テンシの約束 第1章
その日。世界が塗り変わったように感じたのを覚えている。
今となってはもうずっと昔のことのようで、もはや正確には覚えてないのだけど、結局のところ、この時が始まりだったんだと思う。
〝今〟から見て九年前。俺は〝天使〟と出会ったんだ。
◆ ◆ ◆
「なぁー、
「それ、マラソン中に聞くことか?」
既に半ばダレかけてる俺にのんびりした調子のクラスメイト、
「まだ一周も走ってない。最初はマイペースに行こうぜ。で、どうよ?」
ふざけんな、こっちはそんなに体力はねーんだよ、と言いたいが、それを言う方が体力の無駄だ。
「じゃあ、
「片浦って……演劇部の照明係の?」
「あぁ、前に見たけど、彼女が照明を担当してる時と、臨時で演者をやってる時だと、照明の演出力が一段階は違ったな」
「ほぉー、なるほどな」
片浦の名前を挙げたのは申し訳ないが、適当に無難だと判断したからと言うだけだ。まぁあの劇で照明ってのは本当に大事なんだな、と理解させられたのは本当だが。
俺が本当に好きなのは……。
ちょうど俺たちを周回遅れにして走り去った彼女。
「三木! 木村! ダラダラ喋りながら走るな!」
直後、
「うおっ、こわっ。美人なのに恐ろしいよな。あれだけの美人なのに独身なのは絶対あの恐ろしさで男が全員逃げたからだぜ」
そうだろうな、と思ったが同意はしない。なぜなら。
「木村、無駄口を叩く元気があるなら、当然無駄口を叩いてない奴より走れるな? 全員が走ってる間、止まるなよ」
マジかよ、と木村が呻く。
そう、中島先生は地獄耳だ。
「はい、皆さんお疲れ様でした。最初にも説明しましたが、あくまで今回は皆さんの体力を図るためで結果は成績に反映しませんから安心して下さいね。ただ……、意図的にサボった人間がいますね?」
一部の運動部が体を震わせる。見える感情は怯え。
中島先生は生徒が運動中とそれ以外で口調が変わる。そして、どちらにしても、怖い。
中島先生が顧問を務める剣術部の三年生なんかは「
「あの三木先輩ですよね?」
体育が終わって廊下を歩いていると、小柄な女の子に声をかけられた。俺の身長が男子平均やや上なのを加味しても、見下げないとならないほどの小柄さは、年齢差が一歳だけとはちょっと考えにくいほどだ。
念の為周囲を見渡したが、スカーフの色から一年生だと思われるその女性より年齢が上で三木という名字を持つ人間は高校二年生の俺、三木
「えっと、三木帆夏なら俺だけど、君は?」
「あ、一年の
「オカルト……? えっと、俺に、で本当にあってる?」
「はい。
なるほど。確かに俺はアイツの幼馴染だ。
「って事は聞きたいのは崎門神社のことか」
「はい!!」
崎門神社ってのは俺たちの住むこの町。つまり、東京都二十四区のうち最も北東にある
「太古の昔にこの世界を滅ぼすほどの力を持った禍神を封じてると言う
「悪い、そう言う話ならパスだ」
「なんでですか! 話を聞かせてもらうくらい!」
「
まぁ、他ならぬ実利のじいちゃんとかが積極的に広めてたりするわけだが。
んで、実利ってのがその俺の幼馴染。つまり、崎門 実利ってわけだな。
「っていうか、人に聞きに行ける行動力があるのに、俺に聞きにきたあたり、実利には聞きに行くのは憚られたか、聞きに行ったが断られたかのどちらかだろ。本人の口から聞けないようなことを俺が話すわけにはいかないよ」
「むぅ……」
むくれっ面を披露する前城さん。いや、高校生にもなってそれはないだろ。まさか本当にもっと歳下なんじゃないだろうな。
「じゃ、着替えないとならないから」
これで学校は終わりじゃないからな。着替えたら、また次の授業がある。
むくれた表情を続ける前城さんを無視して教室に入る。
「よぉ、なんか女の子に声かけられてたじゃん、OKしたのか?」
「バーカ。なんか変なオカルトマニアだったよ」
「あぁ、崎門さんのところの……。そりゃお疲れ」
「ありがと」
木村はなんだかんだ退くべきところを弁えてくれている。あともう少し察しが良ければ……、いや、あるいは察されても困るのか。
やがて女子達も教室に入って来て、そして教師も入ってくる。
「それでは日本史の授業を始めていきます。今回から朝廷という言葉が出て来ます。天皇という存在は今の皆さんには馴染みがない部分だと思いますが……」
流れるように日本史の授業が始まる。
俺は窓際の席で体育での疲れを、この春の陽気差し込むこの場所で微睡んで癒やそうと思う。
が、その前に、チラリ、と自分の右斜め前の人間に視線を向ける。
ブレザーにスカート。腰にまで届くほどの長い黒髪をポニーテールにしてまとめている。
俺の好きな人の話が途中だったな。
今視線を向けた相手、幼馴染の崎門 実利こそが、俺の好きな人。九年前、初めて今の実利を見て、天使だと思った。
あぁ、眠気が。眠りにつく最後の瞬間まで、俺は実利を見ていた。
なんてな。学校の居眠りでカッコつける事じゃないか。
気がついた俺の目の前に広がる光景はどこか古い日本の光景。
あぁ、またこの夢か。
二十四人の人間が耳を切り落とされ、市中を引き回された末に長い旅に出される。
旅の途中二十六人になった一行は丘の上で十字架に磔にされる。
そして、一行は一人残らず槍に突き刺されて処刑される。
それでも一行は最後まで悲観しなかった。死後に必ず自分たちの信じる神が助けてくれると信じていたから。
目を覚ます。何度見ても目覚めの悪い夢だ。
登場人物が一人残らずこの理不尽な現状を受け入れているのが気に入らない。
一年の現代社会の科目で習ったどこかの哲学家が唱えたという「悪法も法である」というやつか。下らない。
ちなみにこの当時は知らなかった事だが、「悪法も法である」ってのはほぼ創作で、実際のソクラテスは「死んだら自称裁判官の皆さんから解放されて、過去の偉人と語り合えるかもしれない。それは素晴らしい事だ」などと強気な発言をしていたらしい。そして同時に「不正を働けば過去の偉人に顔向け出来なくなる。しかし信念を貫き通して死ねば、堂々と顔向けできるというものだ」と語ったという。つまり法律に従ったのではなく、信念に従ったのだ、ということだ。この言い分の方がよっぽど分かるな。
「おい起きろ、帆夏、帰るぞ」
お、実利の声だ。授業は終わったのか。清楚っぽい黒いロングポニーテール姿からすると少し意外性のあるハスキーな低音ボイスだ。
「いや、起きてはいるんだけどな」
ただずっと顔を伏せてるだけで。
体を起こしてそのまま勢いで伸びをする。
「おはよ」
「おう、おはよ。って、誰もいねぇ。待っててくれたのか」
「まぁ、俺にあわせて帰宅部やってくれてるんだしな……」
実利の普段の一人称は私だが、俺と二人っきりの時は俺になる。
ぶっきらぼうな口調と相まって正直文字だけだと男同士のやりとりにすら見えるな。
「さ、さっさとカバンに荷物詰めちまえ、帰るぞ」
「おう」
でも、実際のところそれは勘違いじゃない。
実を言うとそれこそが俺が九年前からこの想いを心に秘め続けてる理由でもある。
実利と本当に出会ったのは実は幼稚園の頃。だから、三歳の頃にはもう知り合いだった。
そりゃそうだよな。たった九年前からの知り合いの事を幼馴染とは言わない。だって高校二年生から見て九年前ってもう小二だ。流石にそれでは幼馴染とは言わない。色んな高校にバラけたりする環境なら、小学校からの友人でも貴重なもんかもしれないが、竈門町の高校はここ一つだしな。
今でも思い出す。二〇〇六年の実利の誕生日。
夕方頃だったな。隣町である
大きな鳥居をくぐって、長い階段を登った先にある崎門神社。
その大鳥居をくぐろうとしたところ、ちょうど階段を降りて来た天使のような女の子。
最初、それが実利だなんて思わなかった。だって何度か連れションもしたし間違いなく知ってる。実利は男だ。
「よぉ、帆夏」
けどその天使は恥ずかしそうに、よく知った声で俺の名前を呼んだ。
実のところ、俺は未だに実利が女装してる理由を知らない。
ただ、今日までの九年間一度も男らしい服を着なかったことから、もう男には戻らないのだとは思う。
そんな実利が唯一、男らしい一人称を取り戻すのが俺の側なのだ。よく分からないがずっと幼馴染だった俺の事は未だに男同士の男友達と思ってくれているのだろう。
でも、そうだとしたら、とてもじゃないがこの想いを告げる事など出来はしない。それは実利が俺の側で得ている安心を奪う行為になりかねない。
あるいは、実利は女性の見た目こそしているが、恋愛対象は普通に女性なのだとしたら、俺は男の事を好きな変態と言うことになりかねない。
安心出来る同性の友人だと思っていた幼馴染が、実は自分に発情する変態だと分かれば、この友情は破綻するだろう。
それは嫌だった。
そして俺自身、今の関係が嫌ではなかった。だって毎日一緒に学校から帰れるし、毎日一緒に学校に行ける。俺の前でだけ見せてくれる一面さえある。
これ以上を望むなんて贅沢なんじゃないか、と思うほどだ。
一緒に登校して、一緒に下校する。それが通用するのは学生のうち、つまり残すところ二年の間でしかない、なんて、当時の俺は考えもしてなかったな。
そんな事を裏で考えつつ、俺達は大鳥居の前に到着する。
「じゃな。お前がねぼすけなおかげで、このままじゃじっちゃにおこられちゃう」
と、手を振って俺のそばを離れ、足早に階段を登っていく。
じっちゃ。というのが祖父の事であることは分かる。あの神社の神主でもある。
よくは知らないのだが、高校に入ってから、実利は神社の手伝いをしてるらしい、高校で何の部活にも入らず帰宅部してるのはそれが理由。俺が帰宅部してるのはそれと一緒に帰るため。
いつもはそんなことしないんだが、なんとなく階段を駆け上がる実利を見つめる。
長い階段だが慣れたもの、と実利はすごいスピードで登っていく。
そりゃ毎日こんな階段を上り下りしてたら体力もつくよな、と今日の持久走の結果を思い出すなどする。
何となく、さらに視線を上に向ける。
そこには微かに神社の建物が見え、さらにその上に雨雲が登り始めているのが見えた。
なんとなく、嫌な予兆を見た気分で、俺は視線を下げて、自分の帰路についた。
今にして思うと、雨雲が北や東から現れるのはあまり自然ではない。
予兆を見た気分、ではなく、文字通り予兆。全てはこの時から、始まっていたのかもしれない。
to be continued……
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