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天辻家の今日のおやつ #10 「カヌレ」

 

 
 

 

 その日、辰弥と日翔は日用品の補充のために生活雑貨の百貨店に訪れていた。
 目的のものはすぐに見つかり、購入したものの普段はあまり来ないこの店に、辰弥も日翔もテンション爆上がりで各フロアを回っている。
 そんな二人が次に訪れたのは調理器具のフロアだった。
「うわ……」
 フロア全体に並ぶ調理器具に辰弥が目を輝かせる。
「すごい、見ていっていい?」
 見たこともない調理器具に目を奪われた辰弥は日翔が「駄目」と言っても聞かなさそうな様子でうずうずしている。
「しゃーねーな、見てくか」
 日翔としても辰弥が新しい調理器具で新しい料理を作ってくれるのは願ったりである。ここで「駄目」という理由がない。
 日翔の言葉に、辰弥がぱぁっと顔を輝かせる。
「やった! それじゃ、行こ」
 流石に子供のように駆けだしたりはしなかったが、辰弥は早足で売り場に入っていった。
 その背を見て、日翔は思わず苦笑する。
 辰弥本人は拾った時から「成人してる」とは言っていたが、外見も言動も子供っぽいところがある。拾った当時は身の回りのこともろくにできなかったが、少し教えればすぐに理解して応用するあたり思考の柔軟さはどちらかと言うと子供に近いのではないか、という思いもあった。
 そんな辰弥だから、このような場ではしゃぎたくなる気持ちもよく分かる。
 俺も金があったらさっきの映画グッズコーナーとかもっと回りたかったんだがな、と呟きつつ、日翔は辰弥を追って歩き出した。
「日翔! 見てみて!」
 棚の端から顔を出して辰弥が手を振っている。
 これまた成人男性にしては小柄どころかミニサイズの辰弥はこの手の店の棚が低めに作られていても頭が見えることがない。だから、日翔を呼ぶときはこうやって棚の端から顔を出してくる。
 可愛い奴、と思いながら日翔が辰弥の隣に立つと、辰弥は目を輝かせて棚の一角を指さした。
「カヌレ型だ! カヌレ、一度作ってみたいんだよね」
 日翔が、辰弥の指先を見るとそこには独特の形をした金属の型が置かれていた。
「ほえー、カヌレ」
 カヌレは聞いたことがある。というよりも子供の頃にブームが起きて多くの洋菓子店のショーケースにカヌレが並んでいた記憶がある。尤も、日翔の家はそんなに裕福ではなかったし、フードトナーのような合成食材ではなく本物の食材を使った菓子は高くてとても買えたものではなかったが。
 辰弥を拾って、それがきっかけで本物の食材を使った料理を口にすることが増えた、もとい、毎日の食事がプリントフードではなく本物食材の料理という贅沢をしているが、贅沢と言っても怒られないほどに本物の食材は高い。辰弥も暗殺者にならなければ到底こんな料理を毎食作ることはできなかっただろう。
 それはさておき、子供の頃にブームが起きて、一度は食べたいと思っていたカヌレを辰弥が作りたいと言う。それは何という偶然だ、と思いつつも日翔はカヌレ型を手に取り、棚の値札を見た。
「うへえ、高い」
 きょうび、プリントフードが主流で、一般家庭が特殊な調理器具を使うことなどほとんどない。一部の富裕層が抱えるシェフや本物食材を売りにしたレストランが買い求めるくらいである、当然、需要が少ないので値段も高くなる。
 いつも辰弥に美味しい料理を作ってもらっているからたまには俺が買ってやるよと言いたかった日翔だが、流石にこの金額の調理器具を買うほど所持金はなかった。
「……だめ?」
 辰弥が上目遣いで日翔を見る。
 その瞬間、日翔の心臓がどくりと大きく脈打った。
(そ、それは反則だろーーーー!!)
 駄目とは言わない。勿論、言わない。日翔だってカヌレは食べたいし、それが辰弥の作るものならなおさらだ。ただ、ここは「俺が買ってやる」といいところを見せたかっただけだ。
「……駄目、とは言わん。欲しいなら買ってもいいぞ」
 日翔に言えたのはそれだけだった。
 だが、日翔に許可をもらえたことで辰弥の顔が明るくなる。
「ありがとう! 美味しいカヌレ作るから!」
 日翔の手からカヌレ型を受け取り、辰弥が意気揚々とレジに向かう。
「……はぁ……」
 日翔が盛大にため息を吐く。
「……買ってやりたかったな……」
 そう呟いたものの、普段から金欠で日々の生活もぎりぎりの日翔にはどうすることもできない。
 それならせめて辰弥が作ったカヌレを全力で楽しむか、と日翔は考え直し、辰弥を追ってレジに向かった。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 帰宅した辰弥が楽しそうに冷蔵庫を開けている。
「お、早速作るのか?」
 手を洗って部屋着に着替えた日翔が辰弥の後ろから冷蔵庫を覗き込む。
「うん、カヌレって実はすごく時間がかかるんだ。だから今のうちに仕込んでおこうと思って」
「へー」
 辰弥が冷蔵庫から卵と牛乳、そして無塩バターを取り出すのを見て、日翔が興味深そうに食材を見る。
 調理台の上には薄力粉、強力粉とバニラオイル、グラニュー糖が既に用意されており、それだけ見るならカヌレとはケーキのようなものか、と日翔はふと考え、それから苦笑した。
 辰弥と出会う前は料理の材料なんて気にしたこともなかったのに、今は簡単な料理なら材料を見ただけで言い当てられる。元から食べるのが好きな日翔だから自分が食べるものが何でできているかを考えるのは楽しかった。
 辰弥がてきぱきと材料を計量し、乾いた器に入れていく。
 その中で、日翔は辰弥が卵を白身と黄身に分け、白身を冷蔵庫に戻したのを目撃した。
「あれ、白身は使わないのか?」
「うん、カヌレは黄身の方をたくさん使うんだ」
 へえ、と日翔が感心した声を上げる。
「じゃあ、白身はどうするんだ?」
「そうだね――雲パンにするか、メレンゲクッキーにするか……」
 いずれにしても、それは後で考えるよ、と辰弥は計量を終え、残った食材を片付けていく。
 全て片付けてから、辰弥は両手をパン、と合わせた。
「さて、作りますかね……」
 まずは、とバターを小鍋に入れ、加熱。
 溶かしバターを作るわけだが、今回はただ溶かすだけではない。
 全て溶け切っても加熱すると、バターがほんのりと茶色に染まっていく。
 バターが程よく茶色に染まった焦がしバターになったところで、小鍋をコンロから下ろし、用意していた濡れ付近で急冷する。
 その次は牛乳。別の鍋に入れた牛乳を沸騰させ、鍋を水につけて冷ます。
 温度計を鍋に入れて温度が60度になったところで鍋を水から離し、辰弥はうんうんと満足そうにうなずいた。
「液体類はこんなものかな」
 そう呟きながら、辰弥は次に強力粉とグラニュー糖を混ぜ合わせ、そこに温めた牛乳を注ぎ込んだ。
 ホイッパーで手早く混ぜ、次いであらかじめ混ぜておいた溶き卵も入れる。
「なんか、ケーキ作ってるみたいだな」
 台所の入り口で辰弥の調理を見守っていた日翔が呟く。
「そうだね……でも、俺としてはイメージはケーキよりカスタードクリームの方が近いかな」
 ほら、生地がケーキに比べて液体でしょ? と辰弥がホイッパーに生地を絡めて持ち上げてみせた。
 液状の生地がホイッパーに定着することなくボウルに流れ落ちていくのを見て、日翔は「へぇ~」と声を上げた。
 カスタードクリームと言えばシュークリームやエクレアに入ってるとおいしいやつ! という認識である日翔は「カスタードクリームの方が近い」と言われ、「カスタードクリームを焼いたらカヌレになるのか」という思考に至っている。実際にはそんな簡単な話ではないのだが、日翔にはこれ位大雑把な説明の方が理解してもらいやすいのだ。
 溶き卵を入れた次は冷ましておいた焦がしバターとラム酒、そしてバニラオイルを投入。さっくりと混ぜ、辰弥は漉し網を取り出した。
 そのまま焼いてはだまになった強力粉や混ざり切っていない卵の白身などが混入し、舌触りが悪くなる。生地を漉すことで、なめらかな舌触りになるのだ。
 そんな、相変わらずの辰弥の細かさに日翔はただただ感嘆するしかなかった。
 普段の食事も、かなり見栄えを気にして盛り付ける、菓子に至っては撮影次第では店の宣材になるのではというクオリティのものが出てくる。
 そんな豪華なものを独り占めしていいのか、という罪悪感と、辰弥の料理を独り占めできる背徳感。鏡介は滅多なことで辰弥の料理を食べに来ないから独占感も強い。
 俺は辰弥に大切にされているんだ、という思いだけで自己肯定感が上がり、今の日翔は以前より前向きに考えられるようになっていた。
 元から考えなしだの能天気だのアホキャラだの言われる日翔だが、悩みくらいはあるし自己肯定感が下がることもある。第一、自分の未来が、そう遠くない自分の未来がどうなるかを分かっているだけにどうしてもネガティヴな思考からは離れられない。
 それでも日翔には悩みがないように見えるのは日翔がそれを表に出さず隠しているだけだ。
 バレてないよな? と日翔は辰弥を見る。
 鏡介はいい、全てを知っているから。だが、辰弥はまだ何も知らない。知る必要はない。そう、秋とは思っていた。
 いつか必ず、俺はお前を裏切ることになる、許してくれとは言わない、そう思いながらも日翔は辰弥との日々を共に歩み続けてきた。
 カヌレの生地がとろとろと漉し網を通して下に置かれたボウルに流れていく。
 それを見ながら、日翔はグダグダ考えているなんて俺らしくない、今はただカヌレを楽しみにしていよう、と考え直した。
 その間に、辰弥も生地を漉し終わったか、ボウルの中にラップフィルムを入れ、生地の表面にぴったりと重なるように蓋をする。
「さて、今日の準備はここまで」
「え、焼かないのか?」
 カヌレと言えば焼き菓子という知識くらい日翔にはある。ところが、辰弥が生地を作る手を止めたので驚いたような顔をする。
「うん、カヌレは八時間一日休ませる必要があるんだ。生地を馴染ませるのと、グルテンを落ち着かせるのが目的。これをしないで焼くとカヌレが型から射出されるんだ」
「射出……」
 日翔の脳裏に、型から飛び出してオーブンの天井に突き刺さるカヌレが妄想される。
 マジか、カヌレってそんな危険な食べ物だったのか、と考える日翔に、辰弥は首を傾げた。
「なんか変な想像してない? 単純に膨らんで型から落ちちゃうんだよ」
「……はぁ」
 説明されてもいまいち理解できない日翔。ケーキも型からはみ出るほどに膨らむことはあるが、型から落ちる、というのはいまいち想像できない。
 どういうことだろう、と思いつつも日翔は辰弥が生地を冷蔵庫に入れるのを見た。
「とりあえず、カヌレが食べられるのは明日ってことか?」
「そういうこと」
 冷蔵庫の扉をパタンと閉めた辰弥がそれじゃ、と呟く。
「とりあえず保存のきくおやつも作っておくか」
「おお?」
 もしかして、と期待に満ちた目で見る日翔に辰弥が頷く。
「余った白身でメレンゲクッキー作るよ」
「やった!」
 辰弥の作るメレンゲクッキー、サクサクしておいしいんだよなぁ、と口元の涎を拭いつつ、日翔はウキウキした気分で辰弥の動きを見守り続けた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 翌巡の一日目朝日
 冷蔵庫から出され、一時間ほど放置して室温に戻された生地を前に辰弥はうん、と頷き、お玉を手に取った。
 生地の入ったボウルの横には溶かしバターを塗り、グラニュー糖をまぶされたカヌレ型が並んでいる。
「日翔が起きてくる前に終わらせよう」
 そう呟いた辰弥は生地を掬い、丁寧に型に流し込んでいく。
 八分目ほどまで流し込まれた生地を天板に並べ、余熱していたオーブンの中へ。
 焼いている間に朝ごはんを作っておくか、と辰弥は冷蔵庫からいくつかの食材を取り出した。

 

 途中、指定の焼き時間が過ぎたものの焼きが甘いという状態が続いていたため、何度か焼き直していた辰弥だったが、漸く満足できる焼き具合になったのかカヌレをオーブンから取り出し、うん、と頷く。
「よし、できた」
 折角だから焼きたてを食べよう、と辰弥が型から取り出したカヌレを皿に乗せ、横にバニラアイスを添えて日翔の元に持っていく。
「日翔、できたよ」
「おお!」
 リビングでCCTを開き、ニュースを見ていた日翔が目を輝かせてCCTを閉じる。
 目の前に置かれたカヌレの皿に、日翔は再び「おぉ……」と声を上げた。
「これが……カヌレ……」
 ふわりと香る甘い香りはバニラオイルのものだろうか。そこにほんのわずかに混ざるラム酒の香り。
 横に添えられたバニラアイスはカヌレの熱でほんの少し溶け始め、とろりとした様相を見せている。
「しゃ、写真撮っていいか……?」
「いいよ」
 最近、日翔は辰弥の作る料理の写真をよく撮るようになった。日翔曰く「このまま食べるのがもったいない」からだが、最近は辰弥も日翔が写真を撮ることを前提に料理を作っているところがある。
 下手にSNSに上げてバズらせるわけにはいかないが、それでも日翔のCCTのストレージに貯まっていく写真の数々は辰弥にとっても思い出深いものだった。
「じゃ、食べよう」
 日翔がCCTを机に置いたのを確認し、辰弥がナイフとフォークを手に取る。
『いただきます』
 二人の声が重なる。
 日翔は豪快にカヌレを鷲掴みにし、口に運ぶ。
 表面のパリっとした歯ごたえの直後にもっちりとした生地が口いっぱいに広がる。
「うめぇ~!」
 たまらず、日翔が声を上げた。
「これがカヌレか、うめえ……」
「うん、おいしいね」
 辰弥も一口食べ、嬉しそうに笑う。
「よかった、初めて作るから失敗したらどうしようって思ってた」
「失敗も何も、写真で見た高級店のカヌレそのままだわこれ」
 実際で店で買うカヌレがどんな味かは分からないが、それでも日翔にとっては辰弥の作ったカヌレこそ本物のカヌレだった。いや、これが本物のカヌレでなくてもいい。辰弥が作ってくれた、それだけで嬉しい。
 うまいうまいとカヌレを頬張る日翔に、辰弥は思わず手を伸ばし、日翔のCCTを手に取った。
「? どうした?」
「写真、撮っていい?」
 突然の辰弥の言葉に日翔はえっと声を上げる。
 写真ならGNSの視界スクリーンショットで十分間に合うはずだ。それなのに、CCTで撮影したいとは。
「日翔が食べてる姿をカメラで撮影してみたい」
「……お、おう」
 辰弥にCCTのカメラを向けられ、日翔が緊張した面持ちで辰弥を見る。
「日翔、笑って」
 辰弥の言葉に、日翔がぎこちなく笑う。
 しかし、辰弥は辰弥で普段使わないCCTに苦戦しているのか、なかなか撮影が始まらない。
 そんな、珍しく不器用な辰弥に日翔は思わずくすりと笑った。
 そのタイミングでシャッターが切られる。
「あ、いい写真だ」
 辰弥の言葉に、日翔がCCTを覗き込む。
 そこにはカヌレを前にして、思いの外いい笑顔をしている日翔が映っていた。
「辰弥……」
「日翔、ありがとう」
 辰弥が笑い、日翔を見る。
「……日翔、」
 辰弥の深紅の瞳が日翔を見据える。
「……大丈夫?」
「何が」
「何か、思い詰めたりしてない?」
 その瞬間、日翔の心臓がどきりと跳ね上がる。
 思い詰めていないはずがない。いつか辰弥を置いていくこと、辰弥を裏切ることを考えない日はない。だが、それを知られるわけにはいかない。
「……別に」
「そう、」
 それならいいけど、と辰弥が呟く。
「……なあ、辰弥……」
 今度は日翔が辰弥に声をかける。
「どうしたの?」
 そう、尋ねる辰弥に日翔の心が痛くなる。
 嫌だ、置いていきたくない。裏切りたくない。このまま時間が止まってしまえばいい。
 それなのに、どうして時間は無常に過ぎていくのだろうか。
「……もし、もしだぞ。もし、俺に何かあったら――このCCTを、受け取ってくれないか」
「えっ」
 想定すらしていなかった日翔の言葉。
 どういうこと、と辰弥の思考がぐるぐる回る。
 俺に何かあったら、という言葉に最悪の展開を想像してしまう。
 もしかして、日翔には希死念慮があるのか、と勘ぐってしまう。
 嘘だ。日翔に限ってそんなものがあるわけない。
 辰弥の呼吸が乱れる。
「日翔、何を――」
「もしもの話だよ。ほら、仕事柄何があるか分からんしさ」
 そうは言って苦笑したものの、日翔はそれが嘘だと自分でも理解していた。
 確かに暗殺の仕事で何か不測の事態が起こる可能性はある。しかし、それ以上に――。
「……日翔、」
 そう言い、辰弥が日翔に手を伸ばす。その手が日翔の頬に触れる。
「もしものことなんて言わないでよ。俺は、日翔とずっと一緒にいたい」
 頬に触れるひんやりとした辰弥の指。
 それだけで、日翔は全て見透かされているような気がして声が出なくなる。
「辰――」
 かすれた声で日翔が呼ぶと、辰弥はにっこりと笑って手を離した。
「ほら、食べよう。アイス溶けちゃうよ」
「お、おう」
 慌てて日翔がフォークを握る。
 悪戦苦闘しながらカヌレにアイスを乗せ、一口。
 口いっぱいに広がるカヌレの熱とアイスの冷たさは辰弥の情熱と冷静さを表しているようで、それを独り占めできることに日翔は改めて優越感に浸るのだった。

to be continued……

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