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世界樹の妖精 -Brownie of Irminsul- 第2章

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  第2章 「かつて『Merlin王の導き手』と呼ばれた母」

前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

 アメリカに建造された四本の「世界樹」がネットワークインフラを支える世界。
 ロサンゼルスのハイスクールに上がったばかりの永瀬ながせ 匠音しおんは駆け出しのホワイトハッカーとして巨大仮想空間メタバースSNS「ニヴルング」で密かに活動していた。
 そんなある登校日、幼馴染のメアリーと登校した匠音は教師から性的な嫌がらせをされた女子と遭遇、教師のオーグギアをハッキングすることで制裁を行う。
 その数日後、買い出しに出た匠音は目の前で義体装着者が倒れるというアクシデントに遭遇する。
 緊急車両が間に合うかどうかも分からない中、コード書き換えを試みようとする匠音。
 その時、何処からともなく現れた小人妖精ブラウニーがコードを書き換えてしまう。
 都市伝説と言われていたブラウニーの存在。その実在に、匠音は驚きを隠せないでいた。

 

 目の前に現れ、男性の義体心臓の制御コードを書き換え、救った小人妖精ブラウニー
 周りで固唾をのんで見守っていた他の通行人にはブラウニーは見えていなかったらしく、匠音しおんが対応したと思い込んで歓声を上げた。
「凄いな坊主! どうやったんだ?」
「あなたは英雄よ!」
 そんな声が次から次へと投げかけられる。
 だが、匠音はそれどころではなく、買い出しの途中だったことも相まって慌てたように地面に投げ出したエコバッグを拾い上げた。
 そのタイミングで頭上に影がよぎり、それから緊急アナウンスによって通行規制がかけられた道路に緊急航空車両が着陸する。
 救急隊員がストレッチャーと共に駆け寄ってくるのを見て、匠音は、
「あ、もう大丈夫そうなので俺はこれで!」
 そう言い残し、脱兎のように駆け出した。
 後ろから歓声が追いかけてくるが全速力で、念のために遠回りして帰宅し、ほっと息を吐く。
「あら匠音、どうしたのそんなに慌てて」
 匠音の帰宅に、部屋を出てきた和美かずみがそう声をかける。
「い、いやなんでも。それより、牛乳買ってきた」
 先ほどのブラウニーの一件での動揺が治っていなかった匠音はそう言って、そのままエコバッグを和美に手渡してしまう。
 ありがとう、と和美は受け取ったエコバッグから商品を取り出し、
「だからトゥエルグミはダメって言ったでしょー!!!!」
 そう、叫んだ。
 次の瞬間、匠音の視界にサイケデリックなドットのキャラクターが表示される。
 同時に激しいフラッシュが閃き、一瞬彼の意識が遠のきそうになる。
「母さん!」
 キャラクターを振りほどこうとするかのように腕を振りながら匠音が声を上げる。
「息子にSPAMスパムはないだろ!」
「あら、こんなのSPAMって言うほどの物じゃないわよ。本場のはこんなものじゃないけど?」
 あっけらかんとして和美がそう言い切る。
 対象のオーグギアをハッキングし、でたらめなデータやフラッシュ、大音量ノイズなどを送り込む、そのツールがSynapse PAin MomentSPAMと呼ばれるものだがそれを容赦なく使う和美もまた、かつては一人の魔術師マジシャンとして名をはせた人間だったことを匠音は思い出した。
 しかも、昏倒するほど強烈なものではなく単純に一瞬眩暈を起こさせる程度に出力を調整したもの。
 お仕置きにはちょうどいいのかもしれないが、そもそも息子とはいえ他者のオーグギアに侵入するのは違法である。
「ったく、『マーリン』だかなんだか分かんないけどいちいちハッキングするなよ」
 スポーツハッキング観戦を禁じられている永瀬家だけに、匠音には選手やルールに関する知識はあまりない。
 メアリーにこっそり大会のアーカイブを見せてもらったり雑誌「スポーツハック・マニアクス」を読ませてもらっているとはいえ最近の試合や話題ばかりで昔のことは分からなかった。
 ただ、和美がかつてはスポーツハッキングチーム「キャメロット」に在籍していて、「マーリン」というスクリーンネームだった、ということだけは昔、彼女に見せてもらった写真で知っていた。
 その、優勝杯を手にする和美の隣で嬉しそうに笑っていた匠海父親表情かおは忘れられない。
 だが、匠海たくみがどんな人物で何をしていたかは和美は一切口にしようとせず、匠音はただ「匠海という名前の父親がいた」という程度の認識しかない。
 そんな和美は今、「キャメロット」から脱退、いや、スポーツハッキング界からも引退してとある会社のエンジニアとして勤務している。
 それでも匠音がいたずらをした時などはこうやって彼のオーグギアをハッキングしてSPAMを送り付けるようなことは行っていた。
 匠音も独学とはいえ一応は魔術師の端くれなのでSPAMに関する知識くらいは持ち合わせている。その気になれば出力調整されたこの程度のSPAMくらいは無効化できるが下手に対処してハッキングのことを知られれば何が起こるか分からない。
「ったく、容赦ないなあ……」
 匠音がそう言ってもう一度キャラクターを振り払うように手を振ると、和美も気がすんだのか彼へのハッキングを解除する。
 匠音の視界からキャラクターが消え失せ、彼はほっと一息ついた。
 ……のも束の間、匠音は、
「とにかく、トゥエルグミいただき!」
 そう言い、和美の手からトゥエルグミを奪い取り、さらにテーブルの上に置いてあった開封済みの箱からキャンディチョコレートを一掴み強奪した。
「あ! 匠音それわたしの!」
 和美が手を伸ばすが匠音の動きはもっと早い。
 あっと言う間に自室の前に移動し、彼は、
「母さんのチョコもらうねー! じゃ、仕事頑張って!」
 先ほどのSPAMの件はどこへやら、機嫌よく部屋に入っていった。
 閉まる扉を見て、和美が小さくため息を吐く。
「……わたしの……ドミンゴの……チョコレート……」
 仕事中や考え事をしているときなど、和美はよくドミンゴのキャンディチョコレートを頬張る。
 確かに今匠音に新しい箱を買ってきてもらったばかりとは言え少しでも多く食べたい気持ちはあった。
 箱を見ると、中には数えるほどしか残っていない。
「……匠音……」
 恨みがましく和美が呟き、それから魔術師が魔法を使うかのように指を振る。
 次の瞬間、
「ぎゃーーーー!!!!」
 扉の向こうから、匠音の絶叫が聞こえてきた。
「匠音ー、これに懲りてわたしからおやつ盗らないでねー!」
 和美が指をもう一振り、たった今匠音に送り付けた、先程よりもずっと強力なSPAMを解除する。
「母さん、虐待、反対……」
 扉の向こうから聞こえる途切れ途切れの匠音の言葉をBGMに、和美は、
「食べ物の恨みは怖いのよ、覚えときなさい」
 そう言って残ったチョコレートに手を伸ばし、包み紙を開いて口に入れた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 授業終了のベルと共に、教室内のクラスメイトが次々とログアウトしていく。
「匠音、今日はどうする? 『ニヴルング』来る?」
 隣の席にいたメアリーが匠音に声をかける。
「なんかあるのか?」
 そういえばアーカイブ解禁だっけ? と匠音が訊ねると、メアリーはううん、と首を振った。
「買い物付き合ってほしいだけ。あ、でも一昨日解禁されたアーカイブあるから見に行く?」
 メアリーの言葉に、あまり乗り気ではなかった匠音が態度を変える。
「それは見たい! 買い物、付き合うよ!」
 尻尾があれば振っているのではないかという雰囲気すらみせる匠音に、メアリーはくすり、と笑って「ありがと」と応えた。
「それじゃ、三十分後にリトル・トーキョーエリアのエントランスで合流しよ?」
「オッケー、じゃあ三十分後に」
 匠音がそう言って片手を上げると、メアリーも「また後でね」と言い残しログアウトする。
 エフェクト共に消失するメアリーのアバターを見送り、匠音も教室からログアウトした。

 

 ふっ、とエフェクトと共に狼頭の少年アバターが出現し、「ニヴルング」のホームエリアに降り立つ。
「やばいやばい、メアリーに怒られる」
 そう呟きながら足早に待ち合わせ場所へ移動する狼頭のアバターの持ち主は、匠音。
 今は授業時ではなく放課後なので手持ちのアバターで「ニヴルング」にログイン、待ち合わせ場所に向かっている。
 コミュニティサービスに強いFaceNoteフェイスノート社によって運営されている世界最大級の巨大仮想空間メタバースSNS「ニヴルング」、その特徴はオーグギアのフルダイブ機能を利用した、「感覚転送したアバターで仮想空間内を歩き回れる」というところにある。
 かれこれ百年くらい前の物語で語られていたフルダイブ技術は完成しており、現実のものとなっていた。
 尤も、五感をアバターに転送したとはいえ、痛覚に関しては現実生身がダメージを受けたと誤認して危険な状態になるという事例からオミット同然の扱いを受け、攻撃されたとしても痛みは感じない。
 そんな「ニヴルング」は広大なマップを有しており、いくつものエリアに分割されている。
 ユーザーはまずホームエリアに転送され、そこからポータルをくぐって希望のエリアへと移動する。
 今回、匠音はロサンゼルスにあるリトル・トーキョーを再現したエリアのエントランスを待ち合わせ場所に指定されていたため、現在ホームエリアからポータルを通って移動している次第である。
 匠音がリトル・トーキョーエリアのポータルに飛び込むと極彩色の橋が伸び、エントランスへと接続する。
 接続先のゲートをくぐると、そこは現実リアルと見まごう程精巧に再現されたリトル・トーキョーの待ち合わせスポットエントランス、二宮金次郎像の広場だった。
 やばい、おやつ食べてたら遅刻した、と匠音がきょろきょろと周りを見る。
 すると、
「もー、匠音遅いー!」
 灰色の毛並みロシアンブルーにブルーの瞳を持った、猫の頭をした少女のアバターが近づいてきた。
「うぉ、メアリー! ごめん、遅れた!」
 近づいてくるアバターに見覚えはなかったが頭上のネームプレートでメアリーだと認識する。
「ってか、メアリー、アバター変えたのかよ」
 「ニヴルング」にログインするためにはアバターが必要ではあるが、必ずしも固定アバターになるわけではない。好みやトレンドに応じてファッション感覚で着替えられるものである。
 普段のメアリーは別のアバターを使っていたが、どうやら新しいお気に入りを見つけたのだろう。
 勿論、アバターは市販されている物だけでなくゲームのキャラメイク感覚でプリセットを組み合わせて作ったり、デザインセンスがある人間は一から構築することもある。
 スポーツハッキングのチームによっては専属の仕立屋デザイナーがいて、メンバーのアバターを構築してくれることもあるらしい。
 匠音はアバターに特別のこだわりがあるわけではないので普段のアバターは市販品を使っていたが「シルバークルツ」として活動するときだけ、こっそり貯めた自分の小遣いで課金した自前のアバターを使っている。
 メアリーが、「いいでしょこれ」と匠音の目の前でくるりと回る。
「凄く可愛くて欲しかったの。お小遣いも貯まって、ちょうどセールしてたから買っちゃった」
 「どう、似合う?」と訊いてくるメアリーに、匠音が目を白黒させながら頷く。
「あ、う、うんかわいい。」
 メアリーの動作一つ一つに何故かドキリとする。
 隣の家で、幼馴染で、見慣れた彼女のはずなのに何故か新鮮でどぎまぎしてしまう。
 自分は決して擬人化動物愛好家ケモナーではないはずなのに、と考える。しかしこのどぎまぎはなんだろう。メアリーがかわいらしい猫のアバターを被っているからか、それとも単純に彼女の動作に反応してしまったのか、どっちなんだろう、と匠音は自問した。
 アバターを着替えるだけでここまで印象が変わるのかと思いつつ、匠音はとりあえず、とメアリーに声をかけた。
「買い物、行くんだろ」
「そうね、行きましょ」
 そう言ってメアリーが匠音の手を掴む。
「えっ」
 どきり、と匠音の心臓が一瞬高鳴り、思わず彼はメアリーを見た。
「どうしたの、行きましょ!」
 メアリーが匠音の手を引いて走りだす。
 それに追従しつつも、匠音は自分の思考が吹き飛ぶのを感じた。
 今、自分たちは一緒にいない
 メアリーも自分も自分の部屋からここ「ニヴルング」にアクセスしているだけ。
 だが、それでも確かに感じるメアリーの手の感触。
 フルダイブ型SNSという性質上、当たり前のことではあるがそれでも匠音は「メアリーの手、やわらかいな」とふと思っていた。
 それから、自分がハッキングして証拠を集め通報した結果逮捕されたジョンソンのことを思い出し、メアリーが彼の手に落ちなくてよかった、と心底思う。
 ――もし、俺に何の力もなければ。
 メアリーはジョンソンに深く傷つけられていたに違いない。
 それを阻止できたことは誇らしいし、誰かに打ち明けたい。
 しかし親からハッキングを禁止されている匠音がそれを口にすることはかなわず、ただ心の内にしまっておくしかできなかった。
 メアリーに手を引かれ、彼女が目的としていた店舗に入る。
 「ニヴルング」のショップは現実に存在する店舗と同じような構造で棚に様々な商品が並べられていて、手に取って雰囲気を確認することができる。
 気に入ればそのまま決済すれば後日商品が自宅に届く、という仕組みである。
 ただ買い物をするだけなら「ニヴルング」にログインせずとも通常のブラウザによるオンラインショップで事足りるが、実物の感触を確かめたいのであればフルダイブSNSの「ニヴルング」は五感に干渉して本物さながらの確認を行うことができる。
 メアリーが入ったショップはとあるスイーツの店だった。
 「リトルパフェ」と店名を記載した看板を出した店頭に大きく「期間限定」のホログラムPOPが浮かび見る人の目を引き付ける。
「あったあった! これ、気になってたのよ!」
 そう言いながらメアリーが指さしたのは「期間限定」のネーブルオレンジをふんだんに使用したパフェ。
 普段はトゥエルグミやミスターペッパーなどジャンキーな菓子やジュース類を好む匠音であったが、このパフェには少々興味が沸き上がる。
 そしてここはフルダイブSNS「ニヴルング」。
 流石に試食は無料というわけにもいかず課金は必要であるが実際に購入するよりもはるかに安く、味を体験することができる。
 ごくり、と匠音がのどを鳴らす。
「やっぱり匠音も気になるよね?」
 にやり、と猫頭のメアリーが笑い、「試食」ボタンをタップする。
 匠音もそれに続いてボタンをタップすると試食サイズのパフェが二人の手元に出現した。
 食べましょ、と付属のスプーンでパフェをすくい口に運ぶメアリー。
 それを真似るかのように匠音もパフェを口に運ぶ。
「うっま!」
 口の中に広がるオレンジの風味と生クリームの甘さが心地よい。
 実際に食べているわけではないのに、ついつい手が出てしまう。
 あっと言う間に試食分を完食し、匠音はメアリーを見た。
「凄いな、これ」
「友達の間でもすっごく話題になってて、試食だけでもしたかったのよね」
 実店舗だと連日売り切れらしいよ? とメアリーが言うと匠音も納得したように頷いた。
 ジャンキーな物が好きな匠音でもこれは本物を食べてみたい。
 メアリーと一緒に実店舗に行けたらいいんだけどな、と思いつつ匠音は名残惜しそうにパフェが入っていた試食用の皿をタップして消去する。
「で、買い物ってこれのこと?」
 いや、これだけでも十分な収穫である。
 それでももう少しメアリーと一緒にいたい、と匠音はふと思った。
 確かにこの後、一昨日解禁されたというアーカイブを見る、という話もある。
 それでもアーカイブ視聴とウィンドウショッピングは全然違う。
 そう、期待を込めつつ匠音が訊ねると。
「まさか。ミカのお見舞いもしたいし、いろいろ回るわよ」
 これの試食はこの間ジョンソンの件で相談に乗ってくれたお礼、こうでもしないと匠音変なのしか食べないし、とメアリーが余計な一言を付け加えてくる。
 そりゃそうだ、と納得しつつ、匠音はメアリーと並んで店を出た。
 その後も様々な店舗を回り、メアリーのウィンドウショッピングに付き合う。
 メアリーの服選びに付き合ったり、スポーツハッキングのアンテナショップで「キャメロット」のグッズを眺めたり、楽しい時間が過ぎていく。
 しかし、その途中で匠音は思ってしまった。
 ――これって、デートなのでは。
 気付いた瞬間、匠音の顔が赤くなる。
 実際は狼頭のアバターなので知られることはないが現実の彼を見た人間は間違いなく「赤面している」と認識するだろう。
 ちらり、とメアリーを見るものの彼女は実質デートという事態には気づいておらず、平然としている。
 あくまでも俺は「幼馴染」なのか、と匠音がちくりと胸の痛みを覚えたその時。
 違和感を覚え、匠音は振り返った。
「? どうしたの匠音」
 メアリーが不思議そうに匠音を見る。
 匠音はというと、振り返ったままとある地点を凝視している。
「ちょっと、匠音?」
 メアリーが匠音の肩をつつく。
 そこでようやく匠音は我に返り、メアリーを見た。
「あ、メアリーごめん」
 そう言いながらも、匠音は後方を気にしている。
「何かあったの?」
 不思議そうにメアリーも振り返りながら匠音に尋ねるがパッと見た限り、何か不審なものがあるとかそういった雰囲気はない。
 一体何を見たのだろう、とメアリーが改めて匠音を見るが、匠音はやはり後方が気になるようでちらちらと視線を投げている。
 どうしたの、とメアリーが口を開こうとしたその時。
「メアリー、ごめん! 急用できた!」
 突然、匠音がメアリーの前で両手を合わせた。
「ちょっとやばい感じだから、ここで抜ける! アーカイブは今度観よう!」
「え、ちょっと、匠音?」
 突然の匠音の言葉に戸惑うメアリー。しかしその時既に匠音は脱兎のごとく駆け出してメアリーの視界から消え去っていた。
「……もう、何なの匠音……」
 トイレにでも行きたくなったのかしら、とメアリーが首をかしげるも、匠音が必要な用事は全て終わっており、解散になっても特に文句はない。
 強いて言うなら一緒にアーカイブを見ることができなかったことが悔やまれるが、別に期間限定配信というわけでもないので後日改めて観ればいいだろう。
 仕方ないなあ、とメアリーは一つため息を吐き、後で母親マミーと一緒に焼いたクッキーでも差し入れようと呟いた。

 

 様々なアバターが歩く「ニヴルング」の通りを狼頭のアバターが駆け抜ける。
 ――間に合うか?
 比較的人通りの少ない場所に移動、匠音は誰にも見られないように横道に飛び込んだ。
 「ニヴルング」内の通路は基本的に大通りのみで、横道は存在するものの侵入不可エリアとなっている。
 それでも通路のデータは存在するため、魔術師ハッカーは裏コマンドを用いて侵入権限を書き換え、足を踏み入れる。
 そこは魔術師たちが集う暗黒のエリア。「ニヴルング」の中であって「ニヴルング」の管理下にない場所。
 大抵は「第二層」で行われるような様々な情報の共有やグレーゾーンな品物の取引が行われたりするだけで「ニヴルング」内に悪影響を及ぼすような事は行わない。
 ネットワークの深層、一般人が踏み込めない領域は「ディープウェブ第二層」と呼ばれ、数多くの犯罪計画や違法取引が行われている。しかし「第二層」に踏み込むまでもない、ログを取られても犯罪には当たらない程度の非合法グレーゾーンなやり取り程度ならセキュリティをそのまま利用出来る「ニヴルング」の横道がはるかに安全で、多くの魔術師が密かに利用している。
 もし「ニヴルング」に悪影響を及ぼすなら外部から、それこそ「ニヴルング」有する世界樹イルミンスール本体を攻撃した方が効率はいい。
 「ニヴルング」内部の行動は細かくログが取られており、それを常時欺瞞し続けながら攻撃するのは現実的ではないからだ。
 それでも、ごくまれに存在するのだ。内部から「ニヴルング」を攻撃しようとする輩が。
 そうと確定したわけではないが、匠音はその雰囲気を感じ取っていた。
 オーグギアの使用は直感的な操作が物を言うため、ゲーマーやハッカーといったヘビーユーザーは高い判断力と直感を求められる。
 ほんの少しでも違和感を覚えたのなら、それが白黒確定するまで信用してはいけない。
 確定して初めて、何かあった/何もなかったと断言することができる。
 その違和感を確定するため、匠音はメアリーとのショッピングを中断した。
 せっかくのメアリーとのデート、中断するのは非常に惜しかったが違和感を無視した結果「ニヴルング」に何かしらのテロ行為が行われた際に被害を被るのは自分とメアリーである。
 少なくとも、メアリーに害が及ぶのは嫌だった。
 回りに誰も、他の魔術師もいないことを確認して匠音はログインIDを偽装した。
 ダミーのアカウントに切り替えたことで彼の周りを一瞬ノイズが走り、それから姿が切り替わる。
 全身黒でコーディネートし、要所要所にシルバーのアクセサリーを身に着けた黒髪で紅い瞳を持つ長身の青年。
 見る人が見れば「ああ、厨二病こじらせてるのね」という外見ではあったが匠音はこのアバターを特別気に入っている。
 ホワイトハッカー「シルバークルツ」としての一張羅、このアバターに着替えると自然と気合が入ってくる。
 このIDの偽装アプリは「ニヴルング」の利用が当たり前となった現在の魔術師なら誰もが使うアプリで、自動的に接続元を欺瞞して元のIDが辿られないようにしてくれる。
 それでも「ニヴルング」のログは全く同じ座標で瞬時にログアウトとログインが行われるIDを切り替える瞬間を見ているので、もし何かの理由で目をつけられて手動でログを確認されれば辿られてしまう。その程度の物であったが「ニヴルング」運営が対策を行っても、いや、対策が行われる前に常にアップデートが行われ、簡単には目を付けられない。
 行きますか、と匠音は横道から横道へと移動した。
 先ほど覚えた違和感はここから数本隣の横道にある。
 匠音は見たのだ。とあるアバターが横道へ侵入したのを。
 だが、ごく普通の取引程度なら少しでもハッキングをかじった人間なら誰でもできるし違和感を覚えるような危うさはないはず。
 それなのに匠音は危ない、と感じたのだ。
 今横道に侵入した魔術師は良からぬことを企んでいる、と。
 横道を渡りながら匠音は違和感の根拠を考えた。
 本当はただのグレーな取引だけではないのか。危ないと思った根拠は何なのか。
 二本目の横道を抜けた時、匠音はその違和感の根拠に思い当たった。
 ――あれは踏み台だ。
 「ニヴルング」で怪しげな取引を行う程度なら偽装IDでアバターを差し替えるだけで事足りるはず。取引程度で相手の素性リアルを探らない、というのは「ニヴルング」をグレーに利用する魔術師たちの暗黙の了解である。
 実際、匠音もハッキングツールを融通してもらったり少しディープな話題を仕入れるときはこの横道ネットワークを利用しているし、それで素性を暴かれるようなことはない。
 だが、先ほど横道に入ったアバターは動きがおかしかった。
 それはまるで操り人形のようで、腕の悪い魔術師が強引に適当なユーザーのアバターを乗っ取り、制御しているように見えた。
 何も知らない一般ユーザーなら気付くことのないささやかな違和感。
 それを、匠音は確かに感じ取っていた。
 他人のアバターを踏み台にして横道に侵入するとは、穏やかな話ではない。
 余程追跡されたくない何かをこの魔術師は抱えている。
 恐らくは――「ニヴルング」のデータ破壊。
 そう思った根拠はある。
 取引だけならIDを変えればいい。先に説明した通り、密かに取引するだけなら、それを見咎められる危険は少なく、偽装IDから本来のIDが破れる可能性も低い。
 だが、「ニヴルング」へ攻撃するとなると話は違う。IDを変えただけでは「ニヴルング」に何か起こした際、すぐに運営が知るところとなり強制退出アカウント停止となる。この場合、手動でログも確認されるため、よほどうまくやらないと偽装IDも見破られてしまう。
 しかし他人のアバターIDを踏み台にした場合、停止となるのは踏み台にしたアバターの持ち主のIDだけで魔術師のIDは停止されない。
 もちろん、世界樹イルミンスール監視官カウンターハッカーも無能ではない。すぐにその可能性に気付いてそのアバターIDを踏み台にしたハッカーの追跡を開始するだろうが、優れたハッカーならその間にニヴルングにダメージを与える事くらい不可能ではないはず。
 つまり、「ニヴルング」を攻撃したければ他人のIDを乗っ取って攻撃、穴を開けその穴に本来のID偽装IDで侵入すればいい。
 これくらい考えなければ、「ニヴルング」で他人のIDを乗っ取るようなメリットがない、そう匠音は考えていた。
 ――急がないと、色々と危ない。
 最後の横道を抜け、先ほど違和感を覚えた横道に突入する。
 匠音の視界の先で、一人の男がウィンドウを開き何かを操作している。
 男がウィンドウをスワイプすると、何かが「ニヴルング」内に実体化して地面に落ちる。
 やばい、と匠音は地面を蹴った。
 男に向かってダッシュしながら匠音はコンソールウェポンパレットを開き、麻痺アプリパラライザーを呼び出した。
「『ニヴルング』を、荒してんじゃねえー!!!!
 そう叫びながら、アプリを起動。
 まさか目撃者がいると思っていなかった男は慌てたように振り返り、対抗しようとするがそれよりも匠音が起動したアプリの方が早い。
 匠音から放たれた電撃が男に直撃、アバターが電撃を模した停止コードに動きを止める。
「なん、だ、貴様は……!」
 動きを止めた男が声を上げる。
 それには構わず匠音はさらに拘束用の鎖バインドチェインを呼び出し、男をがんじがらめに縛りあげた。
「うるさい、あんたは通報する!」
 「ニヴルング」で暴力沙汰はご法度である。
 先ほどのパラライザーも何も考えずに使えばすぐに運営に察知されてしまう。
 幸い、今いる場所が侵入権限を偽装した横道であること――そしてこれがこの何か悪意ある行動をしようとしていたさらなる証拠になる――とツール起動の際に転送ツールトランスファーに偽装していたことから現時点ではバレていない。
 しかし、あまり長時間アバターを拘束していればいずれは偽装がバレるため早急な通報が必要となる。
 ただし、普通に通報すればアバターの持ち主のIDが停止させられてしまうため乗っ取った魔術師を野放しにしてしまう。
 そのため、匠音はさらにウェポンパレットを操作して自律行動ウイルスワームを呼び出した。
 男に向けて撃ち込み、そこから魔術師の乗っ取り経路を特定する。
 匠音によって特定された経路パスからワームが侵入、魔術師のオーグギアを特定しようとする。
「クソッ、不意打ちからの特定とは、卑怯な!」
 魔術師がそう毒づくが、魔術師同士の戦いとは基本的に騙し討ちである。
「卑怯も何も、あんたがヤバいことやろうとしてるからだろ!」
 匠音も負けじと怒鳴り、ワームの侵入速度を上げる。
 そもそも、後方に注意を払わず背を向けて何かをしていた相手が悪い。
 それを理解して魔術師は踏み台のアバターから離脱しようとするが鎖の拘束は強固で簡単には破れない。
 腕の立つ魔術師ならこれくらいすぐに解除するしそもそもパラライザーを受けたとしても鎖までは受け取らない。
 そう考えるとこの魔術師は二流にも届かない三流。
 魔術師側もワームの侵入に抵抗するが、匠音に先手を打たれたため分が悪い。
 ワームは既に相手のオーグギアに侵入を始めており、除去しなければ本来のIDが通報されるだろう。
「くそ、こんな若造に……! そうか、貴様が! あのホワイトハッカー気取りの『シルバークルツ』……!」
 ワームの侵入に抵抗しながらも魔術師は匠音のホワイトハッカーとしての呼び名スクリーンネームを口にする。
 ――お、こいつ俺のこと知ってんの。
 俺も有名になってきたなあ、などと感慨に耽りながらも匠音はワームの侵入度合いを確認、通報の準備に入る。
 だが、匠音の視界の隅で何かが動いた。
「――っ?!?!
 一瞬だが、見えた。
 拘束されているにも関わらず相手の指が動いた、その瞬間を。
 地面に落ちていた「何か」が点滅する。
 それは、まるで導火線に火のついた爆弾のように、カウントダウンするかのように。
 まずい、と匠音は思った。
 起動準備が終わっていたかどうか確認せずに魔術師を通報しようとだけしていたことに腹が立つ。
 ここで、この爆弾らしきものが起動すれば、恐らく。
 起動した「何か」が何であるかを調べる余裕はない。
 今すぐ離脱しなければこれは起爆するだろうし、この局面で魔術師が起爆を選択したということは範囲的に「ニヴルング」に影響を及ぼす物である可能性が高い。
 当然、魔術師も巻き込まれるだろうがそこは死なば諸共、いや、踏み台を切り捨てれば被害はこの踏み台だけで済むということか。
「卑怯だぞ! 今すぐ止めろ!」
「止めろと言われてはい分かりましたと止めるバカがどこにいる! せめて貴様のアバターくらいは吹き飛ばしてやる!」
 アバターのダメージは「ニヴルング」のホームエリアに転送リスポーンするだけで済む。
 とはいえ、相手の言葉が正しければ今起動されたものは「ニヴルング」の構築データを破損させるもの。恐らく自身のアバターデータも無事では済まない。
 いや、自分の被害は大したことないが、遊び場ニヴルングを汚されるのは我慢がならない。
 魔術師が嗤う。匠音がワームの侵入速度をさらに上げる。
 ワームが魔術師のオーグギア最奥部に到達、本来のIDが匠音に転送される。
 点滅スピードが上がっている爆弾らしきものを横目で睨みながら、匠音は通報フォームを開いた。
 必要情報を入力、送信。
 補足として踏み台にされた人物のIDも添付したため、一度は停止処理が行われたとしてもすぐに解除されるだろう。
 だが、このフォーム入力で匠音が離脱する時間はもう残されていなかった。
 どうせダメージを受けてもホームエリアに転送されるだけで済むし、と思っての行動だったが、よくよく考えれば今の彼は偽造IDかつ、ホームエリアを設定していないアバター。
 ダメージを受けた場合、どうなるのだろうと、ふと思うがもう遅い。
 爆弾らしきものが一際赤く輝く。
 と、その瞬間、匠音の視界が闇に包まれた。
 ぶわり、とまるで遮光カーテンを頭から被せられたような感覚を覚え、その次の瞬間、彼は数本離れた横道に転送されていた。
「……え?」
 何が起こったのか理解できず、周りを見る匠音。
 その視界に、「ニヴルング」の一部でデータ破損が起きたため近隣のエリアにいるユーザーはログアウトするように、というアナウンスが表示される。
 どうやら彼の予想通り、あの爆弾らしきものは本当にデータを破壊する爆弾だったらしい。
【!WARNING! LOGOUT IMMEDIATELY】
 視界に赤く大きく表示される警告の向こうに、一つの影が見える。
 漆黒のローブに身を包み、フードを目深に被った、いかにも「ファンタジー世界の魔法使い」のような人物。
 フードから覗かせる顔は禍々しい仮面に覆われており、素顔は分からない。
 いずれにせよ、ここに立っているのはアバターであり生身ではないのでこのアバターの持ち主がどのような人間なのかは全く想像ができない。
「……ホームエリアを設定していない偽装アバターがダメージを受ければ、消失ロストだということすら知らないとはとんだひよっこね」
 先に言葉を発したのは魔法使いの方だった。
 声のトーンと口調から、アバターの持ち主は女性なのか、と匠音は一瞬思った。
 尤も声のトーンなんてものはアプリ側でいくらでも変えられるし、口調もただ女性っぽい口調に寄せているだけで実際は男性ということも十分にあり得るが。
「厨二病まっしぐらなアバター、正義感だけで空回るバーサーカー、貴方が最近『ニヴルング』を守ろうとしている『自称』ホワイトハッカー様のシルバークルツ」
「あんた、俺のこと――」
 掠れた声で匠音が呟く。
 流石にバーサーカーは言い過ぎだろうと思ったが魔法使いの言葉は概ね合っている。
 魔法使いは小さく頷いた。
「『第二層』でもかなり噂になっているから。大した実力もなく、違反者に突っかかっては強引にIDを抜いて通報している偽善者って」
「偽善者……」
 それは言い過ぎだろう、と匠音が反論しようとする。
 しかし、魔法使いは彼の言葉を遮った。
「自分より実力がない、ハッキングをかじった程度の一般人を通報してそんなに楽しい? 貴方のやっていることはただの弱い者いじめよ」
「な――」
 確かに、匠音が今まで相手にした魔術師は簡単にIDを抜き取り、通報することができた。
 自分の実力が他人より秀でているという過剰な自信はなかったが、それでも「ハッキングで『ニヴルング』を護ることができている、と匠音は思っていた。
 だが、実際はどうだろうか。
「そんなわけあるかよ! 俺は、他の奴らに迷惑かけてる奴を、」
「でも、知らないでしょ。『本物の』ハッキングを」
 反論しようとする匠音に魔法使いが畳みかけるように言う。
「確かに、さっきの魔術師マジシャンはそれなりにできるようだけどそれでも初心者の域を抜けない。あの程度、貴方が手を出さずとも運営がなんとかするわよ」
 別に貴方なんて放っておいてもよかったのだけど、「いいこと」をして悦に入っているところでアバター消失ロストはかわいそうだったから助けたまで、と魔法使いはあくまでも冷静でいる。
 それに対して匠音はかなりヒートアップしていた。
 ――俺が手を出さずとも運営がなんとかした? ロストがかわいそうだったから助けた?
 ふざけんな、と匠音が怒鳴る。
「だったらなんで運営は動かなかったんだよ! 運営が動かなかったから、俺は」
「そもそもここは運営の監視の目が及ばない場所よ。不審なIDの動きがなければ運営も動けない」
「だったら――」
 だったら、運営が動く前に通報するのは正しいじゃないか、と匠音が反論する。
 それに対して魔女は「バカね」と呟いた。
「自分のIDがバレるリスクを冒す必要がないのよ。『ニヴルング』のデータは密度が高い、あれが起爆したところで被害を受けるのは近くにいたアバターとスキンデータだけよ。そこからあいつが侵入したところであの程度の腕ならすぐに監視官カウンターハッカーに補足されて終わり。まぁ――貴方が踏み台にされた人のIDを証拠提示してるからその人の凍結解除が早まるくらいね、今回の貴方の行動は」
 それとも、自分のアバターを犠牲にしてまであの人を助けたかった? と魔法使いは挑発的に言う。
 それは、と匠音が言葉に詰まる。
 そこまでしてあの被害者を助けたかったかというと、どうしても揺らぐ。
 せっかく小遣いを貯めて課金したお気に入りのアバターのロストは辛い。
 「その程度の覚悟だったのか」と問われればそれまでだったが、ホームエリアを設定していないアバターがダメージを受けた結果がロストと知ってなお、先ほどの行動はできたという自信がなかった。
「貴方は本物のハッキングを知らない。一般人ができないことをちょっとできるからと言って調子に乗らないで」
「何を! 俺だってやるときはやる!」
「じゃあ――わたしに勝ってみなさい」
 その瞬間、二人の周りの風景が変わった。
 いや、横道にいるのは変わりない。
 だが、テクスチャが凍り付いたかのようにすべて停止し、色褪せ、冷たい空気がその場を支配する。少なくとも、アバターからフィードバックされる感覚はそうだった。
 くそ、と匠音がウェポンパレットを開き、麻痺アプリパラライザーを起動する。
 しかし、
「遅い」
 魔法使いの動きは、いや、ツールの展開はさらに早かった。
 匠音の手から放たれようとしていた電撃が霧散し、不発に終わる。
「な――」
 目の前に【Invalidate無効】のアラートが表示されている。
 魔法使いは指先一つ動かしていなかった。
 それでも、魔法使いの前にはウェポンパレットが展開しており、何かしらの妨害行動を取ったことが窺い知れる。
音声認識コマンドワード……?」
 魔法使いが呪文コマンドワードを唱えたようには思えない。だが、モーションでツールを起動するなら先に手を動かしていた匠音の方が明らかに早い。
 それでも現に魔法使いはウェポンパレットを、そして無効化のツールを先に起動している。
「なんで、なんで発動前に無効化できるんだよ!」
 動揺を隠せずに匠音が叫ぶ。
 匠音は相手から反撃らしい反撃を受けたことがなかった。
 それは先手を打ってアバターを無力化していたからではあったが、そもそも本当に腕のいい魔術師はその先手ですら予見して回避することができるということを知らなかった。
 匠音は知らないのだ。
 本当に実力のある魔術師との戦いを。
 独学で基本的なハッキング技能は身に着けたとはいえ、「第二層」を一人で自在に渡り歩くこともできない彼が「本物の」戦いを知るはずがない。
 目の前の魔法使いが流れるような動きでウェポンパレットを操り、ツールを選択する。
 咄嗟に匠音も防御アプリファイアウォールを展開する。しかし、魔法使いの周りの空間から現れた幾条もの鎖が匠音が展開した防壁をあっさりと打ち砕き、彼を拘束する。
「く――っ、」
 拘束された匠音が鎖をほどこうともがくが締め付けはきつくなるばかりで緩む気配はない。
 その匠音の目の前に魔法使いが立つ。
「ほんっと、呆れる。その程度の腕でホワイトハッカー名乗ってるって」
 こっちまで恥ずかしくなる、と魔法使いが吐き捨てる。
「これくらい、喰らう前に無効化しなさいよ。せめて喰らうと分かってるなら対策するとか」
 拘束の無効化は魔術師としては基本中の基本よ、と魔法使いが続ける。
「今までは相手が良すぎたのね。真っ当な魔術師相手でも今の貴方なら即返り討ちよ」
「そん、な……」
 これが、「本物の」魔術師の戦いなのかと匠音が呟く。
 本当に、今まで出会ってきた違反者は一般人や、一般人に毛が生えた程度の魔術師だったのか、と愕然とする。
 今、目の前の魔法使いの攻撃――いや、魔法使いにとっては攻撃ですらなかったのかもしれない――を受け、匠音はようやく理解した。
 自分がいかに井の中の蛙であったのかと。
 「ニヴルング」には、いや、世界には自分が思っていたよりはるかに強い魔術師がいるということを。
 実際、匠音は認知できていなかったのだ。
 腕のいい魔術師の取引自体を。
 ちゃんとした魔術師なら、匠音程度の初心者ハッカーかぶれには全く認知できない手段で取引を行う。
 彼が今まで見てきたのは、アマチュアの児戯いたずらなのだった、と。
 魔法使いが指を振り、拘束ツールによる拘束を解除する。
 匠音に絡みついていた鎖が光の粒子と共に消失し、直前までもがいていた彼はバランスを崩して地面に膝をつく。
 同時に、凍り付いていた景色に色が戻る。
「手加減してこれ、は流石に目も当てられないわね」
 厳しい言葉を投げかけられ、匠音が反論することもできずに唇を噛み締め、うなだれる。
 「手加減されていた」という事実が重くのしかかり、屈辱よりも自分のふがいなさに苛立ちを覚える。
 ――俺に、もっと力があれば。
 だがどうすればいい、と自問する。
 独学では限界がある気がする。いや、独学だからを言い訳に使うのはよくない。
 独学であっても強い魔術師は本当に強いのだろう。
 それでも、和美にスポーツハッキングを、いや、ハッキング自体を禁止されていて勉強も練習も隠れて行うしかできない今の状況は限界である。
 実際、匠音がここまでできるようになったのはあの「ルキウス」に助けられて初めてハッキングの世界に踏み込んでからだから軽く見積もっても数年を要している。
 匠音は今のままではいけない、と思っていた。
 この程度ではより強い悪に立ち向かうことなどできない。
 せめて、もっと効率よく――誰か、手ほどきしてくれる魔術師がいれば。
「だったら、俺を弟子にしてくれ! 俺は、もっと強くなりたいんだ!!!!
 思わず、匠音は魔法使いにそう頼み込んでいた。
 この、目の前の魔法使いこそ、自分の師匠にふさわしいのではないのか、と。
 「弱い者いじめ」と認識しているなら普通は運営に通報するだろう。
 いくら匠音の行動が「正義」であったとしても、生半可な腕でのハッキングは下手をすれば他の魔術師に迷惑が掛かってしまう。
 そうなる前に不安要素は消せ、と、匠音を特定、拘束し運営に突き出すべきである。
 だがこの魔法使いはそれをしなかった。
 匠音を拘束するという状況に至ってなお、通報することなく解放した。
 それは、自分に対して何かしらの可能性を感じているのではないか、と匠音は思った。
 単純に「通報する価値もない」と思われているのかもしれないが、それでも匠音は自分がそこまで腕の悪い魔術師だとは思っていなかった。
 もしかすると、魔法使いが自分に接触したのも――と、僅かな期待を抱く。
 ――この魔法使いは、とんでもない実力を秘めている、だから。
 しかし。
 魔法使いはかぶりを振った。
「無理。わたし、師匠なんてキャラじゃないし」
「そこをなんとか!」
 魔法使いに拒絶されても、匠音はなおも食い下がる。
「俺、強くなりたいんだよ! 困ってる奴がいたら悪い奴から助ける、そんな魔術師になりたいんだ!」
「だから嫌だって言ってるでしょ! わたしは師匠なんてキャラじゃないし誰かに教えてもらいたいなら別の魔術師を当たりなさいよ!」
「やだ、俺はあんたがいい!」
 絶対に、あんたの弟子になる、と匠音はさらに食い下がろうとした。
 しかし縋りつこうとする匠音を軽く手を振ることで放った緩い衝撃波で弾き飛ばし、魔法使いは踵を返す。
 背を向けざまに、魔法使いは、
「貴方、本当に目も当てられないくらいひどいんだけど――でもツール選択も粗削りだけど正解ルートに近いし反応速度は凄くいいわね」
 意外な言葉を口にした。
「え?」
 魔法使いの言葉に匠音が思わず聞き返す。
 だが、次に魔法使いが口にした言葉は厳しい言葉。
「でもそれだけ。身体能力ステータスは一般人にしては高くても、中身はその外見相応の厨二病。まずはその甘い考えを直しなさい」
「だったら! だったら俺を弟子にして叩き直してくれよ!」
「嫌だって言ってるでしょ! しつこい!」
 くるりと振り返り、魔法使いも言い返す。
 その雰囲気に、匠音は何故か既視感を覚えるがリアルにこんなすごい魔術師の知り合いなどいない。
 いや、だったら今ここで知り合いになってやると匠音が意気込む。
 一瞬、鬼のような形相の和美母親の顔が浮かぶがそんなことは知ったことではない。
 今は、この魔法使いの弟子になることだけを考えていた。
「もう、ちょっと褒めて損した! 超初心者が一瞬でもわたしの攻撃を止めようと動いたから思わず褒めちゃったけど、貴方って本当にガキ子供ね!」
 ぷりぷりと怒る魔法使いに、
――こいつ、案外と大人げないな。
 と思ってしまった匠音。
 その考えが伝わったのか、魔法使いがさらにぷりぷりと怒り出す。
「子供は子供らしくちゃんと勉強しなさい! 社会のルールをきちんと学ぶ、それも魔術師としての心構えよ!」
 魔法使いの言葉に、うわあ、母さんみたいなことを言う、と匠音が若干ドン引きする。
 言いたいことを言い切ったのか、魔法使いが再び踵を返す。
「とりあえず、今はIDを戻してログアウトしなさい。これ以上ここにとどまっているのは危険よ」
 ドン引きしている匠音を見ることなく魔法使いは数歩歩き、
「でも、どうしてもというのならわたしを探し出すことね。見つけられれば、だけど」
 そう言い残してふっとその姿を掻き消した。
「ちょ……!」
 魔法使いに向けて伸ばされた匠音の右手が虚空を掴む。
「探し出せ、って……」
 名前も何も知らない。
 ただ一つ、外見が「仮面を被ったローブ姿の魔法使い」という情報しかない。
 汎用アバターというわけではないが、魔法使いモチーフのアバターはそれなりに好まれているし情報が少なすぎる。
 その場に立ち尽くし、匠音は結局魔法使いを掴みそこなった自分の右手を見た。
 握り締めた指を開き、手のひらを見る。
 と、その手の上に一つの紋章が浮かび上がった。
 禍々しくも、それでいて確固たる信念を秘めているかのように見える紋章。
「なんだこれ……」
 そう呟きながら匠音は左手を伸ばし、紋章をタップする。
 紋章が形を変え、一つのアプリを表示させる。
 それは古い、スポーツハッキングのトレーニングアプリだった。
 和美からスポーツハッキングを禁じられている匠音には分からないものであったがサポート終了のダイアログと最終更新日を見る限り、少なくとも十年くらいは前の物だろうと判断する。
 和美から禁止されているためスポーツハッキングのことはよく知らなかったが、トレーニングアプリは常に最新のレギュレーションや時代に応じたルール改定、その他OSのアップデートによってアップデートではなく新バージョンが発行される。
 目の前のトレーニングアプリも、その一環で推奨バージョンから外された古いものだった。
 古いアプリとはいえ、アップデートやサポート、ランキングの新規登録が終了しているだけで利用自体ができないわけではない。
 そんな、古いスポーツハッキングのトレーニングアプリを魔法使いは匠音に送り付けた。
 一体どういう意図がと悩む匠音だったが、すぐに思い直す。
 最新バージョンではなく、古いアプリを使うことで最適化されたわけではない、少し不便な状態、不利な状態からのハッキングの練習ができるということ。
 これを使って、基本を一から叩き直せと。
 基本を正しく身に着けたうえで、自分を探せと魔法使いは言っている。
 それなら、と匠音は拳を握ってアプリを閉じた。
「やってやろうじゃん。俺、あんたの弟子になるから」
 さっきまで魔法使いが立っていた場所にそう宣言し、匠音もアバターを本来の物に戻し、「ニヴルング」からログアウトした。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 夕食の時間になり、匠音と和美がテーブルにつく。
 二人の目の前にはグリルチキンとサラダ、ピタパンなどが乗ったプレートが置かれている。
 ぼんやりと――先ほど「ニヴルング」で出会った魔法使いのことを考えながら――匠音はサラダに手を伸ばした。
「匠音、ドレッシング」
 余程ぼんやりしていたのだろう、好みのランチドレッシングドレッシングすら使わずにサラダを食べようとする匠音に和美が声をかける。
「え? あ、ごめん母さん」
 声をかけられて我に返った匠音が慌ててテーブルに置かれたランチドレッシングに手を伸ばす。
 そんな彼に、
「『ニヴルング』で何かあったの? さっきニュースで内部を攻撃したテロがあったって言ってたし、まさか匠音近くにいたりしたの?」
 和美はそう、声をかけた。
「え、べ、別に何もないよ。確かに昼間はメアリーと『ニヴルング』で遊んでたけどさ……。あ、聞いてよ母さん。リトル・トーキョーに『リトルパフェ』って店あるじゃん。あそこの期間限定『ネーブルスクリューパフェ』すっごくおいしかった! 今度メアリーと食べに行ってもいい?」
「え、匠音パフェなんて食べるの……?」
 信じられない、といった面持ちで和美が匠音を見る。
 嘘でしょ匠音って普段トゥエルグミとかバタークリームたっぷりのケーキとかばっかりじゃない、あれで太らないのも不思議だけどそもそも一体誰に似たの、と和美の思考がぐるぐる回る。
「……匠音、変なもの食べ過ぎて味覚変わった……?」
「なんで!」
 いや母さんでもさすがにそれはひどい、と匠音が抗議する。
 ごめんごめんと和美が笑う。
 だが、すぐに真顔になり、
「『リトル・トーキョー』エリア行ったの? テロがあったエリアじゃない。どうして何も言わなかったの」
 一番重要なことを指摘した。
 その指摘にやば、と匠音が呟く。
「え、だって俺その場にいなかったし
「まあ、いくらアバターがダメージを受けてもホームエリアに戻るだけだけど、色々と危険なのよ? もしこれが現実でのテロだったりしたら大変なことになるんだから『ニヴルング』だからといって油断しないでよ」
 和美の言葉にうん、と頷く匠音。
 和美母親が言っていることは正しい。万が一、自分に何かがあれば和美は確実に自分を責めるだろう。
 あの匠海父親に対しての普段の行動から簡単に予想ができる。
 匠音は父親が「事故で死んだ」ということしか知らない。
 それでも、和美が時折自分を責めていることを知っているだけに事故の原因がいかほどの物であれ何かあった場合は自分を責めるのだろう、そう思う。
「……母さん、ごめん。何かあったらちゃんと言うから」
 和美が自分を責めているところなど見たくない。その原因には決してなりたくない。
 だから、どうしても話せないことは言葉にできない。
 それが原因で何かあった場合事態が悪化するのは分かっているが、それでもそうならないように準備して、いつかはちゃんと話せるようになりたい。
 そのためにも、昼間会ったあの魔法使いの弟子になりたかった。
 和美が少しでも安心して、ハッキングすることを認めてくれるように。
 そんなことを考えながら食事を進める匠音だったが、ふと目の前の和美を見ると彼女も何かを考えているのか手の進みが遅い。
 プレートの上にくし切りにされたネーブルオレンジが残っているのを認めた匠音はさっと手を伸ばして一切れ、強奪した。
「あ! 匠音、わたしのオレンジ!」
「いただき!」
 和美が慌てて手を伸ばすものの匠音はそれよりも先にオレンジにかぶりつき、平らげてしまう。
「じゃ、俺は宿題してくる。あ、このクッキーもらってもいい?」
 夕方、メアリーが持ってきた手作りのクッキーを、許可をもらう前に一掴み、匠音が席を立つ。
「母さんも無茶するなよ。眉間に皺寄せてると老けるぞー」
 そんなことを言いながら匠音が自室に消えていく。
「もう、匠音ってば……」
 だから食べ物の恨みは怖いんだってばと呟きつつも和美は匠音にSPAMを送り付けることもなくグリルチキンを口に運ぶ。
 和美は和美で心配事はいくつもあった。
 仕事のこともそうだが、「ニヴルング」で起こったテロの事、そして――
「匠海……」
 ぽつり、と和美が呟く。
「わたしに、できるかな」
 和美のその呟きは、匠音には聞こえていない。

 

 自室に戻った匠音は机に向かうこともせず、ベッドに身を投げ出していた。
 仰向けになり、オーグギアを操作し、隠しストレージを呼び出す。
 隠しストレージのファイル一覧から一つのファイルを選択し、展開。
 目の前に浮かび上がった紋章を見て、匠音はため息を吐いた。
「……なんだったんだろ、あの魔法使い」
 紋章をタップ、トレーニングアプリを起動する。
 十年以上も前のアプリだったが、オーグギアのOSのバージョンアップで動作しないということにはなっていなかった。
 アプリ内メニューから「アーカイブ」を呼び出す。
 「ランキング」の項目があるのを見て、匠音は興味本位でそれを呼び出した。
 オンラインランキングのメニューが視界に現れ、その中から「総合ランキング」をタップする。
「……え?」
 ランキングが表示された瞬間、匠音はがばり、と身を起こした。
「……母、さん……?」
 総合ランキング一位に表示された名前は「Merlinマーリン」。
 和美がかつて名乗っていたスクリーンネーム。
 二位には僅かなポイント差で「Arthurアーサー」の文字が表示されている。
 三位以降も見るが、二位からはそれなりにポイント差が広がっており、眺めていると途中にあのメアリーがガチ恋レベルで応援している「Tristanトリスタン」の名前もある。
 和美が「マーリン」のスクリーンネームでスポーツハッキングを行っていたのは知っていたが、まさかランカーだったとは思ってもいなかった。
 ランキングに登録された日は、十五年前の夏。
 そこからこのアプリが次のバージョンに変わった十年前までこのランキングは更新されなかったと考えるとマーリンの実力がいかに高かったかが窺い知れる。
「……これを目指せ、って言うのかよ」
 あの魔法使いは。
 これくらいできないと、届かないというのか。
 それでも。
「……やるよ、俺。絶対、あんたに届いてみせる」
 ランキングの「Merlin」の文字を眺めながら、匠音は拳を握り締めた。
 いつかマーリン母親のスコアを抜いてみせる、と。
 ――そうしたら、あんたは俺を見てくれるんだろう?
 今はまだ何もできないひよっこかもしれないが。
 必ず、超えてみせる。
 「マーリン」も、「ルキウス」も。
 それが、匠音にとっての、新たな一歩だった。
 本人がそれを自覚していたかどうかは、本人ですら、分かっていない。

 

to be continued……

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