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Vanishing Point Re: Birth 第5章

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前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

日翔の筋萎縮性側索硬化症ALSが進行し、構音障害が発生。
武陽都ぶようとに移籍してきたうえでもう辞めた方がいいと説得するなぎさだが、日翔はそれでも辞めたくない、と言い張る。
そんな「グリム・リーパー」に武陽都のアライアンスは補充要員を送ると言う。
補充要員として寄こされたのは秋葉原あきはばら 千歳ちとせ
そんな折、辰弥たちの目にALS治療薬開発成功のニュースが飛び込んできた。
近日中に開始するという。その治験に日翔を潜り込ませたく、辰弥と鏡介は奔走する。
その結果、どこかの巨大複合企業メガコープに治療薬の独占販売権を入手させ、その見返りで治験の席を得ることが最短だと判断する。
どのメガコープに取り入るかを考え、以前仕事をした実績もある「サイバボーン・テクノロジー」を選択する辰弥と鏡介。いくつかの依頼を受け、苦戦するものの辰弥のLEBとしての能力で切り抜ける四人。
不調の兆しを見せる辰弥をよそに、今度はアライアンスから内部粛清の依頼が入る。
簡単な仕事だからと日翔を後方待機にさせ、依頼を遂行する辰弥と千歳。
しかし、その情報は相手チームに筒抜けになっており、その結果、辰弥は千歳に自分が人間ではないことを知られてしまう。

 

 
 

 

  第5章 「Re: Infection -再感染-」

 

 「終わったぞ」という言葉に辰弥が目を開け、寝かされていたベッドから体を起こす。
 視界のUIが起動処理を行っており、GNSを一旦再起動したのだと判断する。
「GNSの不正な有線接続中に相手側のセキュリティ起動、切断が早かったからよかったもののあと数秒遅かったら脳を焼かれてたぞ」
 闇GNSクリニックの技師がため息交じりに端末を操作し、再起動した辰弥のGNSに診断結果を送る。
 興味なさげに結果を確認し、辰弥はうなじのポートからケーブルを引き抜いた。
「死にたくなかったら気安く他人のGNSに侵入しないこったな」
「……別に、死にたくないわけじゃないし」
 辰弥が引き抜いたケーブルから手を離すと、ぜんまいばねの反発力を利用した自動巻取りで端末に格納されていく。
「……でも、日翔のためだったらまだ死ねないな」
「ああ、天辻の調子はどうだ? インナースケルトンの出力調整はしやすくなったと思うが」
 技師の言葉に、辰弥は小さく頷くことで返答した。
 構音障害の発現を機にGNSを導入した日翔。元々、インナースケルトンという埋め込み型のスケルトンを導入した時点でGNSも導入すべきだった。しかし、日翔の両親は当時中学生だった彼にGNSはまだ早いと初期設定のままインナースケルトンを埋め込んだ。だが、初期設定だと思っていたのは両親と日翔本人だけで、実際は埋め込んだ闇医者が最大出力に設定。その結果、日翔は常人ではあり得ない怪力を身に着けることになった。
 インナースケルトンに慣れるためのリハビリで多少ではあるが自身の筋肉を利用した出力調整は行なえるようになったし「ラファエル・ウィンド」に引き込まれてからはピッキングなどの器用さを求められる細かい指の動きも叩き込まれた。だから後から事情も何も知らない辰弥が加入しても四年間悟られることがなかった、という次第である。
 しかし、インナースケルトンはあくまでも弱まった筋力を補助、補強するもの。補助するとはいえ治療するものではないから日翔の筋萎縮性側索硬化症ALSが進行し、完全にニューロンの信号伝達が阻害されてしまえば制御を失ってしまう。そして、最近は症状の進行により日翔はGNSで細かい調整を行わなければ物を壊さずに持つことができなくなっていた。
 だから、構音障害を機に日翔がGNSを導入したのは遅かったとはいえ正解だったと言える。ただ、今までGNSなしでのインナースケルトンの運用に慣れていたから細かい調整に慣れていないだけだ。
 辰弥の返答に問題なさそうだなと判断した技師がぽん、とデータチップを投げて寄こす。
「まぁ問題はなかったが念のための保険だ。ワクチン打っとけ」
 技師が辰弥に放って寄こしたのは、GNSを構築するために脳内に注入されたナノマシンのプログラムの暴走を抑えるワクチンプログラムを格納したデータチップ。
 辰弥がそれをうなじのスロットに差し込んでロードすると、視界にインジケーターが表示される。
 インジケーターの数値が100%になり、【CompleteCPLT】表示になったところでデータチップを抜き、技師に返す。
「ったく、水城ウィザードの仲間ってどうしてこうも自分を大切にしないかねえ……」
 データチップをケースに戻しつつ技師がぼやく。
「さあ、終わったならとっとと帰れ。もう無茶はするなよ……と言いたいがどうせお前のことだ、自前の脳が擦り切れるまで無茶するんだろうよ」
 そんな技師の言葉を聞き流しながら辰弥がジャケットの袖に腕を通し、ベッドから降りた。
 技師から転送された請求書を確認、ウォレットから決済を済ませクリニックを出る。
 ごみごみとした街を、視線を落とし気味に歩く。
 別に黄金きんの瞳を見られたくないわけではない。ただ単に、まっすぐ前を見て歩きたくなかっただけだ。
 辰弥の心は沈んでいた。数時間前の昂ぶりが嘘だったかのように、現実に引き戻されている。
 ――千歳は、信じてはいけないのだろうか。
 鏡介は言っていた。「秋葉原には注意しろ」と。
 鏡介は自他共に認めるウィザード級ハッカーだ。千歳のことについても何か調べているのだろう。そして、掴めなかったとしてもそれまでに得た情報から彼女は危険だと考えているのだろう。
 その鏡介の勘は信頼するに値する。彼の洞察力の鋭さを甘く見てはいけない。千歳がかつて「カタストロフ」に所属していたという事実などからつながりはまだ絶たれていないという可能性を考えたのだろう。
 鏡介の言葉を信頼するなら千歳を信頼してはいけない。しかし、自分のことを好きだと言ってくれた彼女を切り捨てることは辰弥にはできなかった。
 辰弥もまた千歳に想いを寄せてしまっていることを自覚していた。生物兵器LEBゆえに人間に好意を寄せることは、愛してしまうことは許されないことだと分かっていても、千歳に対して日翔や鏡介とは違う感情を持ってしまっていることに気付いていた。
 鏡介を信じて千歳との接触を断つべきか。鏡介に反発して千歳と共に歩むべきか。
 そんな迷いが、辰弥の胸を締め付ける。
 分かっている。鏡介を裏切ることはそのまま日翔も見捨てることになるということも。
 だから、答えは分かり切っている。千歳を切り捨てて日翔のために戦うべきだと。人間ではない自分が人間の真似事をする権利などないのだ、たとえ鏡介を裏切ったとしてもその先で千歳を不幸にするのが見えている。それなら傷が浅いうちに切り捨ててしまえば苦しみは少なくて済む。
 ――「人間じゃない」から、か……。
 LEBとして生み出され、兵器として、道具として運用されてきたことに後悔はない。「人間ではない」から当たり前のことだと辰弥は受け入れていた。「グリム・リーパー」の一員として暗殺業に勤しんでいた時も、自分がLEBであるということは知られたくなかったものの「使えるものなら使ってくれ」と言わんばかりの態度で「仕事」を続けてきた。自分は、人を殺すためだけに造りだされたのだから、と。
 そこに「どうして自分は人間ではない?」という疑問は浮かばなかった。そんな疑問を持つことは許されなかった。
 それなのに、どうして今こんなに自分が「人間ではない」ことが悔やまれるのだろうか。
 もし、自分が人間だったら、作られた存在でなければ、どう感じていたのだろうか。
 そんなあり得ないIfなど考えたところでどうしようもないことは分かっている。それでも、考えてしまう。もし、自分が人間だったら、と。
 鏡介を裏切って、日翔を見捨てて、千歳を選んだのだろうか。自分の幸せのために仲間を棄てたのだろうか。
 分からない。あり得ないIfの話なんて。どうあがいても自分は人間になれないし、人間ではない存在が人並みの幸せを掴む権利などどこにもない。好きと言って、好きと言われて、踏み込んだ関係になったとしても、人間のように自分の遺伝子を残すことすら許されない。どこまで行っても辰弥エルステは一個の兵器であり、兵器が幸せを望むことなどあってはならない。
 千歳を諦めろ、と辰弥の奥底で声が囁く。
 お前には千歳を幸せにすることなんてできない、と。
 人々がせかせかと歩く通りを歩く辰弥の足取りは重い。
 その足が歩みを止める。
「……俺、は……」
 自分の掌に視線を落とし、辰弥は苦しげに呟いた。
 この手は血に染まっている。そうなるべく作り出された。ノインのトランス能力をコピーしてからはこの手が奪われたとしても即座に再生できる。
 その事実が、純粋に悔しい。
 人間になりたかった。人間として生きたかった。その上で命が絶たれるのならそれは仕方のないことだ。「兵器ではない自分」が生きていけるほどこの世界は甘くない。
 千歳と出会って、初めて自分が人間でないという事実に絶望した。
 千歳は全てを知った上でそれでも受け入れてくれたが、辰弥自身が自分の存在を受け入れられなくなっている。
 ぽたり、と掌に水滴が落ちる。
 それに驚いて目をこする。
「なんで、俺、泣いて……」
 涙がこぼれた理由など考えたくなかった。考えたところで解決する問題ではないから。
 袖で涙をぬぐい、辰弥は再び歩き出した。
 高層建築物に囲まれた狭い空がどんよりと曇り、今にも降り出しそうな様子を見せている。
 早く帰ろう、そういえば鏡介が八谷を呼ぶと言ってた、と思い出し、ほんの少しだけ、歩く速度を早めた。

 

「あら、鎖神くんおかえりなさい。大丈夫だった?」
 帰宅した辰弥がリビングに入るなり、既に到着していた渚が声をかけてくる。
「うん、異常はなかった」
 一応ワクチンも入れたし大丈夫だと思う、と辰弥が答えるとそれなら、と渚がソファから立ち上がる。
「それじゃ、今度はわたしの番ね。みっちり調べさせてもらうわよ」
 そう言って渚が辰弥を部屋に誘導する。
 日翔も鏡介も姿を見せないことを考えると寝ていたり調べ物をしていて、辰弥は渚に任せた、ということだろう。
 渚と共に自室に入り、辰弥はジャケットを脱いでハンガーに掛けた。
「じゃあ、ちょっと横になって」
 鞄から採血用の注射器や検査キットを取り出しながら渚が指示を出す。
 その指示に従って辰弥がベッドに横になると渚は慣れた手つきで採血し、簡易検査キットにセットする。
 検査結果が出るまでの間、GNSでバイタルを確認したり、瞳孔反射などを確認する。
「……反射能力とかは問題なさそうね。となると気になるのは血液検査の結果……」
 ちら、と検査キットに視線を投げる渚。
 それから再び辰弥に視線を戻すと、彼はぼんやりと天井を見上げていた。
「どうしたの、悩んでるみたいね」
「……うん」
 渚には隠していても仕方ないと思ったのか、辰弥が相変わらずぼんやりしたまま頷く。
「どうしたの。相談に乗ったほうがいい?」
 カウンセラーでもない渚がそんなことを聞いてくるのは珍しい。
 渚に相談すれば少しは気が楽になるだろうか、と考えて辰弥はすぐにいいや、と考え直した。
 この件は渚に相談したところで解決することなんてない。確かに彼女は医者で、守秘義務を厳密に守る口が堅い人間である。思いの丈をぶちまけてしまえばスッキリするだろうし、それを彼女が外に漏らすことはない。
 それでも相談しない、という結論に至ったのは結局は一時しのぎにしかならないと思ったからだ。
 ただいたずらに渚を悩ませ、抱え込ませることになる。
 それなら自分一人で抱え込んでいた方が、秘密を知る人間は一人で済む。
 そう、と渚が頷いて辰弥の頭を撫でた。
「子供扱い――」
「七歳児がませてんじゃないわよ。子供なら子供らしく大人を頼りなさい」
 まぁ、無理に聞き出す気はないけどと続けたタイミングで簡易検査キットが停止し、検査が終了したことを告げてくる。
 検査結果を自分と辰弥のGNSに転送し、渚は眉間に皺を寄せた。
「……悪くなってるわね」
「何が」
 この場合、各種数値が、ということは分かっているはずなのに辰弥は思わずそう尋ねていた。
「うん、もう何もかもの数値が戻ってきた直後に比べて悪くなってる。まるで……」
 そこまで呟いて渚が一度口を閉じる。
 これは言っていいことなのか、悪いことなのかを考えているのか、と彼女のその反応で辰弥は察して体を起こした。
 ベッドに腰かけ、まっすぐ渚の目を見る。
「八谷、教えて。いくら医者に守秘義務があったとしても患者本人に開示してはいけない情報なんてないはずだ」
「それは、そうだけど……」
 それはまるでガン患者にガンの宣告を躊躇うような口ぶり。
 まさか、と辰弥が口を開き、閉じる。
 自分の余命に関わることなのか、と訊こうとして口ごもる。
 仮にそれが事実だったとして、意味があるのか、と。
 沈黙が室内を満たす。
 二人とも、何も言いだすことができずに時間だけが過ぎていく。
 その沈黙を破ったのは渚だった。
 観念したように口を開き、辰弥に告げる。
「……まるで急激に老化してるように見える。肉体自体はトランスで改造できるかもしれないけど、血液は正直――というか、作り変えられないのかもしれないわね」
「……」
 予想すらしていなかった告知。
 まだ悪性腫瘍ガンの類だったらよかった。そういったものなら切除してトランスで再生することも、場合によってはトランスで無害なものに作り変えることができる。
 しかし、老化はいくら辰弥でも止めることはできない。あらゆる生物は細胞分裂を繰り返して肉体を維持しているがその細胞分裂には限度がある。生物のDNAの末端に存在するテロメアが細胞分裂のたびに短くなり、限界を迎えた時それ以上の細胞分裂が行われなくなり生物は死を迎える。
 精密にDNAを検査したわけではないから辰弥のDNAのテロメアが現在どのような状況かは分からない。しかし血液検査の結果が「急激に老化したように見える」ということはもしかすると辰弥の、LEBとしての寿命は人間のそれよりはるかに短いものなのかもしれない。寿命が近づいたから、辰弥の肉体は、特にLEBとしての生命維持に重要な血液の劣化が加速した可能性は十分に考えられる。
「……そっか……」
 絞り出すように辰弥が呟いた。
 ここでも突き付けられた「人間ではない」という事実。日翔や鏡介のような「人間」と同じ時間を歩くことができないかもしれないという現実。
 もしかすると、日翔を治験の席に潜り込ませることができて、ALSが治癒したとしても、その後の彼の人生を見守ることはできないのかもしれない。
 日翔が、鏡介が歩む道を、自分は歩けないのかもしれない。
「……『イヴ』の見立てではあとどれくらい生きられると思う?」
「鎖神くん……」
 辰弥の問いかけに、渚が目を伏せる。そして、ゆっくりと首を横に振る。
「分からない」
「分からない、って……」
 渚の言葉に辰弥が思わず彼女に手を伸ばす。
 渚の白衣を掴み、彼女を見上げる。
「教えてよ! 俺はあとどれくらい生きられるの? 日翔には余命宣告しておいて、俺には伝えないって言うの?」
 普段感情を露にすることは滅多にない辰弥が声を荒らげる。
 渚ならもう分かっているはずだ。残された時間くらい。
 分からないとは言わせない。日翔にはっきりと残り時間を伝えた渚が、俺に残された時間を伏せる権利などないとばかりに辰弥は渚を詰める。
「……分からないの、本当に」
 苦しそうに渚が呟く。
「こんなこと言いたくないけど、鎖神くんは人間じゃない。わたしはLEBという存在がどういう存在かまだ完全に把握してない。寿命も、生態も、何も分からないの。分かっているのはLEBが自分の血で物体を作り出すことができるということと、鎖神くんはLEBの中でも特殊個体で第二世代せっちゃんからトランス能力をコピーしたということくらい。その程度しか分からないのにあとどれくらい生きられるかなんて計算できないわよ」
「……八谷……」
 そうだ、自分は人間ではない。人間と同じ基準で物事を考えてはいけない。
 だから、自分の発言が無茶な要求だということも分かってはいた。
 それでも聞きたかったのだ。自分に残された時間がどれくらいなのかを。
 自分が死ぬことに恐怖を持っているとか、死にたくないと思っているわけではない。
 確かに「死にたくない」という感情は持ってはいるが、それは日翔や鏡介が生きているから「死にたくない」だけであってもし二人が死ぬようなことになれば、その途端に生きる意味を喪失してしまうということくらい辰弥は理解していた。
 しかし、その二人より先に死ぬことが確定したというのなら。
 それは嫌だ、と辰弥は思った。
 二人が歩む先を見届けたい。二人と同じ道を歩きたい。
 今はそこに千歳という存在もある。
 四人で、まだ見ぬ未来を見届けたい。
 それを望むのはいけないことなのだろうか。
 人間でない自分が大切な人間と歩みたいという望みは過ぎたものなのだろうか。
 渚が辰弥の肩に手を置く。
「そもそも人間の寿命だって人間が適当に言っているだけのものよ。平均寿命が八十歳とか言われたとしてもあくまでも平均で誤差なんて上から下まで見たらきりがない。鎖神くんはその平均が分からないだで、仮にLEBの平均寿命が分かったとしてもそれより生きられるのか生きられないのかは分からないのよ」
「それは……分かってる……」
 平均寿命など知ったところで必ずそこまで生きられるとは限らない。それに暗殺業に身を置いている辰弥が長く生きるなど、無理な話である。どこで死ぬか分からないのにタイムリミットを聞かされたところでそこまで生きられる保証はどこにもないのだ。
 そうだね、と辰弥が呟いた。
「……ごめん、八つ当たりした」
「いいのよ」
 そう言って渚は辰弥から離れ、検査キットを鞄に収納した。
「とりあえず、わたしが言えることは鎖神くんは今後どんどん調子が悪くなっていくかもしれない。でも原因は分からない。何かしら外的要因があって老化現象が発生しているのならその外的要因を取り除けば回復するかもしれないけど純粋な老化現象だったらそれはあなたの寿命よ。それは考えておいた方がいいかもしれない」
「……うん」
 渚の説明に、辰弥は頷いた。
 患者本人になら、彼女は自分が知りえることをすべて開示する。そう考えると「分からない」も本当にデータ不足で根拠と共にはっきりしたことが言えないのだろう。それに、辰弥の体調に関しては今後データは増えていくはず。その過程ではっきりしたことが分かるかもしれない。
 それじゃ、帰るわ、と渚が鞄を肩に掛ける。
「あまり深く考えちゃだめよ」
「うん」
 辰弥が頷く。
 今は考えていても仕方がない。結局、時折起こる不調の原因は自身の老化現象に関わっているのだと考えるのが妥当だろう。その老化現象自体が外的要因なのか、LEBの寿命としてのものなのかは分からなかったが、残された時間は分からないとはいえそう長くないのかもしれない。
「暫くは様子見ね。だけど、データを取りたいから前よりは頻繁に検査させてもらうわ。どうせ前ほど輸血パック消費してないみたいだし多少血を抜いても問題ないでしょう」
 再び頷く辰弥。
 以前は何かを生成するのに必ず血液の消費があったが、今はトランスがある。トランスにより大幅に血液の消費量が減った辰弥は本来なら「以前より健康になった」と考えるべきなのだが。
「じゃあ、帰るわ。何かあったらすぐ呼んで」
 ひらひらと手を振り、渚が辰弥の部屋を出る。
 それについて部屋を出て、辰弥は玄関まで渚を見送った。
 玄関のドアを閉め、ドアにもたれかかる。
「……」
 ――鏡介には、言えない。
 いや、日翔にも言えないのは事実である。しかし、現状を考えると特に鏡介に伝えることはできない。
 今、日翔に治験の席を用意するために自分たちは戦っている。そんな状況で自分が戦力外になりえる話をするわけにはいかない。するとしても治験の席を確保してからだ。
 確かに辰弥は日翔と鏡介と共に未来を歩きたいと望んでいる。だが、それ以上に自分の命で日翔が助かるのならいくらでも棄てる覚悟はできている。治験の席を確保できるのなら、その結果自分が死ぬことになろうとも構わない。ただ、それが叶う前に死にたくないだけだ。
「日翔……」
 助けたい。新薬はその願いを叶える唯一の希望。
 勿論、日翔を殴り倒して強引に義体化させることもできる。むしろその方が確実に日翔を生き永らえさせるだろう。
 それでもその手段を使いたくないと辰弥が思ったのはひとえに日翔の意思を尊重したいからだ。
 「絶対に人工循環液ホワイトブラッドを身体に入れない」と言い張る日翔の意志を無視してまで義体化させることはできない。そんなことをすれば今まで築き上げてきた関係が壊れてしまう。
 だから、それ以外の方法で日翔を救う。それが叶わないのであれば――。
「……いや、日翔がそんなことを望むはずがない」
 日翔を一人で逝かせない、と思ってしまった自分の思考を叱咤する。
 後を追ったところで日翔が喜ぶものか。
 日翔はきっと言うだろう。「生きて、幸せになれ」と。
 自分の体調よりも辰弥の幸せを考えるような人間なのだ。いくら辰弥が人間でない存在であったとしても、それでもその幸せを第一に考える。
 武陽都に来てからもそうだ。日翔は辰弥に「幸せになれ」と何度も言った。
 その言葉に「俺のことはいいから」が含まれていることにも気付いている。
 日翔はもう覚悟を決めている。残された時間があとわずかであることを受け入れ、その準備を始めている。
「……嫌だよ……」
 ぽつり、と辰弥が呟いた。
「日翔も、幸せになってよ……」
 暗殺の道から、裏社会から逃れて、穏やかに、自由に生きてもらいたい。「残された時間」なんて考えずに、いつまでも、人間としての寿命を全うしてもらいたい。
 ――そのためなら、俺はなんだってするから――。
 どこかで聞いたことがある。「神」という存在がいて、人間を見守っていると。
 強く願えば、その願いは叶えられるかもしれないと。
 ――神様、もしいるなら、日翔を助けて。
 俺はどうなってもいいから。生命の理を捻じ曲げられて作られた俺なんてどうでもいいから。
 俺じゃなくて、日翔を生き永らえさせて。
 そう、祈るしかできなかった。
 LEBが祈ったところでその声は「神」に届くことはないだろう、という内なる囁きが聞こえるが無視をする。
 願うだけ無駄なのだ、と囁く声が憎たらしい。
 LEBにだって、大切な存在の無事を願う権利くらいはある。
 そう、自分に言い聞かせないと壊れてしまいそうだった。
「……辰弥?」
 渚が帰ったことに気付いたか、鏡介が玄関に顔を出す。
「『イヴ』は帰ったのか?」
「……うん」
 ドアから離れてリビングに向かおうとしながら辰弥が頷く。
「どうだったんだ? 何か分かったか?」
 辰弥の様子に良からぬ雰囲気を感じたか、鏡介が眉間に皺を寄せながら尋ねる。
「いや、別に――」
 その一言だけで、鏡介は何かを察したようだった。
 自分の隣を通り過ぎようとする辰弥の頭をポンポンと叩く。
「あまり思いつめるな」
「鏡介――」
 ちら、と見上げてきた辰弥の顔が泣きそうになっているのを見て、鏡介が優しく微笑む。
「お前は日翔を助けると誓った、それでいい。お前がやりたいようにやれ」
 俺はそれについていく、と続けると辰弥は目を伏せ、「うん」と小さく頷いた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

「辰弥、日翔、依頼だ」
 辰弥が渚の診察を受けて暫く日数が経過した夕食後、くつろいでいた辰弥と日翔に鏡介が声をかける。
《また仕事かぁー?》
 サブスクリプションの動画サービスで映画を見ようとしていた日翔がめんどくさそうにGNSを操作してウィンドウを閉じる。
 ああ、と鏡介が二人に、そして自宅にいる千歳にデータを転送する。
「『サイバボーン・テクノロジー』からの依頼だ。ライバル企業への妨害工作を頼みたい、とのことだ」
 「サイバボーン・テクノロジー」の名が出た瞬間、辰弥の表情が硬くなる。
 治験の席を懸けた依頼。逃げるわけにも、失敗するわけにもいかない。
 妨害工作ということは次はどこを攻撃する? と辰弥が鏡介を見る。
「今回のターゲットは――『アカツキ』だな。巨大複合企業メガコープの中ではかなり下位に位置する企業だが、弱小企業を潰すことで他の企業への牽制とするのだろう」
 そう言いながらも鏡介は辰弥にだけ一つデータを転送する。
 それは「アカツキ」もALS治療薬専売権を巡った入札競争に参入しているという情報だった。
 なるほど、と辰弥が頷く。
 「サイバボーン」は鏡介の言う通り、弱小企業を潰して牽制しようとしている――他の入札企業を。
 鏡介から時々状況を聞かされているから分かっている。現在のトップ入札企業は「御神楽財閥」、「榎田製薬」、そして「サイバボーン・テクノロジー」の三社。この三社が激しい入札競争を繰り広げているがそれでもこの三社の潰し合いを利用して漁夫の利を得ようとしている弱小企業も複数ある。
 その企業を潰すことで他の二社を牽制し、優位に立とうとしているのだ。
 分かった、と辰弥が頷く。
「今回は『アカツキ』の本社ビルを攻撃する。まぁ、『アカツキ』は生身至上主義を貫いている企業だ、『カグラ・コントラクター』みたいに義体兵がゴロゴロしてるわけじゃない。それに奴らのGNSも量子ネットワークで戦術データリンクリンクを組んでいないだろうから俺がほとんど無力化できる」
 「アカツキ」はメガコープの一社とはいえ、弱小企業である。それゆえ今まで戦ってきた「御神楽財閥」所有の「カグラ・コントラクター」と比べるのも憚られるほどその力は弱い。企業全体が生身至上主義を貫いているから一部の富裕層から強い支持を得て権威を保っているが、実際は少し突けばすぐに崩れてしまう。
 それでも「アカツキ」が崩れずその権威を維持しているのはその「生身至上主義」の富裕層に社会的地位の高い人間が多いからだろう。だからこそ他のメガコープは手が出しづらい状況となっている。
 しかし、それをメガコープとは無関係の暗殺者が密かに手を出してしまえば。
 どの企業が手を出したか分からないからこそ、「アカツキ」はあっという間に解体される、そう「サイバボーン・テクノロジー」は踏んでいるのだろう。仮に「アカツキ」が「グリム・リーパー」の攻撃だと気づいたところで知らぬ存ぜぬを貫けばいい。
 鉄砲玉になれ、という案件だということは辰弥も鏡介も分かっていた。だが、これを受けなければ日翔を治験の席に座らせることができない。
 ある意味屈辱的な依頼ではある。しかし、受けなければいけない。
 かつてはメガコープの鉄砲玉になんかなりたくない、自分たちはそんな奴らとは違う、そう思っていた辰弥たちではあったが、その誇りを捨ててでも守りたいもの、叶えたいものはあった。
 日翔を助けたい。それは、「三人で生きていく」と決めた辰弥と鏡介の最大の望み。
 だからこそ、今は泥を啜ろうとも目の間の希望にしがみつく。
《まぁ、今回は楽できそうですね。前回は思わぬ伏兵にやられましたから》
 千歳が少々皮肉を込めてそう返してくる。
 前回、暗殺連盟アライアンス内部の粛清依頼を受けて遂行したが、本来なら簡単であったはずのその依頼は情報が筒抜けになっていて困難を極めた。
 結果、辰弥は千歳に自分が人間ではないということを知られてしまった。
 それを受け入れてくれた千歳だったからよかったものの、彼女が「こんな気持ち悪い存在と一緒に働きたくない」と拒絶していたらどうなっていたか。
 考えていても仕方ないが、幸運に助けられたことは事実だろう。
 とにかく、「楽な依頼だ」と言われてはいそうですかと鵜呑みにしてはいけない。千歳はそう言っている。
「で、今回のプランはどうするの?」
 辰弥が鏡介に確認する。
 「グリム・リーパー」のリーダーでありブレーンである鏡介のことだ、何かしらの攻撃プランは既に立てているはず。
 そうだな、と鏡介が頷く。
「本社ビルを爆破したら『アカツキ』の力もその程度だと思い知らせることができるだろう、ということだからな。上まで行く必要はない、低階層に効果的に爆薬を仕掛ければ倒壊させることができる。周りの被害を考える必要もないから派手にやってくれ」
「了解」
 鏡介から転送された「アカツキ」の本社ビルのフロアマップを見ながら辰弥は頷いた。
 フロアマップには効率よく倒壊させるための起爆ポイントも既に入力されており、爆薬の設置ルート等を頭に叩き込む。
「で、いつやるの?」
 日程が気になり、辰弥が尋ねる。
 本社ビル爆破となると相当量の爆薬も必要だし準備にも時間がかかる。
 辰弥の問いに、鏡介が各種プランを転送する。
「今回、爆薬は『サイバボーン』が準備してくれる。大方御神楽で使用しているものの同型を調達して、罪を擦り付けようとするんだろうな」
「なるほど」
 それなら準備自体は少なくて済む。
 「サイバボーン・テクノロジー」が爆薬を準備するのならどこかでそれを受け渡しして仕事に挑むまで。
 鏡介がその日程を確認、三人に共有する。
《結構急な日程ですね。前回の依頼での辰弥さんの不調を考えるともう少し休息が欲しいところですが》
 日程を受け取った千歳が不満そうに呟く。
「いや、俺は大丈夫だよ。『イヴ』にも診てもらった、もう問題ないって」
 そう、辰弥は平然と嘘を吐いた。
 実際は「急激な老化現象が起こっている」と言われている。もしかしたら残された時間は思っているほどないのかもしれない。
 それを、誰にも知られたくなくて、辰弥は嘘を吐いた。
 こんなことで仕事のメンバーから外されたくない。自分が外れたことによって誰かに被害が出ることも考えたくない。
 特に千歳にはこれ以上心配を掛けたくない。日翔や鏡介は「無理をするな」とは言っても最終的に自分の意志を尊重してくれる。しかし、千歳はそうはいかないだろう。
 もし、自分があまり長く生きられないかもしれないと知れば――。
(これ、ブーメランだな)
 「千歳ならこう考えるかもしれない」という自分のシミュレーション結果に、辰弥は苦笑した。
 千歳ならきっとこう言う――「もう、戦わないで」と。「LEBという運命に縛られずに自由に生きて」と。
 同じことを、以前、辰弥は日翔に言っていた。
 日翔のALSを知った時に、「君は、裏社会この世界にいていい人間じゃない。表の世界に戻るべきだ」と。
 日翔が大切だったから、日翔にこれ以上苦しんでもらいたくなかったから、辰弥はそう言ったが、それは自分が今しがた考えた「千歳が言うかもしれない台詞」そのままである。
 この言葉を言われて、素直に暗殺の道から外れることができるのか。否、それはあり得ない。
 日翔はまだ借金という枷さえ外れれば表の世界に戻ることができるかもしれない。しかし、辰弥自身は。
 LEBという、「人間を殺すためだけに造りだされた」生物兵器に表の世界など存在しない。
 「戦わなくていい」と言われても、それ以外にできることなど何もない。
 言われても無駄なことだから、千歳には知られたくなかった。
 むしろ千歳こそ暗殺の道から外れてもらいたいものだ、と思う。
 辰弥は千歳が何故暗殺者の道に踏み込んだのか、「カタストロフ」に入ったのか、そして除籍されたのかを知らない。それでも、もし可能性があるのなら表の世界に戻ってほしい、と思う。
 それが自分のエゴだとは理解している。それでも、これ以上危険な目に遭ってもらいたくない。
 自分の不調を考えると何かあった時に彼女を守り切れる自信がない。もし、日翔と千歳が同時に危機的状況に陥って、どちらかしか助けることができないとなった時に彼女の手を掴める自信がない。
 確かに辰弥は千歳に対して好意を、恋愛感情を抱いている。
 それでも、それ以上に日翔は大切な仲間だった。いくら千歳のことが好きでも、彼を裏切ることはできない。
「――おい、辰弥?」
 急に鏡介に呼びかけられ、辰弥が我に返る。
「え? 何」
「何か悩んでいるのか?」
 心配そうな鏡介の声。
「いや、別に――」
 そうだ、今は依頼のことを考えるべきだ。表の世界に戻る話なんて考えていても仕方がない。
「悩んでも仕方のないことを考えてた。とにかく、『アカツキ』の本社ビルさえ倒壊させればいいんでしょ? 任せてよ」
 とにかく爆薬を必要以上に仕込めば大抵なんとかなる。
 それを分かっているだろうから「サイバボーン・テクノロジー」も余分に支給してくれるはず。
 打ち合わせを進め、辰弥はふと考えた。
 「もしあの時、御神楽の提案を受け入れていれば、日翔は確実に助けられたのだろうか」と。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 依頼決行当日。
 辰弥、日翔、千歳の三人は爆薬の入ったリュックを背にそれぞれの武器の確認をしていた。
 今回の対象は「アカツキ」の本社ビル。爆破して、倒壊、もしくは修復不可能なダメージを負わせることが目的。
 当然、「アカツキ」も警備のために独自の武装勢力は所持しているが生身至上主義を貫いているため義体兵は存在しない。GNSが普及した世の中であるにもかかわらずそれすら導入していない人間もそれなりにいるらしい。
 また、メガコープとは言え弱小企業なので大手企業のような量子コンピュータを設置したり、それを利用した戦術データリンクを構築しているわけでもないので中央演算装置メインフレームを乗っ取ればGNSを導入した兵士を全員無力化するのはたやすい。
 そうなれば障害となるのはGNSを導入していない兵士のみとなる。
 GNSを使用しない通信端末としてはCCTがあるが、それも最近のものは視覚、聴覚に干渉するものなのでその二つを潰すような攻撃を行えば簡単に無力化できる。
 障害はほとんどないに等しい。
 前回のようなイレギュラーは起こりえない。
 鏡介が本社ビルのセキュリティをシャットダウンする。
 それを合図に三人はビル内部に侵入した。
《メインフレームを掌握した。……やはり、こいつを起点にデータリンクを構築しているな》
 鏡介が警備兵にHASHを送り込むべく調整を行う。
《もっと大手ならメインフレームを乗っ取られたときの対策としてGNS同士の短波通信によるリンクを構築するがそこまでは金が回らなかったのか……? メインフレームから全体に網が広がっている》
 鏡介の呟きに、どうやら簡単に全員を無力化できそうだと辰弥が判断する。
(俺をアンテナにしなくても行けそう?)
《ああ、余裕だ。今HASHを送る》
 そう言いながら鏡介がエンターキーを押下、メインフレームを通じて本社ビル内の警備兵全てにすぐには復帰できないレベルのHASHを送り込む。
 廊下のあちこちから聞こえる呻き声に「さすが鏡介Rain」と考える辰弥。
《これで暫くは動けないはずだがたまにタフなやついるからな……もしそうなったら排除してくれ。あと、CCT組はどうやら日翔が前使ってたタイプ旧型っぽいな……一応はHASH対策していたか》
 新型のCCTは視覚投影、聴覚制御で、通信面は「外部機器を使っている」以外GNSとあまり変わりがない。しかし旧型のCCTはホログラムディスプレイにスピーカーという構造なのでHASHを送り込んでもその性能を発揮することができない。
 生身至上主義の「アカツキ」は通信面でもその主義を貫くのか、と思いつつ、HASH対策としては有効な旧型CCTの使用に鏡介は舌を巻いた。
 敵兵に関わるサポートはここまで。メインフレームを掌握してセキュリティは完全に沈黙させたので、敵は三人が今どこにいるのかは全く把握できていない。勿論、サーモグラフィや音響センサーなどを使用すればある程度は把握できるかもしれないがそれでもリアルタイム更新されるセキュリティの監視に比べれば精度は落ちる。
 今、人類のGNS普及率は九割を超えている。残りの一割全てが「アカツキ」に就職しているとは思えないので「アカツキ」の勢力でCCTを使用している残存している兵士はごくわずかと考えられる。
 これなら激しい戦闘になることもないだろうし、今現場に立っている三人は暗殺者としてプロである。先手を打って排除することは簡単だろう。
 それなら、と鏡介は「アカツキ」本社ビルの見取り図を呼び出した。
 爆薬は多めに支給されているとはいえ、適当に設置しただけでは大したダメージが与えられない。
 時間もないので、できれば基礎部分や鉄骨部分にダメージを与え、周囲への被害を考慮せず倒壊させたい。
 本来の爆破解体は緻密に計算された爆薬の量、導火線の配置、そしてあらかじめ鉄筋へダメージを与えておくことで、起爆した際建造物が中央へ巻き込まれて崩れていくように行われている。
 しかしいくら鏡介でも解体現場の知識があるはずがなく、知識も時間も爆薬も限られた中で最大の効果を引き出すには見取り図と建築構造からシミュレートした爆破ポイントへの爆薬の設置を行うしかない。
 そのシミュレーションは完了しており、辰弥たちが指定したポイントに爆薬を仕掛けるだけ。
 よし、と鏡介が三人に指示を出す。
《散会しろ。事前に送った爆破ポイントに爆薬を仕掛けてくれ》
 鏡介の指示に三人が「了解」と返事する。
日翔Gene、大丈夫?」
 よいしょ、とリュックを背負い直す日翔に辰弥が声をかける。
《大丈夫だよ、爆薬仕掛けて戻ってくる、それだけなら楽勝だ》
 そう言って日翔がにっ、と笑う。
《それとも、心配で付いてきたいってか? 心配すんな、Rainがほとんど無力化してくれてんだ、残りの排除くらい俺でもできる》
「……うん」
 効率よく回るには三人が分散して指定ポイントに行く方がいい。
 それは分かっていたが、日翔が心配で付いていきたい、と考えてしまう。
 しかしそんな時間がないということも分かっていた。
 鏡介がHASHを送り付けたところでその効果は永続しない。時間をかければかけるほど復帰する兵士が増えてしまう。それに一度HASHを受けた人間には耐性が付く。時間を置いて再度送り付ければ問題ないが、短時間で何度も送るとその分効果は激減する。
 HASHで無力化された敵兵が復帰する前に全てを終わらせなければならない。
「……気を付けて」
《ああ、お前もな》
 ひらひらと手を振り、日翔が走り出す。
辰弥BBさんも、気を付けてくださいね」
 千歳もリュックを背負い直し、走り出す。
「……千歳Snow、君も無理しないで」
 ぽつりと呟き、辰弥も走り出した。
 視界に表示される見取り図と自分が担当する爆破ポイントを確認、効率よく回るためのルートも計算されているためそれに従い、通路を駆ける。
 一本の柱の前で辰弥は立ち止まった。
 リュックから爆薬を取り出し、柱に設置する。
 起爆自体は鏡介が行ってくれる、タイマーなどは考えなくていい。
 起爆のための通信をオンラインにして、次のポイントへと向かう。
 ……と、数発の銃弾が辰弥に向かって飛来する。
 ――見つかったか!
 即座に敵の位置を特定し、TWE Two-tWo-threEを発砲、銃弾は狙い違わず「アカツキ」の兵士を撃ち抜く。
 それを飛び越え、辰弥は通路を駆けた。
 見つかったとはいえセキュリティが無効化されている今、辰弥の詳細な位置は把握されていない。恐らくは捜索中に偶然遭遇しただけだろう。
 だから敵を排除してすぐに移動すれば現在地は分からない。CCTで本部と通信はしたかもしれないがどこへ向かったか把握する前に殺している。
 どうせビルが倒壊すれば生身の人間などひとたまりもない、手心を加えて生かしておく必要もない。
 角を曲がったところで侵入者を探す「アカツキ」の兵士を発見、気づかれる前に排除する。
 二つ目のポイントに到着、すぐに爆薬を設置。
 三つ目のポイントに向かう。
 だが、見取り図が古かったのか、鏡介がルートどりを間違えたのか通路は吹き抜けによって分断されていた。
「……マジか」
 ジャンプで飛び越えられるような距離ではない。かと言って回り込んでいる時間もない。
「ええい、ままよ!」
 ちら、と周りを見る。
 上階の手すりに目をつけ、辰弥はそこに向けて手を伸ばした。
 腕がワイヤーにトランスし、上階の手すりに絡みつく。
 そのまま手すりを乗り越え、辰弥は吹き抜けに身を躍らせた。
 振り子の要領で吹き抜けを飛び越え、向かいの通路に降り立つ。
 トランスを解除し、辰弥は再び走り出した。
 HASHに打ちのめされて気絶する兵士の横を通り抜け、爆薬を設置していく。
《こちらは終わりました》
《こっちも終わったぜ!》
 千歳と日翔から連絡が入る。
「俺も今終わった、合流しよう」
 ちら、と見取り図に視線を投げる。
 出口までの最短ルートを確認する。
 しかし、この最短ルートはあくまでも人間が脱出するのに最適、最短であって人間ではない辰弥が脱出するにはもっと最適なルートがある。
 例えば――。
 通路を駆け抜け、辰弥は吹き抜けのあるホールに出た。
 いくら基部から破壊すればいいと言っても一階部分のみでは最大の効果が出ない。
 低階層部分にうまく仕掛ければビルは使用不可能なまでのダメージを受ける。
 そのため、辰弥は現在本社ビルの五階部分にいた。
 人間なら五階から飛び降りて無傷で済むなどほぼほぼあり得ない。よほどの幸運が重なって軽傷で済む程度だろう。だが、LEBである辰弥は飛び降りることで傷を負うリスクを軽減できる。
 手すりから身を乗り出すと、一階のエントランスホールに数人の兵士が周辺を警戒している。
 それなら、と辰弥は吹き抜けに身を躍らせた。
 片手をワイヤーにトランスさせて手すりに絡ませ、落下の勢いを殺す。
 同時、もう片方の手を横薙ぎに振るうと空中に幾本もの槍が生成され、落下を始める。
 勘の鋭かった一人が吹き抜けを見上げ、落下する辰弥に気付く。
 しかし、気付くのがあまりにも遅かった。
 次の瞬間、落下した槍は全てエントランスホールで身構えていた兵士たちを貫き、絶命させる。
 床に磔にされた兵士たちの只中に、辰弥が危なげもなく着地する。
 トランスを解除して悠々とエントランスを抜け、辰弥は「アカツキ」本社ビルの外に出た。
 近くに停めてあった車に戻り、暫く待つと千歳が息を切らしながら戻ってくる。
「BBさん、早かったですね」
「まぁ、近道したからね」
 その言葉だけでなるほど、と頷く千歳。
「後はGeneか……」
《ログを見る限り、もう設置は終わっているからもうすぐ戻ってくるはずだ》
 鏡介が爆薬の設置状況を確認して報告してくる。
 しかし、五分経っても日翔が戻ってこない。
《……おかしい、ルート的に五分もかからない場所だし、ルートは視界にオーバーレイされているんだ、迷うはずが――》
 焦ったような鏡介の言葉。
 爆破予定時刻はもうすぐである。起爆コマンド自体は鏡介が自分の手で送信するため、日翔が戻ってくるまで待つことはできる。だが、待っているうちに「アカツキ」の兵士が復帰することも考えられる。
「まさか、Geneさん……?」
 心配そうに千歳が呟く。祈るように両手を組んでうなだれていた辰弥が頭を上げ、車のドアを開ける。
「BBさん!?!?
 何をする気だ、と千歳が辰弥に声をかけた。
「迎えに行く。もしかしたら、何かトラブルがあって戻れないのかもしれない」
「危険です! もう少し待った方が――」
 車から離れようとする辰弥に千歳が手を伸ばすが、それはドアによって阻まれる。
「大丈夫、必ず戻る。……Rain、十分待って戻って来なかったら起爆して」
「な――!」《おい!》
 辰弥の言葉に千歳と鏡介が同時に声を上げる。
《戻って来なかったら起爆しろ、って……!》
「それで戻ってこれなかった場合、俺もGeneも多分死んでる。それにもし間に合わなかったとしても俺の能力なら多分生き残れる」
《――なるほど》
 つまり、起爆してビルが倒壊したとしても辰弥がトランスで何とか切り抜けるということだろう。
 鏡介がGNSのデータリンク越しに千歳の様子を窺う。
 千歳は千歳で状況を把握したらしく、「分かりました」と頷いている。
 やはり、秋葉原は辰弥の能力のことを把握したか、と再確認し、鏡介はキーボードに指を走らせた。
 日翔のGNSの位置情報を確認、辰弥に転送する。
《Geneの居場所を確認した。そんな奥の方にいるわけではないな、頼む》
「了解、必ず連れて帰る」
 辰弥が走り出す。
 ざわざわと不安が胸を締め付ける。
 何事もなく日翔が戻ってこないはずがない。何かあったに違いない。
 「アカツキ」の残存勢力と遭遇してしまったか、それとも――。
 鏡介から転送された位置情報を元に本社ビルの中を駆ける。
 時折、根性があるのかふらふらと立ち上がろうとする兵士の姿を認め、容赦なく射殺する。
 今は彼らを見逃してはおけない。
 もし、日翔に何かあった場合、彼を庇いながら復帰した兵士と戦う余裕は何処にもない。
 地図上の光点を頼りに通路を駆け抜け、角を曲がる。
 日翔の現在地はそこで点滅していた。
 そこで気が付く。
 車を飛び出してから、日翔の位置情報は変わっていない。
 つまり――日翔は身動きできない状態にある。
 怪我をしたのか? まさか、「アカツキ」の兵士と交戦して被弾したのか?
 死んではいない。死んでいたらGNSの信号が途絶えるから位置情報は、いや、生存情報が更新されない。
 ――バイタル!
「Rain、Geneのバイタル確認して!」
 咄嗟に辰弥が叫ぶ。
 その言葉に鏡介もそうだった、と失念していた日翔のバイタルを呼び出す。
《まずいぞBB! Geneの酸素飽和度SpO2が――》
 辰弥は鏡介の言葉を最後まで聞いていなかった。
「Gene!」
 再び辰弥が叫ぶ。
 地図上の光点の位置――日翔の現在地に到着した辰弥は、床に倒れ伏している彼の姿を認めた。
「Gene!」
 もう一度、彼の名を叫んで駆け寄る。
 揺さぶるが苦しげに呻くだけで反応がほとんどない。
「Rain、どうしよう、Geneが!」
 どうして、と辰弥が日翔の全身を見る。
 被弾したのか? そう思うが、身体は完全に無傷である。
 鏡介から転送された日翔のバイタルに目を走らせ、かなり危険な状態であることを確認する。
 どうして急に? とバイタルを見る辰弥の目が酸素飽和度の項目で止まる。
 本来なら96%を超えれば正常値と言われているこの項目が90%を切っている。
 明らかな呼吸不全状態、たとえ激しく体を動かしていたとしても酸素飽和度が90%を下回ることはあり得ない。
 肺機能に何らかの疾患を抱えていれば常に90%を切ってしまうような状態になってしまうこともあるらしいが、渚の診察では日翔に肺疾患はなかったはずだ。
 そう考えると――。
 ――呼吸筋が弱まってる、ってこと……?
 ALSは全身の筋肉が信号の阻害により動かされず、痩せ細っていく。日翔の場合、腕や足といったメインで動かす筋肉はインナースケルトンにより強制的に動かされることでそれを抑えているがインナースケルトンの効果が及ばない呼吸筋などはどんどん弱まっていくだけである。
 咄嗟に、辰弥は酸素スプレーを生成した。
 マスク部分を日翔の口に当て、酸素を送り込む。
「……う……」
 低く呻き、日翔が目を開ける。
《辰、弥……?》
「落ち着いて。ゆっくり深呼吸して」
 今は少しでも酸素を体に取り込むことが大切である。
 辰弥の指示に、日翔が深呼吸しようとする。
 それでもその呼吸は浅く、思うように呼吸できていないように見える。
 それでも、何度か深呼吸を繰り返したら調子が戻ってきたのか、日翔は体を起こした。
《悪ぃ、早く戻らないと》
「焦らなくていい」
 日翔に肩を貸し、辰弥は出口に向かって歩き始めた。
 その途中で鏡介に連絡を入れる。
「Geneは回収した、今から戻る」
《状況はどうだったんだ?》
 心配そうな鏡介の声。
 日翔に心配はかけたくない、と辰弥は個別通話で返事をする。
(多分、もう限界だと思う。あくまでも推測だけど――呼吸筋が弱ってるにもかかわらず走り回って呼吸困難になったかと)
《……そうか、とりあえず『イヴ』を呼んでおく》
 冷静な鏡介の言葉に辰弥も落ち着きを取り戻す。
 こういった時の鏡介は特に冷静な判断を下すことが多い。しかし、実際は誰よりも仲間の身を案じて、それでいて戦力にならない自分を憂いていることを辰弥はよく分かっていた。
 右腕と左脚を義体化して、確かに戦力として数えられるようにはなったかもしれない。それでも「グリム・リーパー」のブレーンとしての役割を果たす鏡介は、現場に出られないことを悔やんでいるときがある。
 もし自分が現場にいたら、辰弥と日翔ばかりを危険にさらすことはなかっただろうに、という気持ちは辰弥にも分かる。自分が同じ立場だったら、きっと同じことを考える。
 ただ、辰弥と鏡介の明らかな違いは、辰弥なら周りの反対を振り切って飛び出してしまうところを鏡介は絶対に飛び出さないことにある。自分の立場、役割をきちんと理解し、常に適切な行動をとる。
 そう考えると辰弥が「カグラ・コントラクター」の特殊第四部隊に拘束された時、真っ先に救出を打診して行動に移したのは、一見、考えなしの無謀な行動だったが実はそうではなかったのかもしれない。鏡介なりに何らかの勝算があって、提案したのかもしれない。腕と脚のことも計算ずくだったのかもしれない。
 実際のところ、鏡介がそのあたりを深く語らないので真相は闇の中だが。
《なんか話してたのか?》
 辰弥の肩を借りて歩きながら日翔が尋ねる。
「……鏡介に状況は話した。八谷を呼んでくれるって」
《『イヴ』なんか呼ばなくても平気だ。ちょっと目眩がしただけだ》
「……」
 強がる日翔に辰弥が口を閉じる。
 医療の知識などあまりないが、辰弥にも分かっている。
 日翔がこれ以上現場に立つことはできないのだと。
 今回は戦闘らしい戦闘もなく、すぐに対応することができたが、これが戦闘中だった場合、手当てが遅れて死ぬことも十分あり得る。
 そんな死に方を目の当たりにしたくなくて、辰弥は「もう辞めて」と言いたかった。
 言ったところで日翔が素直に聞くような人間だとは思えない。それでも、日翔はもう限界だった。これ以上は、現場に立たせられない。
 途中で日翔が何度か呼吸困難を起こしかけるがそれを酸素スプレーで対処しつつ車に向かう。
 なるべく日翔の負担にならないように、と歩いたつもりだったがそれでも彼にとっては相当の負担だったようで、車に辿り着いた瞬間、日翔は意識を失った。
 後部座席になるべく負担がかからないように寝かせ、辰弥も同じく後部座席に座る。
 少しでも呼吸が楽になるように、と酸素スプレーのマスクを日翔の口にあてがおうとした瞬間、辰弥はひどい目眩に襲われた。
「く――!」
 全身を駆け巡る痛みにも似た不快感。指先に力が入らず、酸素スプレーが床に落ちる。
「辰弥さん!?!?
 車を出そうとした千歳が、バックミラー越しに苦しむ辰弥を認め、声を上げる。
「大、丈夫……」
 それよりも日翔を、と続ける辰弥に千歳が一瞬言葉に詰まる。
「辰弥さんは自分のことをもっと気にかけて! 辰弥さんに何かあった場合、天辻さんが――」
「俺は、大丈夫……。少し休めば――」
「でも」
 そう言うものの、鏡介から「早く離脱しろ」と言われ、千歳が車を発進させる。
 念のために幾つもの迂回ルートを通り、国道に出る。
 そこで、辰弥と千歳は爆発し、崩壊を始める「アカツキ」の本社ビルを見た。
《計算通りだな、これだけダメージを与えたなら『アカツキ』も無事ではすむまい》
 よくやった、戻ってこいと鏡介がねぎらい、一旦通信を切る。
 そこで、千歳は漸くほっとしたような面持ちになって運転を自動運転に切り替え、バックミラーを見た。
 まだ苦しそうではあるが幾分顔色が良くなった辰弥をバックミラー越しに見る。
「……辰弥さん、」
 大丈夫ですか、と問う千歳に辰弥が「うん」と答える。
「もう大丈夫。いつものことだよ」
「それですが――」
 そこまで言って、千歳がいったん口を閉じる。
 どう話しかければ、と迷っているのを察し、辰弥が無言で次の言葉を促す。
「……やっぱり『イヴ』さんだけじゃ検査にも限界があると思うんです。一度設備の整った病院で……」
「それができたら苦労しないよ。俺みたいな存在が大きな病院に掛かれるはずがない」
 辰弥も分かっていた。渚の設備だけでは検査に限界があるということは。
 一度大きな総合病院で精密な検査を受けるべきだということも理解している。
 しかし、辰弥に総合病院を受診するという選択肢は存在しなかった。
 辰弥は人間ではない。総合病院を受診などすれば、すぐに騒ぎとなり下手をすれば彼は死んだものと認識している「カグラ・コントラクター」に嗅ぎつけられるかもしれない。
 だから、辰弥は渚のような闇医者にしか診てもらうことができなかった。
 裏社会に総合病院並みの設備が整った闇医者が存在すれば診察は可能だろうが、費用などの面から現実的ではない。
 そう、辰弥は思っていたが、千歳は意外な言葉を口にした。
「……『カタストロフ』に行きませんか?」
「え――?」
 思いもよらなかった言葉。
 「カタストロフ」に行く? それで解決するというのか。
 考え込む辰弥に、千歳が説明する。
「『カタストロフ』はそれだけで一つの社会を構成しているんです。医療機関も大病院並みの設備が整ってるし、ほら、私の義体だって街の闇義体メカニックサイ・ドックでは調達できないものです。だから、『カタストロフ』に入ればきっと辰弥さんも詳しく調べてもらうことができると思うんです」
「でも……」
 「カタストロフ」の規模はそこまで大きいものだったのか。確かに重病に罹患した、または重傷を負った場合、アライアンスに所属しているメンバーは症状によっては諦めざるを得ない。日翔もそうだ。本来なら然るべき医療機関に入院すべき状態ではあるだろう。
 「カタストロフ」に行けば何かわかるかもしれない、という話に辰弥の心が揺らぐ。
 渚には突き止められなかったことが分かるかもしれない。もしかすると治療できるかもしれない。
 しかし、「カタストロフ」に加入するということは結局自分たちが蹴った「御神楽の庇護を受ける」を別の組織によって実行されてしまうのではないか。それも、辰弥一人だけで。
 駄目だ、それはできない、と辰弥が首を振る。
「……無理だよ、俺一人で『カタストロフ』になんて……」
「もし、私も一緒に行く、と言ったらどうしますか?」
 えっ、と声を上げる辰弥。
 千歳も「カタストロフ」に行く? そんなことができるのか? 第一、千歳は「カタストロフ」を除籍されたのではなかったのか。除籍した人間を呼び戻すほど、「カタストロフ」は人手不足だとでもいうのか。
「……一緒に、って……どうやって」
「この間、辰弥さんが倒れた際になんとかして診察してもらう方法はないかと考えて、『カタストロフ』を思い出したんです。それで、一応伝手を頼って声をかけてみたんです。そうしたら『そういう事情なら戻ってきてもいい、いきなり何も分からないところに放り込まれるよりも多少事情を知っている人間がいる方が安心できるだろう』って」
「……」
 千歳の計らいが嬉しい。そこまで俺の身を案じてくれるのか、と思う。
 しかし、本当にそれでいいのか?
 いくら千歳に「一緒に行こう」と言われてもすぐにうんとは頷けない。
 日翔と鏡介を置いて行くことはできない。それに、今、辰弥は日翔を助けるために動いている。ここで自分の身体を優先して「カタストロフ」に行ってしまえば日翔を助けることができなくなってしまう。勿論、鏡介も戦力として数えられる状態であるとはいえ彼には「人を殺せない」という致命的な欠点がある。
 ――いや、今は殺せるか……。
 一度自らの手を汚してしまった人間はその罪を繰り返す。
 「殺せない」と言っていた鏡介は辰弥を救出する際、コマンドギアという謎の兵器を用いたとはいえ自らの手で他人の命を奪った。それが今更「やっぱり人は殺せない」にはならないということくらい人間でなくとも人間と似通った思考を持つ辰弥には理解できる。
 もし、自分がいなくなっても鏡介は自分の代わりに現場に出て依頼を遂行するだろう。
 それでも。
「……やっぱり、俺は、行けない」
 ぽつり、と辰弥が呟いた。
「日翔が助けられるなら――その可能性が見えているうちは、日翔を優先したい。別に俺はどうなってもいいんだ、人間じゃないから」
「でも――」
 「それじゃ辰弥さんがもたない」と言いかけた千歳を、辰弥はその黄金きんの瞳でバックミラー越しに見据える。
 まっすぐな瞳に見据えられ、千歳が沈黙する。
「俺は日翔を助けるまでは『グリム・リーパー』に残る。日翔を助けるのは俺だ」
「どうしてそこまで……」
 何がそこまで駆り立てるのだ、と千歳は考えた。
 どうあがいたところで日翔を助けることはできない。それなら早いうちに見限って自分の治療に当たった方が最終的な生存人数は増える。このままでは日翔はいずれ力尽き、辰弥も謎の不調で死んでしまうのが目に見えている。
 それだけは、何としても避けなければいけなかった。
 辰弥を死なせてはいけない。何としても「カタストロフ」の医療機関を受診させ、原因を突き止めなければいけない。
 自分の言葉だけでは届かないのか。これだけ、辰弥のことを気にかけても彼の意識は日翔に向いているのか。
 否、辰弥が自分に想いを寄せているのは分かっている。そうでなければあのような行為に及ぶはずがない。
 仲間以外の他人に興味を持たない辰弥が理由もなく人間の異性に欲情することなど考えられない。
 だから、辰弥さんは私に恋愛感情を抱いている、そう千歳は認識していた。
 それでも、その感情以上に日翔と鏡介に対する信頼は厚いのかと千歳は唇を噛んだ。
 このままでは辰弥もそう長くはない。
 それが嫌だから、「カタストロフ」に行こうと誘っているのに。
 辰弥がふっと口元に笑みを浮かべる。
 まるで過去を懐かしむようなその笑みに、千歳がどきりとする。
「……研究所から脱出して、行くところもなくて、行き倒れていた俺を助けてくれたのが日翔なんだ。どうやって生きて行けばいいか分からなかった俺に居場所をくれて、俺を『人間』でいさせてくれて、日翔がいたから俺は『人間』として生きることができた。ノインとの戦いがあって、俺は人間であることを棄てたけど、それでも俺に『人間』としての生き方を教えてくれた日翔を助けたい、って思う」
 元からそれなりに喋る方ではあったが、それでもいつにもまして饒舌に辰弥が自分の思いをぶちまける。
 それだけで、辰弥の日翔に対する感情が伝わってくる。
 千歳に対する恋愛感情だけでは埋められないほどの、絆。
 日翔がいなければ生きていけない、とも言えるその感情に「それは依存だ」と千歳は言いたくなった。
 依存するなら天辻さんではなく私にして、天辻さんはもう長く生きられないのだから諦めて、と。
 しかし、辰弥は諦めないのだろう。どうあがいても日翔を救えないと知るまで手を伸ばし、そして絶望する。
 そんなことにはさせたくない、と千歳は思った。
 そんなことで絶望して何もかも手放すような存在ではあってはいけない、と。
 いや、むしろ絶望して――。
 「その考え」に至り、千歳は思わず身震いした。
 確かに、絶望した方が都合がいいのかもしれない。「自分に守れるものは何もない」と絶望した時の方こそ。
 ――それでいいの?
 千歳は自問した。
 本当に、それでいいのか。ここまで育てられた人間性を壊してしまっていいのか。
 ――私は、辰弥さんのことを。
 そこまで考えてから辰弥に気づかれないように首を振る。
 今はそんなことを考えている場合ではない。
 辰弥の不調の原因を突き止め、治療するためにも「カタストロフ」へ引き込まねばならない。
 そのためには辰弥の、日翔と鏡介に対する絆が邪魔をする。
 ――どうすればいい、どうすれば辰弥さんは私だけを見てくれる?
 かなり揺らいでいるのは分かる。もう少し揺さぶれは、あるいは。
 千歳のそんな思いに気付きすらせず、辰弥は心配そうに日翔に酸素スプレーをあてがいながら何度も彼の名を呼び掛けていた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 マンションの前で千歳が辰弥と日翔を下ろし、自宅へと向かう。
 日翔は酸素スプレーによる処置のおかげでいつもの調子を取り戻していたがそれでも彼を心配する辰弥に強引に肩を貸されて帰宅する。
「日翔くん! 帰ってきた? 大丈夫!?!?
 鏡介が呼び寄せていた渚が駆け寄り、日翔を部屋に連れ込みベッドに寝かせる。
 辰弥と鏡介もそれに続いて日翔の部屋に踏み込む。
 だが、それに対して渚は「部屋を出ていけ」とは言わなかった。
 ざっくりと診察し、日翔の状態を確認する。
「八谷、日翔の調子は……」
 沈黙に耐え切れず、辰弥が尋ねる。
《何心配してんだよ、俺は大丈――》
「何強がってるのよ! 死ぬつもりなの!?!?
 日翔の声を遮り、渚が声を荒らげた。
「もう、現場に立つのはやめなさい。 これ以上動けば、日翔くん――死ぬわよ」
 一度は大声を上げたものの、すぐに声のトーンを落とし、渚が務めて冷静に宣告する。
《『イヴ』、何を――》
 日翔が身体を起こして渚を見る。
 それを睨みつけるように見据え、渚は辰弥と鏡介にも聞こえるように言い放った。
「日翔くん、あなたの呼吸筋は激しい運動に耐えられない。通常の呼吸ですら、もう一般人ほどの換気能力はないの。だから、さっき無理に走って呼吸困難に陥った」
 鎖神くんが処置するのがもう少し遅れてたら、貴方死んでたのよ、と渚が続ける。
「日翔……」
 震える声で辰弥が呟き、思わず鏡介のシャツを掴む。
 その辰弥の様子に鏡介が辰弥をそっと引き寄せる。
「……この際はっきり言うわ。鎖神くんも水城くんも聞いて」
 普段、患者本人にしか情報を開示しない渚が辰弥と日翔にも声を掛けた。
 それだけで、現状がかなり深刻であるということが二人には理解できた。
 余命を二人に開示する気か、と日翔が渚を止めようと手を伸ばす。
「本当は残された時間も言った方がいいのかもしれないけど、それはやめとくわ。余命なんて正確じゃないし本人以外残された時間を考えたくないでしょ」
「……それは」
 辰弥が小さく頷く。
 いくら宣告された余命通りに死ぬとは限らなくても、期限を切られてその期限を気にして神経をすり減らしては叶えられるものも叶えられなくなる。それに、宣告された期限が治験の日程に間に合わないとなった場合、絶望するのは目に見えている。
 それなら、「その時」を知らずに足搔いた方が楽だ。
 辰弥の頷きに、渚も小さく頷く。
「……日翔くんの病状の進行が早いの。若いからってのと、もう一つ……薬の効きが悪くなってる」
「え――」
 日翔の、ALSの進行を遅らせる薬が効かなくなりつつあるのか。
 それは長期間服用し続けているからなのか、あるいは。
「断言はできないけど、インナースケルトンによる金属汚染の影響を受けてるかもしれない。結局、インナースケルトンなんて一時しのぎのものなのよ。しかも、入れずに服薬するよりも寿命を縮めてしまう」
 だから、ここからは一気に悪化していくと思う、と渚は続けた。
「鎖神くん、水城くん、日翔くんはもう戦えない。医者として断言するわ」
《おい、『イヴ』……》
 待てよ、あと少しで完済なんだぞ、と日翔が抗議するが渚はそれを無視した。
「残された時間を大切にして。わたしに言えることはそれだけよ」
 どうするかは二人に任せる、と渚が話の主導権を二人に渡し、日翔から離れる。
 弾かれたように日翔に駆け寄り、辰弥は彼の肩を掴んだ。
「どうして! どうしてこんな無理してたの! 日翔がまだ大丈夫って言うから信じてたのに!」
 悲痛な辰弥の叫び。
 それに反して、日翔は穏やかな笑みをその顔に浮かべている。
《俺が現場に立ちたかったから立った、それだけだ》
「日翔の借金は俺が肩代わりするって言ったじゃん! なんで……」
 嫌だ、と呟く辰弥の声が震えている。
「嫌だよ、無理しないでよ! もう無理だから、お願い……!」
《……ゆるい仕事ならまだできるから、俺に完済させろよ》
 日翔の手が辰弥の腕に触れる。だが、掴むことはない。
 下手に掴めば、インナースケルトンの出力が調整できずに握り潰してしまうから。
 もう、辰弥の手を掴むことすらできないことは日翔も分かっていた。
 それでも、あと少しで完済できる。辰弥や鏡介に肩代わりさせたくない。
 完済できれば自分はどうなってもいい。どうせ長くない命、いつ消えても惜しくはない。
 だから、もう少しだけ、と日翔は懇願した。
 だが、それを鏡介の冷たい声が遮る。
「辰弥、日翔をこれ以上現場に立たせないというのなら、方法が一つある」
「……鏡介、」
 何、と辰弥が鏡介を見て尋ねる。
「今、日翔のインナースケルトンは日翔のGNS制御下にある。それを俺がハッキングして制御下に置けば日翔は自分の意志で出力を上げることができなくなる」
《鏡介! それは――》
 俺の意志を無視するのか、と日翔が抗議する。
 だが、鏡介はゆっくりと首を振り、日翔を見る。
「お前はもう十分戦った。あとは俺たちに任せた方がいい」
《やめろ、それだけはやめてくれ!》
 今、自分の筋肉がインナースケルトンの補助があって初めてまともに動かせる状態にあるということは分かっている。その出力を落とすということは、今まで通りに動けなくなるということと同義になる。
 当然、現場に立つことなんてできない。日常生活を送ることすらできなくなるかもしれない。
 今まで当たり前にできていたことができなくなる、それはあまりにもむごい現実だった。
 日翔が辰弥を見る。
《辰弥、鏡介を止めろ! 俺は、お前と――》
 しかし、辰弥は日翔から目を背けるように視線を落とし、決断する。
「……鏡介、やって」
《辰弥!》
 お前まで、という声が辰弥の聴覚を打つ。
 鏡介が小さく頷き、ウィンドウを展開する。
《おい、やめろ――!》
 日翔のその訴えもむなしく、鏡介があっという間に日翔のGNSに侵入、インナースケルトンの制御部分を掌握、出力を落とす。
 がくん、と、日翔の、辰弥の腕に触れる手がベッドに落ちる。
《お前ら――》
「……ごめん」
 たった一言、辰弥が苦し気に謝罪した。
《お前ら、こんなことして許されると思ってんのか!》
 体を起こしていることすらできないのだろう、ベッドに倒れ込み、日翔が二人を睨む。
「少し眠らせた方がいい? 出力を落としたとはいえ、無理して暴れようとして酸欠になっても困るでしょ?」
 渚が、いつの間にか用意した鎮静剤の入った注射器を手に日翔に歩み寄る。
《おい、『イヴ』、お前もグルかよ!》
 日翔が抵抗するがその力はあまりにも弱く、あっさりと押さえつけられ、針を刺される。
 鎮静剤はすぐにその効果を発揮し、日翔は静かになった。
「……正直、こうするしかないと思ったわ。水城くんが強制的に出力を落とさない限り、日翔くんは無理にでもついていったと思う」
「……ああ、分かっている」
 苦々しい面持ちで鏡介が呟く。
「……恨むなら、俺を恨め」
 眠る日翔に、鏡介が声を掛け、それから部屋を出る。
「それじゃ、わたしも帰るわ。何かあったら呼んで。……あ、鎮静剤は一時間くらいで切れると思うから、その後暴れるようならもう一回来るわ」
「うん」
 部屋を出る渚の背を見送り、それから辰弥は日翔を見た。
「……日翔……」
 こうするしか方法はなかった。
 こうするしか、日翔を最大限に生き永らえさせる方法が考え付かなかった。
 あと少し、治験の席を手に入れるまでの辛抱だから、と辰弥が呟く。
 治験さえ受けることができれば、日翔はきっと回復する。
 回復したのなら――日翔の望むように生きればいいから。
 それだけが、辰弥のただ一つの望みだった。

 

 日翔の部屋を出て、キッチンに入る。
「ごはん……作らなきゃ……」
 そう呟きながら冷蔵庫を開けるものの、食材を見ても何を作るかが全く思い浮かばない。
 いつもなら食材さえ見れば「今日のご飯はこれにしよう」とすぐにメニューが決まるのにそれが何一つ浮かばず、辰弥は冷蔵庫を閉じ、リビングに移動した。
「……」
 家にいても意味がない、そんな無力感が辰弥を支配する。
 それでも何かせずにはいられなくて、辰弥はジャケットに手を伸ばした。
「……? 辰弥、出かけるのか?」
 物音を聞きつけたのだろうか、鏡介が自室のドアを開けて辰弥を見る。
「……うん、買い出しに行ってくる」
 力なく答える辰弥に、鏡介は「相当堪えているな」と考える。
「辰弥、日翔には俺のGNSとリンクしたボタンを渡している。何かあった時に押してもらえばその時に俺が出力を調整するからトイレとかは一人で行けるだろう、完全に寝たきりにはさせない」
「……うん」
 玄関で靴を履き、辰弥がドアノブに手を掛ける。
「……行ってくる」
 パタン、とドアが閉まり、静けさが玄関を支配する。
「……辰弥」
 鏡介が低く呟く。
「何としても助けよう、俺たちのためにも」
 日翔のため、は勿論ある。しかし、それ以上に自分たちの心の平穏のためにも、日翔を助けたい、そう思った。
 必ず助けられる、だから、それまでは、と。
 治験の席を確保さえできれば、もう誰も悲しまなくて済むのだから、と。
 そんな鏡介の声は、辰弥には届いていない。
 エントランスを抜け、商店街までの最短距離となる路地裏を通り抜け、喧騒が激しい商店街に出る。
 鏡介に「買い出しに行く」とは言ったが、冷蔵庫の中身で不足しているものは何もなく、買い出しは外に出るためのただの口実だった。
 家にはいたくない。あんな日翔の姿を今は見るのが辛い。
 あんなに笑っていたのに、あんなに元気だったのに、その元気ですら無理の積み重ねによるものだったのかと思うと胸が押しつぶされそうになる。
「日翔……」
 今は治験の席を確保するために「サイバボーン・テクノロジー」の駒として働いている。
 メガコープの鉄砲玉になることには抵抗がない。日翔さえ助けられれば、どうでもいい。
 しかし、本当に治験の席は確保できるのか。いや、治験の日程まで日翔は生き永らえることができるのか。
 同時に思う。
 「薬の効きが悪くなっている」という事実。
 渚は「インナースケルトンの金属汚染の影響を受けているかもしれない」と言っていた。
 ただ、それはあくまでも可能性の話であって、実際は同じ薬を長期間服用していたために耐性が付いただけなのかもしれない。しかし、それも断定できない以上、分からない。
 だから、思ってしまうのだ。
 仮に治験の席を確保することができたとしても、薬が効かなければ……と。
 そんなことを考えれば、次の一歩が踏み出せなくなるのは分かっている。それでも、悪魔の囁きのようなその思いは常に辰弥に付きまとう。
 いっそのこと、殺してしまえば、と囁く声が聞こえる。
 どうせお前は殺すために生み出された存在だ、何を迷う必要がある、と。
「ふざけ……ないで……」
 絞り出すように辰弥が呟く。
 たまたますれ違った男性がぎょっとして振り返り、辰弥を見る。
 そんな男性には気づきすらせず、辰弥はただただ次の一歩を踏み出していた。
 人通りは多いが、暗殺者として培ったスキルでただ人々の中に溶け込み、ぶつかることなく前へと進む。
 このまま人の波に溶けてしまうことができれば、何も考えなくて済むのだろうか、とふと思う。
 もう疲れた。日翔のことを考えるのも、治験のことを考えるのも、何もかも。
 どうせ頑張ったところで報われることなんてないんだ、何をやっても無駄なんだ、結局俺は誰も幸せにすることなんてできないんだ、とネガティブな感情ばかりが浮かんでくる。
 日翔や鏡介の前に立てばそんなことは言わないだろう。鏡介も日翔を救うために戦っている。そんな彼の前で弱音を吐くことなどできない。
 だからこそ、一人でいるときにネガティブな感情が湧き出してしまうということに辰弥は気付いていなかった。
 二人の前では蓋をしていた感情がどんどん溢れ出す。
 だめだ、このままでは押しつぶされてしまう。
 しかし帰ったところで何ができる? 日翔が嫌がった「インナースケルトンの出力ダウン」を決断したのは自分だ。帰ったところで合わせる顔がない。
 鏡介は「必要に応じて出力は調整する」と言っていたが、それでも日翔を現場に立たせることはもうない。残された借金は辰弥と鏡介で返済する。
 むしろ、初めからそうしていたらよかったのだ。いくら日翔が嫌がろうとも、さっさと借金を返済してしまって、「その恩に報いたいなら自由に生きろ」と言うべきだったかもしれない。
 だが、それを決断するにはあまりにも遅すぎた。
 今の状態では日常生活を送ることもぎりぎりだろう。自由に生きるにしてもやりたいことができるほどの体力は残されていない。
 本当に、決断を先延ばしにしてしまったことが悔やまれる。
 とぼとぼと歩く辰弥など誰も気にしないかのように人々が通り過ぎていく。
 視界に【降水情報:雨が近づいています】という文字と傘のアイコンが表示される。
 そういえば、今日の天気予報雨だっけ……とふと視線を上げた辰弥の鼻にぽつり、と水滴が落ちた。
 ぽつり、ぽつり、と狭い空を縫うように雨粒が落ちてくる。
 周りの人々が雨を避けるように早足になるが、辰弥は立ち止まり、呆然と空を見上げる。
 空は曇ってはいたがそこまで重い雲ではない。一瞬の通り雨だろう。
 それでも、冷たい雨粒に思考が一気に冷える。
「……帰らなきゃ……」
 考えていても仕方がない。日翔を助けると決めたからには最後まで突き進むしかない。
 それがたとえどれほど辛い茨の道であったとしても、最後まで諦めないと決めたはずだ。
 今は弱音が出てしまったが、もう迷わない。
 そう自分に言い聞かせ、辰弥は帰ろう、と踵を返した。

 

 予想通り雨は一時的な通り雨で、ひどく降ることもなく、家に着くころには止んで晴れ空が見え始めていた。
 日没が近く、あらゆるものの影が徐々に伸びている。
 玄関に入り、ふぅ、と一つ息を吐いて意識を切り替えてリビングに移動する。
 鏡介は自室にいるのか、リビングはがらんとしている。
 いつもなら日翔がリビングで楽しそうにサブスクリプションの映像コンテンツを観ていたが、もうそんな余裕はないのか、それともまだ眠っているのか。
 出かけていた時間は数時間程度である。渚が日翔に打った鎮静剤は一時間ほどの効果と言っていたはず。そう考えると起きているのか。
 落ち着いているといいけど、と思いながら辰弥は日翔の部屋のドアをノックした。
 返事はない。
 まだ眠っているのか、それとも起きているが拗ねているのか、そう思うが何故か不安が胸を締め付ける。
 神経を集中させて気配を窺う。
 物音ひとつ聞こえず、胸を締め付ける不安が大きくなる。
「……日翔……?」
 たまらず、ドアを開ける。
 見慣れた日翔の部屋。辰弥が掃除をしているからチリ一つ落ちていないが壁にはIoLイオルのヒロイックコミック原作の映画のポスターが貼ってあったり、「金がない」と言いつつも頑張って争奪戦を制して買ったらしいフィギュアが棚に飾ってあったりする。
 そして、ベッドの上には寝ているはずの日翔の姿はなかった。
 一瞬、辰弥の思考がフリーズする。
 帰って来た時、玄関に違和感はなかった。何故なら、日翔の靴があったから。
 それなのに、日翔が部屋にいない。
「鏡介!」
 辰弥が鏡介の部屋のドアを叩く。
「どうした」
 鏡介がドアを開けて辰弥を見る。
「日翔がいない!」
「なんだと!?!?
 鏡介も部屋を出てトイレに行く。
「あいつ、トイレに行きたいって言うから出力上げたんだが――まさか」
 家を出たのか、と鏡介が玄関も確認する。
「靴も履かずに……あの出力では遠くに行けないはずだ、GPSを確認する」
「なんでトイレに行くって言った時ついてかなかったの!」
 日翔のGPSの信号を探す鏡介を辰弥が詰る。
 鎮静剤を打たれる直前の日翔の荒れ方を考えれば一人にさせるのは危険である。
 だが、鏡介を詰った辰弥も家を飛び出していたため、強く責めることはできない。
 俺が家を出なければこんなことにならなかった、と、辰弥が自分を叱咤する。
 いくら辛くても家を飛び出すべきではなかった。せめて自分の部屋で考え込んでいれば。
「辰弥、誰を責めても日翔は戻ってこない、今は探すことだけを考えろ」
 そう言っている間に、鏡介は日翔の位置情報を特定し、辰弥の視界に表示させた。
「……このマンションの敷地からは出ていないようだ。考えられるとしたら――」
 鏡介の話を最後まで聞かず、辰弥が家を飛び出す。
「おい、辰弥!」
 鏡介も辰弥を追おうとするが、
「鏡介は家にいて! もしいなかった場合、鏡介だけが頼りだから!」
 辰弥のその言葉に踏みとどまる。
 分かった、と鏡介が家に戻る。
 確かに、辰弥の言葉も一理ある。
 二人で同じところに出向いた場合、そこにいなかったら捜索は振出しに戻るどころか移動してしまった分後退してしまう。
 だが、一人が拠点に残っていればそこから網を張ることができる。
 それに、何らかのすれ違いで日翔が家に戻ってきた場合、迎え入れる人間も必要である。
 拠点に残るべきは俺の方だ、と鏡介も理解していた。
 伊達に「グリム・リーパー」のブレーンを務めていない。こういう状況では辰弥の方が小回りは利く。
 鏡介のその考え通り、辰弥はあっという間にエレベーターホールに飛び込み、呼び出しボタンを押していた。
 階段を使うことも考えたが、今の日翔のインナースケルトンの出力と体力では階段を使うことは考えられない。移動するとしたらエレベーターを使うはず。
 エレベーターの呼び出しボタンを押す。
 ――いるとしたら、屋上。
 エレベーターが屋上から降りてくる表示が出る。
 エレベーター到着までの時間がやけに長く感じられる。
 この、到着を待っている時間の間に最悪の展開に至ることを想像し、身体が震える。
 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 こんなところで、日翔を喪いたくない。
 自分はまだ、日翔に何も返せていない。
 日翔は自分に名前をくれた。居場所をくれた。「人間」としての在り方をくれた。
 自分は元々人間ではなかったし、「人間」としての在り方は棄ててしまったけれど。
 それでも、日翔にはたくさんのものをもらった。それこそ、一生をかけても返せないほどのものを。
 それなのに、そのうちの一つも返せずに日翔を喪いたくなんてない。
 日翔は助ける。その結果、自分の命が燃え尽きることになったとしても、日翔はこれからの人生を生きていくべきだ。
 同じ道を歩けなくなるにしても、この道を歩くのは日翔の方がふさわしい。
 だから、だから――。
 これ以上、悠長にエレベーターを待っていられない。
 辰弥は非常階段に飛び出し、そこからさらに空中へ身を躍らせる。両手をグランプリングフック付きのワイヤーガンにトランスさせ、ワイヤーガンを射出。屋上の手すりに引っ掛ける。
 下半身を馬のそれにトランスさせ、ワイヤーを手がかりに壁を駆け上がった。
 屋上に到着する。
 このマンションは、屋上には自由に人が出入りできるようになっている。
 一部の住人がプランターを使って家庭菜園を作っていたり、晴れた日は住人の憩いの場にもなっている屋上。
「日翔!」
 トランスを解除し、辰弥が叫ぶ。
 沈みかけた夕日が辰弥の目を灼く。
 片手で夕日を遮り、そして、辰弥は夕焼けの中、屋上の縁に佇む日翔の姿を見た。
 その手に握られているのは愛用のハンドガンネリ39R
 その銃口は、暗殺のターゲットにではなく、日翔自身の頭に向けられている。
「日翔!」
 もう一度、辰弥が叫ぶ。
《辰……弥……?》
 日翔の唇が震え、声の代わりに辰弥の聴覚に音声が届く。
 咄嗟に辰弥は右手を伸ばした。
 右手が蔦のようにトランスし、日翔に向けて伸びる。
 蔦は日翔の手から銃をもぎ取り、そして全身を絡め取る。
 自分の頭を撃ち抜くことも、屋上から墜ちることも叶わず、日翔が辰弥に引き寄せられる。
「日翔、どうして!」
 引き寄せた日翔を、トランスを解除して抱きしめ、辰弥が叫ぶ。
「なんで死のうとしたの!」
《俺は……もう、誰の役にも立てないから》
 辰弥を抱きしめ返すことなく、日翔が返す。
《現場に立てない俺なんて、もう何の価値もないんだ。生きてる意味なんてないんだよ》
「そんなことない!」
 精一杯の声で辰弥が否定する。
「日翔が生きてるだけで、俺は頑張れる! 日翔が生きてていいって言うから、俺は生きていける! 日翔がいない世界で、俺はどうやって生きればいいの!」
 辰弥にそう言われて、日翔は漸く震える腕を持ち上げて辰弥の背に回した。
 辰弥の小さい背中に、その背に乗せられた荷物の大きさに、そしてそれを背負う手伝いができない自分に声が出なくなる。
 辰弥はあまりにも大きなものを背負っている。日翔自身の荷物より、はるかに大きいものを。
 それでも懸命に生きようとする辰弥に、すまない、と謝罪する。
「でも、どうして屋上なんかに……」
 日翔のガンロッカーを封印し忘れていたことはひとまず置いておき、辰弥が尋ねる。
 ガンロッカーの封印を忘れていたから、日翔は銃を持ち出した。だが、単純に自殺するだけなら別に屋上を利用しなくても自分の頭を撃ち抜けば簡単に死ねる。
 それとも、引鉄が引けたとしても反動を受けきれずに銃口が暴れて軽傷で済む可能性を考えたのか。それなら屋上から飛び降りればこの高さだ、確実に死ねる。
《……雪啼が、枕元に立ってたんだ……》
「……え、」
 まさかの名前に辰弥がぎょっとする。
「そんな、雪啼は君が――」
 雪啼が生きているはずがない。
 あの戦いで、雪啼ノインに叩き潰されて動けなくなった代わりに彼女を両断したのは日翔だ。
 確かにLEBの生命力、第二世代LEBのトランス能力、そしてそれを利用した再生能力を考えると死んだとは断言できない。頭部を潰せなかったというだけで生存の可能性はわずかに上昇してしまう。
 それでも辰弥はノインは死んだもの、と思っていた。確かに自分はノインからトランス能力をコピーした結果、液体にトランスして地下に逃れて特殊第四部隊が放ったナノテルミット弾を回避した。しかし自分が逃げた先にノインはおらず、また、ノインがナノテルミット弾の投下を察知しているとは思えなかったため、死んだと思っていたが。
《雪啼が枕元に立ってて、気が付いたら追いかけてた。やっぱり……お迎えが近いのかな》
 そう言った日翔の声が震えている。
「……そんな、ノイン――雪啼は死んだ、枕元に立つなんて」
 幽霊なんてはるか昔の怪談でしか聞かない存在。実在するとは思えない。
 今のこの世界にオカルトなんて存在するはずがない。
 それでも、辰弥はぞわり、とした感覚を覚えた。
 あの状況で、ノインが生き延びたとは到底思えない。
 それでも、日翔の話を聞いて、その考えが揺らぐ。
 実はノインは生きていて、武陽都にまで自分を追いかけてきていて、もう戦えない日翔を屋上に誘ったのではないか、と。
 日翔が死ねば恐らくは自分も生きてはいけない、と辰弥は自覚していた。
 絶望に身を任せ、後を追うかもしれない。
 いや、もし、日翔が死んだ後にノインが現れたら迷わず身を差し出すかもしれない。
 ノインは言っていた。「エルステを食べて完璧になる」と。
 その目的のためにノインは執拗に辰弥の命を狙った。
 だから、条件が整ってしまえば。
「……雪啼は死んだんだよ、生きてるはずがない」
 自分に言い聞かせるように、辰弥が呟く。
《そう……だよな……。ただの幻覚、だよな……》
 辰弥が頷く。
「だから、帰ろう。鏡介も心配してる」
《……無理だよ……》
 日翔がいやいやとかぶりを振る。
《お前の横に立てない俺なんて、何の価値もない。どうせ死ぬのを待つだけなんだから、死なせてくれてもいいだろ》
 金さえあれば安楽死を希望できたのに、と呟いた日翔の目から涙がこぼれる。
《もう生きてても何もできないんだよ。お前たちに迷惑かけてまで生きるんだったら、もうここで死なせてくれよ》
「そんなこと言わないでよ! まだ希望はある!」
 あまりにも弱気な日翔の言葉に、辰弥が叫んだ。
 思わず、日翔が辰弥を見る。
《希望なんて残ってない。ALSが治る見込みがないのに、どう希望を持てって言うんだよ。俺は絶対にホワイトブラッド穢れた血を身体に入れないぞ》
「そのALSが治るとしたら! 俺は、その希望を見つけた!」
 必死の形相で辰弥が訴える。
「ニュース見てないの? ALSの治療薬が開発されたってニュース! 薬が手に入れば、日翔はきっと元気になる! だから!」
《遅いんだよ。ニュースは開発された、というだけだろ? 市販されるまでに何年かかるんだと思ってんだよ。あと半年も生きられない俺にどうやって待てと言うんだよ》
「――っ!」
 初めて明かされた日翔の残り時間。
 半年も生きられない。
 そんなに進行しているのか、という思いと、猶更治験の席を確保しなければ、という思いが入り交じる。
「……それでも、希望はある」
 あと半年という衝撃を心の中で握り潰し、辰弥はそう言った。
 半ば、自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「……あと数か月以内に、治療薬の治験が始まる。俺は――俺と鏡介は、その治験の席を確保するために戦ってる」
《な――》
 どういうことだよ、と日翔が尋ねる。
「詳しくは言えないけど、治験のチケットを手に入れられる可能性が見えたんだ。だから、それを確実に手に入れて、日翔を治す」
《んな無茶な……》
「無茶じゃない。日翔のためなら、俺はなんだってする」
 だから、日翔も希望を捨てないで、と。
 しかし、それでも日翔はかぶりを振った。
《駄目だ。俺のためにお前らが命を削る必要はない》
「どうして」
 日翔ならきっと言うだろうと思っていた言葉。
 理由なんて聞いても意味がないのに、聞いてしまう。
《治療薬が開発されたって言っても、俺にその薬が効くとは限らないんだぞ。もし、効かなかったら……俺はいたずらにお前らを苦しめただけになる》
 そんなのは嫌だ、と日翔が首を振る。
《俺のことはもう忘れてくれよ。それに辰弥、お前はもっと自由に生きるべきだ。俺なんかに構わず――》
「それでも、俺は希望を捨てたくない。日翔が助かる可能性が少しでもあるのなら、全部試したい。だから生きて! 勝手に死のうとしないで!」
 辰弥の精一杯の懇願。
 諦めきった表情の日翔がぎゅっと辰弥を抱きしめる。
《俺だって……本当は、死にたくない……。お前や鏡介と同じ道を歩きたい。だけど……》
 涙をこぼしながら日翔が本心をぶちまける。
 死にたくない。治せるものなら治したい。だが、どうしても義体にはなれない。
 両親が嫌ったホワイトブラッドを身体に入れることはできない。
 両親を裏切ってまで生き延びていいという確証が日翔にはなかった。
 辰弥も鏡介も自分がホワイトブラッドを入れたくないという意思を尊重してくれる。普通なら動けなくなったことをいいことに無理やり義体化させているだろう。
 それなのに二人はインナースケルトンの出力を落としはしたものの義体化はさせてこなかった。
 自分の思考が歪んでいることは分かっている。義体化すれば何もかも解決する話だというのに、ただ自分のわがままだけで二人を苦しめている。
 それでも、両親を裏切ることはできなかった。
 反ホワイトブラッドで、御神楽陰謀論に染まっていて、世間から見ればいい親ではなかったかもしれない。
 だが、両親は最期まで自分を守ろうとしてくれた。
 それなら、それに報いなければいけない。
 だから、覚悟を決めるしかなかった。
 自分に残された時間を受け入れるしかなかった。
 それが、死んだ両親に対する最後の親孝行だと思ったから。
 それが同時に辰弥と鏡介を苦しめていることは分かっている。
 だから、終わらせようと思った。
 二人をこれ以上苦しめないためにも。
《死にたくは、ない。だが……お前たちを苦しめるくらいなら、死んだ方がマシだ》
「そんなこと言わないで。俺の……俺のために生きてよ」
 ――俺の、保護者と言うなら。
 辰弥の言葉に日翔が顔をくしゃくしゃにする。
《……保護者失格だな、俺》
「保護者って自覚あるなら生きてよ」
 子供が一人で生きていられるほどこの世界甘くないんだよ、と辰弥が続ける。
《じゃあ、さ……『父さん』って呼んでくれよ》
 ふといたずら心で言ってしまった言葉。
 はっとしたように辰弥が顔を上げる。
「何を――」
《保護者なんだからさ……子供に『父さん』って呼んでもらいたいじゃん。七歳の子供なんだろ、だったら》
 辰弥の唇が震える。
「と……」
 喉元まで声がこみ上げてくる。
 呼びたい。特殊第四部隊の手から救出されて、桜花に戻る際の潜水艦の中では「絶対に呼ばない」と言ったものの、呼びたいという気持ちは常にあった。
 呼んでもいいのだ、という思いもあった。
 それでも辰弥が日翔のことを「パパ」とも「父さん」とも呼べなかったのは、辰弥には両親というものが存在しなかったからだ。
 コンピュータ上で塩基配列をシミュレートされ、培養槽で造り出された辰弥には両親と呼べるものは存在しなかった、いや、存在するとしたら塩基配列をシミュレートしたコンピュータだろうか。
 その負い目が、「自分には親など存在してはいけない」という思いが、辰弥を踏みとどまらせた。
 「父さん」と呼んでみたい。こんな自分でも自分の子供だと言ってくれるのなら、呼んでみたい。
 一度は見開かれた辰弥の目が細くなる。
「……言わない。今は、言えない」
《なんで》
「まるでお別れみたいだから。だから、今は言わない」
 そう言って、辰弥は日翔から体を離した。
「帰ろう、鏡介も心配してる」
《帰りづらいな……》
 辰弥の手を借りながら立ち上がり、日翔が苦笑する。
《……なんで俺なんだよ》
 ふと、呟く。
 辰弥が「俺のために生きて」と言ったその言葉は純粋に嬉しい。こんな俺でもまだ生きていていいのか、とほんの少しでも思えた。
 しかし、今の辰弥には千歳がいる。
 自分がいなくなったとしても、きっと千歳が支えてくれる。
 もしかしたら人間ではない辰弥が掴めるかもしれない人並みの幸せ。
 だからそれを投げうちかねない行動に心が痛む。
「……君が大切だから」
 大切な人を助けたいと思うのはダメなの? と辰弥が日翔を見る。
《いや、お前には秋葉原がいるだろ》
 今、この瞬間、辰弥には日翔しか見えていない。
 だから日翔は大切にされている、という思いがあったが、それでも辰弥の心の中で千歳の存在が大きくなっていることには気づいていた。
 それは少し寂しいことではあったが、それでも辰弥が幸せになるなら自分の手から離れていっても構わない、と思う。
 しかし。
 それは分かっていても、日翔の心の中には鏡介のある言葉が引っかかっていた。
 鏡介が辰弥に言い放った「秋葉原に注意しろ」という言葉。
 鏡介がただのやっかみでそんなことを言うとは思えない。それこそ、下手をしたら自分以上に辰弥の幸せを考えるような鏡介がそれを妨害するようなことを言うはずがない。
 それでも鏡介がそれを言ったということは、もしかすると千歳には何かあるのかもしれない。
 鏡介を信頼している日翔だったから、辰弥に「秋葉原がいるだろ」とは言ったものの素直に「秋葉原の元に行け」とは言えなかった。
 全ての疑いが晴れない限り、辰弥を千歳の元へ行かせれば不幸になるかもしれない。
 一体、何が辰弥の幸せなんだ。どうすれば辰弥が幸せになれる。
 ただひたすら、その言葉が脳裏を回る。
 自分が死ねば、辰弥が自分のことを諦めれば、辰弥の苦しみは一つ取り除かれる。
 千歳に対する疑惑が全てクリアされれば、辰弥は彼女の元に行けばいい。
 鈍い日翔でも分かっている。辰弥が千歳のことを想っていることくらい。
 鏡介の反応を見る限り、どうやら踏み込んだ関係にもなっているのだろう、とも思う。
 だったら辰弥も千歳の元に行けばいいのだ。いつまでも男三人むさくるしく生きる必要はない。
 それでも、やはり千歳に対する疑惑だけはどうしても脳裏を過る。
《辰弥、教えてくれ。本当は、秋葉原のことが好きなんだろ?》
 ああだこうだ考えるのが面倒で、ストレートに聞いてしまう。
「……うん」
 躊躇いがちに辰弥が頷く。
 その返事に「どうせ自分は人間じゃないから他人を好きになる権利なんてないのに」と思ってるんだろうなと思いつつ日翔が辰弥の背中を叩く。
《秋葉原に対する疑いがなければ俺たちのことなんて忘れてそっちに行けって言うんだけどな……》
「どういうこと」
 ほんの少し、辰弥が怪訝そうな顔をする。
《いや、鏡介が秋葉原のことを疑っている。秋葉原はスパイじゃないかって。そして俺も……なんか、嫌な予感がするんだ。秋葉原は実はお前を利用しようとしているんじゃないか、って》
「そんな、千歳がスパイだなんて」
 即座に辰弥が否定する。
 嘘だ、千歳がスパイであるはずがない。第一千歳は――。
《お前が違うと否定する根拠は何なんだ。スパイじゃないと否定するに値する確証があるのかよ》
「それは……」
 そんな確証はない。ただ、千歳に疑わしいところなんてない、そんなことがあるはずがない、そう思ってしまう。
《俺はお前が幸せになってくれればそれでいい。秋葉原がその支えになると言うならそれでもいい、と思う。だが……それでも、俺は秋葉原のことを、信じることができない》
「どうして。千歳に疑わしいことなんてないよ。千歳は俺のことを受け入れてくれた。俺が人間でないと知っても、それでもいいって言ってくれた。そんな千歳がスパイだなんて――」
 そこまで反論した時、辰弥の視界が揺らいだ。
 全身を苛む違和感によろめき、膝をつく。
《辰弥!?!?
 日翔が膝をついた辰弥の肩を掴む。
 苦し気に息を吐く辰弥にどうしよう、となるが辰弥はその日翔を片手で制する。
「大、丈夫、すぐに収まる」
《だが、やっぱり『イヴ』呼んだ方が》
 おろおろする日翔に辰弥が再び大丈夫、と言う。
「もう大丈夫。八谷を呼ぶほどもないよ」
 そうは言ったものの、辰弥の顔色が悪いのがすっかり日の落ちた暗がりの中でも分かる。
 航空障害灯や、夜間に屋上で憩う住人のために設置された明かりが二人を照らし、床に長い影を作る。
「……大丈夫、大丈夫だから」
 何度か息を吐き、辰弥が立ち上がった。
《本当に大丈夫か?》
 心配そうに顔を見てくる日翔に、辰弥が手を差し出す。
「帰ろう。ご飯、食べれるでしょ」
《あ、ああ……》
 日翔を支え、辰弥が建物内に入り、エレベーターを呼び出す。
 エレベーターが到着するまでの間に、日翔は辰弥に声をかけた。
《辰弥、お前が秋葉原を信用したいというのを否定したくない。だが、『受け入れられた』からといって信用するのは危険だ。ちゃんと、信頼に値する根拠だけは見つけろ》
「……そう……だね」
 辰弥が小さく頷く。
 それを見て日翔は胸が締め付けられるような錯覚を覚えた。
 自分の発言はただいたずらに辰弥を苦しめているだけなのかもしれない。それでも、保護者として、信用できない人間に辰弥を託したくない。
 それでも。
 ――辰弥が望んでいるのなら、俺が口を出すのはよくないか……?
 そう、ふと思った。
 それでも言葉だけは余計なことを紡ぐもので、日翔は「保護者らしく」自分の考えを伝える。
《もし、秋葉原がお前を裏切るようなことがあれば――俺はあいつを殺すからな》
 その言葉に辰弥がくすりと笑う。
「だったら、猶更、治療薬を手に入れて元気にならないとね」
《そうだな》
 辰弥が笑ったことに日翔は安堵を覚え、それから二人はエレベーターの中に入っていった。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 日翔の自殺未遂から数巡の時間が経過した二日目昼日
 辰弥は千歳に誘われて買い出しに出ていた。
 ショッピングセンターで必要なものを購入し、マンションまで配送を依頼、二人で商店街をぶらぶらと歩く。
 歩いているうちに千歳の手が辰弥の手に触れる。
 どきり、として千歳の顔を見ると、彼女はにこりと笑って辰弥の指に自分の指を絡ませた。
「初めてですか? こういうの」
「……うん」
 そう平静を取り繕って答える辰弥の頬がわずかに赤くなる。
「ごめんなさい、生身じゃなくて」
 そう、謝罪する千歳に辰弥が即座にううんと首を振る。
「……嬉しいよ。初めて……だから」
 おずおずと、それでもしっかりと自分の指に絡みついた千歳の指を握る。
 放したくない。今、ここで手を離せば千歳がどこかへ行ってしまうような気がして。
 千歳のことは好きだ。いくら自分が人間ではないと言われても、人間を愛するような権利はないと言われても、それでも千歳のことは諦めたくないし共に歩みたい。
 同じくらいに日翔と鏡介とも共に歩みたかったが、あの二人は千歳に対して不信感を抱いている。
 もし、千歳か、日翔と鏡介かどちらかを選べと言われたらどちらを選ぶんだろう、と辰弥は考えた。
 どちらも手放したくない。どちらも諦めたくない。
 そうだ、千歳が敵じゃない、スパイじゃないという証明ができれば二人もきっと分かってくれる、とふと思う。
 きっとあの二人も急にアライアンスから押し付けられた千歳がどんな人物かよく分からなくて不安になっているだけだ。だったら自分がもっと深く理解して、二人に伝えられれば。
「辰弥さん?」
 考え込んだ辰弥に千歳が声をかける。
「……? あ、どうしたの」
 はっとして辰弥が自分の心に湧いた考えをかき消し、返事をする。
「難しそうな顔して考え込んでたから。やっぱり――天辻さんと水城さんのことが?」
「……うん」
 辰弥が小さく頷く。
「あの二人は、千歳を疑ってる。千歳がスパイじゃないかって」
 素直に、説明する。
 鏡介は千歳の素性を調べようとしている、日翔もそんな鏡介に同調して千歳に疑いの目を向けている、と。
「……そうですか」
 そう呟いて、千歳は苦笑した。
「私って、信用ないですね。まぁ、仕方ないですか……元『カタストロフ』の人間、それも除籍されたとなると『何やらかした』ですから」
 そうだ。千歳は元「カタストロフ」の人間というだけだ。もう、関係ないはずなのにそれが理由で疑われているのだろうか。
 確かに、先日辰弥に発生する謎の不調の検査を受けるために「カタストロフ」に入らないかと千歳は誘ってきた。その際に「戻ってきてもいい」と言われたとも。
 つながりはまだある。それが、鏡介にとってネックになっているということなのだろうか。
 分からない、そう思う。
 「カタストロフ」には何かあるのか。日翔も鏡介も何も言わないが、辰弥が「カタストロフ」と関わることに何か懸念事項があるというのか。
 そんな辰弥の不安に気付いたか、千歳がにっこりと辰弥に笑いかけた。
「辰弥さん、そんな難しい顔しないで」
「あ……ごめん」
 考え込んでしまうのは自分の悪い癖だな、と反省する。反省するだけで改善はしない。
「じゃあ、一回、考えるのやめます?」
 悪戯を思いついたような笑みで千歳が辰弥を唆す。
 ごくり、と辰弥の喉が鳴る。
 それは、その誘いは。あまりにも危険すぎる。
 一度呑まれれば抜け出せなくなる誘いに、辰弥の、千歳の指を握る手に力が入る。
 あの感覚をもう一度味わえるのなら。
 うん、と、辰弥は頷いていた。
 千歳の言う通り、一度何も考えない時間を作った方がいい。
 そう、自分に言い訳する。
 再び千歳がにこりと笑う。
「……行きましょ」
「……うん」
 二人が連れだって商店街の喧騒に溶け込み、路地裏に入り、そして建物の中へ消えていく。
 それを気にするような人間は誰一人いない。

 

 どれくらいの時間が経過したのか、視界に映る時計で確認すると数時間が過ぎていた。
 帰らなきゃ、と思いつつも人体の素肌を模して作られた千歳の義手の感触から離れられずにぎゅ、と彼女を抱きしめる。
「……辰弥さん、案外甘えんぼさんなんですね」
 千歳が笑う。
 その笑顔が眩しくて、辰弥がうん、と苦笑する。
「日翔と鏡介以外に優しくされたのって……あんまりないから」
 そうですか、と千歳が指で辰弥の髪を梳く。
「……何かあったんですか?」
 不意に、千歳にそう尋ねられて辰弥は思わず彼女の顔を見た。
「何かって……」
「この間の依頼で天辻さんが倒れてから、辰弥さん、ずっと思いつめてるようですから」
 その言葉に、辰弥は「ああ、千歳は理解してくれる」とふと思った。
 千歳になら、全てを打ち明けてもいいかもしれない。
 もしかしたら、何かの答えを出してくれるかもしれない。
 そう思うと、言葉が勝手に口をついて出た。
「……日翔が自殺未遂した」
「天辻さんが?」
 驚いたように声を上げる千歳。
 うん、と辰弥が頷く。
「日翔はもう現場に立てない。これからの依頼は俺と千歳でこなすことになる」
「……そうですか」
 あっさりと、千歳は辰弥の言葉を受け入れた。
 初めからそうなるのは分かっていた、と言わんばかりの反応に辰弥は「千歳は元々日翔が現場に立つのはあまりいい顔してなかったもんな」と考える。
「だけど、暫くは『サイバボーン・テクノロジー』の依頼を優先的に受けることになると思う」
「……どうして」
 当然の疑問。
 千歳は辰弥たちが「サイバボーン・テクノロジー」の依頼を受けるのは日翔の借金返済を早く終わらせるために敢えてハイリスクハイリターンの依頼を受けていると思っている。
 まさかALS治療薬の治験の権利を得るために依頼を受けているとは夢にも思っていないだろう。
 千歳に隠し通すことはできる。それでも、千歳にこれ以上黙っているのも申し訳ない。
「『サイバボーン』と契約したんだ。『サイバボーン・テクノロジー』がALS治療薬の専売権を得られるよう裏工作するのを手伝うから日翔に治験を受けさせて、と」
「……」
 千歳が沈黙する。
 その沈黙だけで、辰弥は「そうだよね」と納得する。
 日翔一人のためだけに千歳を危険にさらしているのだ。これは詰られても仕方がない。
 これがきっかけで千歳に拒絶されても構わない。本当は離れたくないけれども、千歳が離れたいと言うのなら追いかける権利はどこにもない。
 しかし、千歳は一度は沈黙したもののすぐに表情を緩めて再び辰弥の髪を梳いた。
「……頑張ってたんですね」
「……え」
 思いもよらなかった千歳の言葉に辰弥が声を上げる。
「だったら、猶更辰弥さんは『カタストロフ』に入った方がいい」
 先日、提案したことを再び千歳が提案してくる。
「どうして」
「この間、連絡した時に聞いたんです。『カタストロフ』は『榎田製薬』と契約してALS治療薬の専売権を『榎田製薬』にもたらすよう働きかけている、と。話を聞いた限り、『グリム・リーパー』と『サイバボーン・テクノロジー』の契約は対等じゃない。確かに金銭的な報酬も受け取ってるかもしれませんが、治験の席を確保するための代償があまりにも大きすぎる。現に辰弥さんも不調じゃないですか。でも、『カタストロフ』と『榎田製薬』の契約は対等なんです。それに、『カタストロフ』は今治験の権利を得てもそれを使う人がいない。だったら」
 そこで一度言葉を切り、千歳が辰弥の目を見る。
 ほんの一瞬揺らいだその黄金の瞳に小さく頷く。
「辰弥さんは『カタストロフ』に入って検査と治療を受ける。その上で『榎田製薬』に治療薬の専売権をもたらして治験の権利をもらえば天辻さんを助けられるんです。リスクはないとは言いませんが、辰弥さんにも天辻さんにもメリットは大きいはずです」
「俺が『カタストロフ』に入ったら……日翔が助かる……?」
 ええ、と千歳が再び頷く。
「『グリム・リーパー』が単独で背負うには重すぎる契約なの、分かってないんですか? その点、『カタストロフ』は全体で『榎田製薬』と契約してます。辰弥さんが何もかも背負う必要はないんです」
 だから、と千歳が説得する。
 一瞬、「カタストロフ」に行くべきか、と辰弥は揺らいだ。
 千歳の言葉が本当なら、辰弥が「カタストロフ」に行くだけで日翔が助かる可能性は格段に跳ね上がる。『サイバボーン・テクノロジー』のあの厭味ったらしい医薬品販路担当部門専務のジェームズから無理難題を吹っ掛けられなくて済む。
 それに、ここ暫く発生する辰弥自身の不調ももしかしたら治療できるかもしれない。
 確かにデメリットよりもメリットの方が大きい話だ。
 この話に乗った方がいい、そう思えてくる。
 しかし、それでも辰弥はすぐに首を縦に振ることができなかった。
 ――それなら、鏡介はどうなる。
 いや、鏡介だけではない。恐らくは日翔とも一時的に離れなければいけなくなる。
 それに、今更「サイバボーン・テクノロジー」に「話はなかったことに」と言うことも難しい。
 下手をすれば途中で裏切ったと報復してくる可能性も出てくる。
 報復自体はそこまで怖くはないが、それでも日翔と鏡介から離れることには抵抗がある。「カタストロフ」に入ってしまえば日翔を助けられたとしても二人と共に生きることはできなくなるかもしれない。
 辰弥の「カタストロフ」入りには千歳もついてくるとは言っている。だから一人きりということはないがそれでも長年連れ添ってきた二人を捨てるのは心が痛む。
 二人も一緒に、と言いたかったが、日翔は余命幾許もない病人、鏡介は「組織に入るくらいならソロで活動する」と言いかねない頑固さがある。全員での加入は難しい。
 どうすればいい、と辰弥は自問した。
 千歳の提案は魅力的だが断るべきかもしれない、という考えの方がわずかに強い。
「……もう少し、考えさせて」
 色々考えて、出せた答えがこれだった。
 今すぐには決められない。決めるにはあまりにも迷いが大きすぎる。
「いいですよ。納得できるまで考えてください」
 優しく、千歳が言う。
「でも……悠長なことを言っていると、天辻さんを助けられませんよ……?」
 そうだ。
 治験の日程は決まっている。それまでにその席を確保しなければ何の意味もない。
 どっちつかずの考えでいてはどちらの可能性も潰えてしまう。
 だから早く答えを出さなければいけないのは分かっていた。
 それでも、答えを出すことが怖くて、決断できない。
 それに、辰弥にはもう一つ不安があった。
 それは治験の席が確保できてからの話。今考えても仕方ないことではあると思う。
「……日翔には治験の席を確保したい、それは本心で思ってる。だけど、もしそれが叶うとして……もう一つ、不安がある」
「まだ不安要素が?」
 不思議そうな千歳の声。
 自分の提案に不安要素なんて何一つないはず、と言いたげな彼女に辰弥は打ち明ける。
「治験の席を確保できたとして、日翔が治験を受けることができたとして、でも、その薬が日翔に効かなかったら……。もし、『カタストロフ』に入ってそうなった場合、俺は無駄にたくさんの人に迷惑をかけることになる」
 辰弥の言葉に、千歳は「優しい人」と呟いた。
 自分とは関係ないはずの多くの人間に気遣えるほど、鎖神 辰弥という存在は優しかった。
「……大丈夫ですよ」
 優しく、千歳が言う。
「元々『カタストロフ』に治験の席は不要なものなんです。『榎田製薬』だって天辻さんに渡さなければ他の誰かに渡すのでしょうが、その人だって絶対に効果があるとは限らないじゃないですか。だったら、辰弥さんにとって一番怖いことは『色んな人に迷惑をかけること』ではなくて『天辻さんを喪うこと』じゃないんですか?」
 それはそうだ。多くの人間に迷惑をかけるのが怖いとは言ったが、それは逃げで、結局のところ、日翔を喪うのが怖いのだ。
 あの時、マンションの屋上で日翔が自殺しようとしたときの会話を思い出す。
 保護者だからと言った日翔は「『父さん』と呼んでくれ」と言った。
 あれは、辰弥としては「死ぬ前に一度は呼ばれたい」からそう言ったのだと認識した。
 だから「今は呼ばない」と拒絶した。
 だが、そのまま、呼ぶチャンスを失ってしまえば。
 「カタストロフ」に行って、治験の席を手に入れて日翔に新薬を渡すことができても効かなかった場合、彼の最期に立ち会えるかどうかは分からない。もしかすると看取ることすら許されないかもしれない。
 もしそうなった場合、辰弥は日翔の望みを永遠に叶えられなくなる。
 恐らく、それが怖いのだ。
 自分がいないところで日翔が死ぬのが怖い。日翔の望みを叶えられないのが怖い。
 だから、「カタストロフ」に行けない。
 千歳が辰弥を抱きしめる。
「こんなこと言っても、辰弥さんの慰めにすらならないのかもしれませんが――私がいますよ。天辻さんを助けられなかったとしても、私は、辰弥さんの傍にいますから」
「千歳……」
 辰弥の、千歳の背に回す腕に力が入る。
 千歳の手足は血の通わない義体ゆえにひんやりしていたが、背中は温かかった。
 その温もりに、「千歳は俺を受け入れてくれる」と実感する。
「私は、辰弥さんの身体の方が心配なんです。辰弥さんが無理をして倒れた場合、天辻さんが悲しみますよ? だから、『カタストロフ』に行きましょう。何も、怖くないですから」
「……」
 辰弥は何も答えない。答えられない。
 いくら千歳に「怖くない」と言われても恐怖は常に付きまとっていた。
 かつて、研究所で言われた「お前に人間が幸せにできるものか」という言葉が深く胸に突き刺さっている。
 今、うんと頷けばみんな幸せにできるのだろうか。
 そう思っても、「もし、みんな不幸になったら」という思いが胸を過る。
 答えられない。何が最適解なのか、分からない。
 学習装置で多くの知識は詰め込まれたが、こういう時どうすればいいかなんて分からない。
 誰かに相談したかった。しかし、日翔と鏡介には相談できない。それ以外に相談できる人間なんて誰もいない。
 ただ、一人で考えるしかなかった。
 千歳がふっと笑う。
「……出ましょうか」
 時間ですし、と千歳が話を変える。
「……うん」
 そう言って、辰弥は名残惜しそうに千歳から離れた。

 

 商店街に戻り、帰路につく。
 日翔のことも、「カタストロフ」の事も一旦思考の外に追いやり、食事の献立を考える。
 隣を歩く千歳に「ご飯食べてく?」と誘おうか、とふと考えていたら。
 辰弥の視界にふわり、と白が過った。
「――ッ!」
 心臓がどくん、と跳ね上がる。
 見覚えのある白。白い髪。白い髪の少女。
 嘘だ、と辰弥が呟く。
「どうしました?」
 辰弥の声に千歳が立ち止まり、彼を見る。
「いや、なんでも――」
 なんでもない、と否定しようとするものの喉がからからに乾いて声が出ない。
 嘘だ。こんなところにいるはずがない。
 彼女は死んだ。日翔が殺した。
 否、彼女の死亡は観測されていない。観測されていないことは確定情報にならない。
 生きていたのか、と思考がぐるぐる回る。
 辰弥の足が一歩前に出る。もう一歩、白い少女が見えた方向へと向かう。
「辰弥さん?」
 怪訝そうな千歳の声。だが、それを聞く余裕はない。
「ちょっと待ってて!」
 そう言い残し、辰弥は地面を蹴った。
 千歳が呼び止めようとした気がするがそれには構わず走り、路地裏に入り、白を探す。
 ちらり、ちらりと見える白い影。
 まるで辰弥を誘うかのように少し進んでは消え、消えては現れ、路地裏の奥へ奥へと導いていく。
「待って!」
 辰弥が叫ぶ。
 距離は確実に縮んでいる。そもそも相手は少女だ、辰弥の追跡を振り切れるほどの脚力はない。
 幾つもの細い角を曲がり、辰弥は少し開けた場所に出た。
 まるで忘れ去られた公園のような場所。そこに打ち捨てられた工事資材の上に、「彼女」はいた。
 工事資材の上をステージのように踊り、歌を歌っている。
「パパの大事なあーきと、パパの大事なあーきと、とーっても大事にしてーたーのにー」
ノイン!」
 辰弥が「その名」を叫ぶと、白い少女は歌と踊りを辞め、ステージの上から辰弥を見下ろした。
 直後、辰弥の前を黒猫が横切り、周囲の建物の屋根から一斉にカラスが飛び立つ。
 黒猫と空飛ぶカラスに囲まれて、少女の紅い瞳が妖しく輝く。
「来たんだ、エルステ
 少女が――ノインが、嬉しそうに笑う。
「久しぶりだね、エルステ。元気してた?」
 楽しそうなノインの声。
「……おかげさまで」
 ノインとは対照的に、苦々しい声の辰弥。
「でも、あきとは大変だね」
 相変わらず、楽しそうにノインが言う。
「ノイン、知ってるよ。あきと、もうすぐ死ぬよね」
「……どうしてそれを」
 いつでも攻撃できるように身構え、辰弥が黄金の瞳でノインを見据える。
「あきとにはもう会った。今にも死にそうなあきと、かわいそう」
 そう言ってノインがくるりと回る。それに呼応するように、空でカラスが空中を旋回する。
 そこで辰弥は思い出す。あの時、屋上で日翔は「雪啼が枕元に立っていた」と。
 それは幻覚でも何でもなく、実際にノインが日翔の元に訪れていたのだ。そして、彼を屋上に導いたのだろう。
 居場所までバレていたのか、と辰弥が歯ぎしりする。
 今後、ノインの攻撃も気にしなければいけないのか、と思う。
 そんな辰弥の考えとは裏腹に、ノインは楽しそうに笑いながら辰弥を煽る。
「やっぱり、あの時ノインがあきとを食べてた方が幸せだったんじゃない?」
「何を――」
 ノインにとって日翔はただの邪魔者のはずだ。一番の目的は辰弥エルステであって、日翔ではない。食べたところでただ空腹を満たすだけの物にしかならない。
「君の目的は俺のはずだ。日翔に手出しはさせない」
「そうだよ。ノインの目的はエルステだけ。他の人間は、ノインの、ごはん」
 その言葉にぞっとする。
 まさか、ノインは特殊第四部隊の攻撃を逃れてから、武陽都に来るまで、人間を食料として生き永らえてきたのか。
 同時に、それが理解できてしまってノインに嫌悪感を抱く。
 上町府でノインを「雪啼」と呼んで保護していた頃、辰弥の周辺では死体の血が全て抜かれるという吸血殺人事件が頻発した。その犯人はノインだったが、それはノインの身体は血液を作り出すことができず、輸血か経口摂取でしか血液を補充できなかったからだった。
 また、辰弥がノインを保護する少し前――ノインがいた研究所が襲撃された直後、近辺の牧場地域で牛が血液を抜かれたり食い荒らされたりするキャトルミューティレーション事件が起こったという。
 結局、それもノインの仕業だったらしいが、それらを踏まえると彼女が人間を捕食していても何ら違和感はない。死体が残ってしまえば殺人事件として大々的に報道されるということを理解していれば、死体を隠すためにも捕食くらいは行うだろう。
 この国は行方不明事件が多すぎる。死体さえ見つからなければ行方不明として処理され、そのままうやむやにされてしまう。
「……君は……人間をなんだと思ってる」
 低い声で辰弥が問いかける。
「? 人間は人間でしょ?」
 小首を傾げて無邪気に答えるノインに辰弥の奥歯が鳴る。
 ノインは殺人を悪いことだとは全く認識していない。血を吸うために殺して、肉になったなら食べる、それだけかもしれない。
 そんな感覚で日翔を殺されたくはない。日翔は死なせない。ノインには殺させないし、病気にも殺させない。必ず、治験の席を確保する。
「エルステ、怒ってる? でもノインだって、飲みたくて飲んでるわけじゃない。エルステを食べて完全になったら、人間、食べなくてもいいの」
 不意に、ノインがそんなことを言う。
 どういうことだ、と訊く前にノインが辰弥を見据える。
「ノインはエルステを食べて完全になる。完全になって、主任のところに帰る。でも、一つ取引する?」
 取引。
 以前の、ノインとの戦いでの取引を思い出す。
 あの時もノインは「パパが食べられてくれるならあきとを返す」と取引を持ち掛けた。
 それに応じようとしたら、ノインは日翔を巻き込んで殺そうとした。
 嘘だ。ノインは取引なんかする気はない。そう、以前の経験から考える。
 その態度を感じたのか、むぅ、とノインが頬を膨らませる。
「悪い話じゃないよ。パパが食べられてくれるなら、主任に言って、あきと、助けることができるかも?」
「……どういうこと」
 ノインの取引は聞くべきではない。しかし、「日翔を助けることができるかも」という言葉に、思わず食いついてしまう。
「主任、新しい義体作ってる。あきとの嫌いな白い血を使わない、せーたいぎたいってやつ。それ使えばあきと、助かるんじゃない?」
 ノインの言葉にハッとする。
 確かに、ノインの言う「主任」――永江ながえ あきらは「御神楽財閥」の客員研究員として生体義体を開発するために囲われていた。
 生体義体がどのようなものかは辰弥は知らない。しかし、ノインの言葉を信じるならそれは人工循環液ホワイトブラッドを使わないもので、確かにホワイトブラッドは嫌うものの、義体自体に忌避感のない日翔ならもしかすると受け入れるかもしれない。
 日翔を助けられるかもしれない新たな可能性に、辰弥の心が揺らぐ。
 ――俺一人犠牲になれば、日翔を助けられる?
 もちろん、ノインが約束を守れば、という話にはなるが。
 辰弥の沈黙ににこりと笑い、ノインがぴょん、と工事資材の上から飛び降り、辰弥の前に移動する。合わせて黒猫がノインの体をぴょんとよじ登り、首にまとわりつく。
「どうする、エルステ? 悪い話じゃないでしょ?」
「それ、は……」
 掠れた声で辰弥が呟く。
 悪い話ではない。受け入れれば、日翔は助かるかもしれない。
 それでも、この選択肢ですら辰弥は即答することができなかった。
 自分一人が死ねば全て終わる話なのである。だが、その場合、遺された日翔や鏡介、そして千歳はどうなる。彼らが何もせずに終わるとは思えない。
 ノインの首元で黒猫がにゃあ、と鳴く。
「ま、すぐには答え出せないか。いいよ、時間をあげる。また来るから、考えておいてね」
 黒猫に手を伸ばして抱きかかえ、ノインが笑った。
「待て!」
 辰弥は咄嗟に手元をナイフにトランスさせ、ノインに飛びかかろうとする。
 その瞬間、上空を飛んでいたカラスが一斉に辰弥に襲い掛かった。
 辰弥がナイフにトランスさせた腕を振り、カラスを追い払う。
 全てのカラスが飛び去った時、そこにノインの姿は残っていなかった。
「……逃げたか……」
 忌々し気に辰弥が呟く。
 しかし、考えていても仕方がない。千歳も待たせている。
 とりあえず戻ろう、と辰弥も踵を返し、広場を出た。

 

「千歳、ごめん待たせた」
 辰弥が千歳の元に戻ると、彼女は誰かと通話しているようだった。
 辰弥の視界に、千歳が通話中であるというステータスが表示されている。
「……あ、彼が戻ってきたから、また後で」
 辰弥が戻ってきたことを確認したのだろう、千歳が彼に分かるように声を出してそう通話を締めくくる。
「誰かと通話してたの?」
「ええ、友達が久しぶりに連絡してきて。この後遊ばない? って」
 すまなさそうに千歳がそう説明する。
 千歳、友達いたんだ、と思いつつ辰弥はそう、と頷いた。
「それならここで解散する? 友達づきあいは大切だから、遊んできなよ」
 買い出しももう終わってるし、俺は別に構わないよと辰弥が言うと、千歳は「ごめんなさい!」と両手を合わせた。
「今度、またご飯食べに行きましょう。その後は、もちろん」
 千歳の誘いにどきり、とする。
「……そうだね。じゃあ、また今度」
 そう言って、辰弥は千歳に背を向けた。
 歩みを進め、雑踏に紛れ込む。
 歩きながら、辰弥は先程のノインとの会話を思い出した。
 ノインは生きていた。生きていて、まだ自分を狙っている。
 ただ、自分を殺したいというだけであるなら抵抗すればいい。しかし、日翔が助かるかもしれない新たな可能性を示唆され、迷いが生じてしまう。
 今まで通り「サイバボーン・テクノロジー」の鉄砲玉として依頼を受け、治験の席を確保するか。
 千歳の誘いに乗り「カタストロフ」に加入し、「榎田製薬」に治療薬の専売権を入手させ、そのルートから治験の席を確保するか。
 ノインに自分を差し出し、永江 晃が開発している生体義体を日翔に移植させるか。
 どれを選択すれば最良の結果になるか、辰弥には分からなかった。

 

 

エルステ観察レポート

 

 急を要する連絡のため、手短にまとめる。
 今回の作戦は弱小のメガコープとの戦闘、特筆すべき点はなし。
 その数巡後、本日先ごろ、エルステに対し、9番目のLEB・ノインが接触してきた模様。
 工場跡地の解析から、僅かに生存している可能性があるとされていたが、この度、生存が確定したことになる。
 急ぎ、ノイン回収の計画立案の要を認める。

 

――― ――

 

to be continued……

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第5章の登場人物

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おまけ
ばにしんぐ☆ぽいんと り:ばーす 第5章
「てんどん☆り:ばーす」

 


 

「Vanishing Point Re: Birth 第5章」のあとがきを
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