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Vanishing Point Re: Birth 第10

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前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

筋萎縮性側索硬化症ALSが進行してしまった日翔。
そんな「グリム・リーパー」に武陽都のアライアンスは補充要員を送ると言う。
補充要員として寄こされたのは秋葉原あきはばら 千歳ちとせ
そんな折、ALS治療薬開発成功のニュースが飛び込み、治験が開始されるという話に日翔を潜り込ませたく、辰弥と鏡介は奔走する。
その結果、どこかの巨大複合企業メガコープに治療薬の独占販売権を入手させ、その見返りで治験の席を得ることが最短だと判断する。
どのメガコープに取り入るかを考え、以前仕事をした実績もある「サイバボーン・テクノロジー」を選択する辰弥と鏡介。いくつかの依頼を受け、苦戦するものの辰弥のLEBとしての能力で切り抜ける四人。
不調の兆しを見せ、さらに千歳に「人間ではない」と知られてしまう辰弥。
それでも千歳はそんな辰弥を受け入れ、「カタストロフ」ならより詳しく検査できるかもしれないと誘う。
同時期、ALSが進行した日翔も限界を迎え、これ以上戦わせるわけにはいかないとインナースケルトンの出力を強制的に落とす。
そんなある日、辰弥の前に死んだと思われていたもう一体のLEB、「ノイン」が姿を現す。
取引を持ち掛けるノインに、辰弥は答えを出すことができないでいたが、そんな邂逅から暫く、「グリム・リーパー」の拠点が何者かに襲撃される。
撃退するものの、報復の危険性を鑑み、千歳に泊まっていけと指示した鏡介だが、辰弥が買い出しに行っている間に襲撃者を調査していると「エルステ観察レポート」なるものを発見。こんなものを書けるのは千歳しかいないと彼女を詰める。
帰宅し、二人の口論を目撃し狼狽える辰弥に、鏡介は辰弥の逆鱗に触れる言葉を吐いてしまい、辰弥は千歳を連れて家を飛び出してしまう。
行く当てもない辰弥に、千歳は「カタストロフに行こう」と誘い、辰弥はそれに応じる。
「カタストロフ」に加入し、検査を受ける辰弥。
その結果、テロメアが異常消耗していることが判明、寿命の限界に来ていると言われる。
自分に残された時間は僅か、せめて日翔が快復した姿は見たいと辰弥は願う。
そのタイミングで、「カタストロフ」は第二世代LEBを開発した永江ながえ あきらの拉致を計画、辰弥がそれを実行するが、その後のノイン捕獲作戦を実行した結果、ノインに晃が拉致されてしまう。
失意の中、「カタストロフ」は「榎田製薬」の防衛任務を受ける。
「サイバボーン・テクノロジー」の攻撃から守るため現地に赴く辰弥だったが、そこで「サイバボーン・テクノロジー」から依頼を受けた鏡介と遭遇する。
鏡介とぶつかり合う辰弥。だが、互いに互いを殺せなかった二人はそれぞれの思いをぶつけ、最終的に和解する。
「グリム・リーパー」に戻る辰弥、しかし千歳はそこについてこなかった。
帰宅後、鏡介と情報共有を行う辰弥。
現在の日翔の容態や辰弥の不調の原因などを話し合った二人は、
・「サイバボーン・テクノロジー」が治療薬の専売権を得たことで日翔は治験を受けられる
・晃は失踪しているが、辰弥もフリーになった今、見つけられれば治療が可能である
という点に気付き、「カタストロフ」よりも前に晃を確保することを決意する。
晃の隠れ家を見つけた辰弥たちだったが、仲間を引き連れた昴とも鉢合わせ、交戦する。
しかし昴が「プレアデス」と呼ぶ何かの攻撃を受け、辰弥が重傷を負ってしまう。
それでもチャンスを見つけて昴を攻撃した辰弥だったが、千歳が昴を庇って刺され、命を落としてしまう。

 

 
 

 

  第10章 「Re: Mind -喚起-」

 

辰弥BB、援護してくれ!」
 鏡介がアサルトライフルKH M4を連射しながら叫ぶ。
 だが、その場にうずくまった辰弥は動けずにいた。
「俺が……千歳を……」
 そう、ぶつぶつと呟く辰弥に鏡介が「これはまずい」と判断する。
 辰弥とて、人間の命を奪うのはこれが初めてというわけではない。暗殺者稼業を続けてもう数年になるし、それ以前だって「兵器」として人を殺してきたはずだ。
 それなのに、たった一人、たった一人の人間が辰弥をここまで狂わせた。
 罪悪感? 後悔? そこにどのような感情が渦巻いているのかは鏡介には分からない。
 ただ、自分が「今まで殺せなかった」ことに近いものがあるということは何となく理解できた。
 有象無象には何の感情も湧かない。だが、殺した相手が「特別」だったら。
 特別に大切で愛しくて守りたいと思った人間を自分の手で殺したのだ、ショックを受けない方がおかしい。
 とはいえ、今の状況でこれはまずい。昴と「プレアデス」と呼んだ何かは去ったようだが、それでも「カタストロフ」の攻撃は激しい。鏡介一人の応戦では多勢に無勢、そのうち押し切られてしまう。
「BB!」
 再び鏡介が叫ぶ。
 今ここで辰弥が動かなければ二人とも殺されてしまう。
 いや、辰弥だけは生け捕りで済むかもしれないが少なくとも自分は殺される、と鏡介は認識した。
 「カタストロフ」が鏡介を生かしておく理由はない。むしろ再び辰弥を連れ戻すためにハッキングを駆使して行動を起こす可能性を考えれば確実に殺しにくるだろう。
 実際、攻撃は鏡介に集中しているところがある。辰弥が動けない今、攻撃が自分に集中しているのは好ましい状況ではあったが、それでも辰弥の援護は欲しい。
「このままじゃ俺もお前もやられる! 援護してくれ!」
 鏡介がそう言うものの、辰弥は頭を抱え、弱々しく首を横に振ってぶつぶつと何かを呟いている。
 鏡介の声など全く耳に入っていないような辰弥の様子に、鏡介はもう一度彼を呼んだ。
「BB!」
「俺は……」
 嫌だ、俺は認めないと何度も呟く辰弥に、しびれを切らした鏡介が詰め寄る。
「しっかりしろ! 今俺もお前も死んだら日翔はどうするんだ!」
「あき、と……?」
 鏡介に肩を掴まれ、辰弥が焦点の定まらない目でぼんやりと日翔の名前を口にする。
「だけど、俺は、千歳を……」
「落ち着け! 日翔を助けるんじゃなかったのか!」
 遮蔽物によってある程度は守られているとはいえ、無数の弾丸が飛来するその場所で鏡介は辰弥を揺さぶった。
「しっかりしろ! お前が死んだら日翔は助けられないんだぞ!」
「俺なんて……生きてる価値なんて、ない……」
 鏡介を見ることなく、辰弥が呟く。
「俺は、千歳を殺した……。日翔も、きっと俺が……」
 千歳を刺した手ごたえを思い出す。腕の中で千歳が冷たくなっていく感覚、徐々に【計測不能】に変わっていくバイタル、そのどれもが現実から逃れようとする辰弥の意識を引き戻し、罪の意識を植え付けていく。
 今まで、人を殺しても何の感情も湧いてこなかった。そうするべく造られた辰弥に罪悪感などむしろ不要な感情だった。初めて人を殺したときもその興奮で昂ぶりはしたが後悔や罪の意識は全くなかった。
 だが、自分の手で千歳を殺したという事実は辰弥の心に罪悪感を植え付けた。喪失の絶望、してはいけないことをしてしまったという罪の意識、そして、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔。
 同時に、それは一つの恐怖を植え付けた。
 もしかすると、いつか自分が日翔や鏡介をも殺してしまうのではないかという恐怖。
 最愛の女性千歳を殺した自分が今後日翔や鏡介をも手に掛けないという保証はどこにもない。
 いつか、きっと二人も殺してしまう。
 その恐怖が辰弥の心を縛り付ける。
 嫌だ、そんなことしたくない、それならいっそのことここで殺されてしまった方がいい、そんな感情が罪悪感と共に辰弥を縛り、身動きを封じている。
 鏡介に揺さぶられても、その意識は辰弥を解放しなかった。
 揺さぶられるがままに、辰弥は呆然としている。
「辰弥!」
 暗殺者としての名前キラーネームではなく、普段の名前で鏡介が呼び掛ける。
「目を覚ませ! 今何をすべきか考えろ!」
 辰弥は「生きている価値なんてない」と言っているが、ここで動かずにいれば鏡介も日翔も命がない。辰弥が一人で死ぬ分に関しては止める権利など鏡介にはなかったが、それに巻き込まれて死ぬのは嫌だったし、自分が死ぬことで連鎖的に日翔も死ぬことになると考えると今ここで辰弥を死なせるわけにも、「カタストロフ」に捕らえられるわけにもいかない。
 左手の拳を握り締め、鏡介は腕を振り上げた。
「お前一人のわがままで全員死なせる気か!」
 辰弥に拳を叩き込む。
 鏡介に殴られたことで、辰弥の目に光が戻る。
「あ――」
「秋葉原のことを悔やむなら悔め! だが、それは今ではない!」
 辰弥の両肩を掴み、鏡介が声を荒らげる。
 その腕を銃弾が掠め、壁を穿つ。
「辰弥!」
 もう一度鏡介が呼び掛けたことで、辰弥の意識がはっきりと現状を認識した。
 飛来する銃弾、遮蔽物で一応は守られているがそれもいつまでもつか分からない。
 辰弥を庇うように呼び掛けている鏡介は遮蔽物を逸れた銃弾に傷ついている。
「鏡介!」
 辰弥が床に落ちていた銃を拾う。
 鏡介を横に押しやる形で正面を向き、数発撃って応戦する。
「大丈夫!?!?
「俺は大したことない、だが、援護頼む!」
 素早くマガジンを交換し、鏡介が辰弥を見る。
「分かった、敵の数は?」
「ざっと十人ほどといったところだな。やれるか?」
 鏡介がGNS探査で敵の数を特定したところで辰弥が小さく頷き、一つ息を吐く。
「できればHASHハッシュで足止めしてほしい」
「任せろ」
 辰弥が戦意を取り戻したことで、鏡介も一気に心の重荷が降りた。これは戦闘が終わってからまたのしかかってくるものだろうとは思うが、少なくとも戦闘中に余念に苛まされることはない。
 a.n.g.e.l.に指示を出し、その場の自分たち以外のGNSにトラッカーを設定、HASHを準備する。
「いつでもいける!」
「了解、HASH送って!」
 そう言いながら、辰弥が遮蔽物から飛び出し、迫りくる敵の前に飛び出す。
 十丁の銃口が辰弥に向けられる。
 だが、その引鉄が引かれるより先に、鏡介が送り込んだHASHが発火した。
 GNSに送り込まれた大音量の音声と光過敏性発作を誘発するフラッシュ映像が「カタストロフ」に襲い掛かる。
 HASHは威力をいくら上げても相手を気絶させるのが精いっぱいの非殺傷攻撃。
 だが、その威力は絶大で、その場にいた全ての敵が動きを止める。
 その只中に辰弥は飛び込んだ。
 ――切り裂け!
 全身に指示を送る。血液コストはかかるが辰弥が繰り出せる最大級の攻撃を解放する。
 鋭く空気を切り裂く無数の高炭素鋼ワイヤーピアノ線
 辰弥が繰り出した鮮血の幻影ブラッディ・ミラージュはその場にいた全ての「カタストロフ」の人間を切り刻み、挽肉同然の状態にした。
 粉々に切り刻まれた肉片が床に落ち、山を築く。
 切り刻まれた側からすれば痛みすら感じる暇はなかっただろう。
「鏡介、終わったよ」
 そう、鏡介に投げかけられた辰弥の声は冷たいものだった。
 物陰から出た鏡介が辰弥の隣に立とうとする――が、辰弥はその鏡介を避けるかのように身を翻し、部屋の一角に駆け寄る。
「あぁ……」
 床に広がる人工循環液ホワイトブラッドの血だまりを前に、辰弥が膝をついた。
「千歳……」
 そこに千歳はいなかった。
 昴が立ち去る前に「回収しろ」と指示した通り、千歳の遺体は「カタストロフ」によって回収されていた。
 そこに残された血だまりだけが、千歳の死は現実だと物語っている。
 辰弥の手が血だまりに触れ、波紋を広げる。
「千歳……」
 もう一度、辰弥が千歳の名を呼ぶ。
 それに応える声はもうない。声の主はもう遠くに逝ってしまった。
「嫌だ……。嫌だよ……」
 せめて、自分の手で手厚く葬りたかった。もう一度、触れたかった。
 それなのに、それはもう叶わない。
 血だまりに水滴が落ち、新たな波紋を生み出す。
「う……あぁ……」
 声にならない声を上げ、辰弥がホワイトブラッドで汚れるのも構わずに床に額を付ける。
 漏れる嗚咽に、鏡介は辰弥に背を向けた。
「……外で待つ。落ち着いたら来い」
 それだけを言い残し、部屋を出て、屋外に出る。
 昴がノインを追ってこの場を去ったことでこの場の状況の把握はもうしばらく後になるだろう。増援を寄こすとすればその後、しかしその頃には辰弥たちもこの場を離脱していると判断して増援はもう寄越さないか。
 そんなことを考えながら鏡介が建物の出入り口横の壁にもたれかかり、息を吐く。
 こんなときは師匠がやっていたみたいに一服吸いたいものだが、と思いつつも煙草なんて嗜好品を持ち合わせているはずがなく、代わりに糖分補給のために持ち歩いている飴を取り出し、個装を解いて口に放り込む。
「……不味いな」
 口の中で飴を転がしながら、ぽつりと呟く。
 いつかはこうなるのではないかと薄々思っていた事態が現実のものとなってしまった。
 いや、事故とは言え辰弥が千歳を殺すことは想定していなかった。
 ある意味最悪の結末。
 鏡介としては、辰弥が信じるのであれば、千歳が自分の意志で「カタストロフ」を捨てるのであれば受け入れた方がいいかと考えていたところだった。
 だが、千歳は最後まで「カタストロフ」の駒であり続けた。辰弥より昴を優先し、辰弥に刺された。
 結局、千歳は辰弥のことが本当に好きだったのか、それともただ利用していただけなのか。
 千歳が死んだ今、その真相は闇の中。
 辰弥としては「好きだったが『カタストロフ』を去ることもできなかった」と結論付けているのだろうか、と考えてみる。
 そこまで考えてから、鏡介はちくりと不安が胸を刺すのを感じた。
 落ち着くまでは一人にしておいた方がいいと思い、外に出たがその判断は正しかったのだろうか。
 あそこまで深く絶望した辰弥が自ら命を絶つ可能性も考慮した方がよかったのではないか、という思考に到達した瞬間、一気に不安がこみ上げてくる。
 辰弥を一人にしない方がよかったのではないか。今すぐ引き返した方がいいのではないか。
 しかし、鏡介は辰弥の元に戻ることはできなかった。
 最悪の事態を目撃するのが怖くて、引き返すことができなかった。
 ただ、辰弥が自分の気持ちに整理を付けて戻ってくることを祈るしかできなかった。

 

 しんと静まり返った室内に辰弥の嗚咽だけが響き続けている。
 何度も千歳の名を呼び、嫌だ戻ってきてと願い続けてもそれは叶わぬ願いだと理解している。
 それでも、辰弥は願わずにはいられなかった。
 初めて「特別な感情」を持った千歳。彼女との甘い日々が走馬灯のように脳裏をよぎる。
 あの時はたとえ自分の命に代えてでも守りたいと思っていた。千歳の害になるものはすべて排除したいと思った。「カタストロフ」という裏社会の組織の中にいたとしても、少しでも穏やかな時間を共有したいと思っていた。
 勿論、日翔や鏡介も同じくらい大切だ。日翔が治験を受けられるのであれば、それを見届けたいという希望はあれど死んでもいいとは思っていた。
 だが、千歳に対する感情は日翔や鏡介に向けたものとはまた別のものだった。
 彼らに対する感情は「信頼」だ。決して裏切らないという、信頼。
 しかし千歳に対する感情は違う。これが「好意」なのだと、「愛」なのだと、初めて理解した。
 千歳が愛おしい。常に一緒にいたい、大切にしたい、その思いは日に日に大きくなっていた。
 それなのに、自分の命に代えてでも守りたいと思っていたのに、千歳は死んでしまった。
 自分が、殺した。自分の能力で。
 そんな自分を、辰弥は呪うしかなかった。
 どうして自分は人間ではないのかと。人間だったら、ナイフを生成することも、斬られた脚を再生して昴を攻撃することもなかったのに、と。
 結局、自分は化け物なんだ、と辰弥の口に自嘲の笑みが浮かぶ。
 化け物なんて、この世界にいてはいけない。
 千歳を殺した自分がのうのうと生きてもいい理由なんてない。
 そう、考えた瞬間、辰弥の視界が揺らいだ。
「く――!」
 トランスの反動。テロメアの損傷に肉体が耐えられず、悲鳴を上げる。
 自分の身体を支えることができず、辰弥は血だまりに倒れ込んだ。
 全身が自分のものではないかのような違和感。いつもより不調の度合いが高いのは肉体を別物質に変えるより欠損した肉体を再生する方が負担が大きいからか。
 何度も荒い息を吐き、辰弥が上半身を起こす。
 前髪を濡らしたホワイトブラッドが滴り、波紋を起こす。
 ――俺が人間じゃないから。
 人間だったら、こんなことにはならなかった。やはり、俺は生きていていい存在じゃないんだ、と改めて痛感する。
 千歳がいない今、生きていく希望なんてどこにもない。
 辰弥の手が、床に置いた自分の銃に触れる。
 銃を手に取り、辰弥はその銃口を耳の下に押し当てた。
 こめかみを撃っても、確実には死ねない。
 耳の下、首の後ろ側には小脳や延髄がある。
 特に、延髄を損傷すれば流石のLEBであっても生命活動を維持することはできない。
 日翔が観ていた映像コンテンツでは、銃での自殺の方法の一つとして銃口を咥え込む、というものがあったが辰弥はそれを真似する気にはなれなかった。
 確かに、延髄を破壊する方法としては同じだが、銃口を咥えるために口を大きく開けなければいけないし銃のホールドも甘くなる。
「あ……」
 ふと思い出した、面白そうにサブスクリプションの映像コンテンツを観ている日翔の顔。
 映画にはポップコーンを、と思って急遽作ったポップコーンをテーブルに置いたときの日翔の笑顔が脳裏に蘇り、辰弥の手が止まる。
「日翔……」
 今まで戦ってきたのは何のためだったのだ。
 一度は鏡介を裏切ったのも、千歳の誘いがあったとはいえ「カタストロフ」が治験の席を確保する方がリスクは低いと思ったからではないのか。
 日翔を助けたい、日翔が笑った顔をもう一度見たい、その一心で戦ってきたんじゃないのか、と思い出した辰弥の唇が震える。
「……俺は……どうしたら……」
 治験の席は確保した。後は連絡を待って正式に登録してもらえばいい。
 そこに、自分はいなくてもいいんじゃないか、と思う。
 しかし、今ここで命を絶てば日翔にはもう会えない。
 日翔が快復する様を見届けることができない。
 辰弥の手を離れた銃が床に落ち、固い音を立てる。
「……駄目だ、まだ、死ねない……」
 日翔の快復を見届けるまでは。
「……ごめん、千歳……」
 ――君のもとへは、まだ、逝けない。
 そもそも、人間ではない自分が死んだところで同じ地獄に行けるとは限らないけれど。
 ――もう少し、待ってほしい。
 それは、千歳に対する最後のわがまま。
 そういえば、千歳にはわがまましか言わなかったな、と苦笑する。
「……俺は、もう少し生きなきゃいけない。日翔のためにも」
 ゆっくりと、辰弥は立ち上がった。
 鏡介が外で待っている。恐らく、そろそろ心配し始めている頃だろう。
 鏡介を安心させるためにも、そして「カタストロフ」の増援が来る前に、鏡介と合流しよう、と辰弥は歩き出した。
 部屋の出入り口で一度立ち止まり、ホワイトブラッドの血だまりを見る。
「……さよなら」
 その辰弥の声は、千歳のことが好きだった自分に決別するかのような響きを孕んでいた。

 

「鏡介、ごめん待たせた」
 辰弥が建物から出ると、鏡介はもたれていた壁から体を起こし、舐めかけの飴を飲み込んだ。
「もう大丈夫なのか?」
 気遣うような鏡介の声に、辰弥がうん、と小さく頷く。
「今はもういない千歳のことを考えるより日翔を救う方が大切だ。どちらも失うくらいなら、片方だけでも守りたい」
 その声は小さくとも、そこに迷いはなかった。
 辰弥なりに結論を出したのか、そう、鏡介は考える。
 時間はない。日翔を救うという辰弥の意思は尊重したい。
 その先は分からない。もしかすると、日翔の快復を見届けた後に千歳の後を追うかもしれない。
 だが、それを止める権利は鏡介にはない。辰弥が決めたことなら、自分はそれを見守るだけだ。
 鏡介が、辰弥の頭にポン、と手を置く。
「『サイバボーン・テクノロジー』のジェームズから連絡が来た。明日、指定した事務所に来い、とのことだ。そこから『生命遺伝子研究所』に行き、契約を交わす、と」
「分かった」
 短く応え、辰弥が歩き出す。
 いつもの「子供扱いしないで」という抗議がなく、鏡介の胸がちくり、と痛む。
 辰弥がどれだけ深く傷ついているか、それが垣間見えたような気がする。それでもなお今この瞬間自分の足で立っているその強さに幸せになってほしい、と思う。
 ふと、自分たちが特殊第四部隊トクヨンに捕まった時のことを思い出す。
 あの時、トクヨンの隊長、「トクヨンの狂気」こと御神楽 久遠は辰弥たちに「一般人になる」という道を提示した。
 最終的にそれを拒絶し、三人、暗殺者として生きる道を選んだが、ここにきてその選択肢は間違っていたのではないか、と鏡介は思い始めていた。
 一般人になっていれば。辰弥は大切な人間を殺すこともなかった。
 その、大切な人間千歳と出会うこともなかったかもしれないが、心を惑わされることも、生物兵器として利用されることもなかったはずだ。日翔の件は――分からない。
 久遠が「全てのLEBの幸せのために」と言うのであれば、もしかすると日翔に生体義体を提供してくれたかもしれない。三人で穏やかな時間を過ごせたのかもしれない。
 辰弥が千歳を手に掛けてしまったことで、鏡介は自分の選択のミスを思い知った。日翔と同じように辰弥の幸せを願っていたはずなのに、結果として辰弥を不幸にしてしまったのではないか、と。
「……辰弥、」
 先に立って歩きだした辰弥の背に、鏡介は声を掛けた。
「……何、」
 辰弥の声は冷え切っていた。
 今は全ての感情を殺さなければ何もかもが音を立てて崩れてしまいそうな、そんな脆さを感じる。
「あと少しだ。日翔が元気になったら、暫く休むか?」
「……」
 今の鏡介にできる、精一杯の励まし。
 辰弥は、何も答えない。
 鏡介も分かっている。自分では励ましのつもりで言った言葉でも辰弥には届いていないことを。
 辰弥自身の残り時間もある。トランスは極力控えるべき状況でトランスを使った再生を行ったのだ。今不調が出ていないことを考えると一人の時に発作は起きていたのだろう。
 ただでさえ残り少ない時間をあの再生で消費した。
 辰弥はあとどれくらい生きられるのだろうか、日翔が元気になるまではもつのだろうか、そんなことを考える。
 ノインは晃を連れてどこかへ姿を隠した。それに関しては晃につながるパスが生きている限り位置情報を特定することは容易である。しかし、再度晃を見つけたとしても「カタストロフ」が、昴が晃を諦めない限り辰弥のメンテナンスを行うことは難しいだろう。
 最も手っ取り早い方法は昴を殺すことだ。辰弥の話を聞く限り、上町府の、いや、桜花の「カタストロフ」は昴主導でLEBの量産を計画していると推測される。ということは昴さえ殺してしまえばその計画は頓挫とまではいかずとも後退させることは可能だろう。
 ただ、その「昴を殺す」ことが簡単に実現しないことがネックだった。
 昴にはプレアデスという不可視の何かが存在する。プレアデスに、辰弥は手も足も出せなかった。
 ただ一人、ノインだけが正確にプレアデスを認識し、対抗していたがそのノインを味方に引き込むのは難しいだろう。
 晃を「カタストロフ」の手に渡さない、という条件下では共闘もあり得るだろうがノインは辰弥の捕食を目的としている。仮に共闘できたとしてもその後、辰弥を捕食せんと襲い掛かってくることは確実だろう。
 敵が多すぎる。それも、人間の手に負えない敵が。
 しかし、これらの敵を排除しなければ辰弥の未来はない。
 それなのに今の「グリム・リーパー」の最大戦力は辰弥で、義体を装着して戦えるようになったとはいえ鏡介はただの人間である。勝ち目などどこにもない。
 辰弥を諦めるしかないのか、と鏡介は自問した。
 治験さえ受ければ日翔は助かるはず。だが、辰弥を助ける道が全く見えない。
 同時に、辰弥は生き永らえることを望むのだろうか、とも思う。
 今は「日翔を助けること」を希望に踏みとどまっている。しかし、日翔が快復したら? 千歳がいない世界で生きたいと望むのだろうか?
 深い絶望に沈んでいる辰弥が日翔を助けるという目的を達成した後、何を望むのかが読めない。
 残り時間いっぱいを日翔と鏡介と共に過ごすのだろうか。それとも目的は達成したと千歳の後を追うのだろうか。
 できれば生きてほしい、と鏡介は思った。残り時間がほとんど残っていないことも実は嘘で、以前のように三人で依頼を受けて、気ままに生きて、共に老いていきたい、と。
 辰弥、と鏡介が言葉にせず呼ぶ。
 お前は今、どこにいる、と。

 

 帰宅し、シャワーを浴びた辰弥が髪を拭くのもそこそこに日翔の部屋に入る。
「日翔……」
 機械や管につながれた日翔はもう自力で動くことはできなかった。
 日翔のバイタルを呼び出す。血圧や脈拍は正常でも、酸素飽和度SpO2は正常値より低く、呼吸筋の低下による換気不全が起こっていることがよく分かる。
 時間はもうない。だが、いよいよ治験が始まる。
 治験が始まれば、日翔は元気になる。
 ここまで来るまでが長い道のりだった。大きすぎる犠牲も払った。
 千歳を喪ったことで辰弥は絶望の淵に叩き落されたが、それでも日翔という希望があったからそれに縋った。
「日翔……。やっと、日翔に薬を届けることができる」
 辰弥がそっと日翔の手を握る。痩せて骨ばった手に不安が胸を締め付ける。
 もし、薬が効かなければ。
 薬が効かなければ、辰弥と鏡介の努力は全て泡と帰す。
 それだけが、怖かった。
 千歳の死と言う犠牲を払ったのに、日翔まで喪いたくない。いくら自分の残り時間がほとんど残っていないといっても、日翔まで死なせたくなかった。それに、自分も日翔も死ねば鏡介は独りになってしまう。
 鏡介を独りにするわけにはいかない。鏡介のことだから一人でも生きていられるだろうが、それでも側で笑ってくれる存在は必要だ。
 だから、薬が効きますように、と辰弥は祈らざるを得なかった。
 自分はもう生きられないけれども、日翔と鏡介が笑って同じ道を歩けますように、と。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 指定された時間に、辰弥と鏡介は指定された事務所に向かった。
 そこは「サイバボーン・テクノロジー」の子会社が所持するオフィスビルの中だった。
 受付でアポイントメントの確認を行い、応接室に通される。
 暫く待つとドアが開き、一人の女性が応接室に入ってくる。
「久しぶり、水城君、鎖神君」
「う……」
 入ってきた女性を見た瞬間、鏡介が思わず声を漏らす。
真奈美まなみさん、久しぶり」
 鏡介よりも先に、辰弥が女性――真奈美に会釈した。
「貴方たち、本当に頑張ったわね」
 CEO付きの重役の私が派遣されるとか結構すごいことよ、と言いつつも真奈美は鏡介を見る。
「水城君は元気にしてた?」
「あ、あぁ……」
 真奈美に声を掛けられ、鏡介が煮え切らない返事をする。
 正直なところ、真奈美がここに来るとは思っていなかった。
 一体どういう意図があって、と鏡介が身構えるが、真奈美は相変わらず妖艶な笑みを浮かべて鏡介を見る。
「まぁ、実際のところは私が行ってもいい? とお伺いを立てたらあっさりと許可された、というところだけど。ああ、時間がなかったわね、早速移動するわよ」
 付いてきて、と真奈美が手招きする。
 辰弥と鏡介も相手が真奈美であるなら警戒する理由もなく、素直に従う。
 リムジンティルトジェット機に乗り込み、パイロットに行き先を『生命遺伝子研究所』へと指定すると、リムジンティルトジェット機は緩やかに飛び上がった。
「思ったんだけど、貴方たちかなり無茶したんじゃない? あのジェームスが『話を預かる』と言ったんだもの、かなりの無理難題吹っ掛けられたんじゃなくて?」
 リムジンティルトジェット機が飛び始めてすぐに、真奈美がそう問いかける。
「貴方たちにも事情があるのは分かるわ。だけど、二人の命を削って一人を救おうとするのは流石に無茶としか……」
「いや、実際にはもう一人いた」
 鏡介が答える。その声に辰弥がえっと声を上げる。
「日翔の治験のために、新しく入ったもう一人の仲間も奔走してくれた。だが……」
「鏡介、」
 辰弥が困惑した顔で鏡介の名を呼ぶ。
 今更、千歳を仲間と呼ぶのか。鏡介が千歳のことを女狐と呼ばなければこんなことにはならなかったかもしれないのに。
「水城君……」
「俺の判断ミスだ。俺が無意味に疑ったばかりに全員を危険に晒した。その結果、俺も辰弥も一度は殺し合ったし一人は死んだ。だが、それでも……俺は、後悔していない」
 そう、膝の上で拳を握り締める鏡介に、真奈美が身を乗り出し、その手に自分の手を重ねた。
「っ」
 鏡介が身体を強張らせる。
 真奈美が、鏡介の両手を優しく握る。
「そんなに自分を責めないで。水城君、一人で抱え込みすぎよ」
 優しい声で真奈美が言う。
「『後悔してない』って強がってるけど、水城君、後悔だらけじゃない。一人で背負って、いや、他の人の分まで背負い込んで、悪いのは俺一人だって表情かおをして、『恨むなら俺を恨め』って態度を取って、どうしてそこまで自分を追い詰めるの」
「俺、は……」
 鏡介の顔がくしゃりと歪む。
 今にも泣きだしそうなその顔に、真奈美は優しく微笑んでみせた。
「そんなに自分を責めなくていいの。水城君はすべきことをした、それだけよ」
「だが、そのせいで、俺は……」
 鏡介の声が震える。
 「グリム・リーパー」を支える人間として、自分は非情になれなかった。
 自分の感情を優先して、辰弥を危険にも晒したし千歳を死なせてしまった。
 確かに千歳は「カタストロフ」のスパイだったという意識はまだある。それでも、千歳の、辰弥に対する感情は本物であったと信じたかった。
 だからこそ、辰弥が千歳を殺したという事実は鏡介に償いきれない罪の意識を植え付けることになった。
 あの時、感情的になって千歳を女狐と言わなければ。いや、疑いつつも辰弥と千歳を「カタストロフ」に行かないよう監視できていれば。
 悔やんでも仕方のないことだとは思いつつも、自分が感情的になってしまったことが今でも許せない。
 日翔は助けられるかもしれないが、それでも辰弥は救われないのだ、と。
 真奈美の手が鏡介の手から離れ、上に上がる。
 そっと鏡介を抱き寄せ、真奈美はその背をポンポンと叩いた。
「いいのよ、水城君。人は誰だって間違う。でも、そんなに自分を責めないで」
「真奈美、さ――」
 鏡介が真奈美の服を掴む。
 「母さん」とは呼べなかった。
 辰弥の目があったからではない。真奈美の息子でいるには、鏡介はあまりにも罪を犯しすぎた。
 「母さん」と呼べればどれだけ楽になっただろう。だが、自分は楽にはなってはいけない、茨の道であっても自分で選んだ道は自分で歩かなければいけない、という思いが鏡介にはあった。
 それでも、真奈美の胸に顔を埋め、鏡介が肩を震わせる。
 今だけ、今この瞬間だけ甘えさせてくれ、と鏡介は声にならない声を上げる。
 それを、辰弥は何も言わずに眺めていた。
 「鏡介はあんたが探していた正義まさあきだよ」と言えば全てが解決することは分かっている。
 しかし、鏡介がそれを望んでいないのであれば勝手に伝えることはできない。
 いや、鏡介も本当は伝えたいのだろう、とは思う。それでも、「母さん」と呼ばずに「真奈美さん」と呼んだことで鏡介が自分が息子であることは伝えないつもりだ、ということを感じ取っていた。
 それに、辰弥としても鏡介と離れるのは嫌だった。日翔が快復した際、そこに鏡介がいないのも嫌だった。
 だから、言えない。
 依存だとは分かっているが、鏡介を手放したくない。
 本人が口では言っていなくても、ここで鏡介の背を押すべきだと思ったなら押すのが真の友人だろう。
 それでも、辰弥には鏡介の背を押すことはできなかった。
「――っ……」
 鏡介が嗚咽を漏らす。
 今までずっと我慢して、抱え込んできたものが堰を切って溢れ、感情を抑えることができない。
 それを、真奈美は黙って受け止めた。
 何度も背中をさすり、気が済むまでと受け入れる。
「……鎖神君、」
 鏡介の背を撫でながら、真奈美が辰弥に声を駆ける。
「鎖神君も来ていいのよ?」
「いや――俺には、そんな権利はないから」
 ほんの少し苦笑し、辰弥が断る。
 もし、母親がいて慰めてくれるなら、今鏡介がされているような感じになるのだろうか、と思いつつも一歩引いた目で見ていた。
 存在しない両親を求めたところで手に入るはずがない。それに、愛情は千歳からたっぷり受け取った。
 もう、千歳に愛してもらうことはできないけれど、それでも一生分の愛を受け取った、と辰弥は思っていた。たとえそれが演技であったとしても構わない。「愛される」ということがどういうものかを知れただけで十分だ。
 千歳との思い出を胸に、元気になった日翔と、鏡介と残り僅かな時間を過ごす、それが辰弥の願いだった。
 それでも、もし望めるのであれば――。
 ふと、日翔の顔が脳裏を過ぎる。
 あの、日翔が自殺未遂をした日に交わした言葉。
 「『父さん』って呼んでくれよ」と言った日翔の言葉を思い出す。
 行くあてもなく、行き倒れていた自分を拾ってくれた日翔。自分に辰弥という名前をくれた日翔。
 自称「保護者」で、事あるたびに子供扱いしてきた日翔は、辰弥にとってある意味父親とも言える存在だった。
(『父さん』、か……)
 心の中で、日翔の顔を思い浮かべながら呼んでみる。
 少しこそばゆいような、誇らしいような感情に胸が締め付けられる。
 「父さん」と呼べたらどれほどいいだろう。
 日翔が父親ならどれほど心強いだろう。
 それでも、日翔を父親として認めるわけにはいかなかった。
 日翔に、自分の呪いを背負わせたくなかった。
 もう、残り時間もないのに「父さん」と呼ぶのは祓えない呪いを植え付けるようなものだ。
 オカルトなんて存在しないと言われるこの世界だが、呪いは一つの感情として残っている。
 それは後悔。自分の無力さを明確なものにする、消えない傷。
 そう、千歳が辰弥の心に深く刻み込んだような。
 死ぬ間際に「父さん」なんて呼んでしまえば日翔が後悔するに決まっている。
 だから、呼べない。
 だから、今更両親なんて望むことはできない。
 そう考えると、鏡介も近しいことを考えているのか、と思う。
 真奈美を母と呼ぶことで、呪いを植え付けるのではないかという。
「……自分の息子を、こうやって愛してあげたかった」
 ぽつり、と真奈美が呟く。
「ごめんなさいね、私は、水城君に息子を投影しすぎている。だけど――水城君は、どうしても放っておけないの」
「それは――」
 それはそうだ。真奈美が今抱きしめている鏡介こそ本当の息子なのだから。
 優しい人だ、と辰弥は思う。
 こんな裏社会に生きて手を血で汚している自分たちに優しい声をかけてくれる。
 こんな自分たちに関われば、不幸になるかもしれないのに、と思いつつも、辰弥は鏡介から目を逸らし、窓の外に視線を投げた。

 

 フライト自体はそこまで長時間だったわけではない。
 リムジンティルトジェット機は「生命遺伝子研究所」の発着場に到着し、辰弥たちを下ろし、駐機する。
 真奈美に案内され、辰弥と鏡介は「生命遺伝子研究所」の応接室に通された。
 暫く待つと、一人の恰幅のいい男が白衣を着た研究員を伴って入ってくる。
「君たちが『サイバボーン・テクノロジー』が言っていた治験希望者か」
 慇懃な様子で二人を見た男が二人の向かいのソファに腰を下ろす。
「どうやって『サイバボーン・テクノロジー』を取り込んだかは分からないが、とりあえず治験者として登録を――」
 男がそこまで言ったところで、研究員が男に何かを耳打ちする。
「ああ、希望の枠は一つでよかったか。で、どちらが?」
「あ、いや、ここには連れてきていないメンバーがいて……」
 鏡介が説明すると、男と研究員は少し怪訝そうな顔をした。
「そうか、まぁ色々とあるだろうからな……」
 そう言いながら、男が研究員に合図を送ると、研究員が二人の前にホログラムスクリーンを展開して説明を始める。
「今回のALS治療薬については運動ニューロンの障害の原因が特定できたため、その原因を取り除き、阻害された信号伝達を回復させるというものになります。薬の効果が出れば、リハビリの必要はありますが以前と同じように動くことが可能になると思われます」
 表示された薬の模式図や運動ニューロンの構造などは説明を受けてもよく分からない。それでもこの薬は日翔を快復させることができる、と二人は感じた。
 しかし、ちくりと胸を刺す不安は何だろう。
 説明を聞けば聞くほど、本当に日翔に効くのか、という疑問が浮かんでくる。
 研究員の説明は、どちらかと言うとALSの初期症状に対してのアプローチが多く、中期、ましてや終末期の患者に対してどうアプローチするかの説明がない。
 それとも、初期症状で説明する方が分かりやすいからそれで説明しているのだろうか。
「――以上が、治療薬についての説明となります。続いて、治験の日程を――」
「……あの、」
 話が切り替わるタイミングで、辰弥が口を挟んだ。
「どうしました?」
 研究員が辰弥を見る。
 鏡介も辰弥を見るが、辰弥と同じ考えだったのか、すぐに納得して小さく頷く。
「……治療薬は、本当に効果があるんですか」
 治験をすると言うのだからシミュレーションや動物実験では効果があったのだろう、とは思う。
 だが、どうしてもその不安は拭えなかった。
 流石に自然治癒の見込みがない病気だから偽薬によるプラシボ効果群は用意しないだろうが、それでも薬が確実に効かなければ日翔は助からない。
 膝の上で、辰弥が拳を固く握りしめる。
 「大丈夫ですよ」という太鼓判が欲しい。日翔は必ず助かるというお墨付きが欲しい。
 その言葉が聞きたくて、辰弥はそう質問していた。
 研究員が一瞬、はっとしたような顔をしてソファに座る男を見る。
 男が小さく頷き、研究員は大きく頷いた。
「人間に最も近い種と言われるチンパンジーでの実験結果は十分なものでした。ALSの初期症状、診断直後の状態なら確実に根治させることが可能です」
「え――」
 辰弥の言葉が詰まる。
 今、研究員は何と言った?
 ALSの初期症状? それは初期症状にしか効かないということなのか?
 そう思ってから考える。
 日翔はどう考えても初期症状どころか終末期である。運動ニューロンももう完全に機能していないし酸素マスクの補助なしでは呼吸もままならない。
 「初期症状なら根治できる」、と「初期症状」を強調したということは。
「……薬は、初期症状にしか、効かない……?」
 掠れた声で辰弥が呟く。
 研究員が「そうですね」と少し考えるように答える。
「チンパンジーでの実験でも、初期であればあるほど効果が高いという実験結果が出ています。しかし……。今ここに来られなかった、という治験希望者は、もしかして」
 辰弥が唇を噛み締める。錆びた鉄の味が口の中に広がる。
「……日翔は……。俺たちが治験を受けてもらいたいと思っている人は……。終末期なんです」
 やっとのことで辰弥が言葉を絞り出す。
 初期症状にしか効かない。つまり、日翔に治療薬を使っても効果は望めない。
 もしかすると、長期的に使用すれば効いてくるのかもしれないが、その効果を実感できるまで日翔が生きられるという保証はどこにもない。
 研究員と男が顔を見合わせる。
「……治療薬は運動ニューロンの機能を阻害する原因を取り去ると同時にその障害を少しずつ回復させるものです。当然、その障害が少なければ少ないほど、治療薬は早く、確実に効果を発揮します。終末期となると……効果は殆ど望めないかと」
「……っ……」
 死刑宣告にも似た研究員の言葉。
 日翔を助けられない、という現実を突き付けられると同時に、今までの自分たちの戦いは何だったのか、と思い知らされる。
 何度も危険な目に遭い、千歳を喪い、辰弥自身もトランスの多用で残された時間は僅かとなった。
 それでも日翔が助かれば収支はプラスだと思っていたのに、ここにきて、日翔は助けることができないのだという事実が突き付けられる。
 同時に思う。
 「御神楽財閥」が生命遺伝子研究所の研究員を買収したという話。
 それはきっと、「御神楽財閥」も治療薬が初期症状にしか効かないと知り、それなら病状がより進行した患者でも効果が出る物を自社で開発しようと買収に踏み切ったのだ。
 「世界平和」を謳い、「人類全ての幸福」を祈る「御神楽財閥」の社是を理解していれば推測できたはずだ。それなのに、辰弥たちは日翔に治験を受けさせることばかり考えていた。
 いや、治療薬が初期症状にしか効かないともっと前に分かったとしても、そのタイミングは辰弥が「カタストロフ」に入ってからのこと。むしろそのタイミングで知らされていればもっと最悪な展開になっていたかもしれない。
「……治験は、どうすれば……」
 それでもまだ諦めきれずに辰弥が呟く。
「終末期の患者に投与することでどれだけの効果が期待できるかというデータは取れますね。ただ、根治には至らないと思われますし、効き始めたところで力尽きる可能性も――」
 どうしてもというのであれば治験を行いますが、という研究員の言葉に、辰弥は答えが出せなかった。
 治験を開始すれば、当然、治験を行う施設に収容されることになるだろうし、産業スパイによる処方箋等の流出リスクを考えれば面会も期待できない。そうなると、日翔を見送ることも適わなくなる可能性があった。
 どうする、と辰弥が隣に座る鏡介を見る。
「辰弥は、どうしたい」
 鏡介が辰弥にそう尋ねる。
 鏡介も同じ気持ちだった。このまま治験を受けさせれば、確実に見送ることができない、と。
 日翔にそんな寂しい最期を迎えさせていいのか、という思いと薬が奇跡的に効くことを祈りつつ現時点で受けさせることのできる最高の治療を受けさせるかという思いがせめぎ合う。
「俺は……」
 俺にその決断をさせるの? と、辰弥が呟く。
 日翔を治験に参加させればデータとなり、今後のより高性能な治療薬の開発に役立てられるだろう。
 だが、辰弥にそれを期待するほどの義理はどこにもなかった。
「……治験は……」
「そういうことなら日翔の治験は諦める」
 躊躇いがちに口を開いた辰弥の代わりに、鏡介がきっぱりと宣言する。
「鏡介……」
「それとも、お前は治験を受けさせたい方だったか?」
 鏡介が辰弥の目を見据えて言う。
 全ての責任は俺がとる、と言わんばかりの鏡介の声に、辰弥が首を横に振る。
「日翔を一人ぼっちで逝かせたくない。きっと日翔も、俺たちに見送られることを望むと思う」
「……だな」
 鏡介が頷き、「そういうことだから」と話を締める。
「手間をかけた。日翔の分は他の初期症状の患者に譲ってくれ」
「分かりました」
 研究員が頷き、二人の目の前のホログラムスクリーンを閉じる。
「この程度の情報では治療薬の詳細が漏れるとは思えませんが、くれぐれもご内密に」
 研究員の言葉に鏡介が「ああ、分かっている」と頷き、立ち上がる。
「辰弥、帰るぞ」
「うん」
 辰弥も立ち上がり、その後ろで控えていた真奈美に連れられて外に出る。
 終始無言でリムジンティルトジェット機に戻り、帰りのフライトの途中で鏡介がようやく口を開いた。
「……すまなかったな」
 ぽつり、と鏡介の口から洩れたその言葉に、辰弥が大丈夫、と答える。
「もう、覚悟を決めたから」
 今までの努力は全て無駄だった。これが報われることなどもうない。
 晃を確保することができればこの状況を覆せるかもしれないが、昴とノインの二人を排除するには二人はあまりにも非力すぎた。
 もう、希望は残されていない。
「……二人とも、ちょっといいかしら」
 重い空気を振り払うように真奈美が口を開く。
「天辻君の治験の権利、『サイバボーン・テクノロジー』が買い取ってもいいかしら」
「それは……」
 困惑したような辰弥の声。
 治験を断ったのに、その権利を買い取るとはどういうこと、という辰弥の無言の問いに、真奈美が小さく頷いてみせる。
「言葉通りよ。貴方たちは『諦める』とは言ったけど、治験の権利はまだ残っている。それを、『サイバボーン・テクノロジー』が買い取る」
「そんなこと、勝手に決めて大丈夫なのか?」
 鏡介がそう、問いかける。
「さっき、CEOとジェームズに許可をもらったわ。ジェームズなんか『あれだけの働きをして治験を諦めるのならその分の報酬は用意すべきだ』と言ってて、貴方たち本当に買われていたのね」
 貴方たち本当に無茶して、と真奈美が苦笑する。
「治験の権利を売ったお金で天辻君に今受けることのできる最高の治療を受けさせてあげて。それが、私にできる最大の恩返しよ」
 あの護衛の依頼で天辻君が頑張ってくれたから今私はここにいる、と真奈美は続けた。
「真奈美さん……。ありがとう」
 辰弥が絞り出すようにそう声を出す。
 千歳も死なせて、日翔も助けられないということが確定し、辰弥の心は絶望に押しつぶされていた。
 今、自分にできることが治験の権利を売った金で日翔を最大限まで延命させることだけという事実にこれ以上言葉が出ない。
 辰弥自身もあとわずかしか生きられない、ということを考えるとこのままでは鏡介はたった一人で生きていくことになる。
「……真奈美さん、」
 思い切って、辰弥は口を開いた。
「どうしたの?」
 真奈美が辰弥を見る。
「あの、鏡介は――」
「辰弥、もういい」
 「鏡介はあんたの息子だ」と言おうとした辰弥を、鏡介が止める。
「鏡介」
 どうして、と視線を向ける辰弥に、鏡介は首を横に振る。
「俺は責任を取らないといけないからな」
「でも!」
 どうして、鏡介は自分が真奈美の息子だと打ち明けない、と、辰弥の声に非難が混ざる。
 鏡介が真奈美に打ち明けさえすれば、少なくとも鏡介は幸せに生きられる。
 三人が三人とも不幸になる必要はないのだ。
 それなのに、鏡介は微笑みさえ浮かべて首を横に振る。
「せめて、鏡介だけでも――」
「俺の心はお前たちと共にある。今更離れるなんて、できない」
「……」
 そう言われて、辰弥も何も言えなくなる。
 歩くなら同じ道を歩く、二人が見届けられなかった道の果てを見るから、という無言の思いに辰弥の心臓のあたりがぎゅう、と痛む。
 同じ道を歩いてもらいたくない。幸せになる道があるならそれを選択してほしい。
 同じ地獄に堕ちなくてもいいじゃないか、と言いたかったが、それは言えなかった。
 幸せになってほしいと思いつつも、同じ不幸を背負おうとする鏡介の心が嬉しかった。
 だからこそ、幸せ不幸になってほしい。
「……ありがとう」
 小さな声で辰弥が感謝の言葉を口にする。
「……俺たちの地獄に付き合ってくれて」
「水臭いこと言うな。俺は最後まで付き合うと決めたんだ」
 恐らく、一番辛いのは鏡介だろう。
 自分で提案し、仲間を危険に晒したことが実は何の意味もなかったと知り、仲間を危険に晒した結果、本来なら死ななくてよかった仲間まで寿命を大幅に削ることとなった。
 その責任を全て一人で背負うのが水城 鏡介という人間なのである。
 そこまで背負わなくていい、と言うこともできずにリムジンティルトジェット機がはじめに待ち合わせた事務所の発着場に到着する。
 リムジンティルトジェット機を降り、辰弥と鏡介が真奈美に会釈した。
「色々と、ありがとう」
 結果は無駄になったとはいえ、それでも真奈美の協力が得られなければここまで来ることはできなかっただろう。
 日翔を治せるかもしれない、その希望を持ってここまでこれたのは真奈美がいたからだ。真奈美がいなければ、もっと早くに絶望して自滅していたかもしれない。
 辰弥の言葉に、真奈美が苦笑する。
「私は何もしてないわよ。みんな、二人が頑張った結果。確かに最終的な結果は残念なものだったかもしれないけれど――完全に無駄だったとは、私は思ってないわ」
 そう言い、真奈美は鏡介の前に歩み寄った。
 腕を伸ばし、自分よりも頭一つ分は背の高い鏡介をそっと抱きしめる。
「……正義まさあき
「っ」
 真奈美が呼んだ、自分の本名に鏡介が硬直する。
「ごめんね水城君。今だけ、貴方を正義って呼ばせて」
「どう……して……」
 鏡介が掠れた声で問うが、すぐに気が付く。
 真奈美は自分を本当に正義だとは認識していない。
 ただ、もし生きていればこれくらいには成長しているだろう、と鏡介に自分が思い描く息子を投影しているだけだ。
 実際のところ、鏡介こそが真奈美の探し求める正義ではあったが、それは誰も、鏡介本人も一切言葉にしない。
 鏡介がぎこちなく真奈美の背に腕を回す。
「……俺でよければ」
 これで日翔の治験に関する件は全て終わる。「サイバボーン・テクノロジー」とのつながりもこれで切れるし、そうなると真奈美との縁も切れる。
 恐らくは、もう二度と会うことはない。
 だからこそ、今生の別れとしてせめてもの余韻は味わっておきたかった。
「……無茶しないでね」
 鏡介から離れ、真奈美が言う。
「義体部分、増やしちゃって……身を削りすぎよ、水城君」
「これが俺の生き方だからな」
 苦笑しながら鏡介が答える。
 眼球と、ほぼ全ての内臓と、片手片脚、そして背中部分を義体化している鏡介。
 体の半分近くを義体にしたのか、とあらためて思い知らされ、鏡介は少し考えたのち、左手を差し出した。
 真奈美もそれに応じ、左手で握手をする。
「それじゃ、真奈美さんもお元気で」
 そう言い、鏡介が踵を返す。
 辰弥も真奈美にもう一度会釈し、鏡介に続いて歩きだした。
「……水城君!」
 鏡介の背に、真奈美が声をかける。
「本当に、無茶しちゃだめよ!」
「……ああ、極力努力する」
 そんな努力に意味はないが。
 それでもそう答え、鏡介は辰弥と共に、帰路についていった。

 

to be continued……

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おまけ
ばにしんぐ☆ぽいんと り:ばーす 第10
「おぎゃ☆り:ばーす」

 


 

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