縦書き
行開け

世界樹の妖精 -Brownie of Irminsul- 第5章

分冊版インデックス

5-1 5-2 5-3 5-4 5-5 5-6 5-7 5-8

 


 

  第5章 「古の技術の伝道者『白き狩人ヴァイサー・イェーガー』」

前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

 アメリカに建造された四本の「世界樹」がネットワークインフラを支える世界。
 ロサンゼルスのハイスクールに上がったばかりの永瀬ながせ 匠音しおんは駆け出しのホワイトハッカーとして巨大仮想空間メタバースSNS「ニヴルング」で密かに活動していた。
 通学途中で聞いた都市伝説、義体の不具合時に現れるという小人妖精ブラウニーを目の当たりにしたり、ホワイトハッカーとして校内のトラブルを解決していた匠音はある日、幼馴染のメアリーの「ニヴルング」での買い物に付き合っていた際、怪しげな動きをするアバターを発見通報する。
 その際に起動された爆弾から彼を救い、叱咤する謎のハッカー。
 弟子入りしたいという匠音の要望を拒絶しつつもトレーニングアプリを送り付ける魔法使い。
 それを起動した匠音はランキング一位にかつてスポーツハッカーだった和美母親のスクリーンネームを見つけ、このランキングを塗り替えるとともに謎のハッカーと再会することを誓う。
 そんな折、メアリーが「キャメロット」の握手会に行くことになるがトラブルに巻き込まれてしまう。それを助けたもののハッキングが発覚して拘束された匠音。
 メアリーの機転で厳重注意のみで済むものの、和美にはハッキングを辞めるよう強く言われる。
 それでも諦められず、逆に力を付けたくて匠音は匠海のオーグギアに接続する。
 接続した瞬間、再生される匠海のビデオメッセージ。
 初めて聞く匠海父親の声と、託された固有ツールユニーク、「エクスカリバー」を手にし、匠音は和美を守ると誓う。
 手に入れた「エクスカリバー」の性能を知りたくて手近なサーバに侵入する匠音、しかし「エクスカリバー」を使いこなせず通報されかける。
 それを謎の魔法使いこと黒き魔女モルガンに再び助けられ、ログアウトした匠音は和美にハッキングのことを詰められる。
 ハッキングを禁止する理由も、匠海のこともはっきりと教えてくれない和美に反抗し、匠音は家を飛び出してしまう。

 

 夕闇が迫った、日本人街リトル・トーキョーにほど近い街を匠音しおんがとぼとぼと歩いている。
 あの時、勢いで家を飛び出したもののそれからどうするかなどは全く考えていなかった。
 ただ和美かずみにひたすらハッキングを禁止され、気になった匠海たくみの話も思うように聞けず、大人って本当に身勝手だとまくし立てて飛び出したがそれからどうすればいいのか。
 何がしたい? と考えて、匠音は「やっぱりハッキングがやりたい」と呟いた。
 自分の目標は誰もに認められる正義の魔術師ホワイトハッカーである。
 数年前、自分を助けてくれたルキウスのような、正義感に燃えたホワイトハッカーに。
 将来的にカウンターハッカーになりたいのかと言えばそこまでは分からない。
 それでも、今は困っている人を人知れず助け、ホワイトハッカー仲間に「シルバークルツこそホワイトハッカーの鑑だ」と称賛されたい、と思った。
 そう考えるとただ称賛されるためにホワイトハッカーになりたいのか、と言われてしまいそうだが違う。
 匠音は純粋にハッキングという力で困っている人を助けたかった。
 自分はまだ成人もしていない。体格も同年代の平均には劣るしその分体力があるわけでもない。
 非力だからこそ、ハッキングという武器があるのならそれで戦いたかった。
 それでも和美は「ハッキングはするな」と言う。
 あの魔女も「現実で攻撃リアルアタックされるから辞めろ」と言う。
 それなら、そうならないほどの実力を身に付ければいい。
 確かに自分はプロキシすら刺さない危険なハッキングをしていた。
 しかしその知識が身に付いただけでも前進である。
 誰か、身近にハッキングを反対せず、知識を授けてくれる人がいればいいけどなあ、と考え、匠音ははっと思い出した。
 ――ただ、これだけは言っておくわ。お父さんは、原初魔導士ソーサラーだった。その点では、白狼おじいちゃんを超えている――。
 匠音が家を飛び出す直前に和美が言った言葉。
 結局、魔導士というものがどういったものかは分からないが、白狼祖父を超えているという発言は彼もまた魔術師だということだ。
 そう考えてから匠音は思い出した。
 そうだ、白狼しろうも魔術師で、昔はスポーツハッキングの世界大会も狙えたと言っていた。
 ただ、理由は分からないが世界大会を目前にしてスポーツハッキング界から追放されたのだ、と。
 そこまで思い出して匠音はもしかして、と考える。
 白狼はスポーツハッカーだっただけではなく、裏の世界でも活躍していた人間だったのではないか、と。
 そもそもスポーツハッキング界では違法なハッキングはご法度である。
 それは悪の魔術師クラッカーでも正義の魔術師ホワイトハッカーも例外ではない。
 スポーツハッキング以外でハッキングを行ったことが明るみに出れば、追放される。
 白狼がどちらの立場の魔術師だったかまでは分からない。
 それでもハッキングの知識があるというのなら、もしかすると。
 そう思った匠音は思い立ったら即実行とばかりにオーグギアの回線を開いた。
 通話相手に白狼を選ぶ。
 数度のコールの後、白狼が通話に出る。
《おお、匠音か。久しぶりだな》
 同じロサンゼルス市内に住んでいるとはいえ白狼と連絡を取り合うことはあまりない。
 最後に連絡したのいつだったかなと思いつつも匠音は「実は……」と口を開いた。
「ごめんじいちゃん、俺さ、母さんと喧嘩しちゃって、家出しちゃったんだ。もしよかったら、暫く泊めてくれないかな」
 授業はちゃんと出席するから、と言う匠音に白狼が豪快に笑う。
《お前はまじめだな。んなもん、サボればいいだろ》
「サボったら母さんに連絡行くって。で、いいの?」
《それは勿論》
 よかった、と匠音は胸を撫で下ろした。
 割と豪快な性格の白狼だから「母さんを心配させんな、帰れ」ということはないだろうとは思っていたが二つ返事でOKとは。
「ありがと、じいちゃん。今からじいちゃんの家に行くよ」
 白狼の家はここから数ブロック歩いたところにある。
 だから迎えに来てもらう必要はない、と匠音が続けると。
《なあに、それには及ばんよ》
 白狼が意外な言葉を口にする。
 え、どういうこと、と匠音が首をかしげると。
「《匠音、お前もまだまだ未熟だな。後ろを見てみい》」
 その声が、何故かオーグギアによる聴覚制御だけでなくリアルに聞こえた気がして匠音は思わず振り返った。
「よう、」
 すぐ後ろに、派手なアロハシャツに短パンといういでたちの老人――永瀬ながせ 白狼が立っていた。

 

 匠音が家を飛び出し、しばらく呆然としていた和美だったがすぐに思い直して体を起こす。
 匠音のGPS情報は既にオフにされ、まだ遠くに行ってはいないと思うもののどこにいるかは分からない。
 どうする、と和美は考え、それからすぐにオーグギアの回線を開いた。
 暫くのコール音。
《おお、和美さんか。どうかしたか?》
 通話に出たのは白狼だった。
 ちょうど匠海の命日に様子を伝えるための連絡はしたばかり、こんな日を置かずに連絡することは稀なので白狼も何かあったと思ったらしい。
 おじいちゃん、ごめんねと前置きして本題に入った。
「匠音が家出したの」
《匠音が。ほほう、あいつやるなあ》
 和美の心配をよそに、白狼が面白そうに笑う。
「おじいちゃん、笑い事じゃないの! 探すの手伝って」
《和美さんがそう言うとはさてはGPSをオフにするくらいの知恵はあったか》
 相変わらず楽しそうな白狼の声音に和美は「こっちは深刻なの」と訴えかける。
《すまんすまん。で、儂は匠音を探せばいいのか?》
 和美さんモルガンの腕ならすぐに探し出せるだろうに、と白狼が言うと、和美は即座にそれを否定する。
「わたしを何だと思ってるの。流石にGPS切られたら特定しようがないわよ」
 それに「モルガン」のことは口にしないで、と和美が続ける。
《ははは、和美さんも魔法使いウィザードになった割にはまだまだひよっこだな》
「おじいちゃん!」
 茶化す和美に白狼が「すまんすまん」と謝る。
《とにかく、儂は匠音を探す。なんなら暫くうちで預かってもいいが?》
 和美に「何が原因で家出された」とは一切訊かず、白狼はそう提案した。
「……お願いしてもいいかしら? 多分、匠音のことだからおじいちゃんに連絡すると思うし」
 匠音なら必ず白狼に連絡する。
 それは匠音にとって白狼が最後の身内になるから、ではあったがもう一つ和美には確信できる理由があった。
「……おじいちゃん」
 改まった声で和美が白狼を呼ぶ。
《なんじゃい》
「匠音にはオーグギアのハッキングは絶対に教えないで」
《ほほう》
 和美の言葉に白狼がなるほどな、と頷く。
《和美さん、まだ匠音にハッキングはさせないつもりか》
 ええ、と和美が頷く。
「あの子にこっちの世界は早すぎる。さっきも匠海の『エクスカリバー』を使い方も分からず振り回して捕まりかけてたのよ」
《ああ、そりゃ駄目だわ。あの固有ツールユニークに必要な基本スキルが全くないのによくやるな》
 だから、と和美は続けた。
「おじいちゃんに『ハッキングを教えるな』と言っても約束してくれないの分かってるから。教えるならせめて魔法使い技能にして」
《ほほう?》
 匠音を魔術師マジシャンではなく魔法使いウィザードにするのか? と白狼が訊ねる。
 まさか、と和美が呟いた。
「匠音のことだからあんなまどろっこしいハッキングなんてやってられないって数日もすれば飛び出すわよ。そこを確保するわ」
《和美さん……》
 和美の言葉に、白狼が真顔になり、それから、
《お前さんもなかなかやるなあ。分かった、和美さんの言うとおりにしよう》
 そう言って面白そうに笑った。
《じゃ、儂は匠音を探すとしますかね》
「居場所、分かるの?」
 ああ、と白狼が頷く。
《GPS情報がオフと言っても信号自体が停止しているわけじゃないからな。実際はちゃんとサーバにデータが送信されている》
 といっても位置情報なんて個人情報の塊はそう簡単に見つかる場所に送信されてないんだよと白狼が説明する。
「じゃあ、そのサーバを教えて」
 わたしがハッキングして追跡するから、と言おうとした和美を白狼が制する。
《まあ、和美さんは数日休んどれ。あのこと、解決してないんだろう?》
「それは……」
 白狼に指摘されて和美が言葉に詰まる。
《根を詰めてもいい結果は得られん。数日休んで、頭を冷やした方がいい》
「おじいちゃん……」
 そう呟くように言ってから、和美は分かった、と頷いた。
「それならおじいちゃんに任せるわ。匠音をよろしく」
《おう、任せとけ》
 そこで通信を切り、和美は小さく息を吐いた。
 正直なところ、匠音にはハッキングの道には進んでもらいたくない。
 しかし、ここまでホワイトハッカーにこだわるのならそれを阻んでしまうのもよくない、と思っていた。
 できれば何度も失敗を経験して、それで諦めてくれればと思っていたが、それでも匠音は諦めなかった。
 それどころか、現在和美が抱えている問題で久々に「モルガン」のアバターをまとったとき、匠音は彼女の前に姿を現した。
 本人は和美=「モルガン」とは気付いていない。
 和美も「第二層」の噂で聞いていた自称ホワイトハッカーの「シルバークルツ」がまさか匠音とは思っていなかった。
 それが、「ニヴルング」でのあの爆発騒ぎで出会い、あまりにも粗削りなそのハッキングに思わずかつて自分が使っていたトレーニングアプリを手渡してしまった。
 それから「第二層」での「掲示板」にアクセスの痕跡を残していたことから心配になって現場を見に行ってみたらの二度目の遭遇。
 トレーニングアプリで多少は腕を上げていたものの、それでも彼はプロキシすら刺さない素人丸出しのハッキングを行い、拘束されていた。
 幸い、IDが完全に暴かれる前に助けることはできたが彼が手にしていた「エクスカリバー」に驚きを隠せなかった。
 まさか、匠音が? と思ったのはその時だ。
 そこで初めて和美は「シルバークルツ」の中身に手を伸ばした。
 匠音であってほしくない、ただハッキングに興味を持っただけの見知らぬ他人であってほしいと思っての行為だったが、結局は「シルバークルツ」が匠音だと確定してしまうだけの結果となった。
 その時点で、和美はこれ以上匠音を止めることはできない、と痛感した。
 もう、好きにさせるしかないのかと。
 それでも諦めきれなくて、和美は匠音にもう一度懇願した。
 その結果が家出これである。
 匠音が家を飛び出しなのなら身を寄せる先は白狼だろうと踏んで和美は連絡した。
 本当は匠音に「中途半端なハッキングをしないように徹底的に叩き込んで」と言おうかとも思ったがそれはそれで彼に「家出されたから帰ってほしくて手のひらを返したのか」と思われそうで言えなかった。
 それに、やはりハッキングは諦めてほしいので考えた苦肉の策が「匠音に旧世代PCでのハッキングオールドハックを教えること」だった。
 匠音がオールドハックを覚えて魔法使いになれば「エクスカリバー」も使いこなせるようになる。それに、基本的に魔法使いは魔術師の上を行く。
 それで匠音が魔法使いへの道を選べば白狼の手ほどきもあって中途半端なハッキングは行わないだろうしオールドハックが嫌だと逃げ出せばそれを理由に諦めさせることもできるかもしれない。
 いや、諦めさせることができなかったとしても別の方向からきっかけを作ることができるかもしれない。
 どう転んでも最終的には匠音が目指す道に正しく導けるような布陣を和美は敷いていた。
 ――匠海ならどうする?
 項垂れつつも首に掛けた匠海の結婚指輪を握り締め、和美が問いかける。
 ――やっぱり、匠音がやりたいことをさせたほうがいい?
 それはその通りだろう。
 匠海が匠音にビデオメッセージで何を伝えたかは分からない。
 それでも、彼は匠音に託したのだ。
 自分の固有ツールユニーク、「勝利呼び覚ます精霊の剣エクスカリバー」を。
 あのツールは和美も託されていたから分かる。
 匠海は、自分も含めてハッキングの道に進む人間を正義に導きたいのだと。
 それならホワイトハッカーを目指す匠音には大きな道標となる。
 ――そうだ和美。匠音の好きにさせるといい。
 ふと、そんな声が聞こえた気がして和美は頭を上げた。
「……匠……海?」
 いやそんなはずがあるわけがない。
 匠海は今ここにいない
 声が聞こえるはずなんてない。
 そこにいるの、と和美が思わず周りを見回す。
 その視界の隅に何かがちらりと掠めるように消えていく。
 見失いたくなくて、さらに視線を巡らせるとそこに一人の小人の妖精ブラウニーがいた。
「……ブラウニー……?」
 そんなはずがない。ブラウニーがここにいるはずがない
 ここに義体の人間など一人もいない。
 そしてなにより……。
 ブラウニーと目が合う。
 ブラウニーが小さく頷いたように見える。
 が、次の瞬間、ブラウニーはくるりと一回転してその場から姿を掻き消してしまう。
「どういうこと」
 まるでブラウニーが自分を励ましてくれたようで。
 和美は呆然とその場に立ち尽くしていた。
 ふと意識を取り戻し、然るべきログを確認するが、やはりブラウニーは和美の元へ来てはいない
「願いすぎて、幻覚を見たのかしら」
 白狼の言う通り、しばらく休んだ方がいいのかもしれない。
 自分を落ち着かせるように和美は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのボトルを手にし、一気に喉に流し込んだ。
 喉を流れる冷たい水にまとまらなかった考えがまとまってくる。
 大丈夫、と和美は呟いた。
 ――必ず、助けるから。
 そう、自分に言い聞かせ、和美はもう一本ミネラルウォーターのボトルを取り出し、自室に戻っていった。

 

 「よう、」と匠音に声をかけた白狼は片手を上げてニコニコ笑っている。
 その今までと変わらない様子に少し不安を覚えていた匠音もほっとして彼に飛びついた。
「じいちゃん!」
「おう、匠音、元気そうだな」
 匠音をハグで迎え、白狼が嬉しそうに笑う。
「家出したって? 最近の若い奴は勢いがあっていいな」
「そういうじいちゃんこそばあちゃんの一人に惚れ込んでアメリカ渡ったんだろ、俺よりスケールでけえよ」
 白狼はかつて日本で生まれた日本人だった。
 それが、日本で出会ったとあるアメリカ人女性に惚れこんでそのまま渡米、結婚して永住権を得てしまった。
 匠音がアメリカ人であるのもそれが理由だったが彼からすれば白狼がやったことは壮大な家出である。
 そのアメリカ人女性が匠音の曾祖母というわけではなく、彼女との死別後に結婚した別の女性が曾祖母にあたるわけだが彼女もすでに死別しており匠音は顔を合わせたことがない。
 白狼は恋多き男性で未だに色んな女性に声をかける女好きを発揮しているが、それでもこの匠音の曾祖母に当たる女性が忘れられず現在は一人で暮らしている。
 実年齢としては既に百歳は超えているだろうが、未だに元気で衰えというものを知らないのかと匠音も思うほどである。
 元々は日本人だったという和美も同郷のよしみということか、よく白狼を頼っていた。
 今回はその曾孫である匠音が白狼を頼った次第である。
「じいちゃん、急にごめんな」
「気にすんな、儂はいつでも大歓迎だ」
 匠音の謝罪に白狼が彼の背中をポンポンと叩きながら安心させるように言う。
「とりあえず、うちに来るか」
「うん」
 白狼の言葉に匠音が頷き、彼から離れる。
「じいちゃん、腹減った」
「おう、じゃあピザでもデリバリーするか」
 どうせ和美さんなかなかデリバリー頼まんだろ? と白狼に言われて匠音は少しはにかみながら頷いた。
 確かに普段は和美の手料理が大半で、彼女がよほど調子の悪い時でない限りデリバリーを頼むことはない。
 デリバリーのピザは滅多に食べられない。白狼の申し出は非常にありがたかった。
 一瞬、和美の鬼のような形相が脳裏をよぎるが今は家出中、何も考えずに白狼に甘えようと匠音は固く誓った。
 白狼について歩きながら、匠音が口を開く。
「ねえじいちゃん」
「どうした?」
 白狼が匠音を見る。
 それに一瞬怯んでしまう匠音。
 ハッキングしたいから教えてくれと頼んでいいものなのか。
 和美のことだから以前から白狼にも「匠音にハッキングを教えるな」とは伝えているだろう。
 それを白狼が律儀に守るかどうかは分からなかったが、それでも訊いていいものかどうか悩んでしまう。
 が、匠音は思い切って口を開いた。
「じいちゃんも魔術師なんだろ? ハッキング教えてくれよ」
「ん?」
 白狼が一瞬聞き返すようにそう声をあげ、それからニヤリと笑う。
「匠音?」
 えっ、と匠音が一瞬身をすくめる。
 やはり、ダメなのかと覚悟すると。
「人に物を頼む時は言い方があるだろうが」
「え、そこ?」
「そう、そこ」
 ドヤァ、と白狼がドヤ顔をする。
 えぇー……と匠音が声を漏らした。
「……うぅ……じいちゃん、ハッキング、教えてください」
 背に腹は変えられない、と思ったのか匠音は素直に頼み込んだ。
 おう、と白狼が頷く。
「じゃあ、報酬の話をしようか」
「金取るのかよ!」
 思わず匠音が抗議する。
 当たり前だろうが、と白狼は相変わらずのドヤ顔で言う。
「何かを得るなら何かを失う、それは当たり前のことだろうが」
「えぇ~……」
 俺、そんなに金持ってないし……と呟く匠音に、白狼はワハハと豪快に笑った。
「金じゃねえよ。ほら、あれだ、匠音のクラスメイトの女の子をちょっと紹介してくれれば」
「はぁ!?!?
 思わず匠音が声を荒げる。
「じいちゃん、自分何言ってるか分かってる? 俺のクラスメイト何歳だと思ってんだよ!」
「十四歳のピチピチギャル」
「じいちゃん!!!!
 流石にその条件は飲めない、と匠音は突っぱねた。
 一瞬、何故かメアリーの顔が浮かぶが彼女をこのエロジジイに差しだすわけにはいかない。差し出してしまえば何が起こるか分からない。
 なにはともあれ、何としてもそれだけは阻止しなければいけない。
 それでもハッキングのレクチャーは受けたいもので、さてどうしたものやらと匠音が悩み始めると。
 白狼がポン、と匠音の背中を叩いた。
「冗談だ。だが、儂のレクチャーはぬるくないぞ?」
「え、いいの!?!?
 思わず食い気味に匠音がそう確認する。
 勿論、と白狼は豪快に笑う。
「匠海にハッキングを教えてくれと言われた時も同じことを言った気がするわ」
 思い出すなあ、と感慨にふける白狼。
 それとは逆に、匠音はドキリとして白狼を見上げた。
「……父さんが?」
 匠海にハッキングのイロハを教えたのは白狼だったのか。
 何故か、ここで父親とのつながりを感じてしまいほんの少しだけ嬉しくなる。
 今、自分は父親が歩いた道を歩こうとしているのだと。
 ああ、と白狼が頷く。
「匠海がハッキングの世界に踏み込んだのは事故の前の年だったがな……あいつは筋が良かったんだ、その子供のお前もいい線行けるんじゃないか?」
 そういえば匠海がルーキー杯で優勝したのは事故のあった年の一月だったことを思い出し、匠音はそんな短期間で、と考えた。
「実際儂に教えを乞うてきたのは事故のあった年のはじめ……ルーキー杯の直後だったか? 実際には他に師匠がいたらしいから儂が教えたのはより実戦的な応用編を少しだったがな」
 なるほど、と頷きながら匠音は改めて父親の魔術師としての素質を考える。
 一年にも満たない期間でスポーツハッキングの大会でもかなり上位に位置する「Nileナイルチャンピオンズトーナメント」に出場、「キャメロット」を優勝に導くほどの実力を付けた匠海。
 いい師匠に恵まれたからかもしれないがそれでも匠音は「父さんに追いつけるのだろうか」とふと思った。
 実際のところ、独学とはいえ「ニヴルング」を悪用するハッカーの一部を通報できるほどの腕は匠音にはある。
 あの「黒き魔女モルガン」にもツール選択の正確さと反応速度は認められている。
 それなら、もしかして、と匠音はほんの少しだけ期待した。
 ――父さんに、追い付けるかもしれない。
 いつか追いついて、追い越して。
「じいちゃん、俺、強くなれると思う?」
 白狼について歩きながら匠音は思わずそう尋ねていた。
「さあ、どうだろうな」
 そんなもんは知らん、と答える白狼。
「お前次第だよ。『エクスカリバー』を使いこなせるかどうかは」
 儂が教えるのはまずそこからだ、と白狼が続ける。
「じいちゃんはあのツールがどういうものか知ってるの?」
 匠音の問いかけに、白狼がああ、と頷く。
「だが、儂からは教えん。あれは自分で真の力を見つけるべきだ」
 白狼としては「エクスカリバー」が魔法使いの必須技能であるコード入力が必要であるということはよく理解している。
 また、自身も魔法使いである彼にも扱えるツールであることも分かっている。
 しかし、それでも白狼は「エクスカリバー」を受け継ごうとはしなかった。
 和美が所持していることは知っているしその使用を止めようとは思わない。
 匠音も所持しているが使い方を理解していないのは和美からの連絡で承知済み。
 それでも白狼は「エクスカリバー」を受け取らなかった
 匠海のビデオメッセージは白狼も確認している。当然、メッセージの最後に添付されたアバターとツールは一度は白狼の元に届けられた。
 それでも、白狼は自分のストレージからその二つのデータを削除した。
 自分には受け継ぐ資格などないとばかりに。
 あの時、和美のはらにいた匠音こそがいつか受け継ぐべきツールだとして自分の手元には残さなかった。
 あれから十五年。
 匠音は自分から扉を開き、「エクスカリバー」を手にした。
 それを振るうのに相応しい魔術師かどうかはまだ分からない。
 ツール自体は手にしているかもしれないが、今の匠音は台座に刺された聖剣を前にした状態。引き抜く権利があるのかどうかはこれから見届ければいい。
 使い方を教えるのは簡単だ。和美に言われた通りPCでのハッキングオールドハックを教えるのだからそれを応用するだけでいいと言ってしまえばそれだけである。
 だが、白狼はそれを教えるつもりはなかった。
 勿論、きっかけとしての入力コードは教えるかもしれない。
 しかし、具体的なことは教えない。
 それは自分で掴んでこその「エクスカリバー」だから。
 そっか、と、匠音がほんの少しだけしゅん、とするがそれでも白狼にハッキングを教えてもらえることが純粋に嬉しいらしく足取りが軽い。
 色々とハッキングについて話すうちに二人は白狼が住むアパートメントに到着し、部屋の中に入る。
 部屋の隅に申し訳程度に片付けられたデリバリーのパッケージに、匠音は、
「じいちゃん、デリバリーばっかだと体壊すぞ」
 と、思わず苦言を呈してしまっていた。
「大丈夫だよ、儂はそう簡単にくたばらんわ」
 テーブルの上に置かれたピザの箱を避けつつ、白狼が笑う。
「ピザどうする? パペロニでいいか?」
 儂のお気に入りの店があるんだ、そこのパペロニが絶品でな、と続ける白狼に匠音は何度も頷く。
 アメリカには大手のピザチェーンは何件もあるが個人経営のデリバリーもそれなりにある。
 大手は高いと言われがちだが小規模なチェーンや個人経営のデリバリーは意外と安く、店によってはトッピングを追加しても値段が変わらないこともある。
 そんな群雄割拠のピザ大国アメリカの中で、白狼が気に入っている店となると。
 そこまで考えて匠音は思わず身を震わせた。
 白狼がそこまでゲテモノ好きな人間だとは思わない。が、ピザに関してはその限りではなくて実はとんでもないものが好きだったら確実に地獄を見る。
 ピザの中でもオーソドックスなパペロニピザだからハズレを引くことはそうそうないだろうが、何故か不安が匠音の脳裏を駆け巡る。
 そもそもこの白狼という男、南国かぶれで玄関には東南アジアの謎の置物やら仮面やら曼荼羅などが飾ってある。
 たまに遊びに行くと南国のドリンクが出されるのは当たり前である。
 そう考えると味覚も自分とは違うのでは、と思い、匠音は恐る恐る白狼を見た。
「じいちゃん」
「ん? なんだ?」
 不安そうな匠音の顔を見て白狼が不思議そうに首を傾げる。
「そのピザ、美味しい?」
 パペロニピザって言ったけど他に変なトッピング乗ってたりしないよね? と尋ねる匠音に、一瞬呆気に取られたものの白狼はすぐに笑い出した。
「何言っとる。普通のピザだよ。儂もピザくらいは普通のやつ食うわ」
 ならよかった、と匠音がほっと胸を撫で下ろす。
 じゃあ注文するぞ、と、白狼が空中に指を走らせ、デリバリーの注文画面に入る。
「飲み物はコーラでいいか?」
「うん、大丈夫」
 部屋に飾られた様々な南国装飾を見回しながら匠音は頷いた。
 その中で、ふと、水晶でできた髑髏どくろに目が止まる。
「あれ、じいちゃんこんなの買ったの?」
 前に来た時は見た記憶がない、と匠音が棚に近寄り、髑髏に手を伸ばす。
「あ、匠音それに触るな!」
 白狼が慌てたように匠音を止める。
 が、匠音は既にその髑髏に触れてしまっていた。
 その瞬間、視界を駆け巡るサブリミナル映像と聴覚に届く大音量のノイズ。
「あばばばばばばば」
 普段、つまみ食いして和美から送られるよりもずっと強力なSPAMスパムに匠音が目を回す。
 咄嗟に白狼が空中で指を鳴らすとそれは瞬時に停止したが、それでも匠音には相当なダメージだったようで、彼はふらりとその場に膝を付いた。
「……じ、じいちゃん……」
 なんで置物触ったらSPAM飛んでくるの、と匠音が弱々しく呟く。
「すまん、防犯用のトラップ、それ……」
 泥棒とか入ってきてもそれで撃退できるから、と言い訳しつつ白狼は匠音をソファに運び、寝かせる。
「だから母さん、じいちゃんの家にあるものは触るなって……」
 和美にきつく言い渡されていたことの理由をここで初めて知り、匠音は唸った。
 こんな、特に何のデジタル加工がされていないような置物にトラップを仕掛けるとはじいちゃん、恐るべし……と匠音は改めて白狼の腕を認める。
「とりあえずピザが来るまで寝ていろ。届くまでトレーニングについて話そうと思っていたがそれじゃ頭が回らんだろうからな」
「じいちゃん、ごめん」
 匠音が謝り、そのまま伸びてしまう。
「……一端いっぱしの魔術師なら、これくらい対処できるんだがな」
 匠音がどれくらいの実力を持っているかはこれで大体把握した。
 これは先が思いやられるな……と思いつつ、白狼は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、ひと息に飲み干した。

 

「ねえ、じいちゃん」
 届いたピザを二人で食べ、コーラも飲み干した匠音が改まったように白狼を見る。
 時間は夜もそろそろ更けようかという頃、普段ならもう寝ろと言われる時間ではあるが今日は土曜日、多少は夜更かししてもいいだろう。
 急に改まった匠音を、白狼が見る。
「どうした? ハッキングの特訓なら明日からでもいいだろ」
「いや、そうじゃなくて……ちょっと訊きたいことがあるんだ」
 匠音の言葉に白狼がほほう、と彼を見る。
「どうして母さんは俺がハッキングするの嫌がるんだろう」
 匠音の中でずっと残り続けている疑問。
 その理由に匠海の影がちらついていることは薄々分かっていたが、それでも納得するには程遠い。
 それに和美がスポーツハッカーを辞めたのも気になる。
 なんだ、そんなことか、と白狼は呟いた。
「んなもん、危険だからに決まっとるだろうが」
「だったらちゃんと教えてくれれば自分で回避くらいするって」
 危険だから、で禁止されればそれこそ昼間のように無謀なことをして捕まりかねない。
 匠音がそう言うと、白狼は「そういうところだぞ」と窘めてきた。
「普通、危険だと言われたら手を引くもんだ。まぁ……和美さんは匠海が事故に遭ったのは自分のせいだと思っているからな。お前に同じ道を歩いてもらいたくないんだろう」
「でも、母さんはランキング一位、父さんも二位だったんだろ? 事故だって別にたまたまだったんじゃ……」
 匠音は事故の真相を知らない。
 だからどうしても意図的に起こされたものという認識を持つことはできなかった。
 だが、白狼は首を横に振ってそれを否定する。
「あの事故は意図的に起こされたものだよ」
「え、」
「和美さんが言っていないようだからこの際言うが、あの事故は偶然なんかじゃない。和美さんにハッキングされた企業が、和美さんに報復するために起こしたものだ」
 はっきりと、白狼が匠音に説明する。
「つまり、現実で攻撃リアルアタックされたわけだ。和美さんほどの魔術師でも、下手をすれば報復されるんだよ」
「……そん、な……」
 匠音にとってリアルアタックはそう簡単に起こるものではないという認識だった。
 しかし、実際は母親が経験し、その末に父親を喪ったという事実が彼にのしかかる。
 ランキング一位になるほどの腕を持つ和美がこれなら、自分はどうなる、と匠音は身震いした。
 和美が「ハッキングを辞めろ」という理由が身に染みて理解できる。
 確かに、自分程度の腕では。
 いや、いくら企業がリアルアタックをしたと言ってもそんなすぐにわかる方法ではないだろう。
 それこそ腕のいい――スポーツハッキング界には存在しないような凄腕の魔術師が雇われていたとすれば。
 そこで匠音はふと「モルガン」の言葉を思い出した。
 ――「黒騎士ブラックナイト」を追ってみなさい――。
「ねえじいちゃん」
 匠音が食い入るように白狼を見て尋ねる。
「『黒騎士』って知ってる?」
「なっ――」
 匠音の言葉に、白狼が硬直する。
 やっぱり知ってるんだ、と匠音はさらに質問した。
「母さんを攻撃――いや、父さんを殺したのが『黒騎士』なの?」
 白狼から聞かされた事故の真実から導いた匠音の答え。
 あの事故を起こしたのが「黒騎士」で、「モルガン」もまた彼を追っているのではないのか、と。
 だが。
「違う」
 匠音の質問を、白狼が否定する。
「『黒騎士』は犯人じゃない。そもそも、あの事故を起こした犯人は既に儂と和美さんで特定して逮捕してもらっている」
「えっ」
 想定していなかった回答に、匠音がたじたじとする。
「じゃあ、どうして『黒騎士』を追えって……」
「匠音、その名前をどこで聞いた」
 匠音を見据え、白狼が尋ねる。
「どこって、あの、『第二層』の掲示板で……」
 「『モルガン』から聞いた」とは言えず、匠音が咄嗟に嘘をつく。
「そうか……」
 匠音の嘘に気づいたかどうかは分からない。
 だが、白狼は小さくため息をつき、そして口を開いた。
「匠音、匠海のスクリーンネームは知ってるよな」
「え、父さんのスクリーンネームって『アーサー』だよね」
 匠音の答えに白狼がああ、と頷く。
「じゃあ、裏の名前は」
「裏の名前?」
 どういうことだ、と匠音は首を傾げた。
 魔術師であるならスクリーンネームがあるのは当たり前だが、サブアカウントでも持っていたということだろうか。
 そうか、と白狼が呟く。
「落ち着いて聞け。『黒騎士』は、匠海の裏の名前だ」
「え――」
 全く想定外の白狼の言葉に、匠音が言葉に詰まる。
 ――父さんが、「黒騎士」――?
「匠海も和美さんと同じく正義の魔術師ホワイトハッカーだった。と言っても実力はあった、という程度の駆け出しだったがな」
 だからあの事故もギリギリで察知することができて和美さんを庇えた、と白狼が続ける。
「ホワイトハッカーというものは幻想なんだよ、匠音。匠海も、和美さんもホワイトハッカーとしてこの社会の闇を打ち払う希望だった。だが、それももういない」
 黒騎士を喪ったことでモルガン和美さんもホワイトハッカーを辞めた、と白狼は言った。
 実際のところ、和美は完全にホワイトハッカーを辞めたわけではない。
 「第二層」での噂は時折耳にする。
 しかし、それでも企業に戦争を仕掛けることもなく、ただ細々とネットワーク上のトラブルを解決していくだけ。
 それほど、黒騎士匠海の死が呼び水となり大きな損失となっていた。
 和美はそれを危惧しているのだ。
 匠音もホワイトハッカーになることで無駄に企業に戦争を仕掛け、報復されるのを。
 まだ競技魔術師スポーツマンになるだけなら許容はできたかもしれない。
 しかし、匠音の性格上必ず裏の世界に足を踏み込む。
 実際、彼は駆け出しのホワイトハッカーとして裏の世界に足を踏み込もうとしている。
 その、和美の危惧を理解しているから白狼も大手を振って「ハッキングの世界ようこそ」とは言えなかった。
 せめて、もっと基本的な知識を身につけてから。
 いや、そもそもハッキングの世界に踏み込むべきではない。
 これだけの事実を知って、匠音はどうするつもりなのか。
「どうする、それでもハッキングを続けるというのか?」
 畳み掛けるような白狼の言葉。
 ハッキングを続けるべきか、辞めるべきか。
 ほんの一瞬、匠音は迷った。
 自分の身に何か起こることで和美を苦しめたくない。それは確かだ。
 しかし、それでも。
「……じいちゃん、」
 おずおずと、匠音が口を開く。
 白狼が匠音を見る。
「じいちゃん、俺にハッキングを教えて……ください。俺、母さんを守るって決めた。母さんがもう狙われてるとは思わないけど、俺も、自分の身を守れるくらいには強くなりたい」
「簡単な話じゃないぞ? それに、並の魔術師で済むと思うなよ。儂が教えるのはそのさらに上だ」
 白狼の言葉に、匠音が真剣な面持ちで頷く。
「まあ、儂のレクチャーを理解すれば『エクスカリバー』くらい使えるようになるさ。あれを使いこなせればその辺の魔術師には負けないだろう」
「うん」
「分かったならとっとと寝ろ。明日からみっちりやるからな」
 そもそもあのSPAMまともに喰らっといてまだ今日も練習するとか無駄だ無駄、やめとけ、と白狼が続ける。
「とりあえず儂はここで寝るからお前は儂のベッド使え。安心しろ、シーツは換えてある」
「いや、いいよじいちゃん。俺ソファでいいから」
 慌てた匠音が両手を振り、ソファに寝転がる。
「じいちゃんは自分の部屋で寝ろよ。俺のことは気にしなくていいからさ」
 匠音の言葉に白狼がそうか、と小さく頷く。
「じゃあ、儂は部屋に戻る。何かあったらすぐ呼べよ」
 うん、と匠音が頷き、ソファに置いてあったブランケットを体にかける。
「じゃあおやすみ。いい夢を」
「おやすみ、じいちゃん」
 そう言った瞬間、どっと疲れが出たのか匠音を睡魔が包み込む。
 そのままずるずると眠りに落ちる匠音。
 それを見守った白狼がアシスタントAIに指示を出して部屋の照明を落とす。
 自室に戻り、彼は回線を開いた。
 数度のコール音の後、和美が応答する。
《おじいちゃん、匠音は?》
「ああ、寝たよ」
 声をひそめ、白狼が答える。
「和美さん、匠海のこと何も教えてなかったのか?」
 真っ先に出た話題はそれだった。
 和美が躊躇いがちにええ、と頷く。
《興味ないことを無理に教えても分かってもらえないからと思って……でも、せっかく興味持ってくれたのに、わたしは、何も言えなかった》
 それどころじゃなくて、と和美が呟くように言う。
「……あのことか?」
 今、和美が抱えている問題は分かっている。
 白狼も協力を求められているし和美の父親、日和ひよりも動員されているらしい。
 ええ、と和美が頷く。
《ごめんね、おじいちゃんに色々押し付けちゃって》
「気にしなさんな。和美さんにも言いづらいことはあるだろう」
 特に事故関連は和美が原因である。彼女の口から言うには荷が重すぎるだろう。
「まあ、匠音には事故のことと『黒騎士』の話はした。その上でハッキングを続けるかと訊いたがあいつは曲げなかったからな。相当なものだよ」
 普通、あんな話を聞かされたら諦めるぞと言いつつも白狼はどこか嬉しそうである。
《でも、わたしは軽蔑されるでしょうね。匠海を見殺しにしたんだから》
「それは違うだろ、和美さん」
 和美の言葉を白狼が即座に否定する。
「匠海が和美さんを庇ったのはあいつの意思だ。匠音を守りたいという、な。それに匠音はまだ和美さんを守りたいって言ってたぞ」
《え……》
 信じられない、と和美が呟く。
 和美は匠音が時々母子家庭のことでいじられているのは知っていた。
 本人は口にしなかったが父親がいなくて寂しい思いをしていることは気づいている。
 「知らない人」ではあったが、それでも本当はいてほしかった、それくらいは分かる。
 そうなったきっかけが和美のハッキングで、リアルアタックされて、それを庇ったから、である。
 「母さんのせいで」と言われてもおかしくない。
 しかし、それを知ってなお匠音は「母さんを守りたい」と言った。
 数少ない身内だからという理由もあるだろう。
 だが、それだけで言えるような決意でもない。
 相当な覚悟だぞ、と白狼は続けた。
「匠音のその覚悟を無駄にするな。今回は和美さんの言う通りにオールドハックしか教えないが、戻ってきたらせめて匠海と同じNileチャンピオンズトーナメントに出られるくらいにはスポーツハッキングで腕を磨けというくらいにしたほうがいい」
 素質はあると思ったんだろう? だったらいい加減認めてやれ、と白狼は説得するように和美に言う。
《そうね……わたしも意固地になりすぎたのかもしれない。怖かったのよ、匠音まで喪うのが》
 白狼にそうこぼし、和美は頷いた。
《おじいちゃん次第ね。おじいちゃんの特訓で見込みがあるなら解禁するわ》
「了解。和美さんもびっくりするほどの魔法使いウィザードに仕上げておく」
 そう言って、白狼はニヤリと笑った。
《その笑いするおじいちゃん、大抵悪いこと考えてるんだけど》
「なにをう。儂はいたって真面目だぞ」
 とにかく、ゆっくり休め、と白狼が続ける。
《ええ、分かったわ。おじいちゃんも、匠音をよろしく》
 和美の言葉に、おう、とだけ応えて白狼は通話を切る。
「……おやすみ、和美さん」
 いい夢を、と白狼が低く呟く。
「……さあて。儂はもうちょっと頑張りますかね」
 和美の不安を取り除くために。
 失ったものを取り戻すために。
 PCを操作し、白狼はターミナルを起動した。
「……待ってろ、匠海……」
 そう呟き、白狼は「第二層」に侵入ダイブした。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 翌朝。
 目を覚ました匠音は見慣れない景色に一瞬戸惑う。
「そうだった」
 家出して、白狼じいちゃんに泊めてもらってるんだったと思い出し、目をこする。
 それから、違和感に気づく。
「あれ?」
 ――そういえば、オーグギア外したっけ。
 視界にUIが表示されず、さらに昨日は外して寝た記憶がない。
 ちら、と部屋の中の充電用クレードルを探すも見つからず、まさか、と身震いする。
 ――寝てる時に落とした?!?!
 慌てて体を起こし、匠音はソファの上を見た。
 パッと見た限り、オーグギアが落ちている気配はない。
 ソファの隙間や下なども見るが、どこにもない。
 まずい、と匠音が慌てる。
 あれがなければハッキングも何もできない。
 家出して早々こんなことになるとは、と匠音が床に這いつくばってオーグギアを探していると、ドアが開いて白狼が顔を出した。
「おう、匠音起きたか」
「あ、じいちゃん、おはよ」
 ブランケットをめくりながら匠音が挨拶する。
「おう、おはよう」
 そう言って白狼は匠音を見る。
「もしかして、これを探しているのか?」
 その声に、匠音がはっとして白狼を見る。
 白狼の手にはオーグギアが握られていた。
 それも、今匠音が探しているもの。
「じいちゃん、それ、どこに」
「ああ、寝てる間に回収させてもらった。中も確認したが色々入れてるなあ……」
 結構無駄なツールも入れやがって、と白狼が手の中で匠音のオーグギアを弄ぶ。
「じいちゃん、返して」
 匠音が白狼に手を伸ばす。
 それを拒否するかのように白狼はオーグギアを握りしめた。
「おっと、これは返せん」
「ハッキング教えてくれるんじゃなかったのかよ」
 オーグギアがなければ何もできないじゃん、と反論する匠音に白狼がニヤリと笑う。
「ああ、もちろん教えるとも。だが、今日はオーグギアなしだ」
 白狼の言葉に、匠音がえっ、と声を上げる。
「オーグギアなしでハッキング? どういうこと」
「とりあえずこっちへ来い」
 白狼が匠音を自分の部屋へ招く。
 白狼の家には何度か来ていたが、一度も入ったことのない彼の部屋。
 匠音が足を踏み入れるとそこはデリバリーの箱が散らばるリビングとは違い、整然と片付けられていた。
 九月後半に入ったがエアコンは強めに設定されており、何となく肌寒い。
 そしてデスクの上に置かれた大型ディスプレイと複数の入力デバイス、デスク周辺に置かれた複数の機械。
 いわゆる「旧世代PC」だ、と匠音は思った。
 ハッキングに旧世代PCを使う人間は数少ないものの存在することは「魔法使いウィザード」の存在で分かっている。
 まさか、じいちゃんも魔法使いだったのか、と考えている間に白狼は匠音の肩にハンガーにぶら下げていたカーディガンを掛け、椅子に座らせる。
「匠音、普段メール打つときはどうやって入力している?」
「え、音声入力」
 突然の白狼の質問に、匠音が首をかしげながら答える。
「キーボードは?」
「授業で使うから使えないことないけど?」
 実際、何もかもを音声入力で行うと授業中などもうるさくなるので入力自体は視界に映り込むホロキーボードを使ことも多い。
 とはいえ、普段のオーグギアの操作は既に表示されているコマンドやボタンのタップ、モーションによる入力が多いため文字入力の機会が多いかと言われると案外少なかったりする。
 なるほど、と白狼が頷き、匠音をデスクの前の椅子に座らせた。
 人間工学に基づいた、長時間座っても疲労が出にくいように設計されたその椅子に匠音がおおー、と声を上げる。
「じいちゃん、この椅子すごく座りやすい」
「だろ? 高かったんだぞそれ」
 そんなことを言いながら白狼がデスクの上の入力端末に触れる。
 握り込むように持ったその入力端末の親指部分にある球体を転がすとディスプレイ上でポインタが動き、白狼の手の動きに合わせて画面が切り替わっていく。
「じいちゃん、なにそれ」
 デスク上にあるキーボードは分かる。キー配置も普段使用しているホロキーボードと同じだから迷うことはなさそうである。
 しかし、白狼が右手で使用している入力デバイスは匠音にとって見たことのないものだった。
 これか? と白狼が入力デバイスを手に取り匠音に手渡す。
「トラックボールだ。この球の部分でポインタを動かしてこのボタンで決定、このホイールでスクロールできると思えばいい」
 入力デバイス――トラックボールを手渡された匠音がへー、とそれを眺める。
 そこまでしてから、彼は漸く白狼の意図に気づいた。
「じいちゃん、もしかして……ハッキングって、オールドハック?」
「そりゃそうだろ。儂と言えばオールドハックぞ? もちろんオーグギアハックもやるが儂に教えてもらいたい、となると教えるのはオールドハックよ」
 マジか、と匠音が呟く。
 オーグギアでのハッキングですらまだまだと言われる自分がいきなりオールドハックを教えられて理解できるのか。
 オールドハックを行う魔法使いウィザードがオーグギアハックを行う魔術師マジシャンの上位存在という知識くらいは匠音にはある。
 だがそれもオーグギアハックの技能あってこそのオールドハックだと思っていた匠音には「いきなり飛び級みたいなことするのかよ」という認識となった。
 だから、匠音は「無理だ」と考えた。
「じいちゃん、俺、オーグギアハックだって心許ないらしいんだよ? いきなりオールドハックやってできると思う?」
 思わず、そう訊ねる。
「あぁ? オーグギアハックとオールドハックは別物ぞ? オーグギアハックの知識があれば多少は有利になるが別に必須技能じゃないしむしろ昔の人間はオーグギアなしでハッキングしてたぞ」
 それにお前の噂は「第二層」でもそこそこ上がっているからそこまで無能じゃないだろ、「シルバークルツ」? と白狼が指摘する。
「げ、じいちゃん知ってたの?」
 まさか白狼に自分の裏の名スクリーンネームが知られているとは思っていなかった匠音が声を上げる。
「それは勿論。和美さんも『シルバークルツ』の存在は認識していたが敢えて放置してたんだぞ。お前さんのリアルはある程度の腕があれば簡単に割り出せるわ」
 そんなガバい防御でよくやってたな、と言いつつも白狼は匠音からトラックボールを返してもらい、キーボードを操作しつつも何かを起動する。
「ほい、初心者にはまずこいつからだ」
 そう言って白狼がトラックボールを操作するとディスプレイに一つのウィンドウが表示された。
 ウィンドウ内部の表示は先ほどまで表示されていた白狼のPCのデスクトップに酷似しているが、細かいところは違う。
 何しろウィンドウの上部には「Hack Net The Game」とタイトルが表示されている。
「……ゲーム?」
 ああ、と白狼が頷く。
「何事もスタートは遊びからだ。そいつはオールドハックの基本コマンドから練習できる。まぁ実践には程遠いが入門にはちょうどいいだろ」
 ほい、と白狼が匠音にトラックボールを握らせる。
「じいちゃん、俺はオーグギアハックがやりたくて別にオールドハックは……」
 困惑したように匠音が言う。
 自分はオールドハックに興味はない。オーグギアでハッキングを行い、困っている人間を救いたいだけだ。
 だが、それを見越したかのように白狼が口を開く。
「何事も基本は大切だぞ。オーグギアハックを極めたいならまずオールドハックを理解しろ。極めろとは言わんがオールドハックを理解していればそれだけオーグギアハックの上達が早い。つべこべ言わずに練習しろ」
 白狼はどうやっても匠音にオールドハックの練習をさせたいらしい。
 どうやらこれはトレーニングしないとオーグギアも返してもらえそうにない、と匠音は観念した。
 慣れない手つきでトラックボールを操作し、ゲームを開始する。
「……なんも分からん……」
 ハッキングを題材としたゲームではあるが、ストーリーはちゃんと存在するらしい。
 チュートリアルも完備されているのでコマンド自体に悩むことはないが、オーグギアでのハッキングを教えてもらえると思っていた匠音にとってはとんだ肩透かしである。
 渋々ではありながら手を動かし、匠音はキーボードに指を走らせた。
「……匠海の小さい頃を思い出すな」
 PCに向かう匠音を見守る白狼がぽつり、とそうこぼす。
「? 父さんを?」
 白狼の言葉に匠音が思わず振り返った。
 ああ、と白狼が頷く。
「匠海は小学校エレメンタリースクールの頃から大学に上がるまでは儂と住んでたからな。その時にハッキングは教えてなかったがPC自体はずっと触らせていた」
 いや、お前が今やってる「Hack Net The Gameそいつ」は匠海も遊んでたなと言いつつも白狼が懐かしそうに目を細める。
「お前も匠海みたいに強いハッカーになりたいなら基本はしっかり固めろ」
「父さんが……」
 匠海の名前を出されると投げ出すわけにはいかない。
 別に父親を超えようと考えていたわけではないが、匠海に和美を託された上にあの「モルガン」に近づくためには実力を付けなければいけない。
 そのための目標として匠海はとても高いハードルではあったがいつかは到達したいと思えるほどのものであった。
 匠海が昔こんな古臭い旧世代PCを触っていたというのなら自分も扱えるようになりたい、そんな思いが胸をよぎる。
 分かった、と頷いて匠音はPCに向き直った。
 少しでも匠海に近づきたい、ただその思いだけで。

 

「……じいちゃん」
 「Hack Net The Game」のストーリーモードの序盤が終わったころだろうか。
 時間は昼前、気付けばストーリーに惹き込まれていた匠音がちょっと疲れた、と頭を上げて白狼を見る。
「どうした、腹が減ったか?」
 そう言われて匠音ははじめて空腹を覚えるが白狼に声をかけたのはそれが理由ではない。
「そういえばさ、昨日じいちゃんは父さんの裏の名前が『黒騎士ブラックナイト』って言ってたよね。駆け出しのホワイトハッカーって言ってたけど、どんな感じだったの」
「どんな感じだった、か……」
 曖昧な匠音の質問に、白狼が顎に手を置いて考える。
「……まぁホワイトハッカーとして活動し始めたのは春先だったからな……その頃はまだ『モルガン』の助手みたいな感じだったしな……」
「『モルガン』? え? あの魔女の助手?!?!
 白狼の口から洩れた意外な名前に匠音が思わず声を上げる。
「え、じいちゃん『モルガン』知ってるの?」
「おっと口を滑らせた」
 恐らくは思わず口から洩れた言葉だったのだろう。匠音に指摘されて白狼が慌てたように口をつむぐ。
「『モルガン』とは正体はじめとして情報は漏らさないという取り決めだからな、これ以上は何も言えん」
「え、じいちゃんずるい」
 「黒騎士」も気になるが「モルガン」はそれよりも気になる存在である。何しろ「黒騎士」と違い、現在も生きて活動している。
 もしかしたら接近するきっかけを作ることができるのではと期待した匠音だったが白狼にそう言われて思わずブーイングを飛ばす。
「駄目なもんは駄目だ。まぁ、でも『黒騎士』のことならいくらでも教えるぞ」
「あ、それは聞きたい」
 「モルガン」の方が気になるとはいえ「黒騎士」も匠海に近づくには必要な話題である。
 それに、昨日事故の真相を聞かされたとはいえまだまだ分からないことも多い。
 もしかしたらあの匠海の命日あたりから何やらトラブルに巻き込まれているらしい和美のことも何か分かるかもしれない。
 これは匠音の魔術師としての勘だった。
 和美が巻き込まれたトラブルは、仕事のことではなくて何かしら匠海に、あの事故に関するものなのではないかという。
 分かった、と白狼が頷く。
「まぁ話はお前がそいつをプレイしながらだ。時間は有限だからな、しっかり練習しろよ」
 そう言いながら、白狼は匠海――かつて「黒騎士」と名乗っていたころの話をぽつりぽつりと語り始めた。
「そもそも、あいつが『黒騎士』と名乗るようになったのはスポーツハッカーとしてのスクリーンネームが『アーサー』だった、というのもあるな。『モルガン』が『黒き魔女』とも呼ばれてたのもあって騎士つながりの黒騎士にしたんだろうな」
「そもそもどうして『アーサー』になったの?」
 「アーサー王伝説」が元ネタにしてもいきなり主人公の名前使う? と呟く匠音に白狼がいや、とそれを否定する。
「スポーツハッカーになった直後は別の名前、というかアーサー王の本名じゃないか? とか考察されていた別の名前を使っていた。そもそも『アーサー』はブリテン式の命名規則で考えるとあだ名の一種じゃないかとも言われてるしな。ある事件をきっかけに匠海のスクリーンネームは『アーサー』になってな」
「何その事件って」
 元々は別のスクリーンネームを使っていた、というのはなんとなく納得できる。
 自分も「シルバークルツ」というスクリーンネームを使っているが「アーサー」ほどの有名な元ネタのある名前を付けるとなるとかなりの勇気がいるだろう。
 しかし、とある事件をきっかけに匠海が「アーサー」と名乗るようになるとは。
「お前が生まれるきっかけにもなった事件だな。匠海と和美さんは一度ハッキングでぶつかり合った。その時に勝利したのが匠海で、その時のどさくさに紛れて匠海は和美さんに告ったんだよ」
「はえー……」
 ――父さん、なんでどさくさ紛れに告白してんの。
 とはいえ、それがなければ二人は付き合わなかった可能性もあるわけでそこは感謝するしかないだろう。
 確かに匠海が所属していたチームは「アーサー王伝説」由来の「キャメロット」だ。和美が「マーリン」であることを踏まえても「アーサー」を名乗るのは妥当なところかもしれない。
「元々は当時不在だった『アーサー』枠の候補として『キャメロット』にスカウトされたらしいからな、当然の結果だろう。一部では『騎士王』と言われた『アーサー』だ、裏の名が『黒騎士』になるのも自然な話だな」
 なるほど、と匠音が頷く。
 単なる厨二病を拗らせてのネーミングではなかったのか、と考えつつも匠音が指を動かす。
「じいちゃん、難しいって」
「そこ、スペル間違ってる」
 そんなやりとりも交えつつ暫くは会話が少ない状態が続く。
「……父さんは……『黒騎士』としてどう動いてたの?」
 白狼に手助けしてもらいながら暫くコマンドと格闘していた匠音が不意にそう尋ねた。
「どう動いてた、か……基本的には『モルガン』のサポートをしていたな。たまには一人で悪徳企業見つけ出しては世間に公表したりしてたが」
「結局『モルガン』って何者なんだよ……って、聞いちゃいけなかったか」
 それだけあの魔女はすごい魔術師だったのか、と思いつつも匠音は首を傾げる。
「でも、『モルガン』のあの態度……父さんのリアルを知ってたっぽいしなんか特別な感情持ってた気がするんだよなあ……」
「なんじゃい、お前『モルガン』に会ったことあるんか」
 白狼の言葉に、匠音があっと声を上げる。
 自分が「モルガン」に遭遇したことは誰にも言っていないし言わないつもりだった。
 そもそも「モルガン」は「第二層」の魔術師のうちでも存在するとしないとも言われている亡霊級の魔術師。
 亡霊級とは「存在は確認されているものの中の人がいるのか?」と疑問視されるほどネットワークやシステムに精通した、超が付くほどの魔術師。
 単純な技能だけで言えば白狼こと「白き狩人ヴァイサー・イェーガー」も亡霊級に負けずとも劣らぬ魔術師ではあるが少なくとも実在は確定している。
 「モルガン」はその実在が確定していない幻の存在。実際に顔を合わせた魔術師はいないと言われている。
 それゆえ、ネットワークのおりが生み出した電子の妖精とも噂されるが匠音はそんな「モルガン」に対面し、会話を交わしている。
「え、っと、その、あの……」
 亡霊級の魔術師に会ったと言っていいものかどうか悩み、匠音が言葉に詰まる。
「ああ、聞いてすまん。お前も『モルガン』のことはこれ以上口にせんでいい」
 白狼もすぐに気づいたか、話したほうがいいのかと悩む匠音を手で制した。
「まあ、あの『黒騎士』とはタッグを組んでいたんだ、何かしらの感情くらい持つだろうよ」
「そういうものかな」
 父さん、母さんがいたのにそれ浮気じゃない? などと匠音が呟く。
「ぶっ!」
 ちょうどアボカドコーヒーを飲みかけていた白狼が思わず噴き出す。
「ちょ、おま!」
 実情を知っている白狼が思わずそう声を上げる。
「浮気って!」
「えー、だってそうだろ? 母さんがいるのに別の女と行動してんだよ? 浮気以外の何物だよ」
 匠音の言葉に、「もう『モルガン』=和美さんって伝えてやろうか」などと考える白狼。
 しかし、匠音のハッキングの腕がまだそれなりである以上どこからその情報が漏れて和美が再び狙われるようになるかは分からない。
 これはもう暫く伏せておくべきだ、と判断し、白狼はため息を吐いた。
「和美さんも承知の上だよ。ホワイトハッカーとしての相棒だ、そんな相手に目くじら立てるのはナンセンスだ、それに――」
「それに?」
 一度言葉を切った白狼を、匠音が促す。
 ほんの少しだけ迷ったようなそぶりを見せて、白狼は一気にグラスの中のアボカドコーヒーを煽った。
「匠海は和美さん一筋だったよ。『キャメロット』に入るまで女と無縁だった匠海があそこまで人を愛せるのかとそりゃびっくりしたもんだ。最期まで、あいつは……」
 和美さんに心配かけないように、安心させるように、と……。と白狼が呟く。
「父さんが最期に言った言葉知ってるの?」
 ふと、気になって匠音が尋ねる。
 ああ、と白狼が頷いた。
「和美さんが教えてくれたよ。『大丈夫だから、退院祝いには唐揚げを頼む』って言ってた、と」
「唐揚げ……」
 そこで匠音は思い出した。
 毎年匠海の命日には必ず唐揚げを作る和美。
 「約束だから」とだけ教えられていたがその「約束」が最期の言葉だったのか、と。
 その「約束」を和美はずっと守り続けているのか、と思うと胸が締め付けられる。
 ほんの少しだけ楽しみだった日にそんな重い意味があったのかと実感し、匠音は自分の浅はかな考えを後悔した。
「……父さん、母さんを大切にしてたんだね」
「ああ、儂にとっては自慢の息子だよ」
 そう、呟いて、白狼は匠海のことを思い出すかのように目を細めた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

「あー、わっかんねー!」
 イライラしたように匠音がキーボードから手を離し、声を上げる。
 家出から約一週間、白狼の家でオールドハックのレクチャーを受けていた匠音は限界を迎えていた。
 基本的なコマンドは覚えた。
 しかしオーグギアでのハッキングに比べてはるかに多い選択肢と手順に頭がついていかない。
 そもそも匠音は「オーグギアでのハッキング」を教えてもらうために白狼の元に身を寄せた。
 それなのにそれは一切教えてもらえず、教えられるのはオールドハックのみ。
 初めは多少興味を持って取り組んだ匠音であったがあまりにも複雑なハッキングに、少々嫌気がさしてきていた。
 いくら匠海を引き合いに出されても匠音がやりたいのはオーグギアでのハッキング、不満はつのる。
 ――いつになったらじいちゃん、オーグギアでのハッキング教えてくれるんだよ。
 そんなことを考えながら匠音は立ち上がった。
 水でも飲もう、とPCが置かれている白狼の部屋から出てキッチンに向かう。
 白狼は「ちょっと用事があるから」と家を出て、今この家の中には匠音しかいない。
 がらんとしたキッチンにほんの少しだけ寂しさを覚えつつも匠音は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して口をつけ、一気に煽る。
 ふう、と息を吐き、メールの確認をする。
 家出してから毎日のように和美から安否の確認のメールは届くがそれは無視をしている。
 あの和美のことだから既に白狼にも連絡はしているし白狼も返信はしているはずだが何も言ってこないところを見ると「暫くは白狼に任せたほうがいい」と判断したのだろうか。
 メアリーにはオンラインの授業で顔を合わせているため「大丈夫だ、心配すんな」とは伝えてある。
 それでも一週間リアルのメアリーに会えていないことに些かの寂しさを匠音は覚えた。
 とはいえ、メアリーはトリスタンガチ恋勢なので匠音のことなどそこまで気にしていないのだろうが。
 そんなことを考えながらスパムメールの類は削除、授業の連絡や必要そうなメールだけは目を通していく。
 と、その視界に何かがよぎったような気がして匠音は視線をずらした。
 テーブルにちょこんと腰掛ける小人の妖精ブラウニーと目が合う。
「……え?」
 ブラウニー? あの、以前義体装着者を助けた時に見た? と匠音が思うも何故か胸騒ぎがする。
 何か、違和感を覚えるがそれが何かは分からない。
 だが、目の前に、義体装着者がいるわけでもないのにブラウニーがいる。
 どういうことだ、と、匠音がブラウニーに手を伸ばす。
 その手を避けるようにブラウニーがテーブルを降り、玄関に向かって駆け出す。
「あ、ちょっと待てよ!」
 するり、とドアをすり抜けるように姿を消したブラウニーに思わず匠音も駆け出し、玄関のドアを開けた。
 夕闇が迫り、薄暗くなったアパートメントの廊下をブラウニーが走っている。
 AR表示のためか薄暗がりの中でもブラウニーの姿ははっきりと視認できて、匠音はそれを追いかけた。
 まるでどこかに連れて行こうとする猫のように少し進んでは立ち止まって振り返るブラウニーを匠音が夢中で追いかける。
 そのどこかで「罠だ、引き返せ」という声が聞こえた気がするが目の前のブラウニーが気になって声を無視してしまう。
 夢中でブラウニーを追いかけていると、匠音はいつしか人通りの少ない路地に入り込んでいた。
 その一角でブラウニーが匠音を待つかのように佇んでいる。
「やっと、追いついた」
 匠音がブラウニーに追いつき、肩で息をする。
「……ふむ」
 不意に、匠音の頭上でそんな声が響く。
 匠音が頭を上げるといつの間に現れたのか、一人の男がそこに立っていた。
 高級そうなスーツを身につけた、この路地には不似合いな様相の男。
「……誰?」
 自分を見下ろす男に、匠音が警戒しつつも尋ねる。
 ブラウニーはいつの間にかいなくなっていた。
「君が噂に聞く『シルバークルツ』か……思っていたより子供なんだな」
 そう呟き、男は匠音の目を見た。
「どうしてそれを」
 匠音は自分が「シルバークルツ」だとは誰にも明かしていない。
 まさか、これが「リアルアタック」なのか、と身構える。
 そんな匠音に男はふん、と鼻で笑い、
「『シルバークルツ』に頼みがあってここに来てもらった。ついてきてもらおうか」
 そう、低い声で匠音に言った。

 

to be continued……

第6章へ

第5章の登場人物

Topへ戻る

 


 

「世界樹の妖精 -Brownie of Irminsul- 第5章」のあとがきを
以下で楽しむ(有料)ことができます。
OFUSE  クロスフォリオ

 


 

「いいね」と思ったらtweet! そのままのツイートでもするとしないでは作者のやる気に大きな差が出ます。

 マシュマロで感想を送る