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名を失った男の話

 
 

 ミスカトニック大学の付属図書館には百を超える噂がある。
 世界に数冊しかないネクロノミコンのラテン語版がある、とか、その他希少本や魔導書の噂には事欠かない。
 私が日本を離れてミスカトニック大学に入学したのは、冷戦の始まり頃の話だった。
 私の家は海神わだつみ信仰をしていた一族だった。と言っても、私が生まれた時にはとっくに信仰は廃れていて、陀言だごんという名前が残されているのみだった。
 しかし、私は少年時代に海に溺れた時、確かに、海神の声を聞いた。
「蜿守ゥォ譏溘′霑代▼縺?※縺?k縲ゆク也阜縺ョ邨ゅo繧翫?霑代>縲よア昴?∵?縺悟」ー繧定◇縺上?縺ェ繧峨?∵オキ縺ョ蠎輔↓縺ゅk蝓弱r逶ョ謖?☆縺瑚憶縺」
 なんと言っていたのかはわからなかった。まるで世界の外側の声を無理矢理この世界に吹き込んだかのような、無茶苦茶な声。
 気がつくと陸にいた私は、その意味不明な言葉を生涯忘れないだろうと思った。
 そして、事実忘れられなかった私は、適当に理由をつけて、アメリカに留学した。
 マサチューセッツ工科大学。
 アメリカのマサチューセッツ州にあるその大学は、多くの大学がそうであるように、広く門を開いた教育機関にして研究機関であったが、その中には秘匿された学科があった。
 その学科には名前はないが、「ミスカトニック大学」と俗称されている。
 この世に存在する神秘を研究し、そして教育する機関であった。
 第二次世界大戦が終わるまでは、アメリカ唯一の魔術の教育機関でもあったが、今は東海岸にアメリカ国立魔術学校がある。
 私は神秘さえ学べるならどちらでも良かったが、不思議なことに、気がつくとミスカトニック大学に入学する手続きが終わっていて、それどころか、本来大変なはずのビザの問題が永住権グリーンカードという形で解決していた。
 結論から言えば、ミスカトニック大学を選んだのは正解だった。
 アメリカ国立魔術学校には一度だけ交換留学する機会を得たが、なんとも窮屈な、格式ばった学校だった。
 対して、ミスカトニック大学は自由な気風の学校だった。
 私はここであらゆる神秘を学び、あらゆる神秘を知った。
 そして、話は最初に戻ってくる。
 ミスカトニック大学の付属図書館には百を超える噂がある。
 世界に数冊しかないネクロノミコンのラテン語版がある、とか、その他希少本や魔導書の噂には事欠かない。
 ほとんどは取るに足らない噂だ。だが、希少本が多いのは事実だ。
 ただ、そのほとんどは思わせぶりに禁書に指定されており、ほとんど見ることは叶わない。
 私は、希少本の噂はミスカトニック大学に箔をつけるための嘘ではないか、と思っている。
 だが、そんな取るに足らない噂のうち、二つだけは事実らしい、と私は知った。
 曰く「邪本使いマギウスの才能があるものは、卒業の日、付属図書館を尋ねると、自分に合った魔導書に案内される」というもの。
 私はまさに卒業の日、その本に出会った。
 『ルルイエ異本』。
 噂には聞いたことがあった。とある邪神信仰について記された本だ、と。ミスカトニック大学の付属図書館にあるとされる希少本の一冊だ、と。
 だが、手にとって知った。これはそんなものではない、と。
 これは世界の外側の法則が記された本だ、と。
 ルルイエは海底に沈んだ邪神の眠る島、などと言われているが、あれはそんなものではない。あそここそは、まさに世界の外側とこの世界を繋ぐ、重要な場所なのだ。
 私は卒業証書を持ったのともう片方の手で、その書物を手に取り、ミスカトニック大学を飛び出した。
 すぐさま警報装置が起動し、黒い服の警備員達が走ってくる。
射撃シュート
 黒い服の男達の右手が輝く。シンプルな一言詠唱。
 魔力そのものを弾丸とした光の球が飛んでくる。
 シンプルかつ単純な魔術だが、熟練した魔術師である彼らのそれがいかに致命的であるかは、他ならぬ私がよく知っていた。
 魔術で障壁を展開して身を守るべきだが、相手の詠唱がすでに完了している以上、間に合わないだろう。
 だが、不思議と私は焦らなかった。
歪め
 手が自然と『ルルイエ異本』をめくり、口が唱える。
 『ルルイエ異本』が妖しい光を帯びて、そして、世界の法則が書き変わった。
 魔術とは決して超常的な現象ではない。魔術とは神秘レイヤーと呼ばれるこの物理レイヤーと重なって存在するレイヤーを改変する技術にすぎない。
 その改変は神秘レイヤーに刻まれた「神秘基盤」と呼ばれる基盤に従ってのみ行える。
 畢竟、魔術もまた、この世界の法則に過ぎないのである。
 『ルルイエ異本』による魔術は強制的にその法則の方を書き換えた。
 物質は下に落ちる。動物は酸素を呼吸して生きる。時間は前へのみ進む。
 言うなればそういった常識そのものを書き換えてしまう、法外な力。
 私はそれを手にした。
 結果、魔術は空中で霧散して消える。
 困惑する黒服達が銃を取り出すより早く、私は次の行動に出る。
歪め
 再び『ルルイエ異本』をめくられ、口が唱える。
 私の体は浮かび上がり、驚くほど長距離を跳躍した。
 気がつくと、ひどく寒い地にいた。
 慌てて、近くの店舗に駆け入り、ここはどこかと尋ねると、ここはアラスカのアンカレジであった。
 そして、身体中をどこに探しても、『ルルイエ異本』は見つからなかった。
 けれど、確かに頭の中に覚えているセンテンスがあった。
「この本は写本である。オリジナルは夏王朝の時代に作られた甲骨書物である。そしてオリジナルは、まだ遺跡に眠っている」
 そんなことが本に書いてあったはずがない。あったなら、ミスカトニック大学は速やかに中国中を探し回っただろう。
 冷戦下にある現在、それは容易ではないはずだが、ミスカトニック大学ならば、中国の対神秘軍とやり合ってでも成し遂げようとしたはずだ。
 けれど、私にはそのセンテンスが勘違いとは到底思えなかった。それだけ頭に強く強く残っていた。

 

 私はアンカレジから厳しい監視網を超え、ベーリング海峡の向こう側へ渡った。
 簡易的な精霊魔導書グリモワールしか持ってこなかった私には簡単な道のりではなかったが、もう一度あの超常的な力を振るえるなら、命など惜しくないと思った。
 そこから南下し、中国へたどり着いた。
 そしてそこで、何年も過ごして、今や相棒にも等しい、この本に辿り着いた。
 ――『螺湮城本伝らいんじょうほんでん』。
 『ルルイエ異本』のオリジナルとされる甲骨で出来た本。
 不思議なことに、手に取ると、それは素早く普通の本へと変化した。
 高揚感のままに、私は魔術儀式を行おうとした。
 だが、それは容易なことではなかった。
 あの時、ミスカトニック大学には膨大な魔力、オドがあった。巨大な異空間である「アーカム」にはそれがあった。
 それを利用して儀式魔術を一言で発生させられた。
 しかし、今は違う。
 目的がある訳ではない。世界征服でも、世界を救うでも、助けたい誰かがいるわけでも、殺したい誰かがいるわけでもない。ただ、出来るならやってみたい、それだけの話でしかない。一度あの法外な力を見せられて、焦がれない人間などいるはずもない。
 魔力が足りず、何度となく正しき位置についた星辰を見送った。
 儀式に必要な魔力が満ちた場所はなかなか存在しなかった。そのほとんどは既に有力者に抑えられていたからだ。
 しかし、だからこそ、その場所を見つけた時は、柄にもなく心が踊った。ようやく儀式ができるのだと、ようやく悲願が叶うのだと思った。
 そこは、学校だった。大いなるオドの湧き出る場所、龍脈の集う場所でありながら、なんの魔術的意匠のない、単なる学校であったのだ。
「まさか、私の生まれ故郷にこんな場所があったなんて」
 思わず苦笑する。灯台下暗しとはこのことだ。
 さぁ、儀式の準備を始めよう。

 

「やっぱり君かぁ、安曇あずみ
 流石はそれほどの場所。やはり邪魔は入るもの。敵対する魔術師に襲われた。
 しかし、苗字で呼ぶとはどうなんだ。私は安曇族の中でも、大いなる力を手に入れた身だぞ。
 私の名前は――。
 あれ?
 私の名前は、なんでしたっけ?
 そう、私は、法則をねじ曲げたあの日から、個人としての名前を、失ってしまっていたのでした。
 私は安曇。魔術師です。いつか必ず、再びあの力を手に入れてみせる。

 

Fin

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