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Vanishing Point 第1章

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  序

 遠くから聞こえる乾いた破裂音に、目が覚める。
 それが銃声だと、何故か理解する。
 理解すると同時に、覚醒しきらない脳が視覚に投影される室内の様子を分析する。
 ――赤灯が点灯している。
 本来なら静まり返っている深夜、照明は常夜灯のみのはずである。
 それなのに夜間緊急時――マニュアルでは過激派組織等による襲撃があった場合――に点灯する赤灯が点灯し、薄暗くも視界を失わない程度の光量を保っている。
 ――襲撃?
 マニュアルを思い出し、仮眠をとっていた当直の研究員は慌てて身を起こす。
 緊急時に開けることになっているロッカーの扉を開き、中からType-4T4アサルトライフルを取り出してマガジンを確認、コッキングハンドルを引いて初弾を装填、安全装置セイフティ安全SAFEから連射AUTOに切り替える。
 訓練で何度も経験したこととはいえ今回は初めての実戦となるだろう、そう考えただけで研究員は身震いした。
 赤灯が点灯しているのは外部から襲撃があった場合だけではない。たまたまこの研究員が思い出したのが襲撃のパターンだっただけであり、違うパターンも想定される。
 ――まさか。
「その可能性」に気付くと同時に、宿直室の内線電話がけたたましく鳴り始めた。
 一瞬びくりと身を震わせ、研究員が受話器を取る。
 ――どちらだ
《起きていたか! コード・レッド発令だ! 今すぐ援護に向かってくれ、場所は――》
 ――敵襲警報コード・レッド
 緊急事態には違いないが、最悪の警報発令コード・ブルーではなかったことに安堵の息を漏らし、研究員は分かった、と応えた。
 T4のスリングを肩に掛け、いつでも構えて撃てるように持ち直して部屋を出る。
 遠くで聞こえていた銃声が近づいてくる。
 同時に聞こえる断末魔の叫びは仲間のものなのか、襲撃者のものなのか。
 小走りで廊下を駆け、曲がり角で壁に背を付け遮蔽を取り経路に侵入者の姿がないことを確認する。
 再び廊下を走り、次の角で同じように侵入者を確認しようと僅かに身を乗り出したところで研究者は銃声を耳にし、同時に焼けつくような痛みを覚える。
 撃たれた、と認識するのにそう時間はかからなかった。
いたぞコンタクト!」
 通路の向こう側から怒鳴り声が聞こえる。
 今来た方向に駆け出しながら研究員は相手は統率のとれた集団で、その辺のならず者ではないと冷静に判断する。
 壁からはみ出してしまい撃たれた右腕は酷く痛むが引鉄トリガーが引けないわけではない。戦闘能力は失われていないのは自分でも理解している。
 だが、あのほんの少しの身の乗り出しを正確に撃った襲撃者を相手に撃ち合って勝てるはずがない。
 それなら、切り札を切らねば死ぬのはこちらだ、と研究員は呟いた。
 その時点で彼は冷静さを失っていたのだろう。
 この時の彼の判断が、事態をさらに悪化させることとなる。
 勝手知ったる研究所を駆け抜け、隔離室隣の観察室の扉を開け、中に入る。
 襲撃者が入ってこないように扉をロックし、強化ガラス越しに隔離室の中を見る。
 そこには拘束具で全身を拘束された小柄な人影が眠っている。
 観察室のコンソールを操作し、研究員はその拘束を解除すると共に気付薬を投与する。
 人影の首筋にアームが伸び、シリンダーが突き立てられる。
 外れた拘束具が床に落ち、堅い音を立てる。
 研究員はコンソールをさらに操作、隔離室のロックも解除した。
 そこで拘束解除時に起動させることになっている首輪型爆弾セイフティのことを思い出し、さらにコンソールに指を走らせようとする。
 マニュアル通りに拘束を解除するなら先に首輪型爆弾を起動してから拘束具を外さなければいけない。
 緊急時とはいえ危うく仲間を危険にさらすような行動をとってしまった自分自身に腹を立てながら起動のためのコマンドを打ち込もうとする。
 その時、扉が破られた。
 プラスチック爆弾による扉の破壊ブリーチングは流石に耐えられなかったらしい。
 しかし、研究員は悠長にそんなことを考えることはできなかった。
 次の瞬間、無数の弾丸が研究員に突き刺さる。
 研究員が倒れ伏したのを確認した襲撃者が「問題なしクリア」とサインを送り、観察室に三人の武装した人間が突入する。
 そのうちの一人が強化ガラス越しに人影を視認し、他の二人にサインを送る。
 三人が、人影を見る。
 ゆらり、と小柄な人影が身体を起こす。
 その昏く、紅い双眸がガラス越しに三人を見る。
 次の瞬間、隔離室と観察室を隔てるガラスが砕け散った。
 無数の破片が三人を襲う。
 馬鹿な、強化ガラスだぞ、と迫りくる破片に三人が驚愕する。
 しかし、それだけでは済まなかった。
 三人のうちの一人の義眼ナイトビジョンがさらに迫り来る何かを視認する。
 咄嗟に、彼は両手で左右にいた二人を突き飛ばした。同時に三人を何かが貫き、壁に張り付ける。
「……かはっ!」
 三人を貫いた何かは直ぐに引き抜かれ、全員床に崩れ落ちる。
 直後、隔離室のドアが開き、中にいた人影が出て行ったことを理解する。
 これはまずい、と胸を貫かれた一人がそう判断するもこの傷は明らかな致命傷、力を振り絞って首を動かすと他の二人は幸いにも咄嗟の突き飛ばしで急所を外したらしく、身動きできないものの呻いている。
 せめて、他の仲間に連絡を、と思うもののもう指先一つ動かすことができない。
 その、暗転しつつある視界に人影が揺らいだ。
 先ほど射殺したと思った研究員が体を起こし、コンソールに縋り付く。
 襲撃者はその先を見届けることができず、そこで力尽きる。

 

 

 ――自分は何をしてしまったのだ。
 倒れた襲撃者を尻目に、研究員がコンソールの受話器に手を伸ばす。
 受けた傷は深い。恐らくは助からないだろう。
 廊下で撃たれた時点で気付いていたはずだ。襲撃者の殺意に。
 いや、その殺意故に切り札被検体を使って襲撃者を殲滅しようとしていた。
 だが、研究員はイレギュラーな手順を踏んでしまった手順を誤ったために事態を悪化させてしまった。
 マニュアル通りに首輪型爆弾を起動させることができていればこの騒ぎの後に爆弾を爆破して被検体を「処分」することができただろう。
 貴重な被検体を処分することには心が痛むが、研究所が襲撃された以上ここで研究を続けることは難しい。
 それなのに、首輪型爆弾を起動することなく自分は被検体を解き放ってしまった。
 本来ならあってはいけない、最悪の事態コード・ブルー
 それは、この施設で研究している被験者の脱走を意味する。
 研究員は撃たれたショックで考えがまとまっていなかった。
 被検体を解き放てば襲撃者を殲滅できると思っていたが、そんなはずはない。
 そんなことをすれば、被検体による敵味方関係なしの殺戮が、始まってしまう――
 だめだ、誰も何も気づかぬままに野放しにしてはいけない。
 しかし今首輪型爆弾の起動コードを打ち込む力はもう残っていない。
 最後の力を振り絞って研究員は体を起こし、コンソールの受話器を取った。
 内線を館内放送モードに切り替える。
「……被検体脱走コード・ブルー……すまない、私は……」
 それ以上、研究員が言葉を発することはできなかった。
 ずるりと身体が床に沈む。
 床に広がる己の血でできた血だまりを感じ、研究員の意識は闇へ墜ちていった。

 

 

 小柄な人影が廊下を駆け抜ける。
 途中、何人もの研究員や警備員を視認したがその人影は次の瞬間にはただの肉塊と成り果て床に沈む。
 角を曲がると同時に「いたぞコンタクト!」という叫び声と共に銃弾が飛来するが持ち前の俊敏さで回避、一人の腕を行き掛けの駄賃とばかりに切断しそのまま突破する。
 その先でももう一グループと遭遇、それも強引に突破しさらに駆ける。
 このまま駆け抜ければ「外」に出られるだろう、と小柄な人影は理解していた。
 この研究施設から一歩も外に出なかったわけではないため、少なくとも出口へのルートは把握している。
 やっと出られる、と小柄な人影は走り続けた。
 あとはこの直線通路、出入り口にはロックがかかっているだろうが小柄な人影にはそんなものなど存在しないにも等しい。
 あと少しで出入り口に到達する、と小柄な人影が思った時、突然轟音とともにすぐ横の壁が崩落した。
 瓦礫が小柄な人影に降り注ぎ、その身を埋める。
 抜け出さなければ、と藻掻くものの瓦礫は重く、直ぐには動かない。
 だが、その藻掻きも聞こえてきた足音に中断せざるを得なかった。
 足音は小柄な人影が埋まる瓦礫の目の前で止まる。
 ほんの少し、視線を動かすと瓦礫の隙間から人影を視認することができた。
 人影は二つ。
 角度の都合で顔までは見ることができない。
 それでも一人は全身のラインがはっきりと分かるブルーを基調としたボディスーツを身に纏った女、もう一人は戦闘服BDUを身に纏い、ハイブリッドライフルKC M4 FAMSを手にした屈強そうな男。
 その肩には黄色をベース色に薄紫の花と桜色の四枚の花弁が意匠されたエンブレムが。
 今ここで攻撃してはいけない、と本能がそう告げる。
 今はここでじっとしてやり過ごせ、という本能に従い、息をひそめる。
 話し声が聞こえる。
「……で、今夜研究所にいた研究員は全員死亡か投降、こちらの被害も一人瀕死、四人が重傷ということでいいかしら。そのうち三人が班ごと襲われた、だったかしら」
「ああ、第一号エルステの戦闘能力を侮っていたな」
 どうやらエルステは敵味方関係なく殺害していたようだ、と男が続ける。
 それに対し、女は溜息を一つついたようだった。
第二号ツヴァイテから第四号フィアテは拘束が解かれていなかったため回収済みだ」
「それで、エルステは」
「まだ発見されていない」
「……ヤバいわね。このまま外に出ていたら街は大惨事になりかねないわ」
「だが、今の我々では捜索も難しいだろう。瓦礫に埋まっている方に賭けて改めて捜索隊を投入するしかない」
 それに対し、女は少し沈黙した。
 味方の損耗率を考慮し、捜索隊を投入するリスクを考えていたのだろう。
「……無駄ね。捜索隊を呼んでいる間に逃げられる可能性が高いし、仮に瓦礫に埋まっていたとしても下手に掘り起こして暴れられれば大きな被害は避けられない。確保は諦めましょう、ただ、万が一の保険でここにナノテルミット弾を撃ち込む」
 それなら瓦礫に埋まっていたとしても助からない、もし助かっていた場合は恐らく何かが起こるはずだからその時に対処しましょう、と女は判断した。
 その提案に、男も頷いたようだった。
「それなら、ナノテルミット弾の要請をしておこう。撤収だ」
 男の言葉の後、足音が再び響き始め、二人が立ち去る。
 ここにいてはいけない、と小柄な人影――第一号エルステ――が二人の気配を感じなくなったところで再び藻掻き、瓦礫から抜け出そうとする。
 二人の言う『ナノテルミット弾』が何のことかは分からなかったが、少なくとも今すぐここから逃げなければ死ぬということだけは分かった。
 暫くの瓦礫との格闘の後、漸く自由の身となったエルステはふらふらと立ち上がった。
 次の瞬間、起動されなかった首輪型爆弾が砕けて破片が地面に落ちる。
 周りに生きた人間の気配はない。
 今なら、逃げられる。
 突如襲い掛かってきた倦怠感を振り払うように首を振り、エルステは足を引きずりながら歩きだした。
「力」を行使しすぎた、早く休息しろという警告が全身を苛むがここに留まっていることはできない。
 ゆっくりと、だが今の自分が出せる最大のスピードで瓦礫の山となった研究所を抜け出し、エルステの姿は闇へと消えていった。

 その数分後。
 空から飛来したいくつもの焼夷弾が研究所に降り注ぎ、超高温の炎が全てを焼き尽くす。
 その後の捜索でかなりの数の焼け焦げた遺体は発見されたものの損傷が激しく、暫くの日数を要したが全ての遺体の特定は断念せざるを得なかった。
 研究所を襲撃し、ナノテルミット弾の投下を決断、実行した組織は一つの決定を下す。
 ――兵器開発第1研究所が非人道的に開発を行っていた局地消去型生体兵器「Local Erasure BioweponLEB第一号エルステは発見されず。その後目撃証言や暴走による事件などは発生せず。このまま普通の人間に溶け込むことを祈り、監視レベルを最低まで引き下げる。と――

 

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