路をしばらく歩いたところで千歳が何の変哲もない壁に触れると、それも認証システムだったようで、壁の一部が扉となって開く。
 その奥へ進み、エレベーターに乗ってさらに地下へ。
「……上町府にこんなところがあったなんて」
 上町府の市街地はほぼ庭だったけど知らなかった、と辰弥が呟く。
「『カタストロフ』は最大規模の裏組織ですからね。選ばれた人でないとここの所在すら知ることはできませんよ。それにここはあくまで一派閥の拠点にすぎません、本部の場所はここの派閥の幹部しか知らないんですよ」
 千歳がそう言ったタイミングでエレベーターは目的のフロアに到達し、扉が開く。
 そこは街だった。それもまるで繁華街だ。天井には偽りの空が浮かび、太陽が昼間のように眩しく、無数のビルのような建物が視界一面に広がっている。
 空の広がりを見る限り、武陽ドームより広いのは明らかだろう。
「上町府の地下にこんなところがあったなんて」
 改めて、同じ言葉を呟く。これでは文字通り上町府の地下にもう一つ街があるようなものだ。それも、誰にも知られずに。しかも、これがあくまで一派閥の拠点だというのだから、驚くしかない。
「辰弥さん」
 千歳に声をかけられ、視線を下げると、そこに、数人の人間が立っていた。
「秋葉原、よく戻ってきましたね」
 開口一番、そう千歳に声をかけた男に、辰弥は見覚えがあった。
 見覚えがあるも何も、この男は――。
「……宇都宮うつのみや……?」
 驚いたように辰弥が声を上げる。
 宇都宮うつのみや すばる。かつて、辰弥を暗殺者として引き込んだ「ラファエル・ウィンド」のリーダー。
 日翔が「ラファエル・ウィンド」の一員で、辰弥を保護したのち、彼が暗殺者としてのポテンシャルを秘めているということを知り、昴は彼をチームに引き込んだ。
 それから約一年後に昴は何者かに狙撃されて海に落ち、生死不明となっていた。
 遺体は発見されなかったが海に落ちたということで誰もが昴は死んだと思っていたが。
 今、辰弥の目の前に立っている男は紛れもなく昴だった。
 見間違えるはずがない。飄々とした風でいて、誰よりも鋭い眼光を持っていた男だ。そんな男が何人もいてほしくない。
 目の前の男が辰弥を見下ろし、それから薄く笑う。
「……鎖神、生きてましたか」
「……おかげさまで」
 どう返答すればいいか分からず、辰弥があいまいに答える。
「……『カタストロフ』に、いたんだ」
「ええ、縁あってね」
 相変わらず感情を読ませない薄笑いを浮かべ、男――昴は、
「ようこそ『カタストロフ』へ。いつかは来ると思っていましたよ」
 そう、辰弥を歓迎した。
「宇都宮さんはこの派閥のリーダーなんですよ。辰弥さん、知り合いだったんですか? 道理であっさりと戻って来て良いと言われたわけですね」
 と、千歳が耳打ちする。
 なるほど、と辰弥も小さく頷いた。
 昴なら、確かに千歳の説明をすぐに理解し、自分の「カタストロフ」入りを提示するだろう。
 もしかしたら前々から引き抜きを考えていたのかもしれない。
 それでも昴も辰弥のことを気にかけてくれていた人物だから無理強いせずに様子を見ていたのだろう。
「到着したばかりで疲れているとは思いますが、軽く案内しますよ」
 そう言い、昴が街を振り返る。
「この街は君が思っているより複雑ですからね、遭難だけはしないでくださいよ」
 それからは街の各施設の案内である。
 通りを歩きながら、昴がここは、といった風に説明する。
「秋葉原から連絡は受けている。謎の不調に悩まされているそうですね」
 昴の言葉に、辰弥が小さく頷く。
 緊張と不安で言葉少なになっている辰弥の手を千歳が握る。
「『イヴ』には『急激に老化してる』と言われた。もしかすると、寿命が近いのかもしれない」
 千歳に手を握られて少し安心した辰弥が簡単に説明する。
 ふむ、と昴は低く呟いた。
「LEBの寿命がたかだか十年にも満たないとは思いませんがね……」
 その呟きに、辰弥の胸を不安がちくりと刺す。
 昴には「ラファエル・ウィンド」加入直後に自分がLEBであることは打ち明けている。日翔を助けたあの時、日翔や鏡介に対しては適当にごまかすことができたが昴に鋭く射抜かれて打ち明けざるを得なかった。
 だが、LEBであることを打ち明けたものの実年齢まで説明した記憶がない。
 ただ忘れているだけか、と思いつつそのまましばらく街を歩く。
 やがて、一同は大きな建物の前に到着した。
「ここが病院です。とりあえず、検査は受けた方がいいでしょう。その他の施設はまた後程」
 私は他に用事がありますから、と昴は付き添いの男の一人に何かを耳打ちし、去っていく。
 男に誘導され、一同は病院内に足を踏み入れた。
 そこは地上の大病院と変わらぬ規模を備えた施設だった。唯一の違いはよくある大病院のように患者でごった返しておらず、静かなことくらいだろうか。
 男が受付で何かを話すと、受付の女性が分かりました、とどこかに連絡を入れ、検査の手配を行う。
 看護師が辰弥を迎えに来て、一同は再び歩き出した。
 時折看護師や他の「カタストロフ」の構成員らしき人物とすれ違いながら、奥へと進む。
 ――と、辰弥の足が止まった。
「……?」
 足を止めた辰弥を、千歳が不思議そうに見る。
 辰弥が震える手で自分の口元を覆う。
「……いや、嘘……だよね……」
 その辰弥の様子に、千歳は彼が「何かを見た」のだと察した。
 一体何を見たのか。ここには辰弥を脅かすようなものなど何一つないはずなのだが。
「辰弥さん、大丈夫ですか?」
 辰弥の背をさすり、千歳が声をかける。
「……ぅ、ん……大丈夫……」
 顔面蒼白になりながら、こみ上げてくる吐き気を抑えながら、辰弥が頷く。
 廊下を歩いているときに、一瞬見えた人影。
 角を曲がってすぐに見えなくなったが、その人影に辰弥は見覚えがあった。
 あまり手入れされていない白髪、猫背なのか少し背を丸めて歩く白衣の老人。
 生きていたのかと誰にも聞こえないように呟く。
 いや、生きているなんて信じられない。あの、特殊第四部隊トクヨンによる第一研究所襲撃の際、彼らは研究所にいた人間を全員確保しようとした。
 抵抗が激しく、結果的には多くの研究者が殺されたと記憶している。当然、も見逃されることは無かったはず。仮に生存したとしてもこの場にいるような状況――トクヨンが見逃すなどあるわけがない。生きていたとしても今は塀の中にいるはずだ。
「……所沢……」
 辰弥が低く呟いたその名前を、千歳は聞き逃さなかった。
 所沢という名前は聞き覚えがある。昴から何度か聞かされた、LEB開発の第一人者。
 ここに来ていたの、と千歳はもう人影のない廊下に視線を投げた。
 いや、それよりも辰弥の様子が心配である。
 かつての記憶がフラッシュバックしたような、PTSDが発症したかのような様子によほどのトラウマを抱えているのか、と考える。
 辰弥さんを彼に近づけてはいけない、そう本能的に感じるが相手がLEBのことを知り尽くしているというのなら会わせないわけにはいかない。
 そう考えながら辰弥の背をさするうち、彼も落ち着いたのか大きく息を吐いた。
「……ごめん、昔の知り合いに似た人を見た気がしただけだから」
 こんなところにいるわけないよね、と自分に言い聞かせるように呟く辰弥に、千歳は「大丈夫ですよ」と声を掛けた。
「ここには辰弥さんに危害を加える人なんていませんよ。だから、検査を受けましょう」
「……うん」
 小さく頷き、辰弥は再び歩き出した。

 

to be continued……

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おまけ
ばにしんぐ☆ぽいんと り:ばーす 第6章
「おまつ☆り:ばーす」

 


 

「Vanishing Point Re: Birth 第6章」のあとがきを
以下で楽しむ(有料)ことができます。
OFUSE  クロスフォリオ

 


 

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