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Vanishing Point Re: Birth 第12

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前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

筋萎縮性側索硬化症ALSが進行してしまった日翔。
そんな「グリム・リーパー」に武陽都のアライアンスは補充要員を送ると言う。
補充要員として寄こされたのは秋葉原あきはばら 千歳ちとせ
そんな折、ALS治療薬開発成功のニュースが飛び込み、治験が開始されるという話に日翔を潜り込ませたく、辰弥と鏡介は奔走する。
その結果、どこかの巨大複合企業メガコープに治療薬の独占販売権を入手させ、その見返りで治験の席を得ることが最短だと判断する。
どのメガコープに取り入るかを考え、以前仕事をした実績もある「サイバボーン・テクノロジー」を選択する辰弥と鏡介。いくつかの依頼を受け、苦戦するものの辰弥のLEBとしての能力で切り抜ける四人。
不調の兆しを見せ、さらに千歳に「人間ではない」と知られてしまう辰弥。
それでも千歳はそんな辰弥を受け入れ、「カタストロフ」ならより詳しく検査できるかもしれないと誘う。
同時期、ALSが進行した日翔も限界を迎え、これ以上戦わせるわけにはいかないとインナースケルトンの出力を強制的に落とす。
そんなある日、辰弥の前に死んだと思われていたもう一体のLEB、「ノイン」が姿を現す。
取引を持ち掛けるノインに、辰弥は答えを出すことができないでいたが、そんな邂逅から暫く、「グリム・リーパー」の拠点が何者かに襲撃される。
撃退するものの、報復の危険性を鑑み、千歳に泊まっていけと指示した鏡介だが、辰弥が買い出しに行っている間に襲撃者を調査していると「エルステ観察レポート」なるものを発見。こんなものを書けるのは千歳しかいないと彼女を詰める。
帰宅し、二人の口論を目撃し狼狽える辰弥に、鏡介は辰弥の逆鱗に触れる言葉を吐いてしまい、辰弥は千歳を連れて家を飛び出してしまう。
行く当てもない辰弥に、千歳は「カタストロフに行こう」と誘い、辰弥はそれに応じる。
「カタストロフ」に加入し、検査を受ける辰弥。
その結果、テロメアが異常消耗していることが判明、寿命の限界に来ていると言われる。
自分に残された時間は僅か、せめて日翔が快復した姿は見たいと辰弥は願う。
そのタイミングで、「カタストロフ」は第二世代LEBを開発した永江ながえ あきらの拉致を計画、辰弥がそれを実行するが、その後のノイン捕獲作戦を実行した結果、ノインに晃が拉致されてしまう。
失意の中、「カタストロフ」は「榎田製薬」の防衛任務を受ける。
「サイバボーン・テクノロジー」の攻撃から守るため現地に赴く辰弥だったが、そこで「サイバボーン・テクノロジー」から依頼を受けた鏡介と遭遇する。
鏡介とぶつかり合う辰弥。だが、互いに互いを殺せなかった二人はそれぞれの思いをぶつけ、最終的に和解する。
「グリム・リーパー」に戻る辰弥、しかし千歳はそこについてこなかった。
帰宅後、鏡介と情報共有を行う辰弥。
現在の日翔の容態や辰弥の不調の原因などを話し合った二人は、
・「サイバボーン・テクノロジー」が治療薬の専売権を得たことで日翔は治験を受けられる
・晃は失踪しているが、辰弥もフリーになった今、見つけられれば治療が可能である
という点に気付き、「カタストロフ」よりも前に晃を確保することを決意する。
晃の隠れ家を見つけた辰弥たちだったが、仲間を引き連れた昴とも鉢合わせ、交戦する。
しかし昴が「プレアデス」と呼ぶ何かの攻撃を受け、辰弥が重傷を負ってしまう。
それでもチャンスを見つけて昴を攻撃した辰弥だったが、千歳が昴を庇って刺され、命を落としてしまう。
呆然自失となる辰弥。それを鏡介が叱咤し、戦意を取り戻させる。
「カタストロフ」を蹴散らした辰弥に鏡介が「サイバボーン・テクノロジー」から治験の手続きについて連絡を受けたと告げる。
「サイバボーン・テクノロジー」に連れられ、治験の説明を受ける二人。
しかし、治験薬はあくまでも「初期状態にしか効かない」と告げられる。
薬が効かない、という事実に失意のまま帰宅しようとする辰弥と鏡介。
しかし、そこへノインが「カタストロフ」の面々を引き連れて現れる。
再度、昴及びプレアデスと戦うことになる辰弥たち。しかし、プレアデスの攻撃に辰弥もノインも追い込まれていく。
そんな辰弥たちのピンチを救ったのは如月 アンジェと名乗る少女。
それでも自分の手で昴を殺すことを願った辰弥はノインの「一つになろ」という言葉に身を委ねる。

 

 
 

 

  第12章 「Re: Birth -再誕-」

 

 ――ただ、何も無い空間が広がっている。
 どこまでも白く、影一つなく、距離感も何も感じられない、ただただ白い空間。
 そこにぽつん、と辰弥は座り込んでいた。
「……耐えきれなかった、か」
 自分がそう何度もトランスできる身体でないことは理解していた。ノインと、トランスを応用した融合を提案された時点でそれに耐えられるかどうかも分からなかった。それに、融合に成功したとしても互いの意識が残るとも限らなかったしエルステ自分側に至ってはもう何もかもが限界だった。
 今ここに、この意識があるだけでも奇跡だろう。
 それとも、ここは死後の世界なのだろうか。人間とは違うからそんなものは存在しないと思っていたし、あったとしても千歳と同じ地獄には逝けないとは思っていたが、一応は死後の世界というものは存在したのか。
 何もないな、と辰弥は自嘲する。LEBの地獄が存在するとしても、他に死んだ仲間がいるとしたら第四号フィアテくらいだ。地獄を満員にするには、造られた同族は少なすぎる。
 だとしてもフィアテが迎えにきてくれてもいいのに、と思いつつ辰弥はその場に仰向けに寝そべった。ただただ白い天球が自分の位置感覚を狂わせてくる。
 ここにいてはいけない、という意識はあった。しかし、立ち上がって歩く気力はなく、今はただこうしていたい、という漠然とした欲求だけがあった。
 今まで振り返ることなく駆け抜けてきたんだ、今くらい何も考えずにぼんやりしていても罰は当たらないだろう、そんなことを考えながらも辰弥は今までのことを振り返る。
 培養槽の中で聞いた所沢博士の言葉。実験体としての日々、あの頃は分からなかったが特殊第四部隊トクヨンの介入。日翔や鏡介との出会い、トクヨンに拘束されたことやそれを危険を顧みず助けにきた二人のこと、そして武陽都に来てからのことを思い出し、ふっと笑う。
 生まれてから十年も経っていないのに本当に色々なことがあったな、と思い返しながら呟き、何もない空に視線を彷徨わせる。
「……千歳……」
 ふと、千歳の名を口にする。
 千歳に対する想いは今も変わらない。彼女の、自分に対する感情はなんとなく理解していたが、もうお互い顔を合わせることもないのだからこの感情だけは好きにしよう、と考えてしまう。
 初恋だったんだ、千歳には悪いけど俺はこの想いを抱えて逝く、そんなことを考えていると、辰弥の顔に影が差した。
「なにしてんの」
 自分しかいないと思っていた空間に混ざり込んだ異物ノイン
 真っ白な空間に、溶け込むように白い衣装を身に纏ったノインが辰弥の頭上に立ち、見下ろしている。
「……ノイン、」
 なんだ、君もいたのか、と辰弥が呟く。
「君はまだこんなところに来る状態じゃないだろ。さっさと宇都宮を殺してきてよ」
「なんか勘違いしてない?」
 腰に両手を当て、ノインが呆れたように辰弥に声をかける。
LEBノインたちにあの世なんてあると思ってんの?」
「じゃあここは」
「エルステの心の中。エルステの中、空っぽだね」
 何か含みのあるようなノインの回答に、辰弥がノインを見上げる。
「あきともきょうすけも、ちとせって女もエルステの中にはいないじゃない」
「それは――」
 ノインの指摘に、辰弥が言葉に詰まる。
 ノインの言葉が正しく、ここが自分の心を映した世界であるなら、確かにここは何もなさすぎる。
 いや、違う。何もない、ではない。むしろ――。
「……捨てた、のかもしれない。宇都宮を殺すために、思い出も何もかも――」
 昴を殺すために、あらゆる感情は、思い出は不要だと捨て去った
 人間としてでは昴を、プレアデスを殺せない。だから、捨てた。
 ノインと融合するのにノイズになるものは排除したい、と捨ててしまった。
 捨ててしまった、けれど。
「……もういいんだ。俺なんて、人間であってはいけない。兵器として、俺はあいつを殺さなきゃいけない」
「だったらさっさと戻ったら? 少なくともきょうすけは待ってるよ?」
「――」
 「きょうすけは待ってる」というノインの言葉に、辰弥の胸がつきん、と痛む。
 思い出も何もかも捨てたつもりだったが、日翔と鏡介という存在は辰弥の魂とも言える部分に確かに刻み込まれていた。
「ノインは主任のためにエルステといっしょにあいつを殺すって決めた。エルステだってあきとやきょうすけを助けるために殺せばいいじゃん。ちとせのためでもいいでしょ。なんで捨てる必要があるの」
「そう、教わったから」
 ぽつり、と辰弥が呟く。
「殺すのに、感情は不要だってずっと言われてたから」
「なんで」
 呆れたようなノインの声。
 そこで、辰弥も漸く気づいた。
 自分は未だに研究所の呪縛に囚われていたのだと。
 あの研究所は否定されている。トクヨンにも、日翔たちにも。
 だから、その思想にいつまでも囚われている必要はない。
 ノインの言葉に気づかされる。
 人を殺すのに、感情はあってもいいのだと。
 そもそも普段人間が人間を殺す時の感情はどうだ? 確かに「仕事」で殺人を行う人間は「無」かもしれないが、それを依頼する人間や自分の手で殺人を行った人間は必ずしもそうではないだろう。むしろ「怒り」や「憎しみ」、もしかすると「愛情」が含まれていたかもしれない。
 そう考えると、今回辰弥が昴を殺したい、という気持ちに含まれた感情は消し去る必要がない。千歳の思いを踏み躙り、自分たちを弄んだことに対する「怒り」は正当なものだ。ただ、辰弥が昴を殺すには相手があまりにも悪すぎただけだ。
 昴を殺したい、その一心で自分が自分であることを捨てたが、その感情までは捨てなくてもいい。ノインと融合した今なら自分の思いを晴らせるかもしれない。
 そこまで思ったのに、辰弥は起きあがろうとしなかった。
 ただノインを見上げ、諦めたような笑みを浮かべる。
「でもさ」
「なに」
「俺と君、融合したのに意識は別なんだ」
「いまさら?」
 さっきから話してたよね? とノインがさらに呆れたような声を上げる。
「なんで別々なんだろう」
「ノインに訊かないで」
 そんな会話を続けるが、辰弥の心は凪いだままだった。
 昴に対する怒りはあるはずなのに、今すぐ戻って殺したい、という思いが湧いてこない。
 ――そっか。
 ノインの顔を見ながら辰弥は納得する。
 ――もう、疲れたんだ、俺。
 日翔のことも、千歳の思いが踏み躙られたことも、まだ何も解決していない。
 だが、解決の糸口が見えた今、そこまで面倒を見なくてもいいか、という思いに辰弥は駆られていた。
 確かに自分の手で昴を殺したいとは願った。その願いをノインは叶えた。それなのに、もういいや、という思いが今の辰弥を支配していた。
 ――もう、休みたい。ノインがいるなら、後は任せてもいい。どうせ俺の肉体なんだから、ノインがやっても同じだ。
 だから後は任せた、君は帰るべき場所に帰ればいい。そんな思いを込めた目で辰弥がノインを見ると、ノインはぷぅ、と頬を膨らませた。
「い や だ」
「まだなにも言ってない」
 ここは辰弥の心象世界で、融合した辰弥とノインだからある程度の意識の共有はあるのだろう。ノインは頬を膨らませたまま言葉を続ける。
「いやだよ、めんどくさい。それに、この体すっごく大きくて重くて扱いづらい。エルステなら使いこなせるでしょ」
「何を根拠に」
 よくよく考えれば融合したのだから二人分合わせた肉体になっている。元が五歳児程度のノインからすれば急にここまで成長すると動きにくいのかもしれない。
「それに、エルステはうつのみやって奴を自分で殺したいんじゃないの? それを押し付けられるの、すっっっごく嫌なんだけど」
「そこまで」
 頑なに意識を肉体に戻すことを拒絶するノインに、辰弥が苦笑する。
 ノインはノインで「完璧になって主任の元に戻りたい」という思いがあるはずである。ここで肉体の主導権を得ればノインの目的は果たされるはずなのに。
「ノインはね、主任の側にいられればそれでいい。ここでエルステが戻ったところでノインは消えないし、どうせ主任もエルステの側にいてくれるだろうし」
「あー……」
 何故か辰弥は気づいてしまった。これも融合したが故の意識の共有だろうか。
「永江 晃にじゃまって言って嫌われたくないのか」
「エルステ!」
 なんでそんなこと言うの、とノインが地団駄を踏む。
「とにかく、エルステはとっとと戻って! ノインは疲れたから寝る!」
「俺だって疲れてるんだよ、寝させてくれても」
「いいから戻れー!」
 げし、とノインが辰弥の頭を蹴る。
 痛いなぁ、と、そこで辰弥は漸く体を起こした。
「今のエルステならぷれあですって奴と戦えると思う。あとはエルステの気持ち次第」
 相変わらず真っ白な風景に視線を巡らせながらノインが言う。
「分かってる」
 ゆっくりと立ち上がった辰弥が小さく頷く。
「あきとを助けるんでしょ?」
「うん」
 ――日翔は死なせない。必ず、生体義体を届ける。
 影すら映らなかった辰弥の足元、いや、地面全体に日翔との記憶が写真の束を落としたかのように広がる。
「きょうすけを心配させたくないでしょ」
「うん」
 ――当たり前の日常を取り戻す。日翔と、鏡介と、三人で生きたあの日々を。
 日翔の映像が広がった地面に鏡介との記憶が混ざる。
「ちとせのかたき、取りたいんでしょ」
「うん」
 ――その願いは、傲慢かもしれないけど。俺は俺のために千歳の仇を取りたい。
 その瞬間、真っ白だった辰弥の周囲にが戻った。
 見慣れた街の雑踏、そこに生きる身近な人々。日翔に保護されてから積み上げられた、思い出の世界。
 それは辰弥が望んだ「当たり前」の幸せ。他の人間から見ればちっぽけなものかもしれないが、辰弥にとってはとてもとても大きくて、何にも変え難いもの。
 そうだ、と辰弥は思い出した。
 俺は、俺が守りたいと思った皆のために戦うと決めたんだった、と。
 それは日翔に保護されて間もなく、日翔たちが暗殺者だと知った時に誓ったこと。
 日翔を助けるために飛び込み、力を使った。
 そんなことをしなければ御神楽 久遠トクヨンの狂気が理想とした「一般人」になれたかもしれないのに、辰弥はその道を捨てた。
 それは一般人として生きるより、日翔の、そして鏡介の側に立ちたいと思ったからだ。
 その誓いを思い出し、辰弥はぐるりと周りを見た。
 自分の記憶が構築した思い出の世界自分の心。空っぽだった世界に、日翔と鏡介は四年という時間をかけて色を与え、思い出を与え、今の世界を作り出すための何もかもを与えてくれた。そんなかけがえのない世界を、昴を殺すためだけに捨てるなんて馬鹿げている。
 もしかしたら、ノインと融合して生まれ変わった自分を日翔も鏡介も受け入れてくれないかもしれないけれど、二人の思いを受けて自分の心が作ったこの世界は本物だ。
 心の中に広がった街で、辰弥は、千歳が立ってこちらを見ていることに気づく。
「千歳――」
 分かっている。これは自分が夢見た幻影なのだと。自分が理想とする、思い出に補正された千歳だと。
 俺が殺した千歳は俺のことなんて本当は好きでなんかなかったけれど。
 でも、それでいい、と辰弥はようやく受け入れることができた。千歳は俺のことを嫌っていたかもしれない。でも、だからと言って千歳のことが好きな自分の気持ちを殺す必要はない。千歳を殺したのは自分だから、その罪を、その気持ちを背負って生きていく。
 千歳の姿が、街の雑踏に消えていく。
 それを見送り、辰弥はうん、と頷いた。
 この世界を守るために、昴を殺す。
 自然と、辰弥の足が一歩を踏み出していた。
「エルステ、」
 辰弥の背にノインが声をかける。
「負けたら、許さないから」
「うん、負けない」
 もう一歩、辰弥が足を踏み出す。
 その辰弥の目の前にひらり、と何か薄紫の何かが降ってくる。
「――、」
 手を伸ばして受け止めると、それは薄紫色の花弁。花の名前は――紫苑シオンと言ったか。
 そういえば、ノインとの戦いが終わり、帰宅した後に日翔が言っていたことを思い出す。
 「こいつ、紫苑と竜胆リンドウの花束手向けてたぞ」という日翔の言葉に、「そこまでしなくてよかったのに」と辰弥は苦笑していた。
 その花が、今頃になってどうして。
 花弁はひらり、ひらりと辰弥の目の前に落ちてくる。
 それはまるで、辰弥に道を指し示すかのように。
 ちら、と辰弥が振り返ってノインを見ると、ノインは小さく頷いて降りしきる花弁と同じ方向を指差す。
「帰り道はそっち。エルステ、早く戻ったほうがいいよ。だって――」
 辰弥はノインの言葉を最後まで聞いていなかった。
 一歩ずつ踏み出す足がどんどん早足となり、最終的には駆け足になる。
 ――待ってる人がいるんだから。
 最後まで聞かずとも分かる。ノインはそう言ったに違いない。
 そうだ、俺を待ってくれる人はいる。今の俺を見て受け入れてくれるかどうかは今は関係ない。今はただ現実に戻って鏡介と晃を守り抜き、日翔を助ける。
「――!」
 辰弥の口が誰かの名を呼ぶ。
 そのまま辰弥は光に包まれ――。

 

「宇都宮 昴――いや、五月女 昴が本名か。あんたは――俺が、殺す」
 突如現れた男の宣言に、昴は身震いを隠すことができなかった。
 こいつは危険だ、と本能が警鐘を鳴らしている。
 辰弥とノインの身に何かが起こったのは理解できた。LEB同士で繭を作ったから昴はプレアデスに指示を出してその繭を破壊しようとした。
 繭は破壊できたのか?
 薄れた土煙の向こうにあるはずの繭を見る。
 繭は叩き潰されていた――空っぽの状態で。
 羽化していたのか、と昴は歯噛みする。
 それなら、あの男は、やはり――。
「プレアデス! あいつを殺せ!」
 咄嗟に昴が叫ぶ。その叫びにアンジェも反応してプレアデスに斬りかかるが、プレアデスは身を翻してそれを回避、男に迫る。
 アンジェの視界に、プレアデスが男に向けて剣を振り下ろすのが映る――と、その瞬間、男の右腕が刃に変化し、プレアデスの剣を受け止める。
『な――!』
 その場にいた、男以外の全員の声が重なる。
「トランス!?!?
 真っ先に次の声を上げたのは鏡介だった。
「LEBか!?!?
 この世界に存在する生物で、人の形をして、その肉体を別物質にトランスさせるなど、LEB以外にあり得ない。そう考えると、突然現れたこの男は――LEB。
 新たな個体か、と声を上げる鏡介に、晃が違う、と否定する。
「トランスしたということは第二世代のはずだが、私はあの個体は造っていない。『カタストロフ』で開発されていたなら話は別だが、あそこの施設でLEBはまだ作られていなかったはずだ。それに――」
 一息に捲し立てる晃の言葉に嘘は含まれていないだろう。
 「カタストロフ」がLEBの量産を画策していたのは事実だ。だが、晃の言葉が正しければ新規の個体は作られていない。そして晃自身も造り上げたLEBの最終ナンバーは「ノイン」だと明言している。
 だとすると、こいつは――。
 まさか、という言葉が鏡介の口から漏れる。
 辰弥とノインが混ざり合って作った繭は空だった。それと同時に現れたLEBの男。そう考えると答えは一つしかない。
「――辰弥……?」
 そんなことが可能なのか? と鏡介が呟く。
 LEB同士、融合して新しい個体になるとは、にわかに信じられない。
 しかし、LEBはアカシアにとってまだ未知同然の生命体なのである。トランスができる個体同士でなら不可能でないと言われて否定することはできない。
「エルステとノインが融合した――。確かに、トランスで同一の物体に変化すれば混ざり合うことも可能か! LEBにこんな可能性があったとは、是非とも研究したい!」
 目を輝かせて男を眺める晃に、鏡介が咄嗟に晃の襟首を掴む。
 放置していたら確実に飛び出す、今ここで飛び出して晃の身に何かあってはいけない、と咄嗟にとった行動だが、晃はぶぅ、と鏡介に視線を投げる。
「こんな危ない状況で飛び出すほど私も馬鹿じゃないよ。とりあえず、あれがエルステ――いや、ノインかな? どっちでもいいや、とにかく敵じゃないはずだ」
 それはそうだろう。「カタストロフ」で造られたLEBなら昴に対して殺害宣言をするはずがない。だからと言って自分たちを攻撃しない、とも限らないが相手がノイン辰弥であるならそれはないと断言してもいいだろう。
 ちら、と男が鏡介を見る。
「……ごめん」
 たった一言。その謝罪に、鏡介はそれ以上言葉が出せなくなる。
 あれは辰弥だ。自分を捨てて、それでも戦うつもりだという意思にどうして、という言葉が喉元まで込み上げてくるが、その言葉は口にはしない。
 辰弥は昴を本気で殺したいと思っている。そうしなければ誰も助けられないから、と。そうしなければ千歳に顔向けできない、と。
 しかし、いくら自分を捨ててノインと融合したとしてもトランスの問題はどうなったのだ、という疑問が残る。辰弥に残されたトランスの回数はもうほとんどなかったはずだ。それとも、その回数全てを使い切ってでも昴を殺すつもりなのか。
 プレアデスの周囲に蒼白い炎が展開され、男――辰弥に向けて放たれる。
「その程度!」
 辰弥の手が飛来した炎を全て叩き落とす。手が炎上しないところを見ると、耐火素材にトランスさせたのだろう。
 それでもなお、次の炎を撃ち出そうとするプレアデスに、アンジェが斬りかかった。
「大丈夫ですか!?!?
 アンジェとしても今の状況は理解できていなかったが、この世界にプレアデスを視認できる人間がいるとは思えない。今のは視認できる炎だったから対応できただけで、剣で攻撃されれば凌ぎ切れるはずがない。
 しかし、アンジェがプレアデスを攻撃すると、辰弥はそれに合わせて刃にトランスさせた腕で攻撃を繰り出してくる。
「俺は大丈夫。完全に視えるわけじゃないけど、どこにいて何をしようとしているかは分かる」
 辰弥がプレアデスの剣を弾き、蹴りを叩き込む。
 蹴りが食い込んだ感触を覚えるが、それでプレアデスが吹き飛んだ手応えもなく、やはりだめか、とアンジェと共に一歩下がって身構える。
「流石に一対二ではこちらが不利か――クソッ」
 顔を歪ませて昴が唸る。
 一対二であってもそれがエルステと鏡介ならまだ勝ち目はあっただろう、という認識が昴にはあった。しかし、相手が地球からわざわざ自分を追ってきた討魔師であれば話は別だ。
 アンジェには確実にプレアデスが視えている。エルステもはっきりと視えているわけではないが動向を認識している。
 つい先程まではプレアデスに対して手も足も出なかったのに、ノインと融合してから、その超感覚を引き継いだかのようにプレアデスの動きに対応している。
 いや、そもそもあれは本当にエルステなのか? と昴は考えた。
 状況を鑑みてあれはどう考えてもエルステでしかないのだが、別の個体が今ここに駆けつけることは本当にないのだろうか。例えば、特殊第四部隊トクヨンで飼われているという他の個体など――。
 そう、思考が脳裏を駆け巡るが今はそんなことを考えている場合ではない。
 このままではプレアデスも押し切られる、そうなれば自分も殺される、よくて逮捕されるだけだ。そうなる前に撤退する方が賢明だ、と昴はそろり、と後ずさった。
「!」
 後ずさった昴を辰弥が視認し、アンジェを見る。
「そいつ、任せられる?」
 辰弥の言葉に、アンジェもすぐに状況を理解し小さく頷く。
「大丈夫です、お任せください」
 アンジェの返答に、それなら、と辰弥が地を蹴った。
 すぐにプレアデスが辰弥を攻撃しようとするが、辰弥の跳躍はプレアデスの攻撃を容易く回避し、そのままビルの壁を蹴って上空から昴に迫る。
「宇都宮!」
 逃がさない、と辰弥が昴の前に立ち塞がる。
「チィ!」
 咄嗟に昴が手にしたMX8を発砲するが、辰弥はそれを軽く身をひねることで回避する。
「宇都宮、あんたは俺が殺すと言ったはずだ!」
 辰弥の手にP87が生成され、その銃口が昴に向けられる。
「やはり、君はエルステ……」
「そうだよ」
 昴の言葉を、辰弥があっさりと肯定した。
「俺はエルステでありノイン。俺が人格の主導権を持ってるから認識としてはエルステで間違ってないよ」
 そう言いながら、辰弥が発砲。それを見切った昴が回避し、辰弥を見る。
「本当に私を殺す気ですか。私を殺せば、君はもう誰も助けられなくなる」
 だから永江博士をこちらに寄越しなさい、と昴が辰弥に片手を差し出す。
 だが、辰弥はそれを射撃で拒絶した。
「そんな提案、いくらやっても無駄だよ。永江 晃はもうこちらにいるし、機材だって作ってもらってる。『カタストロフ』の潤沢な資金で綺麗な状態の調整槽を作ってもらえるという提案だったら普通に蹴るよ。俺はどんな状態であれ調整槽があればそれでいい。状態なんて気にしない」
「だったら、秋葉原の墓の位置を教えますが? 墓参りくらいしたいでしょう?」
 苦し紛れに、昴が提案する。
 先程の辰弥はカプセルを見せただけで揺らいだ。墓の位置という餌はどの餌よりも美味であるはず。
 しかし、辰弥はそれすら首を振って拒絶する。
「いいよそんなもの。千歳は俺に墓参りされたくないだろうし、千歳を殺したのは俺の罪だ。俺がその気持ちを無視して墓参りしたいと思ったら自分で探し出すよ――地の果てでも、見つけ出してみせる」
「な――」
 辰弥の言葉に、昴がそんな、と声を上げる。
 ノインとの融合は辰弥の人格までも変えたというのか。融合前の辰弥なら千歳の墓の場所という餌に食いついたはずだ。それを拒絶するとは、何が辰弥を変えたというのだ。
「……正直言って、俺は千歳のことはまだ好きだよ。だけど、今はもう分かってる。千歳は実は俺のこと全然好きじゃなかったってことくらい。あんたに言われて俺に気があるふりをして、それを最期まで演じ切った。だからこそ、俺はあんたを殺さなきゃいけない。千歳があんたのことを好きだったかどうかまでは知らないけど、少なくともあんたは千歳の『宇都宮さんを信じたい』という気持ちを踏み躙った。その点だけは、いくら千歳に嫌がられたとしても俺はあんたを許せない」
 淡々と語る辰弥。
 その思考に至るまでにどれだけの逡巡があったのか、と昴は一瞬考えたが、そんなものはどうでもいい。エルステの気持ちなど自分には関係ない、と振り切る。
「だったらあの世で秋葉原に訊いてみますか? 『君は本当は俺のことが嫌いだった?』と?」
 そう言いながら、昴がMX8をフルオートで発射する。
 それを腕を防弾盾バリスティックシールドにトランスすることで受け流し、辰弥はP87を投げ捨て、ナイフを生成して昴に突進した。
「あれだけ渋っていたトランスを連発して! 死なば諸共のつもりか!」
 MX8でナイフを受け止め、昴が辰弥を睨みつける。
 融合前の辰弥はギリギリまでトランスを渋っていた。どうしても使わざるを得ない状況になるまでトランスは行わなかった。
 それなのに、融合後はトランスを惜しみなく使っている。先程のフルオートもLEBの身体能力なら三角跳びでもすれば簡単に回避できる。
 それをせず、トランスで防御したのはあくまでも昴に隙を見せず、自分の攻撃チャンスを作るため。
 必ず昴を殺す、その意思が辰弥の全身から滲み出ていた。
 刺し違えるつもりか、と昴が考える。自分の生存を第一にしていたら昴は殺せない、それならその後を一切考えずに全力を出すつもりで辰弥はトランスをしているのか、と判断する。
 ナイフを握る辰弥の手がトランスし、横から生えた刃が首筋に迫り、昴は全力で辰弥を突き飛ばして後方に跳んだ。
 即座にMX8を連射し、辰弥を牽制する。
 辰弥も後ろに跳び、二人の距離が開く。
「死なば諸共なんて馬鹿なこと、俺がするわけないじゃん。あんたと心中なんて真っ平ごめんだ」
 後ろに跳びながら、先程投げ捨てたP87を拾った辰弥が銃口を昴に向ける。
「トランスの制限気にしてる? このまま俺にトランスさせたら勝ち目あると思ってる?」
 挑発するように辰弥が言う。
「もし、トランスの制限を期待してるなら諦めた方がいいよ。ノインと融合して、俺に残された制限はリセットされた。まぁ、俺の方が限界だったから回数無制限ってわけじゃないけど、それでもあんたが想定してる程度じゃ制限来ないよ」
「く――っ」
 昴が歯軋りする。
 うまく攻撃し続ければ自滅すると思っていたが、そうはならないということか。
 それならますますこの場から撤退しなければいけない。
 あの国に復讐するためにこの世界で戦力を増強しようと思っていたのに、このままではそれどころか殺されてしまう。
 プレアデスを利用してこの場を切り抜けて、生き延びて、次の手を考えねば。
「プレアデス!」
 昴が叫ぶ。
 アンジェと斬り合っていたプレアデスが身を翻し、辰弥に迫る。
 その攻撃を、腕をトランスすることで受け流し、辰弥も反撃に出た。
 右腕でプレアデスの剣を受け流しつつ、左腕も刃にトランスさせて斬り付ける。さらに腰まで伸びた髪を棘にしてプレアデスを貫こうとする。
 刃が、棘がプレアデスを貫くが、プレアデスには痛覚がないのか、受けたダメージをものともせず辰弥に向けて反撃してくる。
「チッ、やっぱり俺の攻撃じゃ決定打にならないか!」
 視界の隅で、プレアデスの攻撃対象から外れたアンジェが昴に迫ろうとしているのを見ながら辰弥が唸る。
 アンジェの最終的な目的も昴であるということは分かっている。辰弥とは違い、逮捕を目的としているようだから拘束した瞬間に横取りすればいい、と思いつつ辰弥はプレアデスの攻撃を受け流し、反撃を試みる。
 少なくとも今自分がプレアデスの動きを封じればアンジェは昴を逮捕できる、そう期待したがアンジェはアンジェで苦戦を強いられているようだった。
 昴が素早くマガジンを入れ替えたMX8をアンジェに連射する。
 アンジェは手持ちの武器が刀だけということもあってか、連射された銃弾に対処できず、足止めされている。少しでも近寄ろうとすれば斉射されたMX8の銃弾に蜂の巣にされてしまうだろう。
 埒が開かない、と辰弥はプレアデスにはあまり意味はないだろうと理解しつつも周囲に棘を生成し、プレアデスを刺しつつ檻を作り、身を翻す。
 MX8で足止めされるアンジェを追い抜き、昴に迫ろうとする。
「プレアデス、何やってるんですか! だったら水城と永江博士を殺せ!」
 アンジェに向けた銃口を辰弥にも向けながら昴が叫ぶ。
 辰弥の感覚が、プレアデスが檻をすり抜けたことを伝えてくる。
「――っ!」
 咄嗟に辰弥が振り返るが、はっきり視えるわけではない辰弥には今プレアデスがどの位置にいて、どのように鏡介たちを攻撃しようとしているのかは分からない。
 思わずプレアデスの位置を確認しようとして動きを止めた辰弥に、アンジェは咄嗟に身を翻した。
 この場に無関係ではないが戦えないメンバーがいるのは把握している。そのメンバーを見殺しにするほどアンジェは冷酷な人間ではない。救える命があるのなら救わなければ、とアンジェは全力でプレアデスに追いすがり、鏡介達に向けて振り下ろされた剣を受け止める。
「鏡介!」
 辰弥が鏡介の名を叫ぶ。
「っ……」
 鏡介が息を呑む。自分の目の前で、アンジェがプレアデスの不可視の攻撃を受け止め、弾いたことで庇われたことに気付く。
「助かった!」
 鏡介がアンジェに声をかけると、アンジェも頷いてみせる。
「鏡介は永江 晃を連れて離脱して! 君たちがいるとプレアデスはそっちを攻撃する!」
 辰弥の言葉に、鏡介も分かった、と頷く。
 今の自分たちはプレアデスが視えない以上足手まといにしかならない。プレアデスが視えたとしても辰弥やアンジェほど戦闘能力のない自分たちでは対処のしようがなく、辰弥の言う通り離脱した方がいい。
 鏡介が晃の腕を掴み、「こっちだ」と誘導する。
「させません! プレアデス!」
 昴が即座にプレアデスに指示を出すが、それはアンジェがすぐさま妨害し、プレアデスを先へと進ませない。
 辰弥もアンジェの援護に入ろうとするが、その足元を昴のMX8の銃弾が穿った。
「邪魔をするな!」
 辰弥がP87を昴に向けて撃つも、その筋肉のわずかな動きで射線を把握され、回避されてしまう。
「っそ!」
 辰弥が声を上げる。
「所詮、ヒトの身体を模したものか」
 だとすれば射撃くらい回避できます、と昴が余裕たっぷりに言う。
 銃口ではなくて筋肉の動きを見て射線を把握し、回避する。銃弾飛び交う死線を潜り抜けてきた人間には当たり前の話だ。
 LEBもまた人体を模して造られたものであるならその動きは同じ。銃弾くらいなら避けられる。
「そう――それなら!」
 辰弥が再度P87の銃口を昴に向ける。
「何度やっても同じことを!」
 辰弥が引鉄を引く直前、その筋肉の動きから昴が身体を捻る。
 放たれた銃弾は、その昴の読み通り、昴の身体から逸れるはず――だった。
 しかし。
「っ!?!?
 左腕に焼けつくような痛みが走り、昴が右手で左腕を押さえる。
 ぬるりとした感触に、出血している、と判断する。
「エルステ!」
 辰弥を睨み、昴が叫んだ。
「貴様……何をした!」
「何をした、って、関節増やして筋肉の動きを変えただけだけど」
 P87を握る辰弥の右腕がうねり、元の位置に戻る。
「あんた、LEBを何だと思ってんの。人間の常識は当てはまらないって」
「く――!」
 昴の奥歯がきり、と鳴る。
 確かに、辰弥は人間ではないし第一世代でありながら第二世代のトランス能力を身に着けたレアケースでもある。さらにノインと融合してそのトランスも自在にできるというのなら、人間の常識など当てはめる方がおかしい。
 しかし、ここまで人間の常識からかけ離れた攻撃をされると、昴はもう対処のしようがない。頼みの綱のプレアデスはあの如月 アンジェといかいう討魔師で足止めされているし、エルステの攻撃でも既にそれなりのダメージを受けているようだ。このままでは遅かれ早かれ押し切られる。なんとかして今この場を離脱し、力を蓄え直さなければ。
 その一方で、辰弥も早く決着を付けたいという焦りが生じていた。
 自分の限界は一旦リセットされた。第二世代ノインの「テロメアが損傷しにくい」という特性を引き継いだからトランスによって自分の寿命が縮まることは今は考えなくていい。
 しかし、それよりも辰弥の思考に引っかかっているのは日翔のことだった。日翔も今日明日死ぬような状況ではないが、それでも生体義体の製作期間がどれだけかかるか分からないから早く決着を付けてしまいたい。鏡介には晃を連れて離脱するよう指示をしたから真っすぐ日翔のもとに向かってくれているだろうが、この戦闘を長引かせた場合、または昴が逃げ出した場合、「カタストロフ」が辰弥に対するカウンターとして日翔たち三人を襲うことも十分に考えられる。
 今は昴も部下に連絡を取る余裕がないのか増援が来る気配はない。
 決着を付けるなら今しかない。そう、辰弥は考えていた。
「プレアデス!」
 昴が叫ぶ。
 アンジェと斬り合うプレアデスの周りに蒼白い炎が浮かび上がる。
「! させません!」
 アンジェがその炎の射出を食い止めようとする。狙いが自分でなく、辰弥であることも把握している。
近接距離で戦っているのに炎の攻撃は大振りとなる。無駄撃ちになることを考えれば昴と対峙している辰弥を狙うのは当然の思考である。
 辰弥が、プレアデスが放った炎を昴から離れることで回避する。
 大きく後ろに跳んでアンジェの背後に背中合わせで立ち、辰弥はアンジェにどうする、と声をかけた。
「俺じゃプレアデスを倒せない。あんたじゃ宇都宮を殺せない、どうする?」
 昴に対抗できるのは自分しかいないというのは理解している。同時に、プレアデスに対抗できるのはアンジェしかいないことも分かっている。今はそれぞれ対応した敵に対峙しているが、この状況はすでに何度も覆されている。プレアデスが昴の指示に従って攻撃をすることで辰弥がプレアデスを、アンジェが昴と対峙する状況に何度も持ち込まれてきていた。
「そうですね、確かに私はプレアデスがはっきり視えますし、貴方も五月女 スバルに対しては攻撃手段があるようですし」
 プレアデスが二人に襲いかかる。辰弥とアンジェがプレアデスの攻撃を受け止める。
 辰弥がトランスを駆使して動きを止めたところでアンジェの刀がプレアデスの片腕を切断する。
「でも、プレアデスが邪魔で埒が明かない!」
「それはそうですね!」
 返す刀でプレアデスの攻撃を受け止め、アンジェが叫ぶ。
「プレアデスは五月女 スバルから魔力供給を受けて活動しています! 五月女 スバルが生きている限り攻撃しても決定打になりません!」
 魔力、という言葉に辰弥が眉を顰める。
 魔力とは突然オカルトな響きだが、プレアデスという謎の存在について説明するにはオカルトくらいでちょうどいいのかもしれない。
 そう考えると、何故か特定の手順を踏まないと入れない、上町府の駅の地下にあった支部の入口も何かしらのオカルトで隠されていたというのだろうか。
 だが、今それを考えている場合ではない。
「それなら――」
 辰弥が逃げようとする昴に視線を投げる。
「どうせ俺の目的は宇都宮を殺すことだ、それでプレアデスも消えるなら!」
「もう、逮捕とか悠長なことを言っている場合ではありませんね!」
 アンジェも昴に視線を投げ、頷く。
「宇都宮を――」「五月女 スバルを――」
 二人が同時に地を蹴り、走り出そうとした昴に向かって駆け出した。
「殺す!」「殺します!」
 辰弥の手からP87が離れ、その代わりのように背丈ほどもある大鎌が生成される。
「宇都宮ァ!」
 大鎌を振りかぶり、辰弥が叫ぶ。
「プレアデス!」
 昴も負けじとプレアデスの名を呼ぶ。
 プレアデスが辰弥とアンジェの前に転移し、二人の前に蒼白い炎の弾を大量に展開する。
「させるか!」
 辰弥が大鎌を一閃、二人に飛来する炎の弾を斬り捨て、さらに前進した。
 それでもなおプレアデスが全身を使って二人を足止めしようとするが、今度はそれをアンジェが両断する。
 昴からの魔力供給を受け、両断された身体を接合するプレアデスの両脇をすり抜け、二人は昴に大鎌を、刀を振り下ろした。
「くそ――」
 それ以上の言葉は昴の口からは零れなかった。
 ぼとり、と袈裟懸けに両断された上半身が地面に落ち、次いで下半身が崩れ落ちる。
 ころ、と転がり辰弥を見上げた昴の眼は憎悪に満ちていたが、そこに光は宿っていない。
 辰弥とアンジェの背後で、昴という魔力供給源を失ったプレアデスが霧散していく。
「――、」
 無表情で首だけとなった昴を一瞥し、辰弥は大鎌を振って刃に付いた血を払った。
 アンジェも刀を一振りして血を払い、辰弥を見る。
 そのアンジェに、辰弥は無言で大鎌を突き付けた。
「――やる気ですか」
 刀を構えることなく、アンジェが口を開く。
 それに対し、辰弥は数秒、大鎌をアンジェに向けたままでいたがすぐに大鎌をくるくると回し、アンジェから刃を離す。
「――いや、やめとく。勝てないとかじゃなくて、あんたに助けてもらわなきゃ俺は死んでた。鏡介も庇ってもらってるし、恩人を殺すほど俺も恩知らずな人間じゃないよ」
 アンジェには興味などない、とでも言うかのように辰弥が昴の死体の傍らに膝をつく。
 昴のスーツのポケットからこぼれた、銀色のカプセルが付いたチェーン。
 それを拾い上げ、辰弥は蓋の部分を捻り、開封した。
「……」
 やっぱり、という呟きが辰弥の口から洩れる。
 カプセルは空だった。
 「秋葉原の遺骨と遺灰を入れている」という昴の言葉は嘘だった。
 カプセルを見せられた瞬間とは違い、冷静になった今なら「どうせそういうことだろうと思った」と言える。昴が馬鹿正直に真っ当な餌を付けた釣り針を垂らすはずもない。
 苦し紛れに言った「秋葉原の墓の位置を教える」もどうせ嘘だったのだろう、でも墓は建ててもらえたんだろうか、ちゃんと弔ってもらえたのだろうか、という思いだけが辰弥の胸を過る。
 辰弥が空のカプセルを昴のポケットに戻す。
「……いいのですか?」
 刀を鞘に納め、アンジェが訊ねる。
「俺が持ってても意味ないよ。それに、千歳も俺に形見なんて持っていてもらいたくないだろうし」
 立ち上がり、辰弥はアンジェに視線を投げた。
「俺の目的は達成された。あんたも、宇都宮――五月女が死んだから帰るんだろ? 地球って場所に」
 淡々とした辰弥の言葉に、アンジェが苦笑して頷く。
「そうですね。本音を言うなら逮捕したかったのですが、ここまで抵抗するなら霊害として斬るだけでしたし」
 まさか世界を渡ってまで日本転覆を謀るとは思っていませんでしたが、とアンジェが言うと、辰弥は「そう、」とだけ言ってアンジェに背を向けた。
「宇都宮はそういう奴だったよ。いつでも、真っ当な人間には思いもつかないようなことを企んでた」
 そんなことを言いながら、辰弥が用はもう済んだと歩き始める。
 その背に、アンジェも「でしょうね」と頷いた。
「もう会うことはないでしょうが――ありがとうございました」
 互いに背を向け、それぞれの方向に歩みを進めていく。
 死体だけが残されたその路地裏に、餌を求めた鴉の群れが舞い降りてきた。

 

 路地裏を出ると、喧騒と共に人々の波に一気に飲み込まれる。
 人々に紛れて歩き始めたところで、辰弥は漸く自分の状態をはっきりと認識した。
 以前なら人混みに紛れれば小柄故に人々に溶け込むことができた。
 だが、今は人々の頭が見えるレベルまで成長している。この視線の高さを考えれば、鏡介と同じくらいの背丈にはなっているか。
「思ってた以上に大きくなってたんだ」
 ぽつり、と辰弥が呟くと、その視界、足元にノインの姿がふっと現れる。
『だから言ったでしょ。大きくて重くて扱いづらいって』
 膨れっ面で辰弥の足を蹴るノインに、辰弥はなんとなく理解する。
 このノインは自分にだけ視える幻覚だ。声が聞こえるのもおそらく自分だけ。
 「寝る」とは言っていたが、こうやって姿を見せたということは目が覚めたというのだろうか。
『周りがうるさい。早く帰ってよ』
「……」
 そう、ノインに言われつつも、辰弥は家に向かって歩こうとしない。
 見慣れない景色に戸惑いながら、辰弥は歩みを進めていた――あてもなく。
 帰らなければいけない、とは思う。しかし、帰っていいのか、という思いもある。
 あの時は昴を殺すためだけに自分を捨てる決断をした。千歳の仇を取る、そのためには何だってする、自分が自分でなくなってもいい、その思いだけで自分の心ですら捨てようとした。それはノインが「捨てる必要はない」と教えてくれたが。
 それでも、昴を殺すにはノインと融合するしかなかった。その結果、エルステとしての自我は残ったが、外見は大きく変わった。
 それを日翔と鏡介は受け入れてくれるだろうか。
 二人の目の前でトランスを見せた時とは話が違う。あの時はただ眼の色を変えただけだったが、今は外見そのものが変わっている。以前の姿にトランスしようとしてもそこはノインが混ざった影響なのか、戻すことができない。
 そもそも融合したとはいえエルステである部分とノインである部分が完全に溶け合ったわけではなく、流動的なモザイク状になっている。以前は身体の全てを別物質に変えることが自在にできたが、今はノインと息を合わせないとそれは無理だろう。
 この姿で生きることに抵抗はなかったが、それでも大切なあの二人に拒絶されることが怖い。拒絶されれば一人で生きていくという覚悟はできていた。それはもう自分がLEBであることを知られ、さらにトランス能力を身につけたことを開示した時点で心が決まっている。
 それでも、あの二人なら今の俺でも受け入れてくれる、という期待が心の隅に引っかかっていた。
 いきなり別人も同然の姿になって、そこに別の個体も混ざり込んで、今までと同じなんてことは虫が良すぎる。普通の人間なら受け入れることなんてできないだろう。
 千歳を、いや、自分の思いを踏み躙った昴を殺した、これで何もかも終わった、という虚無感の中、辰弥はぼんやりと街を歩いていた。
『こわいの?』
 家とは全く違う方向に向かう辰弥について歩きながらノインが尋ねる。
「怖い、か……。そうだね、怖いのかもしれない」
 日翔と鏡介に受け入れてもらえないかもしれない、という思いが辰弥の足を自宅から遠ざける。かといって、辰弥には行くあてなどどこにもない。
『エルステもゆーじゅーふだんなんだね。ノインなら真っ先に主任のところに行くよ』
「だったら今すぐ俺から主導権を奪って永江 晃のところに行けばいい」
 目的は全て果たせたのだから、自分なんてどうなってもいい、と辰弥がノインに言う。
 同時に、その言葉には「できるものならやってみろ」という煽りも含まれていた。
『無理だよ。エルステの方が割合多いし、さっきも出ようとしてみたけど身体がエルステの意識を受け入れてる。ノインはこれが精一杯』
 だろうね、と辰弥が歩きながら呟く。
 乖離性人格障害であってもメインとなる人格は存在する。融合の過程で、辰弥の人格はメイン人格として新しい肉体に定着してしまった。
 だから、ノインが表に出て何かをするということはよほどのことがない限り無理だろう。辰弥が同意するか、それとも完全に意識を失うか、そういったことでもない限り。
『うーん、やっぱりノインが表に出ればよかったのかな』
 そうしたら主任のところに行けたのに、とぼやくノインに辰弥は無言で足を進めた。
 ふらふらと彷徨い、通りを忙しなく歩く人々をぼんやりと眺め、そして誰も自分に注意を払わないことに気づく。
 ――誰も、俺のことを気にかけたりしない。
 そう思い、苦笑する。
 自分だって他人に何の興味も持っていなかったじゃないか、と。
 日翔と、鏡介と、アライアンスで関わった面々と、そして千歳。
 辰弥の世界はそれだけで完結していた。その他大勢なんて自分には関係ない。
 それなら、あの自分の心象世界で見た雑踏は何だったのだ、と。
 顔も名前も知らない人々が歩く雑踏。自分に関係ないというのなら、あの世界には日翔たちしかいないはずだ。
 それなのに、辰弥の心の中には大勢の人間がいた。
 何故だろう、と考え、すぐに気づく。
 ――自分には関係ないと思っても、どこかで繋がっているから。
 その中には、千歳のように辰弥のことなんて好きではない、という人間もいるだろう。だが、それも含めて、どこかで繋がっている。
 興味なんて湧かなかったとしても、無関係ではない。
 人の繋がりとはそういうものだ。
 だから、日翔と鏡介が拒絶したとしても、その繋がりが絶たれるわけではない。辰弥が望むなら、心の中で繋がり続ける。
 それでいいだろう、と辰弥の心が囁く。
 それに、二人が拒絶するかもしれない、はあくまでも自分の勝手な妄想だ。
 でも、と辰弥の足が止まる。
 二人はLEBである俺を人間として認め、扱ってくれた。でも、だからと言って「自分を捨てた」俺を受け入れてくれるのか、と。
 辰弥は辰弥自身が自分を捨てた。昴を殺すため、と鎖神 辰弥としての個を捨てた。自分で自分を捨てるような存在を、二人が受け入れてくれるのか。
 分からない、と辰弥は呟いた。
 「どんな姿になってもお前はお前だ」という言葉を期待する。「自分を捨てるような奴は俺の知っている辰弥じゃない」と拒絶する言葉を期待する。
 受け入れられたい、と思いつつも拒絶されたい、と思ってしまう。
 それは辰弥自身が今の自分を受け入れられないからか。
 誰かに決定づけられたかった。「お前は◯◯だ」と。
 エルステであり、ノインである今の自分を、白黒つけてもらいたかった。
 止まっていた辰弥の足が再び動き出す。
 もし、決定づけられるとしたら、それは日翔がいい。鏡介がいい。
 自然と、辰弥の足が自宅へと向かう。
 自宅マンションのエントランスに入り、エレベーターの呼び出しボタンを押す。
 そこでふと蘇ったある日の記憶。
 もう限界だということで鏡介がインナースケルトンの出力を落としたことがきっかけで、日翔は一度自殺未遂をした。
 その時のやりとりが懐かしくなり、辰弥はエレベーターが降りてくるのを待たずに外に出た。
 人目のつかない路地裏に入り、ピアノ線を射出し、それを伝って屋上に駆け上がる。
 ビルの隙間から差し込む朝日が辰弥の目を灼く。
 もうそんな時間か、と思いつつも辰弥は屋上の端に立った。
 太陽が少しずつ登り、見下ろす街が光に包まれていく。
「――」
 辰弥の唇が震える。
「……」
 いつもと変わりない一巡の始まりに、ほんの少しだけ期待を寄せる。
 鏡介と晃は日翔と合流できたのだろうか。できたならもう生体義体への移植準備は進められているだろうか。
 日翔は別に生身至上主義ではない。ただ、人工循環液ホワイトブラッドが嫌いなだけだ。ホワイトブラッドさえ使わなければきっと生体義体を受け入れてくれる。日翔に生体義体を拒む理由なんてない。
 朝日に照らされながらそんなことを考えていると、ほんの少しだけ希望を感じることができた。同時に、「これで俺の役目は終わった」という思いも浮かび上がってくる。
 辰弥が自分を捨ててまでここまで走り続けたのは千歳に対する想いもあったが、それ以上に日翔を助けたい、という思いがあった。四年――もうすぐ五年となるあの雨の日、日翔が手を差し伸べてくれたから、自分はここまで生きることができた。その恩をやっと、返せた気がする。
 疲れたんだな、と辰弥は苦笑した。何もかもが終わった今、もう、終わらせてもいいんじゃないか、と考える。
 今、ここから飛び降りれば死ねるだろうか。それとも、ノインが生きるために主導権を握るだろうか。
 ふと、気になって辰弥は屋上の縁に足をかけた。
『ちょ、エルステ!』
 ノインが辰弥の足にまとわりついて止めようとする。
 意識の奥がざわざわとざわめき、ノインが干渉しようとしていることが分かるが、主導権を握られるには至らない。
 ゆっくり縁の上に立ち、眼下を見る。
 ――結局、日翔に「父さん」って言えなかったな――。
 そんなことを考えながら空中に一歩踏み出そうとした時、
「辰弥!」
 聞き慣れた声が、屋上に響いた。
「――鏡介?」
 辰弥が思わず振り返る。
 そこで、駆け寄ってくる鏡介の姿を認める。
「何やってるんだ、危ないだろ!」
 鏡介が手を伸ばし、辰弥の腕を掴み、屋上へと引き戻す。
 勢い余って二人揃って屋上に倒れ込み、辰弥は慌てて上半身を起こして鏡介を見た。
「なんで、ここが――」
「お前が家に帰らずどこかに行くとしたらここだと思ってな」
 鏡介も体を起こし、ぐるりと周りを見ながら答える。
 屋上に並べられたいくつかのプランター。辰弥が「家庭菜園をしてみたい」と植えた苗の数々。
 鏡介の考えは百点ではなかったが、辰弥の思考をほぼ完璧に捉えていた。
 家に帰れなくても、どこかに行くとしたらきっとこの屋上だ、という鏡介の考えに、辰弥の顔がくしゃりと歪む。
「なんで――」
「GNSに頼らなくても、お前の考えそうなことくらい分かる。というか、お前、融合の影響でGNSが無効化されている。もう一度入れ直せ」
 だからGPSで探し出せずに苦労したぞ、と苦笑する鏡介に、辰弥は思わず「ばか」と声をあげていた。
「鏡介の、ばか」
 そんなことを言いながら、辰弥が鏡介の胸に顔を埋める。
 受け入れられないかもしれない、なんて考えるまでもなかった。日翔はともかく、鏡介はそういう人間だ。見た目など関係ない、その人物の本質が変わっていなければ、本人だと認識する。
 鏡介が辰弥に腕を回し、軽く背中をさする。
「ったく、無茶しやがって……。宇都宮を殺すためにノインと融合するとか、お前、俺に言ったこと忘れたのか?」
 あれは辰弥が特殊第四部隊トクヨンに拘束され、それを救出した帰りの潜水艦での会話。
 辰弥と日翔を逃すためにトクヨンの隊長、御神楽 久遠と対峙し、その結果右腕と左脚を失った鏡介に対して辰弥は「無茶をして」と言った。
 それと同じことを辰弥は行った、という認識だった。誰かのために、自分を捨てるなんてお前も他人のことは言えないぞ、と。
「……ごめん」
 鏡介の胸の中で辰弥が謝る。
「でも、こうしなければ誰も助けられない、と思った」
「その結果が、これか。まぁ、お前も全力を出せたのならそれはそれでいいのか」
 そう言い、鏡介は辰弥を抱えたまま上半身を起こした。
「日翔は生体義体への移植に同意して『イヴ』同伴であの永江 晃のラボに向かった。あれから数時間は経過してるし、永江 晃曰く『急速成長のスピードを最大にして準備するから』と言っていたから今移植手術をしているはずだ」
「よかった」
 日翔が移植に同意した、という言葉を聞いて辰弥がほっとしたような声を上げる。
 心のどこかで考えていた「生体義体への移植すら拒んだらどうしよう」という不安はこれで吹き飛んだ。
 しかし、それならどうして鏡介はここにいたのだろうか。日翔の移植をすぐそばで見守っていてもよかったのではないか。
 そんなことを辰弥が考えていると、鏡介はふっと笑って辰弥の頭をポンポンと叩く。
「子供扱いしないでって」
「……そうだな、もう見た目子供じゃないしな」
 癖とは、なかなか抜けないものだな、と呟きつつも鏡介は辰弥の手を取り立ち上がる。
「お前が帰ってきても誰もいなかったら不安だろうが。それに、日翔のそばにいたところで俺は何もできない。だったらお前が戻ってくるのを待って二人で現地に向かったほうがいい」
「鏡介……」
 ほら、行くぞと鏡介が辰弥を促す。
 うん、と辰弥が鏡介に並んで歩き出す。
「……こうやって見ると、お前、でかくなったな」
 今までずっと見下ろしていた辰弥の目線が同じ高さで、鏡介は口元に笑みを浮かべた。
 もし、辰弥が真っ当に成長していたらこれくらいになっていたのだろうか、という考えが浮かび、ほんの少しだけ嬉しくなる。
「あ、そうだ」
 エレベーターに乗り込んだ時、鏡介はふと思いついたように自分の頭に手をやった。
 自分の髪を束ねていたヘアゴムを外し、辰弥に手渡す。
「お前、そこまで伸ばすと邪魔だろう。括っとけ」
 ぱさり、と下りた鏡介の髪。
 それと、手渡されたヘアゴムを交互に見て、辰弥はうん、と頷いた。
「ありがとう」
 そう言いながら、鏡介がしていたように自分の髪を結う。
「すっきりした」
「お前の攻撃を見ていると、下手に切るよりはそのままにしておいたほうが有利だろう。それに、切る気もないんだろう?」
 切る気があるなら融合した際にこんな長さに設定しないはずだ。それに、この髪は恐らくノインの影響。だとすれば切るのはノインに失礼である。
 そうだね、と辰弥が頷く。
「……日翔、びっくりするかな」
「あいつのことだ、多分別人と思い込む」
 そんなことを言いながらエントランスを抜け、外に出る。
「一応聞いておく。前の姿には戻れないんだな?」
「……うん」
 辰弥の答えに、鏡介は「そうか」と呟いた。
「どのような姿であってもお前が鎖神 辰弥としての意識を持っているならお前はお前だ。他の誰でもない。だから、気にするな」
 少なくとも俺は外見で判断しない、と鏡介が続ける。
「日翔を迎えに行くぞ」
「うん」
 そのまま、雑踏に紛れこむ。
 街ゆく人々の、特に女性の視線が気になるような気がするが、それを無視して電車に乗り込む。
 特に何かを話すこともなく、二人は日翔が搬送された、そして辰弥が千歳を刺したビルに向かった。
 ビルの入り口で、辰弥が一瞬足を止める。
「……辰弥?」
 先にビルに入りかけた鏡介が振り返り、辰弥を見る。
「……なんでもない」
 辰弥が首を振り、ビルに入る。
 廊下を進み、晃が密かに構えていたラボに到着すると、手術着を身につけた渚が奥の扉から出てきたところだった。
「ああ、水城くん、終わったわよ」
 そう言った渚が、鏡介の隣に立った辰弥を見る。
「……もしかして、鎖神くん?」
 うん、と頷く辰弥。
 その瞬間、渚がきゃー! と黄色い声を上げた。
「あらやだ鎖神くん、イケメンになっちゃってー! どう? お姉さんと一緒に……」
「興味ない」
 ずばり、と切り捨てる辰弥。真顔に戻る渚。
「本物だわ」
 何故か納得し、渚は自分の後ろの扉を指差した。
「日翔くんはこの中。手術が終わったばかりだからちょーっと血まみれだし死体もあるけど貴方たちなら気にしないでしょ」
 ああ、と鏡介が頷き、扉を開ける。
 二人が手術室に入ると、ベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせている日翔の姿が目に飛び込んできた。
 日翔、と辰弥が声をかけようとして思いとどまる。
 今の姿の自分がいきなり声をかけると日翔が驚く、という思いが逸る辰弥の心を抑えつける。
「……日翔、」
 辰弥の代わりに、鏡介が声をかける。
 足をぶらぶらさせていた日翔がゆっくりと振り返り、そして満面の笑みをその顔に浮かべた。
「鏡介!」
 GNSによる念話ではなく、日翔の口から発せられた言葉が二人の鼓膜を振るわせる。
「日翔……」
 辰弥の声が震える。
 寝たきりとなって、酸素マスクなしでは呼吸すらままならない状況だった日翔が動いて、声を出して、こちらを見ている。
 今までの苦労が全て報われた、と思えた瞬間だった。
 よかった、元気になった、その思いが辰弥の胸を満たす。
 日翔はというと、今までの状態が嘘だったかのようにベッドから降り、二人に駆け寄ってくる。
「聞いてくれよ! 体がすっごく軽くてさ、痛みもだるさも全然ないんだ! 話によると開発中の武装オプションの拡張も入れてあるから足手まといにもならないって!」
「そうか、よかったな」
 興奮気味に捲し立てる日翔に、鏡介が苦笑して相槌を打つ。
 鏡介に一頻り説明した後で、日翔は辰弥に視線を投げた。
「……で、こいつ誰? もしかして、新しい補充要員か?」
 日翔の言葉に辰弥が苦笑する。
 一目見て分かる訳はないか、そう、いささかの寂しさを覚えつつも、それでも日翔が元気にしているのを見て涙がこぼれそうになる。
「もう、俺も復活だから補充要員なんてなくてもいいと思うんだがな……。あ、俺、天辻 日翔。よろしくな! 鏡介から聞いたかもしれんが『グリム・リーパー』はリーダーこそ鏡介の名義になってるが実際のリーダーは辰弥って奴がやってるんだ。あいつの戦闘能力マジすげえから見てビビるなよ? だけど見た目はすっごく小ちゃくて可愛くてな……もうアレとかコレがミニサイズで可愛いんだわ。きっとお前もすぐ仲良くなれると思うぜ!」
 自己紹介を始める日翔に、鏡介が「あぁ……」と声を漏らす。
 これは完全に別人と認識しているな、と思いつつ、さてどうやって説明するか……と考え、鏡介はぽん、と日翔の肩を叩いた。
「……日翔、落ち着いて聞いてくれ。こいつ、辰弥」
「へ……?」
 鏡介の言葉を受けて、日翔が間の抜けた声を上げる。
 それから辰弥をまじまじと見つめ、鏡介と見比べ、もう一度辰弥をまじまじと見る。
「……マ?」
「マ」
 真顔で辰弥が答える。
「……マジか」
 日翔が呆然としてもう一度辰弥を見る。
 一瞬、「日翔には受け入れてもらえないかもしれない」という思いが辰弥の胸をよぎる。
 もしそうなったら、受け入れてくれた鏡介と受け入れてくれなかった日翔、どちらを選べばいいのだろうか。それとも、もう一度関係を築くチャンスを与えられるのだろうか。
 辰弥がそんなことを考えていると、日翔は辰弥の前に歩み寄ってきた。
 今までは見上げていた日翔の目線が、ほんの少し下にあることに気がつき、辰弥の眉が下がる。
「デカくなったなー! 見間違えたぞ!」
 日翔から投げかけられた言葉は辰弥が想像したものではなかった。
「え、なんでこんないきなり成長したん? 俺よりデカくなってなんか羨ましいんだが!?!?
「日翔……」
 はしゃぐ日翔に辰弥が困惑したように声を上げる。
 この反応は受け入れてもらえた、と考えていいのだろうが、それでも不安が残る。
「……ごめん、日翔」
 思わずそう謝る。日翔が不思議そうに首を傾げる。
「なんで謝るんだ? 俺のために頑張った結果だろ?」
 まだ詳しくは聞いてないが、俺のために無茶したことだけは知ってる、と日翔が苦笑する。
 ああ、いつもの日翔だ、と辰弥が思う。
 底抜けにお人好しで、いつも自分たちのことを一番に考えてくれた日翔。
 よかった、と辰弥は何度も自分に言い聞かせた。
 しかし、言わなければいけないことは一つだけある。
「……日翔、」
 辰弥が日翔の名を呼ぶ。
「ん? どした?」
 鼓膜を震わせる日翔の声が心地よい。
 だが、それでも。
「……日翔、俺のこと小っちゃいとか可愛いとか思ってたんだ」
「……うぇ」
 辰弥の言葉に、日翔の喉から変な声が漏れた。
「アレとかコレって何のこと?」
 そう、辰弥が追撃すると日翔が目を白黒させる。
「え、あ、あの、その……ほら人には言えない的な?」
「日翔ー!!!!」
 日翔の発言に、辰弥が思わず日翔に手を上げた。
 両手の拳を握り、日翔の胸をポカポカと叩く。
「なんだよ、どういう目で俺を見てたんだよ、バカじゃないの」
 そう言ったものの、辰弥の中では日翔がずっと自分を見てくれていた、気にかけてくれていた、という思いが渦巻いていた。
 よかった、本当によかった、と日翔を叩くうちに熱いものがこみあげてきて、辰弥は日翔の胸に顔を埋めた。
「よかった……。本当に、俺は、日翔を助けられた……」
 今までの苦労がやっと報われた、と呟く辰弥の目に涙が浮かぶ。
 治験は受けさせることができなかったが、それよりも最適な結末に至ったのではないだろうか。
 治験なら薬が効いたとしてもかなりの期間、「本当に快復するのか」と焦りに満ちた日々を送っていただろう。仮に治癒したとしても再発の可能性に悩まされる可能性もあった。
 しかし、生体義体にしたということはもうそんな心配はいらない。
 ALSが脳由来の病であるなら生体義体である分再発の可能性は否めないが、それでもまた移植すればいい、という結論が見えている。
 嗚咽を漏らしながら胸に縋る辰弥に、日翔はそっと手を回した。
 優しく辰弥を抱きしめ、背中をさする。
「……お前は自分の未来を捨てて俺を助けようとするなんてさ……」
 殺された両親とは違い、ALSの進行と共に「自分は自分なりに最期の一瞬まで精一杯生きよう」と思っていた日翔。
 それはある種の諦めでもあったが、日翔の周りの人間は誰も諦めなかった。自分の命を投げ打つ行為に及びながらも日翔を助けるために奔走した。
 もしかして、諦めなければよかったのか、と日翔は自問した。
 諦めず、自分の運命に抗えばここまで周りを苦しめずに全ては解決したのではないか、と。
 いや、そもそも自分がホワイトブラッドを忌避せず全身義体に置き換えていればここまで話はこじれなかったのだ。いくら両親が反ホワイトブラッド派で、自分もそれに抵抗があったとはいえ、受け入れていれば誰も苦しまなかった。もしかすると、千歳も死ななかったかもしれない。
 鏡介から軽く説明だけは受けていた。自分たちのために、そして昴の野望を阻止するために戦った結果、辰弥が誤って千歳を殺してしまった、ということを。
 それに対し、日翔は責めるつもりはない。それを責めるのは、辰弥に死ねというようなものだから。
 日翔としては千歳よりも辰弥の方が大切だった。あの雨の日以来、ずっと気にかけてきた辰弥は日翔にとって我が子にも等しい存在だった。
 あと数年もすれば死ぬ、そんな自分は子を成すことなんてできない、してはいけない、そう思っていた日翔の前に現れた辰弥。だからこそ、守りたいと思ったし未来を見守りたい、と思っていた。
 同時に思う。ここで自分が諦めるのは辰弥にとっても裏切りだったのだ、と。
「鏡介から聞いた。色々、辛かったな」
 だから今は思う存分泣け、と日翔が何度も辰弥の背をさする。
「日翔……」
 日翔の優しい声が嬉しい。この声をもう一度聞けて良かった、と辰弥が声を漏らす。
「日翔だけはどうしても助けたかった。千歳を殺してしまったのは辛いけど、それでも、日翔が助かったなら、それはもういい。日翔は……日翔が俺を助けてくれたから、俺は今まで生きてこれたから……」
 辰弥にとって、俺を助けた動機は「助けられた恩」だったのか、と日翔が苦笑する。
 あの時はただ放っておけなくて、その場の感情だけで連れ帰っただけだったが、それが巡り廻ってこの結果につながったのか。
 日翔としては辰弥のことは放っておけない危なっかしい人間だった。真実が明らかになり、辰弥がわずか一桁の年齢であると知り、日翔は辰弥のことを「見守らなければいけない」対象として見るようになった。大人である自分が守らなければいけない、幸せな道を歩けるようにしなければいけない、それは、そう、まるで――。
「やっぱさ、俺にとってお前は息子みたいなもんなんだよ。だから、ここまで追い詰めたのは本当に申し訳ない、って思う。お前はお前でもっと自由に生きればよかったのに、俺が縛ってしまった」
 辰弥を抱きしめる日翔の手に力がこもる。だが、それはインナースケルトンの出力に怯えたものではない。抱きしめたい、と思ったそのままの力で、誰も傷つけることなく、抱きしめることができる。
 辰弥の腕も日翔の背に回り、抱きしめ返してくる。
「……さん、」
 ぽつり、と辰弥が何かを呟くように言ったのが日翔の耳に届く。
「ん?」
 日翔が聞き返す。
「……今だけ、父さんって、呼ばせて」
 かすかに、聞こえるか聞こえないかの声で辰弥が言う。
 その瞬間、日翔の口元が綻んだ。
 「絶対に呼ばない」と言ったり、呼んでくれと頼んでも呼ばれなかったその言葉を辰弥が口にしたという事実が日翔の胸を熱くする。
 生きていてよかった、生きるということはこんなにも嬉しいことなんだ、と実感し、日翔の腕にさらに力が籠められる。
「日翔、苦しいって」
 日翔の腕の中で辰弥がもがく。
「なんだよ、もう父さんでいいって」
「やだ、恥ずかしい」
 真っ赤になった辰弥が日翔を自分から引きはがす。
「もう父さんって呼べたから俺は満足」
「俺はまだまだ足りないぞ」
 いいから呼べよー、と日翔が辰弥の肩に腕を回そうとすると、辰弥はそれをべし、と払いのけた。
「もう元気になったんだから呼ぶ必要ないよね?」
「えぇ~……」
 不満たらたらの様子で日翔が唇を尖らせる。
 その様子に、再び涙が込み上げてくるような感覚を覚え、辰弥は日翔から視線を外した。
 日翔はもう心配ない。もう一人で生きていける。
 本当はもっと「父さん」と呼びたかったが、恥ずかしくて、そして自分にこれ以上日翔を父と呼ぶ権利がない気がして、これ以上は呼べなかった。
 「満足」とは言ったが、そんなことはない。これからもずっと「父さん」と呼びたいに決まっている。だが、今の自分にそんな権利はない。
 以前の俺だったら呼べたんだろうか、と思いつつも辰弥が日翔に視線を戻すと、日翔は自分の名前を現すような、太陽のような眩しい笑顔で見つめてきた。
「いいじゃん呼んでくれたって。父さんは嬉しいぞ?」
「~~~~っ」
 恥ずかしさが一気にこみ上げ、ぽか、と辰弥が日翔を叩く。
 「呼ぶんじゃなかった」という声が聞こえた気がするが、日翔はそれをスルーする。
 どうであれ、辰弥が一度だけでも自分のことを「父さん」と呼んでくれた、それで十分だった。
 日翔父さんを助けたい、そういう感情だったんだろうか、と思うとそこまで必死になってくれた辰弥に、自分という存在を投げ打ってでも助けようとしてくれた辰弥に一生かけても返せない借りができたな、と思ってしまう。
 そこまでして助けようとしなくてもよかったのに、と思いつつも、辰弥が、鏡介がそこまでして助けたいと思ってくれたことに、そしてそれを貫き通したことが誇りに思えてくる。
 これが「グリム・リーパー」なのだと。誰が欠けることも良しとせず、最後まで決して諦めないチームなのだ、と。
 それでも、辰弥と鏡介が無茶をしたのは事実だ。それだけは一言物申さずにはいられない。
「……無茶しやがって……。治験の話はどうなったんだよ。どうせ薬が効かないからってこいつを拉致したんだろ? また御神楽に喧嘩売るような真似しやがって……」
 多少は説明を受けたものの、日翔の認識では、晃は御神楽の研究所から拉致されて生体義体を作ることになった、というものだった。昴の干渉はあったものの、それは辰弥と鏡介が拉致した晃を横取りしようとしたが故のものだと思い込んでいた。
 だが、実際はそれ以上に苦難の連続だった。
 辰弥は千歳を殺してしまったし、昴によって多大な被害も出たし、その結果、辰弥はこの姿になった。
 それをいつかは説明しなければいけないが、今はそこまで説明しなくていいだろう。とにかく、日翔の快復を祝うべきだ。
「いやぁ、うまくいってよかったよ」
 手を洗っていたのか、晃が奥から顔を出して笑う。
 その晃の脚に、ノインが抱きついているのが辰弥の目に入る。
「――」
 ノイン、と声を上げかけた辰弥が口を閉ざす。
 日翔と鏡介はノインに対して何の反応もしていない。やはり、二人にノインの姿は見えていない。
 それでも、晃の足にまとわりつくノインに、さっき死ななくてよかった、とふと思う。
『主任、じゃま』
 そんなことを言いながらも晃の脚にまとわりついていたノインが日翔に視線を投げる。
『あきと、復活したんだ。よかったね、エルステ』
「それはどうも」
 他の誰にも聞かれないように口の中で呟き、辰弥は鏡介に日翔の状態を説明する晃を見た。
「そうそう、費用面に関してだけど、それは心配しなくていいよ」
「え、なんで」
 突然の昴の発言に辰弥が驚いたような声を上げる。
 いくら昴がLEBの研究マニアであったとしても調整槽の作成や日翔の生体義体の作成のためには材料費等費用が掛かっているはずである。それも、小遣い程度の金額ではなく、かなりの額が必要とされるはずだ。
 それを「心配しなくていい」とは、一体。
 不安そうな顔を見せる辰弥に、晃は笑って答える。
「私も『グリム・リーパー』の一員になるってことだよ」
「……は?」
 晃が何を言っているのかが分からない。いや、分かるのだが脳が理解を拒む。
「特にエルステ、君はLEB同士が融合したという特殊個体だ。じっくり調べさせてもらうよ。今回の日翔君の生体義体や君の調整費用はそれでチャラだ」
 と、晃が話を進めるが、まだ辰弥の脳は理解が追いついていない。
 晃が「グリム・リーパー」に加入する? いくらノインが辰弥の中にいるとはいえ、鏡介はともかく日翔はそれを認識していない。鏡介も「融合した」という事実は理解しているがノインの意識が辰弥の中に残っていることはまだ知らない。だからこそ晃が「グリム・リーパー」に加入すると言ったことは理解できなかった。
「そ、そんな勝手に加入とか言われても……」
 辰弥が必死に事態を理解しようとするが、理解を拒む脳は晃の加入を拒むような言葉を吐き出させる。
 そんな辰弥に対して、「それが何か?」と言わんばかりの様子で鏡介が答える。
「加入なら俺が許可した。表向きとは言え、リーダーは俺だ。何か文句が?」
「そう、鏡介君から許可は貰ってる。何せ、今の『グリム・リーパー』にはノインがいるわけだからね、そこに私がいるのは自然なことだ」
「ん? ノインがいる?」
 「ノインがいる」という言葉に日翔が首をかしげる。その一方で、いや、文句があるわけじゃないけど、ともごもご呟きつつも、辰弥は諦め悪く次の言葉を紡ぎ出す。
「でも御神楽の仕事もあるんじゃ……」
 元々晃は「御神楽財閥」の研究施設に客員研究員として所属している。それを「カタストロフ」が拉致して利用していたが、それが解決した今、晃は研究施設に戻るべきである。
 辰弥の苦し紛れの質問に、晃はなんだそんなこと、と朗らかに笑った。
「もちろん、普段は御神楽の研究施設にいるが、休みの時には君たちのメンテのために駆けつける」
 辰弥の抵抗をものともせず晃が答える。
「いやその前になんでノインがいるんだ……? どこにもいないんだが?」
 日翔は先ほどの晃の言葉がずっと引っかかっているのか、室内をキョロキョロ見回しながら呟いている。
「それは後で詳しく説明する。とにかく、改めて言うが、こいつの『グリム・リーパー』加入は俺が承諾した。永江 晃がいれば辰弥も日翔も万全の状態でいられるからな」
 鏡介が日翔を遮って言葉を挟む。
 そうそう、と晃がドヤ顔で頷いた。
「そう、鏡介君から許可は貰ってる。というわけで私も『グリム・リーパー』の一員だ!」
「……あんたがそう言うなら……」
 鏡介が承諾し、晃もそのつもりでいるのならもう拒絶する理由は何もない。二人の言い分に、辰弥が根負けし、分かった、と頷く。
 生体義体はまだ実用化されたばかりの技術だ。通常の義体ほどではなくとも、メンテナンスや検査、追跡調査も必要だろう。そのためにも晃は必須の存在。「生体義体は作った、あとはよしなに」で放置されれば何かあっても対処することができなかっただろう。それは生体義体を移植した日翔だけでなく、ノインと融合した辰弥も同じだった。融合の影響やその後起こりえる副作用等、そういったものを追跡できるのは晃しかいない。
 本音を言えば晃の「グリム・リーパー」加入はまた千歳みたいなことになるのでは、という不安はある。だが、それ以上に晃が加入するという言葉は辰弥にとって心強いものだった。
 晃はLEBの研究を望んでいる。それを特殊第四部隊トクヨンに禁じられているのだから当然、辰弥たちのことも決して口外しないだろう。その点でも、千歳には感じていなかった信頼が最初からあった。出会いこそは最悪だったかもしれないが、こうやって仲間となるとこんなに心強い人間はいない、と辰弥がふと思う。
 そんなことを考えていると、わずかに開け放たれていた手術室のドアがほんの少し、開いた。
「ん?」
 いち早く異常を察した辰弥がドアの方に視線を投げる。
 ドアは確かに動いたのに、誰かが入ってきた形跡はない。
 渚は手術が終わってすぐに部屋を出たのを辰弥と鏡介は目撃しているが、戻ってきたというわけでもない。風で開いたのか、とも考えるが、空気の動きはなく、それも考えられない。
 じゃあ何が、と辰弥が考えたところでその足に何かがそよりと触れた。
「……?」
 辰弥が足元を見る。
 にゃあ、と一匹の黒猫が、辰弥の脚に頭をこすりつけていた。
「……猫?」
 思わず、辰弥が屈みこんで黒猫を抱き上げる。
 抱き上げられた猫は嫌がる様子も見せず、辰弥の胸に頭をこすりつけ、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
「んー、猫か?」
 日翔が辰弥の腕の中でゴロゴロ喉を鳴らす猫を興味深げに見る。
「……この猫……」
 辰弥はこの黒猫に既視感があった。そういえばこの黒猫、どこかで見たような……と記憶をたどり、思い出してあっと声を上げた。
「君……ノインの……」
「あ、ノインが連れてきた猫じゃないか。手術中は空気読んでどこか行ってたんだが、もどってきたんだなぁ」
 おーよしよし、と晃が手を伸ばすと、黒猫がシャー! と威嚇する。
 そういえば武陽都で顔を合わせたノインは黒猫と烏を引き連れていた。ノインに動物を操る能力があったとは思えないが、猫の特性を持っているところから動物と仲良くなる、といったことはあるのかもしれない。
 その黒猫が、辰弥に頭をこすりつけてじゃれている。
 もしかして、融合したノインに反応しているのかな、と考えつつ辰弥が黒猫を撫でると、それを見ていた日翔がぱん、と手を叩いた。
「なんか辰弥に懐いてるようだからさ、このまま連れて帰るか?」
 どうせノインは死んだんだろ? だったらここに放置しても野垂れ死ぬだけだし、と続ける日翔に辰弥があいまいに頷く。
 ノインは死んでいない、俺と融合しただけだ、と思うものの、日翔はそんな状況を適当に認識して受け入れてしまうため、恐らく言っても分からないだろう。そもそも辰弥がこの姿になっても「デカくなったな」だけであっさり受け入れてしまったのだ。日翔としては「深く考えても仕方がない、それなら目の前の状況を自分が分かるように認識して動いた方が生き残れる」といったところなのだろう。
 ALSになって、インナースケルトンを埋め込んで、その結果暗殺者になってずっと生きてきた日翔の、日翔なりの処世術。元から考えることが苦手な日翔だからこそ、「目の前の現実を受け入れる」ことで生きてきたし、これからも生きていくのだろう。
 それにしても、この適応能力の高さはなんだ。生体義体の移植手術が終わって数時間も経っていないのに普通に動いているし、当たり前のように黒猫を連れて帰ると言い出す日翔に、辰弥は驚きを隠せなかった。鏡介が腕と脚を義体にした時もそれなりの期間のリハビリを必要としていた。機械式の義体と生体義体という違いはあれど、日翔の動きは義体に変えたばかりとは思えないほどスムーズである。それが生体義体のメリットだと受け入れるにしても、黒猫を連れて帰るという発言はそう簡単に出てくるものではない。
 しかし、すぐに思い直す。
 日翔は元々そういう人間だ。それは辰弥が一番よく知っている。
 力尽きて雨に打たれていた辰弥を、自分の立場を顧みず連れて帰るような人間が猫を連れて帰らないという選択肢を選ぶはずがない。いつだったかのウィンターホリデーでも日翔は迷い猫を拾って帰って来たではないか。日翔にとって、困っている何かを助けるのは当たり前のことなのだ。
 暗殺者でありながら、底なしにお人好しの日翔。
 そんな日翔だから、辰弥も日翔のことを父親として認めたい、と思ったのだ。
 腕の中の猫をあやしながら、辰弥はちょいちょいと猫にちょっかいをかける日翔に視線を投げた。
「連れて帰るならノインも喜ぶと思う。名前とかどうする?」
 ふと浮かんだ疑問。
 もし、この猫を三人で飼うとしたら日翔はどのような名前を付けるのだろうか。
 名前を訊かれて「分からない」と答えた辰弥に「鎖神 辰弥」という名前を与えたのは日翔だ。猫も連れて帰ると決めたのならきっと日翔がいい名前を考えてくれるだろう。
『名前ならもうある! ニャンコゲオルギウス1616!!!!
 辰弥の視界の隅でノインが名前らしきものを言っているようだが聞こえないふりをする。
 日翔は猫の喉を撫でながら「そうだな」と呟き、
「ねこまるでいいんじゃね?」
 と、即答した。
 日翔の「ねこまる」という回答に、黒猫がにゃあ、と鳴いて日翔の手に頭をこすりつける。
「お、気に入ったか。じゃあお前はねこまるな」
 ねこまる、帰ったらミルクやるからなーと笑う日翔。「え、連れて帰るの確定?」と鏡介が渋い顔をしているが、こういった状況で日翔が考えを曲げないことに慣れているのでそれ以上は何も言わない。
 ただ、辰弥の視界の中でノインだけが憤慨したような様子を見せていた。
『ニャンコゲオルギウス1616!!!! なに、ねこまるってダサい名前!』
 日翔を指さし、ノインが地団駄を踏んでいる。
『エルステ、訂正しろ! ニャンコゲオルギウス1616世だって!』
「ん……」
 ノインの剣幕に、辰弥が少しだけ困ったような顔をする。
 が、すぐにその顔に満面の笑みを浮かべた。
「いいんじゃない、ねこまる」
『エルステーーーー!!!!』
 この裏切り者ー! とノインが辰弥の足を蹴る。しかし、あくまでも辰弥の視界に映り込むだけの幻影、痛くも痒くもない。
 ねこまる、と辰弥が黒猫を呼ぶ。
 にゃぁ、と黒猫が嬉しそうに鳴く。
『ニャンコゲオルギウス1616世! お前もかー!!!!
 ノインだけが頑なに猫の名前はニャンコゲオルギウス1616世だと主張するが、辰弥以外誰もその言葉は聞こえないので黒猫をねこまると呼んで構い始めていた。
『んー! んー!!!!
 辰弥の視界の中でノインが両手をガトリングにトランスさせ、発砲する。
 もちろん、幻影なので弾があたってもダメージはない。
「おーおー撃つな撃つな」
 誰にも聞かれないようにノインを宥めつつ、辰弥は日翔と鏡介を見た。
「……じゃ、帰るか」
 もうこれで全て終わった。心配することは何もない。
「日翔ももう心配することは何もないよね」
 そう、辰弥が思わず確認してしまう。
 もうこれ以上何かが起こることはないはずだ。全員、幸せに生きていける。
「そうそう、これで俺に残されたのは借金だけ! あと少しだろ、もう勝ちじゃん!」
 日翔がむふー、と胸を張っている。しかし、その件に関してはもう解決していた。
「……借金は治験の権利を『サイバボーン』に売った金で完済した。お前が戦う理由はもうない」
「……へ?」
 鏡介の指摘に日翔が声を上げる。
「……マ?」
「マ」
 今度は鏡介が真顔で答える。
「……そうか、完済したかー……」
 何故か寂しそうな日翔の顔。
 日翔としてはずっと付き合ってきた借金、いつかは完済するぞと意気込んでいたが、こうやって完済してしまうと寂しいものがある。
 人生の目標であった完済が終わってしまい、今後どうすればいいか、という考えが日翔の脳裏をよぎる……が。
「ま、いっか」
 単純な日翔はこれ以上考えるのはやめだ、と考えたらしい。
「これからは自由に生きられるってことか! 辰弥、鏡介、もちろんお前らも付き合うよな?」
「え?」
 日翔の言葉の意図が分からず声を上げる辰弥。
 日翔がそんなの決まってるだろ、と笑った。
「前みたいに三人で気楽に依頼を受けて気楽に生きる!」
「足を洗わないのか?」
 今なら病に怯えることも借金のことも考えずに一般人として生きることができるはずだ。それなのに、日翔は今まで通りの生活を送るというのか。
 鏡介の問いに、日翔があたぼうよ、と笑う。
「今更表社会に戻れるかよ。それに、やっぱりお前らと一緒に仕事したいんだ。まぁ、お前らが一般人になって真っ当な職に就くってんなら俺も探すけどさ……」
 その言葉に、辰弥と鏡介が顔を見合わせる。
「……日翔らしいね」
「ああ、これでこそ日翔だ」
 そんな会話を交わし、三人で笑う。
「じゃ、今まで通り依頼を受けて仕事をするか」
「そうだな!」
 以前のように、三人で生きる。
 その結論が、辰弥にはとても嬉しいものだった。
 そこに千歳がいないのは悔やまれる点かもしれないが、そもそも千歳は辰弥のことなど好きではなかった。そう考えるとこれでよかった、と思う。
 以前に比べれば色々と変わったものも、失ったものもあるけれど。
 三人の絆は変わらないのだ、と辰弥は実感した。
 そして、その幸せが取り戻せたことにほっとする。
 日翔は生体義体になったことでALSの脅威は取り除かれた。辰弥もノインと融合したことでテロメアの制限がほぼ撤廃された。
 このまま三人で、ずっと生きていく。
 それは辰弥にとってとても幸せなことで、ずっと守り続けたいものだった。
「あ、そうだ」
 不意に、日翔がぽん、と手を叩いて後ろを指差す。
「見てくれよー、俺の死体だって。いやー、俺、マジで死にかけてたんだな」
『……』
 日翔の言葉に、辰弥と鏡介が顔を見合わせる。
 それから、その奥に視線を投げると、ところどころ血で汚れた白い布が掛けられた遺体が隣のベッドに安置されているのが見える。
「……」
 無言でそれに歩み寄り、辰弥がそっと布を捲る。
 冷たくなった手をそっと握り、数秒、目を閉じる。
「……よく頑張ったね」
 この身体がギリギリまで耐えてくれたから、日翔は助かった。日翔の意識はもう新しい身体にあるが、それでもこの身体に対して感じる感謝の念は忘れたくない。
「だけどさー、流石に俺生きてるのに葬式するのは嫌だぜ?」
 辰弥の背後から日翔の声が聞こえる。
「火葬だけはしておけ。しかし遺骨はどうするか……」
 そんな鏡介の声に苦笑し、辰弥は手を離して二人に向き直った。
「一応は弔ってあげようよ」
「あー、辰弥はそういう派か」
 日翔がぽりぽりと頭を掻きながら苦笑する。
「ま、俺としても今まで世話になった身体だしな……。一応の墓だけは建てておくか」
「日翔の実家の墓はないの?」
 ふと、気になって辰弥が尋ねる。
「ねえよんなもん。親戚一同から絶縁されてたし、アライアンスが無縁仏の墓に入れてくれただけだ。ま、でも……一応は親だからそこに一緒に入れとけばいいか」
「そこに、俺も連れて行ってくれる?」
 思わず、辰弥はそう尋ねていた。
 日翔のことを、日翔の両親のことをもっと知りたい。
 それは鏡介に対しても同じだ。鏡介のことを、真奈美のことを、そして師匠と呼ぶ人物のことをもっと知りたい。
 今まではそんなものを知ってもどうしようもないと思っていたが、辰弥の中に興味というものが湧き上がっていた。
 日翔の両親の墓に参拝して、それから今どこにいるかも分からない鏡介の師匠を探す旅に出てもいいのではないか、そう思う。
 日翔がはは、と笑う。
「上町府に戻るのか? いいな、山崎さんとか元気にしてるかな」
「それじゃ、しばらく『グリム・リーパー』は休業して旅行でもする?」
 思わず、辰弥はそう提案していた。
 今までずっと走り続けてきた分、少しは休みたい。
 そう思っていたところに、鏡介がはぁ、とため息混じりに二人に声をかけた。
「休みたいところ申し訳ないが、アライアンスから仕事が回されてきた」
「はぁ?」
 日翔が素っ頓狂な声をあげる。
「うわぁ、病み上がりなのに容赦ねえなあ……。そう思うだろ?」
 日翔が同意を求めるかのように二人に言うと、辰弥と鏡介も苦笑して同意した。
「全くだ。まぁ、辰弥と日翔のポテンシャルの確認だと思えばちょうどいいだろう。行くぞ」
「あいよ」
 日翔が両手の指を鳴らしながら力強く頷く。
 が。
「ちょっと待ってくれ。まだもう一つやらなければいけないことがあるんだが」
 晃が三人に水を差す。
「やらなきゃいけないこと?」
 俺はもう元気だからやることないだろー、と言う日翔に、晃は辰弥を見て説明する。
「エルステはノインと融合したかもしれないが、エルステもノインもメンテナンスしなければいけない状態なんだ。いくらトランスの制限がリセットされたと言っても消耗したテロメアは消耗したままだ、その調整を今からする」
「やはり調整は必要だったか」
 晃の言葉に、鏡介が納得したように頷く。
「辰弥、行ってこい。仕事が来たとはいえ今すぐ現場に向かうような内容でもない、しっかり調整してもらえ」
 せっかく日翔が元気になったのに、辰弥が不調を残していてはいけない。
 鏡介がそう言うと、辰弥もそうだね、と頷き晃を見る。
「調整は数時間ほどかかるが……そのついでにエルステ、君の現在の状態も検査しておきたい」
「いいよ」
 晃に促され、辰弥がちら、と日翔と鏡介を見てから隣の部屋に入る。
 そこに設置された、薬液に満ちた水槽に、かつて自分が生成された培養槽を思い出し吐き気を覚えるが、首を振ってそれを振り払い、晃に確認するかのように視線を投げる。
「はい、全部脱いでそこに入って。一応液体呼吸できるけど酸素マスク欲しい?」
「いや、大丈夫だよ」
 晃の気遣いに感謝しつつも辰弥が着衣を全て脱ぎ、調整槽に入る。
「じゃ、暫くのんびり休んでいてくれよ」
 液体越しに晃の声が聞こえ、辰弥は目を閉じた。
 目を閉じた瞬間、どっと疲れが押し寄せ、意識を闇に引き摺り込んでいく。
 疲れていたんだ、と改めて実感し、辰弥は自分の意識を闇に委ねることにした。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 街が燃えている。
 紛い物の空はひび割れ、光量を落とした街を何人もの武装兵が走り回っている。
問題なしクリア!」
 そう、合図を送り建物内を回る武装兵の肩には桜とアサルトライフルの意匠を施されたエンブレムが。
「クソッ、カグラ・コントラクターカグコンがどうして!」
 MX8で応戦していた男がそう叫んだ次の瞬間、頭部を撃ち抜かれてその場に倒れ伏す。
 この街の住人にとって、現在の状況は明らかに最悪のものだった。
 いくつもの手順を踏まなければ扉が開くことはなかった街の入り口の露出。
 入り口が露出した瞬間、敵――「カグラ・コントラクター」の大部隊が一気に街に侵入、住人の逮捕を開始した。抵抗する者は例外なく射殺。
 ここは、「カタストロフ」の桜花最大の支部、上町支部。
 その上町支部が現在、「カグラ・コントラクター」に襲撃され、燃えている。
「三名確保! 無駄な抵抗はよせ!」
 カグラ・コントラクターの兵士の声があちらこちらで響き、「カタストロフ」の構成員は着実にその数を減らしている。
 全ての建物を巡り、「カグラ・コントラクター」は徹底的に「カタストロフ」を排除しようとしていた。
問題なしクリア!」
 部屋の一つに、「カグラ・コントラクター」所属のとある班が侵入する。
 その部屋は研究室ラボになっていた。
 様々な器具が置かれ、書類が散らばっているが、「カグラ・コントラクター」突入の直前に破棄されたかのように何もない
「……遅かったか!」
 「カグラ・コントラクター」も突入はしたが、かなりのデータが破棄されていることはすぐに察知していた。そもそも、地下に存在するらしい「カタストロフ」の上町支部の入口はずっと秘匿された状態で、突入することができなかった。それが突然入口が姿を現し、突入することができたのだ。
 何故秘匿された入口が姿を現したのかは誰も――「カグラ・コントラクター」も「カタストロフ」も分からない。ただ、「カタストロフ」側で唯一分かっていることがあるとすれば上町支部のリーダーであった昴が死亡したことだ。昴が死亡した直後、上町支部の入口は姿を見せた。
 「カグラ・コントラクター」としてはこれは願ってもないチャンスだった。「カタストロフ」を壊滅させるにしても、地中貫通爆弾バンカーバスターを街中に撃つ訳にはいかず、タングステン運動エネルギー弾オービットボマーはなおさら撃てない。そのどちらも、一般市民を巻き込みすぎる。
 だからこそ「カタストロフ」上町支部はずっと「カグラ・コントラクター」の目から逃れることができていた。それなのに、何故。
 「カグラ・コントラクター」の兵士が散らばった書類を拾い上げる。
 大した情報は残されていないだろうが、それでも何かしらの断片が分かればそれでいい。
「……Local Eraser BioweponLEB……の、量産……?」
 書類に目を通していた兵士が低く呟く。
 この単語に見覚えがある。GNSのストレージにある通達事項を確認すると、特殊第四部隊トクヨンがこの情報を見かければ報告しろ、と記載されている。
 まさか、と兵士が呟いた。
 LEBという生物兵器はトクヨンが有しているもの以外はすべて排除されたはずだ。研究自体も破棄されていたのに、このラボではそのLEBの研究が行われていた。それも、量産のための。
 破棄された研究データが完全に消失したとは一兵卒であるこの兵士も思わなかった。このデジタル世界、ほんの少しでもデータが残っていればどこかで再現される。
 つまり、破棄された研究データも一部は流出していて、「カタストロフ」はそれを発見、研究して量産しようと画策したのだろう。
 まずい、と兵士は書類をめくる。
 その中に記された「所沢 清史郎」という名に違和感を覚える。
「……所沢……清史郎……?」
 この兵士はトクヨンに所属こそしていなかったものの、トクヨンの通達からLEBという生物兵器が御神楽の一部で開発されていたこと、そしてそれを清史郎が主導していたことくらいの知識はあった。
 しかし、こうやって実際に研究されていた、という痕跡を見つけられると悍ましさを覚える。
 同時に、胸を過る違和感。
 書類を手に考える兵士の周りで、仲間が「次に行くぞ」と声をかけてくる。
 ああ、と兵士も書類を手放そうとし――違和感の元に気が付いた。
「所沢が、ここにいたのか……?」
 トクヨンから受け取った通達には「所沢 清史郎は抵抗激しく、射殺した」と記載されていた記憶がある。その所沢が、ここにいた……?
 それとも、トクヨンが射殺したのは別人か影武者だったのか。
 どういうことだ、と兵士は呟く。
 だが、仲間に「急げ」と言われ、書類をその場に投げ捨てる。
 「カタストロフ」がLEBの量産を行おうとしていた、その事実だけで大きな収穫だ。
 トクヨンに報告を、と兵士は仲間に告げ、仲間も頷いて本部へと回線を開いた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 ――永い、夢を見ていた気がする。
 夢は夢で憶えていないが、とても懐かしくて、苦しくて、それでも手放し難い夢。
 辰弥がゆっくりと目を開けると、液体越しに日翔と鏡介が晃と話し込んでいるのがぼんやりと見えた。
「――だから辰弥って呼んでやれよ」
 日翔の声が聞こえる。
 ああ、日翔は相変わらず俺のことを辰弥と呼べと言っているのか、と辰弥が苦笑する。
 辰弥としてはノインと融合した今、個体名はもう意味のないものだと思っていた。
 エルステでありノインという現状、そしてノインの血を吸って一度バージョンアップしていたことを考えると単純に「スペック3」と呼んでもいいじゃないか、とさえ思える。
「私にとってエルステは元の開発者、所沢博士が唯一彼に与えた祝福だと思っているんだよ。そこに込められた思い、願い、希望は確かに人としては間違っていたのかもしれないが、それでも私は所沢博士をLEBの先駆者として尊敬している以上、エルステという名前は特別なんだ」
「……名前、か……」
 晃と鏡介の言葉に、辰弥もエルステという個体名について考えてみる。
 以前、日翔が自分に「鎖神 辰弥」という名前を与えた時の言葉を思い出す。
 「名前というものは親が子に与える初めての祝福だって言うから、俺がお前に名前を付けるなんておこがましいとは思うけどさ」と言った日翔の言葉。その意味を考えれば、エルステという個体名も、元をたどればUJFユジフ語の「一番目」という意味かもしれないが、それでも清史郎が辰弥に与えた祝福である、とも言えた。
 だが、同時に名前とは呪いである、とも聞いたことがある。呪いというオカルトは廃れて久しいが、それでも名前は親が子を縛るためのものだと。一歩間違えば、名前によって親は子供を支配する。
 どっちだろう、と辰弥は調整用の薬液の中に浸かりながら考える。
 第一号エルステという名は何度も捨てたいと思っていた。日翔に「鎖神 辰弥」という名をもらって生まれ変わったと思った。しかし、日翔が「人間として」与えてくれた名は今はもう意味をなさない。LEBとして、人としての在り方を棄て、自分というものも棄てた辰弥にこの名前はあまりにも重すぎる。清史郎が名付けたエルステの方が、今はしっくりくる。
 ――それでも、俺は鎖神 辰弥でありたい――。
 日翔父親が付けてくれたこの祝福を、捨てたくない。
 薬液に、薬液とは違う液体がほんの少しだけ混ざっていく。
 日翔も鏡介も今の自分を受け入れてくれた。鎖神 辰弥であることを手放さなくてもいい。
 清史郎の祝福呪いと日翔の祝福、どちらを選択すべきかは明らかなのに、辰弥は迷っていた。
 自分にはそんな権利なんてない、と。
 それに気づき、辰弥は苦笑する。
 いつもの自己否定だ、と。研究所の呪縛に捕らわれたままの卑屈な自分だ、と。
 そして、考え直す。
 せっかく生まれ変わったのに、どうして呪縛に捕らわれたままでいなければいけないのか、と。
「まぁ、本人が嫌だというならその時は考えるよ。確かに名前は祝福かもしれないが、本人がそれを望まなければただの呪詛だ。私だってエルステが嫌がることはしたくない」
 その言葉の直後、晃は辰弥に気付いたのか、調整槽に視線を投げた。
「そろそろだとは思っていたが目を覚ましたかな。今、水を抜くから少し待っててくれ」
 そう言い、晃が端末を操作すると調整槽の薬液が排出されていく。
 上半身を起こし、肺に入った薬液を吐き出す辰弥にタオルを渡し、晃が「それなら」と口を開く。
「エルステ、君は髪を乾かしながら聞いててくれ。結構重要なことだから」
「だから辰弥って呼んでやれと」
 まだ納得していないらしい日翔が口を挟む。
「いいよ。呼びたい名前で呼んでくれて。名前が一つだけなんて決まってないし、それこそ状況によって名前を使い分けることもあるじゃん」
 ここは俺が結論を出した方がいい、と辰弥が言うと、日翔はえぇー、と唇を尖らせた。
「お前は嫌じゃないのかよ。番号だなんて、まるで実験生物だろ」
「実際そうだったし。まぁ、一番愛着があるのは日翔が付けてくれた今の名前だよ? だけど名前なんて結局はただの記号だから、呼びたい名前で呼ぶのが一番いい」
 その言葉にほんの少しだけ嘘が含まれていたが、辰弥はこれでいい、と日翔を説得する。
「……お前がいいって言うなら……」
 いささか不本意ではあるようだが、日翔が頷く。
「で、重要なことって?」
 日翔に話の腰を折られた、と辰弥が促すと、晃はうん、と頷いてホログラムスクリーンを呼び出した。
「エルステのテロメアの件だけど、ノインとの融合で第二世代の『メンテナンスすれば実質不老』という特性が引き継がれた。が、エルステ自身のテロメアがもう限界だった。もう、これ以上細胞分裂が起きずに細胞老化が起きるレベルで」
 そう言い、晃がスクリーンに画像を呼び出す。
「これが調整前のエルステの染色体。こっちが日翔君の染色体……の、二人の共通部分を引用したんだが、エルステの染色体は明らかに損傷している。本来なら日翔君のようにもう少し末端が長いんだ。ここまでくると、一度のトランスでも致命傷となる」
「つまり、辰弥は――」
 鏡介が辰弥に視線を投げる。
 ああ、と晃が頷いた。
「多分、あと一回トランスしてたら調整してもダメだったかもしれない。まだ、ほんのわずかにでもテロメアが残っていてよかった」
 晃の言葉に、明らかにほっとする日翔と鏡介。
 鏡介に至っては「相変わらず、無茶しやがって」というおまけつきである。
「そんなわけで調整してテロメアの復元を行ったんだが、まぁエルステのテロメアの取得もあったから完全な復元には至っていない。融合前ほどトランス後の不調は出ないだろうけど、トランスを連発したら副作用は出ると思うよ」
「つまり、トランスはほどほどにってこと?」
 髪を拭きながら辰弥が確認する。流石に、昴に対して行ったような無茶はもうするつもりがなかったが、いつ全力を出さなければいけない戦いに巻き込まれるか分からない。
 それでも、普段の仕事ですらトランスをするな、ということでなければ多少の不調は構わない。むしろ今まで無理をしてきたのだからその後遺症が残るはずがないと思う方が間違っている。
 ああ、と晃が頷く。
「私も休みになったら顔を出して再調整するからすぐにトランスの制限はなくなると思うよ。今回の調整で5%は回復しているんだから二十回も調整すればエルステは万全だ」
「え、5%しか回復してないの?」
 数時間の調整だったが、今の辰弥の身体は調整前よりかなり軽く動かせるようになっている。それなのに回復量としてはたった5%だというのか。
 なにをう、と晃が反論する。
「本来なら修復できないテロメアが5%回復してるんだぞ? 私の腕を舐めないでもらいたいね」
「……マジか……」
 確かに、この回復量なら「トランスはほどほどに」も理解できる。いくらテロメアが損傷しにくい体質になったとはいえ、テロメアがこれだけしかなければ連発するのは自殺行為だろう。
 分かった、と辰弥が頷き、調整槽から出て服を手に取る。
 袖に腕を通しながら、晃の次の説明を聞く。
エルステ第一世代ノイン第二世代の融合の結果、基本的には両世代のいいとこどりになった、という感じだね。第一世代の造血能力も残ってるし第二世代のトランスのデメリットもほぼ消えている。ただ、融合した、と言っても完全に混ざり合ったんじゃなくて流動的にエルステとノインの細胞が入れ替わってる感じだ。へえ、LEBが融合するとこんな感じになるんだ」
 いや、LEBってすごいな? と興奮気味に説明する晃に、辰弥がそうだね、と頷く。
「だから全身トランスは俺とノインが息を合わせないとできない。身体の一部だったらトランスする場所を俺の細胞に入れ替えればできるんだけど」
「え、それ弱体化してない?」
 思わず日翔が声を上げる。その言葉に、辰弥が苦笑して頷く。
「まぁ、あのノインとの戦いのときみたいに液体になって逃げる、ということはもうできないかな。できないこともないけど俺とノインじゃ相性が悪すぎる」
「はえー……」
 日翔が声を漏らす。
「でも、あんなトランスはよほどのことがない限りやることないって。今のテロメアの状況を考えると多分液体化は致命傷だ」
「ま、それはそうか」
 いくら考えなしの日翔でも分かる。辰弥のテロメアが限界で、それを修復したがそれもわずかで、その状況でそのテロメアを削るトランスを行えばどうなるかということくらい。
 そう考えれば、今の状況は、全身トランスができなくなった現状は好ましいとも言える。
 辰弥のことだから、何かあれば、特に自分たちに危険が及ぶ状況になれば必ず無茶をする、という確信が日翔にはあった。だが、その無茶をノインの細胞が止めてくれるというのなら、それに越したことはない。
 日翔とて、辰弥にこれ以上無茶はしてもらいたくなかった。自分が義体化を拒んだために辰弥と鏡介が自分の命を棄てかねない行為に出たことは大きな反省点だった。最終的に全員助かったからと言って、「終わり良ければ総て良し」にしていい案件ではない。
 だからこそ、辰弥にストッパーが設定されたのは逆に心強かった。
 自分に何かあっても、きっと辰弥だけは生き延びてくれる、と。
「検査した結果はこれだ――ああそうそう、もう一つ驚くべき結果が出ているんだった」
 ホログラムスクリーンに映したデータをめくりながら、晃がもう一つだけ、と辰弥を見る。
「エルステは自覚あるだろうから日翔君と鏡介君に聞くんだが、エルステが元々は子を成せない身体だったってことは知ってるか?」
「ああ、『イヴ』から聞いたしトクヨンに残されていた資料も読んだ。LEB……厳密には第一世代LEBは交配による繁殖を想定していないから生殖能力はオミットした、と」
 今度は鏡介が返答する。
 ああ、その通りだ、と晃が頷く。
「そう、それなんだけど……。あるんだ、エルステには」
『え?』
 晃の言葉に、辰弥たち三人が同時に声を上げる。
「どういう……こと」
 完全にフリーズした日翔と鏡介を尻目に、辰弥がかすれた声で尋ねる。
「言葉の通りだよ。エルステ、君、生殖能力持ってるよ」
 これは恐らく融合の影響じゃない。それなら精巣ではなくノインの卵巣ができるはずだからね。いつ、なぜ、かは私には分からないが、と晃は続けた。
 晃の言葉に、辰弥の脳裏に一つの可能性が浮かび上がる。
 ――もし、千歳が生きていたら。
 もしも、というIfを考えても仕方ない、と思いつつも辰弥は考えてしまった。
 もし、千歳が生きていて、俺のことが好きだと演じ続けていれば、もしかして、と。
 そもそも人間とLEBという種族の壁はある。よほどの近親種でもない限り交配したところで受精することなどありえない。それでも、辰弥は自分のゲノム情報が人間のそれとかなり近いことを理解していた。それこそ、人間の姿をして、人間と同じ思考をして、人間の中に溶け込んで生きることができるレベルで人間に酷似しているLEBはある種の近親種と言えるだろう。
 それなら。それなら、もしかして。
「千歳……」
 辰弥が絞り出すように千歳の名を呼ぶ。
 流石の千歳もこれは拒絶したかもしれないが、今の自分なら自分と千歳の子を成すことができたかもしれない、という思いが辰弥の後悔を呼び起こす。
 あの時、刺しさえしなければ。あの時、死なせなければ。
 そこに、千歳の幸せを願う、という思考はなかった。
 ただ、辰弥に浮かんだのは、自分の子供をこの手に抱くことができればどれほど幸せだっただろうか、という後悔だった。
「あ……あぁ……」
 その声と共に、膝から力が抜け、辰弥はその場に膝をついた。
 その可能性は失われてしまった。その事実が、漸く千歳の死を受け入れられた辰弥を苛ます。
「……辰弥、」
 鏡介が辰弥に歩み寄り、膝をついて肩に手を置く。
 何か声をかけたいが、何を言っていいのか分からない。
 辰弥の気持ちは何となくだが分かる。いくら千歳が辰弥のことを嫌っていたとしても、だからと言って辰弥がそれを望んではいけないという理由にはならない。実際に行動に移してしまえば問題かもしれないが、千歳がもうこの世にいない今、辰弥が何を望むのかは自由だ。望んでしまったがゆえに絶望してしまうのも痛いほど分かる。もう叶えられないと分かっている願いほど辛いものはない。
 床に爪を立て、肩を震わせる辰弥に、鏡介は寄り添うしかできなかった。
 現実とはなんと残酷なものだろう、と考え、唇を噛む。
 死んでもなお、昴は辰弥を苦しめるのか、と。

 

to be continued……

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おまけ
ばにしんぐ☆ぽいんと り:ばーす 第12
「ふゅーじょん☆り:ばーす」

 


 

「Vanishing Point Re: Birth 第12章」のあとがきを
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