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Vanishing Point 第6章

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前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

 惑星「アカシア」桜花国おうかこく上町府うえまちふのとある街。
 そこで暗殺者として裏社会で生きる「グリム・リーパー」の三人は暗殺連盟アライアンスから依頼を受けて各種仕事をこなしていた。
 ある日、辰弥たつやは自宅マンションのエントランスで白い少女を拾い、「雪啼せつな」と名付けて一時的に保護することになる。
 依頼を受けては完遂していく三人。しかし巨大複合企業メガコープの抗争に巻き込まれ、報復の危機を覚えることになる。
 そんな折、日翔あきとが福引でエターナルスタジオ桜花ESOのペアチケットを当ててくる。
 チケットを譲り受けた辰弥は雪啼を連れて遊びに行くが、それは日翔が自分の筋萎縮性側索硬化症ALSの診察を密かに受けるために仕組んでいたことが発覚してしまう。
 普段の怪力はそのALSの対症療法としてひそかに導入していた強化内骨格インナースケルトンによるもの。今後の日翔の身の振りを考えつつ、次の依頼を彼の後方に据えて辰弥一人で侵入するもののそこに現れた電脳狂人フェアリュクターに襲われ、後れを取ってしまう。
 突如乱入してきたカグラ・コントラクター特殊第四部隊隊長の御神楽みかぐら 久遠くおんを利用して離脱するものの、御神楽財閥の介入に驚きと疑念を隠せない三人であった。

 

 
 

 

第6章 「Resemblance Point -類似点-」

 

《――一昨日未明、爆発炎上した泉北せんぼく市の『荒巻あらまき製作所』泉北工場は立ち入り調査の結果、溶接用のガスに引火したことによる爆発火災であるとの発表が本社の記者会見により発表されました――》
 相変わらず日翔がCompact Communication TerminalCCTで食事中にニュースを眺めている。
 辰弥が、何度注意しても日翔がやめないためやや諦めモードで食事を済ませ、皿をシンクに運ぶ。
「パパー、このお肉、おいしい」
 まだ食べ終わっていない雪啼がフォークで皿の肉を刺しながら言う。
「そりゃ、山崎やまざきさんがお裾分けしてくれた桜牛だし」
 今回の夕食は暗殺連盟アライアンスのまとめ役であり、辰弥たちが住まうマンションの管理人も兼ねている山崎やまざきたけるが「たくさんもらったから」となぜか持ってきた牛肉を低温調理した後バーナーで炙ったもの。
 雪啼は痩せ細っているように見えるが食欲は旺盛で、時には辰弥が自分の分を分け与えることさえある。
「確かに、今日の肉は特にうまかったな。やっぱり桜牛だからか?」
「普通に焼くより炙りにした方が美味しそうだったからね」
 皿を洗い始めながら辰弥が「生で食べたかった……」などと呟いているが日翔は聞かないふりをした。
「お肉って、あぶるとおいしいんだ!」
 雪啼が最後の一切れ口に運び、「あぶったお肉おいしいー!」と声を上げる。
 喜んでいるならよかった、と辰弥は一度手を止め、雪啼の前の皿を回収する。
「でもとんでもないカバーストーリーを展開したものだよね」
 ニュースの話題に戻り、辰弥が日翔に言う。
「まぁ、カグラ・コントラクターカグコンが介入したらこうなるよな」
 辰弥が目の前の皿を回収するのを横目で眺めながら日翔がぼやく。
「でも、なんでカグコンが依頼もなしに介入したんだろう」
「ほんと、技術を取り入れたいだけなら買収するだけでいいはずだもんな。俺、バカだからよく分かんねえけどさ、わざわざ武力介入する理由が分からねえ」
 そこまで言ってから、日翔はCCTをポケットに戻して辰弥に視線を投げた。
「で、体調は大丈夫か?」
「ん? あ、ああもう大丈夫」
 一度は意識を失ったからと無理やり二単位の輸血をされたから充分回復している。
 首のあざは少々残っているものの、引っ掻いた痕は目立たない。
 まぁ、大丈夫ならいいんだがとそのまま日翔が辰弥を見ていると、雪啼が椅子から降りて辰弥に駆け寄っていく。
「パパー、あそんでー」
 そう言いながら、雪啼が辰弥のジーンズに取り付き、器用によじ登り始める。
「あ、こら邪魔しないで」
 洗い物の手を止めず辰弥がそう言うものの、雪啼はまるで子猫のように辰弥の身体をよじ登り首に抱き着いた。
 ……と、雪啼の足が滑り辰弥の首に腕をかけたままぶら下がった状態になる。
「ぐぇっ」
 辰弥の喉から変な声が上がった。
(まず……、息が……)
 雪啼の腕が絶妙に気道に食い込み、息ができない。
「雪啼、元気だなぁ」
 日翔がそう呟き、微笑ましく眺めている。
(違う、そうじゃない!)
 じゃれてんなぁ、という表情の日翔に対し、辰弥は必死の形相で背中の雪啼を指さした。
「辰弥!?!?
 ようやく事態を理解した日翔が、がたん、と椅子を蹴り、二人に駆け寄って雪啼を抱きかかえる。
「大丈夫か!?!?
 雪啼を引きはがしたことで圧迫された気道が解放され、辰弥が喉を押さえて咳き込んだ。
 あの狂人フェアリュクターに首を絞められてから三日一巡すら経過していない今日、まさかまた首を絞められるとは思っていなかった辰弥は完全に無防備だった。
 雪啼はただじゃれついただけだが、それが命取りになっては元も子もない。
 いくら他意はなくともこんなことで何か取り返しのつかないことになれば、雪啼にとってそれは大きなトラウマになりかねない、少なくとも辰弥はそう思っていた。
 子供が相手であっても油断してはいけない、そう思って辰弥は日翔に抱きかかえられて「あきと、じゃまー」と暴れる雪啼に目線を合わせた。
「……雪啼、」
 辰弥の声に、雪啼が動きを止めて彼を見る。
「危ないことはしちゃだめ。君が大丈夫でも、他の人が危ないことになるのもだめ」
「んー?」
 雪啼が首をかしげる。
 まぁ、善悪の判断はできないのか、と思いつつも辰弥はさらに続ける。
「人によじ登っちゃダメ。今みたいにパパの首絞めたり、転んで二人とも怪我するかもしれないからね」
「……むぅ」
 少々不承不承ふしょうぶしょうさはあったものの、雪啼が頷く。
 そして、
「だったらパパ遊んで」
 そう、声を上げた。
 それは勿論、と辰弥が頷く。
「でも、洗い物終わってからね」
 とにかく先に片づけてから遊びたいの、と訴えかける辰弥に、雪啼は、
「むぅ、」
 再びそう声を上げて、辰弥の足にしがみつき、登り始めた。
「だからよじ登っちゃダメってって言ってるよね!?!?
 また首を絞められたら大変だ、と辰弥が雪啼を引きはがそうとする。
 が、雪啼は雪啼で器用に辰弥の身体をよじ登って彼の手をかわし、ほんの少しの間激しい攻防が繰り広げられる。
「あーはいはい、そこまでにしときなー」
 はじめは微笑ましく二人を眺めていた日翔だったが、すぐに手を伸ばして雪啼を捕まえる。
「あきと、じゃまー!」
 ぶんぶんと両腕両足を振り回して雪啼が暴れるが、強化内骨格インナースケルトンのおかげで怪力を持つ日翔の敵ではない。
 すぐに首根っこを掴まれ、床に下ろされてしまう。
「むぅ~……」
 頬を膨らませてムスっとする雪啼。
 それには構わず、日翔は
「辰弥の用事が終わるまでは一緒に遊ぼうか、雪啼」
 以前鏡介に言われて用意した猫じゃらしをどこからともなく取り出し、雪啼の目の前で振り始めた。
「! にゃー!」
 日翔の手の動きに合わせて揺れる猫じゃらしの先端の羽根に目の色を変えて雪啼が飛びつく。
「……マジで、猫みたいな子だな……」
 雪啼の意識が猫じゃらしに向いたことで、辰弥はほっとして皿洗いに戻った。
 全ての皿を洗い、シンク回りを全て磨き上げ、麦茶を飲んでから雪啼と遊ぶかと辰弥が自分のマグカップを手に取る。
 そのタイミングで、視界にグループ通話のアイコンが表示された。
「んあ? おい辰弥、鏡介からグループ通話だ」
 猫じゃらしを止めた日翔が雪啼を抱きかかえる。
「雪啼、悪いがちょっと一人で遊んでてくれ」
「えー……」
 不満げな雪啼だったが、日翔と辰弥の様子に何かを察したかのように渋々自室に連行されていく。
 彼女を部屋に放り込んでドアを閉めた日翔がCCTの通話ボタンをタップする。
 辰弥も頷いて視界に映る通話ボタンをタップした。
《ああ、やっと出たか》
 辰弥が通話に参加したことで鏡介が「待たされたぞ」と言わんばかりの顔でそう声を上げる。
(ごめんごめん。で、どうしたの)
 鏡介がグループ通話を開いたということは「仕事」の件で何かあった、ということだろう。
 以前の件で依頼人クライアントの詳細を探るなとかなり釘を刺されたので別件だろうが、それでもまだ気になることがあったというのか。
 ああ、と鏡介が頷く。
《一昨日の件、なんであのタイミングでカグコン……特殊第四部隊トクヨンが介入したのか気になってたからずっと調べていた。そしたら色々とやばいことが分かってな》
《ヤバいこと? あいつらが介入する理由あったってことかよ》
 俺、バカだからよく分からんわーと言う日翔に鏡介がため息を吐く。
《お前、俺より学歴上だろ。中等教育受けてんならもう少し考えろバカ》
 日翔は暗殺連盟アライアンスに加入した時期を考慮しても高校には通っていない。
 だが、鏡介の発言はまるで自分は義務教育すら受けていないと言わんばかりのもの。
 ウィザード級ハッカーとして様々なプログラムを操る姿からそんな様子を微塵も感じることはできない。
 が、深く詮索することなく辰弥は、
(カグコンのことだからなんかとんでもないことやったってわけか……)
 そう、呟いていた。
 先日、日翔の過去を暴いてしまったところである。
 だからといって鏡介の過去まで暴いていいとは思っていない。
 それに、仮に鏡介が義務教育すら受けていなかったとしても「仕事」に影響がないなら関係ない話である。
 だから、どうでもいいと辰弥はスルーしていた。
 辰弥の言葉に鏡介が「聞いて驚くな」と前置きをする。
《介入の数分前に御神楽みかぐらが『荒巻製作所』のあの工場を買収した》
《はぁ!?!?
(買収!?!?
 鏡介の言葉に、日翔と辰弥が同時に声を上げる。
《買収って、え、工場丸ごと?》
 ああ、と鏡介が頷く。
《工場丸ごと一括で買い取ったらしい。まぁ中小企業だからな、荒巻も資金は欲しかったんだろう》
《はえー、巨大複合企業メガコープのやることはスケールが違ぇ……》
 そう、驚いているものの日翔は「でもそれの何が介入の原因なんだ?」と納得していない。
 辰弥も買収と聞いて少し疑問に思ったようだが、すぐに何かに気がついてあっと声を上げる。
(工場を丸ごと買収したからカグコンの演習場にしたってこと!?!?
《はぁ!?!?
 辰弥の言葉に「んなバカな」と言わんばかりの声を上げる日翔。
《どういうことだよ詳しく説明しろ》
 なんで買収したら演習場になるんだよ、とまだ理解が及ばないらしい。
 鏡介がため息混じりに解説する。
《だから、御神楽は『荒巻製作所』が『ワタナベ』と手を組んだことを察知した。厳密には『ワタナベ』のことは勘付いていなかったようだから生物兵器バイオウェポンのことを察知した、が正しいんだろうな》
 そこで一息ついてスポーツドリンクを飲む鏡介に辰弥がなるほどと頷く。
(御神楽としてはバイオウェポンのプロジェクトは潰したい、だから『荒巻製作所』を買収して、)
《演習と称してトクヨンを送り込んだ、で辻褄が合う》
 バイオウェポンはそんなにヤバいものなのか、と呟きつつも鏡介が調査結果を二人に転送する。
(……相当マズいことになったね)
 まさかカグコンが介入するとは思ってなかったよ、と辰弥が呟く。
《だから何がマズいんだよ。御神楽が荒巻を買収して、カグコンの演習場にしただけだろ? 何が問題……》
 まだ事態を理解していない日翔が頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
 それに対し、辰弥が
(だから俺たちはカグコンの演習施設に無断で侵入した挙句爆破したの。喧嘩を売った相手は荒巻じゃなくって御神楽だった、とも言える)
《……げ》
 辰弥の説明にようやく理解したか、日翔が呻いた。
《やべぇ……流石に最大手の御神楽に喧嘩売ったとなったら俺たちの命がねえ……》
 そうだね、と辰弥も頷く。
(多分、顔は見られてない。国民情報IDを抜くような余裕もなかったはずだから暗殺連盟アライアンスの介入とは分かってもその誰かまでは特定できてないとは思うけど――もし御神楽がアライアンスに圧力をかけたら俺たちヤバいね)
《アライアンスはメガコープの要求には従わないと一応は言われているが御神楽が金を積めば流石のアライアンスも動くだろうからな……。御神楽が深く追求しないことを祈るしかない》
 数ある巨大複合企業メガコープの中でも最大手の御神楽は資金力も桁違いである。今回の「荒巻製作所」買収のように金に物を言わせた動きを見せることはよくある。
 御神楽財閥の目的が生物兵器バイオウェポン技術に対する何かしらの調査であれば、ある意味先回りして工場ごと爆破してしまった「グリム・リーパー」は自分たちだと知られた瞬間、制裁される可能性が出てくる。
 マズいことになった、とその通信に加わっていた誰もが思う。
《一応、カグコンの調査ログ拾ってみたがそこまで積極的でなくても荒巻に侵入した奴を調査はしているみたいだな。だが、アライアンスと接触した気配はない……。流石の御神楽もアライアンスと波風立てたくないのか……?》
 前に話した通り、トクヨンのネットワークにはアクセスできなかったから、あくまでカグコン全体の動きの話にはなるがな、と補足しながら鏡介がそう呟くように言う。
 御神楽財閥、いやカグコンほどの軍事力ならアライアンスと全面戦争になってもせん滅するくらいはできるだろうに、と思いつつも鏡介は「いや、御神楽はそこまで節操なしではないか」と考え直す。
 御神楽財閥の慈善事業展開を考えればアライアンスとの全面戦争は考えられない。
 仮に全面戦争が勃発してしまえば下手をすれば街の一つや二つ壊滅することもあり得る。
 「全ての人に幸福を」で採算を度外視した慈善事業や砂漠地帯の緑化事業、スラム街の住人を雇用した上での清浄化など、アカシアの街や環境を改善しようとする姿勢を考えればそれを破壊するようなことを気軽にする財閥ではないはず。
 アライアンスに接触して調査を行わないのも、アライアンスが協力を拒否することによっての全面戦争を恐れたのか、それとも大っぴらにできない事情があるのか。
 少なくとも、今の時点では事態は「グリム・リーパー」に有利なように動いている。
 このまま御神楽財閥が調査を諦めてくれればいいが、と思いつつ鏡介は話題を締めくくろうとする。
 だが、それに対して日翔がふと、疑問を口にした。
「でも結局、全体を買収するんじゃなくて、工場だけを買収して調べたかったことってなんだったんだ?」
 それに対し、鏡介はまだカグラ・コントラクターのサーバにアクセスしていたのかキーボードに指を走らせながら返答する。
《それは分からないが、あの襲撃の直後、トクヨンからカグコン各部隊に対してあるキーワードに関する情報を見つけた場合は直ちに報告するように、という通達を出ていたらしい。もしかしたら何か関係があるのかもしれない》
《キーワード?》
 なんだよそれ、と尋ねる日翔。
《俺にも意味までは分からないが、キーワードは『ノイン』》
 ノイン? と辰弥が眉を寄せる。
《どうした辰弥、何か知ってんのか?》
 辰弥の反応に、日翔が首をかしげる。
(……いや、知らない。そもそも『ノイン』ってUJFユジフ語で『9』じゃなかったっけ。まぁ何かの番号なのか、名称なのかは分からないけど)
 キーワードにしては曖昧過ぎるけどこれで通じる「何か」があるのだろうか、と辰弥が呟く。
《そっか、何なんだろうな……》
 結局なんも分からん、だがもしその「ノイン」とやらが何か分かる手がかりを見つけたら有利に立ち回れるのかなあと続け、日翔は面倒そうに伸びをした。
《とりあえず、今はその『ノイン』ってキーワードに気を付けるのとカグコンが変な動きをしないことを祈るだけか》
 そうだな、と鏡介が頷く。
《ま、俺は引き続きカグコンの動向を探る。お前らはいつも通り過ごしててくれ》
《あいよ。無理すんなよ》
 日翔がそう言って先に通話を抜ける。
(ちゃんと休んでる? 無理はしないで)
 「白雪姫スノウホワイト」の勤務もあるのにいつ休んでるのと辰弥が続けると鏡介が「寝てる時は寝てる」と反論する。
《むしろお前の体調の方が心配だ。最近よく倒れているようだし、お前こそ無理するな》
(……大丈夫だよ)
 一瞬の沈黙の後、辰弥が答える。
《っても四年前に比べてお前のバイタルは下降気味だ。特にここ数環(数か月)の値は悪い。『イヴ』に診てもらった方がいいんじゃないか?》
(診てもらってるよ。『原因不明、異常な部分無し』だって)
 辰弥の回答に鏡介が「そうか」と呟く。
 だが、それ以上は深く追求せず、彼も通話を抜けた。
 一人きりになったグループ通話で、辰弥が小さくため息を吐く。
(……まぁ、そりゃそうだよね)
 その辰弥の通信は、誰も受け取っていない。
 グループ通話を抜けて部屋を閉じ、辰弥は日翔を見た。
 通話開始時に雪啼を部屋に戻していたため、日翔は暇そうにCCTを起動、サブスクリプション配信で映画か何かを観ようとしている。
 そんな彼の横を通り過ぎ、辰弥は雪啼の部屋のドアを開けた。
「雪啼、ごめん待たせた」
 そう言いながら雪啼の部屋に入った辰弥の目に入った光景は、
「くらえー! アイアンカッター!」
 そう声を上げながら手にしたカッターナイフでソフビ人形をずたずたに切り裂く雪啼の姿だった。
「え、ちょ、雪啼?」
 慌てて駆け寄り、雪啼の手を掴む辰弥。
「カッターナイフは危ない!」
 カッターナイフは研ぎ澄まされた包丁並みに危ない。いや、小ぶりな分下手をすれば包丁よりも危ない。
 手が滑って怪我をしたら大変だと、辰弥は咄嗟に手を伸ばして雪啼からカッターナイフを奪い取ろうとする。
「やーだー!」
 辰弥からカッターナイフを奪われたくないとばかりに抵抗する雪啼。
 思いの外力強い雪啼の抵抗に辰弥もほんの少しだけ自分の手に力を込める。
 と。
「あっ」
 辰弥がカッターナイフをもぎ取った瞬間、雪啼の手が刃に触れた。
 雪啼の指先にすっ、と一筋の切り傷が走り、次いで紅い液体が指を伝う。
 マズい、と辰弥は取り上げたカッターナイフを放り出して雪啼の手首を掴んだ。
 それからさらにその先、手首を固定するかのように手のひらを掴み直す。
 応急処置を、と思う前に咄嗟に血が溢れる指先に口を寄せ、舌を這わせる。
 錆びた鉄のような、本来なら不快になるはずのその味が何故か甘美で、もっと欲しい、という欲求が辰弥の頭をもたげる。
 もう一口、と言わんばかりに指に舌を這わせ、血を舐める姿に、雪啼が、
「ん……パパ、」
 そう声を上げるが、まるでその声が聞こえていないかのように辰弥は彼女の指先の血を何度も舐め取り、ゆっくりと頭を上げた。
 ――血が、欲しい。
 辰弥の脳裏をその声が支配する。
 ダメだ、そんなことをしてはいけないと理性が叫ぶがそれ以上に彼の中で血を求める声が力を持つ。
 雪啼の手を掴んでいた辰弥の手が、少しずつ上へ、そして両手で彼女の肩を掴む。
「……パパ?」
 雪啼が辰弥を呼ぶが、その声すら彼の耳に届かない。
 ――この頸を噛み千切って、血を飲めばいい。
 やめろという理性の叫びも届かない。
 ただ、目の前にある雪啼血を湛えた袋で渇きを満たしたい。
 牙をむいた獣のように、犬歯を見せた辰弥の口が雪啼の首を狙う。
 その、辰弥の歯が雪啼の首に触れる直前。
「パパ!」
「――っ!」
 ようやく耳に届いた雪啼の声に、辰弥が我に返って彼女の首元から顔を離す。
「……俺、は……」
 喉がカラカラに乾き、声が出ない。
 喘ぐように何度も荒い息を吐くが渇望は収まらない。
 ――目の前にがあるだろう。
 そんな声が自分の内から聞こえる。
 雪啼の首に食らいつきたくなる衝動が再び湧き上がるも必死でそれを抑えた辰弥は肩を掴んだままそっと押し退けた。
「……ごめん雪啼、ちょっと、ヤバい」
 ――折角の餌を、ふいにしやがって。
 辰弥の中の内なる声が悔しそうにそう唸り、消えていく。
 自分の中の欲望衝動が消え去り、そこで初めて辰弥は深く息を吐いた。
 何度も肩で息をしながら自分を落ち着ける。
 ぽたり、と額から流れた汗が床に落ちる。
 ――こんなところで。
 自分の中に血を欲する、本能にも似た衝動があることは理解している。
 その衝動はこの四年でどんどん膨れ上がっていることも理解している。
 ――血が欲しいなら輸血だけで十分だろ。
 どうして、経口摂取を求める、と辰弥は自分に、自分の内なる衝動に問いかける。
 そもそも、経口摂取の必要性はない
 むしろそれは非効率すぎる
 それなのに、どうして。
 ――が俺であるために必要なことだ。
 消えたはずの「内なる声」が囁く。
 「お前はそういう存在だろう」と。
「違、う……」
 違う、俺はそんな残忍な存在じゃない、そう自分を否定する。
 過去の自分がどのような存在であれ、今は「鎖神 辰弥」なのだと。
 アライアンスで依頼があれば殺すだけの存在なのだと。
「俺、は……俺、だ……」
 そう呟いてから、自分の中でおぞましい仮説が脳裏を過り、自問する。
 ――今までの事件は、俺が?
 ――違う
 否定する幻聴こえが聞こえる。
 ――には、アリバイがある。
 そうだろう? と声は辰弥に問いかける。
 ――分からない。
 アリバイなどいくらでも覆せることを理解している。
 今までの事件が自分の手によらないものだという確信が持てない。
「……パパ、痛い」
 突然投げかけられた雪啼の声に、辰弥ははっとして彼女を見た。
 それから、慌てて彼女の両肩を掴む手を放す。
「パパ。大丈夫?」
 心配そうな顔をして雪啼が辰弥の顔を見る。
「……うん、大丈夫」
 それよりもどうしてカッターナイフを、と辰弥が床に落ちたそれを拾い上げたタイミングで部屋のドアが開く。
「なんか騒がしいがどうした?」
 CCTで映像コンテンツを観ようとしていたはずの日翔が開けたドアの隙間から頭だけを突っ込んで訊いてくる。
 雪啼が、パタパタと日翔に駆け寄ってドアの隙間をぬるりと抜け、日翔の足に抱き着いた。
「あきと、パパこわい」
「辰弥が……?」
 どういうことだと訝しんで辰弥を見る日翔。
 その辰弥の手に刃が剥き出しになったカッターナイフが握られているのを見て顔色を変える。
「辰弥! お前、何を!」
「違う。雪啼が刃物で遊んでたから取り上げただけ」
 ドアを開け放し、雪啼を抱えて乗り込もうとする日翔に辰弥が慌てて言い訳をする。
「雪啼がカッターナイフでソフビ人形をばらばらにして遊んでたんだ、危ないから……」
 カッターナイフの刃を収納し、辰弥が日翔に見せつけるように手渡す。
「なんで雪啼にカッターナイフ渡したの。危ないのは分かってるよね?」
「え? 俺雪啼にカッターなんて渡してないぞ」
 雪啼を床に下ろし、カッターナイフを受け取った日翔が首をかしげる。
「それに……うちにそんなデザインのカッターあったか? お前いつも使うメーカー決めてるだろ、見たこともないが新モデルか?」
 カッターナイフをまじまじと見つめながら日翔が辰弥に訊く。
 そう言われて、辰弥も改めてカッターナイフを見た。
 普段自分が使っているものに似てはいるが、細部が違う。
 決定的な相違点はカッターナイフにメーカーのロゴの刻印がないこと。
 明らかに、家に置いているものではない
 それなら、一体誰が、何処から持ち込んで雪啼に渡したのか。
「雪啼、誰からもらったの」
 しゃがんで雪啼に目線を合わせ、辰弥が訊く。
 しかし、雪啼は彼を見ることなく顔を背け、日翔の脚に顔をうずめる。
「……辰弥ァ……」
 呆れたように日翔が呟く。
「よっぼど怖がらせたんだな、お前。怯えてんじゃねーか」
「……」
 ダメか、と辰弥が呟く。
 その時、雪啼の手に何かが握られていることに気が付く。
「……雪啼?」
 よく見ると、それは別のカッターナイフだった。
 先ほど辰弥が奪い取ったのと同じデザイン、彼女はまだ隠し持っていたらしい。
「……雪啼」
 ちら、と雪啼が辰弥を見る。
 それから、
「パパのばかー!」
 そう叫び、辰弥に向けてカッターナイフを振り下ろした。
「うわっ!?!?
 咄嗟に辰弥が回避、雪啼の腕を掴む。
「危ないからダメだって!」
「むぅー!」
 激しい抵抗を受けたものの二本目のカッターナイフをもぎ取り、辰弥はいつになく強めの口調で、
「そんなにパパのこと殺したいの?」
 そう、言い放った。
 辰弥の強い言葉に雪啼が一瞬、キョトンとする。
 が、次の瞬間、わっと泣き出して再び日翔の脚に顔をうずめた。
「……辰弥ァ……」
 流石にお前、言いすぎだろと日翔が辰弥をたしなめる。
 だが、辰弥は首を横に振ってそれを否定する。
「こっちは何度も危ない目に遭ってるの。いくら子供でもやっていいことと悪いことがある」
 本当はお尻を叩きたいところだけど、とぼやきつつ辰弥は日翔から一本目のカッターナイフを受け取り、部屋を出る。
「とりあえずこれは処分するよ。何があるか分からないから。あと、出どころは気になるけど――この調子じゃ教えてくれないだろうね」
 ちら、と日翔の脚にしがみついて泣く雪啼に視線を落とし辰弥が自分に言い聞かせるように言う。
 雪啼がどこでこのカッターナイフを入手したのかは結局分からずじまい。
 ただ、他に危ないものがあったら、と想定して一度部屋をちゃんと調べるか、と考える。
 しかし、日翔の来るタイミングが遅くて助かった。
 ――もし、見られていたら。
 先ほどの衝動に駆られた血に飢えた姿を見られていたら日翔は何と言っただろうか。
 雪啼に危害を加えるかもしれないと隔離されたのか、それとも小児性愛者ペドフィリアなじられたのか。
 いずれにせよ、日翔には知られずに済んで助かった、と辰弥は心底そう思った。
 流石にあの姿を見られていれば日翔も「何かある」と思うだろう。
 いや、既に「何かある」とは分かっていてもその「何か」が危険なものだと思うに違いない。
 そう考えれば本当に運がよかった。だが、それだけである。
 幸運なんてものはそう何度も続かない。
 今後、あの衝動が雪啼の前で起きないことを、と思いつつ辰弥は雪啼の部屋を出た。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 もう一度、と辰弥が空中のウィンドウを操作し、状況シチュエーションを呼び出す。
 周囲の風景が光のパーティクルとなって消失し、続いて光のラインが建造物を構築していく。
 先日、単独で侵入した「荒巻製作所」の再現ステージ。
「シチュエーションケース13、状況開始」
 低く呟き、辰弥は地面を蹴った。
 実際は電子空間の床を蹴っただけだが、脚に伝わる感覚は現実のものと変わりない。
 構築完了したステージはあの時見た工場となんら変わりがない。
 よくあるゲームのようにオブジェクトを破壊したからといってパーティクルとなって消えることもなく、障害物や場合によっては武器として扱うこともできる。
 現実とほぼ変わらない環境に、ほんとよくできてるよと辰弥は思った。
 電脳GNSを利用したフルダイブシミュレータは既存の技術ではあるが、今辰弥が利用しているシステムは既存のものに鏡介がさらに手を加えたカスタム品。
 ダメージを受けた時の痛覚緩和システムアブゾーバーは最低レベルまで引き下げられているため下手を打てば文字通り死ぬほど痛いが辰弥はむしろそれでいい、と利用している。
 アブゾーバーに頼り切っていれば本番で命を落としかねない。
 それなら、本番さながらの環境でシミュレーションした方が緊張感を維持できる。
 廊下を駆け抜け、ランダム配置の巡回botを無力化し、奥へ進む。
 研究室に飛び込み、依頼の時とは別のシチュエーションで用意された最終目標を手にかける。
 だが、ここからは基本的に同じ展開になる。
 研究室を出ようとした瞬間に乱入する電脳狂人フェアリュクター
 屈強な義体と二丁の銃を持つ、いわばステージボス。
 愛用のハンドガンTWE Two-tWo-threEを握る辰弥の右手が震える。
 左手でそれを抑え、彼は相手を見据えた。
 依頼の時あの時の感覚が蘇る。
 あのフェアリュクターが「実験体」だと気づいた時の、背筋を這い上がるなんとも言えない感覚。
 自分は違う、実験体なんかではないと否定しても心の奥底から這い上がり奈落に引き摺り込もうとする無数の手は自分の「罪」を、「現実」を認めろとばかりに辰弥を責め立てる。
「違、う……」
 辰弥の反応が遅れる。フェアリュクターの銃口が彼を捉える。
 それでも、咄嗟に回避できた辰弥の反射神経は常人のそれとは比べ物にならないくらい高い。
 銃弾が上着を掠めるが身体にダメージはない。
 床を蹴ってフェアリュクターに向かって突進、肩の辺りから伸びた伸縮式サブアームを左手で抜いたコンバットナイフで切断しつつスライディングで股の下を潜る。
 潜り抜けた直後、コンバットナイフを床に刺してブレーキ、進路予測で伸ばされたサブアームの手前で止まり、すぐさま腕の力で伸びかけた体を引き寄せ再度床を蹴る。
 横に跳び、さらに壁を蹴って三角跳びの要領で空中に上がり辰弥は銃口をフェアリュクターの延髄に向けた。
 一瞬、躊躇いが脳裏を駆け抜けるも「これは現実じゃない」と振り切り、引鉄トリガーを引く。
 放たれた弾丸が狙い違わず相手の延髄に突き刺さる。
 動きを止め、その場に崩れ落ちるフェアリュクターを見ながら辰弥は床に着地した。
 そのまま研究室を抜け、来た道を駆け抜け工場を出たところで視界に【Clear】の文字が表示され、リザルト画面が映し出される。
「……」
 こんなものか、と辰弥はリザルトの各項目に目を通す。
 判定は悪くないが、一つだけ、心理変動 Psychologyの項目だけが最低ランクを表示している。
 システムが挑戦者の脳内を完全に理解しているわけではなく、単純なバイタルの変動で感情や心理推測を行なって判定する項目であるが、身体は正直だ、ということか。
 ふう、と息を一つ吐き、辰弥はもう一度、とウィンドウを操作しようとした。
 その指先がスタートボタンを押す前に、着信のアラートが表示される。
(鏡介?)
 通話ボタンをタップ、応答する。
《またシミュレーション特訓してんのか? 精が出るな》
「……まぁ、ね」
 辰弥があいまいに頷くと、鏡介はキーボードに指を走らせ、それからため息を吐く。
《集中に欠けているな。いや、総合結果では問題ないレベルだが特定の箇所で一気に乱れている》
 どうやら辰弥のシミュレーション結果にアクセスしたのだろう、鏡介がそう分析する。
《特定の箇所……。フェアリュクターが出たタイミングだな。いつもそのタイミングで集中を乱してひどいときは被弾している》
「……それ、は」
 鏡介の冷静な分析に、辰弥が言葉に詰まる。
 それでも鏡介は口調を変えることなく淡々と分析を続けていく。
《おいおい、一度死んでるのかお前。よく平気でいられるな》
 普通の人間ならシミュレーション続行するどころかひどいPTSD発症しかねないレベルなんだが、と続ける鏡介に辰弥は「まぁ、」と歯切れ悪く答える。
「……あの程度、大したことないよ」
《いやいや死んでるんだぞ? それともお前、死ぬレベルの痛み味わったことあるのか》
「……いやー、流石に死ぬレベルじゃないけど死ぬかと思ったレベルは何度でも」
 辰弥の言葉に鏡介が「マジか」と呟く。
《どんな過去してたんだ、お前》
「……分からない」
 日翔に保護される前まで何やってたかなんて、と答える辰弥に鏡介は再びため息を吐いた。
 何事もなくてよかった、と思う反面死ぬレベルの痛みを受けてなお平気でいられる辰弥に疑問が浮かぶ。
 一体何者なのか、何を経験してきたのか。
 辰弥は何一つ語ろうとしない。
 何も思い出せないと言っているが時には何かを知っているようなそぶりを見せることもあり、何処までが本当なのかが分からない。
 だが、今はそんなことを詮索するために辰弥への通信回線を開いたわけではなかった。
 まあいい、と話題をここで打ち切り、鏡介は本題に入る。
《辰弥、お前、武器とか隠し持ってたりしてないか?》
「いきなり何を」
 鏡介の言葉に、辰弥が首をかしげる。
 その辰弥に、鏡介は「とぼける気か?」と問い質す姿勢を見せる。
《収支が合わないんだが》
「だから何の」
 辰弥はとぼけるつもりではない。
 鏡介が主語をちゃんと出さないからである。
 ああもう、と鏡介が毒づく。
《依頼で持ち込んだ弾と実際に使用した分と持ち帰った分の収支が合わない。日翔はいつもきっちり合うがお前だけは時々収支が合わなくてな、在庫管理がやばい》
「そんなのいちいち数えてなんか」
 いちいち消費弾薬を上に報告しなきゃいけない軍隊PMCじゃあるまいし、と反論する辰弥だったが、鏡介は馬鹿かと一蹴する。
《きょうび使用実弾の数なんてCCTやGNSで管理しているのに、数が合わないわけないだろう。出発前にマガジン数、装填数は登録してるんだ、合わないわけがない》
「だったらカウントエラーじゃないの」
 戦闘中とかエラーくらい出るでしょと辰弥が言うものの鏡介は「んなわけあるか」と吐き捨てた。
《お前、機械GNSを何だと思ってるんだ。通信ができるだけの便利な脳みそじゃないぞ》
 辰弥のことだからきっとそんなノリでGNSを使っているに違いない、と鏡介がため息交じりに言う。
《GNSは元々は義体制御OSフェアリィを搭載するための脳内ブレインネットワークインターフェースだ。通信だけじゃなくてハイエンドPCクラスの演算能力を持っている》
 だから義体を導入していた場合技能インストールで訓練をショートカットすることができる、と念のために説明する。
「まぁ、それくらいは」
《そんなシステムが消費弾丸カウントを間違えるはずがない。そう考えるとお前が登録外の持ち込みをしているとしか説明ができない》
 どうしてそんなことをする、と鏡介が訊ねる。
「……まぁ、万が一の、保険?」
《各種状況に応じることができるような弾種を?》
 そう言われて、辰弥は言葉に詰まった。
 どう答えていいか分からない。
 状況に応じて、と言われればその通りだが納得できる説明ができない。
「……何があるかなんて分からないし」
《『サイバボーン』の強化外骨格パワードスケルトンが出るのも想定の内だったのか?》
 先日、日翔と鏡介が潜入した時のこと、日翔さえ違和感を抱いた「炸裂弾の使用」を指摘され辰弥が「まぁ、それは」と呟く。
「一応、色々用意してるつもりだけど」
《だったらそれも持ち込み登録しておけ。一応、暗殺連盟アライアンスにレポート出してんだからなこっちは》
 鏡介の言葉にえぇ、と驚きの声を上げる辰弥。
「レポート出してんの? なんで」
 別にその必要ないよね? 一応リーダーの俺は山崎さんに何も言われてないけど? と辰弥が反論する。
《強制じゃないし毎回じゃないんだがな、山崎さんが『各チームのバランスを把握しておきたい』って言うから時々提出してる》
 まぁ、山崎さんが俺に頼んでるのは俺がハッカーだからとか「グリム・リーパー」最古参だからだろうがと鏡介が言うが、辰弥は不満そうに口をとがらせる。
「なんで俺に言わないの」
《お前の作文、壊滅的なほど破綻してるから》
 お前も日翔と一緒に小学校の読書感想文からやり直せと言い放つ鏡介。
 えぇー、と辰弥が抗議の声を上げた。
「そんなのアシスタントAIに任せたら一発じゃん。別に自分で書く必要なんて」
宇都宮うつのみやー、なんでこいつにリーダー任せたんだよー》
 天を仰ぐような姿勢になり、鏡介がぼやく。
 三年前に狙撃され、西京湾に落ちて生存は絶望的だと誰もが思っているかつてのリーダー。
 彼が失踪したことによって何故か日翔がチーム名を「グリム・リーパー」と名付けて思うところも色々ある。
 自分が今も生きながらえるきっかけともなった人物の一人であるため、宇都宮の生存はどうしても諦めたくない鏡介だった。
 そんな宇都宮に対して思わずぼやく鏡介に、辰弥は「悪いね」と大して悪びれた風もなく呟いた。
「やらなくていいことは無理にする必要はないよ。そんなのにリソース割くくらいならトレーニングしてた方がずっといい」
《……そんなこと言ってるが、VRシミュレーションフルダイブ始めたの最近だろう。一体どういう風の吹き回しで》
 辰弥の言い分に、鏡介が鋭い指摘を入れる。
 実際、辰弥は今まで軽いトレーニングは行っていたもののフルダイブVRシミュレーションを行うことはあまりなかった。
 鏡介に「本番さながらのシミュレーションしたいからシステム触れない?」と辰弥が打診したのも記憶に新しい。
 辰弥に何かしらの心境の変化があったのだろう、とは鏡介も思ってはいたが、肝心の辰弥からは何の理由も言い訳も上がってこない。
 鏡介に指摘され、辰弥が低く唸る。
「……別に、理由なんて」
《……まさかとは思うが、日翔のことか?》
 心当たりがあるとすればこれだけだ、と鏡介が訊ねる。
「……う」
 図星だったのだろう、辰弥が否定も肯定もできずに固まった。
 はぁ、と鏡介がため息を吐く。
《日翔に負担をかけたくない、ってことか。まぁ前回もそれが原因で狂人フェアリュクターに後れを取ったからな》
 大体予想できる、と鏡介は呆れたように言う。
《そんな、今日明日に死ぬってタマじゃないだろあいつ》
「だけど、そう長くは生きられない」
 せめて、「その日」までは自由に生きてほしい、と辰弥は素直に呟いた。
 本来なら知らなくてよかった裏の世界ではなく、真っ当な表の世界の人間として生きてほしい、と。
 その辰弥の言葉に対し、鏡介はもう一度ため息を吐く。
《日翔がそれを望んでいると思ってるのか?》
「望んでる望んでないは関係ない。日翔は表の世界で生きるべきだ」
 どうして、と鏡介は呟いた。
 何故、辰弥はそこまで日翔を表の世界へ戻そうとするのかと。
 確かにALSさえ発症しなければ日翔は裏の社会を知ることなく生きることができたはずだ。
 両親が反ホワイトブラッド派の思想を持っていなければ義体化して生きながらえることもできただろう。
 だが、運命はそれを許さなかった。
 日翔もまた、その運命を受け入れて今を生きている。
 両親から引き継いだ借金を返済する、と報酬の大半を天引きされて。
 それでも、日翔は一切弱音を吐かなかったしもう殺しなんてしたくないと言うこともなかった。
 それはたった四年とは言え寝食を共にした辰弥も理解しているはずである。
 それなのに辰弥は日翔に「表の世界で生きるべきだ」と主張する。
 その言葉が、いかに傲慢なものかを、鏡介は理解していた。
《エゴなんだよ、お前の。何様のつもりだ》
 いつになく強い口調で鏡介が言う。
《望んでいる望んでいないは関係ない? 表の世界で生きるべき? ふざけるな。日翔は自分の運命を受け入れてるし今更表の世界でどうやって生きろって言うんだ》
 それはお前も分かっているんだろう、と鏡介が続ける。
《ずっと自分の手を汚してきた人間がいきなり『普通に生きていい』と言われて生きられると思うのか? お前はそれができるのか?》
「いや、俺は――」
 無理だ、と辰弥が呟く。
 ――俺にはそんな権利など存在しない。この裏社会での生活こそが、普通。
 真っ当に生きていい存在ではないから、そう、自覚していた。
 ほらな、と鏡介が言った。
《今更表に帰ることなんてできないんだよ。いや、帰りたいならアライアンスも何らかの手は打ってくれるだろうが日翔はそんなこと望んでいない》
 あいつにとって、居場所は「グリム・リーパー」だけなんだと鏡介は言い切った。
《そりゃ、あいつだって好き好んで殺しなんてやってない。そうするしかないから手を汚してるってことくらいは本人も分かってるはずだ。だがな辰弥……》
 そう言って鏡介はいったん言葉を区切る。
裏社会この世界での仕事は、あいつにとって『自分』を認識できるたった一つの確認方法なんだ分かってやってくれ》
 鏡介の言い分が分からないわけではない。
 日翔から全て聞いているからこそ分かる鏡介の言葉。
 気が付けばALSを発症し、それが原因で両親が殺され、最終的にはその両親を殺した張本人の尖兵として利用されて。
 流されるように生きてきたが、それでも「殺し」だけは自分の意志で行っていると言いたいのか。
 そんなの、辛すぎる、と辰弥は呟いた。
 本来なら知らなくてよかった世界を、たった一つの病気がきっかけで踏み込むことになって。
 だからこそ、
「……日翔には、真っ当に生きてもらいたい」
 と、辰弥は口にしていた。
《まぁ、お前の気持ちも分からんではないがな》
 辰弥の言葉を否定することなく、鏡介が彼の思考を否定する。
《どうせ『可哀想だから』とか思ってるんだろう。それがお前のエゴなんだよ。本人が嫌だと言っていなければただの善意の押し付け、小さな親切大きなお世話、だ》
「……」
 そこまで言われて、辰弥は言葉を失ったようだった。
 鏡介の言葉がどこまで辰弥に届いたかは分からない。だが、自分の考えが善意の押し付けであるとはっきり言われて多少は自覚したのか。
「……このままで、いいの?」
 自信なく、辰弥が訊く。
 多分な、と鏡介は頷いた。
《少なくとも本人が『今のままでいい』と思っている間は好きにさせてやれ。その方が本人も気が楽だ》
「……そっか」
 よく分からないけど、と続けつつも辰弥は一応の納得を見せたようだった。
 そんな辰弥に、鏡介は、
《正直なところ、あいつには自分が一番やりたいことをやってもらいたいってのが本音だ。もし、叶えられるなら叶えてやれ》
「そうだね」
《あ、だからといって本人にどストレートな質問するなよ。そこは普段の言動から推測してやれ》
 鏡介の言葉に、辰弥が「無茶言わないで」とむくれる。
「とにかく、日翔が好きにできるようにするよ」
 辰弥の言葉に、鏡介がああ、と頷く。
《そういうお前も無理するなよ。多分あいつからすればお前が倒れるのが一番の不幸だからな》
「それは、どういう――」
《あーあー知りません知りません。俺は落ちるからな》
 めんどくさそうに辰弥の言葉を遮り、鏡介が一方的に通信を切断する。
 何だったの、と呟いて辰弥は首を振った。
 とりあえず、邪魔は入ったがシミュレーションはもう少し続けたい。
 少なくとも、フェアリュクターを前にして動揺しなくなるようにはしておきたい。
 そう思って次のステージを呼び出そうとし――。
「――っ!」
 咄嗟に、通常のログアウトではなく、瞬時に現実へ帰還できる緊急ログアウトボタンをタップした。
 視界が暗転し、次の瞬間、雪啼の顔が視界に入る。
 雪啼の右手が凄い勢いで振り下ろされる。部屋の照明を受けて右手に握られた何かが光を反射する。
 ほぼ無意識で左手を挙げ、彼女の手首を掴む。
 光を反射した何かが喉元で止まる。
「……雪啼、」
 低く呟き、辰弥は自分に馬乗りになっている雪啼に声をかけた。
 掴んだ彼女の手を見ると、その手には一本の包丁が握られている。
 あと一瞬現実への帰還が遅れていれば、緊急ログアウトではなく通常のログアウトを行っていれば、包丁は確実に辰弥の喉を貫いていただろう。
「……どういうこと」
 明らかに殺意があるとしか思えない雪啼の行動。
 彼女を保護した時の日翔の言葉を思い出す。
 ――実はお前や俺たちを狙った暗殺者キラーだったらどうするつもりだったんだ。
 まさか、と辰弥が呟く。
 雪啼は、本当に――。
「あ、パパやっと起きた」
 少し残念そうな顔を見せたような気がしたが、雪啼がそう言って辰弥から、そしてフルダイブするために彼が寝ていたベッドから降りる。
 辰弥も上半身を起こし、横に立った雪啼を見た。
「殺す気?」
「んー? せつな、パパとおままごとしたかったの。起こしても起きないから大丈夫かなって」
 確かにままごとなら包丁くらい使うか、と辰弥は納得した。
 が、包丁くらい使うと言っても本物を使うわけがあるかと自分にツッコミを入れる。
 とはいえ、雪啼は色々と試してみたい年頃らしくつい本物の包丁を持ち出したのだろう。
 これはまずい、キッチン下収納にチャイルドロック掛けるかと考えつつ辰弥はベッドから降りた。
「流石に、本物の包丁でままごとはやめよう。遊んであげるから、向こう行こう」
「うん!」
 辰弥の提案に、雪啼が嬉しそうに右腕を振り、そして包丁がすっぽ抜けたかのように辰弥に迫る。
「っ!」
 持ち前の動体視力でこれを避けると、包丁は深く壁に突き刺さった。
「マジで殺す気!?!?
「ごめん、手が滑った。おままごと行こ」
 包丁のことなど知らぬとばかりに、雪啼が嬉しそうに辰弥の手を握る。
 結局、雪啼はただ遊びたかっただけなのか。
 それとも本当に殺意を持っていたのか。
 真相は闇の中だが、とりあえず構っていれば大丈夫だろう。
 二人が部屋を出て、ドアがパタンと閉まる。
「どうしてそんなに本物の包丁使いたいの」
「カッコいいから!」
 そんな会話が展開されていく。
 はぁ、とため息を吐き、辰弥は「どうすれば包丁が危ないって理解させることができるんだろう」と考え始めた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 いつものごとく日翔がCCTのTVアプリでニュースを見ている。
 流れてくるニュースはここしばらくでお馴染みとなってしまった吸血殺人事件。
《――遺体は同一町内の同一番地内で複数発見されており、当局は被害者の関係も含めて調査を開始したとのことです。なお、今回発見された遺体は一部が焼け焦げた上に一部欠損しており、周囲に火の手が見当たらなかったことから、犯人が遺体だけに火をつけたものとして調査を――》
「……辰弥、今回は一度に複数見つかったってよー」
 テーブルの向かいに腰かけてぼんやりと考え事をしていた辰弥に日翔が声をかける。
 それに何の反応も見せなかった辰弥だったため、日翔がもう一度声をかけると。
「……あ、ああ、複数って?」
 一応は話が耳に入っていたのか、辰弥が反応する。
「ああ、今回は派手だな。まるで人間の肉を炙り焼きにして食べたみたいじゃないか。しかも一人分じゃ足りないかのように食い漁ってないか?」
 ニュースをそのまま流しながら日翔が唸る。
「しかも、今回はかなり近所だよな。一件はこのマンションの住人らしいぞ」
「……マジか」
 アライアンスに被害者が? と辰弥が呟く。
 日翔が入居しているこのマンション、上町府うえまちふのアライアンスまとめ役の山崎が管理していることもあり入居者の多くがアライアンス所属だったりする。
 これはアライアンス自体が加盟フリーランスの双助会のような役割を果たしているため何かあった際すぐに対応できるように、との配慮である。
 当然、被害者側からのお礼参りの可能性もあるためこのマンションだけがアライアンスの管理下にあるわけではなく、上町府だけでも数件のマンションがセーフハウスとして準備されている。
 日翔も万が一の避難先としてあてがわれているマンションは他にもあるが、現時点では特にトラブルに巻き込まれることがないため利用することはほとんどない。
 それはともかく、住人に被害者が出たということはアライアンスのメンバーに被害者が、と考えるのは当然である。
 もちろん、隠れ蓑として機能させるためにアライアンスとは何の関係もない人間もそれなりに居住しているが吸血殺人事件が騒がれる今、夜間に出歩くような一般の住人は恐らくいない。
 辰弥の疑問に、日翔がCCTのメールボックスを開く。
「あー……アライアンスから通達来てるわ……チーム『ブロードソード』で一人殺られたってさ」
「……ほんとだ」
 辰弥もGNSのメールボックスを確認し、眉間にしわを寄せる。
「これはかなりマズい案件になってきたね。流石に身内で被害者が出たらアライアンスも動くんじゃない?」
「……多分な。俺たちも動員されるんじゃね?」
 そうなったら面倒だよなー、と日翔がぼやく。
「鏡介大丈夫か? あいつもやしだから狙われたら一発で殺られるぞ」
「まぁ、鏡介は基本的に出歩かないから」
 本人が聞いていたら確実に怒るだろう表現を使いながら二人が話し合う。
 口こそは悪いが、辰弥も日翔も鏡介のことは心配している。
 この吸血殺人事件が近隣で頻発するようになってから、特に鏡介の「白雪姫スノウホワイト」でのシフトは夜間に通勤が被らないように配慮している。
 通勤の配慮だけで済む問題かは分からなかったが、ただ共に仕事をする関係としてだけでなく、仲間として心配していた。
 確かに、鏡介ほどのハッカーはそうそういない。いたとしても「グリム・リーパー」に協力してくれるとは限らない。
 その点では鏡介を失うのは戦力半減にも匹敵する損失であるが、それ以上になんだかんだで話を聞いてくれる、世話を焼いてくれる彼を手放したくはなかった。
 なんとなくの不安はある。
 何かきっかけがあれば鏡介は「グリム・リーパー」を離れるのではないかという。
 辰弥と日翔は鏡介を仲間として認めてはいるが、鏡介はどうなのか、と。
 ただの「仕事仲間」として見ているだけではないかという思いもある。
 実際、日翔と辰弥は同居しているが鏡介は同じ建物の別の部屋にいる。
 単純に辰弥の身元がはっきりしていないから日翔が居候させているという話でもあるのだが、鏡介は辰弥の引き取りを拒んでいたし少し二人から距離を置いているようにも見える。
 実際はどうだろう、と思いつつも結局聞き出せていない鏡介の本音。
 辰弥とは四年の付き合いとはいえ、日翔と鏡介の付き合いはもっと長い。
 鏡介の奴、本当はどうしたいんだろうかと日翔が考えていたら不意に来客者通知インターホンが鳴った。
 辰弥がGNSで応答し、玄関に向かう。
「やっほー、せっちゃん元気にしてる?」
 辰弥に連れられて入ってきたのはメッセンジャーの姉崎あねさき あかねだった。
「あー、姉崎か。ってことは『仕事』か?」
 茜の姿を見るなり、日翔が「またか」と言わんばかりの顔をする。
「まあまあ、気にしてたらハゲるわよ。ということでし・ご・と」
「うへぇ~」
 がくり、と日翔が肩を落とす。
「最近、ヤバい案件多すぎだからいやだ~」
 その日翔の言葉が半分冗談であるということは辰弥も理解している。
 依頼を受けなければ日翔は両親が遺した借金を返済できない。
 それでも、嫌だと言いたくなることもあるのだろう。
 だから辰弥も敢えてそれには触れず、
「……できれば楽な仕事であってほしいけど」
 そう、呟いた。
「うーん、七巡一週間ほど出張みたいよ」
「マジ?」
 雪啼いるんだけど? と、茜の言葉に辰弥が抗議する。
「それは私にも仕事が来たわ。せっちゃん預かるから」
「マジか」
 再び辰弥が抗議するかのように唸る。
「最近、この辺で吸血殺人事件が増えてるけど、大丈夫?」
 心配なのはそこである。
 うっかり雪啼が外に出て事件に巻き込まれるようなことがあった場合、両親を発見した場合に申し訳が立たない。
 ましてやアライアンスのメンバーにも被害が出ている以上、多少腕に覚えのある人間でもターゲットになりかねない、ということ。
 それを考えると身体能力が高めの雪啼であってもまだ五歳児、到底太刀打ちできるものではない。
 そうでなくても子供の誘拐などよくある話なので辰弥も日翔も外出の際は警戒を怠らなかったのだが。
「大丈夫よ、せっちゃんには申し訳ないけどなるべく外に出さずに面倒見るから。そのためにわたしも一週間缶詰よ」
「……了解」
 それでも、心配だと思いつつ辰弥は頷いた。
 それから、茜からデータチップを受け取る。
「一週間の出張って、何するの」
 辰弥ががそう尋ねると、茜は軽く肩を竦め、それから、
「要人護衛らしいわ。巨大複合企業メガコープ案件だけど暗殺とかじゃないから少しは気楽に……できないわね、ごめん」
 辰弥と日翔の反応を察したか、茜が軽口を叩こうとして謝る。
 そのタイミングで再びインターホンが鳴る。
 誰だ? と日翔が応答し、玄関に移動する。
「……アライアンスに要人護衛の依頼って珍しいよね」
 玄関に移動する日翔を横目で見ながら辰弥が呟く。
「普通、要人護衛なんてメガコープならお抱えのSPくらいいると思うけど」
「それも、全く信用できないらしいし、桜花この国で下手にメガコープ所有の軍を動かせば御神楽に目を付けられるしでアライアンスに話が流れてきた次第よ」
 そんなやばい案件受けたの、と辰弥が驚く。
「正直なところ、受けたくないって思いたくなる案件」
 普段なら特に文句を言うことなく「分かった」と言う辰弥が珍しく消極的な発言をする。
 それと同時に、リビングに人影が増える。
「話は聞いた。要人護衛なんて俺たちらしくない」
 ぬっ、と鏡介が姿を現しながらそう言う。
「あ、鏡介来たの」
 今の来客、鏡介だったんだ、と辰弥は彼に視線を投げた。
「先に姉崎から連絡来てたからな、一緒に話を聞こうかと」
 ついでに打ち合わするか? 姉崎も巻き込んでるみたいだからと言う鏡介に「そうだね」と頷く辰弥。
「雪啼、悪いけど部屋で遊んでて」
 雪啼にはあまり聞かせたくないから、と辰弥が部屋に誘導する。
 「えー」と言いながらも雪啼が部屋に連行され、次いで辰弥の「ちょっと待ったー!」という叫びが聞こえてくる。
「……なにやってるんだあいつら」
 鏡介が少し引きながら呟くが日翔は日常茶飯事だとばかりに「多分、本棚を登った」と返す。
「いやいやいやいや本棚登るって猫じゃあるまいし」
 にわかには信じられなかったのだろう、鏡介が否定するが辰弥が少々げっそりしたような顔で出てきたことで「マジか」と呟く。
「ごめん、待たせた」
 雪啼のことは話題にしたくない、とばかりに辰弥が鏡介を見る。
「……打ち合わせ、するか」
 そうだな、と日翔も頷き、茜も含めての打ち合わせを開始する。
 鏡介がこの場にいてPCを利用できないため、辰弥が代表でうなじのメモリスロットにデータチップを差し込む。
 視界に表示されたデータをその場のメンバーに共有し、彼は口を開いた。
「今回の依頼は要人護衛、とのことだけどクライアントは『サイバボーン・テクノロジー』。今まで散々破壊行為してきた相手の護衛になるね」
「マジか、俺たちが色々やったのバレたら後で消されないか?」
 日翔がぼやくが、辰弥は「さあね」とだけ答えて話を続ける。
「『サイバボーン』のCEO直下の重役がどこか分からないけどライバル企業から名指しで殺害予告が入ったから護衛してほしいとのこと。既に何度か攻撃された上に直属のSPも買収されていたとかで『サイバボーン』内部の人間は信用できないらしい」
「殺害予告の内容としては『十巡以内に必ず殺す。もし殺せなかった場合はそちらのプロジェクト続行を認める』というものか。で、既に二巡が経過、明日から期日までの七巡守り切れってことか」
 辰弥の言葉を引き継ぎ、鏡介も依頼の内容を読み上げる。
「護衛対象は重役の木更津きさらづ 真奈美まなみ、『サイバボーン』の重要機密を握っているみたい」
 護衛対象の項目を確認した辰弥がメンバーに写真を含めたプロフィールを転送する。
「へえ、女性でもここまで上り詰めることできるんだ。相当なやり手だったのかな」
 視界に表示された女性のバストアップ写真に辰弥が感心したように声を上げた。
 そこまで若々しくはないが、それでも辰弥たちの健康を管理してくれるなぎさのような大人の魅力を余すことなく醸し出した雰囲気の妖艶な女性。
 枕営業でもしたのかと一瞬思いたくなるが枕営業程度でCEOの右腕クラスの重役が務まるわけがない。
 日翔は「美人さんだなあ」と食い気味に眺めているが辰弥はさして興味もないといった様子で写真からはさっさと視線を外して各種データを確認している。
「『サイバボーン』の重要機密を握っているから殺す、ってのもよく分からないけどこの人が殺害予告で言及されていたプロジェクトの鍵ってことかな。現在は『サイバボーン』の系列のセキュリティホテルに避難中、でも誰が買収されてるか分からないからアライアンスに金を積んで護衛を依頼した、と……。鏡介?」
 護衛対象の確認を行なっていた辰弥が、不意に鏡介に声をかけた。
 辰弥の言葉に日翔もえっ、と声をあげて鏡介を見る。
「……あ……」
 鏡介の口から乾いた声が漏れる。
「鏡介?」
 辰弥が再び声をかけると、鏡介は我に返ったように視線を辰弥に向ける。
「どうしたの鏡介。知り合い?」
 鏡介の反応は、まるで護衛対象を知っているかのようだった。
「……いや、知らない」
 昔会った人に似てた気がしたが気のせいだった、と鏡介が否定する。
「とにかく、こいつを一週間護衛するということか」
「そうだね。姉崎が雪啼を預かってくれるし、俺たちも護衛対象が避難しているホテルに詰めることになる」
 そうか、と鏡介が頷いた。
「まぁ配置としてはいつも通り俺と日翔がホテルで八時間体制で監視、鏡介はホテルの防犯システム乗っ取って遠隔で援護、になるかな」
「いや、辰弥、俺も連れて行け」
 辰弥の提案を鏡介が拒絶する。
「え?」
 突然の鏡介の言葉に、辰弥は驚いたように声をあげた。
 いつもなら「分かった、後方支援は任せろ」と言う鏡介が「俺も連れて行け」とは。
 知らない、とは言っていたが、実は鏡介の知り合いなのか、と辰弥は考えた。
 そんな辰弥の言葉にお構いなく鏡介が話を続ける。
「流石に八時間体制二十一日は俺が死ぬ。俺も現場に入って交代で護衛しよう。三人いれば休息も取りやすくなるから万全の体制で護衛できる」
「確かに」
 人数多い方が楽だわーと日翔が同意する。
「……まあ、確かに」
 鏡介の言葉はもっともだ。辰弥の提案が通っていれば辰弥と日翔の二人で交代するにしても手薄になる時間はどうしても発生するし鏡介に至っては休息すら取れない。
 いくら鏡介が「人を殺せない」としても「人を守る」ことができないわけではない。最低限の護身術は身につけているのだから仮に襲撃を受けたとしても護衛対象を守って逃げるくらいはできるだろう。
 それなら三人で現場に詰めて最低でも常に二人が待機できる状況にすれば守りはより万全なものになるだろう。
 分かった、と辰弥が頷いた。
「それじゃ、三人で現場に入ろう。ちなみに現場のセキュリティホテルは武器の持ち込み一切禁止。入館前に金属探知機によるチェックは入るし手荷物も全て確認される。日翔はインナースケルトンの出力で普段と変わらないから何かあった時の最大戦力は君になるよ?」
「わーってるよ。何かあったら俺に任せとけ」
 そう、胸を叩いて見せる日翔に辰弥が複雑な面持ちを見せる。
 ALS病気のことを考えるとあまり依頼の前面に立ってもらいたくないが、今回ばかりは日翔頼りになる。
 せめて、何事もなく一週間を終えることができればいいけど、と辰弥は思った。
 それだけではなく、鏡介のことも気になる。
 鏡介の「知らない」は嘘だ、と直感が告げている。
 鏡介はこの護衛対象を知っている。知っていて、何かしらの感情を抱えている。
 その感情が何かはわからない。
 しかしそれを深く詮索するのはよくない、黙っておこうと辰弥が思っていると。
「だけどよー、やっぱ腑に落ちねえわ」
 不意に、日翔がそう言い出した。
「どうしたの?」
 もう確認することは確認したと思うけど、と辰弥が日翔を見る。
「いや、俺バカからよく分かんねえけど分かる時はわかるんだよ。鏡介、お前やっぱ何か隠してるだろ」
「いや、別に俺は」
 隠し事を否定する鏡介に、何故か辰弥がぎくりとする。
 日翔、勘だけはいいからなと思いつつも辰弥が様子を伺っていると日翔がさらに口を開く。
「プライベートで隠し事するのは仕方ないにしても依頼がらみで隠し事されると信用ならねえんだよ。俺たち、仲間だろ。依頼で何かあるなら教えろよ」
 日翔の「仲間だろ」に再びぎくりとする辰弥。
 確かに、俺たちは「仲間」だろう、と自分に言い聞かせるもそれでも言えないことはある。
 鏡介もそうじゃないのかと思うが日翔の言う通り、依頼がらみのことで隠し事をされた場合何かあった時言い逃れができない。
「俺は、別に……」
「言えよ鏡介。依頼に集中できねえ」
 いつになく強い口調で日翔は鏡介を問い詰めた。
 鏡介が唇を噛み締め、それから観念したように口を開く。
「……俺のプライベートにも関わってくる話だから話したくないんだよ」
「どういうこと」
 思わず、辰弥も口を挟む。
 プライベートに関わること、「知らない」と言いつつも明らかに知っている様子の護衛対象。
 まさか、という思いが辰弥の胸を過ぎる。
 ――まさか、護衛対象は――。
「……木更津 真奈美は……。俺の、母親だ。多分」
「な――」
 日翔が声にならない声を上げる。
 辰弥も「やっぱり」と言いたげに鏡介を見る。
 自分の母親かもしれないから、一緒に護衛すると言ったのか、という考えが辰弥の脳裏に浮かぶ。
 同時に、これ以上は詮索してはいけないとも感じる。
 鏡介の苗字は「水城」である。「木更津」ではない。
 再婚か何かで改姓したのかそれとも鏡介の本名が木更津姓なのかは今はどうでもいい。
 もっと具体的に話を聞きたいがそこまで詮索すると依頼の範疇を超えてプライベートにまで踏み込んでしまう。
 とりあえず、今は護衛対象がどうやら鏡介の母親らしい、という程度で留めておいた方がいい、と辰弥は判断した。
 日翔が「もっと詳しく話せ」と鏡介に詰め寄っているがそれを制止し、「とりあえず」と続ける。
「護衛対象は鏡介の母親かも、ってことは頭に入れておくよ。ますます失敗できないしね」
「辰弥……」
 深く詮索しようとしない辰弥に鏡介が少しホッとしたように彼の名を呼ぶ。
「だけど、鏡介も無茶はしないで。仮に母親であったとしても、相手は依頼で守るだけの護衛対象、余計な私情は挟まないで」
 それはそうだ、と鏡介は思った。
 母親だからと変に力んでもいけないし、それに。
「分かっている。別に母親に対して特別な感情を持っているわけでもない」
 ただ、驚いただけだ。
 もう何年も会っていない母親が突然現れただけだ。
 大丈夫だ、と鏡介はそう言い切った。
 そう、と辰弥が頷く。
 今回の依頼はいつにも増して大変なものになるかもしれない。
 そんな予感めいたものが辰弥の胸を過ぎる。
 だが、鏡介の私情で依頼を失敗するわけにはいかない。
 日翔にも、鏡介にもいつも以上に目を配らなければいけない。
 大変な一週間になるな、辰弥はそう、覚悟した。

 

to be continued……

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おまけ
ばにしんぐ☆ぽいんと 第6章 「かくし☆ぽいんと」

 


 

「Vanishing Point 第6章」のあとがきを
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