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Vanishing Point Re: Birth 第8章

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前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

筋萎縮性側索硬化症ALSが進行してしまった日翔。
そんな「グリム・リーパー」に武陽都のアライアンスは補充要員を送ると言う。
補充要員として寄こされたのは秋葉原あきはばら 千歳ちとせ
そんな折、ALS治療薬開発成功のニュースが飛び込み、治験が開始されるという話に日翔を潜り込ませたく、辰弥と鏡介は奔走する。
その結果、どこかの巨大複合企業メガコープに治療薬の独占販売権を入手させ、その見返りで治験の席を得ることが最短だと判断する。
どのメガコープに取り入るかを考え、以前仕事をした実績もある「サイバボーン・テクノロジー」を選択する辰弥と鏡介。いくつかの依頼を受け、苦戦するものの辰弥のLEBとしての能力で切り抜ける四人。
不調の兆しを見せ、さらに千歳に「人間ではない」と知られてしまう辰弥。
それでも千歳はそんな辰弥を受け入れ、「カタストロフ」ならより詳しく検査できるかもしれないと誘う。
同時期、ALSが進行した日翔も限界を迎え、これ以上戦わせるわけにはいかないとインナースケルトンの出力を強制的に落とす。
そんなある日、辰弥の前に死んだと思われていたもう一体のLEB、「ノイン」が姿を現す。
「エルステが食べられてくれるなら主任に話してあきとを助けてもらえるかもしれない」と取引を持ち掛けるノインに、辰弥は答えを出すことができないでいた。
そんな邂逅から暫く、「グリム・リーパー」の拠点が何者かに襲撃される。
撃退するものの、報復の危険性を鑑み、千歳に泊まっていけと指示した鏡介だが、辰弥が買い出しに行っている間に襲撃者を調査していると「エルステ観察レポート」なるものを発見。こんなものを書けるのは千歳しかいないと彼女を詰める。
帰宅し、二人の口論を目撃し狼狽える辰弥に、鏡介は辰弥の逆鱗に触れる言葉を吐いてしまい、辰弥は千歳を連れて家を飛び出してしまう。
行く当てもない辰弥に、千歳は「カタストロフに行こう」と誘い、辰弥はそれに応じる。
「カタストロフ」に加入し、検査を受ける辰弥。
その結果、テロメアが異常消耗していることが判明、寿命の限界に来ていると言われる。
自分に残された時間は僅か、せめて日翔が快復した姿は見たいと辰弥は願う。
そのタイミングで、「カタストロフ」は第二世代LEBを開発した永江ながえ あきらの拉致を計画、辰弥がそれを実行する。
晃を拉致した結果、日翔と辰弥に希望の光が見える。

 

 
 

 

  第8章 「Re: Union -再会-」

 

「ノイン捕獲作戦を実行します」
 そう、昴に言われたのは晃を御神楽の研究施設から拉致して暫くが経過した頃だった。
 晃は「カタストロフ」の客員研究員としてLEBの研究を行う傍ら、辰弥の損傷したテロメアを修復するための調整槽の作成も行っている。
 そんな折に出てきたノイン捕獲作戦。
「……保護じゃなくて捕獲なんだ」
 ふと出てきた言葉がそれで、辰弥は苦笑した。
 どうしてそんな言葉が浮かんでしまったのだろう。
 薄々感じていたのかもしれない。「カタストロフ」にとって、LEBとは、自分たちはただの道具なのだということを。保護なんて生ぬるいものではない。捕獲して、手懐けて、自分たちの戦力にする。
 自分が「カタストロフ」に飼い慣らされようとしているのは辰弥も理解していた。千歳という餌は、辰弥にとってあまりにも魅力的な目の前の人参だった。
 俺は千歳のことが好きだ。千歳が側にいないと不安で仕方がない。
 人はそれを依存だと笑うだろう。鏡介辺りはかなり渋い顔をするに違いない。
 そんなことを考え、辰弥は未だに武陽都に置いてきた日翔と鏡介のことを考えていることに気が付いた。
 日翔はともかく、鏡介とは縁を切ったつもりだった。自分が好きな千歳のことを女狐とまで呼んで毛嫌いする鏡介なんか知らない、俺は俺で自分の方法で日翔を助ける、そう決めて「カタストロフ」に来た。
 勿論、そこに千歳の誘いがあったのは否定しない。家を飛び出し、行く当てもない辰弥に「カタストロフ」に行きましょう、と声を掛けたのは千歳だ。
 もしかすると千歳は初めからそのつもりだったのかもしれない。もし、辰弥と鏡介が喧嘩別れするようなことがあれば「カタストロフ」に連れて行こう、という。
 そう考えると千歳の策略にまんまと引っかかったことになるが、辰弥はそれすらどうでもよかった。
 元から自分は生物兵器として開発された存在だ、御神楽に、あの御神楽 久遠トクヨンの狂気に「人権はある」と言われても周りの反応は「所詮、ただの兵器だ」というものである。
 「カタストロフ」に来て痛感した。日翔と鏡介が異常だったのだ、と。
「君とノインの戦闘を聞けば保護なんて生ぬるい言い方はできないでしょう。ノインは、捕獲します」
 辰弥の言葉に、昴は含みのある言葉で返す。
「日程は決まっていますが、鎖神、君には伏せておきます」
「え、」
 日程を伏せる、ということはノイン捕獲作戦に自分は不要なのか、と辰弥が昴を見る。
「なんで、俺がいなければノインは――」
「思い上がるな」
 昴の鋭い視線が辰弥に投げられる。
 鋭い視線に射抜かれ、辰弥が一瞬身を竦ませる。
 嫌な視線だ。まるで、自分の何もかもを見透かされているような――。
「君がいれば、ノインは永江 晃より君の捕食を優先するでしょう。そうなれば戦いはLEB同士のそれになる。そこに我々や永江 晃は干渉する余地はない」
 確かに、LEB同士ぶつかり合えば様々な武器や兵器の生成合戦になる。
 街中で戦闘になった場合、確実に隠蔽できないレベルのものになる。そうなれば街の治安を担当している「カグラ・コントラクター」も黙ってはいないだろう。
 だから君は作戦に参加させない、昴は言葉にせずそう言っていた。 分かった、と辰弥は頷いた。
「鎖神、君と秋葉原にはもうしばらく休んでもらいます。テロメアのことを考えれば君もここぞという時だけ動いた方がいいでしょう」
「それは……。まぁ、そうだね」
 辰弥としてはただ待つというのは性に合わなかった。日翔のこともあるから早く治験の席を確保したい、という気持ちもある。
 それでも、今はただ待つしかない。
 下手に依頼を受けて、トランスをして、ただでさえ残り少ない時間を無為に削る必要はない。
「――そうそう、君は武陽都でノインに遭遇したらしいですが、そのノインはまた上町府に戻ってきたようですよ」
 全国に張り巡らせた「カタストロフ」の監視網。
 それに、ノインはしっかり引っかかっていた。
「……そう」
 辰弥が低く呟く。
 何故ノインが上町府に戻ってきたかは分かる。
 ノインは俺を捕食することを諦めていない。辰弥にはない鋭い感覚で彼の気配を察知し、追跡している。
 これは昴にとっては好都合だっただろう。いくら晃が餌とはいえ、辰弥を追いかけて移動しているのなら辰弥をこちらに引き込んでいたのは正解だったかもしれない。
 話は以上です、と昴が踵を返す。
「心配しないでください。必ず――捕獲してみせますよ」
 そう言い、昴は部屋を出ていった。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 薄暗い路地裏を数人の男が歩いている。
 その中の一人は晃。その周りを護衛するかのように「カタストロフ」のメンバーが取り囲んでいる。
「……報告によると、この付近らしいな」
 メンバーの一人がGNSのマップに表示されたノインの発見ポイントと現在地を見比べながら呟く。
「本当に、エルステの気配が分かるのか……?」
 ここは地下に作られた「カタストロフ」の上町支部の直上。ノインが辰弥の気配を感知しているのならここにいるのは確実だろう。
 辰弥の気配を正確に感知できるノインが上町支部に侵入して辰弥に会おうとしないのには理由がある。 会おうとしないのではなく、会うことができないのだ。
 上町支部はアカシアの科学では解明できない謎の現象によって出入り口を秘匿されている。決まった場所を、決まった手順で通過すると出入口が開くという構造は上町支部のメンバーの誰にも理解できないものだった。
 それを今では都市伝説と言われているオカルトだとか魔法だとか言うメンバーもいる。
 それくらい、摩訶不思議な何かに上町支部は守られていた。
 もし、これが普通の秘匿された入り口であればノインは見つけ出し侵入、辰弥の前に姿を現したかもしれない。
 それができないから、今こうやって「カタストロフ」がノインを探し出す、という事態にはなっているが。
「ノインがここにいるのか?」
 キョロキョロと周りを見ながら晃がメンバーに訊ねる。
「さあな。制作者なら分かるんじゃないのか?」
 メンバーの一人の言葉に、晃はさすがにそれは、と反論する。
「私もノインの所在地までは正確に掴めないよ。でも、ここに来たってことはここが最終目撃地点、ということなんだよね?」
「ああ、ここで何度か目撃情報が上がっている」
 まぁ、そのうちの何人かは戻ってこなかったがな、と皮肉げに言いつつメンバーたちは銃を構え、警戒態勢に入る。
「まあまあ、ここは穏便に。私が呼び掛けてみるよ」
 そこまで警戒しなくてもいいじゃないか、と呑気に続けた晃は、もう一度ぐるりと路地裏を見回した。
「ノイン、ここにいるのかい? 出ておいで」
 晃が声を張り上げる。
 路地裏のそこここをうろついているカラスが一斉に晃を見る。
 ほんの一瞬、ぞわりとした空気が辺りを包み込む。
 次の瞬間、背後で叫び声が上がった。
 晃をはじめ、「カタストロフ」のメンバー全員が一斉に振り返る。
 どさり、と黒い影がその場に頽れる。
 その首から噴水のように赤い液体が吹き上がる。
「ノインか!」
 「カタストロフ」のメンバーが一斉に銃を構える。
「おいおい、だからそこまでしなくても」
「こっちは一人殺られてるんだぞ! 呑気なことを言ってる場合か!」
 相変わらず呑気そうな晃に、明らかに怒りをぶつけながら「カタストロフ」のメンバーが吐き捨てる。
「それにこっちは捕獲セットがメインだ、指示があるまで実弾は使わん」
「あ、そうなんだ。それなら大丈夫か」
 分かった、と引き下がる晃。
 その目が、路地裏の一点で留まった。
 そこに一人の少女がいた。
 白い髪に、特徴的な紅い目。その右腕が鋭い刃となっている。
 白いドレスのような衣装はかなりの期間着ているのか、ところどころ破れているがその傷ですらドレスの飾りのようにひらひらと揺れている。
 その白いドレスがところどころ赤く染まり、異様な雰囲気を醸し出している。
「ノイン!」
 晃が声を上げる。
 晃の声に、白い少女は右腕を人間と同じそれに戻し、視線を動かす。
「主任!」
 白い少女――ノインが嬉しそうに声を上げる。
 ノイン、ともう一度呼びかけ、駆け寄ろうとした晃を「カタストロフ」のメンバーが止めた。
「作戦開始! 何としても捕獲しろ!」
 メンバーの声に、他のメンバーも一斉に銃をノインに向けた。
 装填しているのはトリモチ弾。殺傷能力はない、ただ対象を生け捕りにするためだけの装備。
 数発のトリモチ弾がノインに向けて放たれる。
 だが、ノインはそれを軽いステップで回避、近くの建物の壁を蹴って三角飛びで背後に回る。
「んな、そんなことしなくても――」
「博士は黙っててください!」
 晃が止めようとするが、「カタストロフ」のメンバーに一喝され口を閉じる。
 そんなことをしなくても、ノインは私のところに来てくれるはずなのに、と思いつつ、晃は見守るしかできなくなった。
 振り返った「カタストロフ」のメンバーが再びトリモチ弾を射出する。
 それもあっさりと回避され、ノインが再び三角飛びで背後に回る。
《クソ、流石にトリモチ弾では有効範囲が狭すぎて当たりませんか。ならば広域をカバーできる捕獲ネットを使いなさい。捕獲ネットはすぐに切断されるでしょうから、足止めにしかならないでしょうが、捕獲ネットで動きを止めている間に、トリモチ弾を使えば確実に捕獲できるでしょう》
 メンバーからの視覚共有で状況を確認していた昴から指示が飛ぶ。
 了解、と数人のメンバーがマガジンを捕獲ネット弾のものに装填し直し、ノインを狙う。
 ぶわり、とネットが広がりノインに迫るが、ノインの動きはそれよりも迅い。
 猫のようにネットの隙間を潜り抜け、「カタストロフ」のメンバーに迫る。
 その手が再び鋭い刃にトランスし、駆け抜けざまにメンバーを斬り捨てた。
「クソッ! 素早い!」
 倒れる仲間には構わず、「カタストロフ」のメンバーはノインに銃を向ける。
 しかし、連射の利くアサルトライフルではなく多目的シェルを装填できるショットガンタイプの銃はどうしても連射性能に劣る。
 捕獲ネットを撃ち出し、次の弾が装填されるわずかな隙を突いてノインが一人、また一人と屠っていく。
 これがLEBとの戦いなのかとメンバーの背筋に冷たいものが走る。
 同じLEBであってもエルステは味方だ、敵に回らなくて本当によかった、という思いが全員の共通思考だった。
 それでも、数で圧倒する「カタストロフ」も負けていなかった。
 初めはノインに先手を打たれたものの、昴同様視覚共有を受けて状況を分析するメンバーがノインの行動パターンを解析、メンバーの配置を指定する。
 分析担当の指示に従い、メンバーが晃を中心に散開する。
 メンバーのGNSで構築された戦術データリンクがノインの動きを元に、捕獲ネットの発射タイミングを合わせる。
 データリンクでリンクしたメンバーの捕獲ネットが、ノインに逃げる隙を見せず絡めとる。
「捕らえた!」
「よし、トリモチ弾を使え!」
 ネットで捕獲しただけでは決定打とならない。メンバーは昴の指示に従いトリモチ弾を装填し直す。
 だが、そのトリモチ弾を発射する前に異変が起きた。
 カア、という鳴き声と共に無数のカラスが「カタストロフ」のメンバーに襲い掛かる。
「なんだ!?!?
 今まで全くこちらのことを意に介していなかったカラスたちが、突然襲い掛かってきた。
 一瞬、パニックに陥るがすぐに持ち直し、「カタストロフ」のメンバーはノインに向け、トリモチ弾を発射した。
 しかしその頃にはノインも刃物にトランスした腕で捕獲ネットを破り、脱出している。
「くそ、捕獲は無理だ! できたとしても制御できない!」
 誰かが叫ぶ。
 そうだ、と別のメンバーも「排除の許可を」と作戦本部に許可を求める。
 排除することなった場合に備えて実弾を装填していたメンバーが前進しようとする。
 が、それを止めたのは晃だった。
「何言ってるんだ! ノインは殺させない!」
「博士、どいてください! ノインは我々の手には負えない!」
 妨害されたメンバーが晃を押しのける。
「そんな、私が声を掛ければノインはきっと――」
「ここまで被害を出しておいて、ノインを手懐けられると思っているのですか!」
 もみ合う晃と「カタストロフ」メンバー。
「主任!」
 それを見たノインが叫ぶ。
「主任、じゃま!」
 そう言いながらノインが両腕をガトリングにトランス、「カタストロフ」のメンバーに向けて発砲した。
「ひゃぁ!?!?
 咄嗟にしゃがむ晃。その頭上を銃弾が通り過ぎ、その後ろにいたメンバーを次々と打ち倒していく。
 殺戮は一瞬だった。
 あっと言う間に残っていた「カタストロフ」メンバーが全員、ノインのガトリングの餌食となる。
 生きているのが自分と晃だけになったことを確認し、ノインは晃に駆け寄った。
「主任!」
「おおノイン!」
 ノインが晃に飛びつき、晃がそれを抱きかかえる。
「もう、相変わらず元気だなあノインは」
「えへへ」
 晃に抱きかかえられ、ノインが嬉しそうに笑う。
「しかし、全員殺すことはなかったんじゃないかなあ……。私と一緒に来ればよかったのに」
 周りの死体の山を見ながら晃が言う。
 それに対し、ノインはにっこりと笑って晃を見た。
「主任、言ってたよね。『ノインは自由でないと』って」
 そうだ、それはノインが特殊第四部隊トクヨンに拘束されたときにも口にしたことだった。
 ノインは自由でなければいけない、誰かに命令されてその通りに動くようなことがあってはいけない。
 そうだった、と晃が頷く。
「そうだね、ノインは自由でないといけない。確かに、『カタストロフ』に来たらノインも自由ではなくなるからなあ……」
 でも「カタストロフ」の実験室ラボは設備が整っていて、LEBも研究し放題なんだよなあ、とふと考える。
 しかし、それとノインの自由を天秤に掛ければ傾くのはノインの自由の方だった。
 ノインは晃にとって最高傑作だ。ほぼ完成されたLEBだと言ってもいいかもしれない。
 ただ、造血能力がほとんどないことだけが欠点だが、一点の弱点もない兵器よりほんの少し、弱点がある方が可愛い、と思えてしまうのは何故だろうか。
 分かった分かった、と晃は再び頷いた。
「だったら、主任、いっしょに行こ」
 主任と一緒なら怖くない、とノインが晃を誘う。
「そうだね、でもどこに行くんだい?」
「ノインの隠れ家」
「おおそうか、安全な場所があるのかい?」
 それなら一安心だ、なんならポケットマネーで機材を揃えて自由に研究ができるかもしれない。
 そう思い、晃はノインを地面に下ろした。
「じゃあ、連れて行ってくれるかい?」
「うん!」
 嬉しそうにノインが全力で頷く。
 そして、髪をトランスさせ、晃に巻き付け持ち上げた。
「主任、行くよ」
「おお、ノインは力持ちだなあ」
 晃が呑気にそう言った直後、ノインが地面を蹴り、走り出す。
 人間には決して出せないスピードでその場を離れていく。
 後には、ノインの捕獲に失敗した「カタストロフ」の死体と、それを突くカラスだけが残されていた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 だん、と拳が机に叩きつけられる。
「あれだけ捕獲メンバーを用意しておいて、全滅、だと!?!?
 視覚共有を行っていたメンバーが死亡し、共有ウィンドウが【No Signal】になった時点でこちらの敗北は認識していた。だが、この結果はなんだ。
「……くそ、ノインの性能を見誤った、というのか……」
 辰弥エルステがこちらに反抗的な態度を見せていなかったから油断した。彼が「カタストロフ」に対してもっと反抗的な態度を見せていたのならLEBの危険性はもっと分かっていたのだろうか。
 自分の想定が甘かったことは認める。それによって無駄にメンバーを死なせてしまった事実も受け入れる。だが、だからといってノインを諦めるわけにはいかない。
 「LEBの量産」という目的は確かにノインがいなくとも遂行できるが晃を奪われてしまっては計画の進展に支障が出る。
 LEBの開発者、所沢 清史郎はLEBを生み出したという点では天才かもしれないがそれは努力の結果によるものだ。それにかなりの高齢で思考が固まってしまっている。晃のような若くてフレキシブルな思考が、LEBの量産には必要だった。
 その晃が、ノインに連れ去られた。
 あまりの展開に怒りでどうにかなってしまいそうだ、と昴が煮えたぎる頭で考える。
 ――こういう時は……。
 昴がどこかに回線を開く。
 相手が応答し、昴は苛立ちをその相手にぶつけた。
「今すぐ私の部屋に来なさい。今すぐに!」
 そう言って、相手の返答を待たずに回線を切る。
 指で机を叩きながら昴はどうする、と自問した。
 いや、今のこの思考ではまともな作戦を立案することなどできない。
 とにかくこの怒りを静めて、それから考え直せばいい。
 そう考えているうちに、ドアがノックされ、呼び出した相手が入ってくる。
 にやり、と笑い、昴は入ってきた人物に歩み寄った。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 晃がノインに拉致された、という話を辰弥が聞かされたのはノイン捕獲作戦が失敗に終わって数時間後のことだった。
 辰弥に捕獲作戦の結末を伝えるか否かは上町支部の上層部の間で意見が分かれたらしい、というのは昴に呼び出され、結果を伝えられた千歳から聞かされた。
「……永江 晃が……そんな」
 結果を聞かされた辰弥が力なくソファに座り込む。
 その隣に、いささか疲れた様子の千歳が座り、辰弥を抱き寄せた。
「……振り出しに、戻ったんだよ……」
 ぽつり、と辰弥が呟く。
「永江 晃は約束してくれたんだ、俺のテロメアを修復するための調整槽を作ってくれるって。日翔の生体義体も作ってくれるって。なのに、いなくなったら、それすら望めない」
「辰弥さん……」
 辰弥を抱きしめ、千歳が先程昴から聞かされた結果を思い出す。
 ノインは自分の仲間を皆殺しにした上で晃を連れて逃走した。
 その際に晃の妨害もあったようだが、それ以上に仲間を殺したノインに対して怒りが湧いてくる。
 ――ノインが、あんなことさえしなければ――。
 あんなことさえしなければ辰弥がここまで失意に沈むことはなかっただろう。
 先程のことは降って湧いたものとしても、辰弥を傷つけるならノインでも許さない。
 でも、どうやってノインを見つける? と千歳は腕の中の辰弥を見た。
 昴から聞かされたノインの性能は辰弥を上回る部分も多い。
 特に猫のような隠密性は「カタストロフ」の調査網ですらすり抜ける。
 今回も居場所を特定できた、というより幸運にも目撃情報があったからそれを参考に晃を餌にしただけだ。
 そう考えると晃を手に入れたノインを見つけ出すのは至難の業ではないだろうか。
 ――どうする、どうやればノインを見つけ出せる?
 そう自問するものの千歳には一つ案があった。
 ――辰弥さんを使えばいい。
 ノインは辰弥の居場所を正確に突き止めている。辰弥が街に出れば確実に捕食のために現れるだろう。
 それに、辰弥ならノインに対抗できるはずだ。
 あんな無能どもみたいなことにはならないはず。
 しかし、そのために辰弥を危険に晒していいのか、という思いもある。
 先日の辰弥とノインの戦闘の話を思い出す。
 勿論千歳はその戦いを見ていたわけではない。ただ、辰弥の証言だけでどのような状況だったのかだけ、おおまかに把握している。
 それを考えると、トランス能力をコピーした辰弥が負けるとは思えない。しかし、テロメアの損傷を考えると楽観視することもできない。
 どうすればいい、と考えていたら、辰弥が突然、勢いよく立ち上がった。
「辰弥さん?」
 怪訝そうに千歳が辰弥を呼ぶ。
「宇都宮に話してくる」
 そう、千歳に言った辰弥は少し思い詰めたような顔をしていた。
「俺が出ればノインは絶対俺を捕食するために出てくる。生捕りにできるか殺すかは分からないけど、少なくとも俺なら負けない」
 辰弥も同じことを考えていた。
「でも、辰弥さん、危険です」
 思わず千歳の口から漏れた言葉は先程の自分の考えを否定するものだった。
 その言葉を口にしてから、千歳は自分が思っていた以上に辰弥のことを心配しているのだと気づく。
「そんなことは承知の上だよ。でも、ノインを確保して永江 晃を見つけ出さないと日翔を確実に助けられない」
 そこに「俺も」という言葉がなかったのは何故だろうか。
 そう思ってから、千歳はノインと戦えば生き残れないと考えているのか、と考える。
 LEB同士の戦いとなれば生成もトランスも出し惜しみすることはできない。だから全力で戦って、ノインを確保もしくは殺害して、自分も死ぬつもりなのだと。
「駄目です!」
 部屋を出ようとする辰弥に千歳が手を伸ばす。
 だがその手は空を切り、辰弥が部屋を出ていってしまう。
「辰弥さん――!」
 駄目だ、それだけは駄目だ。
 たとえノインが確保できたとしても、辰弥が死んでしまえば意味がない。
 閉まるドアを見て、千歳は嫌、と呟いた。
 辰弥を喪いたくない。それは、彼のことを想ってなのかそれとも――。
「……どうして、自分を大切にしないんですか」
 ぽつり、と千歳は呟いた。
 辰弥はあまりにも死に急ぎすぎている。
 残り時間があとわずかだとしても、その時間を目一杯、幸せに生きることもできるだろうに、そう思いつつも、千歳は辰弥にとっての幸せが「自分と生きることではない」ことに薄々勘づいていた。

 

 強引に面会許可を取り付け、辰弥が昴の部屋に乗り込む。
「どうしました、君がこんな強引に押しかけてくるとは」
 飄々とした風に、昴は辰弥に声をかける。
「俺を行かせて!」
 開口一番、辰弥が昴に訴えかける。
「俺が街に出ればノインは必ず俺の前に出てくる、俺ならあいつらみたいに殺されたりしない! だから、俺を囮に!」
 切羽詰まった表情で訴えかけてくる辰弥に、昴が「落ち着け」と声をかける。
「まずは落ち着きなさい。それとも――焦っているのですか」
「これが焦らずにいられると思う!?!? 俺の時間が少ないのはこの際どうでもいい、だけど日翔を死なせたくないんだ!」
「そんなにも、天辻を助けたいのですか? 彼ももう長くないでしょうに」
 それに、治験の席を確保できれば優先的に天辻に回すという話になっているでしょうに、と昴が落ち着いた声で諭す。
「分かってる、分かってる、けど――可能性は多い方がいい。万一、薬が効かなかった場合、日翔を救えるのは永江 晃だけなんだ」
「確かに、そうでしょうね」
 昴が認める。
 辰弥の言い分は正しい。だが、だからと言って辰弥を出していい理由にはならない。
「しかし、君はそう言いますがね――。ノインを前にして、トランスを控えられるんですか」
「っ!」
 鋭い指摘に、辰弥が言葉に詰まる。
 昴は「トランスするな」と言っている。だが、ノインとの戦いではトランスが勝利の鍵となる。
 辰弥が囮となってノインと交戦すると言い出すことはとうの昔に想定済みのことだった。
 だからこそ、今、辰弥を囮に出さないという選択が必要になる。
「ノインの処分は我々に任せなさい。先程の交戦記録から、最適な作戦を構築中です」
「そんなの当てにならない! 俺が出るのが確実だ!」
 辰弥が食い下がる。
 ここまで食い下がるとは、よほど天辻のことを助けたいのか、と昴が考える。
 同時に思う。
 ここまで慕われているとは、天辻もよく手懐けたものだ、と。
「思い上がるなと言っている」
 鋭く、冷たい声が辰弥に投げかけられる。
「鎖神、君がノインと戦えばどうなるか分かっているのですか」
「でも、無駄に血を流すよりはいい」
「違う、無駄に血を流しすぎるんですよ」
 分かっているのですか、と昴が言う。
「君とノインの戦いは適切な舞台を用意しなければ被害が大きすぎる。街中で戦って、住人を一人も死なせない、と言う戦いが君にはできるのですか。いや、君にできたとしてもノインがしないでしょう」
「それ、は」
 昴の指摘に、辰弥は反論できなかった。
 辰弥が囮になるということは、同時に戦いの舞台が街中になりかねない、ということ。そんな街中でノインとあの時のような戦いを繰り広げれば、いったいどれほどの血が流れるのか。
 それに戦いを隠蔽することも不可能だし、そうなれば桜花の治安維持を請け負っている「カグラ・コントラクター」が出てくるのは確実。戦いの流れによっては特殊第四部隊トクヨンも出てくるかもしれない。
 せっかく死んだと思わせているのにトクヨンに知られるのはまずい、と辰弥もすぐに理解した。トクヨンが出て来れば何もかもが明らかになってしまう。
「君が表に出るということはそういうことですよ。それで天辻の治療ができなくなっては本末転倒でしょう」
「……」
 日翔のことを持ち出されると何も言えなかった。
 なおも食い下がろうとしていた辰弥が沈黙し、拳を握る。
「我々に任せなさい。必ず永江博士を連れ戻します」
「……本当に?」
 縋るように、辰弥は昴を見た。
 本当に、昴は晃を連れ戻してくれるのか。
 勿論、と昴が頷く。
「私を信じなさい。それに――仮に君が出てノインを捕獲もしくは排除できたとしても、そこで君が力尽きれば天辻の快復も見届けることができないでしょうに。なに、何もかもいい方向に進みますよ。君はただそれを待つだけでいい」
 そう言われ、辰弥ははっとした。
 自分が死ぬのは構わない。それが運命だと諦められる。
 しかし、日翔が快復し、病気に怯えなくていいと確認くらいしたかった。
 確かに自分が出てノインに対処すれば、ほぼ確実にそこで力尽きるだろう。
 そうなった場合、本当に日翔が治験を受けられたか、または生体義体に置換できたかは確認できない。鏡介がいるから後を託すことはできるが、約束を反故にされる可能性は否めない。それこそ、人を撃てない鏡介も殺されて何もなかったことにされる可能性も十分考えられるのだ。
 せめて、見届けるまでは死ねない、それは本気で思う。
「……分かった、あんたを信じる」
 絞り出すように、自分に言い聞かせるように、辰弥が答えた。
「だけど、約束を破った場合――俺はあんたを殺す」
「君にできればね」
 辰弥の宣言に、昴が平然と答える。
「君には、私は殺せないよ」
「どうして」
 何故、そう言い切れる、と辰弥が訝し気に尋ねる。
 それに対して、昴は相変わらず感情を読ませぬ声で答えにならない答えを口にする。
「私には後ろ盾がありますからね」
 用件はそれだけですか、私もノイン捕獲作戦の立て直しで忙しいんですよ、と昴が続ける。
 辰弥も言いたいことは全て言っていたため、これ以上何かを言う必要はなかった。
 分かった、と昴に背を向ける。
 その辰弥の背に、昴は、
「そこまでして、ヒトの摂理を捻じ曲げたいとは、やはり君は人間じゃない」
 そう、辰弥に聞こえない声で呟いた。

 

 自宅に戻った辰弥は心配そうに玄関まで出迎えてくれた千歳をぎゅっと抱きしめた。
「どうしました、辰弥さん」
 千歳も辰弥を抱きしめ返し、優しく問いかける。
「宇都宮に……待てって言われた」
「……そりゃあ、そう言われますよね」
 辰弥の体調、LEB同士が戦うことのリスク、そういったもの全てを考慮すれば昴の指示は適切なものだと分かる。
 ただ、辰弥はそれに納得していないだけだ。
 昴に言われたことは全て理解できる。論理立った最適解であることも分かっている。
 辰弥が「日翔を自分の手で助けたい」とわがままを言っているだけだということも分かっている。
 だからこそ、辰弥が昴の言葉を聞き入れ、無断で飛び出すこともなく戻ってきたことは嬉しかったし偉い、と千歳は思った。
 小さい子供に対しての感情かもしれない。しかし、辰弥の実年齢が七歳であることを考慮すればこの感情は仕方ないだろう。
 そう言いながらも、千歳は辰弥と踏み入った関係になってしまっていたが。
「……待つのが、こんなに怖いって思わなかった」
 ぽつり、と辰弥が呟く。
「待つ、とか、我慢する、とか、昔は当たり前だったんだ。期待なんてしちゃいけない、何も望んじゃいけない、ただ俺は兵器として、言われたことを、言われた通りにすることだけを望まれていた。人を殺して当たり前、実験されて当たり前、痛めつけられて当たり前、そんな毎日だったのに……。それが当たり前じゃない、異常だと分かって、期待していい、望んでもいいって日翔に言われて、嫌なことは我慢しなくていいんだって鏡介に教わって……。そして君は、俺でも誰かを好きになっていいって教えてくれた。俺は人間じゃないけど、人間として生きていいんだって、みんなが教えてくれた。だから俺はそのみんなの希望に応えたい。だけど、今の俺に残された時間じゃ、俺が望んだ結末を見届けることはできないんだ」
 千歳の胸に顔を埋め、辰弥が自分の心の内をぶちまける。
「だから、せめて俺が死ぬ前に日翔が元気になるところは見届けたいんだ。なのに、宇都宮は『今は待て』って言うんだよ。それは、あまりにも……残酷すぎる」
 永江 晃が連れ去られた今、俺が生き延びる道は完全に断たれたから、と辰弥が続ける。
「待ってられないよ……日翔の元気な姿を、見たいよ……」
「辰弥さん……」
 辰弥の名を呼び、千歳が頭を撫でる。
 いくら辰弥が待っていられないと言っても、今は待つしかできないことは千歳にも分かっていた。
 じゃあ、抜け出してノインを確保しましょう、とも、天辻さんのもとに戻りましょう、とも言えなかった。
 ただ、言える言葉は一つだけ。
「信じましょう、宇都宮さんを」
 辰弥の頭を撫でながら、千歳が囁く。
「私は宇都宮さんの手腕を信じています。きっと、上手く行きますよ」
 その言葉に何の説得力もないけれど。
 自分の言葉が辰弥を落ちつける、ということは理解していた。
 自分が言えば、分かってくれる、そう信じていた。
 その千歳の考え通り、彼女の胸の中で辰弥は小さく頷いた。
「……そうだよね」
 まるで自分に言い聞かせるように、辰弥はそう呟いた。
 晃が連れ去られたのは、昴がLEBの性能を見誤ったからだ。
 ノインの戦闘データは手に入ったはず、それなら次しくじるわけがない。
 昴は必ずノインを確保し、晃も奪還する。
 そうなればあの話は再開する。
 それを信じていればいいのだ。
「……ごめん、感情的になりすぎた」
 千歳から見ればそこまで感情的に言葉を紡いだわけではなかったが、辰弥はそう言って謝罪した。
 自分なんかが感情的になってもいいことがないのに、と小さく続ける辰弥に千歳がゆっくりと首を振る。
「いいんですよ」
 もっと感情的になっても。
 自分の思いを、感情を全部ぶつけてくれればいい、と千歳は口にせず呟く。
 自分にだけその感情を見せて、と思ってしまう。
 辰弥は鏡介を裏切った。千歳と「グリム・リーパー」を秤にかけて千歳を選んだ。
 私のものになったのだ、という思いが千歳にはあった。
 だからこそ、辰弥の感情の全てを受け止めたい。
 辰弥が顔を上げ、千歳を見る。
 その頭を引き寄せ、千歳は辰弥と額を合わせた。
 こつ、という感覚に、普段は低めのはずの辰弥の体温が上がっていることに、期待してしまう。
「千歳……」
 辰弥の手が千歳の頬に触れる。
「……いいの?」
 遠慮がちな辰弥の質問。
 いいんですよ、と千歳が笑う。
「辰弥さんが、望むなら」
「……うん」
 欲しい、と辰弥が小さい声で言う。
「いいですよ」
 時間はたっぷりありますから、と千歳が辰弥を誘う。
 もう一度辰弥がうん、と頷き、二人は奥の部屋へと消えていった。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 ノインが晃を連れ去ってから数巡の時間が経過した。
 その間、「カタストロフ」は大半の人員をノイン捜索に充て、全力で追跡したが目撃情報もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
 だが、その時間経過の中で他の事態は待ってくれない。
 そんなある日、辰弥と千歳は昴に呼び出された。
「ノインが見つかったの?」
 昴の執務室に入るなり、辰弥がそう尋ねる。
「そう焦るな。ノインはまだ追跡中です」
 焦った様子の辰弥に、昴はやれやれと言った面持ちで肩をすくめる。
「今回、君たちを呼んだのは『榎田製薬』の件です」
 昴がそう言った瞬間、辰弥の反応が目に見えて変化する。
「……そう」
 心底残念そうに辰弥が呟いたのは、やはりどこかで自分が出ればと思っているからなのか、と思いつつも昴は今回の「仕事」の内容を伝える。
「『榎田製薬』に派遣しているメッセンジャーと、『サイバボーン・テクノロジー』に送り込んでいるスパイから連絡がありました。近いうちに、『サイバボーン・テクノロジー』が『榎田製薬』に攻撃を仕掛けると」
「……」
 残念そうにしていた辰弥が昴を見る。
 それは本当なの、と言わんばかりの辰弥の目に、昴が頷く。
「今回のALS治療薬の専売権争奪戦、御神楽が降りましたからね。今はもう『榎田製薬』と『サイバボーン・テクノロジー』の一騎打ちですよ。そして、『サイバボーン・テクノロジー』も決着をつける気のようですね」
「御神楽が……降りた?」
 あの、世界のためなら金なんて惜しくないとばかりに行動する「御神楽財閥」が降りたと言う情報は、辰弥に言いようのない不安を与えた。もしかして、薬は「御神楽財閥」の期待に沿うものではなかったのではないか、それはつまり――。
「えぇ、ですが、その話は全てが終わってからにでも。あなた方には『榎田製薬』に対する『サイバボーン・テクノロジー』の攻撃を防いでもらいたい」
 今回の争奪戦の最終局面ですね、と昴が続ける。
「『サイバボーン・テクノロジー』から『榎田製薬』本社を守っていただきます。敵の本社を攻めるのです。『サイバボーン・テクノロジー』も総力を上げてくるはず。恐らく、ここで『榎田製薬』が踏みとどまれば『サイバボーン・テクノロジー』も諦めるでしょう」
 ALS治療薬争奪戦の最終局面。
 いよいよ、最後の戦いになるのか、と辰弥は考えた。
 この戦いで、全てが決まる。
「そうそう、報酬の一部として「榎田製薬」に割り当てられた治験の席を一つ譲ってもらうよう交渉しました」
 昴の補足に、辰弥が食い入るように昴を見た。
「ほんとに?」
「ええ、『治療薬の専売権を得られるのなら安いものだ』と快く頷いてくれましたよ」
 そう言い、昴が薄く笑みを浮かべる。
 それは辰弥を安心させるつもりだったのだろうが、辰弥は余計に不信感を募らせていく。
 「御神楽財閥」が争奪戦から降りたという時点で嫌な予感が辰弥の胸を締め付けている。
 もしかしたら、この治験では日翔を快復させることができないのかもしれない。
 そんな不安が胸を押しつぶそうとのしかかってくるが、辰弥はそれを首を振って振り払った。
「作戦が成功したら、その治験の席を日翔に譲ってくれるの?」
 辰弥が「カタストロフ」に加入することを決断した理由の一つがそれだ。
 「カタストロフ」が「榎田製薬」と契約しているなら、そこから与えられる治験の席を日翔に回す。
 それが確約されないのであれば、今回の作戦に参加しない、と辰弥は昴を牽制した。
「勿論。元々、『カタストロフ』には無用の長物ですからね、君への報酬のために交渉したに決まっているでしょう」
 今回の仕事は、それを要求するに値する内容です、と昴は続けた。
「鎖神、君も分かっているのでしょう。ここ暫く君を動かさなかったのに今回動員する意味を」
 こくり、と辰弥が小さく頷く。
 辰弥が動員されていなかったのは、任務の最中に辰弥がトランスすることを防ぐためだった。
 テロメアがもう限界だと言われている状況で、そう何度もトランスさせるほど昴も愚かではなかった。いくら「カタストロフ」が人員を使い捨てるような戦術をとる組織であったとしても、辰弥LEBのような希少な存在を後先考えずに投入する愚は犯さない。
 そう考えると、今回の作戦で辰弥を現場に投入する判断を下したのは何かしらの対策を見出したのか、それとも辰弥を使い捨ててでも依頼を完遂させなければならないと判断したのか。
 恐らくは後者だろう。辰弥を使い捨てることになるから、せめてもの情けで辰弥がずっと望んでいた治験の席を与えるのだ、という。
「辰弥さん……」
 千歳も気づいたのだろう、隣に立つ辰弥の横顔を見る。
 その横顔からは何の感情もうかがうことができなかった。
 無、ではない。死ぬだろうという思いも、これで日翔を助けられるという思いもない。
 ただ、与えられた仕事は遂行する、という決意だけ。
 本当は思うところは色々あるだろうにそれを見せない辰弥の強さに、千歳は圧倒される。
 二人きりになれば内に秘めた思いを全て吐き出すのは分かっている。それでも昴にはその弱さを決して見せず立ち向かおうとする姿に、どうしてそこまで、と思う。
「任務の詳細を教えて」
 辰弥が昴を促す。
 ええ、と昴も辰弥にデータを転送した。
「今回、君たちには武陽都に行ってもらいます」
「武陽都に?」
 ここは上町支部なのに? と辰弥が聞き返す。
「ええ、『榎田製薬』と契約を結んでいるのは我々の派閥ですからね」
 なるほど、と辰弥が頷く。
「君たちにはすぐに武陽都に行ってもらいます。駐機場に強襲揚陸輸送空中艦を待機させています」
 分かった、残りの詳細はそこで聞く、と辰弥が踵を返す。
「行こう、千歳」
 辰弥に呼びかけられ、千歳も頷き、踵を返す。
「鎖神、できれば帰って来なさい」
 そう、声をかけてきた昴に、辰弥は振り返らなかった。
「……約束は、できない」
 それだけを言い、辰弥は部屋を出た。

 

 強襲揚陸輸送空中艦に乗れば上町府から武陽都まではあっという間である。
 「カタストロフ」武陽支部の駐機場に辰弥が降り立ち、それに続いて千歳が降りてくる。
「休んでる暇は――ないか」
 別に、強襲揚陸輸送空中艦での移動に疲れたわけでもない。詳細は機内でのブリーフィングで把握した。
 辰弥と千歳の他に、何人ものメンバーが駐機場に降り立ち、最後の打ち合わせを行う。
「宇都宮さんの指示で鎖神と秋葉原には遊撃部隊となってもらう。まぁ、下手に大人数で動くよりあんたたち二人だけで動いた方が立ちまわりやすいだろう」
「そうだね。鮮血の幻影ブラッディ・ミラージュだと味方も巻き込みかねないから」
 別に鮮血の幻影ブラッディ・ミラージュは敵味方関係なく切り刻む攻撃ではない。きちんと認識していれば味方を射線から外すことはできる。
 しかし、乱戦状態となれば話は別だ。そこまで精密に味方のみを外すなどという芸当は辰弥にはできない。
 鮮血の幻影ブラッディ・ミラージュの弱点に関しては辰弥も把握していたため、昴にも事前に伝えていた。
 それを踏まえての辰弥と千歳二人だけの遊撃部隊。
 下手に多数でチームを組むよりも二人だけにしておけばより効果的に、敵に打撃を与えることができる。
 千歳を辰弥に同行させたのは、単純に辰弥が千歳を信頼しているからというだけではない。万が一、辰弥が離反する可能性を考慮しての監視役。
 千歳がいれば辰弥は決して離反しない、そう考え、昴は今回のチーム配置を決定していた。
「とにかく、『サイバボーン・テクノロジー』を『榎田製薬』本社ビルに入り込ませるな。既にビル周辺は封鎖済み、『サイバボーン・テクノロジー』も『カグラ・コントラクター』に介入されたくないからか航空戦力は投入していないようだ」
 先行していた斥候部隊からの連絡をまとめ、今回の作戦で指揮を執るメンバーが伝えてくる。
 分かった、と辰弥が頷いた。
「俺と千歳はさっき貰った『サイバボーン・テクノロジー』の予想侵攻ルートに沿って妨害する。宇都宮から極力トランスするなって言われてるから戦力としては心許ないかもし、状況によっては――。いや、いい。俺は俺にできることをするから」
 そう言い、辰弥は手にしていたアサルトライフルKH MX8を持ち直した。
 太もものホルスターにはサイドアームのMARK32、予備のマガジンも幾つか防弾ベストのポーチに収納しているし足りなければ生成すればいい。
 それと、他のメンバーには支給されていない支給品が辰弥にはあった。
 輸血パックと携帯用の急速輸血装置を入れたバックパック、トランスを極力するなと言われた辰弥には必須の消耗品。
 装備の全てを再確認し、辰弥は千歳を見た。
「行こう」
「……はい」
 千歳が一瞬言い淀んだのを辰弥は見逃さなかった。
 いくらトランスを極力するな、と言っても辰弥のことだからきっとトランスする、という確信があるのだろう。それくらいは想像できる。
 辰弥としては今回に限って言えば、指示に従ってトランスするつもりは全くなかった。
 千歳は辰弥が死ぬつもりでいるという認識らしいが、辰弥とてそこまで自分の命を安売りするような愚は犯さない。ましてや今回の作戦が成功すれば日翔に治験を受けさせることができる、それを見届けずに死ぬという選択肢は辰弥にはなかった。
 確かに、トランスせざるを得ない状況であればトランスするだろうがそのような状況になる前に生成で切り抜ければいい。
 辰弥と千歳が小走りで駐機場を出ていく。
 それを見送り、「カタストロフ」のメンバーも互いに頷き合った。
 今はとにかく依頼通り『榎田製薬』を守り切らねばらならない。
 辰弥に対する報酬だというALS治療薬の治験のチケットについては興味はなかったが、この作戦の成否は「カタストロフ」上町支部の今後にかかわってくる。
 行くぞ、と辰弥とここまで来た「カタストロフ」のメンバーが走り出す。
 静かに、だが確実に、戦場は動きつつあった。

 

 「榎田製薬」の周辺は封鎖されたとはいえ、「カグラ・コントラクター」に察知されれば介入は免れない、ということで住人は変わらぬ生活を送っている。
 とはいえ、今は三日目夜日の真っただ中。まもなく巡が変わり一日目朝日に差し掛かろうというところ。
 路地裏の闇の中を辰弥と千歳は走っていた。
 建物の隙間から見えるのはネオンやホロサイネージが光り輝く大通り、そしてその奥にそびえる「榎田製薬」本社ビル。
 ブリーフィングで受け取った「サイバボーン・テクノロジー」の予想侵攻ルートを元に移動し、接敵に備える。
 路地の奥の方で、複数の重い足音が響く。
 来たか、と辰弥がMX8を構えた。
 ビルの角から武装した集団が姿を見せた瞬間、辰弥は引鉄トリガーを引いた。
 それに続き、千歳も引鉄を引き、二人が放った銃弾が「サイバボーン・テクノロジー」の兵士に突き刺さる。
「敵襲!」
 「サイバボーン・テクノロジー」の兵士が叫ぶが、夜の闇に溶け込んだ辰弥と千歳の姿が捕捉できず、幾条もの懐中電灯の光が路地を照らす。
 その頭上から、辰弥はナイフを抜いて襲い掛かった。
 ビルの外壁を這うパイプや室外機を足掛かりに壁を駆けあがり、上を取ったのだ。
 「サイバボーン・テクノロジー」の兵士たちの真っただ中に飛び込み、自分の全身に命令する。
 ――切り刻め!
 トランスはしない。血液の消費コストはかかるがピアノ線を生成し、鮮血の幻影ブラッディ・ミラージュを発動する。
 次の瞬間、無数のピアノ線に切り刻まれ、肉片と化す「サイバボーン・テクノロジー」兵。
 地面に積み重なった肉片の山を踏み分け、辰弥が物陰に隠れていた千歳のもとに戻る。
「……相変わらず、凄いですね」
 今のうちに輸血を、と言う千歳に頷き、辰弥が急速輸血装置を左腕にセット、輸血を開始する。
 輸血中はなるべくおとなしくしていた方がいいため、輸血が終わるまでは歩いて次のポイントに向かう。
「大丈夫ですか?」
 歩きながら、千歳が辰弥に声を掛けた。
「うん、トランスじゃなければ大丈夫」
 実際のところ、鮮血の幻影ブラッディ・ミラージュほどの生成を行うと血液の消費が激しいため大丈夫とは言い切れないが、それでも輸血一単位で足りる話なので大丈夫と言って問題ないだろう。
 問題はこの後連戦になった場合、どこまで血液の消費を抑えられるかである。
 勿論、輸血以外にも経口摂取で血を飲めば貧血は防げる。
 ただし、輸血ほど効率がいいわけではないし、辰弥個人の感情として経口摂取は極力控えたい。
 「人間らしくありたい」という辰弥の願いはトランスを覚えた今、今更な話ではあるが、それでも化け物じみた行為は少しでも控えたい、という思いはあった。
 そんなことを考えているうちに輸血が終了する。
 急速輸血装置の針を新しいものに交換し、バックパックに仕舞う。
「急ごう、サイバボーンはまだまだ押し寄せてくるはず」
 そう言い、再び走り出す。
 ――と、辰弥のその足が止まり、千歳にハンドサインを送る。
 千歳もそれに従い、すぐそばの物陰に身を隠す。
 誰かいる、と辰弥は気配を感じ取っていた。
 複数人いるようだが、「サイバボーン・テクノロジー」の一分隊のような統率が取れている感じはしない。いや、ある程度の統率は取れているがどことなく乱れているような足音を、辰弥の耳は捉えていた。
 味方の位置はデータリンクで把握しており、それによると辰弥たちの近くには来ていない。
 敵か、とMX8を構える手に力が入る。
 敵なら生かしてはおけない。
 判断は一瞬だった。
 物陰から飛び出し、気配の方向へ銃口を向け、引鉄を引く。
 闇の中を、フルオートで発射された銃弾が飛翔する。
 次の瞬間、路地の奥で光が舞った。
 青い光でできた六角形のタイルが並んで壁を作り、銃弾を受け止める。
反作用式擬似防御障壁ホログラフィックバリア!?!?
 辰弥のその声に、馬鹿な、という響きが含まれていることに千歳は気付いた。
 先ほどの戦闘から、「サイバボーン・テクノロジー」の標準装備にホログラフィックバリアは存在しないことは分かっている。確かにホログラフィックバリア自体はそこまでレアな装備ではないが、特定の部隊にだけ装備させるような優遇措置を取るとしてもそれはエリート部隊ではないのか、と思う。
 それに、ホログラフィックバリアのバリア発生時の模様は好きにカスタムできる。
 例えば「カグラ・コントラクター」であれば「桔梗麻の葉」と呼ばれる台形を六方向に敷き詰めたような幾何学模様、といったように、ホログラフィックバリアを導入している組織によって特徴がある。
 そして、シンプルにも六角形のタイル模様を設定しているのは――。
鏡介Rain!」
 辰弥が叫ぶ。
 路地の奥から見慣れた銀髪の男が現れる。
「……辰弥BB……」
 右手にはハンドガンネリ39Rが握られ、その銃口は真っすぐ辰弥に向けられている。
「それ……日翔Geneの……」
 喉の奥から絞り出すように辰弥が呟く。
 ネリ39Rは日翔が愛用していたハンドガンだ。それを、今、鏡介が使っている。
 日翔が銃を握ることができなくなってもうそれなりの時間が経っている。現場に立つと言った鏡介が自分用に銃を新調することなく日翔のものを使うのは十分考えられることだった。
 鏡介の後ろから、何人かの人影が現れる。
 今回、「榎田製薬」の本社を襲撃するにあたって「サイバボーン・テクノロジー」は「グリム・リーパー」も戦力に加えたらしい。
 とはいえ、今の「グリム・リーパー」で戦えるのは鏡介一人。
 だからどこかの分隊に混ぜて攻撃の駒にしたのだろう。
 つまり――鏡介は、敵。
 敵なら生かしてはおけない。それがたとえ大切な仲間鏡介であったとしても。
 辰弥が再びMX8の引鉄を引く。ホログラフィックバリアが展開し、その銃弾の運動エネルギーを刈り取る。
「相変わらずセコい手使って!」
 銃では仕留められない、と辰弥はナイフを抜いた。
 ホログラフィックバリアの厄介なところはエネルギーがある限りあらゆる運動エネルギーを相殺するところである。
 流石に継続的に力を与え続ければあっという間にエネルギーを消費して無効化することができるが、そのような攻撃は近接攻撃かミサイルのような自らが推進力を持つ攻撃手段しかない。あるいは、これまでカグラ・コントラクターの音速輸送機相手にしていたように、戦術高エネルギーレーザー砲MTHELを用意すれば簡単に抜けるがそんなものを生成するほど血液を消費すればこちらも貧血で倒れる。
 そう考えると今打てる最善手はナイフを使った近接攻撃。
 辰弥が地を蹴り、横の建物の壁に向かってジャンプする。
 壁を蹴り、反対側の建物の壁、そしてもう一度その反対の壁を蹴って移動する。
 同時に、鏡介と共に行動していたメンバーが辰弥に向けて発砲するが、それは辰弥の三次元的な跳躍に翻弄され、当たらない。
「三角飛びを多用した立体機動――お前、そんな隠し玉を」
 辰弥の動きに、鏡介が唸るように呟く。
 自分の前では決して見せなかった動き。
 あの時はまだ「人間として」いたかったのか、と考えるがそんな感傷に浸っていては訪れるのは死である。
 鏡介が銃を辰弥に向ける。
 義眼からの映像がGNSにインストールした火器管制システムFCSとa.n.g.e.l.にフィードバックされ、行動予測を行い、辰弥をロックオンする。
 行動予測をもとにGNSが義手右手を制御し、鏡介は引鉄を引いた。
「――!」
 咄嗟に辰弥が空中で身をひねる。
 GNS制御の必殺の一撃を辛うじて回避するが、辰弥の頬に一筋の傷を付けていく。
 空中でバランスを崩したことで次の壁蹴りは無理だ、と判断した辰弥が地面に降りる。
 親指で頬を伝う血を拭い、無駄にならないように、と舐めとる。
「殺す気なのは、お互い様か」
 ゆらり、と立ち上がり、辰弥は鏡介を睨んだ。
「どうせ『サイバボーン・テクノロジー』についてるなら君は敵だ」
「お前は秋葉原に毒されすぎた。これ以上、『カタストロフ』に付くというのなら、お前は敵だ」
 辰弥と鏡介が互いに互いを敵と認定する。
「だから――」「お前は――」
「「殺す!」」
 二人が同時に地を蹴る。
 鏡介はホログラフィックバリアを持っている。辰弥の射撃はすべて無効化される。
 だから接近しなければ有効打は与えられないが、接近するには取り巻きの弾幕が邪魔をする。
 まずは取り巻きを、と辰弥は再び壁を蹴って空中に舞い上がった。
 ピアノ線を生成して射出、壁に張り付き後ろを取ろうとする。
 そうはさせまいと鏡介が銃を連射、行動予測をもとにした正確な射撃が辰弥に襲い掛かるがその行動予測を上回る動きで回避、「サイバボーン・テクノロジー」の兵士に銃を向ける。
 させまいと鏡介が右手を構える。義体のギミックが展開、中に収納されていたホログラフィックバリアモジュールが露出、エネルギーウェーブで辰弥が放った銃弾の運動エネルギーを刈り取る。
「くそ、ホログラフィックバリアが厄介!」
 敵の数を減らすこともできず、逆に集中砲火を浴びることになり、辰弥が後ろに跳んで距離を取った。
 その足元に鏡介が撃った銃弾が突き刺さる。
「っ!」
 鏡介の牽制に、辰弥がもう一歩距離を取り、鏡介に銃を向ける。
「……撃てるようになったんだ」
 そう言う辰弥も、鏡介に真っすぐ銃口を向けている。
 二人とも、隙を見せれば撃たれる、そう思っていた。
 お互い、もう四年は行動を共にしている。互いの行動パターンなど熟知している。
 とはいえ、敵として本気を出すのは初めてである。辰弥は自分がLEBであることを利用してトリッキーな動きをするし、鏡介はGNSに入れたFCSとa.n.g.e.l.の補助を受けてその裏をかこうとする。
 その点では、互いに互いの動向に探りを入れている状態でもある。
「お前がいなくなって、もうどれだけ経ったと思っている」
 低い声で鏡介が答える。
「お前がもう戻らないと言うつもりならそれでもいい。お前の感情なんてどうでもいい。だが――俺は、日翔の治験の席をまだ諦めていない」
 だから、その邪魔をするならお前でも殺す、と鏡介が宣言する。
 その鏡介の言葉に、辰弥の心がちくりと痛む。
 鏡介は日翔の治験をまだ諦めていない。
 それは辰弥も同じだった。
 鏡介と喧嘩して、家を飛び出して、「カタストロフ」に入ることを選択したのは「カタストロフ」もまた今回のALS治療薬争奪戦に関わっていて、治験の席を得ることができると示唆されたからだ。
 その点では辰弥と鏡介の利害は一致している。ただ、今は敵同士というだけだ。
 辰弥の視界の隅で千歳が動いたのが見えた。
(千歳、サイバボーンの兵士を任せていい?)
 GNSで千歳に確認する。
《大丈夫です、任せてください》
 その返答に、それならと辰弥は鏡介を見据えた。
 闇の中で、辰弥の黄金きんの瞳が鋭く光る。
「日翔を諦めない? それは俺の台詞だ。日翔は、俺が助ける!」
 再び、辰弥が地を蹴る。
「いくらやっても無駄だ!」
 辰弥の動きをa.n.g.e.l.の行動予測で把握し、鏡介が銃を連射。
「それはもう見た!」
 鏡介の射線など想定の範囲内、と辰弥が空中で身をひねる。
 そのままピアノ線を射出、軌道を変えて壁に取り付く。
「っそ、ちょこまかしやがって!」
 鏡介が再度a.n.g.e.l.に行動予測をさせる。
 だが、鏡介の視界いっぱいに無数の進路予測のラインが表示される。
「――っ!」
 進路予測のラインに視界を奪われ、鏡介が一瞬怯む。
 その鏡介の眉間を狙い、辰弥が発砲する。
 一瞬怯んだことで鏡介の対応が遅れ、ホログラフィックバリアの展開が遅れる。
 まずい、と咄嗟に首を傾け、捻る鏡介。
 その右眼を、ホログラフィックバリアが間に合わなかった一撃が抉るように掠めていった。
「ぐ――っ!」
『右義眼損傷。サーモグラフィ及び赤外線センサー使用不能』
 鏡介の脳内にa.n.g.e.l.の声が響く。
 義眼を損傷したことにより、眼窩から溢れた人工循環液ホワイトブラッドが頬を伝い、口に入る。
 それを吐き出し、鏡介はホログラフィックバリアが展開できるように右腕を構えたまま周りを見た。
 ほんの一瞬だったが、ダメージを受けたことにより辰弥を見失ってしまった。
 敵を見失うな、は戦場での鉄則である。見失えば、視界の外から喰われる。
 ここで、暗闇での目となるサーモグラフィと赤外線センサーを失ったのはさらに打撃だった。
 どこだ、と全神経を研ぎ澄ませる。
 辰弥と違い、鏡介はただの人間だ。暗殺者の一人でありながら現場経験は浅く、索敵もセンサー頼り。
 それでも、鏡介のハッカーとしての勘は誰よりも鋭かった。
「そこか!」
 銃を左手に持ち替え、発砲。
 同時にホログラフィックバリアが展開し、銃弾を受け止める。
 生身の左手ではいくら撃ったところで辰弥にはかすりもしないだろう。
 それどころか、咄嗟に左腕で撃ったことにより、その反動に耐えられなかった左肩が悲鳴を上げる。
 激痛に顔を歪ませる鏡介。
 やはり、俺では辰弥を止められないのか、と痛感する。
 それにしてもさっきの進路予測は何だったのだ。
 推測はできる。
 a.n.g.e.l.が高性能すぎるがゆえに無数の可能性を計算してしまい、それをオーバーレイしたのだ。
 それだけ、辰弥の動きは予測不可能だった、ということ。
 それでも、ここで引くわけにはいかない。
 日翔のためにも、必ず「榎田製薬」本社を制圧して、「サイバボーン・テクノロジー」に治療薬の独占販売権を入手させる。
 それを邪魔するのであれば、辰弥であれ排除する。
『ホログラフィックバリアのエネルギーカートリッジ、残量一〇%です』
 a.n.g.e.l.の言葉に舌打ちする。
 ホログラフィックバリアがあるから今は何とかしのげている。
 近寄られればこちらの負けだが、それは同行している「サイバボーン・テクノロジー」の兵士による弾幕で防いでいる。
 辰弥が後ろに跳んだ隙に、エネルギーカートリッジを交換する。
 自分が今回依頼されたのは「榎田製薬」に与しているらしい「カタストロフ」の増援の足止め。
 ここで辰弥を抑えるのは確かに有効ではあるかもしれないが、こうしている間にも他のメンバーが「榎田製薬」の他の防衛チームと合流してしまうかもしれない。
 そうなってしまえば「サイバボーン・テクノロジー」側の苦戦は必至。
 早く辰弥を排除しなければ、という焦りが鏡介を突き動かす。
 左眼のナイトビジョンで辰弥の位置を特定する。
「邪魔をするな!」
 鏡介が吼えた。
 同時に辰弥に向けて発砲。
 それは軽い身のこなしで回避され、辰弥が再び接近しようとする――と思われたが、辰弥は一転、身を翻し明後日の方向へと飛ぶ。
 それを狙っての「サイバボーン・テクノロジー」の攻撃。
 「アレは俺の獲物だ」とは鏡介は言わなかった。
 自分で止めを刺す、などといった欲望はない。辰弥を排除できるなら、それは誰でもいい。
 だが、同行している「サイバボーン・テクノロジー」の兵士にそれができるはずがない。
 そう、確信していた。
 壁を蹴る辰弥を追いかけるように銃弾が壁を穿つ。
 ピアノ線も駆使した複雑な動きに「サイバボーン・テクノロジー」の兵士が翻弄される。
 ――と、その後方から叫び声が上がった。
「な――!?!?
 鏡介が振り返る。
 「サイバボーン・テクノロジー」の兵士が、次々と倒されていく。
「まさか――」
 a.n.g.e.l.によるGNS探査をしていなかったのが裏目に出た。
 そもそも、封鎖されているとはいえ「カグラ・コントラクター」の介入を恐れて封鎖エリアの中の住人を追い出すようなことはしていない。GNS探査は周辺一帯のGNSの反応を探るものだから当然、住人のGNSがノイズとなる。
 だからGNS探査を行わなかったのだが、鏡介は一つ大事なことを失念していた。
 こんなところ、辰弥一人で来るわけがない。
 必ず、監視として――。
「秋葉原ァ!」
 鏡介が叫ぶ。
「あら、気付かなければ何も知らないまま死ねたのに」
 最後の「サイバボーン・テクノロジー」の兵士がその場に頽れる。
 そこに立っていたのは、血まみれのナイフを手にし、全身に返り血を浴びた千歳だった。
 千歳がナイフを振り、刃に付いた血を払う。
「辰弥さん――ここではBBさんと呼んだ方がいいですか? とにかく、BBさんに『サイバボーン・テクノロジー』の皆さんは引きつけてもらいました」
 まさか、私がここに来ないとでも思っていたのですか? と千歳が笑う。
「く――」
 これは大きなミスだ。辰弥の能力故に、千歳というノイズを失念していた。
 その結果が「サイバボーン・テクノロジー」に貸与された一個分隊は全滅を通り越して殲滅である。
 ナイフを手に、千歳が一歩鏡介に歩み寄る。
「千歳、邪魔しないで!」
 それを、辰弥が止めた。
「これは俺とRainの問題だ。Rainは俺が殺す」
 鏡介が千歳を「女狐」と呼んだことを今だに根に持っているのだろう、辰弥が千歳に「絶対に手出ししないで」と念を押す。
「ガキか、お前は」
 鏡介が苦笑する。
 公私混同にもほどがある。
 今の辰弥の任務は「サイバボーン・テクノロジー」の殲滅のはずである。鏡介の暗殺ではない。
 それなのに、目の前の鏡介という餌に釣られて本来の目的を忘れている。
 俺も恨まれたものだな、と思いつつ、鏡介はそれなら、と頷いた。
「それなら俺を殺してみろ! 右眼くらいハンデとしてくれてやる!」
「言ったな!」
 その言葉、後悔させてやる、と辰弥は地を蹴った。
「千歳は先に行ってて! すぐ追い付く!」
「いえ、私はここで待機します」
 辰弥の指示に反し、千歳がすぐ近くの物陰に身をひそめる。
「辰弥さんがRainさんを殺すのであれば、邪魔はしません」
「……分かった」
 走りながら、辰弥が頷く。
 「サイバボーン・テクノロジー」の兵士による弾幕がなければ鏡介への接近は難しくない。
 数発撃って牽制、左手でナイフを抜いて鏡介に迫る。
「く――!」
 鏡介が右腕でナイフを受け、弾き飛ばす。
 戦闘用の、防刃、防弾性能の高い義手だからこそできること。
「流石に、義体が相手だときつい――!」
 そう言いつつも、辰弥が至近距離で発砲、それは鏡介も辰弥の腕の動きで見切り、回避する。
 すぐにバックステップで距離を取ろうとするが、辰弥もそれに追従する。
「この――っ!」
 鏡介が腰のシースに差していたナイフを左手で抜く。
 先ほど無理に左手で撃った反動の余韻で痛む左肩を叱咤しながらナイフを振る。
 正確に頸動脈を狙ったその一閃に、流石の辰弥も後ろへ跳び、回避する。
 辰弥が距離を取ったことで、鏡介は体勢を立て直した。
 そこでふと違和感に気付く。
 ――いや、今れただろ。
 辰弥なら今のナイフを回避したとしても距離を取らずにそのまま攻め込めたはずだ。
 鏡介の次の一手を警戒した? いや、いくら右腕と左脚が義体であったとしても鏡介はただの人間だ、LEBのようなトリッキーな攻撃はできない。
 それとも、と一つの可能性を考慮する。
 辰弥に限ってそれはあり得ないとは思っていたが、あり得ないはあり得ない。
 ――まさか――。
 いや、それを考えている場合ではない。
 辰弥の銃弾をホログラフィックバリアで防ぎながら攻撃の隙を窺う。
 フルオートでの銃撃にホログラフィックバリアのエネルギーカートリッジの残量が見る見るうちに減っていく。
「っそ!」
 鏡介も再度数発撃って牽制、左脚を曲げ、膝を辰弥に向けた。
「あまり使いたくないんだが!」
 膝の部分のギミックが展開され、脛に仕込まれていた砲身が露になる。
「な――!」
 ドン、という音ともに放たれたのは散弾。
 無数の散弾が辰弥に襲い掛かる。
 咄嗟に辰弥は超硬合金の壁を生成、散弾を受け止める。
 その隙に、鏡介は再度エネルギーカートリッジを交換しようとする。
 しかし、それは上から襲い掛かってきた辰弥に阻まれた。
「何!?!?
 辰弥の体当たりを受け、鏡介が壁に叩きつけられる。
 何が起こった、とa.n.g.e.l.に状況を確認する。
『恐らくは、壁を作ると同時に上に跳んだものと思われます。今までの動作から、不可能な話ではありません』
 辰弥の、LEBとしての性能をいかんなく発揮した攻撃。
 やはり、俺には無理だったのか、という思いが鏡介の胸を過る。
 その鏡介の首筋に、ナイフが突きつけられた。
「――殺せ」
 観念して、鏡介が口を開く。
 この状況では何をしても動いた瞬間に辰弥は鏡介の頸動脈を掻き切るだろう。
「だが、一つだけ教えろ。お前は――日翔を見捨てるのか?」
 たった一つ、気がかりになっていたこと。
 自分が死ねば、日翔に治験のチケットを届けることは不可能になるはず。それとも、辰弥にも何かしらの当てができたのか、と鏡介は訊いた。
「見捨てるわけ、ない」
 冷たい声で辰弥が答える。
「『カタストロフ』が日翔に治験のチケットを用意すると言ってくれた。だから、俺はそれに乗った」
「……そうか」
 安心したように鏡介が呟く。
 辰弥が日翔を見捨てていない、辰弥なりに治験の席を確保しようと奔走していたのならここで死んでも悔いはない。
 辰弥が、「カタストロフ」が「サイバボーン・テクノロジー」を倒せばいいだけのことだ。
「……日翔は……生きてるの?」
 今度は辰弥が鏡介に質問する。
「ああ、生きてはいる」
 鏡介が答える。その回答に、辰弥が明らかにほっとしたような表情を浮かべる。
「俺が死ねば日翔は『イヴ』が引き取ってくれるよう手配している。野垂れ死ぬようなことはないから安心しろ」
 そう言い、鏡介が目を閉じ、顔を少し上に向けた。
 まるで首を差し出して止めを刺しやすくするかのような鏡介の動きに、辰弥が一瞬戸惑う。
「『カタストロフ』にいるなら難しいかもしれないが――。日翔に会ってやれ。あいつ、ずっとお前のこと心配してるぞ」
「それは――」
 日翔に会いたい。それは辰弥も思っていることだった。
 あの時、感情のままに家を飛び出し、日翔には何も伝えることができないままでいた。
 帰ることができればどれほどいいだろうか。日翔に「君は助かるから」と言えればどれほどよかっただろうか。
 だが、それは叶わない。「カタストロフ」に加入した時点で諦めた。
 諦めたけれども、やはり会いたい。
 そう思ってから、いや、駄目だと首を振る。
 「日翔に会ってやれ」という鏡介の言葉は辰弥にとって魅力的な言葉だ。しかし、今の状況を考えるとそれは鏡介の命乞いに他ならない。
 いや、鏡介を殺してからでも帰宅はできるが、そんなことをした自分に日翔と会う資格など存在しないのは分かり切っている。
 ふっと鏡介が口元に笑みを浮かべる。
「俺が言いたいのはこれだけ――いや、あと一つだけ」
 みっともないな、と思いつつも鏡介は言葉を続けた。
「秋葉原のことを女狐と呼んだのは俺も言いすぎた。しかし、俺は秋葉原を今でも信用していない」
 ずっと鏡介の心にわだかまっていた思い。
 辰弥が大切に想っている人間を口汚く罵った。信用していないのは事実だが、もっといい言い回しがあったはずだ。
 だから、それだけは辰弥に伝えようと思っていた。
 辰弥が一瞬沈黙する。
「……だから?」
 その声が、僅かに躊躇いを孕んでいることに鏡介は気付いた。
 確かに辰弥は千歳のことが好きなのかもしれない。それ故に鏡介の「女狐」発言は許せないのかもしれない。だが、それでもまだ迷いが残っている。
 とはいえ、説得して辰弥を連れ戻す気は鏡介にはなかった。
 辰弥が望むのであれば、望むままに生きればいい、と心の底から思う。
 その上で自分が邪魔になるのなら、殺せ、と。
「話は終わりだ。殺れ」
 鏡介が早く、と辰弥を促す。
 急がなければ、増援が来るぞ、と。
 だが。
「――、」
 辰弥はナイフを振らなかった。鏡介の首筋に突き付けたまま、硬直している。
「……辰弥、」
 鏡介が辰弥の名を呼ぶ。
 ほんの一瞬、辰弥がびくりと身を震わせる。
「辰弥さん、何やってるんですか!」
 後ろから、千歳が声をかけてくる。
「急いでください、何なら私が――」
「千歳は邪魔しないで!」
 辰弥が動かないのなら、と千歳が割り込もうとして止められる。
 それでもなお、止めが刺せない辰弥に鏡介がふっと笑う。
「……甘くなったな、お前」
「何を!」
 君なんて、この手を動かせばと言う辰弥に鏡介が再び笑う。
 甘くなったな、と再び思う。
 仲間に対しては刃を向けられたとしてもそこから先には進めない辰弥。
 口では敵だの殺すだの言っておきながら、何という体たらくだ。
 同時に思う。
 嫌いだと言っておきながら、それでもまだ仲間だと思っているのかと。
「辰弥、」
 もう一度、鏡介が辰弥の名を呼ぶ。
「……」
 辰弥の目が揺らぐ。
 明らかに動揺している辰弥に、やはりこいつは人間だ、と鏡介は口にせず呟いた。
 その鏡介の左手が動く。
「――っ!」
 動揺していた辰弥の反応が遅れる。
 ナイフを握っていた辰弥の右腕を掴み、鏡介は辰弥を壁に叩きつけた。
「がはっ!」
 背中を強打し、辰弥の息が一瞬詰まる。
 その喉に、鏡介は銃口を押し付けた。
「形勢逆転だな」
 低く、宣言する。
「く――」
 辰弥が鏡介の手を振りほどこうとするが、喉に押し付けられた銃口が食い込み、自分の立場を理解する。
「辰弥さん!」
 千歳が鏡介に銃を向ける。
 だが、鏡介はそれには平然として、
「撃ってもいいが、同時に辰弥も死ぬことになるぞ」
 と牽制する。
「――っ、」
 辰弥を死なせるわけにはいかない、と銃を下ろす千歳。
「らしくないぞ、敵を前にして隙を見せるとは」
「きょう、すけ……」
 かすれた声で辰弥が呟く。
「どうせ、殺せないくせに」
 強がってはいたが、辰弥も分かっていた。
 自分には鏡介は殺せないということを。
 嫌いとか殺すとか言ったが、それでも鏡介は仲間だという意識はまだ残っていた。
 それに、鏡介はまだ日翔を見捨てていない。
 日翔を助けたいという同じ気持ちを持っている鏡介を、殺すなんてできなかった。
「ああ、俺にお前は殺せない」
 辰弥の言葉を、鏡介が肯定する。
「結局、俺もお前も、互いを殺せないんだよ」
「……」
 ぐうの音も出ない。
 鏡介の言う通りだ、と辰弥は痛感した。
「俺がどれだけ心配したか分かってるのか」
 低い鏡介の声が、さらに低くなっている。
「この際、俺のことが嫌いだというのはいい。言われて当然のことを俺は言った。だがな、だからといって一人で勝手に抱え込んで勝手なことをするなと言っている」
「……ごめん」
 鏡介の言葉が図星過ぎて、辰弥は謝るしかできなかった。
 鏡介も確かに言葉が過ぎた。だが、それは千歳を妄信する辰弥を心配しての言葉だということは家出をして、落ち着いてから理解していた。
 辰弥が「カタストロフ」に加入した時のスムーズさを考えれば千歳が怪しいことくらいすぐに思いつくはずだった。
 それでも、千歳を信じたくて、ずるずると無為に時間を過ごしてしまった。
「辰弥さん、Rainさんが殺せないなら今がチャンスです!」
 千歳の声が聞こえる。
 それを無視して、辰弥は腕の力を抜いた。
「辰弥さ――」
「俺、どうしたらいいと思う?」
 ぽつり、と辰弥が呟く。
「どうしたら、とは」
「俺、一時の気の迷いで『カタストロフ』に入ったんだよ? 今更『グリム・リーパー』に戻るなんてできない。それに千歳のことも好きなんだ。余計に裏切れない」
 そうか、と鏡介が呟いた。
「……だから、鏡介が俺を殺せばいい。サイバボーンの規模なら、『榎田製薬』も『カタストロフ』も排除できるだろ。だったら鏡介が俺を殺して、鏡介が日翔に治験のチケットを渡した方がいい」
「辰弥さん! 何言ってるんですか!」
「だから俺はお前を殺せないと」
 千歳と鏡介の声が重なる。
「……愛されてるな」
 はぁ、と鏡介がため息を吐く。
「――それなら、少しヴィランでも演じるか。秋葉原は本当に信用に値するのか? 『カタストロフ』はずっとお前を利用していたのに?」
 突然の鏡介の言葉に、辰弥の目が揺らぐ。
「そんなの、俺なんて利用されて当然の存在がそれを疑問に思うと思ってるの?」
「はぁ……お前はそういう奴だったな」
 辰弥の自己肯定感の低さにため息が出る。
 こいつ、信じなければいけないと思ったら無理やり信じるタイプだしな、と納得しつつ、鏡介は続けた。
「だったらお前に教える。『カタストロフ』はLEBを量産するつもりだぞ」
「っ、」
 鏡介の言葉に、辰弥は息を呑んだ。
 LEBの量産、考えられない話ではない。
 昴は「『カタストロフ』はLEBに注目した、それ故にノインを確保することにした」と言っていた。
 それはただ自分たちを戦力にするということではなくて、「量産するためのマスタデータ」として必要だった、ということなのか。
 それなら晃を拉致してきたことにも納得ができる。ただノインの餌にするだけではなく、破棄された研究データを復元してLEBを量産するための研究をさせる。そして晃はLEBの研究ができることを喜んでいた。
 全て予測できたことだ。辰弥自身がちゃんと自覚していれば、その計画は遅らせることができたはずだ。
 それなのに、辰弥が「カタストロフ」に行ったことで、研究の最大の素材であるゲノム情報を提供してしまった。
「まさか、そんなはず……」
 それでも辰弥は否定しようとする。
 自分の軽率な行動が重大な事態を引き起こしているとは思いたくなかった。
「お前がいない間、俺が何もしていないと思ったのか? 秋葉原と一緒ならお前は必ず『カタストロフ』に行くと思って『カタストロフ』のことを調べた」
 しかし、鏡介は現実を突き付ける。
「『カタストロフ』はお前を造った所沢博士をかくまっていて、LEBを量産する計画を立てている。お前が『カタストロフ』に行ったことでその計画が進んだんだぞ」
「所沢、が……」
 嘘だ、と辰弥の心が叫ぶ。
 所沢は死んだはずだ。あの時、特殊第四部隊トクヨンの襲撃に遭い、抵抗して。
 だが、辰弥は所沢 清史郎の死亡を目の当たりにしたわけではなかった。
 トクヨンの隊長、御神楽 久遠も清史郎の生死に関しては言及していない。
 それに、辰弥は確かに見ていた。
 「カタストロフ」の上町支部の病院で、清史郎らしき人物を。
 あの時はただの見間違いだと思っていた。他人の空似だと思っていた。
 しかしそうではなかった。あれは清史郎本人だったのだ。
 何故清史郎が「カタストロフ」にいるのかは分からない。トクヨンに拘束された後、「カタストロフ」によって拉致されたのだろうか。
 いや、今はそんなことはどうでもいい。
 問題は、「カタストロフ」がLEBの量産を考えているということだ。
 それは昴によって提案されたものなのか、それとも「カタストロフ」は独自にLEBの存在を認知していたのか――。
 いずれにせよ、辰弥が「カタストロフ」に加入したことで計画は大きく動いた。
 ――俺が、軽率なことをしたばかりに――。
「この際、俺にも原因があるからお前が『カタストロフ』に行ったことは責めたりしない。だが、日翔のためにも戻ってこい」
 鏡介がそう言うと同時に辰弥の喉に押し付けていた銃を下ろす。
「鏡介……」
 脅威が取り除かれたことで反撃できる状態となり、辰弥がナイフを握る手に力を込める。
「辰弥さん、今です!」
 千歳が叫ぶ。
 だが、何故かその声が煩わしく感じる。
 千歳とは離れたくない、そう思っているのに帰らなければ、と思う。
 今、このナイフを鏡介に突き立てれば何もかも終わる。「カタストロフ」は「榎田製薬」を守り切って日翔へ治験のチケットをプレゼントすることができる。
 ――それでいいの?
 そう、自問する。
 そんなことをして、鏡介を殺して治験の席を得ることで日翔は喜ぶだろうか。
「何を話しているんですか、早く殺さないと!」
 千歳には辰弥と鏡介の会話はほとんど聞こえていないはずだ。
 暗がりの中で二人がどう動いているかが辛うじて把握できる程度だろう。
 辰弥が首を振り、ナイフから手を放す。
 固い音を立ててナイフが地面に落ちる。
「千歳、君は――仲間を殺せって言うの?」
 思わず、辰弥はそう尋ねていた。
 辰弥の言葉に、千歳ではなく鏡介が驚いた様子を見せる。
「お前は――まだ、俺のことを仲間だと言うのか」
 あれだけ互いを敵だと認定して、本気で殺意をぶつけ合って、殺し合って、それなのに。
 辰弥が苦笑する。
「……当たり前でしょ。何年組んだと思ってんの」
 それは千歳と付き合った期間よりはるかに長くて。
 結局、俺は千歳よりも日翔や鏡介を選んでしまうのか、と再度苦笑する。
 それでも、千歳とも共にいたいという気持ちは強かった。
「……千歳、」
 辰弥が千歳に声をかける。
「帰ろう。俺たちが本来いるべき場所は『グリム・リーパー』だ」
 ただ人員を使い捨ての駒として使い捨てる「カタストロフ」ではなく。
 たとえ生物兵器であったとしても、人間らしく生きることができる「グリム・リーパー」に。
「辰弥さん……」
 千歳が唇を震わせる。
 それは、と呟いて、それから千歳は首を横に振った。
「行けません」
「え――」
 小さな声だったが、辰弥は確かに聞き取っていた。
「私は、行けません。行きません」
 予想もしていなかった返答に辰弥が困惑する。
 千歳なら、必ず付いてきてくれると思っていた。
 どんな理由があったとしても、それを投げうって付いてきてくれると思っていた。
「なんで……」
 君は、俺を見捨てないと言ったよね、という響きがその言葉に含まれていることには千歳も気づいた。
 だが、千歳は再度首を横に振る。
「私の居場所は、『カタストロフ』なんです」
「そんなことない!」
 辰弥が叫ぶ。
「確かに、鏡介はまだ千歳を疑ってるしこれからも疑うと思う、だけど千歳の居場所は『カタストロフ』じゃなくて――」
 俺の側なんだ、と辰弥は千歳に訴える。
 間近で聞いている鏡介からすれば自意識過剰にもほどがある発言ではあるが、辰弥は本気で千歳の居場所は自分の隣だ、と思っている。
「……いいえ」
 千歳が否定する。
「辰弥さんの居場所も『グリム・リーパー』じゃない。『カタストロフ』なんです」
「違う! 俺は、日翔と鏡介と一緒にいたい! そこに君もいてほしいんだ!」
 まるで駄々をこねる子供のように辰弥が千歳を求める。
 もう一度、千歳が首を振る。
「私と一緒にいたいというのなら――水城さんを殺してください」
「っ!」
 はっきりとした、千歳の決別の言葉。
「君は、俺を――」
「せっかく『カタストロフ』に戻れたんです。『カタストロフ』の方が堅実ですし、稼ぎもいい。『カタストロフ』から去りたくありません」
 それとも、水城さんを殺せば辰弥さんは私を見てくれますか? と千歳が鏡介に銃を向ける。
「やめて! 二人が殺し合う必要なんてない! 『カタストロフ』は、君を使い捨てるんだよ? それでもいいというの?」
「それでいいと言ってるんです」
 きっぱりとした千歳の言葉。
「目障りなんです、水城さんが。天辻さんはこの際目を瞑ります。ですが、辰弥さんを私から奪うというのなら、水城さんを、殺します」
 千歳がそう言ったタイミングで複数の足音が響き、「カタストロフ」の増援が集結する。
「千歳――!」
「辰弥さんでは荷が重いと思い、味方を呼びました」
 「カタストロフ」の増援が一斉に、鏡介に銃口を向ける。
「千歳、やめ――」
 増援が引鉄を引こうとした瞬間、辰弥が動いた。
 鏡介を突き飛ばし、増援の前に躍り出る。
「辰弥さ――」
 邪魔をしないでください、とは言えなかった。
 その時にはすでに、鏡介を撃とうとした増援は全て肉片となっていた。
「――っ!」
 馬鹿な、という呟きが千歳の口から洩れる。
 辰弥は千歳を選ばなかった。
 鏡介が殺されるかもしれないという思いで飛び出し、味方を殺した。
「そん、な……」
 辰弥が両手から生成したピアノ線を切り離すのを見る。
「辰弥さん……味方を撃つなんて……」
 千歳には「カタストロフ」を抜ける気は全くなかった。
 いや、抜けることができなかった。
 だからこそ、辰弥が「一緒にいたい」と言うのであれば彼が「カタストロフ」に残る必要があった。
 だが、今こうやって味方を殺してしまえば、それは「カタストロフ」に対する宣戦布告となる。
 駄目、と千歳は呟いた。
 自分では辰弥を引き留められない。辰弥は「グリム・リーパー」に戻る。
「本当に私から去っていくつもりなんですね」
「……ごめん。だけど、鏡介を殺させるわけにはいかないんだ」
 辰弥が銃を構え、千歳を見る。
「君が来ないというのなら、俺は君を殺さなきゃいけなくなる。だけど、それだけはしたくない、だから――」
 辰弥が最後まで言い切る前に、千歳は身を翻した。
 その頬に涙が伝っているのを、辰弥は見逃さなかった。
 千歳が路地の奥へと走り去っていく。
「……俺のために、泣いてくれるの……?」
 千歳の背を見送り、辰弥が呟く。
「よかったのか?」
 鏡介が立ち上がり、辰弥の横に立つ。
 うん、と辰弥が頷いた。
「やっぱり俺の居場所は『グリム・リーパー』だ。俺か鏡介か、じゃないんだ。俺と鏡介で、治験の席を確保しなきゃいけないんだ」
「……そうだな」
 鏡介が左手で辰弥の頭をポンポンと叩く。
「子供扱いしないでってば」
 暫くなかったいつものやり取り。
「……おかえり」
 そう言って、鏡介が笑った。
「……ただいま」
 辰弥もそう言って苦笑する。
 ひとしきり笑ってから、二人は真顔に戻り、路地の奥に見える「榎田製薬」の本社ビルを見た。
「『カタストロフ』は『榎田製薬』と契約してる、今回俺がここに来たのも『サイバボーン・テクノロジー』から防衛するためだ」
 「グリム・リーパー」に戻ったことで、辰弥が鏡介に情報を共有する。
 なるほど、と鏡介は頷いた。
「『榎田製薬』には独自の戦力はないからあちこちからかき集めているとは思ったが――『カタストロフ』か」
 それなら統率も取れているし練度も高い、「サイバボーン・テクノロジー」の対抗馬になりえるな、と納得する。
「今回の戦いで多分専売権を得るメガコープが決まる、俺は鏡介についていくと決めたから『榎田製薬』は敵だ」
「ああ、それはサイバボーンのジェームズに言われた。『この戦いを制することができれば治験の席を譲る』とな」
 それなら、と辰弥が頷く。
「行こう、『カタストロフ』を押さえればサイバボーンの勝ちだ」
「いや、『カタストロフ』の裏をかいて『榎田製薬』の本社に致命的なダメージを与えれば俺たちの目的は達成する。『カタストロフ』はあくまでも防衛用の戦力だからな」
 なるほど、と辰弥が頷き、少し考える。
 「榎田製薬」の本社に致命的なダメージを与える。鏡介には何かしらプランがあるようだが、それは前に「アカツキ」の本社にしたような、建物内に侵入して爆薬を仕掛ける等の破壊工作だろう。
 それなら、もっと効率よく、確実にダメージを与える方法がある。
「だったらこの本社に致命的なダメージを与えればいい。ブリーフィングでビルの構造図は頭に入っている」
 辰弥がそう言い、先程落としたナイフを拾い、自身の手のひらを傷つける。手のひらを下に向けると、血が滴り落ち、先程の鮮血の幻影ブラッディ・ミラージュで構築された血の海に混じっていく。
「おい、お前まさか」
 鏡介が慌てる。
 それは以前日翔のCCTのカメラ越しに見た。
 自分の血を周りの血に侵食させることで「自分のもの」にする裏技。
「そのまさかだよ」
 そう言い、辰弥は腰を落として両手を足元の血の海に浸けた。
 その瞬間、ざわりと血の海が揺らめき、何かを構築し始める。
「な――」
 初めはまた戦術高エネルギーレーザー砲MTHELでも生成するのかと思ったが、それよりもはるかに大規模なもの。
 それは鏡介も見たことがあった。
 辰弥の隣に生成されたのは、「カグラ・コントラクター」特殊第四部隊旗艦「ツリガネソウ」に搭載されている大型可変口径レールガン。
「おま、そんなものまで!?!?
 確かに辰弥は知識の範囲であれば何でも作れるとは聞いていたが、こんなものまで生成できるのはもはや生物としてチート級である。
 とはいえ、これさえあれば確実に「榎田製薬」の本社ビルに致命的なダメージは与えられる。
 自身の血を燃料に使う必要があるからだろう、辰弥がバックパックから急速輸血装置を取り出し、輸血を開始する。
 それだけでは間に合わないと思ったのか、もう一パック取り出しその口を噛みちぎり、中の血を飲んだ。
「……さて、と」
 落ち着いたのか、辰弥が腕をジェネレータにトランスさせ、レールガンに接続、レールガンを起動させる。
 レールガンが唸りを上げてキャパシタに電力をチャージ、照準を「榎田製薬」本社ビルに合わせる。
「いっけえええええ!」
 レールガン発射。
 轟音と共に、電磁力で加速された砲弾が超音速で放たれる。
 衝撃波で周囲のビルの窓ガラスを叩き割りながら、砲弾が「榎田製薬」本社ビルに向けて飛翔する。
 砲弾は狙い違わず「榎田製薬」本社ビルに突き刺さった。
 ビルを支える鉄骨をものともせず打ち砕き、貫通し、その向こうへと消えていく。
 直後、鉄骨に致命的なダメージを受けた「榎田製薬」は崩落を始めた。
 大量の土煙を上げながら、崩れていく「榎田製薬」本社ビル。
「……これで一丁上がりだね」
 トランスを解除し、辰弥が呟く。
 直後、いつもの不調に襲われるがじっと耐え、何事もなかったように鏡介を見る。
「お前……」
 無茶しやがって、と鏡介が口の中で呟く。
 だが、これで「サイバボーン・テクノロジー」の勝利は確実のものとなった。
「……帰るか」
 そう、辰弥に声をかける。
 うん、と辰弥も頷いた。
 二人並んでその場を立ち去る。
 その途中で、
「辰弥、すまなかったな」
 そう、鏡介は漸く謝ったのだった。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 暫くぶりの我が家に、辰弥が緊張した面持ちでリビングに入る。
 部屋の様子はほとんど変わっていなかった。
 強いて言うなら、鏡介も掃除はしていたのだろうが若干散らかっていることくらいか。
 ちら、と日翔の部屋のドアを見る。
 帰ってから、日翔の顔はまだ見ていない。声も聞いていない。
 鏡介は「生きて『は』いる」と言っていた。
 辰弥が家出をした時は、まだインナースケルトンの出力を上げさえすれば自力で身の回りのことはできる状態だった。
 しかし、渚に「進行スピードが上がっている」と言われている状態でもうどれくらい経過したのか。
 もう、完全に起き上がることはできないのだろうか。
 後ろに立った鏡介が辰弥の肩に手を置く。
「顔を見せてやれ」
「……うん」
 恐る恐る、辰弥は日翔の部屋のドアに手をかけた。
 ゆっくりと開き、中に入る。
 薄暗い室内に、規則的な電子音が響いている。
 日翔のベッドの横には、辰弥が家出をする前にはなかった機械が置かれていた。
「――っ」
 ベッドを見た辰弥が息を呑む。
 幾つもの管がベッドに伸びていた。
 機械から伸びたチューブの先には樹脂製のマスクが繋がっていて、それは日翔の口元にかぶせられていた。
「……あき、と……」
 よろよろと、辰弥がベッドに歩み寄る。
 その声が聞こえたのか、日翔が目を開き、ほんの少し、頭を辰弥に向けた。
《辰弥、帰ってきたのか》
 久しぶりに聞く日翔の声。だが、それは肉声ではなく、辰弥のGNS内で再現されたもの。
 うん、と辰弥が頷いた。
「……ただいま」
 そう言って、辰弥が布団の中から日翔の手を取る。
 暫く見ないうちに、日翔の身体は痩せ細っていた。
 恐らくは食事ももうできないのだろう。腕につながれた点滴のチューブが痛々しい。
「……ごめん、長い間家を空けてて」
 何度もごめん、と言い、辰弥が日翔の手をさする。
《もう気は済んだか?》
 怒る風でもなく、日翔が優しく辰弥に声をかける。
「え――」
《長い家出だったな》
 そう言った日翔が、ほんの少し笑ったような気がした。
《鏡介からは『辰弥にだけ緊急で特殊性の高い依頼が入ったから出張してもらった』と言われてたがな。実際は喧嘩したんだろ? 鏡介と》
「それは……」
 そう辰弥が呟く後ろで鏡介が「あいつ……!」と呟いているのが聞こえるが、今は無視する。
「……ごめん」
 辰弥がもう一度謝る。日翔がほんの少し首を振る。
《お前だって嫌なことがあれば家出する権利くらいある。だが、ちゃんと戻ってきて、偉いな》
 そう言った日翔の指が辰弥の手を握る。
 弱々しいその力に、辰弥の胸が押し潰されそうになる。
「子供扱いして……」
 辛うじてそう言って、辰弥はもう一度ごめん、と謝った。
「もう、出ていったりしないから。俺の居場所は、ここだって分かったから」
《そうか……》
 そう言ってくれて嬉しい、という日翔の声が聞こえる。
「……なんか、食べたいものある?」
 もう、君が食べられるものには限りがあるのだろうけど、と思いつつ辰弥が訊く。
《そうだな――プリンが食いたい。お前が作った、カラメルたっぷりのやつ》
「いいよ、いくらでも作ってあげる」
 ――だから、元気になって。
 小さく頷き、辰弥は日翔に背を向けた。
「もういいのか?」
 鏡介の言葉に、辰弥がうんと頷く。
 そうか、と鏡介は辰弥を手招きした。
 部屋を出る鏡介に続いて日翔の部屋を出て、ドアを閉める。
「……辰弥、」
 鏡介が辛そうな面持ちで辰弥を呼んだ。
「……日翔にはもう時間がない。今回の依頼で治験は確実に受けられるだろうが……」
「今、日翔はどういう状態なの」
 しばらく見ない間に病状がかなり進行していたのは分かった。
 それでも、自分が見た状態ではなく、周りが見た状態で判断したい。
「……『イヴ』に気管切開を薦められた。もう、酸素マスクでの酸素吸入にも限度があるらしい」
「それは――」
 いや、気管切開をすればもう声が出せなくなるというわけではないことは理解している。切開方法によっては快復後、切開した部分を閉じれば再び声が出せることは分かっている。
 それでも、もうその段階まで来ているのかと思うと苦しかった。
「日翔は必ず快復する、だから気管切開で余計な負担はかけたくない。そのためにも気管切開はもう少し待ってくれと頼んでいる」
「……うん」
 「サイバボーン・テクノロジー」の要求は叶えた。後はこちらの要求を叶えてもらう番だ。
 帰り道で、鏡介はジェームズから連絡を受け取り、「手続きがあるから後は連絡を待て」と言われたらしい。
 まさかここで約束を反故にされるとは思わないが、一体その連絡はいつ来るのだろう。
 そんなことを考えながら、辰弥はふと、千歳のことを思い出した。
「千歳……」
 結局、千歳は「カタストロフ」に残ってしまった。
 それだけが気がかりで、大丈夫だろうか、と考えてしまう。
「辰弥、」
 鏡介が辰弥の肩をポンと叩く。
「秋葉原は自分の意志で『カタストロフ』に残った。それはお前が悔やむことではない」
「……うん」
 辰弥が頷く。
「だが、どうして秋葉原でなく俺を選んだんだ。日翔を死なせたくないからのおまけか?」
「それもあるけど……」
 素直な辰弥に、鏡介が「こいつ」と思うが続きを聞く。
「結局、『カタストロフ』で千歳と一緒にいるより、『グリム・リーパー』で、三人でいる方が心地よかったんだ。二人とも、俺を『人間』として見てくれたから」
「辰弥……」
 辰弥の言葉に声が詰まる。
 あんな行動をとったとしても、結局は人間として見てもらいたかったのか、と。
「お前は『人間』だよ」
 たとえ、周りが「化け物」だと言ったとしても。
 俺はお前を「人間」として見る、と鏡介は誓った。
 ――だから、能力ちからをこれ以上使うな。
 浮かんだ言葉を飲み込む。そんなことを言って辰弥を縛ってはいけない。
 そう考え、鏡介はもう一度辰弥の肩をポンと叩いた。
義体メカニックサイ・ドックのところへ行ってくる。誰かさんに右眼を潰されたからな」
「あ――」
 眼帯姿の鏡介にごめん、と辰弥が謝る。
「気にするな。あれくらいやり合わないとお互い気が済まなかっただろうからな」
 そう言い、鏡介は外に出かけていった。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 薄暗い室内。
 粘ついた水音の中に乾いた殴打音が時折響く。
「ノインに逃げられただけでなく、エルステまで去らせただと?」
 ぱしん、と乾いた音が響く。
 目の前の女の白い肌は何度も殴打され、紅く染まっていた。
 殴打された女は目の前の男を情欲に満ちた目で眺め、それからその視線を横に投げる。
 無造作に投げ捨てられた四肢はまるで切断したかのように見えるが、その断面に見えるのは筋肉ではなく金属でできた人工的なもの。表面部分をシリコンと人工皮膚で生身に近い見た目にした、義体。
 両手両足を義体にしていた女はそれを取り外されたことで、自分の意志で動くことはできなくなっていた。ただ、男にされるがままになっている。
「おまけにエルステは戦場でこちらを裏切って依頼主を殺しただと!?!?
 男が再び手を上げ、振り下ろす。
 女はそれを躱すこともできず、受け止める。
 あの時、エルステは「カタストロフ」を裏切った。
 誰よりも大切だと言っていたはずの相手を「ついてこないなら殺すしかない」とまで言い、それを拒否したら一人で去っていってしまった。
 なぜだ、と男は思う。
 あれだけ与えたのに、何が足りなかったのだ、と。
 ぱしん、と再び男の手が女を打つ。
「どれだけ『カタストロフ』の信用を失墜させたと思っている、私が上からなんと言われるか!」
 同時に抉られ、女が思わず声を上げる。
「お仕置きが足りないようだな」
 熱のこもった男の声に、女がもっと、と要求した。
 男の両手が女の細い首にかけられる。
 その首を締めあげ、男は荒い息を吐いた。
 女を締め上げているのに自分も締め上げられ、脳が灼かれそうになる。
「く――」
 男が自分の内にある欲望を女に叩きつける。
「この――役立たずが」
 辛うじてそう絞り出し、男は手を放し、馬乗りになっていた女から降りた。
 女が何度も咳き込み、呼吸を整えようとする。
「こうなってはなんとしてもノインだけは確保せねば。追跡を急がせろ!」
 男がジャケットの袖に腕を通し、足音荒く部屋を出ていく。
「……」
 取り残された女は身じろぎし、体勢を整えようとする。
 そこへ、後始末を任された数人の男が入ってきた。
「マジか、この状態でかよ」
「それがたまらないんだとよ」
 口々にそう言って女を見る男たちの目は下卑たものだった。
「あ――」
「まだ足りないんだろ? たっぷり可愛がってやるよ」
 そう言い、男たちは女に手を伸ばした。

 

to be continued……

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おまけ
ばにしんぐ☆ぽいんと り:ばーす 第8章
「ぽかぽか☆り:ばーす」

 

辰弥との帰宅途中に眼帯付けた鏡介

 


 

「Vanishing Point Re: Birth 第8章」のあとがきを
以下で楽しむ(有料)ことができます。
OFUSE  クロスフォリオ

 


 

この作品を読んだみなさんにお勧めの作品

 AWsの世界の物語は全て様々な分岐によって分かれた別世界か、全く同じ世界、つまり薄く繋がっています。
 もしAWsの世界に興味を持っていただけたなら、他の作品にも触れてみてください。そうすることでこの作品への理解もより深まるかもしれません。
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  虹の境界線を越えて
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