世界樹の妖精 -Fairy of Yggdrasill- 第1章
by:蒼井 刹那 Tweet
――かつて、戦争があった。
いや、過去形にしてはいけない。現在進行形で、戦争というものは存在している。
だがその規模は国家単位ではなく、個人単位へと変遷している。
かつての戦争は、いかに効率よく人間を殺すか、土地を殺すか、国を殺すかを課題として様々な大量破壊兵器が開発され、挙句の果てには各国に保有される大量破壊兵器の威力を合計すればこの惑星が何回も滅亡するほどにまで至っていた。
それが規制され、国家間での戦争が完全にはなくなっていないもののなりを潜めるようになったのはいつのことだっただろうか。
それが、表向き、一般に知られる戦争の歴史。
しかし裏を返せば、水面下を覗けば、戦争というものはもはや過去のものであると断言することができなくなるだろう。
目に見えない場所で繰り広げられる激しい戦闘。
戦いに赴く兵士が握るのは銃ではなくインターフェースユニット。
目の前で展開される戦場では、「基本的に」誰も死ぬことはない。人間が死ぬことはナンセンスとされるこの戦場で兵士たちは戦い、そして一人、また一人と脱落していく。
兵士たちが、果ては国家がこの戦場に求めるものは、情報。
互いに疲弊するかつての戦争で各国は気付いたのだ。
相手の国を手っ取り早く混乱に陥らせ、攻め込むには情報を武器にするのが一番効率がいいと。情報を操作し、国民をパニックに陥らせることができれば支配も可能だと。
幸い、とでも言おうか。今、世界は情報に満ちている。コンピュータが普及し、進化し、情報化したこの世界では、誰もが簡単に情報に触れることができる。その中でも特に、コンピュータを駆使して情報を操作することができる人間を人々はハッカーと呼び、驚異の一つとして認識するようになった。
それに伴い戦場は実在の大地ではなくコンピュータ内の情報空間へと移っていった。
同時にそれはハッカーの素質さえあれば誰でも戦争に参加することができる、いや、戦争を起こすことが可能になったことを意味する。
個人が火種を播き、それが引火し、個人からグループ、グループから組織、組織から国家へと規模を広げていく。
今、この世界の戦争は人々の目に見えないところでかつての戦争以上に激しい戦いを繰り広げている。
それを止める術を、終戦という言葉を、人々は、知らない。
そんな、高度に情報化された戦場がごく普通の人間には認識されていない世界の中心で――
第1章 世界樹
見上げた空は今日も快晴で、頬を撫でる風は程よい温度と湿度で、それだけで気持ちが軽くなる。道行く人々も心なしか顔つきが明るい。
こんな気持ちのいい日は余分な情報を一切表示させずに近くのメガソーラー発電設備に併設されている広場で昼寝でもしたいものだと「彼」は呟いた。
いや、「呟いた」のは語弊があるだろう。その時点で彼は視界に表示される全てのAR情報を非表示にし、メガソーラー発電設備に向かって歩き出していたからだ。
たまにはこういうのも悪くない、と道行く人々を観察しながら人込みをかき分ける、というよりも互いが互いを正しく認識しているかのように誰もがぶつかることなくするすると歩いていく。どちらかというと彼の方がうまくかき分けられずに周りの人間が道を譲っている感がある。
それがAR情報の非表示の影響であるとは彼も理解していた。標準のARアプリに他人とぶつからないように警告と回避方向を指示するものがあり、それで人々は互いを回避して移動できるのはもはや常識だった。それなのに目的地に着く前にAR情報を非表示にしてしまったのは尚早だったか。
だが、それでもAR情報を再表示することなく彼は目的地に向かって歩き続けた。
「……あっ、」
避けきれずに、一人の女性の肩と接触してしまう。女性も俯いて歩いていたためかARに表示される警告を見逃してしまったのだろうか。
女性の肩から鞄が滑り落ち、中身を地面にまき散らす。
慌てて拾おうとする女性を手伝い、彼もしゃがみ込む。
「すみません、オーグギアの充電を忘れていて」
心底すまなさそうに女性が謝罪する。
「いや、俺もAR非表示にしていたのが悪かったので」
互いに謝罪しながら荷物をまとめ、女性に返す。
ありがとうございました。と女性が会釈し、歩み去っていく。
その後ろ姿を見送り、やっぱり街を出るまではAR表示は消さない方がいいか、と思い直した彼がARを再表示したそのタイミングで着信が入る。
ため息をつき、彼は応答する。
《こらぁ
耳が痛くなるのではないかと思うほどの罵声を飛ばしてきたのは職場の仲間だった。
彼――匠海が、うるさい切るぞと反論する。
《時間になっても来ないからサボる気かと思ったんだよ! さっさと出勤しやがれってんだ》
「……こんなに天気がいいのに薄暗い部屋に缶詰めかよ」
《知るか、
そうだ。世界樹で働くことを選んだのは匠海自身だ。世界最高峰のスペックを誇り、世界中にその枝を伸ばすメガサーバ、通称『ユグドラシル』。
AR表示をオンにした今なら見える。
目の前の高層ビルが基板の回路を彷彿とさせるラインで巨大な樹木を構築し、空から世界中に向かって枝を伸ばしている様が。
高度に情報化されたこの世界の中心となる世界樹こそが匠海の職場であった。
ため息を一つ吐き、はいはい分かりましたと匠海はぼやいた。ぼやいてから、改めて世界樹を見上げる。
情報化社会のシンボルともいえる世界樹。
オーグギアと呼ばれるヘッドセットを装着することで様々な情報をAR表示させる技術もこの世界樹あってのこと。多くの情報をリアルタイムで取得し、人間にフィードバックすることができるようになったのも世界樹がその情報を一手に引き受けているからであった。
そして、その情報を守るのが匠海の仕事。
世界樹に踏み込み、複数のセキュリティチェックを通り抜け、自分に割り当てられたブースに入る。
外の明るさとは打って変わって抑えられた照明のブースは強い光で集中を乱さないように配慮されている。多少薄暗くともAR表示で全てを確認できるためこの際部屋の照度は問題にならない。
長時間座っても体が痛くならない人間工学に基づいた椅子も長丁場の案件に遭遇した際にはある種の快適さをもたらしてくれる。
ふぅ、と息を吐き、匠海はオーグギアの
その瞬間、視界に入るAR表示ががらりと変わった。
今までは移動するうえで便利な情報表示だったものが、世界樹が展開する回線のイメージマップに。イメージマップ上で点滅するいくつかのアイコンは仲間が現在その周辺を監視中ということを示している。
匠海がログインしたことで、すぐに仲間が「やっと来たか」「遅いぞ」と声をかけてくる。
うるさい、お前らちゃんと監視しろよと反論しつつも彼はいつもの居心地の良さを感じていた。なんだかんだ言ってもこの仲間たちは頼りになるし何かあったときの相談役にもなる。もっとも、匠海の側から相談することは滅多になかったし仲間たちの相談もくだらない下ネタか恋バナが多く、仕事上の悩みなんてものはてんで聞いたことはなかったが。
軽口を叩きつつも世界樹のサーバ内に不審な痕跡がないか監視する。
流れに乗るようにイメージマップ内を巡回する彼の目が、違和感を覚えて通り過ぎかけたところを注視する。
そこは何の変哲もない非公開エリアのはずだった。だが、何かおかしい。
そう、まるで巧妙に何かを隠されているかのような。
「C-13エリアがなんか怪しい。手が空いてる奴は周辺に注意してくれ」
仲間に指示を出し、ARマップを切り替える。前回確認した時のデータを呼び出し、照らし合わせる。
ここで相互スキャンが異常なしと太鼓判を押してくれたら楽ができたか、というとそういうわけではない。むしろ異常なしの返答の方がここに何かを仕掛けた人間の腕前を認めなければいけなくなる。確かに本当に何もなかったということもままあるが相互スキャンの結果だけで何もありませんでした、異常なしでしたと報告するわけにはいかない。
異常なしの結果を見て、今までに培った勘と経験で徹底的に異常を洗い出し、対処しなければいけない。
相互スキャンの結果はすぐに出た。
異常あり。
思わず漏れたため息は安堵のものなのかそれとも失望のものなのか。
こんなところで痕跡を残す
恐らく、公開エリアと非公開エリアの境界に何かしらのセキュリティホールがあったのだろうが、そんな推測が簡単にできてしまうようなところから侵入するなどハッカーとしてはまだまだ未熟者、といったところか。
今のご時世、オーグギアが普及しARによって多くのことが直感的に行えるようになった。ハッキングに関しても、それは例外ではない。
ARによって直感的にハッキングが行えるようになり、多くの人間が身近な人間の、または公の場の、さらにはこのセキュリティの塊のような世界樹を攻撃するようになった。それはある種のミニゲーム集の感覚で行えるため大手企業はハッキング対策としてハッキング大会を開催してその優勝者をセキュリティ要員として登用するといったことが当たり前となっている。蛇の道は蛇、というわけである。
話はそれたが、世界最高峰のセキュリティを誇る世界樹にハッキングを仕掛けようとするハッカーはそれなりに多い。今回も世界樹に何らかの痕跡を記念に残そうと思った輩の仕業に違いないだろうと判断し、匠海は
異常を見つけたエリアをいったん隔離し、侵入者を網にかけるためのもので、自分の実力がどの程度かはっきり認識しているハッカーならこれを展開された時点で侵入を諦めることが多い。自分を過大評価しているハッカーだとこれくらい簡単に突破できるとたかを括るだろう。とんでもない腕を持つハッカーなら、この網ですらやすやすと突破してしまう、そんな程度のものではあるが今回中途半端に侵入の痕跡を残していることを考えると一番か二番のパターンが妥当だろう。
エリアを隔離し、相手の出方をうかがう。
尻尾はすぐに出てきた。
エリアを隔離された、と気づいた瞬間相手は慌てたのだろう、せっかくいい感じに痕跡を隠していたのに姿を現してしまった。
そうなると、もう本当にミニゲームでの対戦である。
姿を現しては隠れる侵入者をモグラたたきで表現するなら、出てくる穴をタイミングよくふさいで次の穴へ誘導し、出てきたところを一気に叩く、というものだろうか。
この場合、叩かれたモグラはどうなるかというと即座に回線を識別されサイバー警察に通報されてしまうのだが。
この中途半端な腕のハッカーをミニゲーム感覚で通報するのは実は楽しかった。これがオーグギアが普及する前、ハイスペックなコンピュータを用意し、プログラミングの技術を駆使した
ジジイ、いい歳こいて何やってるんだよとハッキングを逆探知され逮捕された祖父を警察まで迎えに行ったとき言った言葉ではあるがそれくらい今の世の中ハッキングが簡単にできてしまうのである。
とはいえ、血は争えないもので匠海が今世界樹でセキュリティ担当者、それもハッカーに対してハッキングで対抗するカウンターハッカーを行っているのも実は彼も以前世界樹にハッキングを仕掛けた人間の一人であったからだった。何人もの先輩カウンターハッカーをかいくぐり、最深部の目立つ場所に自分でデザインしたフラグを残してしまえば世界樹の管理人も彼を雇わざるを得ない、というものである。
そんなことを思い出しながらハッカーをモグラとしたモグラたたきを続けていた匠海だが、なかなかハッカーを叩くことができずにいた。いつもなら数手で叩けるのに、今回は相手がしたたかなのかぬるりぬるりと回避される。
痕跡を残す三流ハッカーと侮っていたからかもしれないが、どうやら相手の直感は大したものらしい。
たまには骨のある奴がいるものだ、と匠海は雑念を払いハッカーたたきに集中する。
数分後、根負けしたのかハッカーが追い詰められ、匠海によって通報される。通報された瞬間強制ログアウトさせられ、エリアから消失するハッカー。
だが、エリアに違和感だけが残る。
おかしい、いつもならハッカーが消えた時点で全てリセットされるはず。それなのに違和感が残るのは何かが残っているからか。
くまなくエリアを確認する匠海、やがて違和感の正体を見つけ出す。
エリアの片隅に巧みに偽装されたファイルが一つ見つかる。
「……おいおい……」
これはもしかしてこいつも採用フラグか、とぼやいてしまう。
簡単にウィルスチェックを行い、ウィルスではないと確認し、匠海はファイルを展開した。
展開したファイルは音声ファイルだった。
ひと昔流行った読み上げソフトのような電子音声が、短い言葉を読み上げる。
《世界樹に妖精は降り立った。さあ妖精との戦争の始まりだ。妖精を捕まえる事こそが我々人類の勝利条件、腕に覚えのあるもの、立ち上がるのだ》
なんだと?
思わず、もう一度再生する。
世界樹に妖精が降り立った。妖精との戦争の始まりだ。
どういうことだ。
妖精が何者なのかも気になるが、もう一つ戦争という単語も気になる。
戦争が何か、ということは一応理解している。武力による衝突、それも一般市民を巻き込んだものだということくらいは。
いや、嘘だ。
匠海は知っている。
今のこの世界では『戦争』にはもう一つの意味が隠されていることに。
それは情報戦だ。
武力の衝突で下手に人民や資源を消費し、地球を損耗させるのは得策ではないと気付いた上層部は戦いの場をネットワークに移した。相手の情報を混乱させることがその国を弱らせるのに最適だと。
ただ、これは一般市民には知らされていない。そのため、一般的には戦争というものは根絶はしていないものの武力衝突はほとんど起こらない、という認識を持っている。
だが、情報に詳しい人間は知っている。情報戦こそが今の時代の戦争なのだと。そしてそれに参加するのも自由だということも。
とはいえ、世界のネットワークの中心でもある世界樹を戦場にすることは禁止すると設立の際に各国間で宣言されたはずだ。それなのに、世界樹で戦争が始まるというのか。
いや、ただの愉快犯が犯行声明を出すのに戦争という単語を使っただけかもしれない。情報戦に長けた人間が、戦争が単純に国家間のものと思っているはずがない。この世界樹に降り立ったという妖精を巡っての争いに戦争という単語を使っただけだろう。
それなら妖精とは何者なのか。一応管理者から必要な情報はもらっているが、その中に妖精という情報はなかったはずだ。
と、なると実はとあるハッカーが自分の気付かないうちに妖精という何かを世界樹に埋め込んだ可能性がある。
これも採用案件か、と頭を抱えたくなるのを抑え、匠海はため息を吐いた。
この妙なファイルは削除しておこう。下手に誰かに見つかって混乱を招きたくない。
それと、出勤して早々ハッカーに出くわすという展開で疲れた。
コーヒーでも飲んで少し休憩しよう、と匠海はファイルを削除し、シートから体を起こした。
監視のために有線接続していた端子を抜こうと手を伸ばしたその時。
匠海の視界を何か人影がよぎった……ような気がした。
えっ、とその方向を見たものの、人影はおろか見間違えそうなものも何もない。
まさか侵入者のアバター? と思ったもののすでに接続は絶たれており確認する方法がない。仮に侵入者のアバターだったとしても今改めて接続しなおしてももう一度見ることができるかどうか。それにアバターを展開して堂々と非公開エリアを闊歩する侵入者がいてたまるか、とも思う。
「まさか……妖精……?」
そう思ってから馬鹿馬鹿しいと呟く。
ログアウト寸前に何かのデータが動き、それが人影に見えただけだろう。それに妖精と思ったのは先ほどのファイルで妖精という単語が出たからだ。本当に妖精がいるわけがない。
軽く頭を振り、匠海は立ち上がった。
考えすぎだ。何でもない。
ブースを出ようと数歩歩き、ふと思い立って振り返る。
「……っ!」
人影が見えた。
遠近感を狂わされるような小柄な人影。人間にはあるまじき背中の薄羽。
それが一瞬見えて、直後、視界から掻き消える。
まさか、本当に、妖精?
違う、と匠海はかすれた声で呟いた。
そんなことがあるはずがない。疲れているために幻覚が視えただけだ。幻覚が視えるということは精神的に参っているのか、いや違う自分は参っていない、でも自分の精神状態の悪化を否定する人間こそうつの初期症状じゃなかったのかという思考がぐるぐる回る。
大丈夫だ、俺は正常だ、と自分に言い聞かせる。
ただ疲れているだけなのだ。妖精に見えただけで実は何か別のファイルのノイズがそう見えただけだ。
そう、自分に何度も言い聞かせ、匠海はブースを出た。
これが彼にとっての妖精とのファーストコンタクトだった。
ここから、匠海の物語は、幕を開ける。
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