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世界樹の妖精 -Brownie of Irminsul- 第3章

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  第3章 「その抜け殻アバターの名は、『アーサー』」

前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

 アメリカに建造された四本の「世界樹」がネットワークインフラを支える世界。
 ロサンゼルスのハイスクールに上がったばかりの永瀬ながせ 匠音しおんは駆け出しのホワイトハッカーとして巨大仮想空間メタバースSNS「ニヴルング」で密かに活動していた。
 通学途中で聞いた都市伝説、義体の不具合時に現れるという小人妖精ブラウニーを目の当たりにしたり、ホワイトハッカーとして校内のトラブルを解決していた匠音はある日、幼馴染のメアリーの「ニヴルング」での買い物に付き合っていた際、怪しげな動きをするアバターを発見する。
 怪しげなアバターは通報したものの彼が起動させた破壊プログラムは起爆、アバターを消失ロストするかと思われた匠音は別のハッカーに助けられる。
 謎のハッカーに厳しく叱咤されたものの弟子入りしたいと懇願した匠音。
 それを拒絶した謎のハッカーだったが、姿を消す際に匠音に古いスポーツハッキングのトレーニングアプリを送り付ける。
 トレーニングアプリを起動した匠音は、そこに残されていたランキング一位にかつてスポーツハッカーだった和美母親のスクリーンネームを見つけ、このランキングを塗り替えるとともに謎のハッカーと再会することを誓うのだった。

 

 
 

 

「母さん、おはよー」
 眠い目を擦りながら匠音しおんが自室を出てキッチンに立つ和美かずみを見る。
 ジュワジュワと油が踊る音とフライパンの横に置かれた網の上の茶色い物体に、彼の目が一気に覚める。
「唐揚げ!」
 目を輝かせ、匠音がコンロの前に突撃する。
 手を伸ばし、一つ掴もうとして――
「ダメ、匠音!」
 和美が手にした菜箸で思いっきりその手を引っ叩かれた。
「ってぇ!」
 匠音が手を引っ込める。
「何すんだよ母さん!」
「まだ二度揚げしてない! 食中毒舐めてるの?」
 カンピロバクター知ってる? と凄む和美に、匠音が「ヤバい、マジだ」と内心で思う。
 匠音は和美の作る唐揚げが大好きだった。
 食卓に並ぼうものならあっという間にかなりの量を平らげてしまうほどであったが、和美は匠音に頼まれても滅多に作ろうとしない。
 そんな和美が自分から、それも朝から唐揚げを作っているとは。
「――あ」
 事態を察し、匠音が声を上げる。
 ――「今日」なんだ。
 念のため、オーグギアのカレンダーアプリを見る。
 二一三五年九月二十三日。
 やっぱり、と匠音は呟いた。
「匠音、今日出かけるけどついて来る?」
 不意に、和美が匠音に問いかける。
 えー、と匠音が不満げに声を上げた。
 今日は金曜日だし祝日でもない。一応はオンラインで授業がある。
 それに。
「……いや、俺は行かない」
 少しだけ声のトーンを落とし、匠音が答えた。
 そう、と呟く和美の声が少しだけ寂しそうに聞こえる。
「たまには顔見せてもいいと思うけど」
「だって俺が生まれる前に死んだ人だろ、何も分からないのに行ったところで」
 十五年前の今日。
 和美にとってはかけがえのない存在、匠音にとってはついぞ見ることのできなかった人物がこの世を去った。
 和美の夫であり、匠音の父親であった匠海たくみ
 この日の二日前に事故に遭い、治療の甲斐なく亡くなったとだけ、匠音は聞かされていた。
 それでも匠音は匠海に対してはどうしても「父親だけど知らない人」という認識になっている。
 和美が匠海のことを何一つ語ろうとしなかったこともあるが、結局は生まれる前に死んだ人間のことをとやかく言ったところで何かが起こるわけではない。
 ただ、和美は毎年命日になると必ず唐揚げを作った。
 それを、墓前に供えるのだ、と。
 一度だけ、匠音は聞いたことがある。「どうして唐揚げを供えるのか」と。
 その時の和美は寂しそうに笑い、一言だけ匠音に告げた。
「約束だから」と。
 そんな、命日に唐揚げを供えてくれとかどんだけ食い意地張ってんだよ父さんはと匠音は思ったものの確かに和美の作る唐揚げは美味しい。
 最終的に残った分は夕食の一品となるため、匠音にとっては父親の命日は複雑な感情が湧くもののほんの少しだけ楽しみな日だった。
 テーブルに用意されたシリアルに牛乳をかけて朝食とし、匠音はタッパーウェアに唐揚げを詰める和美を見た。
 別に和美母親は匠音を蔑ろにしているわけではない。きちんと愛情を持って接してくれていることは分かる。
 それでも、いつまでも匠海父親の影に縛られて生きていくのはただ虚しいだけではないのか、という思いが時々過ぎる。
 もっと自分を見てくれとは言わない。でも前を見て歩いて欲しい。
 先日謎の魔法使いからもらった古いスポーツハッキングのトレーニングアプリのランキングを思い出す。
 十五年前の夏からアプリが切り替わるまでランキング一位を保持し続けた和美マーリン
 スポーツハッキングのプレイヤーとして活動していたことは知っている。
 だが、ランカーであったことは知らなかった。
 あのアプリのランキングを見なければ決して知ることのできなかった事実。
 なぜ、和美がスポーツハッキングを引退したのかは分からない。
 ランカーであるのなら今エンジニアとして働かずとも大会の賞金だけで十分生活、それも今よりもいい生活を送ることができただろう。
 それなのに和美はスポーツハッキングから手を引いた。
 匠音にはその理由が分からない。
 自分だったら引退するなんて考えられない。
 何か、よほどの事情があったのだと考えても勿体無い、としか思えない。
 しかし、匠音には「なぜ引退したのか」を聞くことができなかった。
 和美がランカーであるのを知ったのはあのアプリを見たから。
 そして匠音は和美からスポーツハッキングを、いや、ハッキング自体を禁止されている。
 匠音がランカーのことを口にすれば確実に厳しい追求が始まるだろうし、それであの魔法使いのことを口にすればハッキングのことも知られてしまう。
 だから、黙っているしかない。
 本当は、はっきりと聞きたかった。
 和美が引退した理由も、匠音がハッキングをしてはいけない理由も、匠海の事故の詳細も。
 その上で、ハッキングを、スポーツハッキングをしたいということを認めてもらいたかった。
「……ねえ、母さん……」
 思わず、そう和美に声をかける。
「ん? どうしたの匠音」
 振り返ることなく和美がそう答える。
 ――俺もハッキングやりたい。
 その言葉が匠音の喉元にまでこみ上げる。
 ――母さんみたいに強く、ルキウスみたいに正しい正義のハッカーになりたい。
 何度もその言葉を口にしようと口をパクパクさせ、そして、
「……いや、何でもない」
 そう、匠音は黙ってしまった。
「いいの?」
 和美がそう確認する。
「うん。何でもない。俺はもうすぐ授業始まるから」
 出かけるなら気を付けろよ、とだけ言い、匠音は自室に向かった。
 その背に、和美が、
「ごめんね」
 そう声をかけたが匠音の耳には届いていない。
「……匠海お父さんはね……」
 ――いつか、必ず会えるから。
 それまでは、ごめんねと。
 和美はそう呟き、タッパーウェアの蓋を閉じた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 「ニヴルング」でのオンライン授業中。
 代数学の授業、匠音が教師から転送された資料を見て課題を解いていると、不意に個別チャットの通知が入る。
(ん?)
 クラスメイトや中学校ミドルスクールの友人など連絡をしてくる人物の心当たりは色々あるが、今回個別チャットを送ってきたのはメアリーだった。
 個別チャットは教師にも内容を見られないプライベートなものだが、下手にウィンドウを開けば見つかってしまう。
 こっそりと課題のウィンドウの隅に隠すようにウィンドウを開き、匠音はチャットの文面を見た。
《今日の放課後、『ニヴルング』に用事があるんだけど来る?》
 これ、今言うことかと匠音が内心呟く。
 ちら、とメアリーの席に視線を投げると彼女もこちらを見ていて、にこりと笑う。
 その笑顔が何故か眩しく、匠音は思わず目を逸らした。
 それから、返事を入力する。
『まぁ、今日は母さん出かけてるし暇だけど』
 匠音が返事を送信するとすぐにステータスに「入力中」と表示され、返信が届く。
《オッケー、じゃあ放課後、ユグドラシル広場で合流しよ?》
 いつもなら日本人街リトル・トーキョーでの待ち合わせが多いメアリーだが、今日は珍しく別の待ち合わせ場所を指定してくる。
 ユグドラシル広場、アメリカに四本存在するメガサーバのうちの一本、ユグドラシルサーバのビルの前に用意された広場。
 二一一五年にサンフランシスコに建造され、全世界のオーグギアの通信網を一手に引き受けていたユグドラシルだが二一二四年、ロサンゼルスにイルミンスールが建造、それに追従するかのように二一二六年にTree of KnowledgeToKがフィラデルフィアに、二一二七年にGougle World TreeGWTがニューヨークに建造され、量子ネットワークは強固なものとして確立している。
 これら四本のメガサーバは北欧神話で「世界樹」を意味するユグドラシルに倣い世界樹にちなんだ愛称を設定され、四本まとめて「世界樹」と呼ばれている。
 そんな「最初」の世界樹ことユグドラシル前の広場があるエリアで集合とは。
 最初はどうして、と思っていた匠音だったが、すぐに察する。
『あー、何かイベントあるのか?』
《『キャメロット』の握手会があるの! 頑張ってトリスタン様のチケット取ったわよ!》
 やっぱり、と匠音が呟く。
『だったら一人で行けよ』
《いくら『ニヴルング』でも一人で歩き回ってトラブルに巻き込まれたくないわよ。匠音はボディガード、ご・え・い》
『アッ、ハイ』
 どうせそういうことだろう、とは匠音も確かに思っていた。
 正直なところ面倒だし「親と行けよ」と思うところでもあったのだがメアリーが付いてきてほしいというのであればついていかない手はない。
 目的があのトリスタンであったとしても彼女と「ニヴルング」を歩けるのは匠音にとって楽しみの一つである。
 「分かった」と返し、匠音は個別チャットを閉じた。
 と、そのタイミングで
「じゃあこの問題を……匠音、答えてもらえますか」
 答え合わせに入っていた教師に指名された。
「う……」
 やばい、と匠音が唸る。
 チャットに集中していたためどの問題で指されたのかが全く分からない。
 一瞬、まごついた匠音の前にある課題の陰にチャット画面が開く。
《問5の2問目》
「えっ、あっ、2問目……えっと、これか。y = 10x + 1500……だと思います」
 しどろもどろに匠音が回答する。
 匠音の回答に、教師が「オーケー」と頷く。
「正解です。よく解けましたね」
 教師に褒められ、ほっとしつつほんの少しだけ照れくさそうにする匠音。
 ちら、と課題の陰のチャットウィンドウを見ると差出人はメアリー。
 チャットしつつちゃんと問題把握してるとかすごいなと思いつつ匠音がちらりと見るとメアリーが意味ありげにウィンクをしてくる。
 ――あ、これ逃げられないやつだ。
 これはきっと「貸しを作ったから返してね」という意思表示だと判断し、ついていかないという選択肢が完全に失われたことを悟る。
 確かにメアリーと「ニヴルング」を歩くのは楽しい。しかし匠音とて最近特にメアリーが気になってきたお年頃、それなのに当の彼女はトリスタンガチ恋勢で取り付く島もない。
 教師が他のクラスメイトを当てて答え合わせをしていく様子を眺めながら、匠音は小さくため息を吐いた。

 

 放課後、いつものごとくホームエリアからサンフランシスコ・ユグドラシルエリアに移動した匠音はユグドラシル広場の待ち合わせスポットで猫頭のアバターを身にまとったメアリーを視認し、駆け寄った。
「メアリーごめん、待たせた?」
「んー、ついさっき来たばっかり」
 そんなやり取りをしてから、メアリーが「行こ」と匠音の手を引っ張る。
 どきりとしつつも匠音はメアリーについて歩きだした。
「握手会までまだ時間あるから、ちょっと見て回ろ」
 ユグドラシルエリアに来ることって滅多にないし、とメアリーが匠音の手を引いてユグドラシルのエントランスホールに足を踏み込む。
 「世界樹」と呼ばれるほどのメガサーバ、ユグドラシルではあるが現実の建物も一部は観光スポットとして解放されており、「ニヴルング」内でも同じ部分と、現実では立ち入り禁止の部分も世界樹の歴史等の展示エリアとして開放されている。
 課外授業で見学したことはあったが、じっくり見る機会はあまりなかったため、匠音は興味津々でAR表示の様々な資料に目を通した。
 曰く、量子ネットワークの拡大によりその情報を一手に引き受けるメガサーバを構築するため最初にユグドラシルが建造されたのだと。
 しかし、重要な生活インフラの管理サーバもユグドラシルに集約されたため、二一二五年の大規模サーバダウン、通称「暗闇の悪夢ブラックアウト・ナイトメア」発生によりインフラの分散が重要視されるようになった。そのため、前年度に建造された二本目の世界樹ことイルミンスールにも各種インフラの管理が分散、さらにその後建造されたToKとGWTにも管理を分散させることで世界中のネットワークインフラは強固なものとなったという。
 その四本の世界樹も一度は「木こりのクリスマスランバージャック・クリスマス」なるテロが計画され危機に陥ったがそれはイルミンスールのカウンターハッカー、ピーター・〝ルキウス〟・ジェイミーソンとバウンティハンターのタイロン・ダン・アームストロングによって阻止された、という記述もある。
 そんな資料を見ながら匠音は「ランバージャック・クリスマス」を阻止したピータールキウスに思いを馳せた。
 あの、「ニヴルング」で自分を助けてくれたルキウスがその数年前に世界樹を、いや、場合によっては世界を救っていたとは。
 やっぱりルキウスは正義のハッカーなんだ、俺も早く追いつきたい、そんなことを考える。
「匠音、どうしたの?」
 不意に、匠音の隣に立っていたメアリーが声をかけてくる。
「あ、いや、別に」
 匠音が夢中になって記録を読んでいると思ったのだろう、メアリーが「どれどれ」と覗き込んできた。
「あー、『ランバージャック・クリスマス』。あたしたちが小学校エレメンタリースクールに上がって少ししてからよね。特に大きなニュースにならなかったけど『世界樹を狙ったテロが阻止された』って話だけは聞いたもん」
 そういえばそうだった、と匠音が思い出す。
 メアリーの言う通り、大々的な報道はされなかった。
 しかし、世界樹にかかわる事件ということで小規模ながらニュースとして報道されていたしそれ以来各世界樹の警備は強化された。
 そんな世界樹の歴史を振り返りつつも匠音はイルミンスールをメインサーバとして展開されている「ニヴルング」のことも考えた。
 イルミンスールは匠音たちが住むロサンゼルスに建造されている。
 何度か和美に連れられて見学ツアーにも参加したことがあるため内部の公開エリアは知っているが、やはり今匠音たちが見学しているユグドラシルの方が古いだけあって内部構造に若干の歴史を感じるものがある。
 各世界樹とも市民の理解を深めるためにと今日のユグドラシルのようなイベントを時々開催しているが、世界樹によって特色があり見ていて飽きない。
 ユグドラシルはスポーツハッキング系の交流イベントが多く、イルミンスールはチャリティーイベントが多い、といったように時には市民の憩いのイベントとなっている。
 今日開催されるユグドラシルのイベントは前年度「Nileナイルチャンピオンズトーナメント」で優勝したスポーツハッキングチーム「キャメロット」との交流イベント。
 「キャメロット」と言えばメアリー最推しのスポーツハッカー、トリスタンが指揮を執る最強と言われてもおかしくないチームである。
 今日は「キャメロット」の面々がユグドラシルエリアにログインし、参加者はチケットさえあればメンバーと握手することができる。
 そのチケットは発売直後に完売したレベルで人気が高く、匠音は「メアリーよく争奪戦に勝てたな……」と思っていた。
「そういえばメアリー、チケットは準備できてるんだろうな?」
 ふと、思い出してしまったため匠音がメアリーにそう確認する。
「ん、ちゃんとすぐ出せるようにストレージに入れてるわよ。見る?」
 もう、匠音ってば心配症なんだからー、とメアリーがストレージを操作する。
「あ、別に出さなくていいって!」
 ちゃんとすぐに出せるように準備しているなら問題ない。
 以前匠音が和美と出かけたイベントでチケットをすぐに取り出せるストレージに保管しておかなかったために手間取ったことを思い出して確認しただけなので、別に見せてもらう必要はなかった。
 現在、チケットはすべてデジタルになっている。
 偽造や転売防止のためかつては金融機関でよく使われていたブロックチェーン技術を利用しており、不正を働こうにもすぐにログが不整合を起こしチケットは無効化されてしまう。
 余程の魔術師マジシャンでも相当な機材と緻密なハッキングを要求されるため、基本的にチケットの不正な取引は行われない。
 それでも、どこで何があるか分からないため不用心にチケットを取り出すのは良くない。
 だから匠音も慌ててメアリーを制止したのだったが、彼女は「もうすぐトリスタン様に会える」という興奮からか不用心にもチケットを展開する。
 二人の目の前に浮かび上がるチケット。
「いいからすぐにしまえって!」
「何言ってんの匠音、チケットはオーグギアのIDに結びついてるのよ、強盗したところで使えないわよ」
 慌てたような匠音に対して余裕たっぷりのメアリー。
 彼女の言う通り、チケットは強盗したところでIDが一致しないため使用できない。
 それでもメアリーがチケットを持っていることでそれを妬んだ人物に邪魔をされる可能性も考えられる。チケットを見せびらかすのはあまりにも危険だ。
 匠音のあまりの剣幕に、メアリーが「分かったわよ」とチケットをタップし、ストレージに格納する。
 それにほっとしたものの匠音は念のため回りを見て誰も見ていないことを確認、それから、
「おい、時間大丈夫か?」
 時間を確認してメアリーにそう訊ねた。
「いっけない! もうこんな時間?」
 メアリーも時計を確認し、慌てたように匠音を見る。
「匠音、急ご?!?!
「お、おう」
 メアリーが時間に遅れたら可哀想だと思った匠音は頷き、彼女と共に走り出した。

 

 やばいやばいとメアリーと匠音がユグドラシルの公開エリアを走り抜ける。
 しかし、公開エリアとはいえかなりの広さを誇っており、正規のルートではかなり時間がかかるだろう。
 とはいえユグドラシルエリアも他のエリア同様一般ユーザー侵入不可の横道ネットワークは存在し、それを利用すれば近道できるかと匠音が考える。
 魔術師ご用達の横道ネットワーク、ハッキングを知らない人間なら知ることのないその通路を利用するということはメアリーに自分がハッキングのできる人間だと知られることになってしまう。
 どうする、と考えていたら通路の一つで一人の男性が手招きしているのが見えた。
「握手会、お急ぎの方はこちらが近道ですよ!」
 そんな声が聞こえる。
「匠音! 近道だって、急ご!」
 メアリーが匠音の手を強く引く。
「待て! 行っちゃダメだ!」
 得体の知れない不安に駆られた匠音が叫ぶ。
 しかし、「近道」と聞いたメアリーがその制止を聞くはずもなく、男に近づく。
 まずい、と匠音がブレーキをかけようとするがメアリーは男に駆け寄り――
 ずるり、と引きずり込まれた。
「な――!」
 メアリーの、匠音を掴む手が離れる。
 咄嗟にそれを握り直し、匠音は周りを見る。
 一見、何の問題もない細い通路。
 何も知らない人間が見ればそれはユグドラシル内の普通の通路に見えただろう。
 だが、匠音感じ取っていた。
 この通路は正規の通路ではない。魔術師によって侵入権限を偽装された横道ネットワーク。
 まずい、メアリーが巻き込まれた、と匠音は思った。
 薄暗い通路に引き込まれたメアリーが不安そうに匠音を見ている。
「大丈夫だメアリー、すぐにここを出よう」
 メアリーの手を引き、横道から正規の通路に戻ろうとする。
 しかし、メアリーが小さく悲鳴を上げ、オーグギアの操作を行おうとしたことで事態を察する。
 ――メアリーのオーグギアが?!?!
 状況が知りたくて、匠音は咄嗟に隠しストレージを開いた。
 ハッキングツールを展開、普段のメアリーとのパスから彼女のオーグギアに接続、視界の状況を確認する。
 メアリーの視界の片隅、財布ウォレットの残金が減っていくのが見える。
 ――デジタルカツアゲかよ!
 今のご時世、大半の人間が現金を持ち歩かず口座から任意の額をウォレットアプリに入金して使用している。
 ただし、設定によっては残高が減った際に自動引き出しオートチャージが機能するため気を付けなければ使いすぎるということもある。
 ある意味子供でもクレジットカードが持てるようになったような世の中ではあるが、クレジット機能は高額商品の買い物や分割支払いと言った場合に使われるため根強く残っている。
 メアリーのウォレットアプリの金額が小刻みに減っていくのは恐らく少額ずつのオートチャージが働いているのだろう。
 このままでは口座の貯金が全て引き出されてしまう。
 そして、メアリーは横道ネットワークからの離脱方法など知らない。
 今、対応できるのは匠音のみ。
 匠音が通路の奥を睨むと、そこに一人の男が立っているのが見えた。
 ――あいつか!
 匠音の指先が素早く動き、ツールを選定する。
 ――今ならまだ間に合う!
 自分が「シルバークルツ」のアバターに切り替えていない事にも気づかず、匠音はそのままアプリを起動した。
 見知らぬ相手とのパスを構築するための吸血アプリモスキートを通路の奥のアバターに向けて飛ばす。
 小さな羽虫の姿をしたbotが目標に接触、匠音とのパスを構築する。
 匠音がさらにハッキングツールを展開する。
 そこで相手も匠音の侵入に気が付いたのだろう、通路の奥から姿を現しこちらを睨みつけてくる。
「メアリーの金を返せよ!」
 そう怒鳴りながら匠音が相手のウォレットアプリを展開する。
「若造だと思ったが、案外やるな!」
 怒りを隠さずに歩み寄ってきたのはごく普通の会社員サラリーマン風のアバターを身にまとった男。
 男もツールを展開、匠音に対応しようとする。
 だが、匠音は既に男のウォレットアプリの利用履歴から別のオーグギアからの入金ログを特定していた。
 確認する限り、メアリーから巻き上げた金額は入金確定として登録されていない。
 入金が確定してしまえば取り戻すことはそれこそブロックチェーンを破るレベルでのハッキングになって不可能になってしまうが、入金確定は不正な入金を阻止するために一時的にサーバに保留してからの登録となるためチャンスは残っている。
 それなら今の入金は操作ミスとして登録すればいい、と匠音が男のストレージを操作する。
 しかし、匠音の視界にノイズが走り、男が何かしらのツールを侵入させてきたことに気づく。
 この際、自分が男に打ちのめされるのはいい。だが、メアリーの所持金だけは彼女に返したい。
 自分への侵入を手動ではなくアプリによる自動抵抗オートレジストで遅らせながら匠音は男のウォレットアプリを操作する。
「な、お前、自分はどうなってもいいのか?」
 男が匠音の動きの意図を悟り、声を上げる。
「子供の小遣い巻き上げるとか恥ずかしくないのかよ!」
 匠音の視界で、自動抵抗によって展開された防壁が一枚突破されたというアラートが表示される。
 それでも匠音は男のウォレットアプリを操作し、小刻みに行われたメアリーからの入金操作をキャンセルしていく。
「俺はbotまで使ったのにチケット取れなかったんだぞ! それなのにこの小娘は……! チケット取れるくらいなら金くらいいくらでも持ってるだろ!」
「あんたバカかよ、botは対策されるだろーが!」
 きょうびチケットの取得は公平を期すためbotの類は対策されている。
 うまくやればその対策の網をすり抜けてチケット購入ができるのだろうが、それでも許されるような行為ではない。
 絶対全部キャンセルする、と匠音が次々と入金のキャンセル操作を行っていく。
 同時に防壁がもう一枚突破されるがそれには構わない。
 キャンセルすべき入金処理はあと三件。
 男がそれを阻止しようと侵入を一時停止して匠音に手を伸ばす。
 だが、匠音のキャンセル操作の方が早い。
 匠音の手が最後の入金キャンセルコマンドを入力する。
 全ての入金処理がキャンセルされたというメッセージが表示される。
「あ、戻ってきた!」
 メアリー側でも入金キャンセルによる返金が行われたのだろう、彼女が声を上げて匠音を見る。
「貴様ァ!」
 巻き上げた金を奪い返された男が吠えて匠音の腕を掴む。
「悪いのはあんただろ! 大人しく通報されやがれ!」
 匠音と男が取っ組み合いの体勢になるが、如何せん匠音もアバターもまだ成長しきっていない少年体形、成人しているだろう男とそのアバターに力比べで勝てるはずもなく。
 あっと言う間に匠音はフロアの床に組み伏せられてしまった。
「このガキがぁ!」
 激高した男が匠音の顔面に向けて拳を振り下ろそうとする。
 「ニヴルング」内は感覚転送型フルダイブSNSとはいえ痛覚だけは安全のために強力な痛覚緩和システムアブゾーバーが設定されている。
 それでも、匠音はかつて魔術師に刺されたときのことを思い出して硬直した。
 魔術師ならアブゾーバーを一時的に無効化することくらいできる。
 刺された時の激痛を思い出した匠音が身をすくめる。
「匠音!」
 メアリーが叫ぶ。
 ――こんなところで!
 メアリーの声に自分を奮い立たせ、匠音は思いっきり男を蹴り上げた。
 その渾身の一撃は、男のアバターの一番弱い部分に直撃する。
「――っ!」
 男が声にならない声を上げて股間を押さえる。
 そもそもアブソーバーが設定されているのだから痛覚などないのだが、「一撃を受けた」という事実だけで大抵の男は精神的に大きなダメージを受けてしまう。
「ぅ……」
 体を起こした匠音も股間を押さえて身震いする。
 いくら咄嗟のこととはいえ男の尊厳に関わる攻撃をしたのである。その痛みが分かっているからこそ匠音も股間を押さえざるをえなかった。
「き、貴様ァ……!」
 悶絶しながらも男が匠音を見る。
 だが、匠音としては目的は達成されたのである。
 あとは離脱するだけだ、と匠音はメアリーの腕を掴んだ。
「メアリー、逃げるぞ!」
「う、うん!」
 匠音に手を引かれ、メアリーが走り出す。
 通路の出口で匠音は侵入権限を書き換え、そして二人は通常の通路に飛び出した。
「……よかった……」
 はぁ、と匠音が心底ほっとしたように声を上げる。
 メアリーもほっとしたような面持ちで一度、先ほど出てきた通路を見て、それから真顔になって匠音を見る。
「匠音、あんた……ハッキングできたの?」
「げ」
 止むを得なかったとはいえ、匠音は魔術師以外の人間、そして身近な人間の目の前でハッキングを行ってしまった。メアリーが驚くのも当然である。
「……え、あ、ま、まぁ……」
 歯切れ悪く匠音が頷く。
「ごめんメアリー、このこと、母さんには黙っててもらえないかな?」
 もし和美がハッキングこのことを知れば黙っていないだろう。
 なるべく知られないようにしておきたかったが。
「……匠音、それは難しそう……」
 周りを見ながらメアリーがそう言った。
 えっと匠音も周りを見ると、そこには数体の警備ロボットの姿をしたbotが現れ、二人を取り囲んでいる。
『規約違反を検知しました。シオン・ナガセ、貴方を一時拘束します』
 ロボットの一体がそう機械的な音声を出し、回りのロボットが一斉に匠音に拘束用のケーブルを伸ばす。
 それはメアリーには伸ばされていなかったため、匠音は彼女に向かって声を上げた。
「メアリー、俺のことはいいから早く握手会行けよ! せっかくチケット取ったんだろ、無駄にすんな!」
「え、で、でも……」
 匠音はあたしを助けてくれたのに、とメアリーが反論するが匠音は首を横に振り、
「いいから行けって! 俺には構うな!」
 ロボットから伸ばされたケーブルが匠音を拘束する。
「匠音!」
「俺は大丈夫だから! お前が行ってくれないと俺が助けた意味ないだろ!」
 拘束が完了したのだろう、ロボットたちと匠音が別の場所へと転送され、その姿が掻き消える。
「匠音……!」
 そう、声を上げたもののメアリーにはどうすることもできない。
 いや、一つだけ手はあるのではないだろうか。
 少し考え、メアリーは「うん」と一つ頷いた。
「匠音待ってて。もしかしたら、何とかなるかもしれないから!」
 それだけ言い、メアリーも走り出した。
 匠音に言われた通り、握手会会場に向かうために。

 

 両手を拘束された状態で匠音は取調室のような部屋の椅子に座らされていた。
 ログアウトして逃亡することができないよう、「ニヴルング」のUIにはロックが掛けられ、何をすることもできない。
 マズったなあ、と匠音は呟いた。
 メアリーにハッキングのことがバレただけならまだしも、ハッキング規約違反を検知されて拘束されてしまうとは。
 自分が未成年であることを考えると、これは確実に連絡行ったな、と匠音は頭を抱えたくなった。
 目の前の空間が揺らいでポータルが開き、机の向こうに一人の男のアバターが現れる。
「シオン・ナガセ、十四歳……ハイスクールに上がったばっかりじゃないか」
 開口一番、男はスクリーンを呼び出し匠音のプロフィールを確認する。
「進入禁止エリアで他のユーザーを攻撃したそうじゃないか。一体何があったんだ」
「あ、あの! 俺、あいつを傷つけたくて攻撃したんじゃない! 向こうが先に手を出してきたんだ!」
 男――「ニヴルング」運営の係員に訊ねられ、匠音は必死の形相でそう訴えた。
「相手は君が先に手を出してきたと言っているが?」
「違う! あいつは、メアリーを進入禁止エリアに連れ込んでウォレットの中身を不正に移動させようとしたんだ! だから、俺はそれを止めるために……」
 匠音がそこまで言うと、男の眉間にしわが寄った。
「それは本当かね?」
 そうです、と匠音が頷く。
 そこで漸く相手が自分の話を聞いてくれそうだと気づき、匠音は少しだけ落ち着きを取り戻した。
 ちゃんと話せば分かってもらえる。ハッキングの件は確かに怒られるべきだろうがそれでもメアリーのウォレットから残金を引き出そうとした奴のこともちゃんと通報したい。
「メアリーとあいつの入出金ログ見たらわかると思います。いや、あいつも魔術師だからログは消してるかもしれない。でもメアリーは確かに……」
「君はガールフレンドがハッキングの被害に遭ったからハッキングで対処しようとした、ということか。確かにそれは情状酌量の余地があるな……」
「俺は罰を受けてもいい、だけどあいつは、あいつがやったのは完全にアウトです! 今までにも同じようなことやってたかもしれない!」
 分かってくれ、と匠音は半ば祈りながらそう訴えた。
 目の前の男がウィンドウを操作し、通信回線を開く。
「私だ。話が少し変わった。被害者だという人物も念のため拘束してくれ」
「あ……ありがとうございます」
 男の行動に匠音が思わず感謝すると、男は「早まるな」とそれを制止する。
「一応は双方の主張を聞くべきではあるし虚偽の発言があれば取り締まらなければいけない。君が全て本当のことを言っているとも限らないしな」
「……それは、まあ」
「だが、君の勇気は称賛に値すると私は思うよ。ハッキングで解決しようとしたことは罰せられるべきだが並大抵の人間にできることではない」
 そんなことを男が言っていると通信が入り、男は再び眉間に皺を寄せた。
「彼に会いたいだと? 一体どう言う風の吹き回しで……まあいい、通してくれ」
 どういうことだ、という面持ちで男は匠音を見て、それから隣に開いたポータルに視線を投げる。
 ポータルが開き、男が一人踏み込んでくる。
「これはこれは、イベント中だと伺っておりますが」
 男が少々面食らったように踏み込んできた男に声をかける。
「いえ、親愛なる私のファンのボーイフレンドが勇気ある行動をした結果拘束されたと聞きまして」
 その声に、匠音は踏み込んできた男をまじまじと見た。
 スラリとした長身、背中にかかるほどのプラチナブロンドが無造作に束ねられた、若そうだが和美母親とあまり年齢が変わらなようにも見える。
 その眼差しは鋭く、全ての謎を見通すような気概すら感じる。
「え、まさか……トリスタン……?」
 掠れた声で匠音がその名を呟く。
「おや、私のことをご存知で」
 男――トリスタンがそう言いながら匠音を見て、僅かに驚きの表情を見せた。
「……アーサー……? いや、そんなはずはありませんか」
 聞こえるか聞こえないかのトリスタンの呟き。
 匠音はその言葉を完全に聞き取れず、何か言ったか? 程度で流して自分がトリスタンを知ってる理由を説明する。
「そりゃ、メアリーが大ファンだから……って、まさかメアリーが?!」
 トリスタンが誰にも聞かされず事態を把握してここに来るとは考えられない。
 それに、彼は最初に言っていたではないか。
 「親愛なる私のファンの」と。
 ええ、とトリスタンが頷いた。
「規約違反で拘束されると分かっているにも関わらずガールフレンドの危機を救った、と。こんな勇気ある少年を放っておくわけにはいきませんので」
 ですよね? と「ニヴルング」の係員に声をかけるトリスタン。
「そ、それはまあ……しかし『ニヴルング』内でのハッキングは重大な規約違反ですし」
「しかし、彼が対応しなければ入金は確定され、取り戻すことは不可能だったのでしょう」
 トリスタンはメアリーからどこまで聞いているのか。
 それでも「しかし、」と反論しようとする係員にトリスタンは畳みかけるように口を開く。
簡単なことですよelementary。貴方は彼が虚偽の申告をしているのではないかとまだ疑っているのでしょう。被害者を念のため拘束したことは英断ですが、それでも確証がない。しかし、私の親愛なるファンが息を切らして駆け寄って、虚偽の申告を行うことができるでしょうか? ちなみに彼女は魔術師マジシャンでも何でもないのに『ニヴルング』の管理下にないエリアへ侵入権限を無理やり書き換えられて引きずり込まれたのは事実。たまたま彼が魔術師だったから離脱できただけにすぎません」
「それは……」
 淀みないトリスタンの言葉に係員がたじろぐ。
 トリスタンはとんでもない洞察力の持ち主で、常に戦況を冷静に把握することができるとメアリーから聞かされていた匠音は「こいつ、本当にすごいな」とただ見守るしかできない。
「年端も行かない少年と少女が結託して大人を陥れるようなことをするでしょうか? まぁストリートギャングならやりかねない行為でしょうが、彼らはストリートギャングではない」
「どうしてそう言い切れるのですか」
 納得できなさそうな係員。無理もない、基本的に被害者の申告が有利となる現場で匠音の言葉を完全に信じるには状況が悪すぎる。
 匠音は確かにハッキングという規約違反を行っているし正当防衛とはいえ相手に多大なダメージを与えた。
 相手がそれを「一方的に攻撃された」と申告すれば疑われるのは匠音の方。
 しかし、トリスタンは匠音を全面的に信用する方針でいるらしい。
 トリスタンの弁護による反撃が、いつの間にか始まっている。
「ああ、念のため彼女の身分IDをはじめとする情報は開示していただきました。それも踏まえて彼女は完全にシロです。そう考えると、彼の発言も虚偽とは考えにくい」
 なるほど、メアリーがきちんと説明したからトリスタンは信じてくれたのか、と匠音は考えた。
 トリスタンの言葉に、係員も揺らいでいく。
「拘束したというのであれば、自称被害者からもお話を伺いたいところですね。こちらに呼んでいただけますか?」
「しかし、加害者と被害者を会わせるのは……」
 戸惑う係員を尻目に、トリスタンが匠音を見る。
「貴方はどうです?」
「え、俺は、別に構わないけど」
 匠音も少々戸惑いながらそう返答する。
「それなら問題ありませんね。連れてきていただいてよろしいでしょうか」
 流石に匠音にまで同意されると係員としても拒否はできなかったのだろう。
 分かりました、と係員が外部に連絡をいれ、程なくして先ほどメアリーをハッキングした男が手を拘束された状態で転送されてくる。
「どうして俺が!」
 拘束されていることに不服を唱えていた男が、匠音を見て苛立ちも顕に声を荒らげる。
「ガキめ、貴様か!」
 周りの係員の制止を振り切らんばかりの勢いで男が匠音を怒鳴りつける。
 だが、匠音はそれに怯むことなくまっすぐ男を睨みつけた。
「あんたが先にメアリーを禁止エリアに引き摺り込んだんだろう。ログを見れば一発で分かる」
「俺はこいつに引き摺り込まれたんだ! 金を出さなきゃ酷い目に合わせると……!」
 男はまだ「被害者」の立場、有利であることには違いない。
 だが、トリスタンは真っ直ぐ男を見据えた。
 トリスタンに見据えられ、男が一瞬たじろぐ。
「お、お前は……」
「では、その証拠とやらを見せてもらいましょうか」
 トリスタンが指をパチンと鳴らす。
 次の瞬間、全員の目の前にログウィンドウが表示された。
「こ、これは……」
 係員が驚いたように声を上げる。
「そうですね、彼が禁止エリアに侵入してから三分後にメアリーさんと少年を強制的に引き込んでいます。これは明らかに彼の方が先に手を出した証拠になるのではないでしょうか」
「なっ……!」
 男が驚いたように声を上げる。
 全員の目の前に現れたログウィンドウは男のものだった。
 男が「違う」と否定し、それからもぞもぞと動く。
 その瞬間、トリスタンが目を見開いた。
 男をビシッと指差し、宣言する。
「貴方、抵抗しましたね?」
「あっ……!」
 トリスタンに指摘され、男が思わず声を上げる。
「禁止エリア侵入はツールさえあれば誰でもできることですし、先ほどのログも少年がそれなりに腕が立つのであれば偽装ぐらいできるでしょう。しかし、一般人であれば私のハッキングに抵抗する方法を知っているわけがない
「クソッ……!」
「勝負ありましたね。いずれにせよ、私のハッキングに対抗しなかったとしてもログは完全に開示されましたが」
 勝ち誇ったようなトリスタンの言葉。
 男が心底悔しそうに歯ぎしりする。
「……さて、これでも皆さんは少年が加害者だと?」
 トリスタンにそう言われ、係員は男を睨んだ。
「どういうことか説明してもらいましょうか」
「どういうこともなにも、みんなグルだったのか! 俺をハメようとして、トリスタンも引き込んで……!」
 なおも食い下がろうとする男に、トリスタンがため息を吐く。
「そんなことをして私に何のメリットがあるというのです」
「それは……」
 違う、俺は何もしていないと食い下がる男にトリスタンは厳しく言い放った。
「大人しく裁きを受けなさい。何の罪もない少年に罪を擦り付けようとした罪は大きい」
 厳しく取り締まってください、というトリスタンの言葉に係員が頷き、男を別の場所に転送する。
「クソ……覚えてろよ!」
 そんな捨て台詞を吐いた男の姿が掻き消える。
「……で、少年」
 転送された男を見送ったトリスタンが、匠音を見る。
「名前は?」
「え……? 名前?」
「いつまでも少年呼びでは示しが付かないでしょう。勇気ある少年に賛辞を贈りたいのです」
 そう言って、トリスタンは微笑んだ。
「あ……俺は、匠音。シオン・ナガセ」
「……ナガセ……?」
 匠音の返答に、トリスタンが一瞬戸惑ったような様子を見せる。
「……『アーサー』の……?」
 トリスタンがそう低く呟いたタイミングで、係員が「通してくれ」と空中を操作する。
 空間が揺らめき、その場に一人の女性が転送されてくる。
「すみません、遅くなりました!」
「……げ、」
 女性を見て、匠音がまずい、といった顔になる。
 転送されてきた女性は和美だった。
 「ニヴルング」運営より匠音が規約違反を行ったという連絡を受けて駆けつけたのだろう。
 慌てたように謝罪する和美がトリスタンの姿を認め、目を見開く。
「……トリスタン! どうしてここに?」
「おや、和美さんマーリン。お久しぶりですね」
 慌てた様子の和美とは対照的に落ち着き払った様子のトリスタン。
 どういうこと、という和美の問いに、トリスタンはざっと事態を説明する。
「なに、匠音君が冤罪に巻き込まれただけですよ。実際は親愛なる私のファンを助けるためにハッキングしただけのこと」
「いや、ハッキングも規約違反ではありますが……」
 困惑したような係員の言葉に、トリスタンは彼を睨む。
「では、『ニヴルング』でデジタルカツアゲの被害に遭えば全て泣き寝入りしろと?」
 そうですか、「ニヴルング」はデジタルカツアゲを公認するんですかとトリスタンは恫喝同然の発言を平然と言ってのけた。
「そ、それは……」
「自衛や友人を救うためのハッキングはやむを得ない場合もあるでしょう。そこは臨機応変に対応しないと」
 トリスタン、口が回るなあと思いつつ匠音が様子を見守る。
「でも、匠音が、ハッキングなんて……」
 信じられないといった面持ちの和美。
 おや、とトリスタンが匠音を見る。
「匠音、君は母親にハッキングのことを伏せて?」
「あ、あー……まぁ……」
 歯切れ悪く匠音が頷く。
「マーリン、やはり……『彼』のことが?」
 トリスタンの言葉に、和美がうなだれる。
 それを肯定と認め、トリスタンはなるほどと呟いた。
「匠音はどうしてハッキングを?」
 今までの二人の言動から何かを察したのか、トリスタンが匠音に尋ねる。
 和美は匠音にハッキングをさせたくない、匠音はなにかしらの理由があってハッキングをしたい、トリスタンはそれを見抜いていた。
 俺は、と匠音が口を開く。
「俺は、正義の魔術師ホワイトハッカーになりたい。誰よりも強くてまっすぐなルキウスみたいな」
 匠音の言葉に、トリスタンが「ほう、」と声を上げる。
「ルキウスですか……いいですね、現在はイルミンスールのカウンターハッカーじゃないですか。まさに正義の魔術師ですね」
 匠音の言葉が澱みなく、はっきりしたものであったからかトリスタンは興味深そうに頷いている。
「ダメよ匠音、貴方はハッキングなんて――」
「マーリン」
 匠音を止めようとする和美に、トリスタンが静かな声でそれを制止する。
「以前の貴方ならそんなことは言わなかったはず。『アーサー』を引き込んだのは貴方でしょうに」
「それは言わないで! わたしは、匠音にハッキングは覚えてもらいたくない……」
 そう言って、和美は匠音の肩を掴んだ。
「お願い、ハッキングだけはやめて。もう、見たくないのよ……」
「母さん……」
 ここまで本気で懇願してくる和美を匠音は見たことがなかった。
 一体何がここまで匠音がハッキングをすることを拒むのか、理由が全く分からない。
 だが、それでも。
 匠音はうっすらとだが理解した。
 和美は「アーサー」と呼ばれる人物をハッキングの世界に引き込んだ。
 それが原因で和美にとって何かしらの重大なトラブルが発生し、匠音のハッキングを禁止したのだ、と。
 その「アーサー」が誰かは匠音は知らない。
 しかし、匠音をハッキングの世界から遠ざけようとすることを考えれば「アーサー」は和美にとって大切な存在だったのではないだろうか。
 まさか、と匠音は考えた。
 そんなことがあるはずがない。
 匠音の父親、匠海が「アーサー」であるとは思考があまりにも飛躍しすぎている、と彼は思った。
 仮に匠海が「アーサー」であったとしても、和美が何も語らない以上匠音が生まれる前に起きたあの事故がハッキングと関係があるとは全く考えられなかった。
 だから、匠音は和美はかつて「アーサー」を「キャメロット」に引き込んだが、彼は彼女の逆鱗に触れるようなことをしたのだと考えた。
 現に、「キャメロット」には「アーサー」という名のメンバーは存在しない。
 そう考えると、「アーサー」はなんてことをしてくれたんだと匠音は少しだけ腹立たしく思った。
 「アーサー」が余計なことをしたために、母さんは俺のハッキングを禁じたのだ、と。
「お願い、匠音」
 和美が再びそう懇願する。
 その彼女の肩にトリスタンが手を置いた。
「マーリン。貴方の気持ちも分かりますが匠音の気持ちを考えたことはありますか? 別に彼はハッキングで他人に迷惑をかけたいわけではありません。むしろ、正義のためにその力を使いたいと言っている」
「……だからよ」
 項垂れ、ぽつりと和美が呟く。
「あの人がどうして死んだかトリスタンも知ってるでしょ?! わたしが、あの時……!」
「落ち着いて、マーリン」
 取り乱しかけた和美をトリスタンがなだめる。
 それから、
「……そうでしたね、『今日』でしたか」
「え……?」
 今度は匠音が声を上げる。
 トリスタンの発言、まるで彼も匠海のことを知っているかのような口ぶり。
 いや、無理もないかと考え直す。
 トリスタンと和美はかつてのチームメイト、チームメイトが仲間の家族状況くらい知っていてもおかしくないだろう。
「本当はわたしも赴きたかったのですが、イベントがありまして、申し訳ない」
「……いいのよ」
 深呼吸をして気分を落ち着けた和美が頷く。
「……でも、ごめんなさい。どうしても、匠音にハッキングはさせたくない」
「……そうですか」
 それ以上は何も言わず、トリスタンは改めて「ニヴルング」の係員を見た。
「それで、この件に対してはどう対応されるつもりでしょうか」
「……それは」
 係員が言いよどむ。
「……本来なら、ハッキングをしたということでアカウント停止にするところではあります。しかし、今回に関しては他のユーザーへのハッキングを阻止するためのハッキング、止むを得ないでしょう」
 そこまで言ってから、係員はため息を一つ吐き、
「流石にお咎めなしで釈放というわけにはいきませんので厳重注意ということで。今回は止むを得なかったとはいえ、今後こういったこと以外ではハッキングをしないと約束してください」
「……それは、まぁ……」
 少々渋々と言った面持ちであるが、匠音は頷いた。
「それでは、今回はここまでということで。くれぐれも、いたずらはやめてくださいよ」
 何度も釘を刺し、係員が解散を宣言する。
「匠音、」
 全員が転送される直前、トリスタンが匠音に声をかける。
「え?」
 匠音がトリスタンを見ると、彼はにこりと笑い、
「私は、応援していますよ」
 たった一言、そう告げた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

「だから匠音、ハッキングはしないでと何度も」
 夕食時、和美が匠音にそう声をかける。
「……どうして正義の魔術師ホワイトハッカーになりたいと」
「だから言ったろ、俺はルキウスみたいになりたいんだって」
 食事が目の前に並んでいるのに全く手を付けず、二人は口論する。
「じゃあ、どうしてルキウスみたいになりたいと思ったの」
「それは――」
 ――あの時、ルキウスに助けられたから。
 あの時のルキウスを見て、あのようになりたいと思ったから。
 しかし、それを伝えても和美に伝わるという自信がない。
 あの時、相手の魔術師に先に手を出したのは匠音だった。
 そんなことが和美に知られれば「だから危ないことはしちゃダメって言ったでしょ!」と怒られるに違いない。
「……別に、なんだっていいだろ」
「……」
 匠音が本音を口にしなかったことに気づいた和美はほんの少し、寂しそうな顔をした。
 そして、ごめんなさい、と呟く。
「匠音がハッキングをしたいというのは分かる。だけど、ダメなの」
「どうして」
 何度も繰り返された口論。
 匠音が何度理由を聞いても和美はそれを口にしない。
 それは匠音が理由をはっきり言えないことにも近く、和美もまた言いたいことを口にできないのだと匠音は薄々感づいていた。
 母さんも俺には本音をぶつけられないのか、と。
 普段はとても仲がいい、親子関係良好に見える匠音と和美。
 しかし、ハッキングというただ一点だけが二人の間に亀裂を作っている。
 本当のことを言いたい、しかしそれを否定されたくない。
 思っていることは同じだったが互いにそれを認めることができない。
 言えない、と和美は思った。
 言えない、と匠音も思った。
 ハッキングを禁じる本当の理由も、ハッキングをしたいという本当の理由も。
 お互い、本音をぶつけることができずにただ互いの主張を否定し続けている。
 本当は分かっているのだ。互いに、言うべきなのだと。
 それでも、理由を口にすることでこれ以上親子の関係に溝を作りたくないとどこかで思っていた。
 それが余計に溝を深くしているとも気付かずに。
 ごちそうさま、と匠音がフォークを置く。
「残ってるけど?」
 普段は食欲旺盛の匠音が、しかもメインが唐揚げという夕食を残したことで和美が心配そうに声をかける。
「……いや、食欲ないし。残った分は明日の朝食べる」
 そう言って席を立ち、匠音は何も言わずに自室に戻っていく。
 それを見送り、和美もフォークを置いて席を立った。
 残りは明日食べよう、とキッチンからラップフィルムを持ち出して皿にかける。
 皿を冷蔵庫に入れてリビングに移動し、和美は写真を置いた棚の前に立った。
 匠海の写真を手に取り、じっと見つめる。
 その写真にぽとり、と水滴が落ちる。
「匠海……」
 和美が低く呟く。
どこに行ったの……」
 やっぱり、わたしは貴方がいないと何もできない、と和美は続けた。
「……逢いたい……」
 今日は命日だから特にそう思ってしまうのか。
 あの日、突然自分の前から姿を消して、今どこにいるのか、何をしているのか。
 ただ、逢いたい、と和美は願った。
 どこを探しても、何をしても見つけられない。
 約束したじゃない、と声にならない声で和美が呟く。
 匠音に会わせると。
 ――だから、戻ってきて。
 肩を震わせ、和美は写真を手にその場に立ち尽くしていた。

 

 ベッドに転がり、匠音が天井を見上げる。
 天井に貼ったアメコミヒーローのポスターを見上げ、ため息を吐く。
「……なんで、ダメなんだろう」
 そう呟いてオーグギアを操作し、スポーツハッキングのトレーニングアプリを起動する。
 そのランキングのトップに輝く「Merlinマーリン」の名前を見て理由を考える。
 ――母さんはトップランカーだった。でもスポーツハッキングを辞めた。
 スコアが登録されたのは十五年前の夏。
 和美がスポーツハッキング界から引退したのは十五年前の秋だと聞いている。
 十五年前の秋といえばちょうど匠海父親の命日と重なる。
 父さんが死んだ事故がきっかけで母さんはスポーツハッキングを辞めたのか? と匠音は推測した。
 それなら何故、匠海の死が和美を引退に追いやったのか。
 匠海が死んだことでショックを受けた和美がスポーツハッキングなんてやっていられない、と考えたのか。
 それでも理由としては弱いんじゃないか、と匠音は考えた。
 ――それとも、父さんも。
 匠海もスポーツハッカーだったのか。二人はスポーツハッキングでもパートナーとして組んでいたのかと考えてみる。
 それならある程度説明はつく。
 パートナーが死んだから続けられないと引退したのだと。
 そこまで考えて、匠音はまさか、と呟いた。
 トリスタンとの会話。
 和美は「アーサー」をスポーツハッキング界に引き込んだと言われていた。
 さらに、彼は匠音の名前を聞いたとき「『アーサー』の?」と呟いた。
 ――まさか。
 まさか、そんなことがあるはずがない。
 匠海こそが「アーサー」だと考えたくない。
 確かに、匠海が「アーサー」であれば辻褄が合う。
 つまり、和美マーリン匠海アーサーと組んでいた。
 そして、十五年前の今日、アーサーが死んだことでマーリンはスポーツハッキングを辞めたのだ、と。
 匠音はもう一度ランキングを見た。
 マーリンの名の次に表示されたArthurアーサーの名前。
「……父さんも、ランカーだったの……?」
 推測が正しいかどうかは分からない。
 和美は匠海のことに関しては何も語らない。
 彼がスポーツハッカーでアーサーだったという証明は匠音にはできない。
 しかし、仮に匠海がアーサーであったとしても匠音がハッキングをしてはいけない理由にはつながらない。
 普通、こんな時は「父親の遺志を継いで」とかでスポーツハッキングをさせてくるものじゃないのか、と匠音は考えた。
 それなのに和美は頑なにハッキングを禁じてくる。スポーツハッキングも含めて全て。
 理由は他にあるのか、と考えるも全く心当たりがない。
 理由を知りたい、そう思うが和美は話してくれないのだろう。
 そこまで考えてからそれなら、と匠音は心に決めた。
 ――一人前のハッカーになって、母さんに認めてもらう。
 隠れての練習になるが、今回のようなことが起こっても誰にも知られず全てを終わらせられるほどの実力を身につければ和美も認めざるを得ない、匠音はそう思った。
 それに、ルキウスに近づくにはあの謎の魔法使いも認めるほどの技量は必要。
 あの魔法使いに再び会うためにも、匠音は力が欲しかった。
 今手元にあるだけのハッキングツールだけでは心許ない。
 もっと、様々な可能性に対応できるハッキングツールが欲しい。
 やるか、と匠音は呟いた。
 身近なところにハッキングツールを色々と取り揃えている人間がいる。
 その人物のオーグギアをハッキングしてツールをちょろまかそう、と匠音は思い立った。
 その人物とは、和美母親
 元ランカーである。現在も匠音に対するお仕置きにSPAMスパムを送り込むくらいだからハッキングの腕は健在。当然、ツールも残しているだろう。
 オーグギアをハッキングし、ハッキングツールをコピーしてしまえば流石の和美も認めてくれるのではないだろうか、と考え、匠音は開いていたトレーニングアプリを終了させた。
 代わりに隠しストレージからハッキングツールを取り出す。
 よし、いっちょやりますか、と匠音は和美のオーグギアに接続した。
 普段のやりとりで使うパスを辿っての、踏み台プロキシすら刺さない相変わらずの綱渡り。
 許可なくストレージに侵入するためにセキュリティを確認する。
 今まで侵入してきた相手はセキュリティの設定がデフォルトであったりカスタムしてあったとしてもそこまで強固なものではなかった。
 しかし相手が元ランカーの和美であればハッキングの脅威は十分理解しているはずで、今までとは比べ物にならない硬さであるだろう。
 そう思いながらストレージの入り口を見た匠音は絶句した。
 ――やばい。
 幾重にも張り巡らされたトラップ、蟻一匹通さないと言わんばかりの密度の防壁。
 見た瞬間、匠音は「無理だ」と思った。
 今までに見たことがないほどの強固なセキュリティに、「どうしてここまで」と考える。
 スポーツハッキングはただ擬似的なサーバを攻めるだけではない。
 当然、対戦相手のオーグギアにハッキングして妨害することもある。
 その対策としてオーグギアのセキュリティを強固なものにする、ということは匠音も理解している。
 しかし、ここまでの防壁は個人ではそうそう構築しないだろう。
 いや、規模の小さい企業でもここまでの防壁は構築しない。
 まるで腕利きのカウンターハッカーからの侵入ですら拒むと言わんばかりのセキュリティに匠音はまさか、と呟く。
 ――ハッキング自体は、まだ辞めていない――?
 匠音に弱いSPAMを送り込む程度でここまでの防壁を構築することはない。
 スポーツハッキングからは引退したが、和美はまだハッキング自体を辞めていないのでは、そう思う。
 いずれにせよ、ここまでセキュリティの固い和美のオーグギアをハッキングすることは今の匠音には不可能である。
 やっぱり無理か、とため息を吐きつつ匠音は和美のオーグギアとの接続を解除する。
 もう一度ため息を吐き、匠音がどうしようか、と呟いた。
 和美のオーグギアなら自分の知らないハッキングツールがたくさんあると思っていただけにあの対策に絶望する。
 確かにツールに頼ってしまうのはよくないし、腕利きの魔術師ならツールを組み合わせて無限大の可能性を生み出すということもよく分かっている。
 しかし手持ちのツールが少ない匠音はその時点で可能性が限られてくる。
 そのため、手札を増やすために和美のオーグギアに侵入しようと思ったのだが。
 ――いや、待てよ。
 ふと、匠音が考える。
 ――父さんがスポーツハッカーだったなら、もしかして。
 匠海のオーグギアにもツールが色々格納されているのではないだろうか。
 そして、それが廃棄されていないことも匠音は知っている。
 それなら、と匠音はベッドから降りた。
 部屋のドアをそっと開け、リビングに誰もいないことを確認する。
 部屋を出て、匠音は写真が飾ってある棚の前に立った。
 棚には普段は何枚かの写真が飾られており、その横に小さな花瓶が置かれているが今日は匠海の命日だからか唐揚げが一つ乗った小皿も置かれている。
 その奥に、匠音が目的とするものがあった。
 小さなケースに入れられたオーグギア、手を伸ばして中身を取り出す。
 一瞬、罪悪感がチクリと匠音の胸を刺すがそれを振り切って匠音は写真の中の父親を見た。
 ――ごめん、父さん。
 そう心の中で謝罪し、自室に戻る。
 有線接続用のケーブルを取り出し、匠音は自分の心臓が痛いくらいに早鐘を打っていることに気がついた。
 そもそも、匠音は今まで何一つ匠海のことを知ろうとしはしていなかった。
 それが、オーグギアを接続して中を確かめようとしている。
 知らず、手が震え、ケーブルがなかなか差さらない。
 自分を落ち着けるように深呼吸を一つして、匠音は匠海のオーグギアにケーブルを差し込んだ。
 【Connected】の文字が表示され、直後、バッテリーのアイコンと共に【LowBattery】のアラートが表示される。
「……あっ」
 無理もない、使うこともないから充電されているはずがない。
 ケーブルを抜き、匠音は小さくため息を吐いた。
 そのまま匠海のオーグギアを自分のオーグギア充電用のクレードルに置く。
 十五年以上前の機種とはいえ、ワイヤレス給電が確立されて久しく、オーグギアの充電器も小さなトレイの形状をしたクレードルになっている。
 久しく電源が入れられなかったオーグギアのLEDが点灯し、充電が開始される。
 かなりの期間充電されていないことを考えるとバッテリーが劣化している可能性もあるがそこは数分だけでも接続できることを期待して充電を続ける。
 充電を待つ間はトレーニングアプリを起動していくつかの中級ステージを攻略、匠音は自分の実力が少しずつだが上がっている手ごたえを覚える。
 いつかはこのランキングを書き換えたい、そう思いながら夢中でトレーニングを行っているうちに充電が完了し、匠音はアプリを終了してクレードルの上の匠海のオーグギアを手に取った。
 ケーブルで自分のオーグギアと接続し、一度大きく深呼吸をした。
 再び表示される【Connected】の文字。
 意を決してストレージを展開しようとする。
 と、匠音の目前でメディアプレイヤーが展開された。
「……え?」
 匠音が驚きの声を上げる。
 自分はまだ何も操作していない。勝手にメディアプレイヤーが立ち上がった。
 どういうこと、と疑問が浮かぶ匠音の目の前で動画が再生される。
《……やっぱり、ビデオメッセージって慣れないな》
 そんな声と共に映像に一人の男性が現れる。
「……父……さん?」
 かすれた声で匠音が呟く。
 目の前の動画に映る男性は匠海だった。
 このオーグギアに有線接続したらビデオメッセージが再生されるように仕込んでいたのか。
《この動画を見てるってことは、接続してるのは和美じゃないな。誰だろう》
 初めて聞く父親の声。
 知らず、匠音の心臓が高鳴る。
 写真でしか見たことのない匠海が、目の前で動いて、喋っている。
《和美には個別の動画用意してるから気にしないでくれ。しかし、誰だろうな……俺としては、この動画の再生が俺が死んだ何年も後で、息子か娘か分からないが俺の子供だったらいいなって思う》
「……父さん……」
 俺だよ、息子が聞いてるよ、そう、匠音が思わず声を上げるもこれはただの動画、匠海に届くはずがない。
 ウィンドウの向こうで匠海が続ける。
《この動画、もしくは和美が自分用の動画を見ているなら俺は多分死んでるかもう動けない状態なんだと思う。何もなかったらこの動画自体削除するからな》
 そう言ってから一度口を閉じ、匠海は少し考えるようなそぶりを見せる。
《もし、この動画を見ているのが俺の子供だった場合は謝罪させてほしい。父親らしいことを何もできなくて、すまなかった。多分、お前を含めた和美を守るだけで精いっぱいだったと思う》
 言葉の端々に感じられる、動画撮影時点で既に自分の死を覚悟しているような雰囲気。
 重い病気だったんだろうか、と匠音はふと考えた。
 とても元気そうで、病気には見えないが完治の見込めない病気を抱えていたのか、と。
《最近、不穏な空気を感じてな。もしかしたら俺は殺されるかもしれない。いや、厳密に言うと狙われているのは和美なんだ。だからもし、このオーグギアに接続したのが和美以外の人間だったら、和美を守ってやってほしい。あいつはまだ死んでいい人間じゃない。お腹の子供……俺と、和美の子供のためにも、守ってやってくれ》
 そう言って笑う匠海に匠音の胸が痛む。
 ――父さんが、母さんを守ってくれたから、俺が……?
 しかし、この口ぶりでは十五年前の事故は意図的に起こされたとしか考えられない。
 しかも、和美が狙われていたとは穏やかな話ではない。
 母さん一体何やったんだよと思いつつ匠音はさらに続く動画を見る。
《この動画を見てくれた人に、俺の独自ツールユニークとアバターを託す。使い方は教えない、自分で真価を見つけてくれ》
 自分で真価を見つけて初めてお前のユニークになるから、と続け、匠海は再び笑う。
《ここからはこれを見ているのが俺の子供だという前提で話すぞ……。ってもなんか恥ずかしいな。男の子か女の子か、和美はなんて名前を付けたんだろうな。当ててみようか? 俺が死んだ後だったら和美は絶対俺の名前から一文字取ると思うんだ。もしかすると和美も自分の名前一文字使うかな。そうなると……俺と同じ読みだが『匠美たくみ』もあり得るよな、違うか》
「……違ぇよ、父さん」
 そう、毒づいた匠音の声は弱い。
 名前自体は間違っていたものの、匠海は確実に和美の思考を当てに行っていた。
 「貴方の名前はお父さんから一文字貰ったもの」と昔ぽつりと語った和美を思い出す。
 それだけ、父さんは母さんのことを理解して愛していたのか、と匠音は今更ながらに思い知らされる。
《俺に似てるのか、和美に似てるのか、せめて顔くらいは見たかったな。とにかく――和美の、母さんの言うことはちゃんと聞けよ。あいつは怒らせると怖い》
 ――お仕置きがSPAM送り込みだし、分かる。
 うんうんと頷く匠音。
 匠海の言葉の一つ一つが匠音に刺さり、ついぞ言葉を交わすことはなかったものの、それでも愛してくれていたんだという実感が胸を締め付ける。
《俺のことは気にするな。母さんを、頼んだぞ》
 その言葉を最後に、映像が途切れる。
「父さ――」
 思わず匠音は手を伸ばしていた。
 映像の匠海の腕を掴もうとするように。
 だがその手は空を切り――いや、何かを掴んでいた。
 腕を戻し、匠音は手を開いて掴んだものを見る。
 それは一つの圧縮ファイルだった。
 展開すると、二つのファイルが格納されたフォルダが現れる。
「これは――」
 一つは「Excaliburエクスカリバー」と名付けられたツール、もう一つは「Arthurアーサー」と名付けられたアバターデータ。
「父さんが、アーサー……」
 アバターのプレビューを展開する。
 青をメインカラーとした、騎士王を思わせる甲冑のアバター。
「父さん……」
 ランキング一位の和美マーリンに追従するように二位をキープしていたアーサー、それが匠海。
 その彼が、自分に固有ツールユニークを託してきたのだとふと思う。
 ぽたり、と水滴が匠音の手に落ち、視界が滲む。
「父さん……!」
 写真でしか知らないから、声も、どんな人だったかも知らないからと匠音は墓参りにすら行っていなかった。
 それなのに、匠海父親は自分が生まれる前から気に掛けてくれていたのだと、匠音は今更ながらに実感する。
 そして自ら編み出した固有ツールを託してきた。
 それは匠海が匠音を一人の魔術師として認めたから託したわけではないということは理解している。
 動画ファイルの都合で、和美以外の人間がこのオーグギアに接続していたら自動的に転送されるようになっていただけということも分かっている。
 それでも。
「父さん……ごめん父さん、俺、何も分かってなかった。何も知ろうとしてなかった」
 匠音が溢れる涙を拳で何度もぬぐう。
 初めて聞いた匠海の声。それは想像していたよりもずっと優しく、力強いもので。
 たとえ自分が死ぬと分かっていても和美と子供だけは守るという意思が伝わって。
 自分がいかに甘い考えでホワイトハッカーを名乗っていたか思い知らされる。
 匠音の嗚咽だけが部屋に響き渡る。
 言葉を交わせたわけではないが、それでも初めて父親と対話できたと匠音は思った。
 十五年前の事故の詳細が分かったわけではない。
 匠海は「殺されるかもしれない」とは言っていたが本当にただの事故だったのかもしれない。
 それでも、匠海はこうやって自分にメッセージを遺してくれた。
 それが嬉しくて、同時に何一つ知ろうとしていなかった自分が情けなくて、涙が止まらない。
 匠音が涙をこぼすたびに心の中のわだかまりが一つずつ溶けていく。
 父親は決して自分を見ていなかったわけではないのだと、その実感を強めていく。
 暫くして漸く落ち着いた匠音が涙を拭き、それから改めてアーサーのアバターデータを見た。
「……父さん、俺、母さんを守るから。母さんは『ハッキングするな』って言うけど、これだけは譲れない。俺は、ハッキングこの力で母さんを守る」
 父さんからもらった独自ツールも必ず使いこなす、そう呟いて匠音はツールとアバターデータを自分のオーグギアの隠しストレージに格納する。
「……ありがとう、父さん」
 拳を固く握りしめ、匠音は呟いた。

 

 匠音の部屋の前に立ち、和美がドアをノックしようとする。
「匠音、ちょっといい……」
 そう、言いかけた和美の言葉が途中で止まる。
 部屋の奥からかすかに聞こえる匠音の声。
「父さん、俺、母さんを守るから」
 確かに聞こえたその声に、和美がはっとしてノックしようとした手を下ろす。
 物音を立てないように棚の前に移動し、ケースを手に取る。
 ケースの中身は空だった。
 つまり、匠音は匠海のオーグギアを手に取り、接続したというのか。
「……匠音……見たのね……」
 匠海からのメッセージを。
 匠音がどのような意図で匠海のオーグギアを無断で持ち出したのかは分からない。
 それでも、匠音があのようなことを口にしたことを考えると彼は匠海のビデオメッセージを受け取っている。
 和美は匠海のオーグギアに自分たちに宛てたビデオメッセージが遺されていることは知っていた。
 自分に宛てたメッセージは葬儀当日に祖父ではあるが戸籍上の匠海の父、白狼しろうからオーグギアを受け取って確認している。
 自分以外に宛てたビデオメッセージの存在も認識してはいたが、それは「自分に宛てたものではない」として和美はハッキングできたにもかかわらず見ていない。
 一体、何を匠音に伝えたのだろうかと和美は思ったがそれはプライベートなことなので匠音本人に聞くわけにもいかない。
 それでも、何となくは予想ができた。
 匠海は匠音に託したのだ。和美母親のことを。
 そうよね、と和美は呟いた。
 匠音もいつまでも守られてばかりの子供ではない。
 それは分かっていたはずだ。
 それでも、どうしても匠音がハッキングを行うことだけは許容できない。
 ――わたしのせいで、匠海は。
 十五年前のあの日、ハッキングされたトラックの接近を察知した匠海は和美を突き飛ばした。
 その時和美は既に妊娠二か月、一歩間違えれば流産もあり得た行動だったが結果として和美は、そして彼女に宿っていた命も運良く失われることなく生存。しかし和美を突き飛ばしたことで車道側によろめいた匠海はそのままトラックに轢かれることとなった。
 「手は尽くしたが助けることはできない」と医師に宣告されたときのことを思い出す。
 あの時の絶望は今も忘れることができない。
 しかし、たった一つだけ、可能性は存在した。
 それが悪魔に魂を売るような行為になると理解しつつも、和美は。
「……上手くいった、と思ったのに」
 意味深な言葉を和美が呟く。
「……本当に、どこに行ったの……」
 パパ、どうしたらいいの、と和美は続けた。
 この件に関しては和美の父親、佐倉さくら 日和ひよりも把握している。
 あの事故以来、多忙な日和とはあまり話をすることができなかったが和美にとっては数少ない身内である。
 日和も「最大限の協力はする」と言ってくれているが、事態は本当に解決するのか。
「匠海……」
 そう、呟く和美の視界の外、振り返ればAR表示で映り込む位置に小さな人影が佇んでいる。
 とんがり帽子をかぶった小人の妖精ブラウニー
 ブラウニーはじっと和美の背を見つめ、そしてふっとその姿を消した。

 

to be continued……

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