No name ghost -名前のない絵画- 第8章
第8章 「名前のない絵画」
涼風が頬を凪いでいく。夏の暑さが和らぎ始めたのは、夏休みが終わってからのことだった。
夏休み中、肝試しで仲を深めた度流、優音、桜庭、日翔の四人は、その後もなんとなく連絡を取り合って、度々遊びに行くことがあった。あの日最後まで見られなかった映画を改めて見に行ったり、優音の要望でホラー以外のジャンルを見たり、桜庭の伯父の寺でかき氷を食べたり。途中、日翔の誕生日があったので、簡素ながらお祝いをしたりもした。
そこそこに楽しい夏休みだった。肝試しにまつわる事件さえなければ、楽しいだけの夏休みだったと言える。
清原さやか美術館跡で見つかった焼死体は行方不明の不良少年のものだった。そのことは翌日には速報として報道され、近辺を賑わせた。
優音は怖いので詳しく調べなかったのだが、度流は興味のある場所で起きたことだからか、珍しくリサーチをしていて、遺体と共に見つかった絵に、亡くなった少年の指紋がついていたことを教えてくれた。
燃えていたという絵は、美術館跡のすぐ側にあった簡易倉庫のもので、画家・清原さやかの作品の一つらしい。捜査で着目されたのは、燃やされた痕跡が一つではなかったことだ。
このことから、絵を燃やした一人は亡くなった不良少年と推測され、そのことに激昂した何者かが、少年を殺したのではないか、という線で捜査が進んでいる。いくら動機に正当性があろうと、殺人は殺人。取り締まり、罰するべきだろう。
度流は絵が燃やされそうになっていたことを悲しんでいた。さすがに「殺してやる」とまではならないようだが、自分の作品が誰かによって貶められるのは、やはり悲しいらしい。
桜庭もそういう顛末を耳にしたらしく、また別な方面の噂を教えてくれた。まあ、オカルト好きな桜庭が語る「噂」なので、どういう噂なのかはお察しなのだが。
聞くに、焼かれた絵画に宿る作者の怨念が、犯人の少年を殺したのだ、という案の定の話。日翔にも呆れられていた。
オカルトな話はさておき、少年を殺した犯人は未だ捕まっていない。派手に報道されることもなくなり、世間は半ば忘れ去ったような話になっているが、カグコンが捜査中である。
夏休み明け、優音、桜庭、日翔はそのことを思い出させられた。
理由は度流が夏休みの後半に描いた絵にある。夏休みの課題として、美術科目からの宿題は特になかった。コンクールなどがあると、希望した生徒のみ、コンクールの案内を渡されるらしいが、美術教師からそういう話を聞かなかったし、何よりそういう方面の情報をわりと気にかけている度流が特に何も言わなかったため、優音たちは完全に油断していた。
度流が絵を描いたことも、その絵があるコンクールで賞を取った話も、優音たちには青天の霹靂。優音たちのみならず、世間も軽い騒ぎになった。
度流は画家としての自分の名声に、拘りも興味も極端にないため、澄まし顔をしているが、度流が一枚絵を描くたび、わりと世間は騒ぎになっている。三巡もすれば冷める程度の熱、と度流は言っているが、ローカルニュースだとしても、三巡もの間、世間を虜にできるのも、一種の才能であるはずなのだが。
まあ、当の度流が名声に興味がなさそうなので、優音は今のままでもいいか、と考えている。才能を鼻にかけないのも度流の美徳だ。
問題は、夏のとあるコンクールに出された、その絵の内容である。
コンクール受賞作品はとあるイベント会場で展示され、秋口に入った今、学校を介して度流の元に戻ってきた。学校を介して提出したわけではない作品だが、文化交流だの、芸術に触れる機会だのと様々な理由をつけられ、校内でも展示されることになる。度流はその辺りのノリがびっくりするほど軽いので、二つ返事でOKしたという。
それで、展示された作品が「名前を失くした絵画」というタイトルである。
絵画を描いた絵画、という不思議なコンセプトなのだが、絵の中の絵画は焼け焦げており、煤を被って、ほとんどの部分が見えない。見えないが、合間合間に覗く細かな筆遣いから、焼け焦げた絵画も細部まで書き込まれていたことがわかる。
刮目すべきは、その絵画を取り囲むように点在する白いふよふよした何かだ。
学校に展示された度流の絵を前に、四人はなんとなく集まり、話し合っていた。
白いふよふよとした何か。「何か」としか形容しようのないほど、現実に存在する事象や物体に当てはめるのが難しい。光の塊、絵本なんかで見る「蛍」という昆虫の表現に似ている気もする。蛍の光よりだいぶ大きな塊だが。
優音は、せっかく作者がいるので、意図を聞くべきだろうか、と悩んだ。悩むのは、「作者の絵は自分で汲み取るべきで、直接聞くのはナンセンスだったり、失礼に当たったりしないだろうか」と考えるからだ。だが、優音はどうしても、白い塊が何かわからなかった。
否、嫌な予感がして、理解したくなかった。
桜庭が既に「これってもしかして、人魂?」と口にしていたからである。ヒトダマとは何か、優音は知らないが、忘れてはいけない。桜庭はオカルト好きである。絵の全体的な印象が、暗く、どこか怖い方向性の神秘を伴うことを踏まえても、そっち方面の言葉と推察できたのだ。
夏休み、怖い思いはいっぱいいっぱいになるくらいした優音としては、触らぬ神に祟りなし、とスルーしたい事象である。けれど、恋人である度流の作品をそうして蔑ろにするのもいかがなものか、と優音の中で、二つの意思が戦っていた。
そんな優音の懊悩はつゆも知らない桜庭は、不意に「あ」と声を挙げた。
「この絵画、清原さやかさんの作品を模したものですか?」
「あ、わかる?」
「ちょっとズルしましたけどね」
GNSの画像検索で照合結果の候補から見つけたらしい。度流が「便利だねー」と純粋な関心を向けた。「それもこれも彼苑くんの絵の精度が高いからですよ」と桜庭。
日翔が何か言おうと口を開けたが、少し固まって、閉じる。優音はなんとなく、何が言いたかったのかわかる気がした。「便利と思うなら、GNS入れればいいじゃん」とか、そんな感じのことだろう。だが、優音も日翔もGNSを導入していない。日翔にどういう理由があるかは知らないが、中学生になってもGNSを導入していないのは、もはや確固たる意思である。優音の場合はそれとなく度流がGNSを入れないように示唆している後ろめたさも手伝って、度流にその言葉を言うのは躊躇われた。
自分が導入していないのに、他者に気軽に「入れればいい」というのは些か無責任な気がする。理由にもよるのだろうが、自分の理由が「怖いから」という場合は、尚更。
天辻くんも、GNSが怖いのかしら、なんて本題とは違った方向に思考を逸らすも、度流と桜庭の会話がそれを許してくれなかった。
「まあ、完全な模写だと、色々引っかかるから、炎のタッチだけ寄せて描いたんだけど」
「なるほど、上から更に炎を重ねるから、わかりづらくなりますもんね。オマージュは難しい問題ですよ。
作品に清原さやかさんの要素を取り入れたということは、やはり
「うん」
嫌な予感が半ば当たったことになり、優音は苦々しい思いを噛みしめた。美術館跡で遭遇した事件は、とても快いものではなかったし、底知れない不気味さを漂わせていた。
日翔から聞いた話では、日翔たちが発見した時点で、不良少年は息を引き取っていたという。「助けて」という雄叫びはあの場にいた全員が聞いた。だからこそ、度流の動揺を不自然に思わなかったのだ。助けるべき人間がいる認識ができていたから、助けようと動く。精神状態はどうあれ、自然なことである。
だが、助けるべき人間が死んでいた。というか、助けるべき人間など、あの時点では存在していなかったのだ。ではあの声は何だったのか、と考えると、ぞっと背筋が粟立つ心地がした。
「ほら、桜庭さんが前に言ってた『少年を殺したのは絵画に宿る作者の怨念』っていう説があったでしょう? 僕が美術館で見たものと合わせて考えると、本当は作者の怨念じゃなくて、絵に描かれた魂の悲鳴が、少年を殺したんじゃないかなって」
「絵に描かれた、魂?」
そう、と度流が頷き、人差し指を立てて説明する。
「清原さんの描く炎の絵は、清原さんの根幹にある『家族を失った
悲しみを孕んだ花のような度流の薄紫には、迫力と説得力があり、語りかけられている桜庭のみならず、優音も息を飲んだ。日翔は反対隣だからか、あまり反応はないが、黙って聞いている。
桜庭が乾いた唇を軽く湿らせ、答える。
「表現に秀でた芸術家は、時に、魂をも作品に投影する、と聞きます。――まさか、清原さんは、家族の魂を?」
「そう。そういう絵を描く人だから、それなりに名前を残したんじゃないかな。
失って嘆いたのは、さやかさんだけじゃない。命を失った家族だって、死にたくないと嘆いた、助けてほしいと叫んだはず。身を焼かれる痛みなんて、もう二度と感じたくなかった。次こそ誰かに助けてもらえると信じて、助けてと叫んだんじゃないかって」
「じゃあまさか、あのときの『助けて』っていうのは」
桜庭が示そうとした可能性に、優音は顔から血の気が引いていくのを感じる。そんなこと、あるわけがない。
けれど、あのときの「助けて」の声を分析しようにも「知らない声」ということしかわからない。仮に死亡した不良少年だったとして、知らない声であることに変わりはない。しかもあの声はもう記憶の中にしかなく、男だったか女だったか、子どもだったか大人だったかすら断言するには怪しい。だから、何一つ断定はできないのと同時に、否定もできない。
そこで沈黙を保っていた日翔が、鼻を鳴らす。
「考えすぎじゃね? 誰も助かりようがなかったのに、今更あーだこーだ言ってもしょうがねえだろ」
「天辻くん、僕は僕の絵の話をしてるの」
度流からの強めの訂正に、日翔は「へーへーそーですか」と不貞腐れたような反応を返した。
「僕は美術館で絵に描かれている白いのを見たよ。文献で調べてみたら、こういうの、人魂っていうんだね。さやかさんの思いに寄り添う、優しい魂だったんだと思う。だからね、燃やされて苦しかったし、悲しかったんだよ。助けてほしかったんだよ。もうどうにもならないとしても、自分たちが助けを求めて、一所懸命叫んだ事実を知ってほしかったんだよ」
度流は胸がいっぱいなような苦しげな表情をする。胸元でぎゅっと手を握りしめた。シャツにくしゃりと皺が寄る。
「僕たちは、その声を聞いた。でも、他の誰も聞いていないから、『そんな声がした』と言っても、たぶん誰にも信じてもらえない。普通は、それでいいんだろうけど……僕はね、さやかさんのために彼らが叫んだんなら、やっぱり報われてほしいって思って。その叫びの一欠片でも、僕の絵に乗せられたらって、この絵を描いたんだ」
ふーん、と日翔が相槌を打った。この上ない興味のなさの表れた声が、度流の熱と対比になって、優音や桜庭を現実に引き戻していく。
度流の主張は結局、科学的な根拠など何一つない、感情論の羅列である。説得力があるのは、度流にだけは「見えている」という事実があるからだろう。端から見れば、希望的観測で固められた泡沫の夢でしかない。
日翔は同じ体験をした者でありながら、第三者視点に立つようで、「別によくね?」と身も蓋もないことを告げる。
「もう死んだやつらの思いとか、そう深く考えることないだろ。汲んでやる義務もねえし。難しいことばっかやってると、ハゲるぞ」
「物の雅もわからない天辻くんには難しかったか」
「なにぃ」
いつもの調子の言い合いが、何事もなかったかのように始まる。きょとんとする優音の隣で、「彼苑くんも天辻くんも、男子中学生なんですね」と桜庭は微笑んだ。
「別にハゲくらい気にしないけどね、どこかの誰かさんみたいに頭の中がぱっぱらぱーなのより遥かにましだろうから」
「誰がぱっぱらぱーだって?」
「何怒ってるの? 誰とは言ってないよ?」
「こンのッ」
「わー、わー、ストップ、ストップ!」
度流ののらくらとしつつ、確実な棘のある言葉に、日翔が拳を握りしめたところで、桜庭がフォローに入る。さすがに手が出るタイプの喧嘩は微笑ましいで済ませてはいけない。
優音も、頭を切り替え、度流の気をこちらに引くことにした。ちょいちょい、と裾を引っ張れば、「なぁに、優音ちゃん」と日翔に向けたものより数段優しい声色が振り向きながら、放たれる。
いつもの度流くんだ、とどこか安堵しつつ、優音は度流に訊ねた。
「度流くん、人魂なんて見えるの? 怖くないの?」
「やっぱり、普通は見えないものなんだね。怖いと思ったことはあんまりないかな。わりとどこにでもいるし」
あっさりとした回答。他の人が言ったなら、優音はもう少し疑うのだが、相手は度流である。恋人同士、というのを抜きにしても、もう十年以上一緒にいる幼馴染みだ。度流が嘘を吐くのが苦手なことくらい、熟知している。ついでに言うと、誤魔化しも下手だ。
素直すぎるから、見たものをそのまま描いたりするし、その素直さが絵柄に表れて、人々の心を掴むのかもしれない。心配になることもあるが、優音は度流の「素直さ」が大好きだった。
だからこそ。
「今も、ほら」
嘘じゃないと知っているからこそ、恐ろしい。
「優音ちゃんの傍に、いるよ」
優音の肩の少し上くらい。何もない中空を示して、微笑む度流。
そこに何がいるというのだろうか。
「こないだからずっと、優音ちゃんの傍についていてくれてる。大丈夫、きっといい子だよ」
ねえ、度流くん。
あなたには何が見えているの?
優音の言葉は声にならない。
おまけ
「名前のない絵画」
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