いのちじゃないね。 第1話
「るんらんら~らんらんる~♪」
陽気に意味不明な鼻歌を歌うのは、この春、高校生になったばかりの少女、
さら~、さら~と左右に揺れ、前髪でわざわざ隠しているのだろう左目がチラリズムしている。わかりやすすぎる浮かれポンチ。彼女をそんな風にしているものとはなんだろうか、なんて考えながら見回せば、右手に何か握りしめている。
誰が聞いているわけでもない即興曲を歌い続くくららはこう続けた。
「次の~
明らかにテンションがおかしい。幸か不幸か、周囲に人気はなく、彼女のおかしさを目の当たりにした人間はいない。が、人がいたら、間違いなく奇異の視線に晒されたことだろう。
それに、普段のくららを知る者なら「電子ドラッグでもキメた?」と思うはずだ。それくらい、彼女のテンションは方向性も上がり方もおかしい。
しかし、それは致し方ないこと。深海くららという人間と付き合いの深い人間なら、「彼苑度流展」という語句だけで、察してあまりある。付き合いがなくても、彼女と「同志」ならば語るまでもなく
彼苑度流とは、現在高校生の画家である。まあ、本人は「画家」と名乗るのは畏れ多いというが、五歳のときから絵画を描き、出した絵の悉くはコンクールで受賞。年に一度はコンスタントに新作を出す。それが画家でなくて何だというのだろうか。
というのが世間の評価だが、度流が「画家」とわざわざ自称しないのも、理由がある。現在高校二年生の彼が絵を描き、コンクールに出すのは、夏休み等の「学校の課題」の延長線上である場合がほとんど。真剣ではあるものの、状況だけ見れば、児戯の領域内であることを否めない。
度流本人としては、画家とは「絵を描いてお金を稼ぐ人」なので、自分は該当しないと考えているらしい。
謙虚だよなぁ、とくららは度流の姿を思い浮かべながら思った。そう、くららは彼苑度流本人と知り合いである。何を隠そう、通っている高校が同じなのだ。美術部所属となったくららの部活動の先輩にあたる。
くららの度流の推し方は一種ドルオタに通じるものがあるが、ガチ恋オタクではない。それはくららが主義としてガチ恋をしないというのもあるが……仮に、度流にガチ恋オタクがいたとしても、「無理」と断言できる。
その要因を思い出して、くららはスキップをやめた。
「そういや、彼苑先輩は、どうして彼女さんのこと、描かないんだろうな」
彼女さん。彼苑度流には恋人がいる。幼少の時分より、将来を誓い合った幼馴染み。十年を超え、変わらぬ相思相愛。度流自身、その恋人に操を立て通す覚悟でいるし、恋人の方もそうだ。
「まあ、彼女さんの方はなんてーか……うん」
くららは度流の恋人とも知り合いだ。それもそうだろう。度流とくららの顔繋ぎをしたのは度流の恋人である。
知り合いだからこそ、くららはその想いの底知れなさを実感している。度流は度流で、恋人に対して「クソデカ感情」と呼んで差し支えないほどの重く強い感情を抱いている。が、恋人の方がヤバい。
黒くて、どろどろとして、掴み所がないように思えるのに、確実に周りの邪魔者を押し潰し、度流までをも窒息させかねないような、不可視の質量。これが「圧」かぁ、と現実逃避気味に実感したのは、まだ新しい記憶だ。
とはいえ、彼苑先輩にガチ恋タイプのオタクなんて、存在しないと思いますけどねー、とくららは歩きながら、チケットを広げた。くららが握りしめていた投票券は少しくちゃりと依れており、直るわけでもないが、くららはその皺を撫でる。
不定期的にではあるが、上町府の平和のシンボルである「御神楽ホテル爆破事件慰霊塔」では彼苑度流展が開催される。度流本人が自覚するより、「彼苑度流」のネームバリューは高く、今時珍しい紙のローカル雑誌に、その名はよく載る。度流自身も今時珍しいアナログ画家だからか、デジタルより紙の方が鮮やかに見えるという配慮だ。
これまでの彼苑度流展は企画部などにより展示作品を決めたり、そもそも作品数が少ないため、わざわざ選出の必要もなかったりしたのだろうが、度流も活動歴が十年を超えた。そのため、ファンによる投票を加味して、次の展示作品を決めるというのが今回の企画である。
故に、紙での投票。もちろん、投票券には不正防止用の様々な仕掛けがしてある。それに、投票したいなら、紙の雑誌を購入しなければならない。それで大体篩にかけられるのだ。電脳犯罪が流行ったのは、古典手法より物理的な手順が少ないからである。手順が少なければ、労力が少なくて済む。これは何につけても当たり前の話だが、労力は少ない方がいい。
それに、グッズ集めに精を注ぐタイプのオタクであるくららにとっては、形のある公式商品が出るのは、願ってもないこと。保存用、鑑賞用、布教用に三冊買った。ただ、投票券があるためか、他の要因か、「一人三冊まで」の購入制限があったのはグッズのオタクとして手痛かった。少なくとも「持ち歩き用」と「スクラップブック用」にあと二冊は欲しかった。
それはさておき。投票券は一人最大三枚。くららはそれはそれは真剣に考えた。彼苑度流の作品はどれも魅力的で、くららは箱推しなのだが、それでも選ばなければならない。
度流の代表作といえば、誰もが口をそろえて言うのは「止まない炎」だろう。くららは敢えてそれ以外から選んだ。くららが選ばなくても、「止まない炎」は展示作品に選ばれる。
展示されるのは計五作品。オタク、マニアとして選出すべきは残り四作品だ。
「あ、くららちゃん」
慰霊塔が見えてくると、くららに声をかける者があった。髪色を抜いたにしたって、染めたにしたって、他から浮くほどの風貌をしているくららに親しげに声をかける人間など限られている。
「あ、先輩」
振り向くと、そこにいたのは私服姿の度流と優音。度流は空色のシャツにライトベージュのカーゴパンツでカジュアルに、優音は柔らかな藤色のプリーツワンピースにショールをつけて綺麗めに整えている。特に優音はド美人であるため、すれ違う十人が十人振り向くほどだ。
普段はどこにでもいそうなフツメン感しかないのに、優音と並んだ途端に顔面偏差値がバカ高くなって見える度流。うーん、謎、とくららは目を細くした。
「おデートですかぁ?」
からかいの色を多分に含んだ声音で、くららは二人に問う。返ってくるのはあっさりとした「うん」。くららは小さく舌打ちした。
――この二人、関係が長く、絶対的であるために、どんなにからかったり、おちょくったりしても、照れることが決してないのだ。それだけ互いを深く想い合い、想いが通じ合っている証拠なわけだが、敢えて聞こえ悪く言うのなら、年相応の初々しさや青さがない。
とはいえ、くららは基本、この二人を祝福している。からかい目的の発言はこれくらいでいいだろう。
「彼苑度流展の展示投票、行ってきたんです?」
「うん」
まあ僕は本人だから投票はしないんだけど、と度流。それについてはくららも把握していた。くららが気になるのは、優音の方だ。
くららが様子を伺うと、優音はにこりと微笑んでみせた。
「教えるから、深海さんも投票を済ませたら? きっと、長い話になるでしょう?」
優音の指摘にそりゃそうだ、とくららは笑う。グッズを自主制作するレベルのオタクということは明かしていないが、彼苑度流ファンとしてのくららの饒舌ぶりは、二人の知るところである。
二人に今来た道を戻らせるのは、少し気が引けたが、語り尽くしたい気持ちは消せない。御神楽の管理なだけあって、休憩所のコーヒーはかなり美味しい。あれを味わう口実ができるのもいいことだ、と思った。
慰霊塔には一フロアにつき一つ、休憩スペースが設けられている。コーヒーと紅茶と柑橘ジュースが売られており、それぞれ、なかなかの絶品である。
そんな休憩所の一角に、くらら、度流、優音の三人は陣取っていた。くららと度流はコーヒー、優音は紅茶を手にしている。
「それで、荒崎先輩は何に投票したんです?」
コーヒーのカップを握り、少し興奮気味にくららが切り出した。優音はCCTを取り出し、確認しながら返す。
優音が開いたページは、「彼苑度流展」の公式ページであり、投票対象作品の名前が画像つきで一覧となっているものだ。拡大すれば、ホログラムディスプレイで大きめの絵を確認できる。
優音がタップし、表示したのは、鮮やかな青の濃淡の中にうっすらと家族写真のようなものが浮かんだ絵。
「『空に溶ける』ですか! いいとこ攻めますね」
「うん。明るい色使いなのもあって、度流くんの絵の中では、これが一番好きかな」
「空に溶ける」は「ゴールデンウィーク子ども展覧会」という未就学児のみの絵画コンクールに寄せて度流が描いた作品である。度流は毎年、この展覧会には作品を寄贈しており、他にも、子ども受けしそうなポップでカラフルなタイプの絵を出している。
実際に子ども受けがいい、というのもあるが、度流が毎年絵を寄贈するのは、子どもたちには楽しい思い出をたくさん形にしてほしいと願うからだ。
そんな祈りのこもった度流の絵は「コンクールに出さないのが勿体ない」という声も多く、人気の声も高い。
その中でも話題性が高かったのが、昨年出された「空に溶ける」である。例年の明るい色使いはそのままなのだが、どこか物悲しさの漂う「彼苑度流らしさ」が滲み出ているのが、このコンクールの寄贈作品では珍しい、と話題になった。
「やっぱり、度流くんの『想い』の強さが反映されるのが魅力だと思って。度流くんは無意識かもしれないけど、それがよく出るのは『家族』をテーマにした絵だから」
ああ、とくららは察した。
彼苑度流は十二年前、ここが「慰霊塔」になるきっかけとなった御神楽経営のホテルで爆破テロに遭い、家族を失った。その直後に描いた作品が「止まない炎」。テロの炎、そのおぞましさと恐ろしさをまざまざと表現したのが、人の心に深く刻み込まれた。
「家族を失った」ショックから描かれたのが「止まない炎」である。「空に溶ける」に描かれたのも空に透ける家族写真だ。優音の言う通り、度流の絵に懸ける情念は「家族」というテーマに表れやすいのだろう。
「だから、あとは『母の絵』と『灯籠流し』に投票したの」
「あ、三票別々にしたんですね」
思わず出たくららのコメントに、優音はあら、と苦笑する。
「深海さんは、三票同じのに投票したの?」
「はい。やっぱり、推し作品には上位にランクインしてほしいですし。そりゃ、人気投票ではないですけど……」
ドルオタが総選挙のために投票券つきの商品を買い漁ったり、漫画の人気キャラランキングの投票で、ディープなファンがありとあらゆる手を使って投票券を獲得したりするのは、やはり推しに一番になってほしいからだ。
という意図のくららの発言に、優音は首を傾げる。くららは所謂「箱推し」で度流の作品に優劣をつけていないと思っていたからだ。
「彼苑先輩の作品に、良し悪しなんて評価の仕方はナンセンスですよ。あたしは布教のための戦略的思考で一つに絞ったんです」
「その一つって?」
度流が入れた合いの手に、くららが「待ってました!」と笑みを閃かせ、バッグから絵本を取り出した。
幼稚園や保育園、小児科の待合室なんかに置かれているような、あまり厚くないけれど、表紙が固めの素材でできている絵本。
「『いのちじゃないね』……!」
が、二冊。
優音が目を白黒させる。
「なんで二冊?」
「当たり前ですよ。苦労したとはいえ、限定版も手に入れたんですから」
「いのちじゃないね」というのは、度流が小学五年生のときに、同級生と共同制作した絵本である。度流のネームバリューもそうだが、最優秀作品は実際に本になるというタイプの「絵本コンクール」に出品された作品だ。
見事、最優秀賞を取り、出版社から出された「いのちじゃないね」という絵本は、限定版にのみ、度流と文を担当したもう一人のサインが入っている。オタクを名乗るなら、限定版と通常版の両方を揃えるのが常識だ。
「え、でも、限定版って、五十冊くらいしか発行されなかったはずだし、発行されたのはくららちゃん中学にあがりたてくらいじゃなかった?」
「ふふん。入学祝でプレゼントされました」
「理解のある保護者さんですね」
くららはそろそろ
「ほら、近く、また絵本コンクールがあるんですよ。あの会社、大きい企業がバックにいるわけじゃないですけど、彼苑先輩とおとぎ先生の絵本がかなり売れたので、また開催することにしたとか。時期的に、前回最優秀作品が生で見られるのって良くないですか?」
「なるほどね」
くららの言い分に、度流も優音も納得した様子で頷く。が、その口元には何故かほろ苦い笑みが閃いていた。
度流は普段からブラックコーヒーを平気で愛飲するので、今更「コーヒーが苦かった」などということはないだろう。くららの不思議そうな目線に気づいた度流が、どこかぎこちなさを伴いながら、くららに顔を向ける。
「『いのちじゃないね』なんて、久しぶりに見たよ。懐かしいなあ」
「あのとき、色々あったよね。
細川とは、文脈からするに、度流の同級生で、もしかしたら「いのちじゃないね」の作者の一人かもしれない。
ともあれ、度流と優音の口から、パートナー以外の名が出るのは、極めて稀なことである。
「何があったんです? 細川って誰です?」
くららの疑問に、度流と優音は視線を交わす。度流の表情から苦さは消えないものの、次第に和らいでいき、語り始めた。
「ちょうどいい機会だし、話そっか。僕は小学五年生のとき、後の『おとぎ・かなた』先生こと細川
そこで、優音ちゃんと、大喧嘩したこと」
突っ込みどころしかなくて、どこから突っ込んだらいいのかわからない滑り出しと共に。
* * *
「いいね」と思ったらtweet! そのままのツイートでもするとしないでは作者のやる気に大きな差が出ます。