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世界樹の妖精 -Brownie of Irminsul- 第1章

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  序

 ――その日、俺は「騎士」を見た。

 

 いつものことだが、俺はその日も喧嘩をした。
 なんてことはない、いつもの日常。
 俺の遊び場、世界中から人が集まり思い思いに過ごす巨大仮想空間メタバースSNS「ニヴルング」で、俺は大人に突っかかった。
 そいつは雑に作ったゴミデータをゴミ箱に入れる事なく放置した。
 俺は自分の遊び場をエラー落ちされ汚されたくなくてそいつにゴミを叩き返した。
 この空間は管理されてるとは言え、どんなデータがどんなエラーを起こすか分からない。
 でも、子供心に「不要なデータはきちんとゴミ箱で削除しなきゃいけない」と思っていた。
 それと、俺は正義のヒーローに憧れてたんだ。
 周りにはヤンチャな悪ガキと言われてたけど、俺は正しいと思ったことをずっとやってた。
 ただ、それが行きすぎて悪ガキだと言われてたと気づいたのはもっと後のことだがな。
 正義のヒーローは悪を許さない、だから俺は無鉄砲にもゴミを捨てた大人に突っかかった。
 いつもなら、それで終わったはずだ。
 「ニヴルング」で暴力沙汰を起こせば即運営にBANされる。だから、いくらマナーの悪い奴でも他のユーザーに危害を加えることができず、そのままログアウトするか良心のある奴はちゃんとゴミを処理してくれる。
 それなのに、今回の「悪い大人」はそのどちらでもなかった。
 いきなりナイフを抜いて俺のニヴルングでの肉体アバターに突き刺した。
 視界にノイズが走ると同時にあの時感じた痛みは忘れない。
 刺されたのはアバターだし、そもそもニヴルングはフルダイブ型のメタバースSNSだが痛覚はオフに設定されている。
 それなのに、俺は確かに激痛を感じた。
 声を出したくても出せなくて、身動きもできなくて、それで俺は気づいたんだ。
 「こいつは、魔術師ハッカーだ」って。
 ARウェアラブルデバイスオーグギアは気軽にハッキングができる。ゲーム感覚でできるし実際、eスポーツの一種としてスポーツハッキングがある。何年か前に母さんと観戦して「俺もやってみたい」と駄々を捏ねて困らせたこともある。
 でも母さんは何故か俺がハッキングに興味を持つことに反対して、それ以来は試合を見せてくれなかったっけ。
 とにかく、ハッキングが気軽にできる今、悪意さえあれば簡単に社会に迷惑をかけることができる。
 目の前の奴も、そんなハッカーだった。
 初めて見た悪意あるハッカーに、俺は何もできなかった。
 ナイフで刺されたところから「何か」が侵入してくるのが分かる。
 あの時は何か分からなかったが、今思えばあれは自律行動ウイルスワームの一種だったのだろう。それは俺のアバターを侵食して、さらにオーグギアまで侵入しようとしてきた。
 侵入検知のアラートが表示されるが、生身現実の自分が何をやっても反応すらしない。
 このままじゃオーグギア内の個人情報を抜かれるのはなんとなく分かった。
 個人情報を抜かれた結果のことまでは分からなかったが、あの時はただなんとなく友達ダチや母さんが現実世界で襲撃リアルアタックに巻き込まれるんじゃないかって思った。
 俺のせいで周りに迷惑かける、って確かに思ったが、あの時の俺はもうどうすることもできなかった。
 でも、その時俺は見たんだ。
 白銀の光が煌めいて飛んできたのを。
 直後、俺はハッカーの叫び声と共に硬直が解けて侵食から解放されて尻餅をついた。
 見上げると、ハッカーの右の肘から先が無くなって、凍結を始めていた。
 ハッカーが叫びながらこっちを見る、が、見てるのは俺じゃなかった。
 そっちに視線を投げると、まず、冷気を纏った白銀の剣先が見えて、それから豪奢な装飾の鎧を身に纏った騎士が見えた。
 ハッカーがなおも叫びながら残った左腕を突き出して棘のような何かを射出したが、騎士はあっさりとそれを切り払う。
 棘が凍結して、「ニヴルング」の床に落ちて、砕けたのを見て俺はこの騎士もハッカーなんだ、と思った。
 ハッカーが、別のハッカーに襲われた俺を助けてくれた。
 ハッカーなんて自分を邪魔する他人以外には興味ないと思っていた。
 それなのに、この騎士は俺を助けてくれた。
 騎士がもう一度剣を振り、俺を刺したハッカーの首を落とす。
 ハッカーのアバターが完全に凍結して、砕けて、そして、多分通報される。
 その時の俺は尻餅をついたままただ黙って見ているしかできなかった。
 この騎士が振るった剣が凍てつく皇帝の剣フロレントという名前だと知ったのはしばらく後のことだ。
 斬るだけでなく、斬撃波を飛ばすことで相手を凍結させる、最強の独自ツールユニークの一つで名高い独自ツール騎士殺し
 優秀なハッカー――界隈では魔術師マジシャンと呼ばれている――は自分で自分だけのハッキングツールを編み出すという。
 それが独自ツールで、その魔術師のアバターに次ぐシンボルであり誇りだ。
 そんな、最強の剣を持った騎士が俺に声をかけてきた。
「大丈夫か? ったく、子供ガキが考えなしに大人に突っかかるもんじゃねえよ。どんな悪意で反撃してくるか分かんねえからな」
 その声で思い出した。
 あの、母さんと初めて見たスポーツハッキングの大会決勝戦で優勝したスポーツハッカー、「ルキウス」。表彰時のインタビューで聞いた声を思い出して、俺はこの騎士があのルキウスなんだと気が付いた。
 ルキウスの独自ツールがどんなものかあの時、いやこの時も分からなかったが、この事件の後母さんの目を盗んでニュースや雑誌のバックナンバーを見て俺はルキウスがあの大会後すぐにヘッドハントされてスポーツハッキング界を引退、現在はこの「ニヴルング」有する世界樹メガサーバの一本、「イルミンスール」の最強の監視官カウンターハッカーとして働いていることを知った。
 とにかく、俺は傍らに立つ白銀の剣を持った騎士ルキウスを見上げて決めたんだ。
 ――俺もハッカーになる。
 凛々しく、堂々とした姿でハッカーを打ち倒すハッカーに。
 ルキウスこの人のような、正しくまっすぐな、最強のハッカーに、と。

 

 

  第1章 「『Silberkreuz銀十字』と名乗る少年」

「おっちゃん悪ぃ、遅くなった!」
 遅刻遅刻と一人の少年がスクールバスに駆け込み乗車する。
「大丈夫だよ、まだ来てねえ奴もいるしな――お前さんの彼女みたいに」
「はぁ?!?! メアリーはカノジョじゃねぇっての!」
 運転手の言葉に顔を赤くしながら反論する少年。
「はははそうかぁ? お前さんたち、お似合いだと思うがなあ……」
 ったくもう、と言いながらも運転手に茶化された、周りの生徒とは見た目が違う少年――明らかに黒髪の日系人である――が先に乗っていた何人かの友人とハイタッチしながら通路を進んでいく。
 中学校ミドルスクールから高校ハイスクールに上がってまだ半月も経っていないが、中高一貫のPrep School私立なのでバスのメンバーは見慣れた友人ばかり。
 スクールバスは誰がどのあたりに座るかだいたい決まっている。
 彼もいつもの座席に座り、窓の縁に頬杖をついていると、
「ねえねえ聞いて!」
 後ろの座席で女子が会話する声が聞こえてきた。
 大半の授業はオンラインになったものの週に一度ある登校日、乗り慣れたスクールバスはいつものルートを走り、生徒をハイスクールへと連れて行く。
 まだ乗っていない生徒もいるということで発車はまだだったが、女子のそんな声に「女子ってほんと噂話が好きだなぁ」と少年――永瀬ながせ 匠音しおんは呟いた。
「昨日、『ニヴルング』で変な人に絡まれたんだけどね、あの人が助けてくれたの!」
「あの人って?」
「ほら、あの人よ! 最近噂の『Silberkreuzシルバークルツ』様!」
 「シルバークルツ」の名前が聞こえた瞬間、匠音は思わず後ろの席に振り返ろうとし――それをぐっとこらえて耳をそばだて始めた。
「『ニヴルング』で困ってる人を助けるっていう『シルバークルツ』様?!?! やっぱり、イケメン?」
「勿論! アバターだからイケメンに決まってるけど、『シルバークルツ』様のことだもの、きっと中身もイケメンよ!」
 きゃー! と女子の黄色い叫び声が車内に響く。
「イケメンかぁ……」
 浮かんでくるにやけた笑みに気付かず、匠音は窓の外を見た。
 バスは少々遅れてきた最後の生徒を乗せ終わったのか、電気自動車故にその車体を大きく震わせることなく滑るように動き始める。
 朝から気持ちがいいな、と匠音が相変わらずにやけ顔で窓の外を見ていると、不意に頭を雑誌ではたかれた。
「ってえな! なにすんだよ!」
 せっかく人がいい気分に浸っていると、と匠音が通路側を見ると、ちょうど一人の女子生徒が隣に座ったところだった。
「朝からなにニヤニヤしてるのよ匠音、気持ち悪いわね」
 少し癖がかかった赤毛レディシュの、頬にそばかすが少し残っている少女。
 最後に乗ってきたのはこいつだったか、などと思いながら匠音は口を開いた。
「なんだ、メアリーか。おはよ」
 お前が遅れてくるとか珍しいよな、と幼馴染の少女――メアリー・ルチア・ペレスに声を掛ける。
「ごめんごめん、この間のスポーツハッキングのドキュメンタリーシリーズのアーカイブ見てたらうっかり全話見ちゃって」
「マジかよ、お前、ほんとスポーツハッキング好きだよな」
 そう、返事しながらも匠音は後ろの女子の会話を聞き漏らさないように耳をそばだてている。
 しかし、女子の話題はすぐに切り替わるもので、話の内容は既にシルバークルツの物ではなく次の話題へと移り変わっていた。
「そういえば、最近小人妖精ブラウニーが出るって噂聞かない?」
「あー、聞いた聞いた!」
 後ろの席の女子二人の会話が弾んでいる。
 ちぇ、話題変えるの早いっての、と匠音が毒づく。
 せっかくシルバークルツ自分の評判聞けると思ったのに、そもそもメアリーが邪魔してくるから最後なんて言ってるか聞きそびれたし、と恨めしそうにメアリーを見ると、彼女は相変わらず「だから男子は」と言いたげな顔で匠音を見ていた。
「なによニヤニヤしたりムスっとしたり気持ち悪いわね」
 何も知らないメアリーがそう言うが、匠音にとってシルバークルツの話題は重要である。
 最近、巨大仮想空間メタバースSNS「ニヴルング」で困っているユーザーを手助けするという謎の魔術師マジシャン、シルバークルツ。
 「銀十字」の名を冠したその魔術師ハッカーは「ニヴルング」内でトラブルに巻き込まれるとどこからともなく現れ、そしてトラブルを解決して姿を消すと言われている。
 そのシルバークルツの正体こそ匠音であったが、彼を知る者は誰も彼がハッキングを行っているとは夢にも思っていないしそもそも「ニヴルング」内でのハッキングはご法度である。バレれば未成年であるがゆえに確実に親に連絡が飛ぶ。
 それでも、匠音はシルバークルツとしての活動をやめようとはしなかった。
 ――あの時、誓ったから。
 以前、匠音がシルバークルツとして活動する以前のことだ。
 彼は一人の魔術師に知らずとはいえ喧嘩を売り、返り討ちに遭った。
 その際あわや個人情報を抜かれるところで彼を救ったのが、
 ――「ルキウス」……俺は、近づけてるんだろうか。
 「ニヴルング」有する「二本目」の世界樹、「イルミンスール」の守護者カウンターハッカー、「ルキウス」だった。
 豪奢な鎧をまとった騎士は己の武器ユニーク一本で匠音を襲った魔術師を撃退した。
 それを見て、匠音は思ったのだ。
 「ルキウスこの人のような、正しくまっすぐな、最強のハッカーになる」と。
 そこから匠音の魔術師としての道は始まったわけだが、こうやって噂されるほど名を上げたかと思うとにやつきが止まらない。
 それも話題が変わってしまったために終わってしまったが。
 舗装があまり良くないのかガタゴトと揺れるバスの中で、後席の女子の会話も弾んでいる。
「なんか最新の義肢義体でトラブルが発生するとブラウニーが出てきて応急処置してくれるって話でしょ? ほんとにそんなことあるの?」
 なんだ義体の話かと匠音がじゃあいいかとメアリーとの会話に戻ろうとする。
 しかし、メアリーもこの話が耳に入っていたようで、「分かる分かる」と首を縦に振っていた。
「何だよメアリー、気持ち悪いな」
 匠音が思わずそう言うと、メアリーは「いやだって分かるし」と反論する。
「あたしは見てないから本当かどうか分からないけど、こうやって耳に入ってくると嘘じゃないかもって思うじゃない」
「だから何が」
 そう、匠音が尋ねるとメアリーは一瞬周りを見まわし、それから少し声のトーンを落とした。
「義体のトラブル時に現れるブラウニーの話よ。あたしの伯父さん、事故で片腕無くしたって知ってるでしょ?」
「あ、ああ」
「その伯父さんが見たって言うのよ」
 ブラウニーを? と匠音も声のトーンを落とす。
「うん、伯父さんって車を運転するのが趣味でそれで事故って腕無くしてるのにそれでもまだ自分で運転しててさ、その時に義体が不具合起こしたのよ」
「やばいな、それ」
 でしょ? とメアリー。
「生身の腕だけじゃ暴走した義体を止めることができなくてあわや事故、って時にブラウニーが出てきて応急処置してくれたって。結局、また軽い事故起こしちゃって伯母さんに『もう運転しないで!』って言われたんだけどブラウニーが応急処置して暴走を止めてくれなきゃ伯父さん今頃死んでたかもって」
 へえ、と匠音が頷いた。
 先ほどは自分の話題を邪魔されてムカつきもしたが、メアリーの話はこれはこれで興味がある。
 きょうび車は自動運転が当たり前だというのに未だに自動運転を信用しない、または自分で運転してこその車だと主張する人間もそれなりにいる。
 流石にメアリーの伯父はもう運転させてもらえないだろうが、それでも実際にブラウニーが現れて応急処置するとは興味深い。
 義体はここ十年ほどで急激に普及した義肢ではあるが、その基本制御は量子通信を行うARウェアラブルデバイスオーグギアによって行われている。勿論、義体自体にもOS自体は組み込まれているがそれを外部から制御するのにオーグギアが使用されている、という寸法である。
 そのため外部の人間が義体装着者のオーグギア、または義体のOSそのものをハッキングして不具合を起こさせる犯罪も時折起きるがそのうち数件は大事になる前に解決しているという。
 それもブラウニーの仕業かもしれないな、と匠音はふと思った。
 人知れず現れて、大事件が起きる前に解決させて去っていく。
 これはまさしく匠音が目指す「正義の魔術師」像だった。
 そのためにはまだまだ知識も実力も足りない。
 「ニヴルング」内でのトラブル――喧嘩やナンパといった迷惑行為や決済システムの隙を付いたデジタルカツアゲ程度なら阻止できるが、あの時、ルキウスと出会った時のような他人のオーグギア奥深くに侵入するようなトラブルにはまだ対処できない。それでも 、いつかは。
 しかし、疑問も残る。
 メアリーの噂話でも「ブラウニー」という単語が出てきたがそれはただ義体のOS自体にエラーの自動修復機能があって、それがただブラウニーの形をしたインターフェースとして見た目に修復したと分かるようになっているだけではないか、というもの。
 この義体の制御OSは開発元から「Oberonオベロン」と紹介されている。
 ちなみにこの「Oberonオベロン」開発の立役者こそ匠音の母方の祖父である佐倉さくら 日和ひよりであり、匠音も会ったこともある。
 それはそれとして、オベロンと言えばかのシェイクスピアの古典「真夏の夜の夢」に登場する妖精王である。
 妖精というからには姿も小人のように小さいだろう、というイメージを持っている匠音は「ブラウニー」はOberonそのものではないか、と考えた。
 この十年で義体は普及し、その間に様々なアップデートも行われてきたはず。トラブル時に装着者の不安を少しでも取り除くために自己修復機能が妖精王の姿をして対応しているだけだ。
 システムの基本かもしれないが、それでも匠音が目指しているものに近い。
 ――結局、正義の魔術師ってそういうものなんだよな。
 そう、匠音が思っていると。
「そう考えるとシルバークルツとか何なのよ。ハッキングでいやがらせ行為ナンパとか止めてくれてるみたいだけどなんかいかにも『オレはできるんだぜ』ってアピールしてる感じで、それなら義体の不具合を直してくれるブラウニーの方がよっぽど謙虚で好感持てるわ」
「なにをう!」
 思わず立ち上がり、匠音が声を荒げる。
 と、同時にバスが大きめの石を踏んだかひときわ大きく揺れて彼は座席に尻もちをついた。
「おい、匠音の奴何やってんだよ」
 周りからそんなヤジが飛んでくるが匠音はそれに構ってなどいられなかった。
「流石にそれは言いすぎだろ!」
「あら何よ、シルバークルツの肩持つの?」
 飄々としたメアリーの物言いに、匠音はぐっと言葉に詰まる。
 自分がシルバークルツ本人であること、いや、ハッキングを行っていることを誰にも知られてはいけない――特に母親に。
 ――匠音、貴方はハッキングの世界に踏み込んじゃダメ。
 ――どうして!
 ――どうしてもよ。
 かつての母親とのやり取りを思い出す。
 そして、そのたびにその時の母親の悲し気な眼を思い出す。
 だからと言ってハッキングをやめることは匠音にはできなかった。
 いくら母親に反対されようとも、あの日のあの誓いだけは捨てたくなかったから――。
 反論できず、匠音が唇を噛み締め拳を握った時、バスは正門前に到着した。
 校内に入り、メアリーと隣同士のロッカーに荷物を入れる。
「ところでさ、あんた、シルバークルツなんかに憧れてるの?」
 不意に、メアリーがもう終わったと思った話題を蒸し返してくる。
「シルバークルツ『なんか』って……」
「そんな小さい人助けしかしてないハッカーなんかよりスポーツハッキング見なさいよ。例えば『キャメロット』のトリスタン様とか!」
 うっとりと、メアリーがそう言い、ロッカーの扉の裏に貼ってある一人のスポーツハッカーのブロマイドを撫でる。
「トリスタン様凄いのよ! またGougleゴーグル杯でチームを優勝に導いたって!」
「お前、ほんとトリスタン『様』ばっかりだよな。永瀬家うちがスポーツハッキング観戦禁止なの知ってるだろ」
 匠音は幼い頃母親に連れられてとあるスポーツハッキングの大会決勝戦を見たきり表立ってスポーツハッキングの観戦をしたことがない。
 あの決勝戦の迫力に、匠音はスポーツハッキングの魅力に憑りつかれた。
 その時に母親に言ったのだ。「自分もやってみたい」と。
 そう言ったときから、母親は変わった。
 頑なに匠音がスポーツハッキングに手を出すことを禁止した。
 ひどいときはニュースでスポーツハッキングの話題が出ただけでチャンネルを変えるまでに。
 最近ではそこまで厳しくはなくなったが、それでもスポーツハッキングの観戦も実際に体験することも許してくれない。当然、独学でハッキングを勉強し現在シルバークルツとして活動していると知られたらもしかするとオーグギア没収もあり得る。
 それでも、匠音は諦めたくなくて時折メアリーが購読しているスポーツハッキング専門誌「スポーツハック・マニアクス」は読ませてもらっているし大会映像のアーカイブを見ていたりする。
 それも幼馴染であるメアリーがたまたま熱狂的なプロスポーツハッキングのファンだったからだが、彼女がそうでなかったとしても匠音はファンの友人を探して頼み込んでいただろう。
 メアリーはメアリーで身近にスポーツハッキングの試合を語り合える同士が欲しかったのだろう、幼馴染ということもあり匠音の頼みを快諾している。
「そういう匠音は誰のファンなのよ。ま、トリスタン様に比べたらみんな大したことないけどね」
 メアリーがガチ恋レベルでトリスタンの大ファンということだけが玉に瑕だったが。
 俺か、と匠音が呟く。
 俺が尊敬しているのは、と少しだけ考えるようなそぶりを見せ、
「俺は、ルキウスだな。『エンペラーズ』の」
「ルキウス……?」
 一瞬、「誰だっけ?」と考えたメアリーだったがすぐに思い出したように声を上げる。
「何年前の人よそれ! もう十年も前に引退した人でしょ?!?!
 そう言って、メアリーがバタンとロッカーを閉める。
 匠音も負けじとロッカーを閉め、「いいだろ?」と反論する。
「俺にとって後にも先にもあの人が目標なんだよ!」
 引退した後もルキウスの剣さばきは鋭かった。
 容赦なくハッカー違反者を撃退したあの姿は初めてで唯一のリアルタイム観戦で見た時と全く変わりなかった。
「言っとくが、ルキウスは今イルミンスールでカウンターハッカーやってんだぞ、下手すりゃお前のトリスタンよりずっと強い!」
「……分かるわよ、それくらい」
 驚くほどあっさりと、メアリーは肯定した。
「匠音、分かってんの? ルキウスの独自ツールユニーク。あれは当時最強と言われたトリスタン様のチームメイト、ガウェインの『万物灼き尽くす太陽の牙ガラティーン』を退けたたった一つのツールよ?」
 それは匠音も知っている。「凍て付く皇帝の剣フロレント」、あの動作を目の当たりにして彼はルキウスの強さを知った。
 それだけではない。ガウェインの「ガラティーン」ですら退けるほどの強さを持ちながら、それに驕らない心の強さも。
 あの事件以降、匠音はメアリーに協力してもらってルキウスの足取りを辿った。
 初めて見た試合の直後にイルミンスールを保有するFaceNoteフェイスノート社からのヘッドハンティングを受け、スポーツハッキング界から引退したルキウス。
 当時はイルミンスールも建造直後でルキウスはその初期メンバーとも言えよう。
 腕のいいスポーツハッカー、いや、才能に秀でた人間は周りの称賛で時に堕ちることもある。「自分は選ばれた人間だ」と勘違いし、高慢にふるまい評判を落とすことがある。
 だがルキウスは決してそんなことにはならなかった。
 今でもイルミンスール最強のカウンターハッカーとして、「正義の守護者カウンターハッカー」と呼ばれ慕われている。
 あの人に近づきたい、と匠音は思った。
 あの人のように、正義の魔術師になりたい、と。
 そんなことを考えながら、匠音はメアリーと連れだって教室に向かう。
 今日の授業はリアルでのディベートと体育だったよな、と時間割を思い出しながら歩いていると。
 不意に、メアリーが走り出した。
「おいメアリー! どうしたんだ?」
 慌てて匠音がメアリーを追いかける。
 走り出したメアリーはすぐに、とある教室の前で立ち止まった。
「おい、どうしたんだよメアリー急に走り出して!」
 そう繰り返しながら、メアリーに追いついた匠音が彼女の視線の先を見る。
「……あれ、ミカじゃねえかどうしたんだ?」
 メアリーの目の前にいたのは彼女や匠音と同じく、今日の授業で社会科学を選択していたクラスメイトだった。
 匠音にミカ、と呼ばれた女子生徒が怯えたように彼を見る。
 その目は真っ赤に晴れており、明らかに泣いていた、いや、今現在も泣いている。
「え、ちょ、ミカ……」
 うろたえる匠音をよそ目に、メアリーがミカの肩を抱く。
「どうしたのミカ、何があったの」
 メアリーに訊かれたミカの目から大粒の涙がこぼれる。
 何度もしゃくりあげながら、ミカは、メアリーに縋りついた。
「あの、あいつが……ジョンソン先生が……」
 そう、声も途切れ途切れにメアリーに訴えかける。
「さっき、先生の部屋に来いって言うから行ったら……わたし、先生に……」
 そう言って、ミカがさらに涙をこぼす。
 メアリーはというと、「ジョンソン先生」という名前を聞いた瞬間に顔をこわばらせ、身かを抱きかかえる腕にさらに力を込めていた。
「あの、エロジジイ……!」
「え、なにジョンソンがどうしたの」
 部外者となっている匠音はただおろおろするしかできない。
 メアリーが「男子は黙ってて!」と一喝し、さらに詳しく話を聞く。
 なんなんだよ、女子は分からねえと思う匠音であったが、メアリーの反応と時々聞こえてくるミカの言葉からなんとなくの予想はついた。
 ――ジョンソンの奴、気に入った女子に声かけてるって噂あったもんな。
 匠音の推測としてはこうだ。
 ジョンソンは気に入った女子を自分の控室に呼びつけ、何やら良からぬこと、それも女子の心に深い傷を負わせるようなことをしている――。
 今はたまたまミカが被害に遭った直後に出くわしたから気が付いたが、以前もきっとそのようなことを何度も行っていたに違いない。
 知らず、匠音の拳が固く握りしめられる。
 ――こんな奴、誰も何もしないなら俺が――。
「匠音?」
 メアリーの声にハッとする。
「な、なんだ」
「とりあえずミカを保健室に連れてく。あんたも来る?」
 ああ、と匠音は頷いた。
 授業まではまだ時間がある。メアリーが自分を頼ってくるならそれに付き合った方がいいだろう。
 泣き続けるミカの肩を抱いて歩くメアリーのテキストを代わりに持って歩きながら、匠音は、
 ――どうすればジョンソンの鼻を明かせるだろう。
 そう、考えていた。

 

 登校日ならではの全校集会の後、それぞれが自分のカリキュラムに合わせて選択した授業の教室に移動する。
 午前中はメアリーと同じ社会科学の授業でそれぞれが調べてきた事に対してディスカッションを行い、それから小テストを受ける。
 ディスカッションだけなら「ニヴルング」内の専用教室クラスで行うことができたが、週に一回の小テストだけはカンニング防止のために必ず登校して筆記することになっている。
 匠音としては小テストもオンラインにしてくれればハッキングして問題くすねることができるんだけどなあ、と思うところであったがそれは学校側もとうの昔に経験したことで対策は完全であった。
 いくつかの議題に関してのディスカッションの後の小テスト、それが終われば昼休みランチタイムとなる。
 流石に学食カフェテリアのメニューは栄養バランスが偏る、と匠音もメアリーも家からサンドイッチを持たされていた。
 校庭のベンチにメアリーと並んで腰かけ、匠音が母親お手製のサンドイッチを貪っていると。
「……ミカ、大丈夫かな」
 ふと、メアリーがぽつりと呟いた。
 その言葉に、匠音の脳裏に朝泣いていたミカの姿がよぎっていく。
「何があったんだ? まぁ、ちょっとは聞こえてたから推測になるけどジョンソンがミカに何かしたのか?」
 そう、匠音が聞いてしまったのは単純に興味本位であったから、とも言える。
 勿論、会話を聞いてのジョンソンに対する怒りもあったがそれ以上に何があったのかが気になる。
 一体ミカとジョンソンの間に何があったのか。
 メアリーが小さくため息を吐き、「そうね」と呟いた。
「あんたも一応あの場にいたもの、完全に部外者じゃないよね。だから伝えるけど、誰にも教えちゃダメよ。ミカのことだもの」
「あ、ああ」
 匠音が頷いた。
 何があったのかは何となく分かっている。何を言われても驚かない覚悟はしている。
 それでも、
「ミカ、ジョンソン先生にいたずらされたみたい」
「いたずらって? 部屋に入った瞬間クラッカー鳴らされたとか?」
 メアリーの言う「いたずら」の意味が分からず、匠音は思わずそう訊ねてしまう。
 「バカなのあんた」と、メアリーが即答した。
「あんた男だから分かんないかなあ……普通、大人の男が女の子にいたずらする、って言うのはね……その……あれ、ちょっと、いや、かなりいやらしいことよ」
「えっ」
 メアリーの口調から内容は理解した。だが、思考がついていかない。
 ジョンソンが、ミカにいたずらをした。
 その「いたずら」とは、つまり――性的ないやがらせ……?
「はぁ?!?! 変態のすることじゃねーか!」
「匠音、声が大きい!」
 思わず立ち上がって声を荒げた匠音をメアリーがなだめる。
「あ、ご、ごめん」
 慌ててベンチに座り直し、匠音が声のトーンを落とす。
「マジかよ、ジョンソンの奴、そんなこと……」
「前々から噂はあったのよ。女子更衣室に盗撮用のカメラが仕掛けられていたとか何人かの生徒がジョンソン先生に声を掛けられてたとか。でも証拠が全然なくて、野放し状態なの」
 それはひどい、と匠音は思った。
 ミカはメアリーにとって親友同然の友人だが、匠音にとっても仲のいい女子だった。
 ひどい目に遭ったというのなら、なんとかして手助けをしてあげたい。
 どうする、と匠音は呟いた。
 ――俺には、力があるだろ。
 ハッキングという力が。
 今までに被害に遭った女子がいて、話が公になっていないというのなら恐らくは固く口止めしているのだろう――何か、脅しているとか。
 この場合、脅しに利用するのは何だろうか。成績? 学校での立場?
 いや、違う。そう匠音は理解した。
 もっといいものがあるじゃないか。被害者自身という恫喝の材料が。
 恐らく、ジョンソンは自分の行為を、その被害者の映像か何かを残している。
 以前聞いたことがある。
 女性が被害者となった性犯罪が表に出ない原因の多くが、加害者が被害者の映像を残し、口外すればそれをネットワークに拡散すると脅しているからだ、と。
 だからメアリーは匠音に「誰にも教えるな」と言った。
 下手に匠音が口を割れば、ミカの恥ずかしい映像は瞬く間に拡散する。
 人間の無意識の悪意とは恐ろしいもので、一度拡散したデータは興味本位でコピーされ、そこからネズミが繁殖するがごとく拡散していく。
 そのため、一度ネットワークに上がったデータは基本的にすべて回収することはできない、と言われている。
 これが大昔の、紙に別の紙の情報を転写するコピーであればコピーを繰り返すうちにコピー先のデータがノイズに汚染され、最終的にマスタデータと数世代分のコピーデータを処分してしまえば拡散しても無害なものになっていただろう。
 しかしデジタルデータはそうはいかない。
 コピーのミスでデータにノイズが入ることもあるがそれは稀で、基本的にはマスタデータとほぼ変わりないデータが延々とコピーされ続ける。
 そうなると全てのデータを同時に削除しない限り拡散は続く。
 いくら凄腕のハッカーが頑張っても全ての同時削除は不可能だろう。一つでもデータが残ればそこから瞬く間に再度拡散してしまう。
 だから、もしジョンソンにアクションを起こすなら決して知られてはいけない。
 誰から情報を得たということすら知られてはいけない。
 やるか、と匠音は考えた。
 同時に、「俺にできるのか」という迷いが浮かぶ。
 確かに「ニヴルング」内で他人のアバターオーグギアに干渉してトラブルを解決したという実績は既にある。ジョンソンも侵入できない相手ではないだろう。
 だが、下手に察知されればミカや他の被害者のプライバシーが危ない。
 これは警察に任せた方がいいんじゃないか、そう、心が揺らぐ。
「……もし、ジョンソン先生の噂が本当ならハッキングすれば先生の悪事を暴けるのかな」
 不意に、メアリーが呟く。
「お、おいメアリー」
 まさかお前、と匠音が声をかけるが、その声がかすれていたことに気づき彼が顔をしかめる。
「ジョンソンのストレージをハッキングする気か? やめとけ、バレたらミカもお前もやばい」
「やらないわよ、っていうかできないわよ。あたし、スポーツハッキングの観戦大好きだしいつかはプロスポーツハッカープロプレイヤーになりたいとは思ってるけどお父さんダディお母さんマミーもハイスクール卒業までスポーツハッキングしちゃだめって言うのよ? あのガウェインですらハイスクール時代にはもう『キャメロット』に参加して大暴れしてたって言うのに!」
 憮然とした様子で言うメアリーに、匠音は「じゃあどうするんだよ」と訊ねた。
 それは、と言葉に詰まるメアリー。
「……あのトリスタン様が実は正義の魔術師ホワイトハッカーで、どこかでジョンソン先生の噂聞いてハッキングしてくれたらいいのに」
「無茶言うなよ……」
 一人の魔術師ハッカーとして「第二層ディープウェブ」の表層を少しだけ歩いた匠音は知っている。
 魔術師は大きく三つに分けることができる。
 悪意を持った悪の魔術師クラッカー、善意を持った正義の魔術師ホワイトハッカー、そして純粋にスポーツハッキングだけを楽しむ競技魔術師スポーツマン
 スポーツハッカーは仮想空間に構築された疑似サーバを攻撃することを許されているが、現実の、企業などのサーバを攻撃したことが発覚するとスポーツハッカーとしての資格を剥奪される。
 それでも、多くのスポーツハッカーが悪意、または善意をもって現実のサーバを、人によっては「世界樹」までをも攻撃する。
 現在、頭文字からGLFNグリフィンと称される世界最大規模の巨大複合企業メガコープがそれぞれ所有しており、アメリカに四本存在する世界樹は世界最高峰のセキュリティ強度を持ち、腕に自信のある魔術師たちの最終的な目標となっている。
 もちろん、世界樹以上のセキュリティ強度を誇るサーバも存在するが世界樹が特に好まれてハッキングを行うには理由がある。
 それは、各世界樹の運営に認められれば世界樹のセキュリティ要員として登用されるから。
 世界樹をハッキングし、認められたうえで逮捕されれば運営が司法取引を持ち掛け、入社するよう取引してくる。企業は表立って認めていないが、公然の秘密だ。
 それに応じれば大手を振ってゲームではない、リアルでハッキングによる「戦い」を繰り広げることができる。
 だから、匠音も理解していた。
 スポーツハッカーもまた、ただゲームを楽しむだけの人間ではないと。
 しかし、メアリーの言葉はあまりにも楽観的過ぎる。
 トリスタンがホワイトハッカーである可能性はあるだろう。だが、基本的にホワイトハッカーというものは「第二層」で助けを求める声を聴いて行動する。
 勿論、偶然出くわした悪事には対応するかもしれない。匠音シルバークルツのような野良ホワイトハッカーもいないわけではないだろうから。
 それでもトリスタンほどの実力者が、この学校の一つの悪事を見つけ出すとは到底思えない。
 それなら、まぁ自分で行動を起こした方が解決する可能性は高い。
「……シルバークルツなら、動いてくれるかもよ?」
 思わず、匠音はそう口走っていた。
 シルバークルツが? とメアリーが目を見開く。
「何でそう思うのよ」
「いや、何となく。だって割と身近なトラブル解決してるしさ」
 まあ、確かにとメアリーが頷く。
「でも、シルバークルツにはあまり期待してないわよ。やっぱりトリスタン様がなんとかしてくれないかな」
 流石に、メアリーのその言葉には匠音もムッとした。
 だが、自分がシルバークルツだと知られるわけにはいかず、こうなったら俺一人でこっそり解決してやる、と意気込む。
「まあ、最終的に解決すりゃいいんだろ。今の俺たちにはどうすることもできねえし」
「それはそうね。トリスタン様……」
 結局トリスタン頼みかよ、と匠音が思った時、昼休み終了のベルが響き渡った。
「やっば、次の授業お前体育だろ? 急げよ」
 残りのサンドイッチを口に押し込み、匠音は慌てて立ち上がった。

 

 スクールバスの時間の都合で、ハイスクールの授業は午後も早いうちに全て終了する。
 体育が終わったメアリーと合流し、帰りのバスに乗っていると隣に座る彼女の汗のにおいがふと匠音の鼻孔をくすぐる。
 一瞬、ドキリとして彼女を見た匠音だったが、隣の彼女の顔は険しい。
「どうしたんだメアリー、機嫌悪そうだな」
 そう、声をかけるとメアリーは鼻息荒く匠音を睨みつけ、それからすぐに真顔に戻った。
「ごめん、ちょっとね」
「何かあったのか?」
 まあね、とメアリーが頷いた。
「ほら、ジョンソン先生って体育の担当じゃない。ミカのことがあったからついイラっとしちゃってね……なんかあの話を聞いたら先生のこっちを見る目がいやらしいものに見えて」
 その気持ちは分からないでもない。
 だが、何故かぞっとする。
 もしかして、ジョンソンは次にメアリーを狙っているのではないのか、と。
「やばいってメアリー、やっぱり他の大人に言った方が」
 匠音のその言葉に、メアリーは首を横に振る。
「ダメよ、ミカが余計にひどい目に遭っちゃう」
「じゃあどうすれば」
 このままジョンソンを野放しにしておいてはいいことがない、と、確かに匠音は感じ取っていた。
 次に狙われるのはメアリーかもしれない、ということはただの思い過ごしかもしれない。しかしジョンソンが今までにも他の女子に手を出していたかもしれないと考えるとメアリーを含めて誰かが被害に遭う。
 時間はないかもしれない。
 覚悟を決めろ、と匠音は自分を叱咤した。
 バスは朝、匠音たちが乗った場所に到着、近隣の生徒たちがバスから降りていく。
「匠音はこの後どうするの? 『ニヴルング』に来る?」
 家が同じアパートメントの隣同士のため、匠音と一緒にエレベーターに乗り込んだメアリーがそう誘ってくる。
 ちょうど新しい試合のアーカイブが見られるようになったはずよ、と彼女が聞くが、匠音はちょうどジョンソンへの制裁方法を考えて上の空になっていた。
「ちょっと匠音?」
 上昇するエレベーターの中でメアリーが訊ねる。
 びくり、と身を震わせ、匠音は彼女を見た。
「何考えてたのよ」
 凄むメアリーの顔が目の前に迫る。
「え、いや、あの、メアリーのこと考えてた」
 しどろもどろになって匠音が思わずそう口走る。
 一瞬、気まずい空気がエレベーター内を満たす。
 そのタイミングでエレベーターは目的の階に到着し、メアリーは、
「匠音のばかー!」
 そう叫んでエレベーターを飛び出した。
 廊下を走り、自分の家の前に立ち、
「匠音のばかー!」
 もう一度叫び、家の中に入っていった。
「……」
 エレベーターに一人取り残された匠音が首をかしげながら廊下に出る。
 自分の家の前で一回振り返ってメアリーの家のドアを眺め、それから、
「……女子ってよく分からん」
 そう呟きながら玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
 そう言いながらリビングに入り、棚の上に置かれた写真を見る。
「ただいま、父さん」
 写真に写った男性にそう声をかけると、
《あ、匠音帰ったの?》
 匠音のオーグギアに着信が入り、母親がそう声をかけてくる。
「うん、母さんはまだ仕事?」
 今のご時世、一部の職種以外はほとんど在宅で勤務することができるようになっている。
 匠音の母親もその一人で、部屋から出ずに通信で声をかけてきたということは仕事が忙しいのだろう。
《ごめんね匠音、今手が離せないの。ちゃんと宿題と予習するのよ?》
「分かってるよ、母さんも仕事頑張って」
 じゃあ、切るからと匠音が通信を切り、改めて棚の上の写真を見る。
 棚の上に数枚並ぶ写真。
 その中の、タキシード姿の自分によく似た男性とウェディングドレス姿の母親の写真を手に取る。
 裏返すとフレームの裏側に「二一二〇年八月匠海たくみ和美かずみ」とメモ書きがされている。
「……父さん、」
 写真を再び裏返して男性父親を見た匠音が低く呟く。
 匠音の家は母子家庭だった。
 匠音の父親、匠海は彼が生まれる前に事故で亡くなったと、母親和美から聞かされている。
 事故の詳細は当然、聞かされておらず、匠音もまた現時点で知りたいとは思っていなかった。
 それでも、生きていたらどんな会話をしたのだろう、とかどんなことをしていたのだろう、といったことは考える。
 それはある種の寂しさでもあったが、それでも匠音は不幸だとは思っていない。
 もちろん、父親がいないことを同級生にからかわれることもある。
 それには当然腹を立てるがだからといってそこで何かしたところで父親が生き返るわけでもなく、仕方のないことだと、受け入れていた。
 しかし、母親は。
 匠音は知っている。
 時折、夜中に母親が声を押し殺して泣いていることを。
 それだけ大切な人だったんだ、と思いつつも匠音は何もできずにいた。
 戸籍上では祖父だが血縁上は曽祖父の白狼しろうがサポートはしてくれるが、それで母親の心に開いた穴は埋められない、ということだろう。
 ――どんな人だったんだろう。
 写真でしか姿を知らない、声も性格も知らない父親。
 自分にはたった一文字、名前にその痕跡を残した父親匠海
 ふと、そう考えてから、匠音は首を振った。
 写真を棚に戻し、リュックを肩にかけ直し、机の上のクッキーを手に取り自室に入る。
 ベッドにリュックを下ろしてから、匠音は両手の指をポキポキと鳴らした。
「……さて、やりますか」
 母さんが仕事中なら好都合だ。暫くは入ってくることもないだろう。
 そう考えながら、クッキーを一枚頬張り、オーグギアの隠しストレージを展開、ハッキング用のツールを呼び出す。
 視界に侵入先を可視化ヴィジュアライズするためのマップウィンドウとコンソールウェポンパレットが表示される。
 そのまま空中に指を走らせ、ジョンソンのオーグギアまでの侵入経路パスを構築する。
 初対面の相手ならまずはオーグギアが接続しているアクセスポイントやオーグギアそのものの特定から入らなければいけない。が、授業の連絡などをオーグギアで行っているため、ジョンソンとのネットワークは既に構築されている。
 特定の手順はかなりショートカットすることができ、匠音はすぐにジョンソンのオーグギアに取り付いた。
 実際には、魔術師が自分のプライベートに使っている縁を使って侵入ハッキングを仕掛けるなど、してはならない事だ。何故ならそれは、万一失敗した時、すぐに辿られてしまうことを意味する。
 故に、例え最高の実力を持っていると自負するハッカーでさえ、普通はいくつかの踏み台プロキシを通してハッキングする。
 しかし、独学バリバリの素人である匠音にはまだそんな知識はない。自覚もなく発覚との薄氷の上を歩んでいる侵入者ハッカー、それが彼だった。
 表層のセキュリティの隙をついて内部に侵入、ストレージのセキュリティに取り掛かる。
 ――ジョンソンのオーグギア、ガバいな。
 侵入を警戒している人間なら初期導入バンドルのセキュリティを信用せずに有料のセキュリティサービスを利用する。それでも優秀な魔術師はその穴を突いて侵入するし匠音もある程度のセキュリティは突破できるほどの腕は持っていたが楽ができるに越したことはない。もちろん、自分が認識していないセキュリティに遭遇する可能性もあるため、警戒は怠らない。
 ストレージの入り口、巨大な門を前にしても匠音は落ち着いていた。
 ウェポンパレットからデータの裏側への道を開き、侵入する穿孔潜行アプリピアッサーを呼び出し、展開する。
 匠音の目前に広がる巨大な門に極小の穴が穿たれ、次の瞬間空間が裏返るように展開する。
 目の前に広がる門の内部裏世界に踏み込み、匠音はもう一度ピアッサーを展開、門の向こう側――ストレージ内部に侵入した。
 ストレージの可視化のために経路探索アプリマッパーを展開、マップウィンドウに立体的、かつ複雑な形の網の目の形をした見取り図が形成されていく。
 ――よし、あとはデータを洗い出すだけだ。
 形成されたストレージの書架ライブラリを匠音が飛ばした探索用bot紙飛行機が駆け巡る。
 しかし、そこでオーグギアの演算速度が低下し、彼は慌てていくつかのbotを回収、リソースを確保する。
 本来、魔術師であるならばオーグギアの演算速度と処理能力向上のために外部デバイスブースターを使用すべきである。だが、母親からハッキングを禁じられている匠音がブースターを所持することは当然、禁じられており、彼はブースターなしでのハッキングを強いられていた。
 そこで発生するのが同時に大量のアプリケーションを走らせることができないという制約。
 今も、調子に乗って大量のbotを展開してしまったため、演算速度が低下してしまった。
 ――やっぱり、ゲームしたいって理由でブースター買った方がいいかな。
 いやだめだ、母さんはゲームを禁止こそしないものの今の成績でブースター買ったら絶対怒る、と首を振り、匠音は雑念を払ってbotから送られてくるフォルダのリストに目を通した。
 数分で「極秘コレクション」を命名されたフォルダを発見、中身を確認する。
 どうやら、更衣室の盗撮映像が収録されているらしいが、流石にこれは一度再生してみないと確信できない。
 ファイルのタイムスタンプからいくつかのデータをピックアップ、被害者の女子にはごめんと内心で謝りながら再生する。
 と、目の前に見慣れた女子の顔が飛び込んできた。
「め、メアリー?!」
 思わず声が漏れる。
 目の前には体育の準備でジャージに着替えている最中の、下着姿のメアリーの姿があった。
 ――やっぱり、ジョンソンは――。
 次はメアリーだったのか、と自分が感じた不安の的中に嫌悪感を抱きながらも匠音はファイルを削除しようとし――
 ――でもメアリーの下着姿……。
 ごくりとつばを飲み込み、ちゃっかり自分のストレージにコピーしていた。
 ――ごめんメアリー。
 メアリーの家の方向に向かって両手を合わせ、それから匠音は両手で頬を叩き気合を入れ直した。
 「極秘コレクション」の中身はとりあえずアメコミヒーローの違法アップロード動画に差し替えておこうかとも考えたが、証拠として重要なデータである。下手にいじることはできない。
 それでも下着姿のメアリーだけは誰にも見られたくなくて、匠音はこの動画だけこっそりと削除しておいた。
 改めて探索すると「お宝コレクション」というフォルダも見つかり、今度こそ実際に女子に手を出している動画、口止めの材料だろうと判断する。
 ――気は乗らないけど、確認しないと。
 思い切ってファイルの一つをタップ、再生を始める。
 が、再生して数秒、すぐに匠音は再生を停止して口元に手を当てた。
 胃のあたりから何かがこみ上げてくるような感触を覚える。
 クッキーなんか食べるんじゃなかった、と後悔しながらも吐き気を飲み込み、意を決してもう一度再生する。
「……えぐ……」
 匠音とて思春期の男子である。その手の映像を全く見たことがないかというとそうではない。ませた友人が親からちょろまかしたと自慢げに見せつけてきたこともある。
 だが、自分には刺激が強いと思ったその動画ですら生ぬるいと思えるほど、ジョンソンの行為は卑劣であった。
 確認のためにとはいえ、再生した自分を殴りたい、とさえ思えてくる。
 それでも、匠音は思い切って動画を一つ、自分のストレージにダウンロードした。
 他の動画は警察が調べた際の証拠となるよう、残しておく。
 これで必要な情報は揃った、と匠音はジョンソンのオーグギアから離脱した。
 離脱も痕跡を残さぬよう、細心の注意を払ってセキュリティを回避し、念のためにパスを切っておく。
 どうせ発覚すればジョンソンは失職必須、もう二度と連絡を取り合うこともない、とためらいなく接続を解除し、各種ハッキングツールも終了して隠しストレージに格納する。
「……さて、と」 
 目の前にある動画のアイコンを前に匠音が再び両手の指を鳴らす。
 動画をダウンロードしたのは、発覚の起爆剤として利用するためだった。
 もちろん、被害者の部分は完全に誰か特定できないように加工する。
 今の時代、その程度の動画編集機能はSNSに投稿する際のプライバシー保持を目的として、オーグギアに標準装備されている。
 該当部分の映像をジョンソンの顔だけがはっきりわかるようにして他を全てモザイク、音声も被害者の声だけ音声を加工し何を言っているかはある程度分かるが誰か分からないようにする。
 動画の加工を終え、匠音はふぅ、と息を吐いた。
 ――さて、どこに送り付けるか。
 匿名で送り付けるなら警察だろうが、それでもただ警察に送り付けただけでは捜査に時間がかかる。
 どの学校で行われているかをきちんと連絡しなければいけない。
 そう考えて、匠音は匿名ダミーのアカウントで通報することにした。
 この件、匠音が動いたと誰にも知られてはいけない。
 オーグギアは一台につき一アカウント紐づけられているが犯罪者をはじめとして魔術師も大抵はダミーのアカウントを複数所持している。
 中には複数のオーグギアも併用して身バレを防いでいる魔術師も存在するが匠音にはそんなものを用意する資金力など当然ないため、ダミーのアカウントだけ所持している。
 万一ダミーが追跡されそうになれば切り捨てればいいので、匠音は善は急げとばかりにアカウントを切り替え、警察の通報フォームを開いた。
 必要情報を入力、編集した証拠動画を添付、送信する。
 続いて、匠音は学校の、保護者や近隣住人が不審者情報等を提出するためのフォームにアクセスした。
 こちらも匿名で詳細を記入、同じ動画を添付しておく。
 こうしておけば警察か学校、どちらかは確実に動く。
 匠音が通っているハイスクールは教育の充実だけではなく生徒の安全も謳うPrep School私立高校である。こんなことが明るみに出れば確実に信用は失墜するため動かざるを得ない。
 よし、とアカウントを正規の物に切り替え、匠音はにやりと笑った。
 実際には警察と学校には全く同一の動画を送ったわけではない。
 学校に送り付けた動画だけ、最後に「シルバークルツが裁きを下す」とアイキャッチを入れている。
 これなら校内の噂でやがてメアリーに届く。
 教師内の噂は校内の情報通によってあっという間に拡散されるので動画の最後のアイキャッチも当然、噂になるだろうとの算段。
任務完了ミッションコンプリート
 そう、匠音は低く呟いてから時計を確認し、夕飯の時間が近づいていることに気が付いた。

 

「匠音、学校はどう?」
 夕食時、テーブルを挟んで向かい合わせに座った母親――和美が匠音にそう訊ねる。
「え、まぁうまくやってるよ」
 夕飯のマカロニチーズを頬張りながら、多分次の中間試験も大丈夫だと思う、と匠音が伝えると和美は「そう、」と頷いた。
「仕事、忙しいの?」
 ふと、興味を持って聞いてみる。仕事が忙しくて疲れているような気がしたのだが、食欲はあるようでマカロニチーズの皿は既に空になっている。
 そうね、とフォークを置き、和美は頷いた。
「大丈夫よ、ちょっと打ち合わせが長引いただけ。ごめんね、暫くはあまり構ってあげられないかも」
「大丈夫だよ、俺だってもうそんな子供ガキじゃないし」
 そう言って、匠音は残りのマカロニチーズを口に運び、それから立ち上がった。
 皿をシンクに置いてから改めて和美を見る。
「母さん、忙しくても疲れてるならさっさと休めよ。ガキじゃないって言っても、母さんが倒れたら、俺……じいちゃんしか残ってないからさ」
 匠音がそう言うと、和美も「そうね」と小さく頷く。
「分かった、わたしももう休むわ。匠音もほどほどに寝るのよ」
「分かってる、じゃあ、いい夢を」
 そう言い残し、匠音が自室に消える。
「……『いい夢を』、か……」
 匠音の部屋の扉を暫く見てから和美はそう呟き、それから立ち上がった。
 棚の前に移動し、匠海亡き夫の写真を見る。
「匠海、匠音はたくましく育ってるわよ。貴方を思い出すわ」
 そう、呟いてから彼女も自分の部屋に戻っていった。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 翌朝。
 通学日ではなく、オンライン授業の日のため匠音が「ニヴルング」内の学校にアクセスすると既にログインしていた多くの生徒のアバターがざわざわと落ち着かない様子で近くの友人と話し合っていた。
「あ、匠音!」
 先にログインしていたのだろう、リアルの姿と変わらないメアリーのアバターが匠音のアバターに駆けよってくる。
「う……」
 昨日のことを思い出し、匠音が思わずメアリーから視線を外す。
 流石にバレないとは思うが、知られてしまえば絶交どころでは済まないかもしれない。
 それは彼が「シルバークルツ」だと知られるよりも嫌なことだった。
 だが、それにはお構いなくメアリーは匠音の前に立ち、彼の両手を掴んだ。
 校内ではリアルと同じ姿のアバターを使用するよう規定づけられているため当然、匠音もリアルと変わらない姿をしている。
「お、おう……メアリーおはよ」
「何のんきにしてるのよ! 大変よ!」
 気まずそうな匠音ではあったが、早口で話すメアリーの口調は怒っていなかった。しかしかなり興奮している。
「どうしたんだよ落ち着けよ。何があったんだ?」
 周りが落ち着いていないことを考えると、生徒全体に周知された情報、ということだろう。
 少し遅めにログインして何も知らない生徒だけが他の生徒から話を聞いて騒ぎに参加し始める。
「落ち着いて聞いて匠音、ジョンソン先生が、逮捕されたって!」
「……はぁ?!?!
 匠音の声が、メアリーの言葉からワンテンポ遅れて校内に響く。
「この学校の情報通、ハッキングでもやってるのかしら。なんか、警察と学校に匿名で証拠映像付きの通報があったらしいって。警察と学校で同時に事実確認をしたら証拠映像の無修正版が出てきてクロ確定だったとか」
「情報早っや!」
 これには匠音も驚いた。
 まさかあの通報から、二十四時間も経過せずに逮捕劇が発生した挙句にその詳細が校内全体に広がるとは。
 ここまでのスピード逮捕であればジョンソンも被害者の映像を拡散する余裕すらなかったはずだ。
 ひとまずは一件落着か、と匠音はほっと胸を撫で下ろした。
 これならメアリーが被害に遭うことはないだろう。
 そう思っていると、メアリーがさらに口を開く。
「で、通報なんだけど学校には匿名の割に署名があったんだって」
「署名?」
 どきり、と匠音の心臓が跳ね上がる。
 それをメアリーに悟られないように抑えながら匠音が尋ねると、メアリーがうん、と頷いた。
「署名にはこう書かれていたって。『シルバークルツが裁きを下す』と」
「マジか」
 そこまでもう拡散しているのか。
 校内の情報網、侮りがたし。
 ――どうだ見ろよやってやったぞメアリー。
 表面ではただ驚いている体を装いつつ、匠音は心の中でガッツポーズをした。
 これでシルバークルツも大したことないとは言わせないぞ、と思いつつメアリーを見ると。
 メアリーは小さくため息を吐いて匠音を見た。
「……シルバークルツもやるときはやるじゃない。目立ちたがりなのは相変わらずっぽいけど」
「……お、おう」
 思わず、匠音が頷く。
「なんであんたが頷いてんのよ。でも、これでもうジョンソン先生に何かされるってことはないのね」
「そりゃそうだろ、逮捕されてんだぜ? 戻ってくることもねーだろ」
 これでジョンソンが「I'll be back!」などと言っていたなら匠音は確実に張り倒しに行ったであろう。
 もう安心だ、と匠音は心の中のガッツポーズを崩すことなくメアリーを見る。
 当のメアリーはというと、少々納得できないような顔で、
「でもやっぱりトリスタン様に通報してもらいたかったな……いやシルバークルツもちゃんと被害に遭った子に配慮して通報してくれたみたいだからいいんだけど、こう、やっぱりトリスタン様は王子様だし」
「……お前ってほんと、トリスタン『様』ばっかりだな……」
 一応、褒めてもらえて嬉しいは嬉しいのだが、複雑な気持ちになって匠音は呟いた。
 その後は何事もなかったかのようにいつもの授業が行われ、校内での時間が過ぎていく。
 ログイン時はざわついていた他の生徒たちもすぐに落ち着き、時折ジョンソンの話題が出るものの当たり前の日常が戻ってくる。
「じゃー匠音、また明日なー」
 最後の科目が終わると匠音の友人もすぐにログアウトし、宿題や校外用のアバターに着替えての「ニヴルング」再ログインなど、思い思いの放課後に飛び込んでいった。
 匠音もログアウトし、リビングを通ってキッチンに移動する。
 冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、それからすぐに残りがほとんどないことに気づく。
「母さん、牛乳ないよー」
 和美の部屋のドアをノックし、そう声をかける。
「あ、ごめん注文するの忘れてた」
 このご時世、買い物も大抵はオンラインで行い、自動配送トラックやドローンで配達される。
 しかし生鮮食品や壊れやすいものなどは実店舗も整備され、「注文を忘れていた」等で緊急に必要になった場合は買い出しに行くこともある。
 そのため、和美も、
「ごめん匠音、手が空いてたら買いに行ってくれる? ついでにドミンゴのチョコレートも」
「……母さん、いつもドミンゴのチョコレートだな」
 少々呆れたように呟いたものの、匠音は分かった、と頷いた。
「ついでにトゥエルグミ買ってきていい?」
「やめなさい、それは不味い」
 匠音の交渉を和美が即答で却下する。
 ちぇー、と舌打ちをして、それから代案を提示する。
「じゃあピタチップス」
「それならいいわ」
 交渉成立、と匠音はエコバッグを手に外に出た。
 近くのスーパーまでぶらぶらと歩く。
 スーパーで牛乳と、和美に頼まれたドミンゴのチョコレート、それから「不味い」と却下されたものの個人的には大好きなトゥエルグミをかごに入れる。
 好き嫌いがはっきり分かれるトゥエルグミではあるが、匠音はあの独特なケミカル臭の強いグミが好きなので隙あらば購入しては和美に怒られている。
 どうせ小遣いから出してるし、とレジを通過すると自動で合計金額が計算され、決済される。
 かごからエコバッグに商品を移す際、ちら、と購入した商品を見ると視界に映り込んだ商品のステータスが赤色の「未決済」から緑色の「決済済み」に変更されていく。
 視界に映る決済画面と口座の残高を確認し、匠音は帰路についた。
 行きと同じく、ぶらぶらと歩いていると。
 突然、目の前を歩いていた男性がその場に崩れ落ちた。
「え?!?!
 突然のことに、周囲の人間も硬直して倒れた男性を見る。
 匠音もそれに漏れなかったが、すぐに弾かれたように男性に駆け寄った。
「大丈夫ですか?!?!
 そう、声をかけるも男性は胸のあたりを押さえて苦しげに呻くだけ。
 やばい、救急車を、と思いつつも匠音は学校で習った応急処置の、気道確保をと男性を仰向けにする。
 ……と、匠音の視界に一枚のタグが表示される。
 ――義体装着者?!?!
 義体に何かトラブルがあった際、すぐに然るべき場所に連絡できるように義体装着者と触れられる程度まで接近した人間に、オーグギアが周囲の状況を把握するために周囲の機器と接続するのに用いる短波通信を受け取って情報を転送、タグを表示する機能を備えている。
 そこには義体の装着部位と、有事の際の連絡先が記載されている。
 匠音は指先でタグを操り、視界の隅から正面へと移動させた。
 ――心臓?!?!
 義体は腕や脚といった外部の部位だけではない。
 眼や心臓といった一部臓器も既に義体として開発され、損傷した場合には置き換えられるようになっている。
 それも十年ほど前に義体の制御OS「Oberon」が発表されてから急激に進化を遂げ、一般流通するに至っている。
 と、なると一般の救急車で病院に搬送しても助けられない。
 このタグに記載されている調整センターに連絡しなければいけないが、果たして間に合うのか。
 それでも匠音はとりあえずタグの連絡先をタップし、緊急コールで調整センターに通報、指示を仰ぐ。
 「義体自体の不具合か、それともシステムエラーなのか」という質問をされ、匠音は震える指で視界に表示されている緊急チェックのボタンをタップ、不具合の個所を特定しようとする。
「……システムエラー、です……」
 表示された結果に、匠音はかすれた声で返答した。
 どうやら、心臓義体の制御システム自体に不具合が発生し、動作自体が不安定になっているらしい。
 匠音の返答に、調整センターのコールスタッフがシリアルナンバーを確認してくる
 それも応えると、コールスタッフは困ったような声で、
「心臓、ですか……システムエラーは大抵再起動すれば回復するのですが流石に心臓でそれを行うわけにはいきません。本来ならシステムコードの書き換えを行えば再起動せずとも修復が可能ですが、危険が伴います。人工心肺を搭載した緊急航空車両を派遣しますので、到着するまでお待ちください」
 分かりました、と匠音が答える。
 それから男性を見るが、あまりにも苦しそうなその様子に緊急航空車両が到着するまでもたないかもしれない、と考える。
 ――システムコードの書き換えを行えば、か。
 ハッキングのスキルがある自分なら、できるかもしれない。
 義体をはじめとして、特殊な処置が必要な商品を扱う巨大複合企業メガコープは何かあった際に処置が遅れて取り返しのつかないことが起きないよう、有事の際には迅速に現場に派遣できる推力偏向ノズルを装備した緊急航空車両を保有している。
 取り返しのつかないことになった場合に自社製品に対しての不評や不審が付かないための対策であり、比較的早急に現場に到着してくれるありがたいサポートだが、そんなものを待てるほど、この男性には時間がないように匠音には思える。
 ええい、ままよと匠音は隠しストレージからハッキングツールを取り出した。
 見ず知らずの男性、ではあったが短波通信からのタグの受信でひとまずのパスは構築されている。
 量子ネットワークのアクセスポイントを探している時間はないので匠音は短波通信で男性のオーグギアに侵入した。
 オーグギア経由で義体の制御システムにアクセス、制御コードを表示させる。
 ――やばい、複雑すぎる。
 いくら各種操作が直感的に行えるようになったオーグギアでも、制御コードの部分となるとかなりの知識がないと操作することが難しい。
 もう少し簡単にできると思っていた匠音はこれはまずい、と呟いた。
 ――こんなんじゃ、間に合わない。
 しかも、間違え方によってはシステムが即座に停止する。
 指示の通りに待つべきだったのか。
 そう、思うがなるべく早くなんとかしたいという思いが先に立つ。
 ――焦ってはいけない、落ち着いて考えろ。
 そう自分に言い聞かせるが、匠音の頭の中は真っ白になりつつあった。
 ――このままでは、見殺しにしてしまう。
 誰か、と匠音の口から言葉が漏れる。
 と、その時。
 匠音の視界の隅で何かが動いた。
 視線をその方に投げる。
 男性の肩の上に、一人の小人妖精ブラウニーがいた。
 童話などでよく見かけるような、とんがり帽子の小人。
 若くも、初老にも見えるその小人は手にトンカチを持ち、男性を見ている。
 匠音が眺めていると、ブラウニーがちょこちょこと男性の胸に移動した。
「……ブラウニー……」
 呆然と、匠音が呟く。
 その匠音の呟きを意に介することなく、ブラウニーが男性の胸を手に持ったトンカチで数回叩く。
 同時に、匠音が展開した制御コードのウィンドウに変化が起こった。
 文字列がものすごい勢いでスクロールし、突然停止する。
 停止した部分のコードが、勝手に書き換わっていく。
 ――ブラウニーが応急処置して暴走を止めてくれなきゃ伯父さん今頃死んでたかもって――。
 これが、その、ブラウニーの応急処置なのか、と目の前の光景に匠音が絶句する。
 コードが修正され、ウィンドウ中央に【complete】の文字が表示され、そしてウィンドウ自体が消える。
 慌てて接続を解除し、匠音は男性を見た。
 先ほどまで苦し気に呻いていた男性は容態が安定したのか、落ち着いた様子だった。
 男性の胸の上にいたブラウニーが振り返り、ちら、と匠音を見る。
 ブラウニーと目が合ったような気がして、匠音はどきり、とした。
 だが、すぐにブラウニーは匠音から目を逸らし、それからくるりと一回転してその姿を掻き消してしまう。
「……なんだったんだ……」
 ――まさか、本当にブラウニーが……?
 そう、考え始めた匠音だったが、その思考はすぐに男性の声で中断することになった。
「……今のは、ブラウニー……?」
「あんたも、見たのか?!?!
 今までの様子から見えていないだろうと思っていたが、男性の視界にもブラウニーの姿は映り込んでいたらしい。
「……ああ、見えた。噂は、本当だったんだな」
 義体の不具合発生時に現れて応急処置するというブラウニー。
 それを実際に目の当たりにし、匠音は「メアリーの話は本当だったんだ」と、乾いた声で呟いた。

 

to be continued……

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「世界樹の妖精 -Brownie of Irminsul- 第1章」のあとがきを
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