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いのちじゃないね。 第3話

 

 
 

「度流くん!!」
 目を開けると、優音がいた。少し頭が重くて、痛くて、優音と目が合っても、景色が揺れて見えていた。
「度流くん!! 度流くん、度流くん? 見えてる? 聞こえる? 目が覚めたなら、返事をして。手を握るだけでもいいよ」
 言われて、声を出そうとして、喉がからからに渇いていることに気づいた。諦めて、優音の体温を探す。――探すまでもなく、優音はずっと手を握ってくれていたことに気づいた。
 長いこと握っていたのだろう。優音の体温は度流の体温に馴染んでしまっていて、輪郭を意識しないと、そこにあるのがわからなかった。それくらい「当たり前」に優音はずっと傍にいてくれたのだ。
 手を握り返すと、優音が目を見開いて、度流の体を抱き起こす。成長期は優音の方が少し早くて、まだ細くて小柄な度流を、優音がぎゅう、と抱きしめる。
「度流くんの、馬鹿」
「うん……」
 まだ現状を理解できていなかったけれど。
 優音を泣かせたのなら、確かに自分が悪いな、と度流はぼんやりと思った。

 

 歩道橋から、落ちたらしい。
 優音がすぐ読んだ医者と看護師から、そう説明を受けた。
 階段から落ちたという事故ではなく、おそらく故意であることを話された。落ちた衝撃はあったものの、通りかかった自動車の荷台がクッションの役割を果たしたらしく、体の損傷はほとんどないという。
 意識がなかったので、脳の障害だけが心配されていたが、それも杞憂と呼べるくらい、度流がはきはきと言葉を交わせたため、事情を話すに至ったようだ。
 その辺りの記憶は、だいぶぼんやりとしていたが、胸の奥がつきりと痛むことに、心当たりがあった。――命じゃなくなろうとした。
 細川の絵本のストーリーが、あまりにも切なくて、それに釣られてしまった。たぶん、夏に祖母が亡くなったばかりというのも影響したのだろう。科学によって、オカルトのほとんどが解明されたけれど、人の死を目の当たりにした人が死に惹かれやすくなる、というのは、古今東西変わらない。
 ……なんて、自己分析をしていたら、急激に申し訳なさが込み上げてきた。細川がこのことを知ったら、気に病んでしまうかもしれない。それで書くのをやめてしまうのは、本当に惜しい。
 度流がこうなってしまったのは、心の揺らぎが顕著になる年頃ティーンに差し掛かったというのもあるが、それだけ、細川の文章が心に刺さったということである。物語の構成、表現力、描写力、キャラクターの魅力、言葉選び……度流の行動の方向性が良くなかっただけで、細川の作品は素晴らしいものだ。だから、絵本コンクールを諦めてほしくない。
 幸い、入院にはならず、度流はすぐ家に帰れた。相談をしよう、と優音のCCTに通話を繋ぐ。
 が。
「出ない……」
 すごいときは、ワンコール鳴りきる前に出るほどの優音が、応じない。どうしたんだろう、と度流は首を傾げる。
 五分ほどすると、部屋に従弟の静久しずくが訪ねてきた。
「わーたーるーにーい?」
「静久?」
 たいへん目を据わらせた静久が、度流の部屋にずかずかと入り、座っていた度流にずんずんと迫った。
 静久は同年代の中でも小柄な子であるため、いまいち迫力には欠けるが、その分、全身で「怒っているぞ」と表現する。
「優音ちゃんから『しばらく度流くんのこと着拒にするから、伝書鳩にするね。ごめんね』って連絡きたぞ!」
「ちゃ……きょ……?」
「着信拒否! さすがにわかるでしょ!?」
 着拒の意味がわからなかったわけではないが……優音からそういう断りがあったのがショックだった。
 何故、どうして、と口にするほど度流も馬鹿ではない。病院で度流の目覚めを待っていた優音は泣いていた。度流が歩道橋から自分の意思で落ちたこと――自殺未遂に及んだことを、聞いていたのかもしれない。
「それで、伝書鳩なんだけど、聞いてる!?」
「しずっ……いひゃい」
 目をいからせた静久が、度流に飛びかかり、むにぃ、とその頬をつねって引っ張る。むっとした表情のまま、静久は続ける。
「細川奏多さんって子が度流兄に会いたがってるみたいだよ。待ち合わせ、セッティングしてあるから、行くなら行く。行かないなら連絡先聞いてるから連絡しな」
「連絡先は?」
「もう送信してある。ぼーっとしてないでメッセージチャットに既読つけなよ」
 全然既読つかないから押し掛けてきたんだからね、と静久は頬を膨らませて、度流から離れる。指示通り、度流はメッセージチャットを開き、静久からのメッセージを確認した。待ち合わせ時間がかなり迫っていて焦ったが、それよりも、優音のチャットのメッセージ欄に一言「今は話したくないです」とだけあることの方が胸にきた。
 優音に会いたいけれど、会って何を話したらいいのだろう、と思った。優音を傷つけたのが自分であることは、はっきりとわかっているのだ。
 まずは、細川に会おう、と度流は鞄にCCTを入れた。

 

 一時間もすれば、真夜中の様相だった空も明るくなり、人が出歩くのに不便のない時間となる。
 待ち合わせ場所の公園に行くと、細川はベンチの端っこに腰掛けていた。姿勢よく背筋を伸ばしている……というよりは、緊張しているように見られる。
「あ、彼苑くん。体調大丈夫?」
「うん。ごめんね、心配かけて」
「意識が戻って、本当によかったです。荒崎さんがものすごく心配していて、授業は上の空だし、給食もほとんど食べないし、日を経るごとに顔色が悪くなっていくし……先生が心配して『早退しなくて大丈夫か?』って言っても、頑なに帰らなくて。
 彼苑くん、荒崎さんと何か話しました?」
「……」
 当然といえば当然の質問に、度流は黙りこくる。細川は沈黙が気まずかったのか、早いうちに話せるといいね、と話題を切り上げた。
「それで、絵本のことなんだけど……まずは謝らせてください」
「え、いいよ、謝罪なんて」
「いや、あんなショッキングなところで切ってたら、誰だって落ち込みますって! それに、彼苑くんあのテロで家族を亡くしているから……そういう琴線に触れちゃったかなって」
 細川の言葉に、度流は息を飲んだ。
「あのテロって、六年前の御神楽ホテル爆破テロ? 細川さんも巻き込まれてたの?」
「あ、いえ。私は現場にはいなかったんですけど、叔父がホテルに滞在していて。……叔父は、絵本作家だったんです」
 「おとぎ・しぐれ」というペンネームで活動していたらしい。祖母がよく読んでくれた絵本で見た覚えがある名前だ、と度流は思い出し、軽く黙祷した。
「あのテロでは、子どもより大人がよく狙われたと聞きます。そうでなくとも、大人は子どもを守るもの、というのは常識であり、叔父の信条でもありました。だからきっと、叔父は子どもを助けて死んだ。最期まできっと立派だった。……そうやって、受け入れたつもりではいたんです」
 そこまで話して、細川は滲んだ声の向こうから、嗚咽をこぼした。叔父と言っていたが、度流にとっての両親と同じくらい、細川にとっては大切な人だったのだろう。
 大切な人を失った悲しみは度流にも痛いほどよくわかる。
「受け入れたし、向き合ったけど……それでも、叔父さんの書く新しい絵本がもう読めないんだって、見られないんだって思うと、悲しくて、悔しくて。ニュースで報道されるような、ネットでバズるようなタイプの人ではなかったかもしれないけど、それでも、同じ保育園や同じ学校の友達から『おとぎ・しぐれ』の名前が出るたび、誇らしく思うんです。今もまだ、ずっと!
 だから、私は……叔父がいつか、私を褒めてくれたこの物語を『絵本』にしたかったんです。彼苑くんを傷つけたかったわけじゃない本当は彼苑くんみたいな傷を抱える子を、癒す作品にしたかった」
 思いの丈を吐き出すと、細川はノートを一冊差し出す。表紙のタイトル部分には、相変わらずの走り書きで「いのちじゃないね」と綴られている。
 名前の記入欄には「おとぎ・かなた(細川奏多)」と書かれていた。叔父のペンネームを半分もらい受けたらしい。細川の決意が表れているような気がした。
「彼苑くん。一緒に作るかどうかは後でいいです。ただ、ちゃんと最後まで読んでください。途中の、あんなところで止まって、傷ついたままで終わらせるのは、叔父を尊敬する私のポリシーが許しません。……この物語は、ちゃんと、ハッピーエンドなんです。それだけは、知っていてほしい」
 そう告げる細川の眦。そこから三つ連なった泣きボクロが、ひどく煌めいて見えた。

 

 § § §

 

「おばあさん、おばあさん。むすめさんが、元気なお子さんを産みましたよ」
 看護師さんが、おばあさんに声をかけました。おばあさんはぱっと顔を上げます。
「あかちゃん、見ますか?」
 うれしそうに笑う看護師さん。おばあさんの手を取ると、あかちゃんのおへやに連れていきます。
 あかちゃんはすぅすぅ寝息を立てています。看護師さんはそっと抱き抱えて、ゆらゆらとあかちゃんをおばあさんに見せました。
「だっこしますか?」
「落としたらいけないよ」
「じゃあ、ほっぺを触ってみてください。とってもふにふにですよ?」
 なんだか、看護師さんの方がうれしそうです。おばあさんは看護師さんの無邪気さが微笑ましくて、にこりとします。
 そうっと、しわくちゃの手を伸ばし、指のはらで、ほっぺにちょん、と触れました。
「生きてるね、あったかいね」
「そりゃ、生まれたてですもの。あかちゃんって、体温高いんですよ」
 意気ようようと喋る看護師さんの腕の中で、あかちゃんがうっすら、目を開けます。
 おひさまを閉じ込めたような金色が、てらてらとおばあさんに注がれました。
 おばあさんは少しびっくりしたあと、とてもとてもやさしく、あかちゃんにえがおを返します。
「いのちだね、いのちだね、よかったねぇ。また会えたねぇ」
 ぽろぽろ、ぽろぽろ、なみだをこぼして。
 おばあさんは、御守りだよ、とあかちゃんにミサンガを見せました。一度千切れた跡のあるミサンガです。
「また会えたねぇ、よかったねぇ」
 その赤いミサンガを見て、あかちゃんはきゃらきゃらと笑いました。

 

 § § §

 

 度流の頬を、ぽろぽろと涙が伝う。
 はっきりと記されているわけではない。余韻を読み取る部分が大きいが――これは「生まれ変わり」の解釈ができる。
 「いのちじゃないね」は確かに、救いの物語だった。
 度流は細川にノートを返し、もう一度、一緒に作りたい旨を伝えた。細川はそれを快諾し、コンクールまで時間もないが、せっせせっせと制作を進めている。
 が、問題は残っている。
 優音と話さずに、七十二時間が経過した。九日間である。新記録といっていい。
 声をかけても、優音は悲しげに眉をひそめるだけで、応えてくれることはない。細川には声をかけているようなので、絵本コンクールの件は把握しているのだろう。
 だが、頑なに度流と話そうとしない。目を合わせようともしない。
 「いのちじゃないね」を読み終えたことで、度流は自分がしてしまったことを深く後悔した。
 死にたいと願ってしまうことは、度流の身の上なら、仕方ないことだと周りは言う。実際そうなのだろう。けれど、それで死んだら、残された大切な人はどうなる?
 考えたことがないわけではなかった。両親が死んで、自分だけ生き延びたときも「死んじゃいたい」「消えちゃいたい」なんて、数えきれないほど願った。それでも度流に生きていてほしい人は「死んだら大切な人が悲しむよ」と諭して、悲しませたらいけないと思うから、度流は生きる選択をしたのだ。
 度流にとって、大切な人。それは優音だ。もちろん、両親を亡くした度流を引き取ってくれた伯父夫妻や従弟の静久も大切だが、優音の大切さとは、またベクトルが違う。
 伯父たちも、度流が死んだら泣くだろう。それは仕方のないことだ。家族なのだから。これを言ったらおしまいだが、大抵の人間は、人が死んだら悲しい。
 けれど、度流のことで、優音が泣いてしまうのは、どうしても、許せなかった。優音を泣かせたくない。悲しませたくない。仕方のないことだとしても、「仕方のないこと」で済ませていいとは思えない。――優音を大切に思う気持ちというのは、そういうものだった。
 だというのに、度流は死のうとした。優音のことを一切省みることなく。
 孫をなくしたおばあさんの悲しみについて、作中ではさらりとしか語られていない。けれど、周辺人物からの証言だけで、「その悲しみは深いものだった」と理解できるほど、おばあさんの言動の節々には悲しみが滲んでいたのだ。「残される悲しみ」というのは、それくらい色濃い。
 そんな思いを優音にさせるところだった。
 自分が許せない、とはならない度流だが、ものすごく反省はしている。優音の傷を想像して、自らの胸を痛めるくらいには。
 ごめん、の一言で済む話ではない、とは思うが、他にどうやって切り出せばいいのだろう。そもそも、話しかけていいのかわからない。
 でも、優音とこのままずっと話さないでいるのはつらすぎる。だからといって、優音が「話したくない」というのに無理矢理話すのも、とうだうだ考えていると、通知のバイブレーションが派手に鳴った。
 通知が鳴るのが久しぶりだし、バイブレーションを設定した記憶もなくて、どたばたと慌ててしまう。CCTを取り落とした度流を、隣の席の子が「何やってんの」と笑った。
 通知を見ると、幸か不幸か通話ではなく、メッセージチャットで……優音からだった。
「放課後、二人で帰ろう」
 短い文面だったが、度流はとても嬉しかった。優音が話したいと思ってくれたのなら、それ以上のことなんてない。
 放課後を待ち遠しく思った。

 

 放課後、優音の席に行くと、優音はいつも通り微笑んでくれて、口を利かなくなる前の「いつも通り」みたいに、二人で帰路に就いた。
「優音ちゃん」
 度流が、喉から絞り出すように声を出して、優音の名前を呼んだ。
「ごめん、何も話さなくて」
 ごめんで済ませていいとは思えない。けれど、他に言葉がない。シンプルすぎる言葉の羅列だ。
 優音は少し間を置いてから、静かに「ほんとだよ」と応じた。
「私は、度流くんのつらさも、悲しみも、全部一緒に背負って生きていこうって、覚悟はできてるのに」
「うん、本当にごめん」
「ひどいよ、度流くん。私たちはずっと一緒だって、永遠だって、約束したのに」
 返す言葉もない。優音はつらつらと続ける。
「ひどいわ。ひどい。なんでも話してほしくて、普段からいっぱい話しかけて、話しやすいようにしてるのに、肝心なことは、悲しいことやつらいこと、度流くんの心を蝕むもの、私が背負ってあげたいことだけは全部、度流くん一人で抱えちゃうんだ。度流くんが一人で潰れちゃわないように、背負おうって思ってるのに。……度流くんは、一人で、平気なの?」
「そんなわけな」
「だったらなんで、置いていこうとしたの!?」
 普段は叫ばない優音が、声を荒らげて、度流は返す言葉を飲み込む。雨に打たれる木の葉のような色の目が、濡れていた。
「度流くんはいつも、私を気遣ってくれる。度流くんは優しいから、私を否定しない。度流くんは私の全てを受け入れてくれる。でも、そこに度流くんの真実ほんとうはあるの? 私に合わせてるだけじゃない? 無理をして、自分を殺してない? そうして度流くんが自分で自分の首を絞めるくらいなら、私、私……度流くんのこと、『好き』なんていうんじゃなかった!!」
「優音ちゃん」
「永遠になりたいよ。私の永遠が度流くんのものであってほしいし、度流くんの永遠が私のものなら嬉しいよ。それをずっと夢見てる。でもこんな形の永遠、私は」
「優音」
 優音の肩に手を置き、抱き寄せる。握りしめて震える手を包み込む。わなわなと震えていた肩が落ち着いたところで、その頬を濡らす露を払った。
 花の色と草の色が出会い、互いを見つめる。花が悲しそうに翳りながら、微笑んだ。
「ごめんね、優音ちゃん。君がこんなに想ってくれてるのに、何も言わなくて。たくさん謝ったところで許してもらえるかわからないけど、……ここ数日、優音ちゃんと話せないのが、つらかった。優音ちゃんがいない生活なんて、考えられないよ。ずっと一緒にいてほしい。僕も約束するから。優音ちゃんと、ずっとずっと一緒にいる。傍にいる。永遠に。何があっても。君の望むままに」
「……ほんと?」
 ほんとうだよ、と度流は返す。優音の瞳孔がぼう、と揺らいで、虹彩を煌めかせていたハイライトが暗く溶けていく。
 闇色が侵食したような深い色の目をしてから、優音はにっこりと笑みを浮かべる。
「ありがと、度流くん。じゃあ、私が死んだら、度流くんは一生引きずって私を永遠にしてくれる?」
「もちろん」
「あははっ、冗談だよ」
 優音がからからと笑った。度流はわりと本気で頷いたのだが……優音が冗談だというのなら、いいか、と微笑む。
 優音に笑顔が戻った。今はそれだけで充分だ。
「それはそれとして、度流くんに置いていかれそうだったのはショックだったので……何しよっかな。度流くん、虫もおばけも平気だもんね」
 精神攻撃もわりと強いし、とぶつぶつ呟く優音。ちなみに、食べ物の好き嫌いもあまりない。
 やっぱり、一番効くのは、と優音が度流の手を取る。
 太陽にも負けない笑顔で、彼女は言った。
「度流くん、あんまりひどいと、嫌いになるよ」
 ――確かにそれが一番効果的で、その後年明けまで、一日一回、優音の「嫌い」を聞くこととなった度流がグロテスクになったのは言うまでもない。

 

 * * *

 

「ってことがあったよね」
「惚気だとしてもあらゆる方面にエグいのが来たな……」
 くららはげっそりとしながら、コーヒーを煽った。甘いのか苦いのかわからない思い出話でおかしくなりそうな思考をリセットする目的だったが、余計にわからなくなった気がする。
 冗談って言ったみたいだけど、荒崎先輩のそれ、冗談じゃないんじゃ? なんて脳裏によぎったが、言わぬが花。言ったところで、度流が受け入れてしまうところまで目に見えている。
 本当に怖いのは、優音なのか、度流なのか。
 深く考えるのはよそう、とくららはコーヒーのおかわりを買いに向かった。

 

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おまけ

扉絵

 

『いのちじゃないね。』

 


 

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