世界樹の妖精 -Brownie of Irminsul- 第7章
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第7章 「『
アメリカに建造された四本の「世界樹」がネットワークインフラを支える世界。
ロサンゼルスのハイスクールに上がったばかりの
通学途中で聞いた都市伝説、義体の不具合時に現れるという
その際に起動された爆弾から彼を救い、叱咤する謎のハッカー。
弟子入りしたいという匠音の要望を拒絶しつつもトレーニングアプリを送り付ける魔法使い。
それを起動した匠音はランキング一位にかつてスポーツハッカーだった
そんな折、メアリーが「キャメロット」の握手会に行くことになるがトラブルに巻き込まれてしまう。それを助けたもののハッキングが発覚して拘束され、メアリーの機転で厳重注意のみで済むものの、和美にはハッキングのことを知られ辞めるよう強く言われる。
それでも諦められず、逆に力を付けたくて匠音は匠海のオーグギアに接続し、父親のビデをメッセージを見る。
その際に手に入れた「エクスカリバー」の性能を知りたくて手近なサーバに侵入する匠音、しかし「エクスカリバー」を使いこなせず通報されかける。
それを謎の魔法使いこと
ハッキングを禁止する理由も、匠海のこともはっきりと教えてくれない和美に反抗し、匠音は家を飛び出し、祖父、
白狼からハッキングを教わりたいと懇願し、OKが出るが教えてもらえるのは
父親の事故の真相を聞きつつもそのハッキングに嫌気がさした匠音はブラウニーの姿を見つけ、追いかけてしまう。
ブラウニーが逃げ込んだ先で匠音は男に声を掛けられる。
ブラウニーについて調べてほしいという男は用意した義体にわざと不具合を起こさせ、ブラウニーを呼び出すことに成功する。
ブラウニーを追跡する匠音。しかしブラウニーが逃げ込んだ先は
「シルバークルツ」がイルミンスールの表層に取り付き、そしてわずかに亀裂を入れる。
いや、「シルバークルツ」が表層に触れた瞬間、イルミンスールの一層目の結界が綻び、匠音を招き入れる。
「これは……」
確かに匠音もツールは使っている。しかしそのツールをサポートするかのように何か見えない力が働き、匠音をイルミンスールへと迎え入れた。
――父さん……?
どういうこと、と匠音が呟く。
ふわり、と隣に誰かが立っているような気配を覚える。
ツールを操作する匠音の手に沿ってアシストしてくれるような、そんな錯覚を覚える。
そんなことがあるはずはない。
実際には匠音が一人でツールを操り、イルミンスールへと侵入している。
それでも何故か感じる「自分以外の存在」の気配。
まるで森の木々が意志を持って道を開けるかのように、目の前のもつれあったコードがほどけ、道を作る。
何が起こっている、と戸惑いながらも匠音は先へ進んだ。
「……イルミンスールの防壁をこうもあっさりと……」
匠音の後ろで男が驚愕の声を上げる。
実際は匠音一人の実力ではない。不可視の力が働いて、匠音はイルミンスールへと招かれている。
「……いや、『シルバークルツ』のアバターデータに不可解なトラフィックが発生している……? なんだこれは」
「シルバークルツ」に何かしらのアクセスを試みている人物がいる。
しかし、そのルートは巧みに隠蔽されていて誰かは分からない。
この状況を把握している人物がいるのか? そんなことを考えながら男は匠音を、「シルバークルツ」を見守る。
――そこでそのツールは使うな。
その指示に従い、ツールを選び直し、起動する。
周囲を浮遊する侵入者検知用のbotが見えるが、指示通り起動した
――
――うん、分かった。
指示に従い、匠音はPINGを起動した。
――PINGを使ったから侵入は察知された。駆け抜けて次のエリアに逃げ込めば躱せる。
時間がない、と声が匠音に告げる。
――察知された、って、PING使わずに抜けられなかったの?
PINGは潜水艦で言うところのアクティブソナー。
自分から探査電子を飛ばすために警戒されていれば逆に居場所を察知されてしまう。
指示に従ってPINGを使用した匠音ではあったが、PINGの危険性は理解している。
隠されたあらゆるデータを浮かび上がらせるツールではあるが今は隠れて進むべきではなかったのか。
それとも、声自体が罠で――。
――イルミンスールの
PINGでも使わない限り、ここを無傷で通り抜けるのは難しい、と声が告げる。
たとえ侵入を察知されたとしても、PINGを使い通り抜けすぐに別エリアに逃げ込むのが一番安全なのだ、と。
なるほど、と匠音は唸った。
ハッキングとはただ身を隠して進むだけではなく、時にはリスクを冒したほうが最大の効果を得られるのか。
声のアシストを信じ、さらに奥へと侵入する。
電子の迷宮を抜け、さらに奥へ。
「『シルバークルツ』……なんだ、急に……」
数々のトラップをすり抜け奥へと進む匠音に男が声を上げる。
しかし、「シルバークルツ」はそこで悪さを働く
永瀬という姓から十五年前事故死したチーム「キャメロット」のエース、
男の視線の先で匠音の手が迷いなく動き、イルミンスールの奥深くへと進んでいく。
覚醒したのか、と男は呟いた。
普段は凡庸な実力の持ち主であっても何かを
かの「アーサー」もそうだったと聞く。
確かに彼はルーキー杯で優勝するくらいには最初から実力があった。
しかし、ある時を境にハッキングスタイルも含め大きく変化した。
それは彼が「エクスカリバー」を使い始めた頃と一致するが、それを境に彼は一気にトップランカーの仲間入りを果たした。
何がトリガーだったかまでは男は知らない。
しかし、その息子である匠音にも才能が受け継がれているとすれば。
今、その覚醒に立ち会ったのかもしれないと男は思った。
――父さん、この扉は
男の思いはよそに匠音はツールを展開する。
返事を聞くことなく
その次の防壁もすり抜けるように突破したところで匠音は自分のツール選択の変化に気が付いた。
以前の自分ならこんな選択もこんな突破方法も試さなかった。
ただ愚直に、誰にでも簡単に扱えるツールでセキュリティをこじ開け、痕跡を残し、今頃は運営が巡回させているbotに捕捉されていただろう。
しかし今は違う。
いかにセキュリティに穴をあけずにすり抜け、データの隙間から潜り込むか、そこまでの思考を即座に展開することができる。
それによって開かれた通路を通り、匠音はさらに奥へと突き進んだ。
――疾い。
匠音の操作を見て男が呟く。
このままいけば匠音は確実にイルミンスールの最奥に到達するだろう。
そして、ブラウニーを捕捉し、何もかもを明らかにするのではないかと。
「シルバークルツ」がこれほどのポテンシャルを秘めた魔術師だとは正直なところ男は思っていなかった。
男からすれば「ニヴルング」で規約違反のハッキングを行っているのだからイルミンスールを攻めたという理由で排除するのもありだと考えていた。
その一環でブラウニーの正体が突き止められれば儲け物だ、と。
しかし、今の「シルバークルツ」の動きは違う。
疾く、鋭くイルミンスールのセキュリティに食い込み、突破していく。
ブラウニーへと、着実に近づいている。
いいぞ、と男は呟いた。
たとえイルミンスールが暴かれたとしてもブラウニーを捕らえることができるなら損失よりも収益の方が大きい。それに男はイルミンスールの脆弱性を目の当たりにしているも同然、このデータを元にセキュリティを強化すればいい。
匠音がまた一つ防壁を突破し、イルミンスールのより深くに突入する。
さあ、どこまで行ける、と呟いた男の口元が吊り上がった。
「シルバークルツ」のアバターが、イルミンスール内部の少し広いエリアに出る。
円形に広がった空間。
まるで
ここまでは何事もなく進ことができた。
PINGを使ったことで侵入自体は察知されているだろうが侵入経路を追跡されるより速く匠音はこの深層まで到達した。
たとえイルミンスールのカウンターハッカーであってもまさか侵入者がここまで到達しているとは思っていないだろう。
少し休憩できそうだ、と匠音は息を吐いた。
視界に映るブラウニーの痕跡はこの奥に続いている。
近くまで来ている、そんな勘の囁きが聞こえる気がする。
しかし、同時にえも言われぬ不安が胸を締め付ける。
油断してはいけない、警戒を緩めてはいけない、そんな声を聞いた気がした直後、匠音は咄嗟に横に跳んだ。
直前まで匠音が立っていた場所を衝撃波のような何かが通り過ぎていく。
ごくり、と匠音は唾を飲み込んだ。
今の衝撃波は――いや、俺はこれを知っていると理解する。
これは衝撃波なんかではない。斬撃を波動状にして飛ばした斬撃波。
そしてこれに触れれば――。
匠音が斬撃波が飛んできた方向を見る。
そこには一人の騎士が立っていた。
豪奢な甲冑を身に纏った騎士のアバター。
そして、この場では一番会いたくなかった――。
「……ルキウス」
匠音が低く呟く。
イルミンスール最強のカウンターハッカー、「ルキウス」。
かつてはスポーツハッカーとして最強の座に居座った男。
匠音が初めて見たスポーツハッキングの大会の決勝戦で圧倒的な強さを見せ、その大会の直後に彼はイルミンスールのカウンターハッカーとしてスカウトされた。
その後、「ニヴルング」で匠音を襲った魔術師を撃退し、彼をハッキングへの世界へと誘った魔術師が、目の前にいる。
「侵入検知はしていたがどこにもいないと監視室は大童でな……そう奥深くまで進んでいないだろうと全員考えていたが、お前、やるな」
まさかこの短時間でここまで来るとは、と「ルキウス」が呟く。
「だが、これ以上先には進ませねえ。侵入者は排除する」
「ルキウス」が剣を――「ルキウス」を最強たらしめる最強の
まずい、と匠音が唸る。
勝てない。
「ルキウス」の実力は分かっている――「フロレント」の能力も。
触れればデータが凍結され、即座に通報される凍結型。
ほんのわずかにでもダメージを受ければそこから凍結は侵食する。
そして今の匠音には対抗策がない。
いや、「フロレント」の対抗策は「ルキウス」のスポーツハッカー現役時代から見つけ出されていなかった。
あの「キャメロット」の「ガウェイン」が持つ、当時最強と言われた「
「フロレント」を前にした魔術師が取るべき行動はたった一つだと言われている。
――逃げろ!
声が聞こえた気がした。
咄嗟に匠音が
目くらましの煙幕がフロア全体に充満し、いくつもの「シルバークルツ」を模したデコイが配置される。
「うわ、こいついっちょ前にデコイ展開しやがった! ――しかし!」
目の前でデコイを展開された「ルキウス」が「フロレント」を振るう。
剣から放たれた斬撃波が複数のデコイをまとめて凍結させ、粉々に砕く。
同時に煙幕も斬り裂き、「ルキウス」は周りを見た。
周りの反応はデコイのみ。本体の反応はどこにもない。
逃げたか、と「ルキウス」は呟いた。
相手が逃げたくなるのも無理はない、と彼は理解していた。
スポーツハッキングの大会でも「ルキウスには遭遇するな、喧嘩も売るな、姿を見れば即逃げろ」と囁かれた時期もあった。
それを理解しているのなら今回の侵入者の対応は正しい。
いかなる魔術師であっても、「フロレント」の凍結能力を攻略することは不可能。
いや、攻略できるとすれば――。
「ルキウス」にはたった一つだけ心当たりがあった。
実際に対峙したことはない。しかし、「アーサー」が振るう「
結局、「アーサー」とは一度も対戦することはなかった。
対戦カードが組まれる前に「アーサー」は事故で死んでしまった。
「ルキウス」がスポーツハッキング界に足を踏み入れたのは「アーサー」がデビューした少し後。
事故の報道にスポーツハッキング界は震撼したものだ。
「百年に一度の逸材を喪った」と。
「エクスカリバー」の
「アーサー」の死後、「エクスカリバー」が誰かに受け継がれたという話も聞かない。そもそも
今までも多くの固有ツール持ちの魔術師が引退したがツールを広く配布した、といったようなことはごく稀だ。
親から子へ、師から弟子へ、というケースはないではないが、そもそもそれほどに世代が開けば、
それでも、
だから「エクスカリバー」が「フロレント」を攻略し得るツールだったかどうかはもう分からない。
「ルキウス」と「アーサー」の対戦カードはもう組まれることはないのだから。
そんな考えを巡らせる余裕があったのは、侵入者は既にこの場を離脱していたから。
急ぎ、追跡しなければいけないがここまで来た侵入者なら向かう先は一つしかない。
イルミンスールの最奥、サーバ内の全てのデータを統括する基幹システム「
その成長の一環で分化した「Oberon」が義体制御OSとして現在稼働している。
多くの
「Oberon」を攻略すれば、最高の魔術師の名を欲しいままにできる、そう囁かれるイルミンスール。
攻略させるか、と「ルキウス」は「フロレント」を収め歩き出した。
しかし他のカウンターハッカーには連絡を入れない。
ここまで単騎で侵入した実力。侵入を敢えて察知されるような行動を取りつつもその行方を簡単に眩ます腕は確かなもの。ここまでの腕を持つ魔術師を他のカウンターハッカーが確保できるとも思えない。
俺の手で仕留める、「ルキウス」はそう呟いた。
しかし誰の手も借りずにいて取り逃した場合の責任は大きい。
逃げ道を塞ぐため、「ルキウス」は他のカウンターハッカーに連絡を入れた。
「第三層から第四層を封鎖。侵入者は単騎、実力は不明だが確かな奴だ。俺が当たる」
《了解、『ルキウス』。しかし二人ほど
「ルキウス」の言葉に対する返答は芳しくないもの。
亡霊級が二人? と「ルキウス」が唸る。
先程目の前から逃げた侵入者は腕は確かに思えたが自分を見て逃げたことを考えると「フロレント」の敵ではない。
しかし二人の亡霊級ももし基幹システムを目指しているとしたら流石の「ルキウス」でも荷が重い。
その存在を疑問視されるレベルで人知れず高度なハッキングを行い、消える亡霊級魔術師。
ネットワークの
その魔術師とも相見えあい、そんな思いもふと浮かび上がるが「ルキウス」は首を振ってその雑念を払い落とした。
今はそんなことを考えている場合ではない。
しかし、ふと「ルキウス」の胸に不安がよぎる。
何かとてつもなく悪いことが起こりそうな、自分の行く末を考えさせられるような何かが起こるような――不安。
魔術師は総じて勘がいい。直感的にハッキングができるこの時代、勘が悪ければすぐに喰われる。
だからこの不安もきっと的中する、そう、「ルキウス」は感じとっていた。
一体何があるのか。
侵入者を追跡すれば見ることができるのか。
逆に、今ここで引けば自分は平穏に終わる、という悪魔の囁きが聞こえてくる。
――厄介ごとに巻き込まれたくなければ、逃げろ。
「バカ……言うな……」
自分の内なる声に呟きで返す。
逃げるわけにはいかない。
それは自分がイルミンスール最強のカウンターハッカーだからではない。
イルミンスールを脅かす侵入者を野放しにするということが、単純に「ルキウス」の正義に反するから。
たとえ自分に不利な展開になったとしても必ず捕える。
そう自分に言い聞かせ、「ルキウス」はイルミンスールの最奥へ続く扉を見た。
咄嗟の機転で「ルキウス」を躱した匠音が荒い息を吐く。
別に激しい運動をした訳ではないのに心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴から汗が吹き出るような錯覚を覚える。
――あれが、「ルキウス」。
今まではスポーツハッキングの試合のアーカイブでしか見ることのなかった天才魔術師と対峙して、匠音ははっきりと認識した。
「『ルキウス』には、勝てない」と。
「ルキウス」が握る「フロレント」はただのデータの集まりに過ぎないにも関わらず確かに冷たさを感じた。
イルミンスール内部は別に「ニヴルング」のような五感共有型の空間にはなっていない。それなのにあの刀身から確かにゾッとするような冷気を感じた。
「敵」を前にした冷徹なる正義の騎士、それが「ルキウス」。
早く奥へ進まなければ、と匠音は奥へ続く通路を見た。
ここにいてはすぐに「ルキウス」に追いつかれる。早くブラウニーを見つけて、全てを解明しなければ何もかもが終わる。
ちら、と匠音が振り返って男を見る。
男は不敵そうな笑みを浮かべ、匠音の視界に映るイルミンスールの映像を眺めていた。
「怖いか?」
挑発するような男の声。
怖い。「ルキウス」を前にして勝てる目など全く見えない。
できるなら今すぐここで回線を切断して逃げてしまいたい。
しかしそれを許されるような状況ではないのも事実だった。
「シルバークルツ」のリアルを開示すると言う男と「シルバークルツ」を捕えようとする「ルキウス」。
今の匠音には逃げ道などない。
もし、逃げる道があるとすればそれは「ルキウス」を退けることだろう。
リアルを知る男は敵に回せない。まだ「ルキウス」を退ける方が現実味がある。
問題は、その「ルキウス」が天才魔術師でありイルミンスールの最強のカウンターハッカーであるということだ。いくら匠音が自分の技能に目覚めていたとしても現時点での実力は「ルキウス」に遠く及ばない。
それでも次遭遇した場合は戦うしかない、と匠音は唇を噛んだ。
自分を奮い立たせ、さらに奥へと足を踏み出す。
ほう、と匠音の後ろで男が声を上げた。
まだ折れていないのかと。
まだ戦う意思は残っているのかと。
匠音の視界の奥でちらりとブラウニーの後ろ姿が見える。
ブラウニーの上着を掴もうとするかのように手を伸ばし、匠音は――
「俺だって、いつまでもひよっこなんて言われたくないんだ!」
最後の扉を潜り抜けた。
淡い光に満たされた空間。
その中央に回路で構築されたような巨大な樹が聳え立ち、匠音を圧倒する。
無数のデータ片が樹の周りを舞い、きらきらと輝いている。
「これが……」
匠音は息を飲んだ。
初めて見るイルミンスールの中枢。全てのデータを集約したサーバのイメージマップ。
データ片が蝶のように匠音の周りを舞い、そして離れていく。
ここまで来てしまった。セキュリティも、トラップも、そしてカウンターハッカーも全て掻い潜り、イルミンスールの最奥へ。
あとはブラウニーを探すだけ。しかし本当にブラウニーはここへ逃げ込んだのだろうか。
罠ではないのか、と匠音は自問する。ここまで来たとしても無事に離脱できる保証はどこにもない。「ルキウス」もすぐにここまで追いついてくるだろう。
ぐるりと周りを見回す。
匠音の視界に、ちらりとブラウニーの姿が映る。
「いたぞ、ブラウニーだ!」
男が声を上げる。
匠音が咄嗟にその方向を見た。
ブラウニーが樹の枝に座っている。
枝の上で足をぶらぶらさせていたブラウニーが、匠音を見る。
「あ――」
匠音が手を伸ばす。
しかし、その手が届く前にブラウニーはひょい、と枝の上に立ち上がり、そしてまるで滝に姿を隠すかのように幹へと溶け込んでいく。
完全に姿を消す前にブラウニーはちら、と匠音を見た。
ブラウニーと目が合ったような気がして、匠音はどきりとした。
「こっちだ」と言わんばかりのブラウニーの視線。
まるで誘っているかのようなブラウニーに、匠音は戸惑いを隠せなかった。
先ほど聞こえた
「お前には真実を知る権利がある」というその声とブラウニーの関連性は分からない。
しかし、何故か思った。
ブラウニーと匠海に何かの関係があるのでは、という。
「何をしている、『Oberon』を調べろ!」
焦ったような男の声に、匠音は我に返った。
「『Oberon』?」
ちょっと待った、と匠音が男を見る。
「Oberon」とは義体の制御OSのはず。ブラウニーがイルミンスールの中枢に入った今、義体を調べて何が分かるというのだ。
男が違う、とかぶりを振る。
「『Oberon』は単なる義体制御OSではない。イルミンスールそのものを構築する基幹システム、義体制御OSはあくまでもそこから分化したものだ」
「な――」
匠音が絶句する。
何故、男がそんなことを知っている。
それとも、自分が知らないだけでこれは当たり前の事実なのか。
いや、それなら
「イルミンスールの基幹システムから義体の制御OSが作られて、二人三脚しているのだ」と。
まさか、と匠音が呟く。
この男は、イルミンスールの関係者なのかと。
しかしそんなことがあるはずがない、と匠音は自分の中で否定した。
イルミンスールの関係者がブラウニーの存在を認識しているのなら匠音のような魔術師、それもまだまだ中級者の域を抜けないような輩に調査を依頼するはずがない。イルミンスールの関係者で調査チームを作り、調査に当たるはずだ。
そう考えると、この男はイルミンスールとは無関係。
仮に関係者だった場合、イルミンスール運営に対して何かしらの背信行為を働いている可能性はある。
もしかしたら、勝ち筋が見えるかもしれない、と匠音は考えた。
この男が匠音をイルミンスールにけしかけたと証明することができれば。そしてもし男がイルミンスールの関係者であれば背信行為だと訴えることができる。
今はまだ男が作用させたウィルスによってオーグギアの録画機能は停止している。これをなんとかして作動させることができれば。
「さあ、『Oberon』を暴け。大切なのはブラウニーを捕獲すること、それができれば解放しよう」
そんなつもりはないくせに、と匠音が男の発言に内心毒づく。
匠音とてバカではない。男が自分を利用するだけ利用して使い捨てることくらいもう分かっている。
今はとにかく反撃のチャンスを待つだけ、男自身にしっかりしたハッキングスキルが存在しないのは予想ができる。
それならまだ反撃の余地はある。
だから今は素直に従うべきである。
分かった、と匠音は中央にそびえる樹に手を伸ばした。
セキュリティを確認し、指先に欺瞞用のツールをまとわせて幹に触れようとする。
と、咄嗟に匠音はその手を引っ込めた。
その目の前、樹と匠音の間を正確に斬撃波が薙ぎ払っていく。
斬撃波に巻き込まれたデータ片が凍結し、砕け散る。
匠音が斬撃波が飛んできた方向に視線を投げた。
「やっぱり、ってかもうここまで踏み込んでたか! だがここまでだ!」
そこに、豪奢な鎧を身に纏った騎士――「ルキウス」が立っていた。
もう、と匠音が「ルキウス」を見る。
あの時、確かに大量のデコイと煙幕を撒いて「ルキウス」を振り切った。
確かに考えられる行先はここしかないが、それでもここに至るまでには複数の通路もトラップも潜り抜けてきた。
いくらカウンターハッカーにそのトラップの回避権限があるとしてもこんなに早く追い付かれるとは思わなかった。
どうする、と匠音が自問する。
ここはイルミンスールの最奥。逃げるとすればイルミンスールそのものから離脱するしかない。
今ログアウトすれば離脱はできるかもしれない。しかし「ルキウス」ほどの魔術師ならそのログアウトの瞬間に「シルバークルツ」に
つまり、逃げることは不可能。戦うしかない。
しかし勝ち筋が全く見えない「ルキウス」にどう対抗すればいいのか。
ほんの少し迷った末に、匠音は「エクスカリバー」を抜いた。
使い方はまだ分からない。それでも単純な破壊ツールとしても超一流の性能を持っているこの剣なら斬り合ったとしてもまだ抵抗程度はできるだろう。
匠音が「エクスカリバー」を抜いて構えたことで、「ルキウス」も「フロレント」を抜いて構える。
抵抗する気か、と「ルキウス」は呟いた。
相手も「フロレント」の威力と性能は既に把握しているはず。それでも剣を抜いたということは抵抗するつもり。
実際のところ、侵入者に撤退という選択肢は存在しない。このイルミンスールの最奥まで到達しておいて、離脱できるとすればそれは誰にも発見されていない状態でのログアウトしかない。
しかし、現時点で侵入者は自分が捕捉している。ログアウトで逃亡したとしてもそのログアウト自体に
侵入者が「ルキウス」を目の当たりにして冷静さを欠きログアウトを選択しなかったことにほんの少しだけ敬意を払い、「ルキウス」は目の前の侵入者に視線を投げた。
赤い瞳に黒い髪、貴族のような服装は吸血鬼モチーフだろうか。そこにシルバーのチェーンや十字架の意匠のアクセサリが付けられたいかにも「ぼくがかんがえたさいきょうのまじしゃん」なアバターに苦笑する。
――子供か?
きょうび子供でもオーグギアは所持できる。子供の魔術師がいたとしてもおかしくない。
しかし子供でありながらイルミンスールの最奥に到達できたという事実は看過できない。
これは成長すればとんでもない、それこそ
もし、と「ルキウス」は思った。
この侵入者がもっと才能を開花させ、スポーツハッキングの世界に踏み込んでいたらどうなっただろうと。
もし、
そのどちらにせよ、もしかすると自分を上回るほどの実力を秘めた魔術師になるのではないかという予感が「ルキウス」の胸をよぎる。
今はまだイルミンスールの最奥に到達したとはいえ粗削りである。それでもこのハッキングをもっと極めることができれば。
惜しいな、とルキウスは思った。
いくらまばゆく輝く宝石の原石であったとしても研磨の途中で傷がつけばそれは宝石としての価値を失う。
この侵入者もまた、イルミンスールを攻めさえしなければ誰よりも、そう、自分よりもまばゆく輝ける最高の宝石になれたかもしれないのに、と。
いくら未来の宝石であったとしてもイルミンスールを攻めたことを看過してはいけない。
きちんと捕え、然るべき場所へ通報しなければいけない。
抵抗するというのなら徹底的に叩きのめすまで。
それでも、無駄な抵抗をさせたくなくて「ルキウス」は
「やめておけ」
「何を」
「ルキウス」の警告に反抗するように上げられた匠音の声はわずかに震えていた。
怯えているのか? と「ルキウス」が考える。
確かにイルミンスールのカウンターハッカーとして「ルキウス」は最強格である。スポーツハッカー時代を知っている魔術師であれば、いや、「ルキウス」の名を知っている魔術師であれば普通なら抵抗せずに逃げるか投降するだろう。
それでもそのどちらの選択肢も選択せず抵抗を選択した匠音だが、「ルキウス」に対する恐怖はぬぐえないと言ったところか。
もう一度、「ルキウス」が警告する。
「やめておけ、お前の実力で俺に勝てるわけがない」
「それは……そうだけど……」
剣を構えた匠音が震え、掠れた声で呟く。
「だけど、俺はここで何も知らずに捕まるわけにはいかない!」
剣先が震えているにもかかわらず、匠音ははっきりとそう言った。
「何も知らず? イルミンスールなんてお前のようなガキが暴くもんじゃねえよ!」
「フロレント」の切っ先をまっすぐ匠音に向け、「ルキウス」が声を荒らげる。
「ふざけんな、ガキはガキらしく学校行ってろ! イルミンスールのことが知りたきゃそのハッキングの腕をもっと磨いて一般枠で
「ルキウス」が床を蹴る。
「フロレント」を上段に振りかぶり、匠音に向かって突撃する。
相手も剣形状のツール――恐らく破壊系ツールだろう――を構えているが「フロレント」は斬ったものを即座に凍結させる
殺った、と「ルキウス」は「フロレント」を振り下ろした。
それを受けようと侵入者も剣を構え直す。
しかし、「フロレント」が匠音の剣に触れる直前、異変が起こった。
まるで時間が止まったかのように「ルキウス」の動きが止まる。
「え――」「な――」
匠音と「ルキウス」が同時に声を上げる。
――どういうことだ?
この停止には心当たりがある。自分が相手によく使う「凍結」だ。
――俺が、凍結された――?
目の前の、怯えて震える侵入者に?
いや、違う、と「ルキウス」は直感的にそう思った。
そう思っている間に、「フロレント」を含めた「ルキウス」全体が結晶に包まれるかのように凍結していく。
目の前の匠音は何が起こったのか分からない、といった顔で「ルキウス」を見ている。
やはりこの凍結は侵入者によって起こされたものではない。
いや、この凍結は何かがおかしい。
普通、魔術師同士の戦いで凍結すればそれはツールやアバターの不活性化が行われるだけであって、即座に現在地でのアバター維持を破棄すれば
しかし、「ルキウス」は凍結されたと気づいた瞬間に現在地から離脱しようと操作したがそのアクセスは拒否されていた。
「ルキウス」の視界に【
「――は?」
嘘だろ、と「ルキウス」は声を上げた。
いくら魔術師であっても運営の管理者権限を取得するのは困難を極める。
イルミンスールほどの高レベルセキュリティ運営ともなればアカウントの管理に複雑な暗号化が使用され、復号するにもかなりの時間がかかる。
こんな短時間で運営のアカウントを乗っ取り、アカウントを停止させるさせることなど「ルキウス」でもできない。
まさか、先程報告を受けた亡霊級の魔術師がここに来たのか、と「ルキウス」は考える。
それにしてはここには自分と目の前の匠音以外にアバターの気配はない。
アバターが存在しないということは考えられる可能性として「ルキウス」が認知していない新手の
「
オーグギアでなく旧世代PCを使うハッカー、
しかし、相手が魔法使いであるなら納得できる。
魔法使いは魔術師にはできないハッキングも難なくこなす。運営のアカウントを乗っ取ることも朝飯前なのかもしれない。
問題はその魔法使いが目の前の侵入者の仲間か否か。
何とかしてアカウントの停止を解除させようと上長に連絡しつつも「ルキウス」は凍結が進む自分のアバターを離脱させようともする。
その「ルキウス」の前に黒い人影が姿を見せた。
「残念、魔法使いではないんだよ」
黒いローブに身を纏い、フードを目深にかぶったアバター。
「なっ」
自分と「ルキウス」の間に現れたアバターに、匠音も声を上げる。
その声は
どうやってここに来た、まさか自分のパスを使ってショートカットしたのか、と匠音が振り返って男を見る。
「『ルキウス』、君は仕事をしすぎた。しばらく休んでいてもらおう」
「どういう、ことだ」
男の言葉に「ルキウス」が呻く。
魔法使いでもなく、目の前の男は魔術師であるようにも見えない。
そう考えると、この男は、まさか――運営?
いや、あり得ない。運営がイルミンスール中枢まで侵入した侵入者を庇うなどということはあり得ない。あってはいけない。
それとも、侵入者だと思っていたが何かカウンターハッカーにすら通達できないような緊急事態が発生していて、対策を依頼していたとでもいうのか。
それはそれであり得ない話である。
仮にイルミンスール中枢に何かしらのトラブルがあった場合は専門の対策チームが派遣されるはずであり、その際に全カウンターハッカーにその旨が通達される。
一介の魔術師に対策を依頼するようなことはイルミンスールの機密保持上絶対にありえない。
絶対は存在しないと言われたとしても、絶対と言っていいほどあり得ない状況。
いくら緊急事態であっても最初は対策チームが派遣されるはずだ。その上で手に負えないとなれば亡霊級の魔術師を探し出して対策を依頼するだろう。
その点でも今ここにいる匠音は到底亡霊級の魔術師とは言えない。
どう考えても子供だと思ったからガキと呼んでいたが、そんな子供に見える魔術師がイルミンスールを修復できるほどの腕を持っているはずがない。
ますますこの男が、イルミンスールの管理者権限を持っている男が匠音を庇った理由が分からない。
「ルキウス」の凍結が進み、首まで氷に包まれていく。
「くそ、こんなところで……!」
アカウントの停止が解除されない限りどうすることもできないが、今ここで完全に凍結されるのはまずい。
完全に凍結されればアバターが砕けてホームに戻り、再度ここに来ることになるが道中を封鎖させているうえにアカウントが停止されているためイルミンスールにログインすることすら許されない。
せめてアカウント停止さえ解除させなければ。
「『ルキウス』、君はしばらく休め。今ここで彼を通報されるわけにはいかない」
そう言って男が指を鳴らす。
「ルキウス」の全身が瞬時に凍結し、砕け散る。
「……くそ、侵入者に手を貸す、のか……!」
悔し気な言葉を残し、「ルキウス」がその場から離脱する。
「……さて」
男が振り返り、「シルバークルツ」を見る。
「邪魔者は排除した、君は『Oberon』を暴いてブラウニーを捕獲しろ」
「な……」
匠音が掠れた声を上げる。
信じられない。
「ルキウス」をアカウント停止にして排除する、そんなことができるのは確かにイルミンスールの運営だけだろう。
しかし何故、イルミンスールの運営が自分を庇う。いや、自分をイルミンスールの中枢へと向かわせる。
それでも、匠音は確定した、と思った。
この男はイルミンスールの関係者どころではない。運営に携わっている立場の人間である。
その立場の人間がどうしてブラウニーを。
もしかして、運営の立場であっても個人で何かしらを掴んでいて、より高い立場へ行くための足掛かりとしてブラウニーを求めているのか。
分からない。何も分からない。
ただ一つ分かることは、この男がブラウニーを求めているということだけ。
そのブラウニーは、もしかすると父親と関係があるのかもしれない。
それを知っているから男は匠音を呼び寄せたのか?
謎ばかりが匠音の脳裏をぐるぐると回る。
危険だ、という直感が匠音に警鐘を鳴らす。
これ以上追跡してはいけない。たとえ通報されたとしてもブラウニーを暴き出そうとしてはいけない。
それはイルミンスールの基幹システムとしての「Oberon」を暴くことになる。
確かに「Oberon」は魔術師にとっていずれは挑むべき目標であることは確かだろう。しかし、今の匠音が「Oberon」を暴いたとしても今後の自分のキャリアへの足がかりになるとは思えない。
「……無理だよ、危険すぎる」
匠音が首を振って拒絶する。
だが、男のアバターは「シルバークルツ」の頭を掴み、「Oberon」を構築している樹に向かせた。
「無理ではない、やるんだ」
男の力は強く、「シルバークルツ」は振りほどくことができない。
「ここまで来て『危険だからやめろ』だと? 『ルキウス』を凍結した今しかチャンスはない、やれ!」
どん、と男が匠音を突き飛ばす。
よろめいた「シルバークルツ」が樹の前で膝をつく。
「そんな……」
嫌だ、暴きたくない、と匠音が呟く。
仮に自分の勘が正しく、ブラウニーと匠海に何かしらの関係があったとしてもそれを暴きたくない、匠音はそう思った。
同時に思う。
義体制御OS「Oberon」を開発したのは確かに匠音の母方の祖父、
その日和の本来の専門は脳科学だと聞いている。
その脳科学で、脳内のニューロンネットワークを模倣することで「Oberon」は開発されたと聞いている。
だから義体制御OSとしての「Oberon」は高度なAIを有し、オーグギア上で人間と会話するかのように各種設定を行うことができる。
そのAI技術がイルミンスールの基幹システムとして機能しているのも分からない話ではない。「Oberon」ほどのAIならイルミンスールの管理くらい簡単にできるだろう。
だが、もし。
もしもその「Oberon」がヒトを模したもので、そのサンプルモデルとして使われたのが匠海であれば――?
いや、そんなはずはない、思考が飛躍しすぎている、と匠音は首を振った。
ブラウニーと匠海の声は別のものだ。オカルトな話になるが、匠海の霊が匠音にアドバイスしているだけだ。それを科学的に否定するなら匠音の隠された才能が聞いたばかりの匠海の声を再現してアドバイスしているだけだ。
日和が「Oberon」の開発に携わったのも人のニューロンネットワークを模倣するという研究が今後のAI開発に役立つと思われたからだ。
だから、ブラウニーと匠海に関係があるはずがない。
そう、匠音は自分に言い聞かせる。
だから、暴いたとしても何も出てこない、と。
それでも匠音は「Oberon」を暴くのが怖かった。
――もし、俺の考えが正しかったら。
とてもおぞましい計画が動いていたのだと。それを利用しようとしている人間がいるのだと。
無理だ、できるわけがない。
そう思いつつも、匠音には男の要求を拒むことはできなかった。
もう、どうあがいても、詰み。
それならせめて「Oberon」を暴いて、真実を知ってから消された方がいい。
両手を握り締め、匠音は歯ぎしりした。
「……分かったよ、やるよ」
苦しげに匠音は呟いた。
「そんなにもブラウニーを捕まえたいなら、捕まえてやるよ」
しかし、それでも男に一矢報いたい。
そのためにも、今は耐えるしかない。
たとえ自分が消されることになったとしても、この男だけは、と。
「シルバークルツ」が立ち上がり、両手に欺瞞ツールをまとう。
「……行くぞ、『シルバークルツ』。今が踏ん張りどころだ」
そう呟き、匠音は樹の幹に、「Oberon」にそっと触れた。
to be continued……
「世界樹の妖精 -Brownie of Irminsul- 第7章」のあとがきを
以下で楽しむ(有料)ことができます。
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