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天辻家の今日のおやつ #05 「オランジェット」

 日翔が帰ってくると家じゅうが柑橘類の甘い香りに満ちていた。
「ただいまー」
 二環(二月)も半ばに差し掛かるころ、よく「年内では一番寒い時期」とも言われ、外は雪こそ降らないものの冷たい風が吹いている。
 そんな寒空の下出かけて帰ってきたらふわりと漂う柑橘類の香りに日翔はうきうきとジャケットをソファに投げ出し、キッチンに顔をのぞかせた。
「ああ、日翔おかえり」
 鍋を覗き込んでいた辰弥が日翔を見て笑う。
「何作ってるんだ?」
「オレンジのコンフィ」
 辰弥が答えたタイミングで彼のGNSに設定されていたタイマーが時間になったのだろう、IHコンロのスイッチを押して加熱を止める。
「コンフィ?」
 聞いたことのない料理名に日翔が首をかしげる。
「ああ、オレンジを砂糖で煮込んで乾燥させたもの」
「へぇ~」
 少し背伸びをして鍋を覗き込むと確かに鍋にはオレンジの輪切りが入っている。
「火を止めたってことはもう出来上がりなのか?」
 今日のおやつはオレンジのコンフィかぁ、いい匂いだしこれは期待できる、と日翔がうきうきとした面持ちで辰弥を見る。が。
「まだだよ。これは半日置いてもう一度煮込んで、を繰り返すの」
 まだ一度目の煮込みだから時間がかかるよ、と辰弥がエプロンを脱ぎながら日翔に歩み寄った。
「おやつは別に用意してるから一緒に食べよう」
「今日のおやつはなんだ?」
「チョコチップクッキー」
 辰弥の答えに日翔が顔を輝かせる。
「やりぃ!」
「もう、日翔ってば」
 食いしん坊なんだから、と辰弥が再び笑う。
 だが、日翔のこの食いしん坊っぷりに救われているのも事実だった。
 料理を始めたばかりの頃から日翔は辰弥の料理をうまいうまいと言って食べてくれた。
 失敗した時も日翔は料理が全くできないにもかかわらず何が原因だったのかを一緒に考えてくれた。いつも太陽のような眩しい笑顔で笑いかけてくれる、それだけでどれほど救われたか。
 同時に、この笑顔を見たいから料理を頑張っているという自覚もある。
 うまいと笑いながら豪快に食べる日翔。今日もうまかった、ありがとうと頭を撫でられると「子供扱いして」と思うものの嬉しさもある。
 だから今回のおやつも腕を振るって豪華なものを作りたい。
 何故なら、あと数日もすれば――。
 ちら、とGNSのカレンダーを見る。
 二環のとある日に設定したリマインドを確認する。
 祭日でも何でもないが世間にとって少しだけ特別な日。
 らしくないかな、と思いつつも辰弥も楽しみにしている一巡。
「完成まで時間かかるけど、楽しみにしててよ」
 もう一度鍋に視線を落とし、辰弥はふふっ、と笑みをこぼした。

 

 オレンジのコンフィを作るにはとにかく時間がかかる。
 そもそもオレンジが桜花国内であまり栽培されておらず、IoLイオルからの輸入に頼っているところがある。
 近年はどの国も食料を自国で自給しきれていないのが現状で、多くの場合、合成食やプリントフードに頼っている面が多い。そんな中にも関わらず、桜花は「御神楽みかぐら財閥」のお膝元でもあるためか一部の食材は積極的に輸入している。
 オレンジもその一つ。果物と言うと嗜好品というイメージが強いアカシアこの世界、まして輸入品なので高級だが、桜花であれば金さえあれば手に入れるのが難しい食材ではない。
 なので、オレンジをおやつに使うと言うのはとても贅沢なのだが、日翔はみかんとオレンジの区別がついていないので、それに気付いていない。
 そんなオレンジだが輸入に際して外来種の害虫が入ってこないように農薬や防腐剤が散布されている。まずは表面に付いたそれらを丁寧に洗う必要がある。
 その後はあく抜きのために茹でこぼす。
 その際に竹串を皮の数十か所に差して穴をあけ、煮込んだ際に味が沁みやすくなるようにしておく。
 この一手間が食材をよりおいしく生かせるものであると、辰弥はレシピのコラムを読み込んで理解していた。
 茹でこぼした後は冷水にとって一旦冷まし、5mm程度の厚さにスライスする。
 そこでオレンジからいったん離れ、辰弥は鍋に水とグラニュー糖を入れた。
 コンロに点火して加熱、水が沸騰したところでいったん火を止め、スライスしたオレンジを並べていく。
 再度点火、沸騰するまで待ち、沸騰したらクッキングシートで落し蓋をして暫く煮込む。
 日翔が帰ってきたのはそのタイミングだった。

 

 翌巡、辰弥がクッキングシートの落し蓋をめくって中を確認する。
「ん、いい感じに煮えてる」
「おはよー」
 いつもより遅い目覚めの日翔がキッチンに顔を出す。
「辰弥ー、朝飯ー」
「俺は朝飯じゃありません」
「いけずー」
 そんなやり取りをしながら辰弥は鍋を確認する前に作っておいた朝食を盆に乗せて日翔に手渡す。
「俺は先にコンフィの続きやるから持ってって」
「りょーかい」
 どれどれ、と日翔が盆の上に乗った皿を見る。
 今日の朝食はみそ汁と白米と焼き鮭、そこにお新香の小鉢もある。
 炊き立ての白米の香りとみそ汁の香りに自然と笑みがこぼれ、日翔はうきうきと朝食をダイニングに運んでいく。
 その間に辰弥はコンフィの鍋に追加のグラニュー糖を入れて軽く混ぜ、コンロに点火した。
 数分待って沸騰して来たら弱火に調整、日翔の待つテーブルに向かう。
「お、来たか。食おうぜ」
「うん、食べよう」
 いただきます、と手を合わせる二人。
 普段は人の命を奪うことを生業としているがだからといって自分たちが生きていてはいけないという理由にはならない。
 生きるために食べる――。今まで殺してきた人間たちの分も。
 だから、きちんと「いただきます」と「ごちそうさま」は言う。食材に感謝し、今生きていることを感謝して食べる。
 それは当たり前のことなのかもしれない。しかし、辰弥にとってはそれは特別なことで。
 こんな生活なんて想像すらできなかった昔を考えると今はとても恵まれている。
 その幸せを、辰弥は白米と共に噛み締めた。
 そんな朝食を終え、食器を洗い終えてから辰弥は鍋を確認する。
 オレンジが気持ち、透き通ってきたように見える。
 コンロを停止させ、辰弥が満足そうに頷く。
 もう一度寝かせてからあと一回煮込んで乾燥させればコンフィは完成。
 うまくできるといいけど、と思いつつ辰弥は他の用事を済ませよう、と鍋から離れた。

 

 半日寝かせた三日目夜日
 辰弥がもう一度鍋にグラニュー糖を入れてコンロに火をかける。
「へえ、まだできないんだ」
 日翔がキッチンに顔だけ出して声をかけてくる。
 彼は以前空腹に耐えきれずキッチンに忍び込んで料理をして、小火を起こした事がある。
 本人曰く「目玉焼きを作りたかった」らしいが目玉焼き用の小さいフライパンに油を大量に入れ、引火させたのだ。
 いくら安全性の高いIHコンロであっても小鍋に大量の油は引火の元である。
 それ以来、辰弥にキッチンへの出入りを固く禁じられているためそれを守っている。
 ちなみに冷蔵庫はキッチンの比較的ダイニング寄りの位置に置かれているためそこまでは踏み込んでいい、とされている。
 冷蔵庫を開けていいとなるとつまみ食いし放題だが、それも辰弥の優しさなんだろうなあと思いつつ日翔は言いつけを忠実に守っていた。
 それはそうと、オレンジのコンフィとやらはまだ完成しないのか。
 もう三度目の煮込みだぞ、と思いながら見ていると辰弥がちら、と振り返る。
「これが最後の煮込み。この煮込みでうまく行くか行かないか変わってくるから」
 やや緊張の面持ちで辰弥が鍋に視線を戻す。
「煮込み足りないと味気ないし、煮込みすぎると乾燥しなくなるんだ。だからちゃんと見張ってないと」
「ほへー」
 たかがスイーツ、失敗したところで味はそんなに変わらないだろう。
 だが、されどスイーツ。完璧にできた時の美しさは味だけでなく見た目でも楽しませてくれる。
 そこでふと日翔に一つの疑問が浮かび上がった。
「そういえばさ、辰弥」
「何?」
 鍋から目を離さず、辰弥が応じる。
「三回に分けて煮込んでるけどさ、見た感じ砂糖を追加して煮込んでるんだよな?」
「うん、そうだけど」
「最初から砂糖全部入れて煮込んでもいいんじゃないのか?」
 素朴な疑問。
 水を変えて煮込むわけでもなく、ただ砂糖を追加するだけなら初めから全量入れて煮込んだ方が時間の節約にもなるだろう。
 それなのに敢えて三回に分けて煮込んだのには何か理由があるはず。
 質問の仕方としては「一回でいいんじゃないか?」だったが、日翔の質問の意図は「三回に分けて煮込む理由」だった。
 ふふん、と辰弥が笑う。
「よく聞いてくれました」
「何だよ」
 最近、辰弥よく笑うようになったなと思いつつ日翔が話の続きを促す。
 出会ったばかりの頃は常に何かに怯えていて部屋に引きこもっていたもんな、様子見に行くと部屋の隅で震えてたもんな、と思い出すと今の辰弥はのびのびとしているな、と思えてくる。
 比較的怯えていないという時でも警戒心の塊で日翔たちが無害だ、何もしないと言い聞かせてきたことを考えると今の辰弥は落ち着いているしむしろよく笑うようになった。
 特に料理がうまくできたりした時の彼の上機嫌っぷりは見ていて日翔も楽しくなる。
 そんな辰弥が得意げに説明を始める。
「なんで三回に分けるかっていうと、オレンジの水分を少しずつシロップに置き換える必要があるんだ」
「なんで」
「一気に高濃度のシロップで煮込むと浸透圧の都合で逆にオレンジの水分がうまく抜けなくて、完成した時のコンフィが白っぽくなったり固くなったりするんだ」
 ほへぇ、と日翔が声を上げる。
 「浸透圧」とか学校の授業で聞いたことない? と辰弥が問いかけるが、日翔は静かに首を横に振る。
 三回に分けて少しずつ濃いシロップにして煮込む、それだけで仕上がりにそこまで変わってくるのか。
 料理の手間一つひとつに理由があるとは辰弥が何度も言っていたこと。
 そこで、日翔は暫く前に辰弥が申し訳なさそうに出したオレンジを思い出した。
 シロップで煮込まれたらしきオレンジはベタベタ、しかし食べると硬い食感だったあれは辰弥が「失敗したんだけど……」などと言わなければそういうものだと食べていただろう。
 あれはこれのための練習だったのかと思わず笑みがこぼれる。
 ちなみに、この時は練習用にみかんを使っていたのだが、例によって日翔は違いがわかっていない。
「あ、この間の思い出したでしょ」
 日翔の笑みに辰弥がぷぅ、と膨れる。
「初めて作るから練習しておきたかったんだけど……失敗しちゃって」
「えー、あれはあれでうまかったぞ」
 甘いものは好きだし歯応えがあるものも好きだぜ、と日翔が笑う。
 だが、そこで日翔はとあることに思い至った。
「……ってことは、もしかして、オレンジのコンフィってさ……」
 ぎく、と辰弥が肩をすくめる。
 次の瞬間、日翔はやったー! と声を上げた。
「あれだ、オレンジをチョコで覆った奴!」
「バレた。ちなみにオランジェットね」
 オレンジのコンフィをチョコレートでコーティングしたオランジェット。フルーツを使用しているということである種の高級品となっているスイーツで日翔が口にすることはそうそうないと思っていた。しかし先日辰弥が「失敗した」と出してきたときにとても美味しいと感じ、また食べたいと思っていたものだ。
 それをまた、今度は本番で作っているとは。
 とはいえなぜ今頃オランジェットを? オレンジも高級食材なのにそんな何度も買うとは何か理由がない限り考えられない。
 疑問に思うとすぐに訊いてしまうのが日翔である。
「でもなんでオレンジなんて高級食材また買ったんだ? お前、俺の食費に結構使ってるんだろ、大丈夫かよ」
「それは大丈夫。日翔ほど金欠じゃないよ」
 金使いが荒いわけでもないのに常に金欠だと言っている日翔。辰弥が自分の報酬で食材を買わなければ安い合成食しか買えない、それも下手をすれば食いっぱぐれることもあり得るレベルの金欠に辰弥は疑問を感じずにはいられなかった。
 実は女を買い過ぎているのか、などと勘ぐることもあるがそこまで深く追求する気はないし報酬の使い道は自由である。とはいえ、最低限の食費くらいは確保してもらいたいものである。
「まぁ……なんでって言われると……」
 辰弥が口籠る。
 おや、何か言いたくないことがあるのかと日翔が首を傾げる。
 確かに辰弥は言えないことが多いらしく黙ってしまうことはしばしばある。
 それが彼の過去に関わるもので、思い出せていないのか思い出そうとすると嫌なことがフラッシュバックするのかどうしても口を閉ざしてしまう。
 日翔も鏡介もそこで無理に踏み込もうとはしなかった。無理に踏み込むことでようやく築いた関係を崩したくない。
 いつか、話せるようになったら話してくれるだろう、と静観している。
 しかしオランジェットを作る理由に黙り込む要素があるのか。
 何かあるのか、と考える。
 ――いや、待てよ。
 今は二環。そういえば街中もチョコレートで賑わっていたような気がする。
 そして今辰弥が作っているオランジェットもチョコレート菓子。
 つまり……?
「おやおや辰弥くん? 辰弥くんが世間の流行りに乗るとは珍しいですねえ」
「茶化さないでよ」
 ぶん、と日翔に向けてお玉が投げられる。
 それを危なげなく回避、日翔がニヤニヤと笑う。
 アカシアの二環中旬には大切な人にお菓子を贈って感謝を伝える日が存在する。
 確か――。
「『ユノ・マイアデー』に手作りおやつとか、お前らしいな」
「いやそれは別に――」
 辰弥が慌てるがこの日のために作っていたのは事実。日翔と鏡介に普段の感謝を、そしてこれからもという願いを込めて。
 「ユノ・マイアデー」。結婚の神ユノや豊穣の神マイアを祀る祭り「ルペルカーリア祭」を源流とするエウロッペの「恋人同士がプレゼントを贈り合って互いに感謝を告げる」イベントである。
 元々は桜花にはない文化だったが様々な国の文化を取り込んで発展してきた桜花がこんなイベントを見逃すはずもなく、一部の巨大複合企業メガコープが「ユノ・マイアデーにはチョコを贈ろう!」などと宣伝したことからこの日は特にチョコレートが飛び交う日となっている。
 ははぁ、と日翔が再び笑う。
「お前、わっかりやすいなあ……」
 わざわざこの日のために高級食材を使ったおやつとか、らしいよとからからと笑う。
「ありがとな、辰弥」
「そんな、まだできてないのに」
 そこまで言ってから辰弥すっと鍋にその紅い視線を投げた。
 コンフィを一枚取り出し、表裏を眺める。
「……うん、いい感じかも」
「お、できたか?」
 もしかして試食できる? と期待に満ちた目を投げてくる日翔に辰弥は苦笑した。
「まだだよ、このあと乾燥させるの」
「え、前食った時乾いてなかったじゃん」
 その瞬間、辰弥がう、と声をあげる。
「あれは……失敗して……乾燥させたけど、乾燥しなかった……」
 前回は煮詰め過ぎてシロップの濃度が高まり、ベタついた仕上がりになってしまった。今回はその教訓を元にシロップの濃度は抑えめに火を止めている。
「ほほう」
 まだまだ時間がかかるのかー、と日翔は犬だったら確実に「待て」を宣言されている状態になっている。
「明後日にはできると思うよ」
 鍋から取り出したオレンジを鉄板に敷いたクッキングシートに一枚一枚並べていく辰弥。その手つきがとても丁寧で、見ている日翔は辰弥の料理に対する姿勢の直向きさに感心する。
 今なら暗殺者を辞めてシェフやパティシエになることもできるだろう。暗殺連盟アライアンスは別に秘密さえ守ってくれれば「一生暗殺者でいろ」などとは言わない。確かに技量の高い暗殺者が足を洗うことに関しては一度は引き止めるが当人が強い意志で辞めるというのであればそれを追うことはない。
 辰弥も暗殺者としては「なるべくして生まれた」と言ってもいいポテンシャルを秘めているが辞めたいという意志を貫けば、いや、彼の人間性を考えれば辞めさせないということはあり得ないだろう。
 辰弥がオレンジを並べた鉄板をオーブンに入れる。
 一〇〇度に設定し、加熱を開始する。
 低温で焼くことによってじっくりと水分を飛ばすことができる。このあとは一日乾燥させてコンフィの完成。
 丁寧に作られるコンフィに嬉しさが込み上げてくる。
 楽しみだ、と思っていると辰弥も手が空いたのかキッチンから出てくる。
「楽しみにしてて。今度は美味しいオランジェット出してみせるから」
「ああ、期待してるぞ」
 にっこりと満面の笑みを浮かべ、日翔は辰弥が「子供扱いしないで」と言うにもかかわらず彼の頭を撫でた。

 

 翌巡の二日目昼日
 辰弥がキッチンのあちこちに並べていたオレンジを摘んで乾燥具合を確認する。
「うん、ベタついてない」
 満足げな辰弥の表情。
 オレンジのコンフィは艶々と輝き、向こう側が透けて見えるのではないかというような透明感。前回と違ってしっかりと乾燥しており、手で持ってもベタつかない。
 これなら最高のオランジェットが作れそうだ、と彼は収納からチョコレートを取り出した。
 チョコレートは便利な食材だ。その甘さでスイーツにもなるしカロリーも高いので非常食にもなる。溶かして固めればそれだけでオリジナルのスイーツにもなる。
 今回はこれを溶かしてコンフィを浸し、コーティングする。
 ただし、チョコレートは単純に溶かして固めればいいわけではない。適切な温度で溶かし、温度調整しつつ練る――テンパリングすることでカカオバターの結晶を均一にし、滑らかな口当たりと艶のある光沢が出るようになる。
 まずはチョコレートをボウルに入れ、湯煎。
 チョコレートは決して直火にかけてはいけない。
 流石に辰弥はチョコレートを直火にかけたことはない。
 チョコレートを溶かすスイーツはスイーツ作りに慣れるまでしていなかったこともあるが、 レシピ確認の際にSNSなどで失敗談をいくつも目にして直火はいけない、と理解していた。
 温度計を刻んだチョコレートに差し、温度を確認。
 チョコレートが少しずつ溶け、液状になっていく。
 温度計が四十度を指したところで一度鍋から離し、じっくりと混ぜる。
 ここで水分がチョコレートに混入してしまっては台無しになる。水が飛ばないように気をつけながら冷水につけ、よく混ぜる。
 今度は温度が二十七度くらいになるまで下げ、もう一度湯煎。
 加熱し過ぎないように気をつけてしっかり混ぜるとチョコレートは三十度くらいまで温まる。
 そこで辰弥はスプーンを溶けたチョコレートに刺し、引き抜いた。
 すぐにチョコレートが固まり、鈍い光沢を放つ。
「……よし」
 完璧に仕上がったチョコレートに辰弥が満足したように頷く。
 日翔が昼寝をしているうちに仕上げてしまおう。
 そういえばオレンジが少し減っている気がしないでもないが日翔が食べたのだろういつものことだ
 仕方ないなあ、と苦笑しつつも辰弥は乾燥させたオレンジをチョコレートに浸し始めた。
 手際よくチョコレートを浸し、クッキングシートの上に置いていく。
 それから砕いたピスタチオを散らし、完成。
 完成したオランジェットを見て、辰弥はふふっと笑みをこぼした。
 これを食べる日翔の顔を見るのが楽しみだ。彼はきっと美味しいと言って食べてくれるのだろう。味には自信はあるが、それでもまずかったらごめんという気持ちもある。
 つん、とオランジェットを並べたバットをつつく。
「……ちちんぷいぷい」
 おやつを作った時のお約束の台詞。
 ――日翔、楽しみにしてて。
 そんなことを考えながら、辰弥は小さなOPP袋にオランジェットを個装し始めた。

 

「日翔、鏡介、おやつにしよう」
 大抵は自宅で引きこもっている鏡介だが気分次第では日翔の家に上がり込んで本を読んでいることもある。
 今どき珍しい紙ベースの書籍に目を通している鏡介に辰弥は声をかけた。
「もうそんな時間か」
 鏡介が本をパタリと閉じ、CCTでサブスクリプションの映像番組を見ていた日翔が再生停止してうーんと伸びをする。
「今日のおやつは……もしかして、オランジェットか?」
 キッチンで紅茶を淹れる辰弥の背に日翔が声をかける。
 うん、と辰弥が頷いた。
「ちょうど鏡介も来てるからさ……こういう時の鏡介って勘がいいよね」
 なに、特別なおやつセンサーとかあるの? と辰弥が言いながら茶器をもってリビングに現れ、こたつにそれぞれのティーカップとオランジェットを乗せた皿を置く。
「なに、簡単なことだ。今日は『ユノ・マイアデー』。恋人同士チョコレートを贈り合うというのが巷の風習で、チョコレートと言えばおやつ。辰弥が作らないはずがない」
「えっ」
 鏡介の言葉に日翔が声を上げる。
「こいびと……どうし……」
 ギギッ、と日翔の首がぎこちなく回り、辰弥を見る。
「……お前、そんな目で、俺を、見てた?」
「見てない見てない」
 辰弥が即答し、日翔が何故かしゅん、とする。
「『ユノ・マイアデー』だと色んなチョコレートが店に並んでるからさ……作りたくなっただけ」
 なんだ、と日翔が肩を落とす。
 しかし日翔にとってもチョコレートは大好きなおやつである。しかも辰弥が作ったとなれば美味しいのは確定。
 テーブルに置かれた、個装のオランジェットを見て、日翔は、
「うお、何これすげえ!」
 と騒ぎ始めた。
「え、マジでこれお前が作ったん? 買って来たんじゃねえの?」
「辰弥が自分で作れる高級品を買ってくるはずがないだろう」
 そう言いながらも鏡介の目はオランジェットにくぎ付けになっている。
「……本当に、自分で作ったのか……?」
 見た目には上町府でも有名なショコラティエで買ってきたのではと言いたくなるような仕上がりのオランジェット。
 鏡介は日翔と違い辰弥の作業風景を全く見ていない。だから疑ってしまうのも無理はないが疑われて逆に誇らしくなるのが手作りの醍醐味である。
「ふふん、俺が作った」
「すごいな」
 鏡介がオランジェットの個装を一つ手に取る。
 封を切り、オレンジを摘まんでほう、と声を上げる。
「べたついていない。初心者は煮詰めすぎてべたべたのコンフィにするがそんなことがないな」
「あーそれ、前に一回やってるから」
 日翔もオランジェットの封を切りながら説明する。
「あ、日翔! それバラさないでよ!」
 辰弥が慌てるが、日翔の言葉を聞いた鏡介はふっと笑う。
「辰弥、人間誰しも一発でうまくいくものじゃない。失敗した方がむしろ成長につながる」
「そう……かな」
 自信なさげな辰弥の表情。
 大丈夫だ、と言い、鏡介はオランジェットを口に運んだ。
 一口かじり、それから目を見開く。
「……これは……うまいな」
「うんまー!」
 一口でオランジェットを一枚食べきった日翔も声を上げる。
「すげえ、市販のチョコレートみたいだ!」
「いや、市販品よりうまいな。テンパリングも完璧にできている」
 ここまで完璧にテンパリングできるのは熟練のショコラティエくらいだぞとほめちぎる日翔と鏡介。
 そんな、と辰弥がはにかんだ。
「俺はレシピ見てその通りに作っただけだって」
「やっぱ辰弥お前パティシエになれよー」
 日翔は本気でそう思った。辰弥は暗殺者から足を洗うべきだと。
 自分とは違う。自分とは違って暗殺者になるべき理由がどこにもない。
 確かに辰弥は暗殺者としては超一流とも言えるスキルを持っているだろう。だが、スキルがあるだけで暗殺者にならなければいけないという理由にはならないし第一彼の料理スキルを活かさない方が世の中の損失である。
 辰弥の作るスイーツなら、きっと多くの人間を笑顔にできる。
 だから、暗殺者からは足を洗うべきだ、と。
 だが、辰弥は首を横に振る。
「……俺にはそんな資格ないから」
「何言ってんだよ。パティシエは殺し屋よりもずっと重要な仕事だぞ? お前なら」
 日翔は思う。どうして辰弥は頑なに暗殺者にこだわるのだろうか、と。
 まるで自分には殺ししかないのだと、それは生まれてからずっと変わらないのだと、そう言っているようにも聞こえて胸が痛くなる。
 そんなことない、もっと人の役に立つ仕事に就けよと言っても、辰弥は。
「俺、君たちが思ってるほど真っ当な存在じゃないよ?」
 いつも、この言葉で締めくくる。
 そう言われてしまうと日翔もそれ以上言うことはできなかった。
 辰弥がこう思っている理由も、いつかは聞けるのだろうか。
 そして、その呪縛から解き放たれて自由に生きる未来はあるのだろうか、と。
「ありがとう、日翔」
 不意に、辰弥にそう言われて日翔は思わず口の中のオランジェットを飲み込んだ。
 ほろ苦い柑橘類の香りが喉を通り過ぎていく。
「何だよ急に」
「日翔や鏡介のおかげで、今の俺があるから」
「……そうか」
 紅茶を一口飲み、鏡介が静かに呟く。
「辰弥、あまり思いつめるな。お前は、お前の過去が何であろうとお前はお前だ」
「……うん」
 辰弥が頷く。
「だけど、やっぱり俺は日翔や鏡介と一緒に仕事がしたい」
「……そうか」
 鏡介がふっと笑う。
「日翔、お前は幸せ者だな」
「えっ、なんで俺」
 突然話題を振られた日翔が素っ頓狂な声を上げる。
「俺たちみたいな汚れ仕事でも、辰弥は一緒にしたいって言ってくれるんだ。嫌々でなくて自分の意志でしたいと言うのならその意思を優先してやれ」
「……そっか……汚れ仕事だし敵ばっか作る仕事だけど、辰弥はいいのか?」
 うん、と辰弥が頷く。
「日翔と鏡介がやってるなら、それは尊い仕事だと思うから」
 ――だから、俺は自分の手が汚れても構わない。
 それは人を喜ばせるかもしれないパティシエよりもずっと尊くて。
 やっぱり、俺にはこれしかないんだ、と辰弥は思うのだった。

to be continued……

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