縦書き
行開け
マーカー

No name lie -名前のない亡霊- 第8章

 

 
 

前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

 彼苑かれその度流わたるはテロで親を失った。そのテロから十二年。高校生になった度流は人とは少し違った見え方のする目を生かして、美術部に所属し、絵を描いていた。
 高校二年生の春、コンクールで最優秀賞を取った度流の絵が展示会場から盗まれる事件が発生。それが報道されたのと同巡の三日目に差し掛かる頃、度流は何者かに命を狙われ、「虹野にじのから」と名乗る不思議な少女と出会ったのだった。

 恋人の荒崎あらざき優音ゆねが行方を眩まし、動揺する度流。度流は優音の幻影と話すようになり、様子のおかしさに、周りから遠巻きにされるのだった。
 度流の様子を案じた後輩の海月みづきくららが探してくれた手がかりを元に優音を探しに行く度流だったが、再び襲撃に遭い、中学時代の同級生天辻あまつじ日翔あきとに助けられる。
 日翔から「少しは人を疑え」と言われた度流は、惑いながらも、くららへの疑念を募らせていくのだった。
 度流はくららを疑うことについて、頭を悩ませるも、度流の中の優音が「度流のことは自分が守る」と蓋をする。
 度流はそれに抗い、くららの言葉で語られたことから、自分で判断しようと決意するのだった。
 くららから語られたくららの過去とくららにとっての彼苑度流。それを聞いた度流はくららを信じ、共に優音を探すことにするのだった。
 くららの気づきや日翔からの情報提供などを元に、犯人の手がかりになりそうなことを探す度流。慰霊塔にて行われるとある取引の現場に訪れた度流はまたしても襲撃に遭う。
 通りすがった空に助けられ、事なきを得るが、度流は空からのとある指摘に動揺するのであった。
 作戦資料書を手に入れた度流はくららに頼んで調査をする。そのために携帯端末を買い替えたのだが、端末にも異変が……
 調査の末、くららが見つけ出したのは「人類救済計画」というものだった。
 人類救済計画とは、死の自由を謳う異常思想だった。けれど、実現不可能な思想だということで安堵したのも束の間、度流はまた命を狙われる。
 優音に繋がる手がかりもない中、足掻く度流に、くららは「優音って誰です?」と衝撃的な言葉を告げた。

 

 
 

 

第8章「嘘と気持ち」

 

「あら、度流くん、どうしたの?」
 度流は隣家の荒崎家を訪ねていた。
 要件を口にするのが怖かった。知らないと言われてしまうのが、怖かった。
 それでも、確かめるしかない。
「優音ちゃんがどこに行ったか、知りませんか?」
「優音ちゃん? 度流くんのお友達?」
「そうです。おたくの荒崎優音ちゃんです」
「あら」
 度流が見上げると、優音の母は冗談っぽく笑った。
「度流くんったら。うちに子どもはいませんよ」
「でも、じゃあ、優音ちゃんの部屋は」
 優音という上っ面を消せても、優音が暮らしていた痕跡を全て消すのは無理だ。優音は高校二年生。自分の部屋くらい持っているだろう。
「部屋?」
「はい。ベランダの近くの……」
「上がっていく?」
「はい」
 願ってもない申し出だった。度流は勢い込んで、荒崎家に上がる。見慣れた居間を通りすぎて、奥のベランダがある部屋に慣れた足取りで向かう。
 そこは物置部屋になっていた。優音の痕跡はない。鞄と制服は優音が着ているのだろう。度流は思わず探した。度流の知っている、優音の持ち物。いつかの冬にプレゼントしてから、気に入って毎年つけてくれているマフラー。二人で永遠を誓い合った日に交換した指輪。優音が好きで着ていたワンピース。全てがないわけではなかった。
 優音が普段着ていた服などは、元々母親のお下がりだったのだという。そんなことを感じさせない着こなしだったが、思えば、優音が服を買っているところを見たことがなかった。指輪やマフラーは見つからなかった。授業では紙の教科書なんて使わない。度流のように紙のノートにメモを取る人物は稀だ。優音もその例から漏れない。
 優音がここにいた証拠がない。
 度流は焦ったが、もうどうにもならなかった。優音の母のはずの人は、度流をただ見守るだけ。いたたまれなくなる。
 度流は項垂れながら、荒崎家を後にする。
 隣が家だが、帰るのが怖かった。どこに行こう、と迷いながら歩いて、知っている顔を見つけ、バスに乗る。名前は思い出せないけれど、同級生たちだ。
「あれ、彼苑くん?」
「一人で珍しいな」
 自分が一人でいることを珍しいと言ってくれることに、度流は淡い期待を抱いた。そんなことを言ってくれる人たちは、皆口を揃えて「普段は荒崎が一緒なのに」と言ってくれるから。
「最近は一年の子とよく一緒だったよね? 今日は一人?」
「喧嘩でもしたのか?」
 度流は愕然とした。
 度流の隣に当たり前にいた優音よりも、くららの存在が先に出たことに。確かに、最近はくららといることが多かったし、くららと仲がいいのは否定しない。
 それでも、言わずにはいられなかった。
「僕、優音ちゃんを探してて」
「誰?」
 対面していた女子二人が、口を揃えて問う。
「優音ちゃん? 度流くんにそんな名前の友達いたっけ?」
「同級生にもいた記憶ないけど……その優音って子がどうかしたのか?」
 ――どうして。
 声にならない声が度流の脳内を駆け巡る。泣きたい気持ちになった。けれど、心が渇ききっていて、涙の一つも出てこない。
「ごめん、なんでもない……」
 ようやく出た言葉はそんなもので、虚しく沈黙の中に降り立つ。
 またいたたまれなくなって、度流は急いでバスを降りた。
 無意識のうちに、ここに向かっていたのだろうか、と度流は驚いた。バス停からなんだか見慣れた道を辿っていけば、学校に着いた。今日は休みだから、生徒の姿はほとんどない。
 そこではっと思い出す。優音がいた証拠。まだCCTにログが残っているはずだ。学校のネットワークで建てられたスレッド。優音がいなくなってすぐ、優音の幻影に語りかける度流を不審がった生徒たちが書き込んでいた。あそこでは度流と並んで、優音の名前が出ていたはずだ。
 くららとのメッセージチャットを確認する。くららから送られてきたリンクと日付を確認し、該当のリンクを発見した。
 少しの期待と緊張。度流はリンクをタップする。
 開かれた画面を見ると。
『該当のスレッドは削除されました』
 そんな無情な文字列が並ぶだけ。
 どうして削除されたのか、知る術もなければ、そこに元々どういう書き込みがされていたのかも、もう知りようがない。
 掲示板を辿ってみるも、優音が建てたと思われるスレッドも見つけられず、度流はCCTを地面に叩きつけそうになる。
 でも、CCTを壊すなんてできなかった。
 だって、このCCTは優音との思い出の品だ。優音がいた証拠で、数少ないよすがだ。
 壊せるわけ、なかった。

 

 家に帰ると、度流は心配された。どうやら、荒崎家から様子がおかしかったという連絡が伯父たちに行っていたようで、熱があるんじゃないかとか、具合が悪いんじゃないかとか、てんやわんやになった。
 そこに従弟が「最近度流兄の様子がおかしい」なんて口を出すものだから、やれ医者だ病院だ、とてんてこ舞いになっていた。
 度流は叫び出したい気持ちをこらえて、伯父たちに訊ねる。
「優音ちゃんって知ってる?」
 それはもう知らない前提での問いかけだった。もう、優音を知らないと聞くのは嫌だった。それでも聞くしかないから、自分が期待を抱かないようにするしかなかった。
 伯父たちはきょとんとする。
「誰だい? それ」
「ゲームか何かのキャラクター?」
 度流は、もう何も聞きたくなくなった。

 

 外は憎たらしいほどに晴れ渡っていた。けれど、俯いたままの度流が太陽を憎むことはない。そんなことをしたって、優音は戻ってこないからだ。
 くららにも、連絡をしていない。優音を知らない人には会いたくなかった。これ以上、優音のいない現実を突きつけられたくない。
「優音ちゃん……」
 度流はとぼとぼと一人で歩いていた。一応、CCTは持っている。連絡手段まで断つほど、正気を失ってはいなかった。
「優音ちゃん、どうして……」
 力ない度流の呟きが、誰にも届かずに落ちていく。
 優音がいなくなって、優音がいた証拠がなくなって、優音の存在が人々から忘れ去られて。裏で赤梨協会が糸を引いているというのなら、優音の「二度目の死」の計画はもう成る寸前である。
 優音のことを覚えているのが、もう度流しかいないとしたら、計画にとって邪魔なのは度流であり、それを暗殺という方法で消せば、優音の二度目の死は成る。優音には死の自由が与えられる。
「どうして、優音ちゃん? 一緒に生きようって、永遠にって、誓ったじゃない……」
 問いかけに答えは返ってこない。都合のいい幻覚すら、今は沈黙していた。
 優音が誰からも忘れ去られている。このことから、赤梨協会の掲げる「人類救済計画」の二度目の死が目的として達成されようとしているのがわかる。問題は何故「優音」なのか。
 可能性は二つ。一つは、優音を被験者にするために赤梨協会側が優音を拐った。もう一つは、度流が最も考えたくない可能性――優音が死にたいと願い、赤梨協会を頼った可能性。
 赤梨協会が優音を被験者にしたとして、「何故優音を被験者にしたか」という疑問は解消されない。何故他の誰でもなく、荒崎優音なのかなどという途方のない問いについて考えるよりか、優音が望んでなったと仮定する方が容易い。もちろん、納得できるわけはないが。
 度流は、そう仮定した上で、自分を責めていた。優音が望んで二度目の死を迎えようとしているということは、優音がずっと死にたいと思っていたということだ。度流は誰よりも優音の側にいたのに、優音のそんな苦しみにこれっぽっちも気づかなかった。
 自分は優音の何を見ていたのだろう、と思う。

 

「度流くんが自分を責めることはないわ」
 優音はテロに遭った度流を――いや、度流がテロに遭う前から、度流のことを支え続けてくれた。人と違う見え方をする目を持つ度流が、からかわれたとき、優音は度流をこう励ました。
「人と違うものが見えるって、すごいじゃない。度流くんの見る景色は、他の誰にも見られない景色なんだよ。自分にしかできないことを持ってるってすごいよ」
 優音の肯定に度流がどれだけ救われたことだろう。優音がいつも側にいてくれるから、度流は自分に自信が持てた。
 父も母も、度流の目を度流の特性として受け入れてくれたけれど、二人はテロでいなくなってしまったから、優音が度流にとって唯一だった。
 テロのすぐ後に描いた「止まない炎」も、人々からは肯定的というより「異様」という恐れのような感情が大きかったから、度流は恐れる目線に耐えながら存在していた。テロがあったばかりで、今にもばらばらに砕けそうな度流の心をそっと押さえてくれたのは、優音だった。
「大丈夫、私だけはずっと、度流くんの傍にいるからね。いなくなったりしない」
 その言葉の通り、優音は度流の傍にいてくれた。不意に泣いてしまう度流を抱きしめて、いつだって大丈夫と囁いてくれた。
 やがて、度流の表現力に心打たれた人々が、圧倒から立ち直って、改めて度流の絵を評価するようになる。耐え抜いた甲斐があり、肯定的な評価を得られるようになった。違うものが見える目も、才能として受け入れられ、度流には期待が寄せられた。
 期待を負荷に感じることはなかった。世間のどんな有象無象よりも、ずっとずっと、優音は度流に期待を向けてくれたからだ。
「誰に何と言われようと、度流くんのその目は素敵なものだよ。だから、これからも、絵を描き続けて。度流くんの目に映る景色を私も見てみたいの」
 優音と同じ世界を共有したくて、度流は自分に見えるありのままを描き続けた。誰に望まれなくても、優音が望んでくれるのなら、それだけで充分すぎるくらいの「意味」で「価値」なのだ。
 優音の笑顔が好きだった。永遠を囁いてくれる声が。度流を肯定してくれる言葉が。傍にいてくれる体温が。度流を愛おしんでくれる指先が。メロドラマのようなありきたりさでも、優音が与えてくれる日々が。全て、かけがえがなくて、どうしようもなく愛おしい、度流の宝物だ。
「度流くん」
 あの笑顔は、
「度流くん」
 ずっと一緒と言ってくれた言葉は、
「度流くん」
 度流の名を呼んでくれた声は、
「度流くん」
 度流の知らないうちに、いつからか嘘に変わっていたのだろうか。
「誰にも祝福されなくたって、私たちは永遠になれるから」
 大丈夫、と微笑んだのは、嘘だった?
 誰に祝福されなくとも、優音だけは二人のために照らされた永遠を祝福していると信じていたのに。優音は言葉の通り、度流とずっと一緒にいてくれると信じていたのに。
 微笑むその裏で、ずっと「死にたい」と考えていたの?
 記憶の中の優音はいつも度流に向かって笑っていて、時折涙を流すときもあったけれど、それでも二人が幸せであるように祈っていた。
 優音の言葉や態度の一つ一つを、嘘だなんて思いたくなかった。優音が度流に嘘を吐くなんてあり得ない。
 未来を誓うために、安物だけど指輪を買って、互いの指に嵌め合った。その気持ちも嘘だった? 本当は度流の傍にいるのもつらかった? 苦しかった?
 一体いつから?
「度流くん」
 いつから君は苦しんでいたの?
「度流くん」
 どこからが嘘なの?
「度流くん」
 あの笑顔は? あの言葉は?
「度流くん」
 ――優音のことがわからなくなりそうだ。
「度流くんはさ、私のこと好きだって言ってくれるけど、将来さ、結婚……とか考えてる?」
 優音が自分との将来を考えてくれている、と浮かれたこともあった。これから先もずっと、昔から言っていた通り、もしかしたら永遠に、傍にいてくれるんだろう、と。
 二人きりのイルミネーションや初日の出なんかで誓ったような甘い時間が、大人になっても続いていくんだろうなって想像して、くすぐったくなっていたのに、優音はそれを望んでいなかったというのだろうか。
 無理矢理連れ去られた可能性はまだ残っている。けれど、淡い期待を全て信じきるほど、度流の頭はお気楽ではなかった。誰よりも大切な優音のことであるから、気楽になんて、なれなかった。
 優音が死を望んでいるのなら、というのは嫌な想像である。けれど、もしそうなら、度流は真剣に向き合わなくてはならない事案でもある。優音の気持ちを安易に否定して、これ以上優音を傷つけることなんて、あってはならない。優音を度流が傷つけることなんて、あってはならない。
 自殺を肯定するのが正しいとは思わないけれど、だからって、頭ごなしに否定するのも違うだろう。優音を今まで傷つけてしまったことはもう覆りようのない事実だ。それなら、これ以上、優音が傷つかないように、優しく抱きしめられないだろうか。テロがあったあの日から、優音がずっと度流にしてくれていたように。

 

 もしくは、と度流の脳裏にほの暗い感情がよぎっていく。
 もし、彼女の願いを邪魔するのが、自分の生のみであるのなら、いっそこのまま、死んでしまった方がいいのではないか。殺されてしまった方が、彼女のためになるのではないだろうか。
 そうしたら、彼女は思い残すことなく、この世を去ることができる。死後の世界というものが、存在するのかどうかはわからないけれど、もし、存在するのなら、また会えるかもしれない。もう、再会はそれでいいんじゃないだろうか。
 ――なんて、考えた。
「どうしてっていうのはこっちの台詞ですよ。どうして先輩はこんな、命のなくなるような危険な目に遭ってまで、立ち向かおうとするんですか?」
 くららの言葉がふと蘇る。どうして。優音がこれを望んでいるのだとしたら、本当に度流のこれまでの頑張りは意味がない。優音のためになると思っていたのに、全然そうじゃなかったなんて、笑えもしない。
 この件から度流が身を引いたところで、計画成功のために度流の命は狙われ続けることだろう。そうしたら、優音が死んでしまう。優音のことをまだ諦めきれない心の奥底が叫ぶ。
 心がぐちゃぐちゃだ。優音を助けたいのに、優音を助けられるかどうか、自信がない。諦めた方が楽なのに、諦められない。自分が死んだら優音が死ぬかもしれないのに、もう自分は死んでもいいような気がしている。どの思いが正しいのか、わからなくなってくる。
 日の光に当たるのがしんどい、と思った。度流は日陰を求めて高層ビルに近づく。そのとき、ちかっと何か強い光を感じた。それが何かを見分けることはできなかった。光の強さに思わず目を押さえて、しゃがみ込んでしまったから。
 頭上を何かが通りすぎていき、そう遠くない場所で弾けたそれが、銃弾だと気づいて、度流の中を様々な感情が渦巻いた。
 また狙われた。ほとほと悪運がいい。当たってしまえばよかったのに。そうしたら全部終わって、楽になれただろうに。こんな偶然、いらなかった。
 ――そんなわけあるか、馬鹿!
 自分を叱咤する声が胸の中で弾けた。自分の中から生まれたものなのに、想像以上に衝撃を受けてしまって、度流は呆然とした。
 幻覚の優音以上に強い声。それは度流自身の声だった。
 ――生きて優音に会うんだよ、もう一度。死にたいも死にたくないも、優音の口から聞かなきゃ真実かどうかわからないだろ!?!? 勝手に自分で決めつけたことを真実にして逃げようとするな! 勝手に自分に失望して、それを言い訳に優音と向き合うのを諦めるな!
 頬を張られたような衝撃だった。痛みはないけれど、胸の奥がじんじんと痺れ、悲しくないけど、涙が溢れた。それは決意の涙だった。
「……そうだった。優音ちゃんが死にたいかどうかなんて、優音ちゃんにしかわからないよね。僕が決めちゃいけない」
 そう納得はしたものの、いざ優音と対面して、優音に「死にたい」と告白されたら、それを受け入れられるかどうかはわからない。それでも今は、前に進むためにそう思わなきゃいけなかった。
 優音の口から聞いていないのに、優音の気持ちを決めつけるなんて傲慢だ。そんな恋人になりたかったわけじゃない。本人の口から語られなきゃ、本当の気持ちなんて、わかるわけがないのだ。今、本当に必要なのは「わかってあげられなかった悔恨」ではなく「本人の感情」だ。優音はもう度流に会いたくないかもしれない。けれど、それを優音本人から告げられるまで、度流は本当だと信じない。優音が死にたいかどうかだって、同じだ。
 優音に会う。会って、優音の気持ちを知って、それからどうするか決める。優音が助けてというなら助けるし、死にたいと言ったら、……まだそれを受け入れられるかはわからないけれど、優音の本音として、受け止めるつもりだ。
 そのためには、生きなきゃならない。ここで転んだまま踞っていては、ただの的である。度流は立ち上がって、走った。
 向こうにバス停が見える。これまでの傾向から、バスなどの公共交通機関の使用中は襲撃して来ないはずである。都合のいい悪運が続いたが、それを生かさなきゃ、せっかくの運も無駄打ちになるだろう。いつまで続くかもわからないのだ。運に恵まれているのなら、恵まれているうちに目的を果たさないと。
 ちょうど来たバスの行き先も確認せずに乗り込む。着席して、バスが動き出してから、行き先を確認した。慰霊塔を経由するようだが、バスの中なら狙われないだろう。念のため、カーテンを引いておく。
 CCTでバスの路線図を確認して、乗り継ぎなどを考える。目的地はなんとなくではあるが決まっていた。帰りのバスがあるかどうかはわからないけれど、それは後で考えよう。前のめりになりすぎている気がしないでもないが、勢いがあるうちに行動しないと、止まってしまいそうだ。
 優音が本当に死にたいのだとしたら、について考えるとまだ怖いし、向き合いたくないと思う。あまりにも悲しすぎるから。それでも前に進まない限り、優音には会えない。今一番度流が望むことで、度流がしなければならないことは優音に会うことだ。もう一度会って、話をする。だから今は、優音にもう一度会うことだけを考える。
 度流がいなくなって、伯父や従弟なんかは度流を心配するかもしれない。もしかしたら、くららも心配してくれるかもしれない。帰ったら、どこに行っていたのか、問い詰められることだろう。
 ――そうしてくれる人がいることが、どれだけありがたいことか、度流は実感していた。自分は帰る場所がある。自分のことを覚えていてくれる人がたくさんいるから。だから、優音にも示したかった。優音の帰る場所はまだここにある。
 誰からも自分を忘れさせて、自分の居場所をなくして死ぬなんて、寂しいことはしないでほしい。一人になりたいときは、言ってくれたらそうするから、極端なことをする前に、相談してほしい。
 優音が自分の味方でいてくれたように、自分が優音の味方でいるから、と伝えたい。
 ぶつかり合って、喧嘩をしてしまうかもしれないけれど、何もできずに優音を失うよりずっとましだ。そのために突破しなくちゃならない壁はまだあるけれど。
 ひとまず、自分の生活圏から出て、頼れる人に声をかけてみるところからスタートだ。急がなければならないけれど、焦りすぎも禁物。加減が難しいが、優音のためなら乗り越えよう。
 バスをいくつか乗り継いで、知らない街に来た。
 バスから降りて、CCTから通話を繋ぐ。相手にはすぐに繋がった。
「もしもし天辻くん?」
「んおっ!?!? 誰かと思ったら彼苑か?」
「うん。近くまで来てるんだけど」
「おう、ちょっと待ってろ」
 ほどなくして、どこにいるとも言っていないのに、日翔が現れた。
「また襲われたのか?」
「うん。一人でいない方がいいのはわかってたんだけど、一人になりたくて」
「ははっ、彼苑って変なとこで意地っ張りで、行動的なとこあるよな。とりあえず、ほら」
 日翔がその辺で買ったのであろうジュースを投げて寄越す。度流はそれを受け止め、ボトルを開けた。
 喉が渇いていた自覚はなかったが、ボトルを開けると、思ったより一気に飲んでしまった。緊張していたのだろうか、と考えて、当たり前だ、と思い至る。今までこんな家出のようなことなんて、したことがなかった。
 そこから日翔に案内されて、近くの公園に行く。日が落ちた公園は無機質で冷たいような気がしたけれど、腰を落ち着けられるような気もした。
「狙われてる件、何か進展はあったか?」
「ああ、ええと、それなんだけど……」
 ベンチに腰かけたところで、日翔が口を開く。度流が答えようとするが、歯切れ悪くしていると、日翔が顔を歪める。
「んだよ? 勿体ぶることねえだろ? 荒崎が見つかってなくたって、俺に気まずいことはねえだろうが」
「それはそうだけど……え?」
 度流が勢いよく日翔に振り向く。耳を疑った。
「今、なんて?」
「は? 勿体ぶることねえだろ」
「その後!」
「んーと、荒崎が見つかってなくたって、俺に気まずいこと」
「っ、天辻くん、優音ちゃんのこと覚えてるの!?!?
 襟首を掴まれているのでは、と錯覚するほどに度流に迫られ、日翔は目を丸くする。度流の勢いに思わず引いていた。日翔は受け流すように軽く肩を竦める。
「覚えてるってか、あんなキャラ濃いの忘れられねえだろ。お前らニコイチなとこあるし」
 さらりとした日翔の一言に、度流が崩れ落ちる。日翔が慌てるが、何と声をかけたらいいかわからない。
 下を向いたままの度流の肩が震えていたので、泣いているのか、と驚愕する。なんで、と思ったが、自他共にニコイチと認識している片割れの存在がないことがどれだけ不安か、日翔には計り知れない。
 日翔と度流は仲が悪い。御神楽に関しての見解もそうだが、度流と優音がいちゃついていることに日翔が難癖をつけたこともある。日翔からすれば、優音に庇われてばかりの度流は男らしくなくて、気に食わなかった。
 それでも、中学の三年間、一緒に過ごして、度流にとって優音がどれだけ大事な存在かはわかったし、度流とて優音のためならば、いくらでも立ち上がる気概があると知った。羨ましい、まではいかないが、度流と優音の関係を「いいな」くらいには思った。
「彼苑」
「なに」
「泣いてんの?」
「趣味悪いなあ」
「なにぃ?」
 心配してんだよ! と度流の背中を強めに叩く。度流は噎せながら、泣き笑いみたいな声を出した。
「……よかった。優音ちゃんが誰からも忘れられたわけじゃなくて」
「なんだよ、それ? あの腹黒女のこと忘れられる連中がいるのか? 薄情だな」
「腹黒は聞き捨てならないんだけど?」
「足蹴るな、蹴るな」
 しばらくげしげしとして、度流はけたけたと笑った。日翔はこの野郎、と度流の脇腹を狙い、くすぐりでやり返す。
 優音が誰からも忘れられそうになったことについて、聞いた方がよかったかもしれなかったが、逆光で見えにくい度流の顔に、ちらりと見える涙の跡だとか、赤く腫れぼったい目だとかを見ていたら、それより笑っている方が健康的だろう、と思えた。
 そのうち話すだろう、とも気楽に考えたが、よくよく考えなくとも日翔と度流は仲が悪い。話されないかもしれない。だが、そのことへの焦りはなかった。日翔と度流の仲は悪い。いらないことにわざわざ干渉することもない。
「で、これからどうすんの?」
「ん。……具体案はないけど、優音ちゃんを見つけて、会いに行く」
「狙われてんのはどうすんだ?」
「どうにもできないよ。優音ちゃんが何を望むか次第で、僕は素直に死んだり、意地汚く生きたりする」
「おいおい、生きるか死ぬかのときも、荒崎の意思に依存するのかよ?」
「ううん」
 否定はしたが、表面だけ見れば、度流は自分の生き死にさえ、優音に依存しているように見えるだろう。事実、度流は優音に「死ね」と言われたら死ぬかもしれない。
「優音ちゃんの気持ちを想像することはできるけど、でもそれって、僕が考えた優音ちゃんの気持ちであって、優音ちゃんの本音じゃないから。とにかく、今は優音ちゃんに会うことだけを考えてる。優音ちゃんにまた会うまでは絶対に死なない」
 日翔に会ったことで、はっきりとはしていないが、希望のようなものは見えた。それだけでずいぶんと心強い。
「相変わらず甘い見積りのような気がするが……まあ、そう決めたんなら、死ぬなよ?」
「うん」
 度流はボトルのジュースを一気に飲み干した。

 

to be continued……

第9章へ

Topへ戻る

 


 

おまけ

 


 

「いいね」と思ったらtweet! そのままのツイートでもするとしないでは作者のやる気に大きな差が出ます。

 この作品に投げ銭する