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No name lie -名前のない亡霊- 第10

前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

 彼苑かれその度流わたるはテロで親を失った。そのテロから十二年。高校生になった度流は人とは少し違った見え方のする目を生かして、美術部に所属し、絵を描いていた。
 高校二年生の春、コンクールで最優秀賞を取った度流の絵が展示会場から盗まれる事件が発生。それが報道されたのと同巡の三日目に差し掛かる頃、度流は何者かに命を狙われ、「虹野にじのから」と名乗る不思議な少女と出会ったのだった。

 恋人の荒崎あらざき優音ゆねが行方を眩まし、動揺する度流。度流は優音の幻影と話すようになり、様子のおかしさに、周りから遠巻きにされるのだった。
 度流の様子を案じた後輩の海月みづきくららが探してくれた手がかりを元に優音を探しに行く度流だったが、再び襲撃に遭い、中学時代の同級生天辻あまつじ日翔あきとに助けられる。
 日翔から「少しは人を疑え」と言われた度流は、惑いながらも、くららへの疑念を募らせていくのだった。
 度流はくららを疑うことについて、頭を悩ませるも、度流の中の優音が「度流のことは自分が守る」と蓋をする。
 度流はそれに抗い、くららの言葉で語られたことから、自分で判断しようと決意するのだった。
 くららから語られたくららの過去とくららにとっての彼苑度流。それを聞いた度流はくららを信じ、共に優音を探すことにするのだった。
 くららの気づきや日翔からの情報提供などを元に、犯人の手がかりになりそうなことを探す度流。慰霊塔にて行われるとある取引の現場に訪れた度流はまたしても襲撃に遭う。
 通りすがった空に助けられ、事なきを得るが、度流は空からのとある指摘に動揺するのであった。
 作戦資料書を手に入れた度流はくららに頼んで調査をする。そのために携帯端末を買い替えたのだが、端末にも異変が……
 調査の末、くららが見つけ出したのは「人類救済計画」というものだった。
 人類救済計画とは、死の自由を謳う異常思想だった。けれど、実現不可能な思想だということで安堵したのも束の間、度流はまた命を狙われる。
 優音に繋がる手がかりもない中、足掻く度流に、くららは「優音って誰です?」と衝撃的な言葉を告げた。
 クラスメイトから、果てには優音の家族にまで、優音の存在が忘れられていることに絶望する度流。
 絶望し、葛藤する中で、優音の本当の思いを知りたいと決意した度流は、優音との再会のため、前を向くことにした。
 度流の態度を疑問に思ったくららは自分が何かを忘れていることに気づき、日頃より実験していた「GNSからの脱却」の技術を生かして「荒崎優音」の存在を思い出す。
 日翔と話したことにより、優音が人々から忘れられたからくりも明らかになり、度流はいよいよ、優音を取り戻すため、赤梨協会に乗り込むことに。
 場所は、御神楽ホテル爆破テロ慰霊塔。

 

 
 

 

10章「嘘の正体」

 

 もう、何回訪れたことだろうか、と度流は塔を見上げる。
 御神楽ホテル爆破テロ慰霊塔。優音が失踪する以前から、度々度流は訪れていた。節目の日に花を供えに来る、程度ではあるが。
 日が傾いて、空の色は青からオレンジへと変遷を始めている。その境界の明るいような、眩しいような色が、辺りを満たす。
 塔に入る前に、度流はCCTを確認する。くららが用意してくれたマップを開いた。
 マップは慰霊塔の内部構造を描き、度流が赤梨協会の内部に侵入できるよう、経路を示すものとなっている。元々慰霊塔は警備こそあるが、深夜帯以外は開放されている施設だ。開館時間のうちなら、侵入は難しくない。難しいとして、それは本拠地に潜り込むために「関係者以外立入禁止」と書かれた扉を通らなければならないことくらいだ。警備や職員、監視カメラ等に気づかれないようにしなければならない。まあ、いずれバレるだろうが、のっけから躓きたくはない。
 関係者以外立入禁止の場所はいくつかあるが、くららは付近の警備やカメラの配置などから、紛れ込みやすいルートまで絞っていてくれた。度流はそう頻繁に慰霊塔の中に出入りしていたわけではないが、中の様子くらいはわかるし、近頃塔内が改装されたという話も聞かない。脳内のシミュレートで、大まかなルートは把握できた。後は周囲の状況に合わせて侵入するだけだ。侵入というと、人聞きは悪いが。
 こそこそするのは「関係者以外立入禁止」の場所が近くなってからでいい。塔に入場する分には一般客を装えばいいだけ。わかってはいるが、それでも多少、緊張はした。
 意識して、深く深呼吸する。
「――よし、行こう」
 そう紡いだときだった。
 ぱし、と音がして、手首をぐい、と引っ張られる。進もうとしたのとは真逆の方向に強めの力で引かれて、度流は盛大にたたらを踏む。
 なんだ、と思って振り向くと、不思議な色の目と会った。見知った顔だ。何色の煌めきをも宿しているようでいて、とても静かな灰色の瞳。日の入り時なこともあってか、少し赤みが強く、光が映え、灰色の髪がグレージュの輝きを灯す。さらさらと風に揺れ動いていた。
 何度か度流の危機を救った少女、虹野空だ。灰色の瞳は何色にも溶け込んでしまいそうな淡さなのに、しっかりとした意志を宿して、度流を選んで映している。空から醸し出される「強さ」に毎度、度流は気圧されてばかりだ。
「――なに?」
 目と目が合い、ぱちりと一つ瞬きをすると、度流は端的にそう問いかけた。空は呆れを宿した軽い溜め息を吐く。
「なに、じゃないよ。正気?」
「正気って?」
「あなたが今、殴り込もうとしている相手は何? 覚悟が決まった顔はしてるけど、行動は相変わらず無謀なままだから止めたの」
 無謀、と言われたら、その通りなので、苦笑するしかない。持っているのはCCT一つ。GNSも入れていなければ、くららのようにハッキングができるわけでもない。武器になりそうなものも、何一つ身につけていない。隠し持っているということもないので、正真正銘、丸腰だ。
 殴り込もうとしている相手は赤梨協会だが、慰霊塔の「関係者以外立入禁止」のスペースへ入ろうと目論んでいる点においては警備を担当するカグコンにも喧嘩を売っていることとなる。くららが調べたデータしか情報がない未知の組織の赤梨協会と、世界一の規模を誇る民間軍事会社、カグラ・コントラクター。とても一般人の、しかもたった一人の手に負えるものではない。
 それでも、度流の決意は揺らがない。ちゃんと理解して、ここまで来た。
「無謀なことはわかってる。丸腰で挑むなんて、無謀って言葉じゃ足りないくらいの無茶だっていうことも」
「ちょっと待って、丸腰で行こうとしてるの? 本格的に頭大丈夫?」
「大丈夫だよ。というか、一般人が丸腰で行くことに意味があるんだ」
 度流の口から放たれた意味深長な言い回しに、空は反論を飲み込み、興味深げに先を促した。
「殴り込む相手は御神楽の末端組織。不法侵入になるから、カグコンも絡んでくると思うけど……カグコンはともかく、御神楽と関わりのある組織が『丸腰』の『一般人』を殺したとなったら、どうなると思う?」
 おお、と一瞬目を輝かせる空だったが、すぐむっとした表情に戻る。
「それは確かに世間が知ったら大炎上案件でしょうけど、御神楽の息がかかってるなら、揉み消しくらい簡単にされちゃうよ」
「それもそうだね。まあ、赤梨協会が『御神楽の息がかかってる』の表現で合ってるかどうかっていう問題もあるけど、それでも、僕の死が都合の悪いものなら、隠蔽される可能性は高い。
 でもね、ただ『死にました』で済ませられるほど、世間から見た『彼苑度流』って人間の価値は低くないんだ」
 少し人の悪い笑みを浮かべる度流に、空はきょとんとしてから、ぼんやりと思い出す。
「画家なんだっけ? 高校生なのに、ニュースで報道されるレベルだもんね」
「うん。僕自身は僕の絵が評価されることに、あまり興味はなかったけど、意味のあることだっていうのは、気づいたんだ」
 くららのように個人鑑賞用のグッズまで作ってしまうようなファンもいる。度流は特に他人に興味を持つわけでもないのに、他人から覚えられているのは、「絵を描いているから」「有名だから」という部分が多いだろう。「荒崎優音の彼氏」ではなく、「彼苑度流」個人として認識されているのも同じだ。
 そして何より、度流が今回狙われた理由でもある、「度流の絵は人の印象に強く残る」という事実。これは裏を返せば、どれだけ人々が優音の存在を忘れようと、度流が優音の存在を絵として示し続ける限り、優音の存在は消えないとさえ言えるほどの脅威であるということだ。そのくらいの影響力を持っている。度流の持てる最大の武器があるとすれば、それだ。
「前に、きみは僕に聞いたよね。自分で考えてる? って。自分の内側から湧いた情によるものかって」
 度流は少し自嘲気味に、けれど晴れやかさを宿して、からからと笑った。
「僕を形成する全ては、優音ちゃんによるものだ。僕一人で考えて、編み出したものなんて、びっくりするほど何もない。優音ちゃんを助けたいって願う気持ちの根本である『優音ちゃんが好き』っていう気持ちでさえ、優音ちゃんの手のひらの上で造られたって、断言することができる」
 空の表情が少し固さを伴いつつ、凪いでいく。どんな感想を抱いていいのかわからないくらい、度流の宣言はまともではなかった。
 それでも、彼は語るのをやめない。
「でもね、優音ちゃんによって形作られた自分でありたいって願って、そうあり続けてるんだ。操られることさえひっくるめて、僕の意志なんだ。これを『自分の判断』って宣言するのは、きっと間違ってる。間違っているってわかってはいるけど、これが僕の願い続けた結果っていうことを否定されたくはない。世間的に間違っていても、僕の中でこの想いだけは、確かなものなんだ」
「ふぅん……」
 空の返事は、一見素っ気ないものだった。が、度流を見つめ直した空の口角はにっと吊り上がっている。
「自分本位なところが一切ないのに、吹っ切れてていいね。適度に身勝手で。ある意味嘘臭さがなくて、嫌いじゃないよ、そういうの」
「あはは」
 歪んでいるとか、頭がおかしいとか言われても仕方がない、と度流は覚悟していたのだが、空は真っ向から否定することはなかった。変な感じ、と笑ってはいるけれど。
 実際、変な話だ。自分の確固たる意志の下に動いている、という回答が正常なはずなのに、度流の回答は真逆である。にも拘らず、妙な説得力と言葉の強さや重みがあって、否定の言葉を口にするのが幼稚な行いのように思えた。
 誰か一人の意志に従うと決めているのも、また確固たる意志であるのだろう。おかしな話のような気もするが、度流の決然とした様子に、これ以上突き詰めるのも野暮かな、と思わされるのだ。
「それにね、この目論見が上手く作用しなくて、御神楽がこの事件を揉み消したり、見過ごしたりする組織だったとしても、『優音を助ける』って決めた僕が止まる理由にはならないんだ。死んでもいいなんて口が裂けても言うつもりはないけどね、それ以上に、僕はここで止まりたくない
「――覚悟はできてるってわけね」
 うん、と静かに度流が頷くと、空は度流を捕まえていた手を放した。ずっと掴んだまま話していたのか、と今更ながらに気づいて、なんだかおかしくなった。
「いやぁ、悪いね。私は今、御神楽とやり合うわけにはいかないから、力になれないんだ」
「いいよ、別に。大事なことに気づかせてもらったし」
「きみの情はかなり興味深い。今回の回答も含めてね。できるなら、もっとちゃんと干渉したいんだけど」
「充分だよ」
 からからとした笑い声が夕焼け空の中に木霊する。境界線の光の揺らめきが時間経過で徐々に安定した影を築いていくように、朧気なようでいて、やけに鮮明な度流の声。
 空は度流から、とっと離れて、少し軽くすら感じられるドライさで「じゃ、頑張って」と告げた。
「うん、ありがとう」
「くれぐれも死なないようにね」
「うん」
 度流も度流ですぐ背を向けて、歩き出した。

 

 慰霊塔の中に入ると、絵の展示がされていた。そういえばそういう打診があった気がしなくもない。優音を探すことに必死すぎて、自分のことはだいぶおざなりにしていたような気がする。
 盗難された絵画の発見まで、代わりに過去作品を展示させてほしい、という申し出。度流は自分の作品を他者に見られることへの関心が極端に薄かった。たった一人に見せることさえできれば、それでよかったから。
 「明けの燈」「いのちじゃないね」「母の絵」「空に溶ける」「止まない炎」――度流の代表作といっても過言ではない五作品の揃い踏みだ。「止まない炎」以外はあまり大々的に話題になったわけでもないが、それでも、よく見かける作品ではある。描きたいから描いた。自分の中で渦巻く言葉にできない想いを吐き出すようにキャンバスに綴った。それだけなら、そこに意味も価値もなかった。

 

『度流くんの絵、楽しみ』
『度流くんだから、大好きなんだよ?』
『私も会いたくなっちゃった』
『好きだよ』
『私は、度流くんの目に映るそのままの景色、好きだよ』

 

 度流を否定することなく、柔く包んでくれた優音。あの声が、真っ直ぐな言葉が、度流は大好きだった。
 優音は死にたいのかもしれない。けれど、本当にそうだと言うのなら、あの真っ直ぐさに貫かれた状態じゃないと、納得はできなかった。
 自分の心は優音に操られて、形作られたものかもしれないけれど、優音に命ごと握られているみたいなこの関係がどうしようもなく愛おしいのだ。優音が死んだら、ずっと繋がれていた手綱を失うことになる。度流は一人で歩かなければならなくなるだろう。それなら、手綱を手放したり、切り離したりするのは、優音に直接やってもらいたかった。
 わがままみたいなものだ。けれど、ただこれだけのわがままも許されないのなら、それこそ度流は「生きている」とは言えない。
 ふと、赤梨協会の計画を思い出す。「死の自由」と言っていただろうか。死にたいときに死ねる自由というのはあまり正しそうな響きには聞こえない。けれど、度流とて、願ったことがないわけではない。
 ――目を背け続けてきた孤独が、不意に牙を剥いてきて、幸せなはずなのに、底知れない闇の中に置き去りにされたような気分になる。誰も悪くなんてない。ただ、自分と世界の境界を他者の目に依存させてきた度流は、影に呑まれた自分が影の中で形を失ってしまうような予感に、恐怖を抱き、途方に暮れた。思考回路がとんでもない飛躍の仕方をして、「いなくなりたい」「死んでしまいたい」という極論に辿り着く。そうして逃げた先に鎮座する極論はすがりやすくて、収まりが良く、離れがたい。それまで逃げてこなかったからこそ、逃げることを許してほしくて頑なになる。
 そんなときが、度流にもあった。だから、「死にたい」という人を全面的に否定することはできない。思うだけでも「死にたい」ということは心の拠り所になり、救いにすらなるのだ。世間一般では正しくなくても、正しくない方が救われることだってある。自罰的な思想を持つのなら、尚更。
 赤梨協会の理念や行動は押しつけがましいけれど、それでも誰かには刺さり、その誰かの心を救うのかもしれない。そう考えると、優音を救おうという度流の行い自体、ただの独善なのだ。正しいと断言はできない。
 それでも、自分の目の届かないところで死なれるよりは、対面する方がましだと考えるから、度流は進んだ。
 閉館時間も近く、人もまばらだ。そんな中、出入り口とは逆方向に進む度流が人波に逆らっているのは明白だった。それについて誰も指摘しないのは、人が少なく、人波が言うほど顕著ではないからだろう。度流が作品を展示されている一人だから、関係者と考えたのかもしれない。
 人気のないところで、ちら、とCCTのマップを確認する。目的の扉は近い。事前調査の通り、人通りも元々少なく、警備も薄い。カメラに関しては隠されているかもしれないので、くららが集めた情報が確かである、と信じるしかないが。
 人の気配がほとんど感じられなくなったからか、少し肌寒い気がして、同時に不安の波が押し寄せてくる。手持ち無沙汰も手伝い、度流は思わず武器になりそうなものを探した。
 覚悟はできている。はったりでも強がりでも、丸腰の方がいいと思っているのは確かだ。それでも怖いものは怖い。御守りのようなものでいいから、何かを持とうと辺りを見回して、消火器を見つけた。火災の避難訓練は苦手で、あまり参加したことはないが、消火器の使い方くらいは知識としてある。火災現場に行くわけではないし、殺傷能力が極端に高いわけでもない。御守りにするにはちょうどいい。
 ふぅ、と一つ深呼吸をすると、度流は「STAFF ONLY」と書かれた扉に向かい、その向こうに踏み入れた。
 扉を手早く閉める。辺りを確認すると、人はいない。挙動不審になっていては目立つだろうから、度流はなるべくゆったり、堂々と歩くことにした。手に持っている消火器が邪魔な気もするが、何もないよりはやはりましだろう。
 小脇に抱えて、CCTをチェックする。関係者以外立入禁止区域に入るという第一段階はクリアした。次は第二段階である。
 人を拐って閉じ込めているのなら、特定の通路からしかアクセスできない部屋があるはず、とくららが言っていた。従業員IDのような特定パスがないと稼働できないエレベーターを隠しているだろう、と。低階層にそのまま監禁では見つかる可能性が高い。だからエレベーターで上がるか下りるかはするはず、とのこと。くららはどちらかというと、地下の方が可能性は高いと思っていたようだが、どうなのだろう。
 パスがないと使えない、というのは一端置いておいて、まずはそんなエレベーターがあるかどうかからの探索だ。乗り込む方法は見つけてからでも遅くはない。さすがに関係者以外立入禁止区域内のマップまで、精密には組み込めなかったらしく、ここからは手探りだ。手探りなりに、構造上ここにありそう、くらいの目星はつけていて、ポインターが表示されている。
 ポインターは四ヶ所ある。制限時間は特にないとはいえ、いつ侵入がバレるかわかったものではない。度流は一番近いポインターの方角に足を向けた。
 出入り口から近い三ヶ所にはエレベーターらしきものはなかった。最後の一ヶ所を確認するため、度流は身を潜めた。おそらく、外に通じる扉が近いからだろう。だとしたら、一番可能性が高いのは奥まった塔の中心部に近い最後の一ヶ所だろう。
 ただ、奥に進むにつれて、人の気配が増えているように感じる。侵入に気づかれている様子はまだないけれど、隠れるのも限界が来るだろう。
 部屋も備品置き場などが多かった印象から、事務室など人の気配を感じる部屋が多くなってきた印象となり、少し情報収集ができるかもしれない、と度流はパソコンを覗いたりした。
 操作はしない。なるべく存在がバレないようにしたいというのと、単純に操作ミスをしてテンパりたくないのだ。度流は機械に弱いので、とんでもないボタンをクリックする可能性がある。それで警報が鳴っては、今までの努力が水泡に帰す。
 優音を見つけて、連れて帰る。今回の最大目標を必ず達成するために、慎重な行動を選んでいた。焦りはあるが、赤梨協会の自由についての思想が本当なら、度流が生きている限り、優音は死なないはずだ。度流が生き延びることが優音の命を繋ぐことになる。間違えて死ぬことだけは、あってはならない。
 事務室は多少人の出入りがあったが、廊下よりは隠れる場所が多い。人の動きはわりと忙しなく、着席して仕事をしている者はいなかった。ただ、その分、パソコンに表示されている情報に赤梨協会のものはない。誰かに見られる可能性のある場所で機密情報を晒す、なんて間抜けなことはしていないようだ。
 末端とはいえ、御神楽と関わりのある人間が、危険思想を掲げる組織に所属していて、その組織が平然と存在し続けているのは普通に考えておかしい。活動が活発なわけではなく、存在が徹底して秘匿されているのだろう。「存在を知られていない」という前提でなければ、一般人の女の子を誘拐するような組織が御神楽に粛清されないはずがないのだ。情報統制が徹底されていて然るべきなのである。
 パソコンにめぼしい情報はなかった。塔内のマップが表示されているデスクもあったが、それはあくまで一般人が立ち入れる範囲のもので、関係者専用区域のマップはない。当然、赤梨協会に直結するような情報が表示されているデスクもなかった。
 そうして、中心部のポインターに近づきながら、開いているパソコンの情報を見ていると、一つのパソコンが目についた。やけに馴染みのある色使いを感じたのだ。
 部屋に誰もいないことを確認して、そのパソコンを覗き込む。やっぱり、と思った。画面に映し出されていたのは、「塔と少女」のデジタルデータ。度流はその主義や絵を描くときの感覚から、デジタルで絵を描くことは滅多にしない。「塔と少女」もその例に漏れないから、おそらくこのデータは写真かスキャナーに通して得たものだろう。
「作品の撮影は禁止されていたはずだし、機械読み込みは悪用されないために、作者の許可が必要だったはず」
 当然、そんな許可を出した記憶はない。度流は自分の作品への執着は薄いが、権利の侵害をされたいわけではない。元来、優音にさえ見せられればいいという考えでいるのに、一般に公開していることが異常なのだ。優音と自分の中にさえあればいい、という思いと、広く知られることで付加価値が得られる、という利益は度流の中で危ういバランスを保っていた。
 だから、絵画が盗まれたことはあまりショックではなかったのだが、優音が同時に消えたことで、感情がある程度滅茶苦茶になっていたのだ。「絵が盗まれたこと」に関する対処を今まできちんと考えなかったのは、そんな心の余裕がなかったから。
 今だって、そんなことを考えている場合ではないと思う。けれど、盗まれた絵をデジタルデータ化しているということは、絵を盗んだ犯人である証拠になり得る。窃盗はわかりやすい罪であり、裁かれて然るべきもの。――これを御神楽に通報してしまえば、それだけでもこの件は解決してしまうのでは?
 そんな誰かの甘い囁き。確かに、窃盗なら立件はできるだろう。そこから芋づる式に赤梨協会の後ろ暗い部分が明るみに出る可能性は大いにあり得る。度流が直接乗り込む危険を犯さなくても、優音は解放されるだろう。命を大切にするなら、この方法がいい。
 けれど、優音が助かっても、優音の心が救われるとは限らない。度流は目を瞑った。自分が助かったことを悔いる気持ちはわかる。優音が感じるそれと同一でないことは百も承知である。それでも、命が助かるだけで全てが救われるわけではないことを理解しているのといないのとでは、天と地ほどの差があるのだ。
 くららだって、苦しみ続けながら生きていた。度流も、意識しないだけで、自分が生き残ってしまったことへの疑問、違和感、後悔、呪詛、様々な感情が渦巻いており、生きていることを素直に祝福できているわけではない。自分の生を肯定できないまま生き続けるのは、あまりにも苦しい。
 優音の苦しみをわかりたい。寄り添えないかもしれないけれど、何も知らないでいるよりはいい。そのために、優音と話がしたい。直接顔を見て、優音の思いを受け止めたい。誰かの善意に優音が殺されてしまう前に、度流が優音を救わなきゃ、意味がなかった。
 それはそれとして、証拠写真を撮っておいた方がいいのだが、扉の方から物音がしたので、度流は身を屈める。
「彼苑度流さん」
 人影が確認できるより早く、自分の名を呼ぶ声が聞こえて、度流は心臓が冷える。素人の潜入だから、バレても仕方ないというのは念頭にあったが、それでもそれなりに上手く立ち回っているつもりだった。ここまで確信を宿して名前を呼ばれるほど、ポカをやらかしたつもりはない。
 女性とも男性とも取れるような穏やかでなだらかな声が、朗々と続ける。
「やはり慈母マザーの見立ては正しかったようですね。そろそろアナタが来る頃だと仰っていました。安心してください。もうアナタを殺すつもりはございません」
 こつ、こつ、と硬質な靴音が近づいてくる。度流は物陰に潜み、少しずつ移動しながら、タイミングを計った。消火器のノズルの先端を握り、相手に吹き付けられるように構える。机と椅子という無数の障害物がある中、スムーズに逃げるのは難しい。それでも、視界を遮ることができれば、逃げる隙はできるはずだ。
 ちら、と人影を見たが、相手は特に何も持っていないようだった。相手が武器を持っていないのなら、やりようはまだある。
 ただ、気づかれずに扉まで近づくのは無理がありそうだ。度流はすっと立ち上がった。
「優音ちゃんはどこですか?」
「お教えしますよ。けれど、こちらの条件も受け入れていただきたい」
 それをはいそうですか、と素直に聞き届けるほど、度流は馬鹿ではない。スーツ姿で眼鏡をかけたその人物はパッと見では女性か男性か、わからなかった。それをきっと睨み据える。その人物は困ったように肩を竦めた。
「そう怖い顔をなさらないでください。我々は目的達成のための実験にお付き合いいただきたいだけなのです」
「実験? 散々人を殺そうとしておいて、よく言いますね。そもそもろくでもない実験なのに」
 死の自由。それは世間からある程度ずれた思考の持ち主である度流でさえ「異常思想」と断言できるほどの代物だ。
 死の自由を達成するために、GNS人の脳にウイルスを送り込むのが異常でなくて、何なのだろう。
「我々について、随分とお調べになったようですね。カグラ・コントラクターに通報済みなのも、把握しております」
「だったら素直にお縄につきなよ」
 くららが通報したのだろう、と度流は強気に出る。だが、相手は不遜で不敵な笑みを浮かべたままだ。
「ですから、時間がないのです。我々はせめて、捕まる前に荒崎優音さんの願いを差し上げようと思うのですよ。調べたのなら、ご存知でしょう? 我々の目的は『二度目の死』の達成、それによる『死の自由』を人に与えることです」
「そんなの、余計なお世話だよ。それに、誘拐しておいて『優音の願いを叶える』なんて、一体何様のつもり?」
「ええ、誠に烏滸がましいことではございます。けれど、これは本当に優音さんが望んでいることなのですよ? 優音さんは自由を欲しています。けれどアナタという恋人を苦しませることを心苦しく思っている。だから我々が手を差し伸べたのです。そうしてようやく完成した、人為的に特定の記憶を混濁、喪失させる薬品……これを投与すれば、GNSのウイルスに頼らなくても、人は自由を得られます。まだ試作段階ですので、併用にはなるのですが」
「僕はそんなもの飲まない。優音の思いを犯罪者が語らないで!!!!
「ですが、優音さんは」
「黙って!!!!
 それまで、じりじりと近づいていた度流が、叫びながら相手に突進する。ノズルから消火剤が吹き付けられた相手が言葉にならない悲鳴を上げた。今更ながら、消火器は人に向けるようなものではないと気づくが、冷静になりかけた頭をぶんぶんと振る。冷静さは大事だが、今は前に進むことを考えなくては。
 すぐに追いつけないように、相手を床に引き倒す。その拍子に相手の胸ポケットから何かが落ちた。咄嗟に拾って、うっすらと消火剤で汚れた表面を払うと、ID番号などが刻まれているカードキーのようだった。
 最後のポインターはすぐ近く、パスになるかもしれないものが手に入ったのは幸いだ、と度流は役目を終えた消火器を捨て、カードキーを握りしめる。
 もうこそこそするのはやめた。侵入がバレているのなら、他の職員が来るのも時間の問題だ。あとはエレベーターを見つけて、優音を見つけるだけである。
 優音が死にたいと願っているなんて、信じない。――と言い続けるには、優音の心境について、色々と他者から指摘されてしまった。それでも、度流の心が折れないでいるのは、やはり優音のおかげだった。
 優音は度流を信じてくれた。度流を支え続けてくれた。度流が死にたいとき、生きていたくないとき、弱っているとき、いつも傍にいて、度流の言葉を聞き続けていてくれたのは優音だ。誰が度流を諦めたり、見放したりしても、優音だけは絶対に離れていかなかった。それにどれだけ救われてきたことか。
 だから、同じように、度流も度流の心を優音に返していきたい。優音の言葉に耳を傾けて、自分が優音に頼るときと同じ、とまでいかなくてもいいから、優音に寄りかかってほしかった。
 きみがどんな子でも、僕はずっと傍にいるよ、と伝えたかった。
 廊下を進むと、ポインターが示していた辺りに、扉があった。目に明らかなロックはない、取っ手のない扉。カードを通す機械があるものと思っていたから、行き詰まるのを覚悟した。
 しかし、扉は度流を歓迎するように、ひとりでに開く。恐る恐る中に入っても、アラートが鳴ることはない。カードを機械に通すのではなく、カードを持っているだけで自動認証する扉だったのだろうか。そう思考を巡らせているうちに、扉は自動で閉まり、うんともすんとも言わなくなる。
 扉の向こうには、エレベーターがあった。高所恐怖症患者が見たら身震いするかもしれない、ガラス張りのエレベーター。手前の扉の認証システムがあるからか、エレベーター自体にロックはかかっていないらしい。一つしかないボタンを押すと、抵抗なく扉が開く。
 中に入ると、階層を選ぶボタンがなかった。広さ的にも、あまり大人数で乗ることを想定されていないことがわかる。乗り込めば、問答無用で扉が閉まり、ふわりとぐらりが混ざったような独特の浮遊感が襲う。
 ガラスの向こうの移り変わりを見るに、このエレベーターは昇っているようだった。途中の階層で止まる様子もない。目的地の一ヶ所にしか止まらないエレベーター。遊園地の過激とさえ言われるアトラクションでも感じなかった緊張感が張り詰める。
 随分昇って、遠かった夕陽が眩く目を刺すのを感じた。目的地に着いたのか、ちん、と軽い音がして、エレベーターが止まる。扉が静かに開いた。
 まだ閉館時間は来ていないが、閉館時間自体は近いこともあって、高階層は閑散としていた。度流がここまで上の階層に来るのは初めてだ。ここが何階かというアナウンスもなかったため、どれくらい上まで来たのかはわからないが、地平は遠い。
 人がいないため、度流の影だけが床に伸び、ぼう、と影法師を作っていた。物寂しさを彩る静寂は夕焼けと同じ色をしている。
 少し歩くと、自分のものではない影が伸びていることに気づいた。夜空の色が少し滲んだような影の先を追えば、制服姿の見知った少女の姿がある。
 濃紫の髪は腰の辺りまで伸び、所々、三つ編み状に飾り編みされている。校則通り、膝丈まで下ろされたスカート、グレーのジャケット。垣間見える横顔に星のような煌めきを宿す緑の瞳。
 度流がその人を見間違えるはずがなかった。
「優音ちゃん」
 度流の声に少女がゆらりと反応する。ちゃり、と音がして、見ると、両の手首を繋ぐ手錠があった。やはり、誘拐されて、軟禁されていたようだ。
 少し頬がこけたように感じる優音が、度流の姿に目をいっぱいに見開いた。その瞳に宿る輝きは、どう見たって喜びだ。
 夕焼けはまだ明るい色を残していて、祝福のように二人を照らした。会えなかった期間の寂しさが愛おしさに変換されて、度流は無意識に一歩、また一歩、と踏み出していた。夕焼けが赤らませる優音の顔は優音が「生きている」ということをありありと伝えてくれる。
 目が合うと、優音は綺麗な花を見つけたみたいに破顔した。
「度流くん」
 久しぶりに聞いた「本物」の彼女の声。自分の想像や記憶で埋めていた幻影も限りなく本物に近かったけれど、本物の声には敵わない。
 暖かな感情の奔流に、少し空が赤らんだような気がした。
「来てくれたんだね」
 度流の顔も綻んでいく。淡くて優しい色をした夕陽に似合うように、目を細めて、手を差し出す。
「優音ちゃん、もう大丈夫だよ」
 度流がゆっくり歩み寄ると、優音は手錠の連結部分を腹部に宛がう。ぴっと音がして、手錠はからからと乾いた音を立てて外れた
「――え?」
「ありがとう、度流くん。度流くんなら、必ず来てくれるって、信じてた」
 優音の行動に思考が追いつかない。どうしてそんなにあっさりと、被害者であるはずの優音が手錠を外せるのだろう? しかも、ヘアピンや針金のような小手先の技術ではない。あの音は明らかに電子音。つまり手錠は電子ロックだったということだ。度流が来なくても優音は自分で手錠を外せた
 優音は誘拐された被害者のはずなのに
 そんな優音は度流に考える暇を与えない。丈が少し長めに見えたスカートの下から、何事でもないように拳銃を取り出す。なんで、と度流の唇が音を持たずに震えた。法律に抵触しないとはいえ、度流も、もちろん優音も、一介の学生である。拳銃を持つ必要もない生活を送ってきた。
 それが、なぜ。
「優音、ちゃん……?」
「ふふ、これで計画もいよいよ大詰め。最終段階に入れるよ、度流くん」
 かしゃん、とセーフティを外す。これで引き金を引くだけで拳銃から弾が吐き出される。そんな危険物を持ち、優音はたおやかに微笑んで、さも当然であるかのように、自らのこめかみに銃口を宛がった。悪くすれば、誤射でいつでも頭が撃ち抜かれてしまう。人差し指がぴんと伸ばされ、引き金にかかる様子がないことだけが救いだった。
 それもいつ変わってしまうのか、わからない。わからなくて、怖かった。優音は度流の知らないような顔をしている。いや、度流のよく知る笑顔のはずなのに、優音の感情が一切汲み取れない。
「なに、してるの? 優音ちゃん……」
 声が震える。優音は嬉しそうに、どこか恍惚とした様子で度流を見据えた。
 とても嬉しそう。とても幸せそう。優音が優音自身に拳銃を向けていなければ、この光景を享受できたのに。優音がこんな表情をすることを、度流は望んでさえいたのに。
 どうして、という言葉すら紡ぎ出せない度流に、この上ない慈悲であるかのように、優音は語りかけた。
「最後に、少しだけお話ししましょう、度流くん」
 夕焼けが赤色を濃くしている。もうすぐ日が沈んでしまうぞ、と上空を侵食し始めた濃紺の夜がこちらを見下ろしていた。

 

to be continued……

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おまけ

 


 

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