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天辻家の今日のおやつ #08 「パンケーキ」

 

 
 

 もう梅雨の時期に入ったというのにこの天気はなんだ、と、辰弥はシーツを干しながらそう呟いた。
 外は大気汚染で見えることなど一年に数回あるかないかというあの太陽が燦々と輝く晴れ空、あまりの洗濯日和にシーツをはじめ少し大きなものも洗ってしまったわけだがこの調子ならすぐに乾いてしまうだろう。
「おー、今日も洗濯に精が出るな」
 洗濯物を干し終わって部屋に戻ってきた辰弥に日翔がにっ、と笑いかける。
「天気がよかったからね。でも……」
「でも?」
「時期的には梅雨なのに雨、降らないね」
 振り返って窓の外を見て、辰弥が呟いた。
 別に辰弥は雨の日が好きというわけではない。むしろ嫌いな方だ。
 特に梅雨なんてじめじめするしカビが生えやすくなるし、それに――。
 ふと、嫌なことを思い出しかけて辰弥は首をぶんぶんと振った。
「まぁ、この時期に雨が降らないといろいろ困る人もいるだろうからな」
 辰弥の様子には気づかず、日翔はちら、と時計を見た。
「……腹減ったな」
 日翔の言葉に辰弥も時計を見る。
「もうおやつの時間か。ちょっと待ってて、作るから」
「おー」
 エプロンを手に取り、キッチンに入る辰弥の後を追いかけ、日翔がダイニングの端に移動する。
「今日は何作るんだ?」
 流し下の収納に入れたコンテナから薄力粉を取り出す辰弥に、日翔は思わずそう尋ねていた。
 普段ならおやつに何が出るかも楽しみの一つだが、たまには前もってメニューを訊くのも楽しみである。
 辰弥の口から語られる「今日のおやつ」はそれだけでテンションが上がる。
 辰弥が日翔を見てうん、と頷いた。
「今日はパンケーキにしようかと」
「パンケーキ!」
 やったー、と日翔が歓声を上げる。
 今日のおやつがパンケーキは当たりも当たり、大当たりである。
 いや、普段のおやつが外れというわけではない、どれも当たりだが辰弥が作るパンケーキといえば女子高生が行列を作るような人気店の人気メニュー並みの豪華さ、可愛さ、おいしさである。
 男は入りづらい店で出されるようなパンケーキが自分のためだけに出される、それは日翔にとって優越感であり辰弥を保護してよかった、と心底思わせるものだった。
 しかし、パンケーキとは言うがホットケーキとの違いが日翔には分からない。ホットケーキと何が違うんだ、と思いながら辰弥が材料を用意するところを眺めていたら、ふと違和感に気付く。
「あれ、ホットケーキミックスじゃないんだ」
 パンケーキもホットケーキも見た目には大差ない。そういうところから今日のパンケーキもホットケーキミックスを使うだろうと思っていたのに出ていたのは薄力粉だった。
 当然、辰弥はホットケーキミックスで他のおやつも作るので常備しているだけにホットケーキミックスを使わずパンケーキを作るのは意外だった。
「うん、今日はちょっと本格的にしようと思って」
 そう言いながら、辰弥が冷蔵庫から卵と牛乳、バターを取り出す。
「本格的?」
 パンケーキに本格的なんてあるんだ、と日翔が尋ねる。
「うーん、本格的とは言ったけど何をもって本格的なんだろうね……。まぁ、薄力粉から作りたかっただけ」
 辰弥がそう答えると、日翔は「ふーん」と呟いた。
「とにかく、楽しみにしてるぜ! 俺はちょっと手入れでもしてくるかぁ……」
 今夜仕事だし、と言う日翔に辰弥が「了解」と答える。
「楽しみにしてて。変なものは出さないから」
 応、と日翔が手を振り、リビングに移動していく。
 それを見送り、辰弥は改めて調理台の上の材料を見、それから薄力粉を手に取った。
 まずは薄力粉をキッチンスケールで丁寧に量る。
 そこにベーキングパウダーを混ぜ、別のボウルにふるっていく。
 さらに別のボウルに、今度は卵黄と砂糖を入れてしっかり混ぜ、そこにサラダ油を投入。
 卵白はよく冷やしておくためにいったん冷凍庫に入れておく。
 これをよく混ぜれば卵液が乳化し、なめらかな生地を作るための下準備が一つ終わる。
 乳化した卵液に牛乳とバニラオイルを入れ、さらに混ぜる。
「……よし」
 うん、と満足げに頷いた辰弥は、今度は冷凍庫で冷やしておいた卵白を取り出した。
 ハンドミキサーで数分泡立てると、ふわふわもこもこのメレンゲが出来上がる。
 本来ならパンケーキの卵白をメレンゲにする必要はない。先程の卵液を作る段階で全卵にして混ぜておけばいい。
 しかし、今回辰弥がメレンゲを作ったのには理由があった。
「ふふっ」
 しっかりと角が立ったメレンゲを見て辰弥が笑う。
 が、すぐに真顔に戻り、辰弥は篩っておいた薄力粉に卵液を入れた。
 手早くだまにならないように混ぜ、それからメレンゲを一すくい、生地に入れてしっかり混ぜる。
 メレンゲが生地に馴染んたところで残りのメレンゲを入れてさっくりと混ぜていく。
 こうすることでメレンゲの泡が消えるのを最小限に抑えることができる。
 スポンジケーキを焼くのと同じ手法。
 つまり、卵白をメレンゲにすることでパンケーキはよりふわふわのものとなるのだ。
 生地が出来上がったところで辰弥はIHコンロの電源を入れ、フライパンを置く。
 温まってきたところで薄くバターを引き、火力は弱火に。
 一瞬だけ塗れ布巾にフライパンを置いて軽く冷まし、辰弥はお玉にすくった生地を流し入れた。
 流し入れるというよりはぼたり、と落とす感じでフライパンに入った生地を見て、辰弥は蓋を閉じる。
 その間に野菜庫からラップフィルムにくるんで保存していたバナナと冷凍庫に入れていたミックスベリー、そして既に立てた状態で売ってあるホイップクリームを取り出す。
 バナナを斜め切りにしたところで蓋を開け、パンケーキ生地をひっくり返す。
 パンケーキはふんわりと背高くふくらみ、程よい焼き色が付いていた。
 うん、と満足げに頷き、もう数分待つ。
 キッチンには甘い香りが漂い、それだけで心が浮ついてくる。
「お、いい匂い」
 パンケーキの匂いに釣られて、日翔がキッチンに顔を出した。
「もうすぐできるから待ってて」
 そう言いながら、辰弥がパンケーキを皿に盛りつける。
 厚さ5センチはあろうかというパンケーキの四段重ね。
 塔かと言わんばかりに盛りつけられたパンケーキに粉砂糖を振るい、周りに斜め切りにしたバナナとミックスベリーを並べ、ホイップクリームを盛る。
「できたよ?」
 辰弥がそう言い、日翔を見る。
「おぉ……おぉ……」
 目を輝かせて言葉を失っている日翔。
 パンケーキの塔に圧倒されているのが一目で分かる。
 くすっと笑い、辰弥は日翔にナイフとフォークを手渡した。
「ほら、テーブルに持っていって」
「お、おう」
 我に返った日翔がナイフとフォークを持ってテーブルに移動する。
 辰弥も両手にパンケーキの皿を持ち、テーブルに移動した。
 パンケーキの塔が崩れないようにいつもより注意して運び、そっとテーブルに置く。
「やべぇ……パンケーキの塔だ……」
 うず高く積まれたパンケーキに恐れ慄く日翔。
「い、いいのかこんなにも食って……」
「いいに決まってるじゃない、そのために作ったんだから」
 日翔がおやつを前にして恐縮しているのは珍しい。
 以前、暗殺連盟アライアンスのまとめ役であり、辰弥たちが住むマンションの管理人でもある山崎 猛がお裾分けにと持って来てくれた「しゝや」の超高級な羊羹は辰弥が目を離した隙に食べ尽くした、というのにだ。
「いや、だって……ほら、これすげえ……」
 どうやら日翔は語彙喪失モードにも入っているようだ。
 辿々しくパンケーキの塔についての見解を述べる日翔に、辰弥はふふっと笑った。
「……よし、食べようぜ!」
 やがて心が落ち着いたのか、日翔が容赦なくパンケーキにナイフを入れる。
 ふわり、とパンケーキに沈み込むナイフ。
「おお、ふわふわ!」
 日翔が歓声を上げ、パンケーキを一口、口に運ぶ。
 まずは何も付けない、素の状態で味わいたいのだろう。
 もぐもぐと口を動かし、飲み込んだ次の瞬間。
「うめえ! ふわふわ!」
 語彙が完全に消失した言葉が飛び出した。
「そう?」
 それはよかった、と辰弥もパンケーキを口に運ぶ。
 ふわり、とした口当たりの後、口の中でパンケーキがほろほろと崩れていく。
「すげえな、いつものパンケーキもふわふわだけどさ、これ、いつにも増してふわふわじゃねーか」
「ふふん、メレンゲで作ったからね」
 そういう辰弥の言葉は得意げなもの。
 へぇ、と日翔が声を上げる。
「メレンゲって、あの、ケーキ作るときに作る卵泡立てたやつだろ? パンケーキにも効果あるのか」
「うん、膨らませたいケーキ類なら大体使うんじゃないかな」
 日翔もちょっとは分かってきたなあと思いつつ、辰弥はそれはそうか、と考え直した。
 日翔は台所を出禁にしている。料理をすれば確実に何かを破壊するからだが、それでも興味深そうに辰弥の料理を見にくるから料理のテクニックや蘊蓄は時々説明している。
 初めは薄力粉と強力粉の違いも分からなかった日翔が強力粉とドライイーストを見ただけで「パンを作るのか?」と言えるレベルには成長していることに、辰弥はほんの少し喜びを感じていた。
 いつか日翔と並んで料理がしたい、日翔が作った料理を食べたい、そして――。
 ――俺がいなくなっても、日翔が自分でごはんを作って食べてくれたら。
 いくら日翔が「いつまでもここにいていい」と言ってくれても、いつまでも彼の元にいることはできないと辰弥は思っていた。
 いつかは自分の全てが明らかになって、日翔のそばから離れないといけないかもしれない。
 そうなった時、日翔が自分を思い出すきっかけになるのが料理だろう。
 もし、日翔が受け入れてくれなかった場合は料理すら黒歴史として葬り去られる可能性もあったが、それでも辰弥は日翔に自分がここにいたという証を残したかった。
 それは自分のわがままであることはわかっている。「自分がいた証」など残していい存在でもないことは理解している。
 それでも、日翔には、日翔と鏡介には自分のことを覚えていてもらいたかった。
「……日翔、」
 ふと、そう声をかける。
「ん? どうした?」
 やらんぞ、と言いながらパンケーキを頬張る日翔に辰弥が苦笑する。
 日翔はいつまでもこうやっていてほしい。幸せに生きてほしい。
「……俺がいなくなっても、俺のこと忘れないでいてくれる?」
「あ?」
 日翔がパンケーキを食べる手を止める。
 一瞬、呆気に取られたように辰弥を見て、次の瞬間、その顔に満面の笑みを浮かべた。
「忘れるわけねーよ。ってか、『俺がいなくなっても』とか言うなよ。そりゃ、お前が帰るべき場所を見つけたなら帰らなきゃいけないかもだが、それでも、俺はお前に帰ってもらいたくねーよ」
「日翔……」
 言葉が胸につかえて出てこない。
 日翔は俺にいてもいい、と言ってくれるのか。自分のことを何一つ言えない、隠し事だらけの自分のことを。
 日翔が手を伸ばして辰弥の頭をわしゃっと撫でる。
「子供扱いしないでよ」
「年上かもしれないけどさー、なんか息子みたいなんだって」
 そう言って日翔が再び笑う。
「どこにも行くなよ。それは鏡介も同じ気持ちだ」
「……うん」
 日翔も鏡介も自分のことを大切にしてくれる、それは辰弥もよく分かっていた。
 だからこそ、裏切ることになった時が恐ろしい。
 いつまでもこうしていたい、このぬるま湯の幸せに浸っていたい、心の底からそう思う。
「ほらほら、湿っぽい話はナシだ。おやつ楽しもうぜ」
「そうだね」
 ごめん、と辰弥も再びパンケーキを口に運ぶ。
 甘いパンケーキにほんの少し塩味を感じたのは気のせいだろうか。
「あ、そういえばさ」
 不意に、日翔がそう声を上げて話題を変えた。
「どうしたの?」
「今日のおやつはパンケーキだが、パンケーキとホットケーキって何が違うんだ?」
 日翔の質問に、辰弥がふふん、と笑う。
「よく聞いてくれました」
 そう言い、辰弥は説明する。
「ホットケーキって、桜花でのパンケーキの呼び方みたいなものだね。海外では『ホットケーキ』と言っても通じないよ」
「マジか」
 知らなかった、と驚く日翔。
「まぁ、強いていうならパンケーキは必ずしも甘いものじゃないんだ。元々が『フライパンや鍋で焼いたケーキ』を指す言葉なんだ」
「え、パンケーキのパンって食べ物のパンのことじゃないんだ」
 うん、と辰弥が頷く。
「で、海外のパンケーキは朝ごはんにもなったりするんだけど、その時にベーコンや卵と合わせたりできるように砂糖を控えた甘くないものが作られることもあるんだ」
「へぇー」
「だからホットケーキは桜花で独自に進化した、甘いパンケーキだと思っていいんじゃないかな」
 辰弥の説明に日翔がふむふむと何度も頷く。
「なるほど、甘くないパンケーキもある……」
 そう呟いた後、ぶつぶつと何かを口の中で呟き、それから日翔は辰弥を見た。
「じゃあさ、甘くないおかずパンケーキも食ってみたい!」
 来ると思った言葉。
 もちろん、と辰弥は即答した。
「じゃあ、明日の朝ごはんはおかずパンケーキにしようか」
「やりぃ!」
 日翔が歓声を上げる。
 本当に、見ていて飽きないなぁ、と辰弥は呟いた。
 日翔の言うように、ずっとこの家にいたい。
 帰るべき場所があったとしても、自分が真に帰るべき場所はここなのだ、と思う。
 いつまでも、日翔や鏡介と一緒に勝手気ままに暗殺業に勤しんで、二人に美味しいごはんを振る舞って、面白おかしく生きていたい。
 そんなことを望んではいけないと思いつつも、辰弥は願わずにはいられなかった。
 「この穏やかな時間がいつまでも続きますように」と。

to be continued……

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